No.1092962

それじゃあ、次の土曜日に

籠目さん

※2019/03/11にPixivへ投稿した作品をTINAMIへ移行したものです

安乱馴れ初め編

2022-05-29 16:13:38 投稿 / 全8ページ    総閲覧数:153   閲覧ユーザー数:153

 本の中に潜る感覚って、どこか水に沈むのと似ている。勿論、そんなことを口にしようものなら色々な人を困らせてしまうので、似ていると思いはしても絶対に口に出したりなんかしない。

 床に描かれた不可思議な模様に一歩踏み込む。本と栞を手に目を閉じるとふわ、と浮くような感覚。床が抜けて、下へ下へと降りてゆく。体中を包み込むひんやりとした空気と、一瞬だけ感じる息苦しさ。

 ゆっくり、ゆっくりと足元の感覚が戻ってきて、そこで俺は大きく息を吐き出した。何度やったって慣れないけれど、あんまり慣れる必要もない気がする。人の魂を現世に引っ張ってくるという、世にも恐ろしいこの行為が、そんな易々と行えるものではよくないのではないかという、ちょっとした怯えみたいなものだ。

 一度、深呼吸をする。じわりと甘い花の香りが、脳を痺れさせる。それからようやくまぶたを上げて、俺は折角整えた息を飲み込むことになった。

 夜だった。黒にも見える濃紺に、神の手でばらまかれたような星。地上には、光るような薄紅が辺り一面を覆いつくしている。街灯も何もないのに周囲の様子がはっきりとわかるのは月が明るすぎるからだ。煌々と隠すことなく全てを照らし出す月明りは、美しいを通り越していっそ不気味だ。

「これはもう、間違いないんじゃないの……?」

 無意識のうちに呟いて、ひくりと口角が上がる。

 今日だけでも何度目の潜書かなんて覚えていないが、とにかく俺は当たりを引いたに違いなかった。

 

 

「ショーコン研究?」

「招く魂、で招魂ですね」

 ああ、招魂。とようやく頭の中で熟語ができあがって、殆ど反射的に俺は椅子を蹴って立ち上がっていた。

「え、じゃあ、安吾ここに来るの?!」

「来ますよ、と言っても確定ではないんですが。お呼びできるかどうかは正直運次第なので」

 司書さんはそう言って、困ったように微笑んだ。

 助手でもない俺がなぜ司書室に居るかといえば、有碍書への潜書を終えて早々に太宰先生ちょっと、なんて呼び止められたからだ。これはもしや説教か、潜書中になにかやらかしてしまったのだろうかなんてびくびくしながら入室してみれば、実のところ無頼派と同じ派閥に名前を並べる坂口安吾の魂への道が見つかったという報告だった。

「オダサクにはもう言ったの?」

「ええ。気合満々の顔されていたので、これは頑張らないといけませんね」

 司書さんが頑張るといったら、本当に頑張ってくれるのだろう。全体的にちんまりとしたサイズ感の司書さんは頼りがいが無さそうに見られることもあるけれど、その実自身で転生させた俺たちのような存在ができるだけ自由に過ごせるよう、上司との論戦も辞さない強い人だということは図書館中の人間が知っている。

「俺と、オダサクと、あとは中也が仲良くしてたのかな」

「そうですね、ああ、江戸川先生も楽しみにしていらっしゃるみたいですよ」

「江戸川先生?」

 意外な名前に俺は思わず司書さんを凝視してしまった。安吾と、江戸川先生。俺たちが世に出たころ、あの人は既に大御所扱いされていた人だ。生きた年月は被っているけれど、そう濃いつながりもなかった気がする。

「実は彼も探偵小説を書かれているのですよ」

「うわっ」

「あ、江戸川先生」

 全然気を配っていなかった背後からかけられた声に、勢い良く振り向く。振り回されることになってしまった羽織を、ひら、と華麗な身のこなしで避けたのはつい今しがた名前の出された江戸川先生本人だ。

「ハイどうぞ」

「あ、りがとうございます」

 さっき勢い余って蹴倒してしまった椅子をもとの位置に戻されて、綺麗な笑顔で座るように促される。先生自身も、どこからか余っている椅子を出してきて、小さなテーブルを囲むようにして座り込んだ。

「そういえば書いてたような気が……?」

 前の生の記憶は、どうにも曖昧で駄目だ。探偵小説を好んでいたのは知っているし、そういえば何やら書いていたような気もする。

「ワタクシの主催していた集まりなんかにも出席してくださっていて」

「へえ」

「マアつんけんされてしまって仲良くはなれなかったのですがね」

 そうしてちょっと残念そうに笑う江戸川先生に、それは多分人見知りとか照れ隠しとかじゃないだろうかと思いつつも、とりあえず口には出さないでおいた。どうせこの図書館に呼ぶのだ。弁解するなら本人の口からの方がいいに決まっている。

「呼べるといいなあ」

「そうですねェ」

「がんばりますね……」

「俺も頑張るから、そんな死にそうな顔しないで司書さん」

「すみません、ちょっとプレッシャーが」

 いてて、と胃の辺りを抑える司書さんは、最近ちょっと気苦労が多くて、と呟いて今度は俺の胃をキリキリと痛めつけてくる。江戸川先生も笑顔を貼り付けたまんま器用に目線をそらしているあたり、心当たりは多そうだ。結局、三人して気まずい思いをしながらこの日はお開きになった。

 

 

 その後の展開は、想像以上に苦しいものだった。潜れども潜れども一向に魂の道筋とやらには引っかからなくて、酒と煙草と洋墨の消費量ばかりが増えていった。頑張ります、との言葉通り、司書さんは本当に頑張ってくれている。名乗りを上げた身として俺と、それからオダサクも。それでも運だけはどうしようもなくて、殆ど諦めていたころに、この景色である。

「安吾っ!」

 矢も楯もたまらず、俺は走り出した。走れども桜、桜、桜の海だ。世界の距離感がおかしくなって、足がもつれる。それでも走って、走って、息が苦しくなるころにようやく桜の根元にぽつんと立ちすくむ黒ずくめの姿を見つけた。

 立ち止まって、息を整える。長い腕を持て余すように組んで桜をひたすら見上げる後姿は、こっちに気が付いた様子もない。それがちょっと癪で、わざと足音高く、一歩ずつ踏みしめるように近づていく。決して彼が安吾ではなく別の文豪であることを危惧したからとか、俺の事覚えてないんじゃないかと思って怖くなったとか、そういった理由ではない。決して、断じて、絶対に。

 あと一メートルもない、そこまで近づいてようやく、黒ずくめの背中がぴくりと動いて、同時に俺の心臓がばくばくと激しく音を立てる。スローモーションのように振り返るのを、俺は只棒立ちになって見つめていた。

「太宰、か?」

 薄く色の入った眼鏡越しの瞳が、大きく開かれる。その目が、濃い藍色をしているのを認識したところで、俺の涙腺は呆気なく崩壊した。だぱん、と流れ出した涙が、あごを伝って服まで濡らしていく。

「あんご、あんごぉ」

「あーあー、泣くな泣くな。可愛い顔が台無しだぞ」

「かっこいいって言えよお……!」

「んなグズグズの顔してかっこいいもクソもあるかよ。ほら泣き止め」

「いだい」

 ぐいぐいと力強く目元を擦られて、溢れてどうしようもない涙を太い指先が拭っていく。

「ていうかここどこだ?」

「気付くの遅くない?」

 ひとしきり泣きじゃくりずず、と鼻を啜りあげたところで、ようやく安吾のことをまともに見られるようになった。

 さっきまで俺の目元を拭っていた手のひらは革のグローブに包まれている。でかくて長い体を、黒い衣服で隅から隅まで覆って、目元は色の入った眼鏡。人のよさそうな、というよりは人を食ったような笑みを浮かべているせいで、まるで堅気の人間には見えない。

「お前がいきなり泣くからだろ」

「それは、ごめん」

 ず、と名残の様にもう一度鼻を啜ると、さっきまで俺の目元を拭うのに使っていたのとは逆の手のひらが、頭をぽんぽんと軽く叩いてきた。

「ま、カンドーのサイカイってやつだ。仕方ねえさ」

 そう言って年上の顔をして優しく笑うものだから、俺の涙腺がまたじわじわと緩まってくる。

「で、こんなとこまで来たんだ、なんか用があるんだろ」

「ん、そう、そうだよ!」

「いきなりでかい声出すなよ」

 頭頂部に置かれていた手を手首ごと握り込む。今を逃してしまったら多分、次はない。だから絶対に逃がさないように、安吾が背をそらせるのにも構わず距離を詰めた。

「とにかく俺と一緒に来て!」

 しん、と周囲が一気に静まり返った。桜の花びらが舞い落ちて、地面に触れるかすかな音すら聞こえそうだ。

「……太宰」

「ふぁい」

 ぞろり、と地を這うような低音。それは目の前の男から発されたものだ。

「俺は、お前と心中は、しない」

 ぎっちりと握り込んでいるつもりだった手の平は、いつのまにかこっちの手を捉えて、持ち前の握力を存分に発揮している。睨み付ける瞳の藍色に、桜の薄紅が映り込んで妙な迫力を醸し出している。は、と一瞬思考が停止して、それからようやく俺は、あらぬ疑いを招いていることに気が付いた。

「いや心中のお誘いじゃなくて!違うから!」

「違うのか」

「全然違うよ!ていうか一緒に死ぬなら綺麗で優しい女の子の方がいいし、そうじゃなくて、逆!逆なの!」

「はァ?」

 逆?と首を傾げた安吾から、不穏な軋みを上げ始めた手を取り返す。

「どういうことだそりゃ」

「それをこれから話そうとしてんの!ほら座って!」

「はいはい」

 どうせ長くなるのだから、と桜の木の根元を指す。お互い地べたに直接座るのを厭うような人間でもないから、肩を並べてべったりと座り込んだ。

 話したいことがたくさん浮かんで、消えて、まとまりのない説明を、安吾は辛抱強く俺の話を聞いていた。俺たちの書いたものも含めて、この国の文学というものが消されかけていること。それを止めるために、現代に“転生”をした俺たちは戦っていること。その戦いに、安吾にも参加してほしいと思っていること。そんな内容を、あちらこちらに寄り道をしながらようやくと語り終えると、安吾は神妙な顔をして黙りこくってしまった。

「……なんなんだろうなあ、その、浸食者ってヤツは」

「よくわかんない。けど、俺らが書いたもの、勝手にぐちゃぐちゃにされて黙ってるわけにいかないでしょ」

「そうだな」

 風が吹いて、ざあ、といっぺんに桜が揺れる。ここに降り立った時すでに真上に浮かんでいた月がその場所を一向に変えていないことに、今更のように気が付く。

「みんなお前のこと待ってるよ、安吾。オダサクも、俺も、中也もいるよ」

「おおそりゃすげえ」

 から、と笑うその表情は、どこか遠くを見ているようで、なんだか怖い。

「安吾、探偵小説好きだろ」

「なんだ急に」

「……江戸川先生が、」

 茫洋とした瞳が、急にぱちりと瞬いた。

「居んのか、あの人も」

「うん」

 意外だ、とでも言いたげな表情。俺としてはそんなに意外でもなんでもないけど、安吾にとっては違うのだろうか。俺だって安吾だって、現代ではかなり有名な方らしいけど、あの人も中々のものだと聞いている。

「騒がしそうな面子だな」

「そうでしょ」

「……よっし、」

 大きな体が、勢いをつけて立ち上がる。

「いくの」

「ここでグダグダしてたって仕方ねえだろ」

 ほら、と差し出された手に、何故だか視界がゆらりと滲む。どうしてか、この本の中では泣いてばかりだ。

「なんだよ、お前随分と泣き虫になったな」

「泣いてないし!」

 目の前の厚みのある手のひらを力任せに引っ張って立ち上がった。うお、とよろめいた安吾に、ちょっとした優越感を感じる。

「で、どこに行けばいいんだ?」

「行くっていうか、願うんだよ」

「願う、」

「生きたいって……ちょっと、なに笑ってるんだよ」

 人が真面目に話しているっていうのに、横の男の顔といったら。にたにたと心底面白がっているような笑みを浮かべて、こちらをじろじろと眺めまわしている。

「いいやあ?お前がね、生きたい、ね」

「……悪いかよ」

 俺だって、死にたいときもあれば生きたいときもあるよ。やけくそ気味に俯いた頭に、手のひらが乗せられる。

「いいんじゃねえの」

 降ってきたのはあんまりにも柔らかで、満たされた声だ。胸が引き絞られるような優しさに顔を上げた途端ふわ、と視界が光って目が眩む。現実に戻るのだ。

 

 白んだ視界の中、何とかとらえた色眼鏡の奥が潤んだようにきらめいた気がした。

 

「太宰先生」

 名前を呼ぶ声に、閉じていたまぶたを上げる。これでもかと目を開いた司書さんに、にっこりと自慢げに笑いかけた。半歩後ろできょろりと目を回していた長身が、一歩前に出る。

「よぉ、俺は坂口安吾。偉大な落伍者になる男だ」

 ひゅ、と息をのむ音。

「お、」

「お?」

「おだせんせええええ!」

 がたん、ばたん、と音を立ててもつれるように走った司書さんが、司書室の扉から首だけを出して大声でオダサクを呼んだ。さかぐちせんせいがいらっしゃいましたよおおお、と続く上ずった声。いつも穏やかにしている人のあまりの取り乱しように、俺は今日の助手であった江戸川先生と、顔を見合わせてしまった。

「えっ、司書さん、え、なに」

「ええ……まあ、時々は取り乱すこともあるでしょう」

 あの方も人間ですので、と続けた声は動揺を滲ませていて、俺よりいくばくか早くこの図書館にいるこの人ですら見たことのない姿なのか、と驚きを深める結果になった。

 えっなになにさかぐち?さかぐちってさかぐちあんご?と騒がしくなった廊下から聞こえる声達の中、江戸川先生はふ、と安吾に視線を向けた。

「お久しぶりですね」

「……アンタ、」

「アア、申し遅れました。ワタクシ、江戸川乱歩でございます」

 いつも通りの芝居がかった動作で深々と礼をする先生に、安吾はぴくりとも反応しない。

「覚えて、おいでですか」

 ちょっとばかり不安に思ったのか、いつも笑んでばかりいる顔が険しい色を湛える。

「ん、あ、ああ。すまん、ちょっとぼーっとしてた」

「人が挨拶してんのに失礼だろ安吾!」

「イエイエ。転生したてでこのように騒がれては、混乱するのも当然でしょう。ワタクシ司書さんを捕まえて参りますので、このまま少々お待ちいただけますか」

 いつのまにか首だけじゃなくて、体ごと廊下に出ていってしまったらしい司書さんを追って、江戸川先生はひらりとマントを翻す。常にかっこよく決めていたい俺としては、ああやって布の翻るのすらコントロールしきったような振る舞いには、ほんの少しだけ憧れめいたものを感じる。あそこまで芝居がかっていたい訳ではないし、一番の憧れといえば勿論、芥川先生なのだけれど。

「そういう訳だから安吾、座って待って……安吾?」

「ん、あ、おう」

 かちゃ、とずり落ちてもないのに眼鏡の位置を直した安吾が、どこかぼんやりと返事をする。

「あいつ、いつもあんな感じか」

「ええっと、……江戸川先生?」

「おう」

「じゃあいつもあんな感じ。むしろ今はちょっと動揺してたくらいだと思う」

「そうか」

 うん、とひとりうなずいた安吾は、たった今江戸川先生が出ていったばかりの司書室の扉をにらみつけるようにして見据えている。他の誰かが見たら喧嘩でも売りたがっているように見えるのかもしれないけれど、俺にはどうも違う感情が宿っている様に思えてならない。扉に向けられた視線の中、隠し切れないで揺らめいている熱は、自分だって誰かに向けた覚えのあるものだ。

「やっぱただの照れ隠しじゃん」

「なにか言ったか?」

「なーんでも」

 ほら座れよ、と自分より一回り広い背中を押しながら舌を出す。下手するとこの男、俺よりも面倒くさい精神構造をしているのかもしれない。難儀だなあ、と思いながらもやっぱり胸中では再び出会えた嬉しさが勝つ。ついこの間、坂口安吾が来るのだと聞いたその場所で、今度は本人と向かい合って座る。その事実に鼻歌すら飛び出そうな気分だ。

「安吾来たってほんま!?」

 ずだん、ばたんと騒がしく、オダサクがきれいな三つ編みを振り乱しながら司書室へ滑り込んできた。続いて司書さん。それから、一歩後ろで見守るように江戸川先生。

「オダサク」

 呆然と呟いて立ち上がる安吾に、わかるよ、と心中で呟いた。理由はわからないけれど、わかるのだ。姿形が変わっても、魂の形までは変わらないということなんだろうか。霊魂的なものを根っこから信じているわけでもないけれど、信じたくなる何かがある。

 見開かれた安吾の目の中に、綺麗な夜桜が映っている。ああ違う、夜桜じゃあ無かったのだ。藍一色だと思っていた安吾の瞳は、あの本の中の景色を写し取ったように美しい薄紅と藍色を宿しているのだ。本の中で散々泣き喚いていた俺は、今更になってようやくそのことに気が付いた。

 

 自分が転生した図書館で司書を務める青年が、どうやら気合を入れすぎるとやらかしてしまう性質らしい、ということに坂口が気が付いたのは、転生翌日の朝のことだった。

 本の中で太宰から受けた説明を改めて司書の口からきいた後、とりあえず今日は太宰先生か織田先生の部屋でお休みになってください。と促され、明日には坂口先生の部屋もできると思うので、という言葉に首を傾げた。どういうことかと聞けばよかったのだが、生前ろくに話すこともできなかった同士が目の前にいるのだ。そんな些細なことはすっかり忘れて、夜の更けるのにも構わず、三人で言葉を尽くした。

 そうして朝である。

 朝、というか殆ど昼に近い。雑魚寝をしていた中からのっそりと起き出して、道々に出会う文士に挨拶をする。普通誰かが案内するもんじゃねえの、と思わないでもなかったが、こうしてひとり、知らない建物内を散策するのも悪くない。

 さて部屋ができてる、というのがどういうことかというのは、宿舎の異変ですぐに分かった。昨日までは突き当りだったところが、あからさまに奥へと伸びているのだ。坂口安吾、とネームプレートの掛けられた扉の奥は、畳張りの床に書き物机、椅子、本棚、寝台などが並べられた簡素な和室だった。一人で入ることを前提に作られた小さな風呂場と洗面台。隣の扉は多分手洗い場だ。押し入れの中には清潔な布団が一そろい入っていて、たった一晩で本当に人が一人生活するためのスペースが出来上がっていた。

 それだけで終わっていれば、錬金術というものの凄さに驚くだけでよかったのに、司書たる青年はどうも、気合を入れて作りすぎてしまったらしかった。

 一旦自分の部屋の探索を終えた坂口が廊下へ出ると、まだまだ部屋が連なっているのが見える。扉には、誰のネームプレートもかかっていないし、開けてみてもがらんどうの板張りの部屋があるだけだ。それが、十数室。

 椅子があったりなかったり、本棚の中になぜか数冊の本が入っていたり、いなかったり。ひとつづつ部屋を覗きこんでいるうちに、なるほどこれも司書の作った、作りすぎてしまった結果なのだということが分かってきたのだった。

 こうなってくると、大の男とて段々と楽しくなってくる。次は何があるのか、と扉に手をかけてそろりと開いた瞬間、目の前に飛び込む白と、青。

「あ、」

「おや坂口さ」

 それが何なのかを認識した瞬間、できうる限りの力を込めて扉を閉めた。呼びかける声の最後の一音は扉を閉める音でかき消されたので、これ幸いと聞かなかったことにする。

「ちょっと、人の顔見るなり扉を閉めるなんて、あんまりではないですか」

「うるせえ」

 たんたん、と焦った様子もなく内側から扉が叩かれる。

「坂口さん」

「ちょっと待て」

「坂口さんワタクシ他の部屋へ行きますから、」

「だ、から、ちょっと待てって」

 坂口はドアノブに手を置いたまま、一つ深呼吸をした。

 なにも江戸川と顔を合わせるのが嫌で扉を閉じたわけではない。ただ、江戸川の前でどんな顔をすればよいのかわからないのだ。時に兄ぶってみせたり、無頼派と呼ばれるそれらしく無頼漢を気取ってみせたりするのもやぶさかではないが、どうも彼の前でするにはどちらも適当ではない気がした。

 嫌いではない。探偵小説というものを愛する坂口にとって、嫌いになりようのない人物ではある。けれど、好きかといわれれば素直に頷くのにも色々と差し障りがある。そういう相手なのだ。

「坂口さん……」

「ああもうなんだよ!」

 三度、名前を呼ばれて、しかもそれが心細そうにすら聞こえるといえば、渋々ながら扉を開けないわけにもいかなかった。三センチほど開けた隙間から、青い瞳が爛々と覗き返してくる。

「散策中ですか」

「まあな」

「道案内の方はいらっしゃらないので?」

「オダサクと太宰はまだ寝てる」

「おやおや」

 がっちりと握り込んでいたノブを離すと、扉はゆっくりと内側へ開いていった。板張りの部屋だ。本棚、椅子、机。一足先に忍び込んでいた江戸川によって開けられていたのか、窓からは昼前の穏やかな風が吹き込んでくる。

「司書さん、ちょっと張り切りすぎてしまったようですね」

「そうなのか」

「ええ。一部屋だけ増やす予定が、あれもこれもと色々考えていた結果、」

「こんな無駄に色々作っちまったてか」

「その通りです」

 ふわ、とマントを翻して、江戸川が部屋の奥へと進んでいく。それにつられて坂口の足も、ふらりと動き出した。

「で、アンタはここでなにしてんだ」

「坂口さんと同じですよ」

「散策?」

「エエ。これだけ部屋が増えたのなら、何か面白いモノが転がってはいないかと」

 まあ、無かったのですがね。と締めくくった江戸川は、椅子の座り心地を試すように、手のひらで何度か座面を叩いている。

「それで、坂口さん」

 くる、と振り向くのに合わせて広がるマントは、もつれることもなく行儀よく、元の場所へと収まる。その布の動きすら、一種の計算なのだろう。それに気が付いた坂口の胸に、ちり、と淡い火花が散った。

「ワタクシが道案内をいたしましょうか?」

「は?」

「新しく来られた方には、誰かしらが説明を兼ねてついて回るのが決まりごとなのですよ」

 つまり、江戸川はひとりでふらりとさまよっている坂口を見かねて、その役に名乗りを上げてくれたという訳だった。

「勿論、お二人が起き出すのを待たれる、というのであればそれでもよろしいかと」

「あー、そうだな……」

 ちろ、と色眼鏡ごしに江戸川のことを眺める。ちょっとした会話程度じゃ、彼のことを掴めそうにもない。ならこの際時間を取って、とことんまで会話をしてみるというのもアリかもしれない。そう、坂口が結論付けたときだ。廊下から、がやがやと声が聞こえてきたのは。

「うわなに、めっちゃ部屋増えてるじゃん」

「あーこれおっしょはんが頑張りすぎたんやなあ」

「えっ司書さん建築もできるの……?」

「いやいや錬金術に決まっとるやろ」

 ああ、と息を吐き出したのは坂口の方だった。

「ワタクシのことはお気になさらず。坂口さんのことを探しに来たのでしょうから」

 すい、と白い手袋に包まれた指先が滑るように扉を指し示す。思わず誘導されてしまった視線については、もう苦笑いをするしかない。

「また次の機会にでも」

「……おう」

 穏やかな顔に背を向けて、扉に手をかける。建前だったとしても明確に示された次の機会に、心の一部がひそかに踊った。ひら、と手のひらをあいさつ代わりに泳がせ、廊下へ足を踏み出す。

「あ、安吾だ」

「外出るんやったらワシらのこと起こせや」

「悪い悪い、部屋増えてたから気になってよ」

「子供かよ」

「産まれたてだろうが」

「それよりさ、安吾のために俺たちがこの図書館の中、案内してやるよ」

「えッ太宰クンめちゃめちゃ押しつけがましい言い方するやん」

「いいけど宿舎の方は大体見終わったぜ」

 えー、と続くブーイングの声。かき消されそうなほど小さくぱたん、と坂口の背後で空気の動く音がした。

「ほんなら図書館の方いこか」

 踵を返す織田の動きに、三つ編みがぶんと無造作に振り回された。

「ほら行くでー」

 ツアーガイドよろしく、陽気な関西弁が先頭を取る。ついていく太宰の足音がかろやかに廊下に響いて、その光景といったら全くもって平和そのものだ。

 その中でもなぜか、ふ、と後ろ髪を引かれるような思いがして、何とはなしに振り返る。

 整然と並ぶ部屋のひとつ、ついさっきまで江戸川と話していたその部屋の扉は、すっかり静かに、行儀よく閉じられていた。

 

 坂口が本格的に有碍書への潜書を始めたのは、転生してから一週間がたったころだった。自分の本が武器になることにまず驚き、それが苦無の形をしていたのだからより驚いた。戦った経験なんて、それこそ喧嘩くらいしか無かったはずなのに、体は自然とどう動いたらいいのかを知っているようだ。

 傷を負うとその分精神が疲弊する。醜態を晒すようなことにはなっていないけれど、この先手ひどくやられることだってあるだろう。覚悟していてください、とは司書の言葉だ。

 

 しかし、戦争の最中だというのに、休日まで完備されているというのは少し平和がすぎないだろうか。

 坂口はぼんやりと高くそびえる本棚を眺めながら、急に降って湧いた休日を持て余していた。

 本を読もう、と決めたのは良いが、そもそもどこから読むか、誰のを読むかもまるで決めずにいたから、こうして本棚の前で、呆然と立ちすくむことになっている。

 いつまでも悩んでいるのも時間がもったいないから、と目に付いた本を一冊抜き出して手続きをすませた。借りた本を小脇に抱えて、のんびりと宿舎へ続く渡り廊下を歩く。こうも日当たりが良いと、外で読むのもいいような気がしてくるが、自然光の中で本を読むのは大変なのだ。結局坂口は自分の転生と共に増えすぎてしまった部屋の一室を借りることにした。

「お、」

「おや」

 適当に目に付いた扉を開けたはずだったのに、どうやら転生翌日に、江戸川と話をしたあの部屋に来てしまっていた。

「すまん、邪魔なら場所変えるわ」

「いえそんなことは。むしろワタクシ、坂口さんとお話しできるんじゃないかと、少し期待すらしておりましたので」

「……そうかよ」

 窓は今日も開かれていて、いつの間にか取り付けられたカーテンがはためいている。よくよく見れば本棚に本は増えているし、所々に人の手の入った形跡が見られた。

「おい」

「はい」

「何過ごしやすいように部屋弄ってんだ」

「おや、バレましたか」

 悪びれることもなくしたたかに笑う江戸川が、楽し気に本棚を指さした。

「そちら、ワタクシおすすめの探偵小説が入っておりますのでよろしければ」

「ほお」

 彼直々におすすめ、というのであれば、その質は保証されたようなものだ。坂口は抱えた本を机におろし、ふらふらと本棚に近づいた。左上から作者ごと、年代順に纏められ、上は古典、下から二段は少なくとも坂口の死後に出版されたものばかりになっている。

「ここ他の人が使う部屋じゃねえのかよ」

「司書さんから許可はいただきましたよ?無論、人が増えれば立ち退きを要求される可能性はありますが」

「抜け目ねえなあ」

 上から下までじっくりと検分を済ませ、それからひとつ、本に指をかけた。ぱら、と頁をめくる、その感覚がひどく懐かしい。ふ、と紙と墨の独特の香りに引き寄せられるように、坂口の胸の中にひとつの疑問が湧き上がった。

「……なあ」

「はい」

「アンタの、新作はねえの」

 織田は書いている。太宰も、ぐだぐだと浮き沈みを繰り返しながらそれでも書いているらしいことは知っている。あまり創作に意欲的でないものもいるらしいということは知っているが、前代未聞のトリックを探し回っていると言って憚らない江戸川が、書かないでいるというのも考えづらかった。

「ワタクシの、ですか」

 坂口が予想していたよりも、ずっと呆然としたような声音に、思わず振り返った。まるい瞳、笑みが消え、薄く開いた口元。まるで予想もしていなかったことを訊ねられたといわんばかりの、奇妙に間抜けな顔をした江戸川がそこにいた。

「……なんだよ」

「え、あ、いえ」

 沈黙に耐え切れずに口を開いたのは、坂口の方だった。そうしなければ、話が進まないだろうという気持ちもあった。

「その、ですね」

「ああ」

「意外、でして」

「ああ?」

 意外、とはどういう意味だろうか。まさか自分が探偵小説好きだということを忘れられているわけでもなし、全くもって理解ができそうにない。何を言ってるんだこいつは、という気持ちが表れた結果、随分とガラの悪い声を出してしまった。

「ああ勿論、坂口さんが探偵小説を好きだというのは存じ上げておりますが」

「じゃあなんだよ」

 じとりと口を噤んでしまった江戸川を眺めても続きは出てこない。多分、珍しい姿なのだろう。言葉を選んで、捨てて、その一連の流れがありありとわかる。

「……新作は、書いておりますよ」

「へえ、じゃあ完成したら、」

 完成したら見せてくれ、と強請っていい立場にあるのか、迷っていたら今度はこちらが言葉を途切れさせる番だった。ここまで言ってしまえば全て口にしているも同様なのに、その先を言うのは妙にはばかられる。

 それでも言葉を汲み取った江戸川が、きょとりと目を見開く。それから、ゆるゆるとまなじりを下げて柔らかに笑んだ。上手に上げられた口角は笑むことに慣れた人間の仕草だ。けれど、確かに目の奥まで笑んでいる。少なくとも、坂口の目にはそう映っている。

「是非」

「……おう」

 たった二文字の返事が、胸を芯から震わせる。それに感付かれるのだけは何としても避けたくて、慌てて本棚に向き直った。かつてどれだけ呆れ、失望しても、捨て去れなかった憧れは、今生でもしっかりと坂口の胸に息づいている。本を物色する振りをしながら、坂口はすっかり緩んだ口元をどうやって引き締めるか、そればかりを考えていた。

 

 この図書館には、今のところ転生を確認されている文豪全員が揃っているらしい。そのおかげで、いまのところは立ち退きを要求されたことはない。出ていかなければならない可能性を考慮してか、最初のころから増えたものといえば、本棚の中の本と灰皿くらいのものだ。二人して結構な勢いで煙草を消費するものだから、坂口は最近とうとう自前の灰皿を持ち込んだ。要するにそれだけ入り浸っているのだ。

 本棚の本は、一番左上から攻略していくことに決めた。読んだ覚えのあるタイトルばかりだが、前世の記憶はどうにも曖昧だ。戦いと戦いの隙間にじりじりと、自分の記憶と答え合わせを進めるようにして読み進めている。

「で、新作まだ?」

「……ワタクシこう見えて、プレッシャーには弱いのですよ」

 もっとも坂口のお目当ては、未だ読めていないのだけれど。

 わざとらしく催促をすると、気まずそうに目をそらす江戸川が面白いのでおおよそ満足している。ふわりと煙草の煙を吐き出しながら頁をめくるところなど心底澄ました顔をしていて近寄りがたさすら感じるけれど、この部屋の中の江戸川は存外表情豊かだ。

 不定期な休み以外は潜書に明け暮れる日々だ。この図書館で一番の新人は坂口だから、経験を積む意味でも比較的多めに有碍書の浄化が回されているらしい。ありがたいことだが、疲労がたまるのも早い。

 

 そんな折だ。自室に設置された郵便受けの中に、見たことのない厚さの封筒が放り込まれていたのは。

「いや限界攻めすぎだろ……」

 随分大きく開かれた口から、分厚い封筒の先端がぐだりと飛びだしている。無理やりにねじ込まれたようなその封筒は、しかし坂口にとっても馴染みのある大きさをしていた。

「これ、」

 封筒に書かれた筆跡は、見覚えのないものだ。けれども大きさから推察するに入っているのは原稿用紙だろう。ふ、と頭を過るのはかの探偵小説の大家の顔だ。坂口は潜書帰りの疲労も忘れ、床に散らかした服やら反故紙やらに足を取られながらも机に向かった。

 慎重に封を破き、しわの一枚も残さないように取り出して、一行目からゆっくりと視線でなぞっていく。律儀なことだ。タイトル、それから作者名までしっかり記載している。詰めていた息をすっかり吐き出してしまっても、速度を増している鼓動は一向に落ち着いてくれそうもない。今、この片付け切らない卓袱台の上に載っているのは、間違いなく江戸川乱歩の最新作だった。

 補修も夕食も、部屋に戻る前に済ませてきた。明日はようやく非番だ。目の前の小説を読み進めるのに、何の障害もなかった。かすかに震える指で原稿を掴み、改めて一行目から読み始める。読み解くのになんの差し障りもない、それなりに綺麗な文字だ。気が付けば、背を丸め、原稿の中に頭を突っ込むようにして没頭していた。

 こつ、こつと物に埋もれ、どこから鳴っているのかもわからない時計の針の音。窓の外はすっかり暗く、室内の明かりは坂口が無意識に付けた机の上の電灯一つで、床に積み上げられた物たちも、隅に寄せられた万年床も等しくとっぷりと闇に飲まれ、静まり返っていた。

「っはー、……」

 ようやく最後まで読み終わった坂口が息を吐き出すころには日付も変わっていた。書かれていたのはすべての情報の出そろう、解決編の手前までだ。そういう趣向か、と気が付いたのは、読み終わってからだった。解いてみせろと眼前に突きつけられた挑戦状は、過去の自分への意趣返しに違いない。

 改めて原稿を机の上に置き、丸め込んでいた肩をほぐすようにぐるりと回す。その時ふわ、と原稿の裏から、小さな封筒が滑り落ちた。宛名は坂口安吾様、自分宛だ。それを記した筆跡が、ついさっきまで没頭していた原稿と同じものだということに気が付いて、坂口は慌てて封筒を拾い上げた。さっきまで気がついてはいなかったが、あの気取り屋がただ原稿を送りつけるだけで済ませるはずもないのだ。

 ぱり、と何の気構えもなく糊付けのところに指を突っ込んで破る。取り出した三つ折りの紙を開いて目を通し、

「……なんだそれ、」

ばしり、といつにない乱雑さで、今の今まで大切に扱っていた原稿の上に、その手紙を叩きつけた。

 思考がじりじりと焼けついて、視界の端が赤く染まる。意味もなく立ち上がって歩き回ってみても、頭をがりがりとかき回しても一向に霧散しないこれはなんだ。胃の辺りにごとりと重い、鉛が詰まっているようなこれは。

 もう一度、何のために震えているのかもわからなくなってしまった指先で、手紙を拾い上げる。黙読で中身を読み上げて、そうして衝動をこらえきれなくなって原稿と一緒くたにして引っ掴んだ。

 万年床の枕もとには、鍵のかかる戸棚がひとつ、置いてある。備え付けのものだ。何を入れるでもなし、ただ埃が積み上がるだけだったそれを初めて使うのがこいつのためだなんて、心底嫌になる。投げ込むようにして突っ込んで、棚の上に置きっぱなしにしていた鍵を乱暴に回す。投げ出してしまおうかとも考えたが、そのために腕を振るうのすら煩わしく、鍵はおとなしく元の場所へと収まった。

 今更のように装備を解いて、上も下も下着だけになったところで、寝間着にも着替えずに布団に滑り込んだ。目の奥が疲労でじくじくと痛む。胃の辺りは相変わらず重く、興奮したままの脳内では到底眠れそうにない。

「くそ、」

 口をついて出た悪態は、まるきり語彙力のない子供のそれだ。もう、認めるより他になかった。布団を頭からかぶっても逃れられそうにないこの感情は、紛れもない怒りそのものだ。

 

 睡眠と覚醒の間でぼんやりとしているうちに、しろく清廉な朝の光がすっかりと景色を塗り替えてしまった。今更眠るわけにもいかず、けれども動くには気力も足りず。結局ぼんやりと掛布団から顔だけをのぞかせて、天井を眺めている。

 本当なら今日だって、あの部屋で煙草を燻らしながら探偵小説でも読みふけるつもりだったのだ。その予定を狂わせた男の顔を思い出して、胸の内がむかむかとしてくる。そもそも、あの部屋にある本だって江戸川の用意したものだ。そう考えると、坂口がここに来てからの生活の中心をあのいけ好かない奇術師まがいの男に握られているようで、ひどく悔しいような気分で奥歯をかみしめた。

「安吾ぉ」

 そうやって妙な気分で寝返りを打っていると、快活な西の訛りと共にだん、と無駄に力強く部屋の戸を叩かれた。返事をするタイミングを逃しているうちに、だん、だんと叩く音は強くなっていく。

「安吾!起きとるんやろワレェ!」

「借金取りかよ……」

 ついさっきまでの愛嬌のある関西弁が一気に不穏さを増したところで、ようやく坂口は起き上がった。だァん、と隣の部屋にまで響きそうなほど強い音は、多分もう手ではなく足を使っている。

 明るくなったことで幾分か見やすくなった足元を蹴散らしながら、のそりと戸に手をかけたはいいものの、よくよく考えれば衣服は昨日のままだ。いくら馴染んだ相手とはいえ、流石にこれはいただけない。

「着替えるからちょっと待ってろー」

「はよー!」

 だむだむだむと三度戸が叩かれて、それきりしいんと静かになった。それでも板一枚挟んだ向こう側にいるのはせっかちな関西人だ。なるべく早く支度をしてしまうに限る。床からおそらく無事そうな、具体的には匂いやら汚れやらがあまりついていなさそうな服を掘り出して、適当に身に着けていく。

「おっそいわあ」

「五分もかかってないだろ」

「そないにかかってたら扉壊してたわ」

「洒落になんねえからやめろよ……」

 この図書館で徳田秋声と並んでの最古参、精鋭揃いの第一会派筆頭、織田作之助である。薄い扉一枚、壊すといったら壊せるのだろう。ひょろりと細長いようでいて、しっかりとした力強さのある体だ。

「で、何の用だよ」

「いや別に用とかあれへんけど、お休みやん。暇やん。せやから安吾で遊ぼうと思って」

「俺と、遊ぶんだな」

「アンタで、遊ぶねん」

 にっこり、音がつきそうなほどきれいに笑った織田の顔は、押し問答をしている時間はないとでも言いたげな迫力があった。

「ちゅうか安吾そんなカッコでお外行くん?」

「外出するのも今初めて聞いたけどな」

「こんな美男子とデートやねんからもっとオシャレして」

「……あと十分待て」

「ええけど立ちっぱしんどいわあ」

 坂口の体で隠された室内をひょい、と覗き込んだ織田が、その惨状に思い切り顔をゆがめた。部屋で集まって飲み食いをするときだって、決して綺麗とは言えない状態だけれど、あれでも一応人を招けるだけの空間は作っているのだ。

「座るとこないやん」

「ほっとけ」

 おじゃましまあす、と律儀に声を上げて、長い足が遠慮も容赦もなく床に落ちている諸々を蹴り飛ばす。

「シャワー浴びてくるから、適当にそこらで待ってろ」

「おー」

 宿舎の中ならまだしも、外へ出るとなれば流石に汗やら何やらを流してしまいたい。本の世界に潜るのは精神の部分だけなので体の方はそれほど使っていないにしても、なんとなく一仕事終えた後は汚れているような気分になるのだ。それを昨日は、溢れる感情に任せてシャワーのひとつも浴びずに布団に潜ってしまった。そしてその姿を織田に見せてしまったことは、坂口にとってちょっとした失態だ。

 ざばん、とまだ湯に変わる前から水を被り、適当に洗って風呂場を後にするまでにかかった時間はおおよそ三分。言葉通りに烏の行水だ。タオルで髪をかき回しながら、部屋の中から拾ってきた下着を身に着ける。流石に直接身に着けるものは洗濯をしていたはずだ。

「きゃーお兄さんのえっちー」

「あーはいはいほらお前も服探すの手伝え」

「えっノリ悪う……ちゅうか服探すてなんなん……」

 ぐちぐちと零しながらも立ち上がってそのあたりをひっくり返しだすあたり、意外とまじめな男だ。坂口も髪をタオルでこすりながら、その辺をひっくり返して服を探す。

「もういつもの服でええんちゃう?」

「あー、じゃあまあ、それで」

 結局シャツを巻かないだけの、普段とそう変わりない黒ずくめに落ち着いた。そんなこんなとしているうちに髪もすっかり乾いたようで、見られる程度に整え、織田と二人肩を並べて部屋を出た。

「で、どこ行くんだよ」

「決めてへん。どこがええ?」

「むしろ何があるんだよ」

「ええっとなあ、飲み屋さん。あと公園。川もあるで」

 川の情報はまず間違いなく太宰関連だ。あとでそのあたりは詳しく聞かなければならない、と坂口が決意を新たにしたところで、はた、とあの喧しい赤色が無いことに気が付いた。

「太宰は?」

「今日はお仕事」

「アイツ、拗ねるんじゃねえの」

「拗ねへん拗ねへん。お出かけすること伝えとるし、お土産あったら大丈夫やろ。知らんけど」

「……それもそうか」

 独特の高笑いを上げた織田が、すう、とその赤い瞳を細めたような気がして、宿舎の出入口に向いていた足が止まる。

「安吾、どしたん?」

「ん、ああ、いや、何でもねえよ」

 どうやらそれは、坂口の勘違いだったようだ。機嫌よさげに細められたアーモンド形の瞳を眺めて、すいと宿舎の庭に踏み出した。柔らかな光が落ち、どことなく甘い香りのするような風が鼻先を吹き抜ける。気が付けば、外はすっかり春の気配を湛えていた。

「じゃあまあ、とりあえず色々案内してくれよ」

「まかしときー!」

 蝶番の軋む音のひとつもない門を開いて、図書館の敷地の外へ出る。寝不足でぼやけた頭をひとつ振って、こっちやこっち、と威勢よく駆け出す背中を追った。

 

 宿舎の裏手の道を一本抜ければ、もうそこは華やかに人の行きかう大通りだった。服屋、煙草屋、酒屋と立ち並び、少し歩くと百貨店もあるらしい。飲み屋は流石にこの時間では営業しておらず、適当に店を冷かしながら、目に付いたカフェに入った。

「こんな賑やかな町だったんだな」

「そうやで。何、安吾外出せんかったの?」

「休みは本読んでばっかだな」

「へー!やっぱ探偵小説読んどるん?」

「まあ……、そう、だな」

「なんやのその歯切れの悪いお返事」

 カフェだというのになぜかカレーを口に運ぶ織田を眺めながら、坂口の脳内に浮かんでいるのは当然、昨夜の一幕だった。ついでに頭の中を駆ける、白いんだか青いんだかわからない人影は、水と一緒に飲み下す。

「ワシ第一やん、せやから気になって」

「会派の話か?それなんか関係あんのかよ」

 脈絡なく飛びだす第一、という単語に一瞬迷う。確かに図書館内には第一から第四までの会派があるのだから、略称としては妥当なところだろう。それにしたって、今は休日に何をしていたか、という話だったはずだ。

「江戸川センセと同じ会派やから、仲良うしてるかなぁて」

 江戸川、という名前にひくりと眉が動いたのは、きっと目の前の聡い男には見つけられているはずだ。古参としての役割だと思っているのか、はたまたそういった性質で転生を果たしてしまっただけなのか、織田はたびたび文豪たちの関係を今のようにさらりと確認することがあった。

「……アイツのオススメ、ってやつばっか読んでるよ」

 できるだけ平静を装った声音で答えたつもりだが、はたして織田は誤魔化されてくれたようだ。正確に言うならば、まだ話したくはないという坂口の気持ちを汲み取って深入りせずにいてくれた。うんうん、と大げさに頷いて、にっこり器用に笑ってみせる。

「ワシもなあ、今度探偵小説書いてみようと思ってんねん!」

「ほお、舞台はやっぱり大阪か?」

「んー……秘密」

「なんだそりゃ」

「内容話してしもたらつまらへんやろ」

 まあそうか、と納得して、坂口もいつの間にか運ばれてきていたコーヒーに口をつけた。織田の方はようやくカレーを食べきって、ぼんやりと往来を眺めている。

「前のときになあ、今度書きます―って言うたんよ」

「誰に」

「江戸川センセ。でもまあ、ワシそのあとすぐにいなくなってしもたから」

「生前の約束果たそうってか」

「約束なんて御大層なモノやないけどな。いっぺん書いてみよーと思ってたんはホンマのことやし」

 織田の言う前のとき、というのは、前の生ということだろう。そんなやり取りがあったとは知らなかったが、彼の書く探偵小説は一読者としても、同じ無頼派と名を並べる間柄としても、素直に読んでみたいと思わされる。

「せやから安吾、書き終わったら下読み頼むわ」

「俺かよ」

「他に誰がおるの」

「太宰……とか?」

「太宰クン探偵小説書いてへんやろ。江戸川センセご本人に頼むわけにもいかんし。え、まさか読みたくないん?この織田作之助の新作を?」

「すげー自信だな……。まあ、俺でいいならやってやるよ」

「頼むわあ」

 そろそろ出よか、と織田が伝票を持って立ち上がるのを、慌てて制する。

「俺が払う」

「ええからええから。ここは先輩にかっこつけさせてや」

 細長い指先でひらひらと伝票を振りながら、有無を言わさないスピードでレジへ向かっていく。今日の外出といい今といい、すっかり弟分に気を使われているようで、どうにも落ち着かない気分にさせられた。

 かろん、と客の出入を知らせるベルが鳴り、外は少しばかり日を傾かせている。ちょっとした雑談気分ではあったが、どうやら結構な長話をしてしまっていたようだった。

「さあて、太宰クンへのお土産探ししよか!」

「何買ってったらいいんだろうなあ」

「んん、お酒とおつまみ?」

「そんでそのまま俺の部屋で飲みだすんだろ」

「いやぁ、あの部屋はちょっと……」

 あの惨状を見た織田としては、流石にあの部屋の中で飲食をするのは憚られるものがあるらしい。とはいえ、アルコールが入って前後不覚になってしまえば、そんな細かなことは気にしない面子ではあるし、人を招くときには一応、坂口なりに座る場所を確保したりはしているのだ。

 気心の知れた相手との大して中身のない会話、というのは楽しいものだ。そうして散々適当な言葉を投げ合い、時々は坂口が転生する前の図書館での苦労を聞き、太宰への土産をああでもないこうでもないとこねくり回し、宿舎へ帰りついたのはすっかり陽の落ちたころだった。

 太宰への土産は何の捻りもなく酒になった。丁度宿舎へ戻ってきていた太宰を捕まえて三人で飲もうかとも思ったのだが、予想以上に疲れた顔をしていたので今度にしよう、とお開きとなった。

 坂口の方でも明日は潜書が待っている。まだまだ経験は足りていないが、明日はもう少し浸食の酷い本に潜るということだから、早い時間に眠ってしまうのも手かもしれない。夕食は食堂で済ませ、自室でシャワーを浴びるころには、昨夜の睡眠不足も相まってすっかり眠気が訪れていた。

 万年床に潜り込んで、眼鏡を枕元に置く。ふ、と視界の端にあの鍵付きの棚が入ってきて、途端、昨日の怒りがじわじわと胃の底から湧き上がってくる。昨日と違うのは、このまま目を瞑ってしまえば眠気が勝ちそうだ、ということぐらいだ。

「なんでこんな事で怒らなきゃなんねぇんだか……」

 その呟きの答えを知るのは、結局のところ自分しかいないのだけれど。

 

 

 

「皆様、ご準備よろしいですか」

「ああ」

 経験を積むことを重視した編成の第三会派は、筆頭を菊池に据え、安定して浄化を完了することのできる本へ潜るのが主だった仕事だ。大まかな浄化は完了しているといえど浸食者というのはどこからともなく湧いてくるもので、そういった新たな敵を蹴散らしつつ、深刻な浸食が起こっていないかどうかを確認するというのも、役割のひとつになっている。

 硬い表情の司書が頷くのに合わせて、目を閉じる。

「それでは、潜書開始です」

 ヴン、と機械の動くような低い音がして、意識がじわりと溶けだしていく。精神が本の中に入り込むのだ。一瞬、息が詰まって、足元がとん、と固いものに当たればまずは選書成功だ。目を開くと、相変わらず気分の悪くなるような景色が広がっていた。

「こりゃひでえな」

 菊池がぼそりと呟いた声に、国木田と宮沢が頷く。経験を積むと言っても、坂口以外はこの図書館内でそれなりの期間戦ってきた面子だ。要するに、引率係である。

「全員、あんまり無理すんなよ。特に坂口」

「俺かよ」

「お前が一番経験浅いからなあ。ま、先輩面させてくれよ」

 同じような言葉を、昨日もきいた気がする。手の中で苦無を回して、握る。調子は上々だ。

「さあて、始めるとするか」

 空気が重くよどみ、空が鉛色に垂れこめる。影を滴らせて現れた浸食者を睨んで、苦無を握り込む。矢と銃弾の空を割く鋭い初撃を合図に、坂口は低くした体制のまま地を蹴った。

 

「まあまあ順調……だな」

 じろりと全員の顔を見回した菊池が、うむ、と声を上げた。

「坂口、行けるか」

「あー……、あと一戦くらいなら」

「信じるぞ」

「ッス」

 一番に敵の攻撃をくらっているのは、当然のように坂口だ、武器の性質上、どうしたって前へ出ざるを得ない。

 敵から攻撃をくらって傷を負うのは、肉体ではなく精神だ。そうして精神に傷を負うと、肉体とどんどん分離するような心持になって、上手く手足を動かすことができなくなる。思考ばかりが先行して、暗い事ばかりを考えるようになる。

 あと一戦、と強がってはみたものの、歩いているうちに思考は肉体と乖離し始めた。ふつ、とあの日から何度も鍵を開けようとして、開けられなかった棚のことが思い出される。江戸川乱歩の新作は、心底から面白かった。あの奇想天外なトリックに挑むのかと思えば、子供の様に胸が高鳴った。それなのに、それなのにあの手紙だ。

 ふ、と空気が重く、じとりと頬を撫でる。嫌な流れだ、集中しなくては。

「坂口!」

「は、」

 気が付けば、敵の刃が目前に迫っていた。最初の一撃を左で受け、その勢いに体制が崩れる。刃の重みを受けきれなかった苦無は、木々の向こうに弾き飛ばされるのが見えた。弓も銃も、初撃直後で準備がでいていない。鞭は射程範囲外だ。

 

 振りかぶられた刃が、ぞぶん、と人の柔らかな肉に埋まっていく。痛みも熱も感じないまま、坂口の世界はそこでぶつりと途切れた。

 

 だん、だんと響く音が、坂口自身の足音だと気が付くのに随分と時間がかかった。ただ、逃げていた。なにもかもから、もしくは、視界の端に薄らと映る、黒く、長い髪の持ち主から。

 壁をつたって歩を進める。足を動かすのも億劫だが、動かしていないと追いつかれてしまうから、とにかく一歩づつ。

 ふ、と混乱しきった思考回路の中に、浮かぶように飛び込んできたひとつの扉があった。震える手で、扉を開けて、殆ど体を投げ込むようにして床に倒れた。

「坂口さん……?」

 床に響く振動と音が視界をゆがめる。誰だ、と声を発し杳として目線だけを上げたところに飛び込んだ、白と青。

「あ、」

「こんなところで一体何を、アア、喪失しているじゃないですか」

「あんた」

「補修はどうしたのです。とにかく、図書館の方へ運ばないと、っ」

 頬をかすかに撫でた指先が、額を掠めて去っていく。それが何故だか我慢ならなくて、腕ごと掴んでぐい、と引き寄せた。

「坂口さん」

「なあ、どこいくんだ」

「人を呼びに行くのです。ワタクシひとりではあなたを運べませんので」

「いやだ」

「坂口さん」

「いやだって、なあ、なあ」

「聞き分けて」

「置いてくなよ!」

 掴んだままだった腕を引くと、江戸川の体は簡単に床に落とされた。その体の上に馬乗りになって肩を強く押さえつける。苦々しく眉間に寄った皺は痛みからだろうか。

「坂口さん、すぐですから」

「いやだ」

「では二人で行きましょうか。肩ぐらいならお貸しできますよ」

「それもいやだ、あいつらに、かっこわるいところ見せたくない」

「……ワタクシになら、よいのですか」

 そうして浮かべる余裕ぶったような笑みが、坂口の体中に満ちていた負の感情に火をつけた。燃え盛って、沸騰して、けれどそれを表出させられるほど体の自由は効かなくて、結局それは涙になって、ぼろりと坂口の瞳からこぼれ出た。

「おれは、なんだ」

「……はい?」

「おれは、あんたのなんだ。愛読者なんて、そんな、線ひくような真似して、おれは」

 手の下で江戸川の体に力が入るのがわかった。緊張している。けれど、ぼろぼろと飛びだした言葉はもう止まってもくれない。

「おれは、あんたにとっては楽しませる客のひとりってことか」

「そんなことは」

「おれは、おれは小説家だ。あんたと同じ、」

「坂口さん、お話ならば後で聞きます。今は補修が最優先です」

「逃げんな!」

 自分でも驚くくらいの大声は、きっと押し倒したこの男の鼓膜も痛いぐらいに震わせただろう。半ば身を起こそうとしていた体は、すっかり動きを止めてしまっている。

「小説家だ、おれは、あんたの、なんだ」

 すっかり黙りこくってしまった唇が心底憎らしい。噛みついて、無理やりにでも開かせてやったら、答えの一つでも聞き出せるだろうかという物騒な考えが、坂口の脳内に過る。

「おれは、」

 ぼたん、と止まることなく流れて落ちた涙が、江戸川のシャツの水色を濃くした。

「おれは、らんぽの隣に立ちたいのに」

 ひゅう、と息を吸う音がどちらのものだったのかは、もうわからなかった。ひどい目眩に、体が崩れ落ちる。

「っ坂口さん!」

 江戸川の焦ったような声、それから、幾人かの忙しない足音。坂口の意識は、そこで再び途切れた。

 

「いい加減江戸川先生に謝ったほうがいいと思うけどね!俺はね!!」

「うるせえほんっとうにうるせえ」

「めっちゃこじれてるやん自分」

「うるせえいいから飲め」

 おおきにー!と陽気な声はどう解釈しても酔っ払いのそれだ。経験を積むための潜書、のち喪失。補修室から逃亡した上、発見されたときには非番だった江戸川乱歩を下敷きにしていたというのだから、坂口はほぼ記憶に残っていない自分の失態に、ため息すら出なかった。穴があったら入りたい、とは、まさにこのことである。

「だから仲良うしてるか聞いたんやけどなー?」

「あの時はまだそんなじゃなかったんだよ」

「安吾お前今初恋拗らせた思春期の男みたいな顔してる」

「どんな顔だよ、ほら太宰元々はこの酒お前への土産だぞ!飲め!」

 ごぱん、と勢いよく注いだ酒は、グラスから溢れて机を濡らした。あー!と声を上げる太宰も、受け答えはしっかりしているにしても音量調節が馬鹿になっている。三人そろって見事な酔っ払いだ。

「どんな顔って言われると……ううん、ちょっとまって。天才たる俺の語彙力総動員して描写するから、十分頂戴」

「やめろいらねえ」

「めっちゃかわいい顔してんで!」

「いらねえって言ってんだろ」

 機嫌よさげに細められた瞳は、もうほとんど液体だ。とろりと潤んで、今にも溶け落ちそうになっている。

「なんなん?ワシらに頼らんと江戸川センセにすがりつくとかなんなん?いつの間にそんな仲良くなってたん?」

「仲良くねえよ」

「ていうかさあ、江戸川先生のシャツびちゃびちゃだったんだけど。あれきっとクリーニング行きだろうなあ」

「えっ安吾泣いたん?!ちょっとそこ詳しく」

「ふざけんなほんとお前らもう寝ろよ……」

 ぐったりと机に顔を押し付けて、酒だかなんだかよくわからないものに火照り始めた顔を冷ます。これしきの酒で酔うような柔さは持ち合わせておらず、つまりはさっきから槍玉にあげられている坂口の喪失時の出来事こそが、自分の中の羞恥を呼び起こしているのに他ならなかった。

「え~お開き?」

「お開かない!まだ飲む!」

「お開かないってなんやねん太宰クンほんとおもろいわ~」

 犬を撫でるようなほどよい雑さで、織田の指が太宰の赤い髪をかき回す。このままここに居たって埒があかない。きっと明け方までこのネタでからかわれ続けるのだ。坂口はのそり、と立ち上がって、扉へ歩を進めた。

「あれ、どこ行くの」

「ちょっと涼んでくる」

「川飛び込んだらあかんで!」

「そういうのは太宰に言えー」

 廊下は、流石に部屋のなかよりは少しばかり涼しい空気が流れていた。室内履きでぺたぺたと歩き回り、何の気なしに窓の外を眺める。

 喪失したときのことは、覚えているようで、覚えていなかった。どうしてあの部屋にいたのかも、なぜ江戸川に縋りついていたのかも覚えていないのに、ただあの時吐き出した言葉だけは鮮明に覚えていた。だから余計、江戸川本人と顔を合わせづらいのだ。

 まるで駄々っ子の様に同じ言葉を繰り返した坂口を、とにかく補修室へ放り込もうとした江戸川の判断は至極正しい。けれど、それにささくれ立った神経を逆なでされたのも確かだ。どうしてそこに引っかかってしまったのか、それを考え出すと、坂口は羞恥で死ねる自信がある。

 あの瞬間に芽吹いてしまったものは、尊敬する小説家に向けるべきものでも、職場の同僚に向けるべきものでも、友人に向けるべきものでもなかった。答えはもう目の前にある。向き合うのに、坂口の精神力が少しばかり足りていないだけで。

「……坂口さん?」

「あ?」

 つい先日もこの声に幾度も名前を呼ばれたばかりだった。それでも反射で振り返ってしまって、どうしてこうも間が悪いのだろう、と理不尽な怒りすら覚えた。相手にではなく、自分にだ。いつもの堅苦しい格好ではない、シャツとスラックスだけを身に着けた江戸川乱歩がそこにいた。

「もうお加減はよろしいので?」

「あ、ああ」

「それはよかった」

 にこり、と上手に貼り付ける笑顔が、すぐに引き締められる。

「坂口さんは、先日のことは覚えていらっしゃいますか」

「……アンタに、言った内容だけ、綺麗にな」

 嘘をついてもよかった。けれど、それはしなかった。ここで本当のことを言わないのは、あまりにも不誠実というものだろう。江戸川だって、普段よりずっと誠実に自分に向き合ってくれているのだ。

「あの、あれはだな」

「……ワタクシすこし、はしゃいでいたのです」

「は?」

 思いもよらない言葉に、坂口の口からつい間の抜けた音が漏れる。誰が、はしゃいでいたって?

「なんとか坂口さんがこの図書館に来てくださって、それだけでも充分なくらい嬉しかったのです。けれど、お休みのたびにワタクシの探偵小説談義に付き合ってくださって、その上新作まで読んでくださるというではありませんか」

 だから、はしゃいでしまって、つい言葉選びを間違えてしまったのです。そうやって締めくくられ、廊下はしいんと静まり返った。坂口は、江戸川の口から発された思いもよらない理由にただ間抜けに口をぽかんと空けておくしかできないでいる。

「不快にさせてしまったのならば本当に申し訳ありません。あの新作は捨ててしまっても」

「いや待て待て待て」

「はい?」

 きょとり、と開かれた青が、ただ純粋に疑問だけを浮かばせているのを見て、坂口はもうどうしようもない気分に駆られた。

「まず俺はアンタの新作、面白くないなんて一言も言ってねえ」

「ありがとうございます……?」

「そこは素直に受け取れよ、ていうか、めちゃくちゃ面白かった。この話、俺が一番最初に読んでいいのかとか解決編すぐにでも書きたいとか。だから、ああ、なんていうかな」

 江戸川は素直に、若干緊張したような面持ちで、坂口の話をじいと聞いている。少しばかり居心地が悪そうなのは、単純に褒められ慣れていないのだろう。

「……同じ小説家としてアンタに認められたと思ったのに、その後あの手紙で、崖から突き落とされた気分になった」

「それは、本当に申し訳ないことを」

「もういい。アンタは別に突き放したかったわけでもないんだろうし、俺も俺で迷惑かけたし。お相子だろ」

 なんとなく腑に落ちない、という表情で押し黙った江戸川は、やはりいつもより素直な表情に見える。これも彼のいうところのはしゃいでいる、の枠内に当てはまるのだとすれば、なかなかどうして可愛らしい反応だ、と考えたところで、坂口は頭を左右に振った。酔って緩んだ頭では、なかなかどうして理性のブレーキが働いてくれない。

「なあ、」

「ハイ」

「まだあの部屋、立ち退き要求されてないのか」

 虚を突かれたような顔、それから、江戸川はいつも通りの笑みを浮かべた。それでもかすかに嬉しそうに見えるのは、欲目というやつだろうか。

「ええ、まだ」

「また、行ってもいいか」

「勿論、お待ちしております」

「……おう」

 坂口の一方的な勘違いでなければ、今の空気は随分と甘ったるい。だから心底恥ずかしくなって、ぞんざいな返事を最後に、江戸川に背を向けて自室へずんずんと歩き出す。勢いよく開けた扉の向こうでは、弟分二人がすっかりと健やかな寝息を立てていた。

「なんで俺の布団使ってるんだかな」

 好都合には違いないが、仮にも部屋の主の寝る場所くらいとっておくものじゃないだろうか。

 煌々とランプのついたままの室内で、足音を潜めて枕元へ向かう。鍵も棚も、前と同じ配置でおとなしくそこに収まっていた。

 息を一つ吐き出し、鍵をつまみ上げる。震える手でゆっくりと穴へと差し込んで、回した。がちゃりと音がするのに、なぜだか心臓が跳ねる。

 原稿は、その棚の中に静かに収まっていた。行儀よくとはいかないのは、坂口自身で投げ込んでしまったせいだ。折れ曲がったり破れたりはしていない事だけは確認して、メモ代わりの反故紙を拾いあげる。

 次の休みは、奇しくも土曜日だ。すっかり酔いの冷めた頭を回して、坂口は目の前に広がる奇想天外なトリックに挑み始めた。

 

 しんとした部屋の中で、原稿用紙を捲るかすかな音だけが響く。晴天の日であれば大体は開け放たれている窓は、紙が飛んでしまうとまずいからと鍵までしっかり閉められている。

 片眼鏡越しの青い瞳は、いつにない真剣さで紙面に並べられた文字を追っている。平素から浮かべられた笑みはすっかり投げ捨てられていて、それだけでも睡眠時間を削って書き終えた価値があるというものだ。それにこうして咎めるものなく江戸川を眺められるというのも、中々どうして珍しい機会だった。優雅な立ち居振る舞いの割には、ひとところにじっとしているということのない男だ。

「さて、」

「む」

 最後の一枚を読み終わった江戸川がとん、と原稿用紙を綺麗にそろえる。

「坂口さん」

「おう」

「大変申し上げにくいのですが、全く違います」

「なんでだよ!」

 びいん、と残響を残して、坂口の声が密室に響いた。あれだけ頭を捻り、ああでもないこうでもないと唸りながら考えに考えたこの解決編が、目の前の男の一言によってざっくりと切り捨てられたのだ。これは立派な事件である。

「ワタクシ、確かに正統派ではありませんが、ここまで捻くれてもいないつもりですよ」

「いやそれは異論があるぞ!つーかこれ捻くれてるか……?」

「自覚が無いのが恐ろしいですね……まあ、これはこれで大変面白く読ませていただきました。ワタクシの考えていたものとは違う結末とはいえ、こんな解釈もあるのかと目から鱗でした」

「褒められてる気がしねえな」

 くそ、と呟いて、なぜか目の前に置かれている紅茶を口に含む。ひと月と間を空けたわけでもないのにますます隠れ家じみてきた室内を見て、坂口は内心、あの司書も立ち退かせるのは諦めているだけなのではないかという気がしてきた。どうせ部屋なら増やせるのだから、あまり大きな問題でもないのだろう。

「さてさて、坂口さん。落ち着くにはまだ早いですよ」

「は?」

 何も持っていないはずの手のひらをごそ、とマントの中へ入れた、次の瞬間。江戸川の手の中には、どこに隠していたのかと問いただしたくなるような質量の紙束がのせられていた。

「ワタクシの書いた、解決編です。お納めください」

「はぁ?!」

「オヤいらない」

「いるに決まってんだろ!」

 ひったくる様に奪って、それでもしわの一つも残すまいとする坂口を、江戸川がにやりと人の良くない笑みで眺める。焦った顔で最初の一枚に目を通した坂口は、けれどその先を読むことなく、原稿を殊更丁寧に机においた。

「読まれないのですか?」

「あとで読む」

 ぐい、と湯気の消えた紅茶を飲み干し、立ち上がって本棚へ歩む背中を眺めながら、江戸川はちら、と備え付けの時計を見た。八つ時は過ぎ、もうそろそろ夕方といっていい時刻に差し掛かっている。

「ワタクシそろそろ」

「もう行くのか?」

「南吉くんとお約束をしておりまして」

「ふうん」

 本棚の上から三段目で目線をさまよわせながら、突然ふ、と坂口が何かに気が付いたように顔を上げた。

「なあ、乱歩」

「はい」

 ドアノブにかけた手はそのままに、江戸川が顔だけで振り返る。ばちん、と音がしそうなほどしっかりと、目線がぶつかった。それがきっかけだった。

「俺、アンタのこと好きだわ」

 ぼろ、と口から零れた言葉は、奇妙な程余韻もなく床に落ちた。

 今言うつもりではなかった。けれど、坂口の中では何か、しっくりときてしまったのだからしょうがない。やたら清々しい胸中だが、たっぷりと十秒を数えても、江戸川からの返答も、物音一つすら返ってこない。

「……乱歩、」

 伸ばしかけられた坂口の腕に、かすかに江戸川の体が後退った。

「ええと、坂口さん」

「なんだ。言っとくが間違いでも勘違いでもねえよ。もうちょっとちゃんとしたタイミングで言おうかと考えてたんだけど、なんか今だなって思ったんだよ」

 丁寧につぶされた退路に、シルクハットに隠された顔がかすかに悔しそうな色を浮かべるのが見えた。ここで引けば、きっとこれ以上先に進ませてもらえる機会はこない。勘だ。けれど、そう間違った推測でもないと思えた。

「なんかって何です」

「なんかは……なんかだよ。そういうもんだろ」

「ワタクシ、坂口さんのことをそういう目で見たことは、あの、」

「なんだよ」

「距離を詰めないでいただけると、」

「嫌なら逃げたらいいじゃねえか」

 なにせ彼の体のすぐ後ろは扉なのだ。ドアノブはしっかりと握りしめられているし、今すぐにだって逃げ出せる状況だ。

「月並みな口説き文句で悪いけど」

「な、」

 とん、とわざとらしく足音を立てて、ぎりぎりの距離で立ち止まる。

「そういう目で見てくれよ」

 落とした声は、床ではなくて江戸川の耳にしっかりと着地したはずだ。じわ、と赤くなる耳は、白いからこそ余計に映える。指先で肩に触れると、大げさな程震えた。

「ま、」

 だから、それ以上を詰める気になれなくて、坂口はぽん、と空気を切り替えるように江戸川の肩を叩いた。

「別に答えを焦ってるわけじゃないからな。今すぐどうしようとか思っちゃいねえよ」

 詰めたままだった距離を、一歩分だけ離す。顔を上げた江戸川の、羞恥の入り混じった心底悔しそうな表情という珍しいものを拝めただけでも僥倖だ。

「坂口さん、本当にお人が悪い」

「今更だな。ほら、約束してんだろ」

「あ、」

 呆けたように時計を見上げて、江戸川は慌てて扉を開いた。

「乱歩、」

「なんですか!」

「来週、待ってるぜ」

「……、ワタクシ、来ないかもしれませんよ?」

 半歩分だけ部屋の外に出た姿勢のまま、答えだけは律儀に返す。どうあがいたって根は真面目なのだ。

「いいや、あんたは来るね」

「ほう……何を根拠に?」

「俺の新作、読んでくれよ」

 息を詰めたのは、背中の動きで分かった。

「まだ誰にも読ませてない、俺の新作。あんたに読んでほしいんだよ」

「……それは、ずいぶん熱烈な」

 それでは気が向けば、なんて適当に流して去っていこうと翻されたマントに向かって、坂口は駄目押しの一言を投げかけた。

「待ってるぜ、センセイ!」

 ただし、これは口説き文句などではなく、件の手紙に対するちょっとした仕返しだ。ざまあみろ、と舌を出して坂口はまた本棚へと向き直った。

 

 喫煙室の扉越しに見知った姿を見かけて、俺はひら、と手を振った。

「よお、珍しいな。アンタがここで吸うなんて」

「たまには趣向を変えてみようかと思いまして」

 失礼、と声の届く範囲で距離を空け、手袋を外した手が慣れた手つきで煙草に火をつける。重度喫煙者どものたまり場ともいうべき喫煙室にいるのは、偶然にも俺と江戸川の二人だけだった。

「なんかあったか?坂口と」

 ぴく、と白いジャケットに包まれた肩が震える。普段はこんなあからさまな反応はしない奴だから、これは本当に何かあったらしい。深く突っ込んでいいものなのか、大して仲がいいわけでもない相手とじゃあ推測の立てようもない。

 けれど目の前の男は、そんな俺の心中などいざ知らず、弱ったような声音で話に乗ってきた。

「……まあ、そうですね」

「おお?なんだ、やっぱりあの脱走関連か」

「脱走って。野生動物ではないのですから」

「喪失した奴らなんかみんな手負いの獣だろ」

「アナタも含めて?」

「それは知らん」

 ふう、と吐き出した煙が天井まで昇って、排気もされないままに揺蕩っている。前の生から付き合いはあるような、無いような関係だ。あくまで仕事相手というべきか。だから、深いところまで踏み込むつもりはお互いにない。

「まあなんか、悪かったな」

「なんのことやら」

「一応あの時の会派、筆頭を務めてたのは俺だからな。監督不行き届きってやつだ」

「ああ、」

 どうもそのあたり、あまり興味はないらしい。中々本心の分かりづらい男だが、最近ようやく、少しばかりほぐれた表情を見るようになった気がする。

「あれは菊池さんのせいではないでしょう」

「でもシャツ一枚駄目になったって聞いたぞ」

「誰に聞いたんです?クリーニングに出して、ちゃんと綺麗にしていただきましたとも」

 ふう、と吐き出した息は、白く煙っている。

「で、何故坂口さんだとお思いに?」

 表情を切り替えて、にこりと上手に笑みをつくる。目の奥が微妙に笑っていないような気がするのは、まあご愛敬だ。

「お前ら仲いいだろ」

「そうでしょうか」

「あいつと探偵小説の話がしたいがために一室分捕っておいてよく言うぜ」

「オヤ、ご存じだったとは」

 ぱちくりと瞬かせる青い瞳は、心底わざとらしい。助手は持ち回り制だから、司書にそれとなく増えすぎた部屋の用途を聞いた時に知ったのだ。新人は余った部屋に割り当てるし、足りなければまた増やす。だからまあ、用途を申告してくれさえすれば一部屋お渡しするのもやぶさかではない、とはあの鷹揚な司書の発言だ。

「別に坂口さんのためだけではないのですよ。今後増えるかもしれませんし」

「まあ今まで一人だったもんなあ……」

「坂口さんも、純粋に探偵小説家というわけではありませんしね」

 そうつぶやいたその横顔がほんのすこしばかり寂しそうに見えるのは、まあ、多分俺の感傷が見せる錯覚だ。もしくは、江戸川の奴が意図的にそう見せているか。

「で、結局なんかあったのか」

「誤魔化されてはくれないのですね」

「人の感傷に訴えかけるのはあまりいい手じゃないな」

「今後の参考に致します」

 やっぱり計算だった。抜け目のない男だ。

「いえまあ、勝手に顔を合わせづらくなっているだけなのです」

「ほお」

「顔を合わせない事には解決しないのはわかっているのですが、どうにも」

「珍しいことがあるもんだな」

 人付き合いは得意ではないと言って憚らない男ではあるが、特定の誰かに苦手意識を持っているというのは聞いたことが無かった。時々好奇心に負けて暴走しだすところはあるが、基本的には至って常識人なのだ。

「喧嘩か?」

「原因については黙秘させていただきます」

「おいおい」

「あまり吹聴して回るような内容でもありませんので」

 ふ、とその言動に、ひとつの可能性が引っかかった。まさか、と江戸川の顔をまじまじと眺めると、どこ吹く風とばかりに煙草の灰をもみ消し、次の一本に火をつけ始めた。一口吸って、目線を合わせてにこりと微笑む。間違いなく黒だ。がくり、と全身の力を抜いて、巨大なため息を吐きだした。

「他所でやれ……」

「首を突っ込んだのは菊池さんではありませんか」

「首突っ込まされてるんだよ」

「人聞きの悪い」

 すっかり灰ばかりになった煙草をもみ消して、ケースから一本取り出す。この男と、あの男が。脳内で二人を並べて思い描いて、つい首をひねった。しっくりこないようで、意外としっくりくる組み合わせだ。

「坂口に口説かれでもしたか」

「あ、まだこの話続けるんですね」

「乗りかかった舟だからな」

 ふ、と笑った顔が、少しばかり恥ずかしそうだったのは、多分この先を聞かれるとは思いもしていなかったのだろう。

「そんなところです」

「へえ。それで、アンタは」

「……勢いに押されまして、ちょっと」

「答えられてないってか……」

「慣れてないのですよ、そういうの」

 まあ確かに、色恋沙汰にかけてはあちらの方が一枚上手だろう。いかに普段の立ち居振る舞いにおいて計算し尽くされていたとしても、色恋に関しては場数がものを言う。と、少なくとも俺はそう思っている。

「ま、せいぜい頑張れよ」

「んん」

 難しいですね、と呟いた江戸川が、煙草を灰皿に押し付ける。なるほど、表情が柔らかくなったのは、どうやら恋のせいだったらしい。

「そろそろ行きますかねえ……」

「なんだ、約束してたのか」

「ええ、はい。新作を携えて待っているそうです」

「熱烈だな」

「……本当に」

 では、と軽く一礼をした江戸川の表情は、そのまま坂口の奴に見せてやりたいくらいだった。そうすれば言葉なんてものを介さなくても、気持ちなんざ一発で伝わるだろうに。そもそも非番ともなれば昼時まで起きてこないような男が、ただ相手と関わりたいがためにこんな早くから身支度を整えているのだから、答えなんざ推して知るべきだ。

 難儀な奴らだな、と煙を吐いて、細く立ち上るのを見守る。あいつらが落ち着くところに落ち着くまであとどのくらいかかるのか、賭ける相手のいないのだけが、残念で仕方なかった。

 


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
0
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択