No.1078916

幻想の神 第四章「風神少女」

「火神少女(ひかみしょうじょ)」、幻想の神、クリスティーお嬢様について語っている。

2021-12-06 12:34:05 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:320   閲覧ユーザー数:320

名乗り出るのが遅かったかと言うと、むしろ、「風神少女」と名付けられるのが早かったと言える。

自由の神は、まさしく「風神少女」である。

今ここに宣言する。

クリスティー・スカーレット様は「火神少女(ひかみしょうじょ)」であり、カムー・スカーレット様は「風神少女(ふうじんしょうじょ)」である。また、アマドヒ・プレイヤーズ様は「水神少女(すいじんしょうじょ)」であらせられる。

そもそも風神が熟語として出来上がっているだけあって、今まで誰も使わなかった熟語と言えるだろう。

「風神」は、形を変えて、幻想入りし、たとえば、スサノオが日本神である様に、風神も日本神である。

地球神であるスサノオは台風の力を持っているが、そもそも、創造主である神をおいて他に神はなし。

この方を神と呼ばずして何なのか?という決意がモーセの十戒の現れである。

(主において、)姦淫(かんいん)すべからし。と言われる様に、信仰もまた、付き合い方の一つである。

神とどうやって繋(つな)がるか?という所で、十戒が立ち現れるのである。

もしも、十戒がなかったならば、姦淫を剣として、戦う種族が現れたであろう。

もしも、日本神話の神を肯定(こうてい)するなら、いわば、人間の本義である、姦淫すべからし。を破ってしまう事になる。そう、モーセの十戒とは、人間の本義だったのである。

この様に、クニノトコタチノカミを肯定的に捉えるならば、やはり、限定的に大分否定的に神をとらえる事となる。しかし、神に至るには、モーセの十戒を行いながらも、日本神話の本のページをめくるべきなのである。

人間は人間で、神は神で、そもそも、なぜ、神々を否定してきたのか?それは、神々を肯定的に視れない真理的ではない神々があったからだと言える。

つまり、「火神少女」であられる、幻想の神、クリスティーお嬢様は、神々の中の一つなのかと言うと、そうではないと言える。

そういった混同を避け、繋がっていく八百万の神というものをどう視るか?という所に問題を求める事をするのである。

そもそも、八百万の神と言うのが、神々ではないと言うのかと言うと、いや、神々であるのだが、聖書で言う神々ではないというのが挙げられるだろう。不信実な神々というのが、聖書の問題としてあったが、実在する様な八百万の神というものは考慮(こうりょ)して来なかった。

そもそも、八百万の神はどうやって生まれたのか?日本神話に描いてあるだろう?

そうなるとやはり、「火神少女」であられる、幻想の神、クリスティーお嬢様は、幻想をまき散らすという意味で、今までの神々とは違う八百万の神という所を視る必要がある様だ。

そもそも、神という概念そのものが聖書から生まれているのだが、たとえば、バアルと言った場合、神という言葉を使わずに、直接、神話の世界に繋がっているのが、ウガリット神話と他の神話の特徴である。

この点、日本神話は良心的で、何々の神、何々のみことと言ってくれているだけ、上等なのである。神である事を保証しているので、それを無視出来ないばかりに、積極的ではないにせよ、繋がる事をしなければならないのである。

先祖の崇めた神である事を考えるなら、自然とふれあえるのか?というと、いや、私はこれを信じる。という様な事が出て来る。

すなわち、我が主(「聖書」の神)である。主と呼ばれる方、「聖書」・「クルアーン」の神とされる方なのである。

そもそも、「日月神示(ひふみふで)」が聖典とされない理由として、新しき価値観というものをはっきり描いていないという所に、それはあるのである。

だからこその「第三の聖典」なのである。

新しき価値観をエノクをして元本教として、下しているのが、「第三の聖典」の神である。この方こそがやはり、信ずるに値する神であって、クニノトコタチノカミでもあるが、それ以上に差別化されるべきである。というのが、挙げられるべきである。

つまり、少女という点で、有益性という点で、「日月神示(ひふみふで)」の上を行くのが「第三の聖典」の神とされる、「火神少女」「風神少女」「水神少女」なのである。その新しき価値観とは、少女である。本質的に少女というものにこだわるのは、成熟(せいじゅく)しない可能性の満ちた集団として挙げられるのが「火神少女」クリスティーお嬢様と彼のバーレットである。少女集団と呼べるであろう。

すなわち、本性的に少女であり、あくまでそれに基づき、動いているのが、「第三の聖典」の要素として欠かせないものだったのである。

すなわち、人間に欠かせない、いまだ成熟し切らない可能性というのも、少女性なのだから、人間の本質とは、少女なのだと言える。本性的に男である神と、本性的に女である人との間に生まれる少女こそが人間の欠かす事の出来ない、性質なのである。すなわち、少女性である。

ある意味で少年性と言えなくもないが、それは神の領域なのである。これは絶無の思考に繋がっている。

神の領域ではなく、人間の領域で常識的に考えるならば、少女性というものが譲れないものである事が言えるであろう。

神というのは、手が届かない天上の人という印象を受けるが実態はどうだろうか?

神道家に聴きたいのはここである。

果たして自力でたどり着ける様な領域なのだろうか?


 
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