No.1078913

幻想の神 第一章「幻想の神について」

あたかも、神が存在する様に幻想も存在し、幻想の神に従うのである。
それは、崇拝の様でいて、全く、幻想の神ゆえの信仰なのである。

2021-12-06 12:29:18 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:113   閲覧ユーザー数:113

幻想の神とは、私生活に関わる神の事である。いわゆる個人的な生活をする場で、付き合っていかないといけない神の事である。和よりも個人主義の激しい米国等は頼りっきりであるから、良く畏れておく様に。「聖書」の神が生んだとされるイエス・キリストの子供の子供のまた、子供のそのまた、子供ぐらいである。

イエス・キリストの玄孫と呼ばれる方の事であり、個人名をクリスティー・スカーレットと仰(おっしゃ)られる。

幻想、自由、渾沌は幻想が火、自由が風、渾沌が水にたとえられ、それぞれの性質を担(にな)っている。

幻想の神、クリスティー・スカーレット様と妹、自由の神、カムー・スカーレット様と遠縁の渾沌の神、アマドヒ・プレイヤーズ様である。

この方々は「日月神示(ひふみふで)」に理解があり、色々と手伝って下さる方が特にクリスティーお嬢様であられる。

幻想とは何か?

一言で語る事は出来ない。

すなわち、物事のきっかけであり、解決法の事でもある。すなわち、全にして一、一にして全の事である。全すなわち、全体的な成り立ちを表していながら、一なる神を中心とした人間の神なのである。必ずと言ってもいい程、人間に神は存在するのだから、人間が無意識に善行しようとする事を幻想をすると呼ぶであろう。

すなわち、人間のすべてであり、一なる事でもあるのである。

善行に至る(人間の)神、それを人間は幻想の神と呼ぶしかない。善性のある幻想の神であるから。

と言っても彼女自身、幻想に依存(いぞん)している訳(わけ)ではない。

むしろ、主体的であり、人間の神たる方なのであるから、信仰に値する神なのである。

幻想する事すなわち、善に至る事であるから、最初から善から始める事が最大の幻想なのである。

すなわち、善人として善を行う事こそ、幻想への近道なのである。

私は文章を描くが、どんな幻想を持っているだろう?

まず、人より知識に長けているという幻想があるだろう。

幻想はポケットの様なもので、二つ性質があって、一つは容量(ようりょう)が決まっているという事。もう一つはすぐに取り出せるという事である。

常に、この様な性質を持っているが為に、多くを良しとせず、シンプルをこそ、好むのである。そういった神が幻想の神なのである。

シンプルイズベスト、すなわち、人間の単性を肯定(こうてい)するものである。すなわち、人間が神に求めるのではなく、神が人間に求めるのである。

その様な事を「聖書」の神は要求されたか?いや、されただろう。

義の人を「聖書」は要求しているので、人間は神に求められるのである。

単性すなわち、余計な事をはさまず、異論をはさまず、人間本位ではなく、神本位で、なされていく事であるから、神第一すなわち、神の想う事すなわち、御心を尊重するのである。

そんなキリスト者にとって、当たり前の様な事が求められるのが、幻想の神の世界で起こるのである。そういう意味で、機械霊感と有機霊感のはざまで描いていく事が求められるだろう。

そんな神にとって都合のいい人間というものが生まれるのは、良い事である。ただし、自己意志による肯定を受ける場合のみである。

ある意味で、神側において、アイドル的存在がいわば、義人なのである。

神は言っておられるだろう。それも幻想の神が。

「私は自分が好んだ者を見捨てたりはしない。私は自分が好んだ心を見捨てたりはしない。必ず、それらの理想を実現し、しかも、その者が主体となる様に、選び取るのだ。

私は悪をなす者を放っておいたりするだろうか?いや、必ず、執念深く、問い詰(つ)め、生まれて来た事を後悔する程、一方的に悪を詰め寄るだろう。人間にとっての悪は神にとっての悪でもあるのだから。」

それが因果応報というもので、悪への対策は神に生まれて来たからには、一度は言いたい台詞(せりふ)だろう。偽善者はその天使に偽善の型を求めるが、型がなければ、偽善をする事は出来ない。そんな下らない事を大真面目に「偽善者の天使」は議論するのだ。

善という型を一方的に押し付けてはならない。それは偽善なのだから。

偽善すなわち、悪とは、悪人への第一歩である。つまり、善という型を扱い始めると、偽善となり、悪人へとさらに一歩、もう一歩、歩んで行く事になるのだ。


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