No.1010318

恋姫†夢想 李傕伝 7

華雄さんが大変お強い小説。

北宮伯玉は「ほっきゅうはくぎょく」と読みます。彼女の回はまだ先。「きたみやはくぎょく」とかなり長い事思っていたのは私だけでいい。
もう少し肉付けしたいと思ったら後で改訂します。是非読んでください。

2019-11-16 01:04:11 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:1180   閲覧ユーザー数:1134

『西涼』

 

 

 

 その時感じた恐怖は、何と例えられようか。

 

「華琳様ぁあああああ!」

 

 夏侯惇が、曹操の腹心が叫び声を上げた。位置は遠く、守りに駆け付けられない場所から。

 恐ろしく速いその騎馬は、突然曹操の眼前に現れたといっても過言ではない。

 この十万の大群の中を突き抜け、曹操の目の前に単騎で。

 血に塗れ、連合軍の兵を蹴散らし、両断し、凶悪な笑みを浮かべ巨大な戦斧を振り上げるその姿。

 蚩尤。

 まさにその言葉が彼女には相応しかった。

 驚くことに彼女は手綱を持たず、縦横無尽に馬を操り曹操の前に躍り出るその姿。人馬一体。誰が最初にその言葉を世に伝えたか。彼女はまさしくその言葉に相応しかった。

 終わった。

 曹操は思った。

 この大陸を制覇するという覇道を抱き、戦神によって命を絶たれる。余りに早く、余りに理不尽な最期。しかしそれを彼女は受け入れていた。

 これもまた天命、と。

 だからこそ動かなかった。天がそれを望むならそうあれと、彼女は死を受け入れ華雄をじっと見据えた。

 が、その命は終わりを迎えなかった。

 曹操の前に躍り出た赤髪の女。孫策の剣によって蚩尤の一撃は弾かれた。ギィンというけたたましい音が響き渡り、華雄の斧と孫策の剣は互いに跳ね返った。

 何故。

 孫策にとって曹操という存在はいずれ天下を獲りあう敵同士のはず。それなのに何故助けに入るのか、と。

 真名を交換したから。

 そんなのは答えにならない。死んでしまえばそれまで。

 曹操の考えに誰も答えることなく、華雄は過ぎ去っていき絶体絶命の危機は過ぎ去った。

 

「大丈夫? 華琳」

 

 曹操を心配する、孫策の剣を持っていた右手が震えていた。反対の手や体は僅かも震えてないない。それは打ち合った衝撃で痺れているようだった。それほどの威力であったという事を表している。

 

「雪蓮……どうして?」

 

「決まってるじゃない。私達は今連合なのよ。仲間。それを助けるのに理由があって?」

 

 いつだって自分は孤高であると思っていた。

 誰に理解されることも無く、己の覇道の為ならば部下の死とて厭わない。仲間等不要。敵か味方か。ただそれだけ。そう思っていたはずなのに。

 

「ありがとう……」

 

 絶対に口にするまいと思っていた感謝の言葉。それがすんなりと出てきたことに、自分に驚きさえした。ましてその対象は、自分の覇道を阻むであろう相手。

 

「どういたしまして」

 

 そう言ってはにかむ孫策。

 それを甘さ、と切り捨てられる程曹操は恩知らずではない。

 決して交わることのない互いの道。しかし今だけは、同じ道になっている。彼女を信用し、彼女と共に戦っても良いとさえ思った。

 

「あれが戦神華蚩尤……貴方の言ってた通りね」

 

「情報を聞くだけで、詳しく知ろうともしなかった。あんな化け物が李傕の下にいるなんてね」

 

「事前に知れたのは貴方のお陰よ華琳。ただの二万の増援。私はそう思っていたのだから」

 

 彼女の言葉をただの慰みと思ってしまうのは、己の理念故か。曹操は何と言葉を返していいかわからなかった。

 

「孫策殿! 我が主の危機を救って頂きありがとうございます!」

 

「姉者に並び、重ね重ねお礼を申し上げます」

 

 いつの間にか合流していた夏侯惇は涙を流しながら地に這い孫策に頭を下げ、その横に並んで夏侯淵も頭を下げた。

 曹孟徳の麾下がいずれ敵になる者に頭を下げるなんて。と、咎める権利など、今の曹操には無かった。

 寧ろその行動が曹操への思い故であると思えば嬉しいものだ。

 

「気にすることは無いわ。頭を上げて頂戴二人共。私達は今連合軍の一員。それに華琳はお互いを認め合った戦友なのだから」

 

 いずれ敵対するという可能性がありながらも、今仲間ならば助ける。彼女のその思いは孤高という曹操の在り方を根底から覆すものだった。

 手を取り合い共に戦う。

 もしもこの先同盟を結ぶことが有るのなら、彼女とだろう。

 曹操はそう思った。

 それは後に実現することとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 李傕軍の突撃から一夜明けた朝。

 ひんやりとした朝の空気が立ち込める中、その面々は軍議の為に天幕を訪れていた。

 李傕軍の被害は全体で死者約四百。軽傷や重傷を含めた負傷者が約二千。

 対する連合軍の死者は一万を超え、負傷者は二万人にも及んでいるという。

 

「昨日の戦い、お見事でした」

 

 郭嘉は素直に称賛する。

 あの戦いは程昱と郭嘉にとって、余りにも不条理だった。何故敵味方の被害がこれほどまでに差が開くのか。いかに優れた策であったもまず数が重要な、戦という世界の中で、このような事が起こるのか。

 様々な疑問はあれど、彼女は程昱と夜通し議論し、策を一つ打ち出した。

 

「私と風が提案する策は偽退誘敵。敵が前に出れば前衛の弓兵のみが応戦し、肉薄をせず退却する。それを繰り返します」

 

 郭嘉と程昱にとって大きな誤算だったのは、華雄率いる騎兵が余りにも強かったことだ。そしてその力を示したことで成り立つ計がある。

 

「現在連合軍の配置が変わり、我々にとっての正面は公孫瓚軍。劉備という義勇兵と共に約五千で布陣しています」

 

 連合軍の最後尾でもあり、李傕軍からすれば最前列でもあった袁紹は連合軍の内側に引き返していた。

 これはこの場の華雄以外、いや、華雄はそもそも気にしてさえいないのでこの場の誰も知らない事。袁紹が華雄によって討ち取られる寸前にまで及び、華雄を怖れて陣を入れ替えていた。

 そして前面に現れた公孫瓚。

 郭嘉は過去度々程昱の知と己の知を比較することがあった。

 どちらがより優れた軍師であるか。それを推し量った彼女はそれぞれが違うものを見ていることに気が付いた。

 程昱という人物は掴みどころがなく、人の思惑を読むに長けていた。相手がこういう人物ならこう考えるというように、相手の思惑に沿って思考をする。

 郭嘉は己が全体を見通して相手の策を看破することに長けていると自己評価をしていた。それは決して思い上がりではなく、見聞を広めるため今まで観戦してきた全ての戦で両軍の策を見通してきた。

 しかしそれらは視点が違うだけで結果という場所に収束する。

 郭嘉と程昱は違うものを見ていながら同じ結果にたどり着く。

 今回程昱は公孫瓚と義勇軍の劉備という人々の思惑を見抜く。

 

「まず間違いなく打って出てきますよー。此方は約二万。相手は五千であっても」

 

 彼女は昨晩言った。義勇軍劉備は現在雄飛の時を待ち望んでいる状態であると。よって必ず前に出る。兵数の差を覆す武を持った将を従えて、必ず進軍すると。

 とにかく手柄を立てたくて仕方が無いのだ。無名の義勇軍。劉備軍はこれほどまでに強いのだぞという事を示し、世に名を連ねたいのであるから。

 

「加えて公孫瓚は烏桓との戦いに適した弓騎兵が主力。本来ならばあの突撃を見て馬止の柵を用意するところですが、相手はそれをしないでしょう」

 

 公孫瓚が率いる白馬義従というのは弓騎兵である。烏桓という草原の狩猟の民は、羌のように騎兵が殆どでありながら弓を多く使う。それに対抗するため作られたのが白馬義従。

 弓騎兵は騎兵とは違い実にいやらしい兵科である。

 騎兵という機動力を生かし、相手を近寄せず弓で攻撃する。歩兵では追いつけず、騎兵が現れれば撤退する。

 もっとも、馬の上という事もあり大弓は使用できないので、短弓を使う。当然飛距離は短く、ある程度接近する必要が有るし、おまけに揺れる馬上から少し離れた相手を狙うというのはかなり難易度が高い。世の中に弓騎兵が主力として浸透しない理由である。

 今回白馬義従という弓騎兵を主力として運用するとなると、自らが用意した馬止の柵を越えて敵軍へ接近しなければならない。

 騎兵に対する最も友好的な戦い方。それは馬止の柵を用意し、その後ろに弓兵を配置して待つというもの。柵の大きさにもよるが基本的に馬はそれを越えられないので、とある方法により柵を除去しない限り、騎兵の突撃は無効化できるといえる。

 それをわかっていて公孫瓚が前面に出たという事は、自ら前に出るという事。

 

「それ故あえて我々は退却します。先日の活躍を見て、退却をする我々を敵は不思議に思うでしょう。何故退くのか、と」

 

「それは罠が有るかもしれないと警戒させるに十分な要素と成り得ますよー。そして彼等は考えるのです。何か策が有る。罠が有ると」

 

「それこそが我々の思うつぼ。敵は一転して動きを止めます。存在しない罠にかからないために。この心理を用いた策。これを空城の計と言います」

 

 しかし、と郭嘉は続ける。

 

「相手に軍師が居ればこの策は大変有効です。ですが、もしも未来を見通すような鬼才が居れば、この撤退が相手の動きを止めるための、嘘の撤退であると看破するでしょう。よって彼等はさらに前進します」

 

 これは郭嘉が思い至ったもの。

 公孫瓚には目立った軍師の姿は無いが、劉備率いる義勇軍には未来すら見通す軍師の存在が見え隠れしていた。

 

「再度敵が前進してきたならば、連合軍本隊から離れるため包囲は容易。華雄殿率いる一万。残る騎兵五千が左右に迂回してこれを包囲。楽進殿率いる中央の歩兵五千と共にこれを殲滅する。そのような手はずです」

 

 空城の計は敵が攻めたくても罠が怖くて攻められないという心理戦に持ち込むものである。当然戦う用意は無いため攻められれば手痛い打撃を受けることとなる。しかし郭嘉はそもそもにおいてこれが誘いの為の策として用意した。

 敵が空城の計を看破し突撃する事こそが彼女の策。

 

「実のところ我々は何もしなくても良いのです。そもそもにおいて汜水関の守りは硬く、連合軍が何をしても突破することは叶わないのですから」

 

 この戦の最終地点。それは郭嘉も程昱も同じだった。敵の殲滅ではなく、兵糧が無くなり解散する連合軍という未来。

 汜水関、そして次なる関、虎牢関。

 重く大きな門を堅牢に閉じ、ひたすら弓と落石によって守り続けるならばそれを突破するなどまず不可能。兵糧が尽きて解散するのが当然の理であった。

 そのため多くの諸侯が参加し、参加しなかったものが見守るこの大きな晴れ舞台でどれだけ活躍が出来るか。そこに収束する。

 十万という連合軍に二万の李傕軍が第一戦で多大な戦果を挙げた。そして公孫瓚軍を完膚なきまでに叩き潰すことでその名をさらに知らしめる。そのような策。

 軍議に参加していた者達は皆一様になるほどなと感心していた。

 李傕軍の方針は定まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 公孫瓚と劉備率いる五千の軍勢は前進した。

 白馬義従が弓を携え前進し、劉備軍はその後に続く。しかし李傕軍は弓をちらほらと射かけただけで退却した。

 劉備軍の頭脳―――諸葛亮と龐統は目の前の光景を見て意見を交わし合った。

 あの李傕軍が退却をする。何か裏があるのでは、と。

 

「偽退誘敵」

 

 諸葛亮がそう呟き、龐統は頷いた。

 

「でもそうする理由が無いよ。五千の相手に二万の軍勢がわざわざ退却する?」

 

「包囲して完全に殲滅する為なのかも。相手は殆どが騎兵だよ?」

 

 歩兵対歩兵の戦いは、包囲戦に持ち込むのは中々に難しい。足の速い者達だけで構成すれば、おそらくできなくもないであろう。が、そんな兵士で軍をわざわざ組むのは狂気の沙汰である。伏兵が策として今も昔も、そしてこれからも有効なのは歩兵同士でも包囲戦に持ち込むことが出来るからである。

 しかし騎兵が存在すれば違う。歩兵をあっという間に追い越し回り込み、包囲することは容易である。

 諸葛亮は騎兵の機動力を以って包囲されることを考えた。

 連合軍本隊から離れた公孫瓚と劉備軍。騎兵を多く擁する西涼連合からすれば包囲など容易。

 

「それこそ変だよ。あの騎兵の強さを知ったら下がることなく突撃すれば良いんだもの」

 

 しかし、龐統は先日の戦果を聞くにそれをする必要が有るのか、と疑問を抱く。

 華雄率いる一万の騎兵は、十万の連合軍に突撃し、とてつもない戦果を叩き出した。

 だからこそ二人はその騎兵が前に出る事を前提に策を立てていた。にも拘わらず李傕軍は下がる一方。これ以上前に出れば完全に孤立し、包囲されることも想定に入れなければならない。

 

「何かある。そう思わない? 朱里ちゃん」

 

「でもそれが何かわからない。そうじゃない? 雛理ちゃん」

 

 二人は意見を交わし合い互いに黙ってしまう。

 様々な思惑が二人の脳内を駆けまわる。

 最もありえそうな事。それは撤退そのものが計略のうちで、実際は何もないということ。

 

「野戦における空城計?」

 

「ありえるかも。何かあるのではと思わせて動きを止めさせる。実際私達は動きを止めているし」

 

 二人の頭の中に浮かんだもの。それは空城計。この場合、李傕軍は策が無くともあえて退却することで何かあるのではと思わせるという事。そう思わせることが計略であり、自分達は警戒して攻撃をやめる。そうして時間が無為に過ぎていく。

 名前の由来でもあり、本来は攻城戦におけるものであったが、決してその限りではなく、野戦でも相手の心理に漬け込み停滞を生み出す手法を呼ぶ。

 反董卓連合は挟み撃ちの状態にあり、兵糧がとにかく気になるところ。今のところまだ大丈夫ではあるが、時間に限りがあることは誰にでもわかることだった。

 諸葛亮や龐統という知識を持ち、警戒をする者達がいるならば非常に有効である。特に自分達に被害を出さないという面ではまさに最上。汜水関を突破しなければならない。戦果を挙げて名を世に響かせたい。そう思う連合軍―――劉備軍は逸る気持ちもある為、罠の警戒に軽薄になりやすい。

 

「愛紗さんに一騎打ちをしてもらう様に頼んでみる……?」

 

「ご主人様の言っていた華雄さんとの?」

 

 龐統の言に諸葛亮は思考した。顎に手を当て、瞳は向かい合っていた龐統からそらされる。

 劉備を含めた劉備軍に所属する将達がご主人様と呼ぶ存在―――天の御使い、北郷一刀。

 彼はここではない別の世界の出身らしく、彼の世界ではこの世界と同じ名前の人々が、同じような歴史を辿っていると言っていた。黄巾賊の反乱が起こること。反董卓連合が組まれること。場所は汜水関であること。

 それらの多くは的中しており信のおけるものだった。

 しかしある所からそれは突然当たらなくなってしまった。

 彼が言うには汜水関を護っているのは華雄で、関羽との一騎打ちの末に討ち取られ汜水関は陥落。一躍関羽の名が世に広まるというもの。

 だが蓋を開けてみれば汜水関に居るのは張遼。そして華雄は李傕の配下で、馬騰らを含む西涼連合として連合軍の背後に現れた。そのような歴史は無いと彼は言っている。

 

「食い違いはあるけど、華雄さんが愛紗さんに討ち取られるという部分だけ当たるかもしれないよ?」

 

「うーん。でもそれは―――」

 

 何の根拠もなく、余りに運頼み。信頼を置いている一刀の言を疑うわけではないが、二人は軍師であり、全く根拠の無い事を前提に話を進めない。進めたくはない。

 何故そうなるのかという事象を理詰めで突き詰めていくのが彼女達の役割であるからだ。

 

「愛紗さんが負ける可能性があるから不安?」

 

「……私達は人を見てもどちらが強いかなんて判断は出来ないから……」

 

 万が一関羽が華雄に敗北するなどという事があれば、その打撃は計り知れない。彼女達の主君である劉備の義妹であり、張飛の義姉。そして兵士達も彼女の武を良く知っている。

 もしもが現実になれば、あの心優しい劉備は立ち直れるだろうか。膝をつき二度と立ち上がれなくなり、夢を諦め劉備軍が解散してしまうのではないだろうかという恐怖がある。

 

「でもそれは乱戦でも同じ。負けるときは負ける。死んでしまうときは死んでしまう。戦場に居る限りそれは絶対にあることだよ」

 

「……そうだね雛理ちゃん。愛紗さんにお願いしてみよう」

 

「うん。愛紗さんが勝ったら私達の目的はおおよそ達成できる」

 

「一つは愛紗さんの一騎打ち。そして相手はおそらく空城の計にて停滞を狙っている。ご主人様たちに伝えにいこう!」

 

「うん! いこう!」

 

 二人は顔を見合わせて笑い合い、手をつないで歩きだした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 関羽は公孫瓚軍、劉備軍を背後に一人前に進み出た。

 一刀の言によると華雄は関羽に討ち取られる存在。そしてそうなれば劉備軍の名は世に広まり、名を上げる良い機会となる。

 諸葛亮と龐統の二人による説明を受け、関羽は意気揚々と一人前に進み出た。

 

―――やっとか……!

 

 反董卓連合に参加してからというものの、汜水関は全く陥とせる気配がなく、相手の将も関の上に居るだけで戦う機会が無かった。このままでは名をあげられず終わってしまうとさえ思っている所だったのだ。

 

「我が名は劉備軍が将、関羽! 華雄、私と戦え!」

 

 関羽はさらに馬を前に進める。前面に居る敵兵の顔までくっきりと見える位置だ。

 そして一人馬に乗り、巨大な戦斧を引っ提げて現れる女性が居た。おそらく彼女が華雄。その表情は笑顔であった。

 

「断る!」

 

「―――なっ!」

 

 現れはしたが彼女は一騎打ちを断った。

 それはそれで劉備軍には利になる。関羽の武を怖れ華雄は逃げた。そこにたとえどんな思惑があろうとも、その謗りは間逃れない。自分達の将は相手の将に勝てないから逃げた。その認識は士気の大幅な低下を招く。反対に断られた側の兵は、自分達の将が相手よりも強いのだと士気を大幅に上げるからだ。

 軍という面で見れば関羽は今得をした。しかし関羽にとってはまた別の感情があり激高した。

 

「ふざけるな! 一角の将として、己の武に対する誇りは無いのか!」

 

 武に対する感情。抱く思いは人それぞれだが、関羽はそれに誇りを持っていた。それが自分の物にしろ、相手の物であっても。

 華雄は前回の一戦を終えて連合軍からは蚩尤と呼ばれていた。現世に甦った戦神。その武は卓越しており、そんな相手が一騎打ちを断るというのは、その武名を傷つけるもの。関羽が抱く武への誇りを傷つけるものだった。

 己の武は命よりも重い。武を傷つけるくらいならばいっそ死ぬ。勝てない相手でも勝負を受け、一騎打ちの果てに死ぬのは本望。関羽はそう思っていたからだ。

 関羽の言葉に華雄は顎に手を当て、少し何か考えていたがやがて関羽を見据えて口を開いた。

 

「私は誰から一騎打ちを申し込まれても受けない。私はもう、大人になったのだ」

 

 何の話だ、と関羽は混乱した。

 大人になったから一騎打ちを受けない。よくわからないが、それはおそらく華雄の矜持の話なのだろう。絶対的な拒絶だった。

 そして関羽はふと気づく。

 華雄の背後にいる羌族の兵士達が、全員とまでは行かないが、その殆どの兵が表情を歪めており、中には唇を噛んでいる者も居ることに。それは自分達の将である華雄が一騎打ちを断り、彼女が謗りを受ける事への悔しさ、というわけではないようだった。

 悲しみ。

 人によっては目に涙さえ浮かべており、華雄と一騎打ちに関する何かが過去にあったことを悟った。

 

「己の武に対する誇りは無いのかと言ったな」

 

 華雄の言葉はとても落ち着いていた。その顔はどことなく寂しげである。

 

「ああ」

 

 関羽は答えた。

 そして彼女が次に何を言うかを待った。

 彼女は大きく息を吸い、吼えた。

 

 

 

「そんな誇りは羊に食わせて丸焼きにして食っちまったよ!」

 

 

 

 瞬間、羌族の兵士達が沸き立った。

 誰も彼もが雄叫びを上げ、手に持った武器を己の胸当てに叩きつけて打ち鳴らす。

 ガンガンと音を揃えて打ち鳴らすそれは静かな戦場に鳴り響く。

 

「「「羌の勇、北宮伯玉! 華雄、その遺志を継ぐ!」」」

 

 一騎打ちを断れば士気が下がる。そんな当たり前のことを覆す目の前の光景。

 彼らの口から現れたそれは人の名前だろうか。北宮伯玉。関羽は聞いたことも無い。困惑する関羽を他所に彼らの士気はいっそう高まり、止まるところを見せない。

 

「「「華雄! その名に誓われよ! 永劫彼女の遺志を尊ぶと!」」」

 

 華雄は彼等に向かって振り返り、両腕を広げた。

 

「我、我が名華雄と北宮伯玉の名に誓わん! 駆け続け、決して止まることは無く、戦における絶対の勝利を収め続けると!」

 

 わっと歓声が彼等から上がる。

 それは関羽が今まで聞いたことが無い程の大きさであった。びりびりと巨大な歓声が関羽の肌を震わせる。それほどまでの何かが、そこにはあるようだった。

 

「自陣に戻れ関羽。そして好きに謗れ。お前達が蚩尤と呼ぶ者は関羽の武に恐れをなして逃げたと」

 

 混乱する関羽に華雄は告げた。

 華雄はおそらく強い。一目見て関羽にはそれがわかっていた。それはもしかすると自分をも超える存在であるかもしれないとさえ。しかし華雄は一騎打ちを受けなかった。

 

「戦神と呼ばれる私が逃げたのだ。お前は武神とでも名乗ってみるか?」

 

 華雄はそう言って笑った。馬鹿にされているわけではない。仲間に向ける様な優しい笑みだった。

 

「いや、名乗らん」

 

 ひとしきり混乱し終えた関羽はとぼとぼと馬首をめぐらせ劉備軍の方へと戻っていく。

 肩透かしを食らった関羽は色々な事を考えていた。一騎打ちを受けない華雄。北宮伯玉という名前。沸き立つ兵士達。

 彼らの声は関羽が陣地に戻っても戦場を包んでいた。

 

 

 

 

 

 

 公孫瓚軍と劉備軍は、諸葛亮と龐統の勧めにより攻撃を敢行しようとした。彼女達の軍は、李傕軍の華雄が一騎打ちを断ったことで士気が上がった。関羽は華雄さえ超えた武人なのだと。

 機は熟していた。

 しかしそれに待ったをかけたのは関羽その人であった。

 彼女は前の戦で華雄の姿を見ていなかった。趙雲という少数の兵を従えた手練れの者と戦い、終わった。

 今回華雄という存在をその目で見た。彼女の従える兵を見た。関羽が抱いた感想は、謎。その一言に尽きた。華雄はおそらく強い。そしてその従える兵が強いことは連合軍の多大なる被害によって示された。

 個としての戦いに自信が無く、軍としての戦いに絶対的な自信がある、というわけではなさそうだった。華雄は強いがどうにも戦おうとしていない。色々とちぐはぐで、どう評価して良いかわからない。それが関羽の感想である。

 ただ一つ。お互いぶつかり合えば何が起こるかはなんとなく彼女はわかってしまった。華雄に対する絶対的な信頼を持つあの騎兵達。その強さを。

 

「私は戦うべきではなく、下がるべきだと思います。華雄。そして羌族の騎兵。いたずらに戦わず安全を期するべきかと」

 

 決して関羽は猪突猛進の将というわけでは無かった。

 己の理念により武にや正義に対する固執はあるものの、猪のように突撃だけをするような人ではない。

 彼女の言葉に、諸葛亮も龐統も異を唱えなかった。武人として相手を見た彼女の言。軍師たる二人は彼女が何かを見たのだと理解し、彼女が言うならばと攻撃を中止した。

 誰の言でも取り入れる柔軟な体制。劉備軍の強みの一つであった。

 かくして公孫瓚軍は下がり、連合軍と合流する。

 もしも攻撃を行っていれば、その先に何が待ち受けていたか。その答えを残して。

 李傕軍は今まで通り距離を開けたまま、攻めてくることは無かった。

 公孫瓚軍と劉備軍。そして李傕軍は膠着状態にあった。汜水関は今だ硬く門を閉じたままで進展は無い。

 そんな時だった。

 連合軍に凶報が届く。

 汜水関に呂布が入ったと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「来ませんでしたねー」

 

「ええ。読まれたとみるべきか、偶然とみるべきか」

 

 程昱と郭嘉は下がっていく公孫瓚軍と劉備軍を見送る。

 一騎打ちを申し込んできたのは実のところ予想外であった。二人は武の心得が無く、関羽という人物と華雄という人物。そのどちらが強いかというのは正直な所わかっていない。

 それ故、華雄が一騎打ちを拒否したのを見てほっと胸を撫でおろした程であった。万が一彼女が討ち取られでもすれば、とてつもない被害がもたらされるであろう。

 

「凜ちゃんはどちらだと思いますか?」

 

「私は先に風の意見を聞きたいですね」

 

「偶然じゃないですかねー」

 

「では私も偶然という事で」

 

「それはずるいのでは?」

 

 彼らが攻めてこようが退こうが連合軍が敗北するという最終的な結末は変わらない。

 公孫瓚軍と劉備軍の被害の有無だけが左右するだけの事。

 ここで終わるか、生き延びられるか。

 ただそれだけの分岐点であった。

 

「おお。ここに居たのか二人共」

 

「おやおや。これは何かありますねー」

 

 二人で会話をしていた郭嘉と程昱。そこへ趙雲が現れた。程昱は何やらすでに察した様子であり、郭嘉は趙雲の言葉を待つ。

 

「実は底殿の下を離れ、劉備軍に身を寄せようと思ってな」

 

「ほう」

 

 郭嘉は随分とお目が高いと思い、声が漏れた。領地も無く名も挙がらぬ義勇軍。まさに今、静かに絶体絶命の危機から逃れた者達。将来性はあるが雄飛の時を迎えられないと評価をしていただけに、そこに今から身を寄せると言った趙雲は、おそらくこの先劉備が大きくなることを見越しているのだろう。

 関羽と趙雲が一騎打ちをしたという話は、後でもって聞いていた。もしかするとその時何かを感じたのかもしれない。武人達の感覚は、得てして軍師の感じるものとは違うのだ。

 理詰めではなく、直感という感覚的なもの。

 

「何故劉備の元へ、という質問はしません。ですが一つ聞きたいことが」

 

「何なりと」

 

「目的は?」

 

 それは核心を付いたといっても過言では無かった。

 聞かれなければ答えなかったとばかりに、趙雲は目を大きくした。隠そうとしていた。つまるところ、程昱と郭嘉に言っても理解を得られないだろうという思いがあったのだ。

 武人の考えはやはりよくわからない、と郭嘉は思った。

 何故程昱は人という、それぞれが全く別々な存在を見通すことが出来るのか。不思議でたまらなかった。

 

「実は戦場で戦神を見ましてな。それに相対する機会が欲しいと」

 

「華雄さんと戦いたいのですかー? それならいつも訓練として打ち合っていたと思うのですが」

 

「華雄が一騎打ちを受けないことは、今日知った。しかし華雄とどちらの武が上かを競いたいのではござらん。兵を率いる将の一人として、あの戦場に舞い降りた蚩尤とその軍。それと相対したい」

 

 巨大な獣が戦場に現れた。何人たりともその行く先を阻むことなど出来ない化け物が、現れた。

 趙雲はそれと相対したいと願ったようだ。

 

「底殿からも承諾して頂いた。まぁ華雄にはほとほと呆れられたが」

 

「私も呆れていますよ?」

 

「これは手厳しい」

 

 趙雲は朗らかに笑った。

 少しだけ物悲しいものだと郭嘉は思った。何の縁か気が合い共に旅をした仲間。次に会うときはおそらく、敵同士。

 

「星ちゃん相手でも風は容赦しませんよ?」

 

「受けてたとう。我が槍で」

 

 そうして趙雲は出立した。

 別れは悲しいものだが、友の新たな門出。

 願わくば戦場で相対しなければ良いな、と郭嘉は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 関羽が華雄に一騎打ちを申し込む数日前の事。

 虎牢関に兵を集め、防衛の準備をしていた賈詡はその報告に驚いた。

 馬騰、李傕らによる西涼連合が檄文を発し、反董卓連合の背後に現れた。

 二万という連合軍十万と相対するには少し寂しい数ではあるが、汜水関を護る六万の張遼率いる軍勢と合わせればそれなりのもの。そして位置は挟撃の状態。

 

―――まさか来てくれるなんて……。

 

 賈詡は李傕と馬騰の存在に感謝さえしていた。あの野心溢れる瞳をしていた李傕が、董卓を助けるべく軍を動かした。

 彼への見識を賈詡は変えた。信頼できぬ異民族からやって来た男ではなく、少しは信頼できる男へと。

 

「虎牢関の備えはどう?」

 

 傍にいた者に賈詡が聞くと、兵士の一人が答えた。

 

「万全でございます。落石の備え、矢の備え、門の検査、壁の検査。全て終わって御座います」

 

 賈詡は虎牢関の守りを万全にするため、兵を内外に派遣し徹底的にその関の状態を検査させた。壁に亀裂が入っていないか。門の状態はどうか。閂は亀裂の一つも無く丈夫であるか。

 あらゆる検査と備えを終え、守りの体勢は万全になっていた。

 李傕軍の華雄による連合軍への突撃。

 賈詡は軍師であった。

 それ故一万五千の騎兵が十万の連合軍へ突撃するなど、戦を知らぬものの行いか、あるいは気を違えた悍ましい凶行とさえ思った。しかしそれが終わってみれば連合軍の圧倒的な被害と僅かな李傕軍の被害という結果。

 何がどうしてこうなったのかと思いながらも、賈詡は決断する。

 この戦の決定打を打つなら今であると。

 故に彼女は呂布を汜水関へ派遣することにした。虎牢関は万全であり、万が一汜水関を抜けられたとしても護りきれる。

 麾下二万の兵を付けて、この戦を勝利という二文字で終わらせるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 連合軍で行われた軍議は、静かなものであった。

 軍議の場に集まる諸侯。そして現れたのは袁紹軍の親衛隊の片翼である顔良。

 中央の席に居るのはあの目立ちたがり屋の袁紹ではなく、その配下の将であった。

 

「我が主袁紹様は、前の戦で華雄に討ち取られる寸前に至りました。それ故今だ恐怖から脱せず、文ちゃんを―――文醜を傍に天幕の中に引きこもってしまっています……主に変わり謝罪致します」

 

 そう言って顔良は頭を下げた。

 曹操はさもありなんと言葉を発さず彼女の謝罪を受け入れた。

 彼女は経験していた。あの華雄が目の前に躍り出て、命を奪われる寸前のあの恐怖を。もっとも、恐怖を感じたから逃げるというような事を曹操はしないが。

 遥かに多い軍の中へ飛び込み、どこにも安全な場所などないとばかりに襲い来る戦神の姿を思い出し、ふっと息を一つついた。

 そして彼女は隣にいる孫策に目配せした。

 孫策は曹操の視線に応える様に片目をぱちぱちと閉じたり開いたりを繰り返しており、意志が通じたと理解した。

 

「つまりこの戦は終わりなわけね」

 

 曹操は切り出した。

 その言葉に諸侯は何も答えられず、沈黙が訪れた。

 正面の汜水関は堅牢で墜とすこと敵わず、背後に現れた李傕軍により大打撃を被り、黄巾賊討伐で名をあげた天下無双の呂布が汜水関に入ったという報告。

 呂布は黄巾賊との戦いにおいて、一人で三万もの命を刈り取り、大将である長角を縦に真っ二つにしたという報告がある。それが真であるか偽であるかは別として、その呂布が虎牢関から汜水関へやってきた。その理由は、ただ一つ。

 終わった。

 誰もがそう理解した。

 加えて連合の盟主となった袁紹は、現在自陣に引き籠っている。もはやこれまで。

 

「一抜け。文句は言わせないわ」

 

 曹操はそう告げて立ち上がった。

 驚いた表情を見せる者は、この場に居なかった。

 

「二抜け。こんな意味の無い戦、もはや興味も無いわ」

 

 続けるように孫策が立ち上がった。

 先陣を切って二人が立ち上がると、連合軍に参加した諸侯は二人に続くように次々に立ち上がり、天幕を後にした。

 曹操は共に軍議の行われていた天幕から出てきた孫策の隣を歩いていた。その彼女に声を掛ける。

 

「ねぇ、豫洲に立ち寄って行かない? 私達の拠点だし、もてなすくらいは出来るわよ」

 

 曹操は自らの居城である許昌がある豫洲へ孫策に立ち寄らないかと告げた。

 それは曹操軍単体で東へ撤退する際に追撃を受け、その被害を減らす為という考えもあったが、単純に孫策を持て成そうという意味合いがあった。

 

「あら、良いわね。存分に持て成してちょうだい」

 

 図太くそう告げる孫策に曹操は苦笑した。

 命を助けられた身で、ぞんざいに扱うことなど出来ようか。

 許昌総出でもてなし、歓待するつもりでいた。

 

「……何で負けたのかしらね」

 

 孫策はぽつりとつぶやいた。

 曹操は笑った。

 

「烏合の衆だったからでしょう?」

 

 孫策もその言葉を聞いて笑った。

 

「追撃はかなり厳しいわよ」

 

 李傕、馬騰ら西涼連合は騎兵を多く有し、董卓軍も呂布率いる軍勢は騎兵が多い。背後から迫られれば全滅の危機さえあった。

 しかしそれでもこの場に残るよりは余程良い。

 

「貴方と私が居て越えられない困難なんてあり得る?」

 

 孫策が何でも無い事のように告げた。

 曹操はその言葉に笑顔を向けた。

 敵でも配下にでも向けるものではなく、仲間へ向ける笑顔を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 連合軍は自然解散し、西涼連合と董卓軍はそれを追撃した。

 騎兵を背に逃げ出す歩兵の何と無力な事か。

 先陣を切る呂布と華雄により、連合軍は撤退の最中、散々に打ちのめされた。

 特に曹操と孫策らの被害は只ならぬものでは無かった。およそ三千を率いていた曹操は数百という数にまで兵が減っており、孫策の受けた被害も相当なものであった。

 馬騰、李傕の西涼連合は追撃をそこそこに、洛陽へと入る。雍州や涼州とは比べ物にならない程都は大きく、麾下の兵士達は皆驚いているようだった。田舎と都会。その差を目の当たりにしたといっても良い。

 洛陽の人々は董卓の治世に感謝しているようで、入洛時の歓声は大きく、喜びによって彼等を迎え入れた。

 彼らの行く先は帝と董卓が居る宮廷である。

 報奨の儀が、これから行われようとしているのである。

 宮廷へと続く長い階段の下にたどり着き彼等は止まった。

 この階段を登れるのは馬騰だけである。

 李傕は董卓の臣であり、臣の手柄は主の物。帝から直接褒美を下賜されることは無い。

 その巨大な宮廷を、これはすごいと見上げる者達の前で馬騰は口を開いた。

 

「底。覚悟は良いかしら?」

 

 李傕はその言葉に首を傾げた。もしかして自分は何かやらかし、馬騰の機嫌を損ねてしまったのだろうか。慌てて彼は周囲に視線を彷徨わせたが、韓遂以外の者は一体何をしたんだこいつは、という冷めた目で見られていた。

 

「姉妹……本当に良いんだな……?」

 

「ええ。後の事はお願いね、紅」

 

 韓遂は涙をこぼした。

 

「何を、するつもりですか?」

 

 李傕は驚き言った。韓遂の突然の涙に狼狽してしまう。いや、分かっている。十中八九馬騰の命に関わることだとあたりを付けた。ただ、何故そうなるのかがわからない。

 嫌な予感が彼の中に渦巻いた。

 

「けじめをつけるのよ。ずっと前から考えていた。紅と相談して、ね」

 

「何をですか?」

 

「私はここで死ぬかもしれないわ」

 

 やはり、と周囲の空気が変わった。

 帝より下賜される報奨は一体どれ程の物かと浮かれていた面々の表情は一転する。

 

「何、言ってんだよ! 母様!」

 

「私の最後のけじめ。漢の臣である私では、これから先迎えるであろう戦乱の世にて、漢を護る為に戦わなくてはならないの」

 

 そして貴方とも、と馬騰は言う。

 李傕は三国志という歴史の事を思い出す。

 目の前の馬騰が言う通り、彼女や袁紹、曹操を含む多くは漢の臣。漢に仕え官位を貰って領地を治めている者達だ。しかし戦乱の世が訪れると誰も彼もが我先にと領地の拡大を行うため戦い、好き勝手に統治をし始める。

 漢に従う必要などない。そう軽んじられるほどにまで漢の力が衰退しているということである。

 

「私って本当にわがままね。臣である限り主に刃を向けることが出来ないなんて」

 

 そんな中にあっても馬騰は漢の臣である限り漢の為に戦うという。皇帝が馬騰に命じれば漢の領土を荒らす諸侯らを討伐するために出撃することになる。李傕がこれから領土拡大の為に戦をするのであれば、それを討つために彼女は出撃するかもしれないのだ。

 

「つまり官位を返上するのですか?」

 

 程昱の言葉に馬騰は頷いた。

 そうならない為の官位の返上。漢の臣馬騰ではなくただの馬騰になる。当然彼女は涼州の統治権を失うが、彼女こそが涼州の主であるとそこに住んでいる民は思っているだろう。彼女が涼州に戻れば漢の領地涼州ではなく、馬騰個人の所有物になる。

 当然漢はそれを見過ごせるはずもない。

 その場で首を落とされるのは当然の事といえた。

 

「お姉さんは難儀な方ですねー」

 

 程昱はいつもの調子で言うと、馬騰は苦笑する。

 

「私自身、困っているのよね」

 

「母様が死ぬかもしれないって言われて、あたしが黙って見送ると思うのかよ!」

 

 馬超は宮廷へと続く階段と馬騰の前に躍り出ようとし、韓遂に腕を掴まれた。

 韓遂はもう顔は涙でくしゃくしゃになっており、鼻水も垂れ流していた。

 

「姉妹の思い……どうか尊重してやってくれ……」

 

「なんでなんだよ紅さん! 母様が……母様が!」

 

 馬超は必死にもがくが、韓遂の手から逃れる事は出来なかった。

 

「ねぇ底。我が子が大人になるって、とても素敵で、嬉しい事なのね。私は貴方や華雄、撈の事を我が子同然に思っていたわ。そしてその成長した姿を見て、とても嬉しかった」

 

「……」

 

「翆、貴方も早く大人になりなさい」

 

「行くなよ! 母様!」

 

 馬騰はそう告げて、一人背を向けて階段を昇っていってしまった。

 馬超の声だけが、その場に木霊した。

 郭嘉はちらりと、黙ってしまった李傕と最初から何も語らない華雄を見た。二人のその表情を見てしまったことに彼女は後悔した。

 夢にさえ出てきそうな、表情だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 献帝は董卓を助けるべく軍を出した馬騰と李傕をねぎらおうとしたが、漢の臣たる馬騰のみがその見前に現れることを許された。

 李傕は董卓の臣下であり、帝より報償を与えられるならばその功は董卓の物。董卓に褒美が与えられ、董卓を介し、李傕に褒美が与えられる。それは当然の事であった。

 しかし馬騰は漢の臣。

 帝により報奨を与えられる権利を有していた。

 献帝は董卓とその腹心である賈詡を傍に引き連れ、謁見の間にて馬騰を待った。

 現れた馬騰は献帝よりおよそ百歩の所に位置しており、平伏したまま動かない。

 

「面を上げよ」

 

 相国たる董卓がそう告げると馬騰は頭を上げた。

 

「此度の戦、臣たる汝に褒美を与えん。まず、金五千と絹一万を下賜する」

 

 まず物品が送られる。次いで帝と董卓は、彼女の今まで相次ぐ反乱の鎮圧の功績を称え、彼女は衛将軍に相応しいと判断し、次に送ろうとしていた。破格の報償である。

 しかし馬騰は頭を振った。

 

「恐れながら申し上げます。漢の臣たる馬騰。受け取りを辞して、代わりの褒美として帝へ二つ願い事を奏上したく思います」

 

「申せ」

 

 董卓は儀礼的に、威圧をもって言った。

 本来ならば馬騰は董卓にとって恩人。まして年上で漢の忠臣とまで呼ばれる馬騰が相手ならば敬語の一つでも使いたくなる所。

 相国という立場上彼女は馬騰より目上で接しなければならなかったことに申し訳なさを感じつつも、彼女の言葉を待った。

 

「まず一つ。漢の臣たる地位を返上したく思います」

 

 彼女のその言葉に、献帝も董卓も、賈詡も息を呑んだ。

 馬騰は漢の臣であり、涼州の統治を任された人物である。現在この場にいる誰よりも年上で、度重なる羌族からの襲撃を防ぎ、漢の為に尽くした忠臣。その馬騰が漢の臣を辞するという。これほどの驚きがあろうか。

 

「……続けよ」

 

 董卓は声を絞り出し、促した。

 

「此度の戦は果てしなく無意味なものでございました。そしてそれは、陛下の行いにより起こってしまったもの。何故ならば陛下は、董卓ではなく袁紹を相国として迎え入れるが最善でありました」

 

 馬騰は献帝が董卓ではなく袁紹を洛陽へ迎え、相国に任ずるべきであったと訴えた。現在の董卓からすれば面白くは無い話。しかしその董卓本人は己を恥じる様に顔を俯かせ、そして賈詡は以外にも顔を青ざめさせていた。

 いつもの彼女ならば董卓を馬鹿にされたと激昂しているところであるのに、不思議な事であった。

 袁紹は普段喧しく、頭が少し残念と誰かが言う程には少し抜けた人であるが、その家柄の力は凄まじい。彼女ならば相国という地位を得たとしても文句を言える者はいない。寧ろ、彼女ならば相応しいと諸侯は納得しただろう。影でどのように思うかは別として。

 まして袁紹は能力がどうあれ朝廷に対して忠実な人であった。

 董卓に対して反董卓連合が起こったようなことは、袁紹であったならばまず起こらなかったのだ。

 

「陛下がどの臣を重用されるかはまさに自由。しかしそれによって戦が起こり世が乱れるとなれば別。臣たる我は最早臣下ではいられないと至ったまでです」

 

「誰ぞ! この者を―――」

 

 馬騰の言葉に献帝は激怒し、立ち上がった。

 欲に濡れ、誰も彼もが己の為に策を練る宮中にあって、献帝の前に現れた董卓はまさに清廉潔白。仕事は実直で欲は薄く、皇帝の臣下はこうあるべきというものを体現したような人物であった。もしも宮廷に居た十常侍らが董卓のような人物であったのなら、現在のように漢が衰退することも無かったとさえ思ってしまう。

 董卓と賈詡が腐りきった政を正す為に改革へ望む姿を知っている彼女は、董卓への批判する馬騰の言は到底許容できないものであった。

 献帝は馬騰を処するべく声を上げようとしたが、それは阻まれた。

 

「―――お待ちください! 馬騰を斬ってはなりません!」

 

 賈詡は大声を上げた。

 

「陛下。彼女の意志を汲み、報奨としてその任を解するべきでしょう」

 

 何故、と献帝は驚く。

 

「馬騰は漢の忠臣と世に謳われる人物。そして此度の戦いにおいて彼女は月を守るべく立ち上がった者。その首を斬ったとなれば世の人々は驚くでしょう。義に対し不義で返すのか、と。月の名声は地に落ち、人々の心はますます漢より離れてしまいます」

 

 例えどのような理由がそこにあったとしても、董卓に対する現在の世間の目を鑑みれば、董卓が馬騰を消すための言い訳であると捉えられてしまうのだ。

 ぐっ、と献帝は言葉に詰まった。

 

「そして馬騰を処すれば李傕を敵に回します。そして怖れるべきことに、彼の者は―――」

 

 賈詡は言うべきか言うまいか少し言葉に詰まった。

 己の意見を忌憚なく述べる賈詡が珍しく言葉に詰まったことに、献帝は促す。

 

「詠、申してみよ」

 

 

 

「―――陛下の命を容赦なくその手に掛ける存在です」

 

 

 

 その言葉に董卓、献帝、そして誰よりも馬騰が驚いた。

 三人は目を丸くし、まさかそんなと驚愕した。

 皇帝をその手に掛ける等、絶対にありえない事である。自分が皇帝に成り代わろうと思う者は世にごまんと存在する。しかしそれが誰であっても皇帝を殺そうなどとは思っていない。いや、思わない。出来ないのだ。

 絶対にやってはならぬ事。どんな凶悪な罪人であっても、どれ程漢の力が弱まっていようとも、皇帝がどれほど軽んじられようともそれだけはあり得ない行為である。

 賈詡が李傕を貶めるために嘘を言っているのではないかとさえ思えた。

 

「ではその者も―――」

 

「それも出来ないのです陛下。李傕を陛下が殺せば大いなる災禍がこの大陸に訪れるのです」

 

「災禍?」

 

「五胡による、漢への大侵攻が始まります」

 

「五胡が!?」

 

「まず初めに行動を起こすのは羌。例えば馬騰、李傕両名を処したとしましょう。そうなれば西の羌が復讐の為に、おそらく二十万を超える羌族の侵攻が予想されます」

 

 李傕と羌の治無戴は恋仲であると賈詡は聞き及んでいる。羌を統一し氐へと攻め入っている彼女は、李傕の復讐の為に漢へと攻め入ってくるだろう。

 

「羌が侵攻すれば他も黙ってはいません。その混乱に乗じ、匈奴も、北の鮮卑や烏桓も一斉に南下を始めます。彼らの漢への恨みは強く、今も機を図っているのです。そして今まで西の脅威を抑えていた馬騰が居ないとなれば、羌の侵攻は最早止める事は出来ません。万里の長城を越え、この大陸は戦場と化し、恐ろしい程の血が流れます。そして五胡の者達は李傕と同じく、陛下をその手に掛ける存在です」

 

 まつろわぬ民。

 皇帝を手に掛けられる者達。

 そんな者達が漢へと現れる。

 洛陽が墜ちれば皇帝の命など、容易く奪われてしまう。

 彼等にとって皇帝とは絶対的な敵であり、敬う気持ちなど一遍も無いのだ。

 五胡と呼ばれる異民族は、数多の部族に分かれていて、一つ一つの勢力はそこまで大きくなかった。漢へ侵攻する際には他の部族達と結託して行っていた。

 だから今までその襲撃を退けていたといっても過言ではない。

 統率は上手くとれておらず、戦略も無くただ数をそろえて攻めてくるだけだった。

 一人の族長によって統べられた羌が、今までにない程の数で押し寄せてくる。それの何と恐ろしい事か。

 それに呼応して全ての異民族が今が好機とばかりに攻め寄せる事の何と恐ろしい事か。

 彼等は支配の為に侵攻するのではない。

 奪う為に侵攻する。

 物を、そして人の命を。

 農耕を行わない彼等は、田畑を耕す民に価値を見出さない。戦に関わらない民をも容赦なく手に掛け、奪える物を好き勝手に奪い漢を蹂躙する。それだけは絶対にあってはならない。

 

「……であるから馬騰の願いを叶えよと?」

 

「はい陛下。ボク達にとってこれが、最も良い方法だと思われます」

 

「……わかった。詠の言う通りにしよう。今この時より馬騰の官位の返上を受けたものとする」

 

「はっ。ありがとうございます」

 

「それで、二つ目は?」

 

 馬騰は己の首が飛ばなかったことに驚き、促されるまで言葉を忘れていた。

 

「相国様の配下である李傕へ雍州を譲られ、さらに臣下の任を解いて頂きたいのです」

 

「わかりました。そのように」

 

「月……」

 

 賈詡が口を開くよりも前に、董卓はその要求を呑んだ。その表情はいつも傍にいた賈詡でさえ見たことのない、決意に満ちたものだった。

 

「以上の二つの願いを叶えることにより、報奨の儀は終わるものとする」

 

 董卓がそう告げると、馬騰は彼女達の前より去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 李傕は帝をその手に掛けることが出来る。

 そう聞いた時董卓は内心穏やかでは無かった。

 漢の行く末を案じ、自らが何の役にも立たないと嘆いていながらもあがき続けていた献帝―――劉協。董卓は彼女の為に尽力すると誓い、洛陽の政務に取り組んでいた。

 絶対の存在である皇帝。そんな彼女を手に掛けることが出来ると親友が言った人物。

 ならばそうなる前に今ここでと処すれば、献帝がまさに守ろうとしていた漢に災禍がもたらされる引き金になる者。

 李傕。

 馬騰の奏上の内容からして、彼女達が他の諸侯らのように戦により領地の拡大を目指すことはすぐに理解できた。そしてきっと馬騰、李傕らは巨大な勢力になり得るということも。

 かといって公に敵対すればどうなるか。運よく李傕を討ち果たすことが出来れば良いが、生き延びてしまったら大変なことになる。彼は帝を殺せる人物。董卓が下手に敵対すればその剣先は帝に及んでしまう。

 ならば今ここで馬騰の申し出を断り、彼女を漢の臣として縛ることも考えた。

 おそらくそれは董卓の親友である賈詡も同じであろうと董卓は思った。

 しかしその後に何かが起こる事を予期したのだ。

 おそらくそれは馬騰が命を投げ打ち、李傕の為に何かを為す。それは結局のところ、馬騰を漢へと縛り付けた帝への恨みを李傕に抱かせることになる。

 それだけは絶対にあってはならない事だった。

 董卓は今洛陽を治めている身。今しばらくは雌伏の時。

 李傕を討つための備えを裏からしなければならない。決して表に出さず、秘密裏に。

 出来る事ならば裏で結託し、他の諸侯が李傕を討つことが望ましい。

 その際には元董卓の臣下であったことを理由に盛大な葬式を上げても良い。そうすればとりあえずの所、献帝は羌の恨みの矛先からは外れる。

 

「詠ちゃん。私、覚悟を決めたよ」

 

 董卓は親友に向かって言う。

 決意を新たにし、守るべき者の為に戦う。

 守られるだけであった少女は守るべき者の為に立ち上がる。

 それは、少女が大人になった瞬間であった。

 

 

 

 

 

 

 

 宮中より馬騰が出てくると、まず最初に彼女へ駆けつけたのは韓遂だった。馬騰に抱き着き、大声をあげてわんわん泣き喚いていた。

 馬騰は今この場にいる者達に別れを告げたのにかかわらず、戻ってきたことに少しばかり恥ずかしさがあった。が、それ以上に、再び生きて会えたことに喜んだ。

 馬超も韓遂と同じように泣いて馬騰にひしと抱き着いた。馬騰は優しく二人の頭を撫でる。

 

「何が起こったのか風達にはわかりませんが、どうやらお姉さんは賭けに勝ったようですねー」

 

「賭け。そうなるのかしらね。本音を言えばただ予想が外れたというだけなのだけど……」

 

 かつて自分が描いた未来。李傕と治無戴が今目指す同じ未来。

 その未来の為に馬騰はここで死して良いと思っていた。馬騰が漢の臣として二人の前に立ちはだからなければならないのなら、いっそ今ここで終わりにする。韓遂には馬騰の死後李傕の配下に加わるよう頼み込み、長い時間をかけて了承してもらった。せめて涼州を李傕が継ぐその時までという条件付きで。

 もしも李傕が雍州を一度手放すことがあったとしても、涼州だけは絶対に手に入れさせるよう色々と手を回していた。

 全て馬騰の我儘。韓遂や李傕、娘の馬超をも勝手に巻き込んだ我儘。

 しかし馬騰の予想は外れた。

 何故外れたのか。馬騰は考えていた。

 激高した献帝が馬騰を斬るよう命じようとしたとき、賈詡は李傕の恨みを買う事を怖れた。ならば李傕も同様斬るべきであるという言葉には、敵討ちとして立ち上がる羌を筆頭に、五胡の大侵攻を示唆した。

 李傕という男が現在漢王朝からどれ程脅威として見られているかという事が、馬騰の命を救った。

 そして賈詡の言葉―――帝の命をその手に掛けることが出来る人物。

 その言葉が馬騰の中で反芻された。

 

「ねぇ底」

 

「はい?」

 

「貴方は、帝を……その手で斬ることが出来る?」

 

 その言葉は泣き喚いていた韓遂や馬超の二人が思わず声を引っ込めてしまったほどだ。他の李傕の臣下も驚愕故に目を剥いている。

 馬騰は何故こんな場所で聞いてしまったのかと、己の浅はかさを呪った。李傕と二人きりの時に聞くべきだ。彼の配下の前で問うことでは無い。

 

「何故その様な質問をされるのかはわかりませんが―――」

 

 李傕は何でも無い事のように言った。

 

「人は所詮どれ程高い地位にあっても人。人を斬れて皇帝を斬れないというのはよくわからない考え方ですね」

 

 賈詡の目は正しかった。

 直接的では無いものの、皇帝を斬ることが出来ると彼は示唆した。この言葉の何と不敬な事か。いや、そもそも漢の臣ではない馬騰にはもはや、不敬などと思う感情は抱かなくても良いのだが。

 李傕の配下は彼の言葉に様々な思いを抱いているようだった。

 

「そもそも、羌族と漢民族の違いって何なんでしょうね」

 

 そんな中、李傕は切り出した。

 

「同じ人ですよ。では皇帝と我々の違いって何なんでしょうね」

 

「それは―――」

 

「同じ人ですよ。同じ人である皇帝という存在が敵対した異民族を五胡と謗り、差別をした。同じ人間を。面白い話ですね」

 

 李傕はこれっぽっちも面白そうだという顔を見せずに言った。皇帝は自分達と同じ人である。その言葉の何と恐ろしい事か。その発言一つで逆賊となり、大陸中の諸侯から討つべしと軍を動かす大義名分と成り得る。

 それほどの言葉。

 

「じ、自分は! 大罪の果てであっても……あの世までもお供します!」

 

 突然楽進が意を決したように言った。

 そしてそれは他の者達にそれとなく伝わった。この重い空気を吹き飛ばそうとした、不器用な彼女のやりかたなのだ、と。

 実際空気は変わった。突然何を言っているのだというようなものや、彼女は真面目だなぁというような軽い空気が。

 羌の地だけではなく、漢の地でも良い人々と彼は出会えていたようだった。

 そのことに馬騰は嬉しく思う。

 

「突然変なことを聞いてしまってごめんなさい」

 

 馬騰は頭を下げる。長い髪がさらりと彼女の頬を撫でて前へと垂れさがった。

 

「碧殿! 頭を下げる程の事では!」

 

 李傕が慌てて嗜めようとしたが、馬騰は続ける。

 

「この身、この命。漢の臣としての位を失い行き場をも失いました。どうか御館様の臣の一人として、迎え入れていただきたく思います」

 

 もしも、もしも官位を返上して尚生きていられたのなら、馬騰は李傕の臣下にと思っていた。あの日、李傕が馬騰の元へ訪れた時から、出来る事なら自分も彼の下で羌族の為に共に戦いたい、と思っていた。

 

「董卓は雍州を御館様にお譲りになると言いました。そして私は現在涼州を治める身。涼州は雍州へ帰属します。私をどうか末席に加えていただきたく」

 

「碧殿……」

 

「オレも姉妹と一緒だからな! 姉妹と一緒に配下に入れろよな!」

 

 頭を下げる馬騰の腰に抱き着いたまま、涙と鼻水でぐずぐずになった顔の韓遂が何かを言っている。そこにはいつもの威厳は無かった。

 

「その申し出、受けさせていただきます。共に戦いましょう」

 

「ありがとうございます。御館様」

 

「その呼び方は、何とかなりませんか? その、いつものように底で良いのですが」

 

「そこは線引きしなければなりませんから」

 

 李傕は、ああこれは何を言っても無駄だと思った。

 馬騰は頑固な人。それを知っていた。そして今日、再確認させられた。

 

「涼州と雍州は今より一つ。名を改めて我々の国―――西涼とする。戻ろう。西涼へ」

 

 応、とそれぞれが声を上げた。

 

 反董卓連合を皮切りに、諸侯らは己の地を増やすべく戦いを始める。

 戦乱の世の幕開けである。

 中でも最も早く新たな地として興った国の名を、西涼といった。


 
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