No.1002919

英雄の帰還

※以下の条件が大丈夫な方々でお願いします。
この作品は、書き手の“超大好きシチュエーション”をいっぱい詰め込んだ、ファンタジー&メルヘンなロスサガ作品です。舞台は近代ヨーロッパをイメージしています。聖闘士の生い立ち、女神アテナ、聖衣などの設定が公式と異なります。オリキャラが何名か出てきます。

2019-08-26 23:44:50 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:1139   閲覧ユーザー数:1103

 

夜露に濡れる芝生をそっと踏みしめ、サガは小さなガーゴイルが口を開けている石像の側まで来た。その像は緑生い茂る庭園の片隅にあり、古びて苔むしたレンガの上でひっそりと番をしている。サガはその像の足元に置かれた紙片を手に取った。

 

「サガ、どこにいるのかね?お茶が入ったからおいで。」

 

屋敷の方から優しく呼ぶ声がする。

 

「父上、すぐ行きます。」

 

サガは手紙をズボンのポケットに入れると、急いで明かりの漏れる方へと帰っていった。

 

リビングに入ると、声をかけた老紳士はすでにテーブルについて紅茶を飲んでいた。中央の大皿には色とりどりのプティ・フールが綺麗に並べられている。サガは笑顔で椅子をひいて座ると、すぐに執事が銀のポットを持ってサガの前にあるカップに紅茶を注いだ。

 

「ご苦労、今日はもうさがってよい。」

 

老紳士の言葉に、執事は二人に会釈をして部屋を出て行った。

 

「すみません、庭に出ていたんです。 月明かりがとても綺麗でつい…… 」

 

「そういえばここ最近、随分と夜が明るい。わしも気になっていた所だ。これでは灯りがなくても書物が読めそうなくらいだな。」

 

サガは笑顔で頷くとカップに唇をつけた。最も信頼しているこの養父に嘘をついている自分の行為がたまらなく後ろめたく感じた。

 

 

サガは8才の時にこの屋敷の主人であるラツィエル卿に引き取られた。それまでは双子の弟カノンと孤児院にいたのだが、カノンが養子縁組で院を出てまもなく、サガも行き先が決まってここへ来た。それから7年経ち、彼は現在15才になっている。ラツィエル卿は元は考古学者で、数年前までヨーロッパ有数の名門大学で教鞭を取っていた。妻を亡くした心労から病にかかり、それを機に都市を離れ、数十名の使用人と共に閑静なこの屋敷で穏やかな暮らしを送っていた。しかし日々過ごすうちに、子供がいない寂しさと、数億とも言われる財産など後先のことを憂うようになり、彼は養子を迎えることに決めた。そして信頼のできる知人を介して迎え入れたのがサガだったのである。彼に仲の良い双子の弟がいることを知ってからは、今後もその弟とすぐ会えるよう里親の行き先を探したのだが、様々な伝手を使ったにも関わらず、今でもその消息は掴めていない。“一生カノンに会えないかもしれない”という不安は時折サガを滅入らせたが、そんなサガの心を察してラツィエル卿は彼を気遣い、事あるごとに深い愛情を注いで接した。そのおかげでサガは心の平穏を守り、何不自由なく日々生活することができた。そして、その恩恵に報いようと勉学に励み、学校では常に首席の成績を収めることで養父を喜ばせた。

 

 

二人はリビングで穏やかなひとときを過ごしていた。そのうちホールクロックが9時の鐘を打ったので、サガは養父の車椅子を押して彼を私室へ送った。部屋の灯りをともし、湯浴みから着替えまで彼の寝支度をつきっきりで手伝う。後はベッドに入るばかりの状態まで整うと、養父はサガの手を恭しく取った。

 

「お休みサガ、良い夢を。」

 

そう言いながら彼はサガの手の甲にキスをした。彼らの親子関係をまったく知らない者が見たら、その挙動は間違いなく歳の離れた同性の恋人同士だと勘違いするだろう。それほどにラツィエル卿のサガに対する愛情表現は深かった。サガもまた養父の頰に挨拶のキスをしてその優しさに応える。いつもと変わらない穏やかな夜。養父の部屋を出たサガは、ふとズボンのポケットに触れて”それ“の存在を確かめると、月明かりに照らされた屋敷の廊下を私室へ向かって歩き出した。

 

 

寝静まった屋敷の窓に一箇所だけポツンとオレンジ色の灯りがともる。愛用の机に向かい、ランプの明かりの中でサガはポケットから手紙を出してゆっくり広げた。何の柄もない質素な白い紙。そこには、いつもとほとんど変わらない内容が書かれていた。

 

 

親愛なるサガへ

 

いつも元気な姿を遠くから見て安心している

僕は君ともう一度話がしたい

今度の水曜日、学校帰りに中央公園まで来て欲しい

杖を拾ったところで待っている

 

アイオロスより

 

 

「そんなこと…… できるわけないじゃないか…… 」

 

サガは独り言を言うと、手紙を折り目通りにゆっくりとたたんだ。相手の意図は大体わかっている。幼少期からずっとそうだ…… サガの容姿はずば抜けて優れていて、彼に出会った者は大抵顔を赤らめてうつむくか、我こそはと強引に近づいてくるかどちらかだ。それは異性だけに限らず、いや、どちらかと言えば女性的な美しさを持つサガには同性からの引き合いがとても多かった。相手が男性になるとやり方もかなり強引だ。力づくで事に及ぼうとする輩もざらにあった。サガは今まで何とかその危機を切り抜けてきたが、今回のこの相手はその中でも相当しつこい方だ。

 

「あの時たまたま会っただけで、ここまでやるとは思わなかった。この屋敷を突き止めただけでなく、いつのまにか私の名前まで調べてこうして何度も手紙を置いていくとは…… 」

 

アイオロスに初めて出会ったのは、今からひと月ほど前のことである。ラツィエル卿は体調が良い時は車椅子を使わず杖を使って歩くことがあった。その日、具合の良かった彼はサガと連れ立って公園の中を散策していた。“サクラ”という名前の東洋の花が咲き乱れるこの時期、園内は花見の人々で賑わっている。淡い水色の空を背景に、薄紅色の花弁が風に乗って散る様は何とも美しく幻想的だ。その時、養父の手から杖が離れた。

 

「あ、大丈夫ですか?」

 

サガよりも早く杖が拾われ、言葉と同時にそれは目の前に差し出された。相手はサガと同じくらいの年頃だが、彼とは正反対に身体つきが逞しく、顔つきも凛々しかった。金色の巻き毛がどことなく古代ギリシャの大理石像を思わせる。ふと彼の後ろに視線を向けると、彼によく似た少年が立っていた。間違いなく二人は兄弟だろう。

 

「ありがとう。」

 

そう言ってサガは差し出された杖に触れたが、その瞬間ハッとして目の前の人物をまともに見た。彼もまた強い視線でサガを見つめていた。

 

「親切な若者だ。どうもありがとう。」

 

二人が交わした視線がどれぐらいの時間だったのかはわからない。しかし、何気なく横から杖を受け取った養父が特に気にしていない様子だったので、それはほんの一瞬だったのだろう。サガは意識的に目の前の少年から視線を逸らした。そして軽く会釈をするとすぐに兄弟の横を通り過ぎ、散策を続けた。もう二度と、この人物に会うことはないだろうとサガは思っていた。

 

しかしその翌日から、邸内の庭に手紙が置かれるようになったのだ。場所はあのガーゴイル像の足元である。最初に見つけたのは庭師だった。彼はあまり深く考えずに、ちょうど燃やしていた枯葉や切り枝の山に手紙を焚べようとしていた。

 

「おや?それはなんだい?」

 

たまたま学校から帰宅したサガはそこに出くわし、彼に問いかけた。

 

「ああ、お帰りなさいサガ様。像の所に置いてあったんですよ。メイドの置き忘れかもしれませんが、ちょうど伐採した枝を燃やしているとこだったので、一緒に焼いてしまおうと思ったとこで。」

 

「手紙みたいだな。なんでこんなところに…… 」

 

「いや、そう思ってわしも開いてみたんですが、何も書いてないただの紙切れでして。」

 

サガは綺麗に畳まれた紙片を広げた。その中を見て、サガは慌ててすぐに閉じた。

 

「これ、貰ってもいいかい?」

 

「ええ、いいですよ。何も書いてないのに?」

 

「うん。父上の落し物かもしれないから一応聞いてみるよ。」

 

サガの申し出に納得した庭師は普通に頷いた。サガはその場を笑顔で取り繕うと、急いで私室に戻った。もう一度、恐る恐るその紙片を広げてみる。そこには、普段絶対に使うことのない文字で書かれた文章が数行並んでいた。おそらく古代ギリシャ文字と思われるが、何故かサガにははっきりと内容を読み取ることが出来た。

 

 

驚かしてごめん

でも君にはこの文字が読めるはずだ

僕は君ともう一度話がしたい

今度の水曜日、学校帰りに中央公園まで来て欲しい

杖を拾ったところで待っている

 

アイオロスより

 

 

「アイオロス…… ギリシャ神話に登場する風の神の名前だ。なんて事だ…… あの日、ここまでついて来たのか?」

 

サガはあることに気づいて窓を開けた。そこから生い茂る木々の合間を縫って奇跡的にあのガーゴイル像が見えた。朝、サガは必ずこの窓を開けて庭を眺める習慣があった。雨の日でも彼は窓辺から同じように外を眺める。手紙を置けば間違いなくサガが気づくと思ったのだろう。屋敷の中にまで入って、視線の位置まで確認して手紙を置いていくなど、一目惚れの相手にしてはかなりの強者だ。しかし、この文字が庭師に見えなかったのは何故だろうか?

 

「とりあえず、父上が心配するといけない。今は黙っておこう。」

 

サガは軽くため息をつくと、机の引き出しからアンティークの小さな書類箱を取り出し、いつも通りその中へ手紙を入れた。しかしその日から、手紙はほぼ定期的に像の足元へ置かれるようになった。いつのまにか、箱の中はサガ以外の人間にとってはただの白い紙でしかない手紙でいっぱいになっていた。

 

 

この街のランドマークである中央公園を挟んで西側に位置する地域は、サガの住む閑静な住宅街と正反対に古くからの下町が広がっている。燻んだレンガ造りの住宅やアパートがひしめき、慣れている者でなければ大抵迷うと言われる細い路地があちこちで交差していた。その一角に建つアパートの窓枠で頬杖をつき、アイオロスは無気力な表情で窓の外をずっと眺めていた。

 

「あの人、全然兄さんに会う気がないみたいだね。」

 

弟アイオリアの言葉にアイオロスはフーッと深くため息を吐き、頭をポリポリと掻いた。

 

「あの紳士、まさかと思うけどやっぱりサガの恋人なのかな…… だとしたら、彼が私に会ってくれないのも分かる気がする。」

 

兄の落胆する様子を見て、アイオリアまで肩を落としてしまった。兄アイオロスは昔から心が優しく誰に対しても誠実であり、その分とてもナイーブな性格である。特に恋の痛手は彼にとって大敵で、失恋などしようものなら周囲が真剣に心配するほど落ち込みが激しいのだ。しかもアイオリアが見る限り、今回の相手……サガは、男性でありながら今まで兄が心惹かれた女性たちとはまるでレベルが違う。アイオリアですら、サガを初めて目にした時に恥ずかしくて思わず視線を逸らしてしまったくらいだ。そんな強烈な一目惚れをしてしまった相手にそっぽを向かれたのでは意気消沈するのも無理はない。

 

「それでも彼とは話さなければならない。大切な理由があるのも事実だけど、それよりも私自身が…… 」

 

「わかっているよ兄さん。でもどうする? いつまでも待っているわけにはいかないし、こうなったらもう彼の学校帰りに無理やり捕まえるしかないよ。」

 

「そうだな…… 本当は彼の意志で公園に来て欲しかったんだけどな。しかし、彼ほど美しい人を見たことがない!春の風を束ねたような青銀の艶やかな髪、若葉を滑る朝露のように澄んだ翡翠の瞳…… 」

 

まるで詩人にでもなったように言葉を綴るアイオロスの瞳は、恋に浮かれる男の眼差しそのものだ。兄は完全にあの少年の虜になっている。

 

「わかっている…… 本当はわかっているんだアイオリア。私たちに恋など無縁のものだと。でも、それでも希望を持ちたいんだ。私は……… 彼を……… 愛している……… 」

 

ドアを軽くノックする音がして、サガは教科書の文字を辿っていた視線を背後に向けた。

 

「はい。」

 

「サガ、入ってもいいかい?」

 

その声を聞いた瞬間、サガは眉間を寄せた。「いえ、ダメです」と拒否できたらどんなに楽だろう…… そう思っているうちに客人はサガの返事を待たずにドアを開けて中を覗いた。彼のすぐ後ろには、取り次ぎが間に合わずオロオロしている執事がいる。サガは客人を部屋へ招き入れた。

 

「申し訳ありませんサガ様。すぐにお声をかけたのですが…… 」

 

「いいよ、お茶の用意も部屋でできるから大丈夫。」

 

サガの気遣いに安心した様子の執事は、会釈をすると階段を降りていった。

 

「勉強中だったのかい?こりゃ邪魔したね。」

 

「アルベルトさん、お久しぶりです。いつスイスからお戻りで?」

 

「今朝早くにだよ。空港のホテルで少し休んでからここへ直行だ。」

 

彼はラツィエル卿の従弟に当たる男性だ。面影こそ養父に似ているが、見た目も性格も正反対で、よく太り豪快である。彼自身は紳士然としているつもりのようだが、目下の者へ見せる横柄な態度はそう簡単に隠せるものではなく、正直なところラツィエル卿からは敬遠されていた。近く彼は事業を始める予定で、金銭面での協力を求めて養父と連絡を取りたがっていた。スイスへ行っていたというのもおそらく銀行関係の用事だろう。そして、それとは別に彼はサガのことをとても気に入っており、彼がまだここへ引き取られた時から目をつけていて、事あるごとに彼に触れようとしていた。今も、この迷惑な客人はサガが勧めるよりも先にソファに座り、舐めるような目つきでサガの全身を眺めている。それぐらいの事にはすっかり慣れているサガは、特にうろたえることもなく、キャビネットからティーセットを取り出した。エキゾティックバードの柄が描かれたミントンの茶器で、サガのお気に入りである。

 

「父は大学の旧友との食事会で出かけています。多分、帰りは夕方くらいに…… 」

 

「ああ、いいんだよ。アルフォンスとはそのうち必ず会う事になるし、今はゆっくり君と話がしたい。」

 

「お菓子はドラジェしかありませんが、それでいいですか?」

 

「いいとも。大好物だよ。」

 

サガがティーカップに紅茶を注ぎ、それを目の前に置くと、すかさず手が伸びてきて彼の手首を捕まえた。露骨に嫌な顔をすることも出来ないので、仕方なくサガはそのまま叔父の横に座った。

 

「ありがとう。しかし…… いつ見ても君は美しい。私の娘たちは君とそれほど年齢が変わらんが、正直、少年の君の方が魅力的だ。不思議なものだな。」

 

どう答えて良いものかわからず、サガは手を撫でられるがままに任せて黙っていた。触れられている部分が熱い。叔父の脂汗に濡れた指が甲を行き来する度に、まるで辱めを受けているようで身体全体まで熱くなってくる。それもただの熱ではない。得体の知れない力の塊のようなものが内側から湧き上がってきて、感情をコントロールしていないと噴出してしまいそうになるのだ。サガの瞳に小さな光が宿った時だった。突然ドアがノックされ、執事の呼ぶ声が聞こえてきた。横でうろたえる男には目もくれず、サガはあっさりと手を放して立ち上がりドアを開けた。

 

「サガ様。今、旦那様がお帰りになりました。まだ車に乗っておられますが、こちらのお部屋へお通ししてもよろしいでしょうか。」

 

「あ、こちらから行くよ。叔父と二人でお迎えにあがりたい。よろしいでしょう?アルベルトさん。」

 

客人は困った顔のまま素直に頷いた。いい所を邪魔されて、残念そうな感情が顔いっぱいに溢れ出ている。今のサガにとって、養父の帰宅は救世主の出現に等しい。危機を脱してふと安心した瞬間、何故かサガの脳裏にアイオロスの姿が思い出された。

 

 

 

それからまもなくーーー

 

小雨に濡れる花々と緑に囲まれた墓地の一角で、喪服に身を包んだ集団が一つの棺を取り囲んでいた。サガは白いカサブランカの花束を持ち、神父の横に立って目の前に置かれた棺を黙って見つめていた。

 

二度目の心臓発作が起きた時、ラツィエル卿は主治医の余命宣告を思い出してサガをベッドの側へ呼び寄せた。人払いをして二人きりになると、ラツィエル卿は枕元に置かれた小さな金の小物入れをサガに示した。

 

「この箱の中に鍵が入っている。この屋敷の敷地内に古い祈祷室があるのを知っているね?この鍵はその建物のものだ。」

 

「はい。昔、父上に連れて行ってもらったことがあります。それきり行っていませんが、場所はわかります。」

 

ラツィエル卿は咳払いをしてから、囁くような声で話を続けた。

 

「祈祷室はもう随分前から使っていないため、今は私が研究用に収集した骨董や遺物が保管されている。その建物の最も奥の部屋に、お前のために取っておいたものがあるのだ。この家の紋章を刺繍した布がかけられているからすぐにわかるだろう……… 本心を言えばお前に見せたくない。ずっと見せないでいられたら幸せだった。しかし“あれ”はお前の手に渡るために自らここへ来たのだ…… 何人もの骨董商の手を伝ってな…… だから、必ずお前に渡さねばならない。これは神の御意志なのだ…… 」

 

サガにはまったく意味がわからない言葉だった。しかし、ラツィエル卿はサガの手をしっかり取って視線を強く合わせた。その灰色の瞳からは涙が伝っていた。

 

「サガ、これからお前にとって不思議な出来事がたくさん起こるだろう。見慣れぬ人物も大勢近づいてくるかもしれない。もしも身の危険を感じたら、祈祷室に保管されているものを使いなさい。使い方はすぐにわかるはずだ。“あれ”はお前のものなのだから。」

 

涙を流して必死に伝えようとする養父の手を、サガはずっと握りしめていた。養父が亡くなったのはそれからわずか二日後のことだった。

 

 

葬儀を済ませ、神父に挨拶をするとサガは一人墓地の小道を歩いていた。小雨は朝から降り続いていたが、それ以上の大きな天候の変化もなく式は滞りなく済み、サガはホッと一息ついた。しかし、このまま屋敷に帰っても使用人しかおらず、もうサガと同じ目線で会話をしてくれる人はいない。サガはうつむき加減でトボトボと石畳の上を歩いた。

 

「サガ、ここにいたのかい?帰る人の中にいなかったから探したよ。」

 

突然の声に振り返ると、アルベルトがニコニコしながら近づいてくる。思わず身構えたサガを気にすることなく、彼はサガのすぐ横に並んで一緒に歩き出した。

 

「ご家族は?ご一緒ではないのですか?」

 

「運転手に言って先に車で帰したよ。君のことが心配だったからね。君、一人であの屋敷にいるんじゃ寂しいだろ?」

 

何となく叔父の意図が見える気がして、サガは葬儀とは別の意味で気が滅入った。アルベルトに対しては、生前ラツィエル卿も財産分与のことでかなり揉めた相手である。今もその分け前にあまり納得していないはずだ。しかし、サガにはもう自身を守ってくれる大きな盾はない。15才とはいえ、ラツィエル卿の遺志を守るために気をしっかり持たなければ…… そうサガは自分に言い聞かせた。

 

「これは家族とも話して意見が一致したことなんだが……」

 

叔父が珍しく真剣な口ぶりで話し始めたので、サガはすぐに彼の顔を見た。

 

「君をうちへ引き取ろうと思っているんだ。あ、いや、その逆かな。あの屋敷に我々家族が合流して、君が私たち家族の養子となる。ややこしい話だが、一族であの屋敷ほど大きな家はないからね。君は大人びているが、まだ15才の学生さんだ。私たち夫婦が君の正式な両親となってあの家に住めば、世間体も安泰じゃないか。もっとも、君が引き継いている財産は君のものだから安心していい。私たち家族はアルフォンスから相当の金額を貰っているからそこに不満はないよ。」

 

語尾の口調が確実に空回りしていた。サガを養子にするという点も、この先の金回りを色々見据えてのことだと手に取るようにわかる。そして…… その計画に対してサガが絶対に口出し出来ない状況を作ることも。密室になった場所で彼がどういう行動に出るのか、それがわからないほどサガは子供ではない。

 

「どうかな?後は君の返事次第なんだが…… 」

 

終始俯いて無言を貫くサガに苛立ちを覚えたのか、アルベルトは突然サガの腕を強く掴んだ。

 

「………何をするんです?離してください!」

 

「大事なことを聞いているんだよ。返事くらいしてくれたっていいじゃないか。」

 

叔父は腕を掴んだままグッとサガを引き寄せた。その目にはギラギラした欲望しか写っていない。邪魔だった従兄のアルフォンスがいなくなったことで、彼は確実にその本性を表していた。

 

「やめてください!…… こんな神聖な場所で……… 」

 

「一言、君が返事をすればいい話じゃないか!もう今までのように逃がしたりはせんぞ!」

 

その言葉を聞いて、サガの瞳に金色の光が宿った。その煌めきに驚いたアルベルトは一瞬掴む手を緩めたが、完全に放す気はないらしい。サガの眉間に深く溝が刻まれ、その切れ長の美しい目尻は獰猛な野獣のように吊り上がった。サガが次の行動に出ようとした瞬間、真横の茂みから突然手のひらが飛び出してきてアルベルトの手首を掴んだ。

 

「ひいいいいっ………!!おいっ、誰だ!?」

 

掴んだ手をそのままにして、茂みからゆっくりと本人が姿を表した。この国の日差しによるものではない、鮮やかな太陽の光を一身に浴びて焼けた小麦色の肌。その精悍な顔がアルベルトを睨みつけていた。

 

「貴方こそ、私の友人に何をしてるんです?」

 

アイオロスは掴んだ手首にさらに力を込めたので、アルベルトは痛さに呻いた。

 

「わ、悪かったよ…… つい乱暴なことをしようとしてしまって…… すまなかった。」

 

男の発する弱々しい声に、アイオロスは黙ってパッと手を放した。その隙にアルベルトは二人を残して逃げるようにその場を離れた。男が再びこちらを見ないかどうか確認するように、アイオロスはその背中を見つめ続けている。墓地は再び静けさを取り戻した。

 

「あ…… ありがとう、アイオロス。」

 

息を詰めたようなサガの声にアイオロスはすぐ彼の方へ顔を向けた。

 

「大丈夫かい?危ないところだったね…… まったく貴族とは思えない行為だよ。」

 

そう言いながらアイオロスは再びアルベルトが逃げていった方向を睨みつけた。ふと、サガはアイオロスの格好が黒いスーツ姿であることと、手に白い薔薇の花束を持っていることに気づいた。

 

「アイオロス、君も誰かのお墓参りに来たのかい?」

 

「え?あ、ああ、これはラツィエル卿に。私は部外者だから式に参加することは出来ないけど、お花なら供えても大丈夫かなって。」

 

「そうなんだ……… よくわかったね。この場所のこととか…… 」

 

「一昨日の夕刊で知ったんだ。ラツィエル卿ほどの身分になると記事になるからさ。あの日、あの方が杖を落としたおかげで私は君と接点を持つことができた。だから…… 」

 

先程までの鋭い視線は、サガの方へ向いた途端に年相応の少年らしい瞳に変わった。憧れの人を前にして、アイオロスの頰は少し紅くなっている。お花、いいかな?…… そう言いたそうに花束で顔を隠すようにして見せた。緊迫していた空気が彼の出現でサッと晴れたように明るくなる。サガが今まで経験したことがない不思議な感覚だった。

 

「ありがとう…… 父上もきっと喜ぶと思う。案内するよ。」

 

サガの笑顔を見て、アイオロスもニッコリと笑った。

 

「サガ、良かったら今から私のアパートに来ないかい?少しでも君と話がしたいんだ。」

 

墓標に花を手向けた後、アイオロスはサガに尋ねた。今までアイオロスとは秘密の手紙でのやり取りしかしてこなかった。いや、やり取りと言ってもそれはアイオロスが一方的に送っていただけで、サガからは一度もアクションを起こしていない。今日、喪服まで身につけてここまで来てくれたアイオロスに対して、サガは初めて今までの自身の態度や彼に対する誤解を申し訳なく思った。そのため、アイオロスの申し出にサガは二つ返事でOKした。

 

二人はタクシーに乗り、アイオロスの住むアパートがある街の入り口まで来た。路地が入り組んでいるため車が入れず、彼らは降りた場所から歩いてアパートを目指した。道を行くごとに様々な人たちがアイオロスに声をかけていく。老人たちも乳飲み子を抱えた若い婦人も、みんな心からの笑顔で彼に挨拶したり話しかけたりしている。貴族社会独特の緊張感に常に取り巻かれたサガにとって、この屈託のない人々の様子はとても新鮮に映った。アイボリーの煉瓦壁のアパートに着くと、二人は狭い玄関から階段を上がり、二階にあるアイオロスの部屋へ入った。

 

「さあどうぞ。見ての通り小さな部屋だけど、私は結構気に入っているんだ。」

 

小綺麗に片付いているせいか、部屋の中はそれほど狭く感じなかった。アイオロスは背広を脱ぎ、サガの分も受け取ると壁のハンガーにかけた。歩くたびに軋む音を立てる床には、ミルフルール柄の緋色のカーペットが敷かれ、窓辺に小さな丸いテーブルと椅子が向かい合わせに置いてある。それを見て、サガはあることを思い出した。

 

「アイオロス、君には確か弟がいたね。今日は家にいないのかい?」

 

「よく覚えてたね!彼はここにはもういないんだ。先に故郷に帰ったんだよ。」

 

「故郷………?」

 

「まあ、後でゆっくり話そう。お茶はダージリンしかないけど、それでいい?あと、お菓子は向かいの部屋のお婆さんが焼いてくれたクッキー。親切な人でさ、いつもパンとかお菓子とか手料理を分けてくれるんだ。」

 

ほら、とお皿の上にかかっていたナプキンを取り、アイオロスは山盛りのクッキーをサガに見せた。一人で食べるのには明らかに多すぎる量に二人は笑った。

 

「すごく美味しそうだよ。ありがとう。」

 

縁に金とグリーンのラインが入った質素な陶器のカップとソーサー、ポットをテーブルに持ってくると、アイオロスはサガの前で紅茶を入れ始めた。作法など細かいことは一切気にしない、とても若者らしい淹れ方で、その素朴な様子がサガにはとても好ましく感じられた。8才になるまで過ごした孤児院でも、お茶の時間になるとシスターが子供たちに囲まれながらこうして楽しげに紅茶やジュースを用意してくれた。アイオロスに会うことで、サガは忘れかけていた様々な感覚を取り戻していく気がしていた。

 

「私たち兄弟はギリシャの片田舎で生まれたんだ。父が鍛冶屋をやっていてね。自宅が工房だったからいつも家に弟子の大人たちが大勢いてとても賑やかだった。母も使用人全員を自分の子供や兄弟のように愛していて、もう丸ごと大家族っていう感じだったな。」

 

普通ならば、今までサガに渡し続けていた手紙の話をするべきなのかもしれない。しかし、アイオロスは少しでもサガに自分自身を知ってもらうために、あえて本題には入らず自己紹介を続けた。

 

「母が私を身ごもっていた時、馬小屋の掃除中に産気付いて藁の上でそのまま私を生んだんだよ。父親が鍛冶屋だし、そのシチュエーションで母親が出産なんて、想像できる人物といったら“あの方”しかないだろう?」

 

「そうだね!確かに。随分と騒ぎになっただろう?」

 

「もう村中で大騒ぎさ。“神の思し召しだ”って。でも、その後は賢者が挨拶に来るわけでもないし、育った子はこんな感じで極めつけの腕白だったから、あの時の話は村の笑い話になっているよ。」

 

もっとも、“馬”には関係あるかもしれないな…… とアイオロスは紅茶を飲みながら小さく呟いた。一通り自己紹介が終わると、アイオロスはすっかりこの空気に馴染んできたサガの方へ話を振った。アイオロスは話し方が楽しい上に聞き上手でもあった。サガの聞いて欲しいこと、知りたいことをさりげなく言葉に出し、彼の意見に心から同意し、気持ちの良いタイミングで相槌を打つ。サガの通う学校には確かに友人もたくさんいたが、皆どこか貴族然としていて心から打ち解けているとは言い難かった。それに比べて、今日初めて会話をしたにも関わらず、アイオロスはすっかりサガの心に溶け込み、短時間で無二の親友と呼んでも良いほどの存在になっていた。

 

外灯がポツポツと輝き始めた頃、アイオロスは慌てて時計を見た。

 

「いけない、こんなに時間が経っていた。屋敷の者たちが心配するといけないな。送っていくよ。」

 

「大丈夫だよ。さっきタクシーを降りた通りで車を拾って帰るから。今日はとても楽しかった。それに……… 本当にありがとう。」

 

アイオロスはエヘヘと照れながら頭を掻いた。しかし、目の前に立つ想い人の瞳に一抹の不安が過ったのを察して、すぐに声を掛けた。

 

「何かあったら遠慮なく知らせてよ。この部屋、ちゃんと電話も引いてあるんだ。番号を書いたメモを渡すからちょっと待ってて。」

 

アイオロスはキョロキョロ部屋を見回してから急いでキャビネットの引き出しを開け、見慣れた白い紙を取り出した。サガに渡す手紙に使っていた紙と同じものだった。ボールペンでサラサラと番号を書くと、いつものように折りたたんでサガに差し出した。サガはそれを受け取り、お礼を言う代わりに伏せ目がちだった視線をクッと上げてアイオロスを見た。

 

「アイオロス……… 君に頼みがある。一緒に“ある物”を見て欲しいんだ。父上から授かった物なんだけど、私にはそれが何なのかどうもよく分からないんだ。でも、今日君と話をしていて感じるものがあった。なぜか、君ならあの物の正体が分かる気がするんだよ。」

 

「物?お父上の形見だね。いいよ、もちろん!一緒に見るよ。どうしたらいい?」

 

アイオロスの元気な返事に、サガの表情はパッと明るくなった。これほどアイオロスに心を許してしまう自分自身が信じられない。

 

「家の者が寝静まった頃がいいな…… 大変だけど10時くらいにもう一度会えるかい?」

 

「行く行く!必ず屋敷に伺うよ。もう何度も行ってるから簡単な事さ。」

 

「じゃあ、門のところで待ってる。見せたい物は屋敷の中ではなく、敷地内にある小さな建物に置かれているんだ。そこの鍵を持ってるから…… 」

 

「オッケー! わあ、また君に会えるなんて嬉しいな。ウキウキしちゃうよ!」

 

子供のようにアイオロスははしゃいだ。が、すぐに彼は口をつぐんで静かになった。サガの瞳から涙が溢れていたのだ。養父の葬儀でも出なかった涙が幾筋も頰を伝っている。アイオロスはゆっくりと逞しい腕でサガの震える身体を包み込み、優しく抱きしめた。

 

その日の夜、サガは約束通り門前でアイオロスの到着を待っていた。月はなく、家影と空の区別が難しいほど辺りは黒一色で塗りつぶされたように真っ暗だ。もともと人通りが少ない閑静な地域だが、今夜はどこか不気味な静けさをたたえている。時折、庭の木々が風に揺れてサラサラと音を立ててサガをどきりとさせた。待ち合わせの時間になった時、闇の向こうから微かな足音が聞こえてきた。

 

「アイオロス、ちゃんと来てくれたんだ…… 」

 

門を静かに開き、彼を迎え出ようと身体を外に出した時だった。

 

「…………… アイオロス?」

 

サガの前には確かに人影が立っている。だが、その背の高さはアイオロスとは比べ物にならないほど大きい。出で立ちも異様だ。漆黒のローブで頭から足元まで身体を覆い、明らかに顔を見られないようにフードを深く被っている。しかも一人ではなかった。中央に立つ人物の後ろにもう二人いることに気づき、サガは外へ乗り出した身を急いで引っ込めた。今まで感じたことのない恐怖に呼吸が乱れる。人影を凝視しながら門を閉めて屋敷の方へ走り出すと、謎の人物たちはあっという間に中に入ってきて、背後からサガをいとも簡単に捕えて宙へ持ち上げた。

 

「だ、誰だ………!!?」

 

首を後ろから強く掴まれてうまく声が出ない。足が地に着いておらず、身体に力が入らない。三人の男たちの下卑だ忍笑いが聞こえてくる。

 

「なんてことだ…… コイツ、思ったより全然覚醒していないな。最高位の聖闘士をこんな簡単に捕獲できると思わなかったぞ。」

 

「どうする?このまま殺すより、生きたまま王に差し出すか?」

 

「それもいいけどさあ…… コイツ、すごい美形だぜ?故郷にこんな顔したヤツ、女でもいねえじゃん。ちょっと遊んでから連れてっても別に問題ねえだろ?」

 

王?……… 王だって?何を言っているんだ??

 

真意は分からないが、この巨体の男たちがこれから自分を辱め、誘拐しようとしていることは明白だ。もがいてみせたが捕まえている腕はビクともしない。サガが抵抗するほど男たちは笑った。サガを捕らえている男とは別の者が、サガの衣服に手をかけて破ろうとした。

 

アイオロス!……… 助けてアイオロス!!

 

その名前を心の中で叫んだ瞬間、サガの身体から突然黄金の輝かしい光が迸った。目を射る凄まじい光に、三人の男たちは驚いてサガを芝生の上に放り投げ、すぐに身構えた。地上に降りたサガの全身はまさに黄金の炎に包まれているようで、その光の渦は長く美しい髪を巻き込んで空へ向かって立ち昇っている。噴出する光の粉は小さな火種となって庭園の木々の上に降り注いだ。

 

「この野郎!!今、覚醒しやがったのか!!?」

 

「おいっ!このままじゃマズいぞ!!すぐに殺さないと…… 」

 

庭園が燃え始めていた。このままでは屋敷まで炎に包まれてしまうだろう。事態は切迫していたが、サガは全く気づいていないようだった。その瞳は金色に輝き、怒りに満ちた表情で三人の侵略者を睨みつけてる。身体の中心に力が集まり、そこから一気に爆発する幻想を見る。サガが両手を広げ、まさにその力が四方八方へ飛び散ろうとしていた。

 

「サガ!!ダメだ!!それ以上、小宇宙を溜めてはいけない!!!」

 

その声にハッと我に返ったサガは、辺りを見回した。その動きに連動して黄金色に燃え上がっていた炎が一気に鎮まる。火の粉を受けて燃え始めていた木々は、声の主が素早く放った無数の風弾ですべて消し止められていた。

 

「アイオロス………! い、今、私は何を…… 」

 

「君にはまだ無理だ。この者たちは私が倒す!」

 

アイオロスはサガを守るように立ちはだかり、人差し指を天に向けて叫んだ。

 

「ここへ来て私の体を覆え!我が聖衣よ!!」

 

アイオロスの声が空に響き渡ると同時に、その頭上には太陽のような光を放つ黄金の馬が現れた。いや、よく見ればそれはただの馬ではない。上半身が人間の形をした有翼の人馬神だ。長い光のマントをなびかせ、太い幹のように逞しい腕で矢をつがえている。光の中にその形そっくりの黄金像が見えたかと思うと、それは大きな金属音を立ててバラバラになり、アイオロスの全身を覆う甲冑となった。夢のような光景に、サガはただ驚きで目を見開くばかりである。黄金の騎士となったアイオロスは三人の男たちに容赦なく光弾を放ち、彼らの身体を一瞬にして貫いた。悲鳴をあげる間もなく、男たちの身体は光に飲まれて完全に消えていった。これだけの騒ぎになっているのに、周囲の者たちはまったく気づいていないようで、屋敷は寝静まったままである。アイオロスは黄金の騎士の姿をしたままだったが、身体から発していた光はすでに鎮まっていた。

 

「君と会って話をしたその日にもう嗅ぎつけてくるとは…… 間に合って良かった。」

 

サガは腰が抜けたように芝生に座り込んだまま、アイオロスを見上げていた。言葉がうまく出てこない。不思議な光景を見すぎて呆然としているサガに気づき、アイオロスはすぐに膝をついて彼に話しかけた。

 

「大丈夫かい? 周囲に小宇宙のベールをかけたから、普通の人間に音はまったく届いていないよ。火も消したし、安心して。」

 

「あ、あ、あれは何だったんだい?? なぜ私を捕まえようと…… 」

 

サガの質問は最もである。アイオロスは真剣な眼差しで答えた。

 

「彼らは冥界の雑兵だ。冥王に仕える一番位の低い戦士だよ。君がまだ覚醒していないことを知って、聖闘士になる前に始末しようとここへ来たんだ。」

 

「聖闘士……… 」

 

サガは信じられない様子でアイオロスの顔をじっと見つめ、それから自身の手のひらを確かめるように眺めた。自ら発した強烈な光の放出を思い出し、何とか今の状況を把握しようと必死になっている。アイオロスにはサガの困惑が痛いほどよく分かったので、彼が落ち着くまでその肩を優しく撫でてなだめた。

 

しばらくして、サガは見つめていた手をグッと握りしめ、側にいるアイオロスに言った。

 

「アイオロス、案内するよ。君に見せたかった物のところに。」

 

目の前の祈祷室はすでに異変を起こしていた。閉じられた扉や窓の隙間から強い光が漏れているのがはっきり分かる。サガはポケットから古い鍵を取り出し、祈祷室の扉をゆっくり開けた。溢れ出る光の洪水に目が慣れるのを待ち、二人は中へ入った。この不思議な光景を作り出している原因は、最も奥の部屋に置かれている“あの物体”だった。

 

「これだよ。父上が私に遺してくれた物…… 」

 

そう言ってサガは光り輝く物を覆っている布に手をかけた。布にはラツィエル家の紋章……天馬と一角獣が相対する中央で、4対の羽根を背負う天使が書物と羽根ペンを持っている絵柄……が入っている。覆いの下には黄金の箱が置かれていた。その箱を見た途端、サガよりも先にアイオロスが喜びの声を発した。

 

「ああ…… 良かった!ラツィエル卿は君の守護者に最も相応しい人物だった。サガ、間違いなくこれは君の物だよ。君の命を守る物、君が何者かを証明する大切な物がこの中に入っているんだ。」

 

「それって、ひょっとして今、君が身につけているのと同じ物かい?」

 

「うん!これは“聖衣”と呼ばれる特殊な甲冑なんだ。厳密に言うと私が着てるのとは形が違うけど、役割はまったく一緒だ。これは君しか……いや、この星座の戦士としての宿命を背負った者しか身につけることができない。私は射手座の黄金聖闘士。君の星座は双子座だろう?」

 

まだ一度も誕生日を明かしていない相手に星座を言い当てられてサガは驚いた。アイオロスは種明かしのつもりで箱に描かれている双子のレリーフを指差した。

 

「ああ、本当だ…… 双子座の……… 聖衣……… 」

 

覆いを外されてから、箱は自らコトコトと音を立てて揺れている。そして、まるでアイオロスの甲冑と会話でもしているように不思議な金属の音色を奏でていた。

 

「父上からこの箱の存在を知らされた時、私は一度だけ確認に来たんだ。その時はこの箱は暗い部屋の中で埃を被っていて、何の反応もしなかった。押してもすごく重くてビクともしなかったんだ。」

 

「今の君は完全に覚醒している。それでこの聖衣も目覚めたんだ。持ってみるとビックリするよ。小宇宙が覚醒した状態で背負うとまるで羽毛みたいに軽いんだ。」

 

アイオロスは一息ついた後、サガの目を真っ直ぐ見て言葉を続けた。

 

「サガ、君の正体は女神アテナに仕える聖闘士なんだ。しかも私と同じ最高位の黄金聖闘士だよ。女神アテナはこの地上の愛と平和を守る神で、その神域はギリシャに存在する。普通の人間には到底入ってこれない危険な山岳地帯の一箇所にあって、そこは聖域と呼ばれているんだ。一緒に来ていた弟アイオリアも、今はその地へ帰っている。彼も私たちと同じ黄金聖闘士だよ。」

 

「ギリシャ…… だから君が何度もくれた手紙も古代ギリシャ文字だったのか。私は一度も習ったことがないのにすぐ読めたのも、この宿命のせいなのか?」

 

「うん、そうだよ。しかもただの古代文字じゃない。あれは聖域で使われる秘文字で、古代文字をさらに変形させたものだ。聖闘士として生きる者は全員普通に読むことが出来るんだ。」

 

「私はつい昨日まで何も知らないただの人間だった。父上の形見がこんな運命を背負っていたなんて……… 」

 

サガの困惑はもっともだった。朝、普通にベッドで目覚め、日中は学校へ行き、夜の静かなひとときを家族と過ごす…… 15才の少年にとっては当たり前の日常だ。それがある日突然、自分が神に仕える戦士だの、摩訶不思議な力が身体から溢れるだの、得体の知れない敵にいきなり襲われるだの…… 頭の中が混乱して当然である。かつてアイオロスとアイオリア兄弟もそうだった。彼らを迎えに来たのは天秤座の童虎で、この現実とは思えない事態を両親に理解してもらうのに丸10日を要した。結局、両親は自分の息子たちを十字軍に出すつもりで涙ながらに理解し、兄弟は聖域へ旅立った。恐らくこれが永遠の別れになるだろうとも知らずに…… どんな形であっても、例えそれが単なる日常との決別であったとしても、突然の別れというものは受け入れ難いものである。しかし、サガには1日でも早く黄金聖闘士としての戦闘力を身につけ、その宿命を受け入れてもらわなければならない。辛い役割であったが、アイオロスは真実を誠実に伝えようと懸命だった。

 

「RAZIELとは、至高の神秘と秘密の領域を守る天使の名だ。女神アテナの戦士である君を育てる最も相応しい人物として、アルフォンス・ラツィエルは神に選ばれた。この聖衣が手元に来た時、お父上は、君が“特別な人間”であることを何らかの形で悟ったのだろう。それが夢によるお告げだったのか、古文書を通して知ったのかは分からない。だが、彼はその役割を完璧に果たした。守護天使の宿命を持ったラツィエル卿にとって、君はまさに“神秘の存在”だったんだよ。」

 

養父が亡くなる直前、手を強く握って涙を流していた様子をサガは思い出した。この屋敷に引き取られたその日から、彼はサガに深い愛情を注ぎ、知識と教養を与え、健やかな成長を守ってくれた。それゆえに、真実を知りながらも彼はそのことを隠そうとしていた。サガを危険な目に合わせたくないという思いから、この驚くべき事実を伝えることができず、何とかして愛し子に普通の人間としての一生を送らせようと思ったのだろう。しかし、神がサガに与えた宿命がそれを許さず、彼の死の間際に真実を告白させたのだ。

 

「女神アテナは200年に一度、地上代行者が交代する。まもなく先代のアテナが天界へ向かわれ、新しく女神となられる赤子が聖域のアテナ神殿に降臨される予定だ。本来なら祝賀ムードに溢れるところだが、実は聖闘士にとって女神が13歳の誕生日を迎えるまでが最も危険な時期なんだ。彼女はその年になるまで女神としての力が不十分で、その間に他の神国から聖域は狙われやすくなる。その筆頭が、さっき君を襲った三人だ。」

 

アイオロスは苦々しげな顔をしたまま言葉を続けた。

 

「闇と死を支配する冥府の王は、女神アテナと聖域にとって最大の敵。彼らは脅威となる黄金聖闘士を一人でも減らしたくて、まだ覚醒していない君の存在を突き止めて襲ってきたんだよ。私はシオン教皇から、ただ一人聖域に来ていない君のことを知らされて、この地まで迎えに来た。偶然とはいえ、先に君と出会っていて本当に良かったと思っている。」

 

一連のアイオロスの説明を聞き、サガは箱の前で膝を抱えて座り込んだ。自身に与えられた宿命、そこにはどんな過酷な闘いが待っているのか…… 高揚していた気持ちが落ち着くにつれて、先ほどよりもさらに未知の不安が増長していく。アイオロスも同じように床に座り込み、二人は並んでしばらく箱を眺めていた。サガの悩める心に呼応したのか、箱はすっかりその光を鎮め、今はともし火のような静けさをたたえている。

 

長い沈黙を破ったのはサガの方だった。

 

「アイオロス…… さっき君は“小宇宙”って言ってたね。小宇宙って、この身体から出た光のことかい?」

 

「そうだ。我々聖闘士の力の根源だよ。それをコントロールすると、人間とは思えないすごいことが出来るようになるんだ。驚くほど硬いものを砕いたり、鳥のように高く飛び上がれたり、風のように早く走れたり。」

 

「残念ながら私は全然コントロールできていない。庭園の木々を燃やしてしまったことすら気づかないくらいに…… こんなふうなのに、君のように闘うことが出来るのかな?」

 

「出来るさ!君は黄金聖闘士だもの!私が小宇宙の使い方を教えてあげる。君はきっと物凄く強い戦士になるよ。発している小宇宙の量が凄かったからね。コントロールさえ出来るようになれば、君はこの聖衣をちゃんと身につけることが出来るんだ。」

 

アイオロスはパッと明るい顔で答えた。戸惑いながらも、明らかにサガはこの事実を真っ直ぐな気持ちで受け入れようとしている。普通の人間ならば恐れおののいて逃げ出しそうになる宿命に対して、サガは前向きに生きようとする意志を見せているのだ。その事がアイオロスは嬉しくてたまらなかった。聖衣箱ですら、サガの心に呼応して、再び鮮やかな光を発し始めている。

 

「私は君と共闘して敵を迎え撃ちたい。女神アテナが完全覚醒する日まで、私は君と一緒に聖域を守り抜きたい。サガ、一緒に行こう。女神アテナの聖域へ!」

 

アイオロスはサガの手に自身の手を重ねた。不安で一杯だったサガの心にアイオロスの温かく優しい心が流れ込んでくる。まるで乾いた土に染み込んでいく涼雨のように深く。これもきっと彼の言う“小宇宙”なのだろう。小宇宙が大きいほど聖闘士は相手を癒すことが出来る。怯むことなく大きな敵と闘うことが出来る……

 

サガの表情が次第に生き生きとしてきたのを見て、アイオロスはもう一つの“ある真実”をサガに告げた。

 

「サガ。君の弟カノンも聖域に来ているよ。」

 

「ええっ!!?」

 

思いがけない告白だった。カノン…… その名前をいつから声に出していなかっただろう?養父の生前中、どれだけ捜索しても彼の居処を掴むことができなかった。まさかその弟が、これからサガの向かおうとする地にすでに着いているとは!

 

「彼は実に複雑な人生を送っていた。彼を養子にしたご両親は、引き取った後、仕事の関係ですぐに出国していた。その後も国を点々としていて、そのうち彼だけ失踪してしまったんだ。彼は昔からだいぶ気が強かったみたいだね。13才頃、ご両親との諍いを理由に家出してしまったんだよ。ただ、彼がラッキーだったのは、その後すぐに聖域が発見して保護したことだ。もちろん双子座の黄金聖闘士で、君と同じ聖衣を持ち、戦士として目覚しい成長を遂げている。君を迎えに行く時、カノンはすごく着いて来たがったけど、再会の喜びで興奮しすぎて何をするかわからないからシオン教皇が彼を止めたくらいなんだ。」

 

その時のカノンの膨れっ面を思い出し、アイオロスは笑った。カノンが生きている。元気な姿で、しかも同じ戦士として会うことができる!

 

「連れてってくれアイオロス。私を聖域へ!最愛の弟の元へ、私は最愛の友と一緒に行きたい。 アイオロス、私は君と一緒ならどこまでも行くよ。」

 

二人は笑顔で両手をしっかりと握り合った。

 

その後、サガは有能な弁護士を通して、ラツィエル卿から受け継いだ全財産を一族と使用人たちへ分配する手続きを行った。アイオロスと共にこれから聖域へ赴き、神の戦士となるサガにとって財産は全く必要のない物である。養父自身も生前行っていたが、養子であったサガの取り分があまりにも莫大な資産だったため、一族全員が納得出来るよう配分するために第三者である弁護士たちの存在は不可欠だった。金銭のやりくりに困っていた叔父アルベルトにも、思いがけない莫大な財産が舞い込むこととなった。降って湧いたこの幸運に対して、アルベルトは有頂天になるどころか、意外にもサガに対する今までの自らの行為を心から恥じ、サガへ謝罪するために屋敷を訪れた。

 

「サガ…… 弁護士から全部説明を受けたよ。何処へ行ってしまうのか教えてもらえないそうだけど、君には今まで本当に申し訳ないことをしてしまった。どうか許してほしい。」

 

「もうすべて終わったことです。どうか父上の遺した物を大切になさって下さい。」

 

「ああ、するとも…… 金銭のことだけじゃない。今回、これほど素晴らしいコレクションをアルフォンスが集めていたことを初めて知ったよ。ルーヴルやエルミタージュ、大英博物館にあってもおかしくないレベルのものばかりだ。私としても、予定していた事業の内容も少し変えようと思っている。受け継いだ物を大勢の人たちに見てもらえるような施設を作ろうと思っているんだ。」

 

叔父の目は今までの野望にギラついたものとは全く変わっていた。サガの放つ小宇宙の力で心が洗われてしまったようで、まるで別人のようである。謝罪後も、アルベルトは二度と以前のような横柄な態度に戻ることはなく、サガが出国する直前まで色々な事後処理を手伝った。彼もまた、アルフォンスと同じ“RAZIEL”の名に恥じない立派な紳士だったのである。

 

 

 

そして、旅立ちの日がやってきた。朝靄の中、中央公園の噴水の前でサガとアイオロスは合流した。二人とも黄金の聖衣箱を背負っている。

 

「サガ、よく似合っているよ!箱がすごく軽く感じるだろう?」

 

「ああ、君が言った通りだ。これなら旅をしても全然大丈夫だよ。」

 

アイオロスは手にしていたバスケットをサガに見せた。

 

「これ、アパートを出る時に向かいのお婆さんから貰ったんだ。部屋を引き払うと言ったらすごく残念がられて、餞別代わりにサンドイッチを作ってくれたよ。一緒に食べよう。」

 

「ありがとう。一緒に旅をする相手が君で、私はとても嬉しいよ!」

 

彼らには過酷な運命が待っている。しかし今の二人の心には恐怖や悲しみが一切なかった。ギリシャまではずっと地続きだったので、二人は可能な場所まで列車で行き、やがて険しい山脈地帯に入ると彼らは協力し合って山道を進んだ。巨大な岩場や深い谷など、熟練の登山家でも危険な道ばかりだったが、この旅路はサガにとって聖闘士としての小宇宙を鍛える目的も兼ねていた。アイオロスに小宇宙のコントロールを学び始めると、優れた素質を持つサガは日に日にその力を自在に操れるようになった。アイオロスと同じように数百メートルもある谷を飛び越え、巨石を一飛びで上がり、誤って身体に負った傷も小宇宙を高めることですぐに治癒させることができた。夜、深い森の中で休む時は、二人で小宇宙のテントを張り、寄り添い合って無数に輝く素晴らしい星屑を眺めた。二人に気づかない様子ですぐ横を巨大なクマやシカが通り過ぎていく時、初めて見るその雄大な姿にサガはとても感動した。

 

そして…… 旅路の途中、二人の間には、聖闘士としての運命を共にすることとは別の感情が生まれ始めていた。数日前までは何気なかった触れ合いが、今は二人の視線を迷わせる原因になっていた。暖を取りながら横になる時、 互いの顔を間近に見ながら目覚め挨拶を交わす時、互いの手を取り合って切り立った崖を登る時。清流での水浴びや秘境に湧く温泉に浸かる時は、互いを意識して身を隠すようにした。特に、元からサガへ好意のあったアイオロスは、彼を不安にさせまいと一生懸命気を使っていた。その様子がよりいっそうサガの心を疼かせた。二人とも言葉には出さなかったが、心の中ではっきりと確信していた。

 

自分たちは、きっと、恋人同士になるであろうと……

 

 

 

「サガ、掴まって。」

 

アイオロスはすぐ下の岩にいるサガに手を差し伸べた。サガは笑顔で厚く頼もしい手のひらを取る。グッと力をこめて垂直の岩壁を蹴り、二人は頂上にたどり着いた。サガの目の前には、今までの風景とは明らかに違う山々がそびえたっていた。まるでその向こう側にあるものを守るように、それらの山は城壁のように同じ高さで横へ連なり、雲間から差し込む太陽の光を浴びて山肌は黄金色に輝いている。サガは身を乗り出してその光景を眺めた。

 

「あれだよ。あの地こそ、私たちが生きるべき場所。私たちが還る場所だ。」

 

アイオロスの指差す彼方をサガは凝視した。聖闘士である者にしか見えない、神秘の聖域。最も高い位置にある女神像とスターヒルが、光のカーテンに包まれて白く輝いている。サガの目に薄っすらと涙が浮かんだ。

 

かつてこの光景を見たことがある……

あの日、中央公園の噴水の前で、養父が落とした杖をアイオロスが拾ってくれた。その杖を通して、私はこの幻影を見ていた。黄金の光に包まれた白い巨大な女神像を。そして、その下に連なる白い階段といくつもの神殿を……

 

「さあ、もう少しだ!カノンも、シオン教皇も、仲間たちみんな待っているよ!」

 

アイオロスの掛け声にサガはしっかりと頷き、光り輝く地への一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 

 
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