タニグチリウイチの出没!
TINAMIX
タニグチリウイチの出没!

ホビー、クラフト、アート

写真5
チョコエッグの次に来るのはアニマルクラフトかも。切り抜いて張り合わせればどんな動物だって出来てしまうペーパークラフトを販売中のブース。ということはやっぱりホビー? オリジナルだからやっぱりアート?。

意識という部分ではガレージキットよりも大道芸よりもゲームよりも“アート”寄りな人たちが集まるのが年に2回、東京ビッグサイトで開催される「デザインフェスタ」。とはいえ中に入ると目に入るのは似顔絵にファッションにアクセサリーに絵はがきにTシャツの出店といった具合で、雰囲気だけなら代々木公園あたりに出ている路上販売かフリーマーケットに近いものがある。それでもよくよく見ると中古品とかはなくほとんどがオリジナルの作品で、アーティストにしてもデザイナーにしても画家にしてもミュージシャンにしても、それぞれがそれなりに自分を表現しようと集まっていることが分かる。その意味ではホビーでもクラフトでもなく”アート”として、作品を並べているんだと言えるだろう。

なかに書道の人がいてちょっと大きめの文句の下に詩が書いてあっていわゆる路上詩人なんかと一緒かな、なんて近づいたらさにあらず。金敷駸房とかゆーその書家さんは毎日書道展で毎日賞を受賞したりCMの「ファンカーゴ」で習字をしたりと一般メディアでも活躍しているバリバリ本家の書家の人で、けれども「サルの豪遊」というタイトルでイラストと詩が入った色紙や書を展示・販売するイベントを開いている。いわゆる路上詩人とどう違うのか、というところになると正直分からないけど、キャリアから判断すると路上詩人よりも上のような気がして、振り返って教え込まれた社会的な序列に知らず、感性が従っていることに愕然とする。でもねえ、毎日賞なだけあって巧いんですわ、やっぱり。

そんな“芸術”の人たちが集まる会場にあって、どことなく異世界感を出していたのがコスプレなり着ぐるみ関係の仕事を見本として出していた「亀有工房」のブース。ウルトラセブンとか仮面ライダーのマスクとか、ガキでかのフィギュあとかセーラームーンにセーラーマーズの仮面とか、騎士の剣とか勇者の鎧とかがあってそれぞれがそれぞれに良い出来だったのに驚く。それ以上にアートな人たちの構える高尚だったりお洒落だったりするブースに比べて、落ち着いた気分になった方が問題として大きい。どちらかと言えばオタクの人たちと、アートな人たちとが融合してシームレスになっている会場でも、完全に溶け合うには意識的な部分でまだまだやっぱり時間がかかるような印象を身を以て実感する。

見せるか語るか

現代アートと言われるジャンルに結構見られる、とりわけ政治体制がキツかったりする第3世界のアーティストたちの作品に見られる反体制的な内容を持ったアート作品を考える時、これはいわゆる「美術」なのかそれとも「ジャーナリズム」の1形態なのかと悩むことがあって、もちろん反体制的なメッセージも含めて「アート作品」なんだと言われればそうかと思うんだけど、一方で純粋無垢な感性が捉える「美」というものを体現するんだとかつては言われていた「アート」の文脈から外れているんじゃないかとも考えてしまって判断に迷う。

「赤坂ツインタワー」の中にある「国際交流基金フォーラム」で開かれていたインドネシアのアーティスト、ヘリ・ドノの個展をのぞいて内容を見てカタログを買って解説なんぞを読んで、独裁政権下で庶民が受け続けた弾圧の様を仔細に取り入れている第3世界のアーティストの作品であっても、やれアートだのやれジャーナリスティックだのと言って意味づけてしまうことの危険性と難しさを改めて感じる。

写真6
カタログを買ったらついて来た人形。陶器製っぽい。ヘリ・ドノの作品なのか現地のお土産品なのかは不明だけど、土俗的な妖しさとにじみ出るメッセージ性が芸術に文化に信仰が混じり合ってるアジアっぽい。

飾られているのは例えばモケイの銃が向けられたテレビ画面に尋問を受けて苦しんでいる人の顔が映し出されている作品であり、手がないマネキンの胸に着けられたモニターにはインドネシアの暴動の映像、下半身のペニスの尿道の奥にあるモニターにはスハルト大統領退陣の映像が流されている作品だったりで、絵に描いたようなジャーナリスティックさを持っている。反体制アートと先進国自由主義的感性で見れば見てしまって不思議はない。

けれどもカタログに寄せられた解説論文の中で、ジム・スパンカットという人がヘリ・ドノから聞いた話として書いているのは、ヘリ・ドノ自身は政治的問題を探求することを否定はしていないけれど、本人的には政治的ではなく文化的な問題としてすべてをとらえていて、作品で政治的な弾圧を作品の中で批判するのも政治的であろうとする態度よりはむしろ、文化が抑圧されている現状に言及したいからだったりするらしい。政治に芸術で挑もうとしているのではないらしい。

かといってファイン・アートも土着的な文化も包容してしまうよーな態度を示しているのでもなく、前提としてハイとポピュラーという2元論がある中から、両翼をすり合わせて等価性を見出すとゆーよりは、アミニズムと霊性ともとれる独自の価値観でもってそれをアートと認知して、送り出しているらしいことが説明されている。書いていて今、脳味噌が溶け出す音と匂いがしたからこの当たりでやめておくとして、これまた善悪白黒といったハッキリした分類ではなく、やわらかい価値観でもって作品を見るべきではないのか、といった思考を惹起してくれる。考えること。同時に感じること。そんな柔軟さがアジアのアーティストに接する上で大切なのかもしれない。◆

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