タニグチリウイチの出没!
TINAMIX
タニグチリウイチの出没!

「芸」か「芸術」か

2次元のアニメを3次元のフィギュアに2次元のテイストをそのままに移し替えるテクニックの凄みに感動して、ガレージキットは日本が誇る「アート」だと喧伝し、自らもガレージキットを取り入れたアート作品を作り始めた村上隆を待っていたのが、いささかの権威めいたニュアンスを拭いきれない「アート」という言葉でもってガレージキットを縛り付けてしまおうとしているのではないか?といったフィギュアの世界からの疑念であり反発だったことは記憶に新しい。

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静岡駅前の路上でもそこかしこでパフォーマンスが行われご覧のような人だかりに。下手なテレビ芸人より観客が多いが実際下手なテレビ芸人より面白いからなあ。

何がどう作られているかだけが問われる、いわば職人“芸”ともフィギュアと、何が作られているのかというより何を作るのか、それより先になぜそれを作るのかといった文脈も含めて理解する必要がある“芸術”との溝が、村上の苦闘でどこまで狭まったのかは分からない。けれども学校の「美術」の授業で現代アートは学んでも、ガレージキットやプラモデルの作り方を学ぶことがない以上、“芸”と”芸術”の間にはまだ、厳然として壁が存在しているのだろう。あるいは壁を存在させておきたいのだろう。

ガレージキットを彫刻と見るなら大道“芸”もまたパフォーマンスなりハプニングといった“芸術”と見ることができるのではないか。そんな思いつきが真実なのか単なる妄想なのかを確かめるべく、静岡県で毎年11月に開催される「大道芸ワールドカップin静岡2000」を見に行く。会場の駿府公園は徳川家康が居城にした駿府城跡で、お堀を越えて石垣を抜けて入ると大きな広場と円形の道路があって、さすがに大道芸ってだけあってそんな広場の隅とか、道路の端とかいった場所でいろんな出し物が繰り広げられていた。このイベントのために市内のホテルのほとんどが満室なるというから、静岡県のみならず、すでに日本が誇るイベントになりつつある感がある。まとまって見られるから便利だし。

写真3
雪竹が「誰でもピカソ」に出ればアートになるのか。もしかして既に出ているのか。そもそも「誰ピカ」に出ればアートなのか。だいたい「アート」とは何なのか。やっぱりまとまりません。

別に誰って目的があった訳ではないけれど、フラリ近寄った所で「雪竹太郎」というどこかで聞いた記憶のあったりなかったりする名前の看板が下がっていて、結構な人垣が出来ていたのでそのまま眺めていたら、やって着たのは坊主頭のお兄さん。広げ始めた小道具を見て、そうだよそうだよあの人だよって記憶が甦って来て、“芸”と“芸術”を考えに来て何てグッドなパフォーマンスに行き会えたんだと我ながら自分の強運ぶりを誇る。

何しろそのそのパフォーマンスの題目が「人間美術館」と言うんだから、これ以上の出し物はない。服をはぎとってパンツと布きれ1枚になった雪竹が最初にするのは全身を真っ白に塗ることで、次にやることは台の上に乗って横の看板に書かれた文字が現すポーズを取ること。例えば「考える人」。あるいは「円盤投げ」。さらには「モナリザ」「ダビデ」「叫び」等々。圧巻はクライマックスの「ゲルニカ」で、目をつけた人を最後まで引っ張り中央の磔刑になったキリストにしてしまい、それを拝む人とか両脇で踏ん張ったり踏んずけたりする人とかを呼び出しては定位置に据え、最後に自分も加わって締める。

やわらかい価値観

アート作品になり切る“芸”では森村泰昌が“芸術”の世界でやっていて現代アートの旗手として世界的に認められているのに、雪竹の場合は世界的ではあっても大道“芸”の領域での認知に止まっている。この違いは一体何なのか。やっている側の意識の差なのか、それとも見ている側の態度の差なのか。どちらが上で下という訳ではなく、やっていることに一見しての大きな違いが認められないパフォーマンスを、”芸”と”芸術”に分けてしまう意味がよく分からない。やはり抜きがたい上下関係が存在するのか。曖昧にしてしまったら上が上でいられなくなるのか。ガレージキットとアートの関係以上に考えるほどに不思議の文字が幾つも灯る。

ガレージキットが1つの彫刻だとして、だったらゲームは総合芸術でありメディアアートである、といった意見があるのも承知していて、その理由としてはアートにあるとされる権威めいたものでゲームを引き上げてやろうとするいらぬお節介とか、アートが偉いものだと教育されてしまった純真な人が大好きなゲームを偉いものにしたいと考えた挙げ句の暴走とか、いろいろなものが挙げらる。「水戸芸術館現代美術センター」で開催されている「ビット・ジェネレーション2000 テレビゲーム展」の場合は果たしてどちらの立場なのか。あるいはゲームだアートだと分けることなく、純粋に「うつくしいもの」として展示しているのか。

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「水戸芸術館」の巨大な塔の前で始まった結婚式。美術館を教会にしてしまうのも“やわらかい価値観”って奴?

そのあたりはキュレーションした水戸芸術館の浅井俊裕が「テレビゲームと現代美術」というタイトルの一文を展覧会のカタログに載せていて、作者の自意識的積極的主体的な部分での「イズム」とか「コンセプト」の有無からテレビゲームに芸術性はあっても現代美術ではないと言っている。けれども現代美術が殺ぎ落として来た物語をゲームが持っていることの素晴らしさ、かつその物語なり世界観はプレーヤーの能動的なアプローチによってのみ見えて来るという点での現代美術との共通性についても触れている。「イズム」によって切り分けず、ジャンルに貴賎を見出さず「やわらかい価値観」で対象をとらえることの大切さ。曖昧さの中におくことでゲームにとってもアートにとってもプラスの可能性を導き出そうとしていることが分かる。

あえてそういった考えを表明しなければ、「現代美術」の牙城で「ゲーム」が展示されることの意味を了解出来ないあたりがやっぱり、双方の間にある壁のよーなものなのかもしれないが。いずれにしても、アートとゲームのどっちかがどっちかを取り込もうなんて意図よりも、現代アートの場にゲームが置かれている、その状況から両者の間にある壁が曖昧になりつつあることを、意識的でも無意識的でも感じてみるのが良いのかもしれない。800円払ってやり放題のゲーセンに行ったと思うんならそれもそれで良し。何であれ考えるところから進化は始まるのだから。

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