TINAMIX REVIEW
TINAMIX
めがねのままのきみがすき

・ほんとうのわたし

古典的眼鏡っ娘2類型と逆転眼鏡っ娘では、z→x、z→yと物語の構造こそ違え、少女が男性の好みに無批判に従うことでは一致する。その意味で、逆転眼鏡っ娘は「眼鏡を外したら告白に成功する」という物語を相対化することに貢献はするだろうが、少女が男性に従属するという構造から見れば共犯的な関係にすぎない。この共犯関係の図式において、少女が男性の好みに従って他律的に眼鏡を外したりかけたりするのは、少女が眼鏡をかける内在的な必然性を持っていないからである。

しかし、少女に眼鏡をかけなければならない理由があったとしたらどうだろう。眼鏡を外せば愛を獲得できるだろう、眼鏡をかければ愛を剥奪されるだろう、しかしわたしには眼鏡をかける必然的な理由がある……。このような矛盾、ジレンマが存在するとき、はじめて少女が選択の主体となる。眼鏡か、愛か。このように少女に眼鏡をかける必然性を与え、物語にジレンマを導入し、少女に主体性を付与したものが「ほんとうのわたし」概念である。それを積極的に主題化したのが眼鏡っ娘マンガの旗手、田渕由美子だった。

田渕由美子の1975年の『聖グリーン・サラダ』[図18]という作品を例にとろう。主人公のありみ(眼鏡っ娘)は、姉とその夫である雅史と一緒に暮らしていたが、姉が亡くなり、雅史がふさぎ込むようになる。そのため、ありみは姉の身代わりになろうと、和食が得意なのに無理して洋食を作ったり、姉に似せようと無理して髪型を同じにしてみたり、近眼のくせに無理して眼鏡をはずしたりしている(雅史が見ていないところではちゃんと眼鏡をかけている)。

図19『聖グリーン・サラダ』(c)田渕由美子
雅史もそんなありみを好ましく思っていた。結婚してもいいと思っている(図1に即せば、初期状態はx)。しかしある日、お節介な叔母にそんな生活の欺瞞性を指摘される。その欺瞞性に耐えきれなくなった雅史は、ありみとの生活を打ちきり、お見合いをすることを決意する(→w)。ありみはショックを受ける。そのショックの中で、ようやく姉の身代わりを演じる「いつわりのじぶん」という欺瞞性を自覚する。髪を切り、朝食も和食に切り替える。そして、眼鏡をかける。ありみは「ほんとうのじぶん」を取り戻した。雅史は、ありみの本当の姿に、新しい真実の魅力を見出す(→y)[図19]。

図1(再掲)

この作品の物語構造は、図1に即せば「x→w→y」となる。注目されるのは、物語の冒頭からありみは雅史に愛されており、初期状態がxということだ。古典的眼鏡っ娘マンガにおいては最終到達地点だったxを初期状態としているのである。しかし、田渕の作品においては、xは欺瞞的な位置だとされた。姉の真似をして眼鏡をはずしたわたしなど偽りのわたしであって、そんな偽りのわたしが愛されたとしても、それは偽りの愛でしかない。ほんとうの愛とは、ほんとうのわたしが愛されることであり、ほんとうのわたしとは眼鏡をかけたわたしのことなのだ。

ありみにとって、眼鏡をかけるのは恐ろしい賭けである。雅史が愛していた姉とぜんぜん似ていない自分が愛される保証などない。それに、これまで姉の真似をしてずっとうまくいっていたのだ。その安定した立場を捨てて眼鏡をかける。ありみがその賭けに出たのは、「ほんとうのわたし」という概念ゆえである。xは最終目的ではない。ほんとうのわたしが愛されるyこそが最終目的となる。たとえ愛が剥奪される可能性が高いとしても、少女は主体的に眼鏡をかけることを選択するのだ。

このように「ほんとうのわたし」を主体的に選び取る眼鏡っ娘を「乙女チック眼鏡っ娘」と呼ぶ。

・起承転結とはなにか

他に乙女チック眼鏡っ娘マンガの代表的なところで、大和和紀の1984年の作品『フスマランド4.5』を見てみる[図20]。主人公の嘉知子さんは超のつくカタブツ(眼鏡)で、男性には人気がない(初期状態はz)。しかし、魔法の力で美人になり、男性にモテモテになる(→x)。ところが、嘉知子さんが好意を持っていた星也くんは、そんな不甲斐ない嘉知子さんの姿に幻滅してしまう(→w)。嘉知子さんが「美しくなりたい」という無意識の欲望(ほんとうのじぶんを認めたくないという劣等感)を克服し、ありのままのほんとうのじぶん(眼鏡)を受け入れると、星也くんもほんとうの嘉知子さんを承認する(→y)[図21]。物語構造は、「z→x→w→y」となる。


図21『フスマランド4.5』(c)大和和紀


図22『おやじ先生』(c)板本こうこ

眼鏡っ娘マンガにおいては、この「z→x→w→y」という物語構造が最も美しい。マンガの黄金パターン「起承転結」を押さえているからだ。眼鏡で彼氏ができない(z)すなわち「起」→眼鏡を外してもてる(x)すなわち「承」→しかし肝心の意中の彼は振り向いてくれない(w)すなわち「転」→眼鏡を再びかけることで意中の彼をゲットする(y)すなわち「結」-というわけだ。このタイプのマンガは、他には板本こうこ『おやじ先生』[図22]、辻村弘子『親子三代眼鏡美人』[図23]、峡塚のん『すきすき!マーマレード』[図24]、粕谷紀子『もうひとつ花束』[図25]、伊藤かこ『向こう岸はいつもお天気』[図26]、惣領冬美『あたしきれい?』[図27]などがある。



図24『すきすき!マーマレード』(c)峡塚のん

図25『もうひとつ花束』(c)粕谷紀子

図27『あたしきれい?』(c)惣領冬美
図23『親子三代眼鏡美人』(c)辻村弘子

図26『向こう岸はいつもお天気』(c)伊藤かこ

この起承転結構造は、少女マンガに限らず様々な場面で見出すことができる。図1を改良して検討してみよう。

図1改

初期状態は、ただの一般庶民(z)。そしてアイドルになって成功する(x)。しかし、そのアイドルの自分と本当の自分のギャップに悩む(w)。アイドルを引退し、本当の小さな幸せを見つける(y)。これもz→x→w→yの起承転結構造となっている。キャンディーズが解散するときの「フツウの女の子に戻りたい」というセリフは、この起承転結構造を一言に込めている点で、名言として長く記憶されることとなる。山口百恵の引退が劇的だったのも、この起承転結構造に合致しているからだ。


図28『燃えよペン』(c)島本和彦

起承転結の重要性に関しては、炎のマンガ家、炎尾燃が言ったことを思い起こしてみるといいだろう。炎尾はこう語っている。「好きな女の子に告白する。-OKされてうれしい……。それだけの話をどれだけの読者がおもしろがってくれるっていうんだ!」[図28]。

図29『燃えよペン』(c)島本和彦
炎尾の言うとおり、まったくおもしろくない。眼鏡を外して告白し、OKされる。こんな話を誰が喜ぶというのだろう。こんな話を平気で作っているのがフジテレビの『力の限りゴーゴゴー!!』という番組である。今どき、眼鏡を外して美人になって告白してOKされるというストーリーを臆面もなく垂れ流している時代錯誤な番組だ。「構成」の何たるかをちっとも理解していないこの番組には、次の炎尾の言葉がピッタリである。「このエピソードのレベルはせいぜい起・承のランクだ!」[図29]。そのとおり。眼鏡を外して美人になる……こんなものは、起・承のランクに過ぎない。真のストーリーは、そのあとにある。そして転・結のランクに達するのは、最後に眼鏡をかけ直す少女なのだ。


図30『わたし危ないの?』(c)鈴原研一郎

ところで、この起承転結をきちんと踏まえた眼鏡っ娘マンガは、実は1968年に存在を確認できる[図30]。「眼鏡を外して美人」というマンガが流行するよりも早く登場しているのだ。また、大和和紀も60年代後半に逆転ノッポマンガを描いている。ノッポに劣等感を持っていた女の子が魔法の力で背を縮めるが、意中の彼はノッポの女の子が好きだったという話である。60年代末に起承転結を踏まえた作品が存在したにも関わらず、70年代に入って起・承のランクにとどまる作品が数多く出てしまったのはたいへん遺憾である。炎尾燃に代わって、私が怒っておこう。「そんな情けないフィクションを堂々とかくなーーーっ」>>次頁

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図18

『聖グリーン・サラダ』
(c)田渕由美子/『りぼん』1975年12月号。


図20

『フスマランド4.5』
(c)大和和紀/『週刊フレンド』1984年3〜8号。

ほんとうの嘉知子さんを承認する
「ほんとのあたし」というセリフに注目。これが「乙女チック」の核である。

『おやじ先生』
(c)板本こうこ/『週刊フレンド』1974年25号。眼鏡をはずして高飛車になってしまったヒロインに幻滅した男の独白に注目。ヒロインはこのあと眼鏡をかけ直し、ハッピーエンド。

『親子三代眼鏡美人』
(c)辻村弘子/『別冊少女フレンド』1975年2月号。「メガネのあるなしで女の本当のよさがわからないような男はこっちからふってやりなさい」というおばあちゃんのセリフに乙女チックのエッセンスがある。すばらしいタイトルにも注目の眼鏡っ娘マンガ。

『すきすき!マーマレード』
峡塚のん/『なかよし』1976年11月増刊。「あたしはあたしでしかないんだもの/たとえあの人がきれいだといってくれなくても……」というセリフが乙女チック。

『もうひとつ花束』
(c)粕谷紀子/『週刊セブンティーン』1986年13〜33号。眼鏡を外して傲慢になったヒロインに対し、「メガネかけてたほうがよかったな」とつぶやく男のセリフに注目。

『向こう岸はいつもお天気』
(c)伊藤かこ/『おまじないコミック』1993年6月号。「これがホントのあ・た・し」というセリフがまさに乙女チック。ヒロインはふられるのを覚悟で本当の自分の姿を曝すが、ヒーローの男の子は実は眼鏡のほうの女の子のことが好きだったのだ。

惣領冬美『あたしきれい?』
『別冊少女コミック』1994年3月号。外見だけで女を判断する最低な男に幻滅し、真の自分の姿を追い求める眼鏡っ娘。このあと、眼鏡っ娘の真の魅力を見ることのできる男性が登場し、ハッピーエンド。心の眼が近眼の男には、眼鏡っ娘を幸せにすることなどできない。

キャンディーズが解散するときの「フツウの女の子に戻りたい」というセリフ
最近では、『おジャ魔女どれみ』最終回でパロディとして使用されていた(ちなみに山口百恵の引退シーンも引用されている)。他には『聖エルザ・クルセイダーズ』のドラマCDでも引用されていたが、探せばいくらでもあるだろう。

「好きな女の子に告白する。-OKされてうれしい……。それだけの話をどれだけの読者がおもしろがってくれるっていうんだ!」
島本和彦『燃えよペン』竹書房、1991、p.128。島本和彦は眼鏡っ娘にたいへん理解のある作家である。島本は眼鏡っ娘キャラをたくさん描いているが、眼鏡に負の烙印を与えたことは一度もない。ということで、ここで引用した『燃えよペン』の「起承転結激情編」でも、眼鏡っ娘が美人として描かれている。

1968年に存在を確認できる
鈴原研一郎『わたし危ないの?』。『別冊マーガレット』1968年9月号。鈴原は60年代後半に先駆的なラブコメを数多く発表している。

意中の彼はノッポの女の子が好きだったという話
大和和紀『0083は恋のナンバー』。鈴原と同じく、大和も60年代後半に先駆的なラブコメを数多く描いていた。要するに、きちっと頭を使ってラブコメを描けば起承転結構造に落ち着くのだ。

「そんな情けないフィクションを堂々とかくなーーーっ」
島本一彦『燃えよペン』p.137。

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