TINAMIX REVIEW
TINAMIX
めがねのままのきみがすき

・逆転眼鏡っ娘


図11『ミスめがねはお年ごろ』(c)山岸涼子

逆転眼鏡っ娘の代表的な作品としては、山岸凉子『ミスめがねはお年ごろ』[図11]や、くらもちふさこのデビュー作『メガネちゃんのひとりごと』[図12]が挙げられよう。特にくらもちふさこは後に少女マンガの王道『別冊マーガレット』のエースとなる作家だけに、そのデビュー作で逆転眼鏡っ娘が扱われたということは、恋愛と眼鏡を考える上でたいへん象徴的なことである。

『メガネちゃんのひとりごと』の主人公のアコは、眼鏡にコンプレックスを持っている。それで、大好きな東くんにも告白できないでいる。「いっそ告白しちゃおうかな、あなたが好きですって……。……自信ないんだ。あいつ、メガネの女の子きらいかもしれないもん」。しかし、ひょんなことから東くんを好きだったことが本人にバレてしまう。悪友たちに眼鏡をとられてしまい、近眼で何も見えないまま、東くんだと気づかずに好きだと伝えてしまうのだ。

図13『メガネちゃんのひとりごと』(c)くらもちふさこ
告白してしまったと気づいて慌てふためくアコ。しかし東くんは優しくこう答える。「おれ……きみが好きなんだ」。アコは信じられない。「だって、メガネかけてるのよ」。そこで東くんはこう答える。「メガネはきみの魅力だぜ」[図13]。そう。眼鏡は魅力なのだ。アコがコンプレックスに思っていた眼鏡こそ、東くんを虜にした魅惑のアイテムだった。これがコンプレックスを少女の個性として価値を反転させる逆転めがねっこの典型的な例である。

代表的なところでは、大島弓子『季節風にのって』[図14]、荒井裕子『おふくろちゃん』[図15]、耕野裕子『ほんの少し抵抗』[図16]、緒形もり『失恋メルヘン』[図17]などがある。「少女マンガでは眼鏡を外して美人になる」というのは、たいへんな勘違いである。統計データに明らかなように、実際は「眼鏡という負の刻印からの大逆転」が少女マンガの主流パターンなのだ。

・恋愛と権力


図14『季節風にのって』(c)大島弓子

図15『おふくろちゃん』(c)荒井裕子

図16『ほんの少し抵抗』(c)耕野裕子

しかし冷静になって考えてみれば、逆転眼鏡っ娘マンガの大逆転のカラクリは、好きになった男性の好みがたまたま一般男性の好みと違っていたところにある。『メガネちゃんのひとりごと』の場合、東くんがたまたま眼鏡を好きだっただけの話で、もしも東くんが眼鏡のことが嫌いだったら逆転もなにもあったものではない。アコはふられておしまいだ。要するに、評価をする主体は常に男性であり、少女は男性の評価に従って眼鏡の脱着をするしか選択の余地がないのだ。相手が眼鏡を好きなら眼鏡をかけなければいけないし、眼鏡が嫌いなら眼鏡を外さなくてはならない。少女の主体性は特定の男性を好きだというただ一点のみに過ぎず、告白の成否で主導権を握ることは決してない。これは、恋愛が「権力構造」にあることを示唆している。

橋本治によれば、少女マンガの主要なモチーフは「自分がブスでドジでダメだと思っている女の子が憧れの男の子に「そんなキミが好き」だと言われて安心する」ことにある。藤本由香里は、その指摘に「殴られたような衝撃を受けた」と回顧している。その指摘と衝撃は、半分以上、正しい。たしかに逆転眼鏡っ娘マンガでは、眼鏡という劣等感が大逆転して「そんな眼鏡のキミが好き」と言われる。少女マンガの中では、どんな劣等感も大逆転できる。それは読者の少女に慰安を与えるものだったかもしれない。だからこそ逆転眼鏡っ娘マンガが古典的眼鏡っ娘マンガよりも大量に描かれることにもなった。しかし藤本は現実が少女マンガどおりにいかない(そりゃ、そうだ)ことを嘆き、「ひょっとしたら愛の幻想は、男が女を支配するための、最大の装置なのかもしれない。恋愛というのは女にとって最大の罠かもしれないのである」と言っている。

図1の構図を検討すれば、藤本の直観が正しいことが解る。図1は、宮台真司の『権力の予期理論』にしたがって、男と女の「行為連結」を図示したものである。女が男を好きになって「愛の獲得」を目指した場合、どうしたら男が自分に愛を与えるかを「予期」し、最適な行動を目指す。男が眼鏡っ娘のことが好きなら眼鏡をかけなければいけないし、男が眼鏡っ娘のことを嫌いなら眼鏡を外さなければならない。このように、女は男の心の内を想像し、男の期待に添うような行動をとろうとする。例えば眼鏡を外してしまうのは、「男は眼鏡っ娘が嫌いだろう」という予期をしてしまうからだ。ジャンケンを例に取ると解りやすいかもしれない。女は、男がグーを出すかチョキを出すかいろいろ思い悩んで自分の手を決める。男がパーを出す可能性が高い(眼鏡を嫌いな可能性が高い)と予想すれば、少女はチョキを出すことになる。ただ、男は女の出す手を見てから自分の手を出す。後出しジャンケンなわけだ。ジャンケンなら、後出しの方が圧倒的に有利である。後出しの不利を、藤本は直感的に「ひたすら愛することを教えられてきた女の側に勝利はない」と言い直している。


図17『失恋メルヘン』(c)緒形もり『別冊マーガレット』1980年7月

また単に早出しのほうが不利というだけではない。「相手の出す手は何だろう」とぐちぐち悩まなければならないのが女のほうだけという不均衡の問題がある。男の方は女の手を見てから出せばいいのだから、「相手の出す手は何だろう」などと悩む必要は一切ない。この非-対称性を、中島梓は「選別の論理」と言っている。中島によれば、女は常に「選別される側」にいた。男は常に「選別する側」である。女は男の「選別の視線」にさらされ、男の期待=規範どおりの振る舞いを要求される。むしろ、男の側が実際にどう思っているかにはまったく関係なく、「男はこう思っているだろう」と自発的に予想し、自らが自らに対して「選別の視線」を浴びせ、規範を内面化し、ダイエットしたり眼鏡を外したりする。男の側がまったく命令を発しなくても、女の側で勝手に規範を内面化してくれるわけである。

ここで宮台の「自由こそは、権力を呼び寄せる依代である」という挑発的な命題が思い起こされる。「自由意志で恋愛している」という思いが図1の構造を招き寄せ、女は早出しジャンケンを要求され、相手の出す手を想像してぐちぐちと悩まなければいけなくなるわけだ。藤本の「恋愛という罠」という直観には正当性があるといえよう。

その罠を克服し、女性に主体性を付与しようとしたのが田渕由美子の眼鏡っ娘マンガだった。>>次頁

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『ミスめがねはお年ごろ』
(c)山岸凉子/『りぼんコミック』1970年2月号。「ぼくはミスめがねのそぼくなさっちゃんが大好きさ!!」というセリフに注目。


図12

『メガネちゃんのひとりごと』
(c)くらもちふさこ/『別冊マーガレット』1972年10月号。記念すべきデビュー作。

「メガネはきみの魅力だぜ」
『別冊マーガレット』1972年10月号。

『季節風にのって』
(c)大島弓子
『週刊少女コミック』1973年9月号。

『おふくろちゃん』
(c)荒井裕子/『りぼん』1975年9月号。そのとおり。「メガネしてないのがいい」などと言うのは「人間のできてない男」である。

『ほんの少し抵抗』
(c)耕野裕子/『ぶ〜け』1980年11月号。

「自分がブスでドジでダメだと思っている女の子が〜安心する」
橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』北栄社、1979。

「殴られたような衝撃を受けた」
藤本由香里『私の居場所はどこにあるの? 少女マンガが映す心のかたち』学陽書房、1998、p.12。

「選別の論理」
中島梓『コミュニケーション不全症候群』ちくま文庫、1995<1991、p.131。

規範を内面化し、ダイエットしたり眼鏡を外したりする
このように外部の視線を内面化し、命令されなくとも外部の規範に合致する行動をとるようにさせてしまう装置は「パノプティコン」としてよく知られている。パノプティコンとは19世紀イギリス功利主義の代表的論客であるベンサムの設計した監獄の原理であり、フーコーはこれを近代的規律=訓練の装置一般として分析した。つまり中島梓は、<恋愛>は女性を規律するパノプティコン装置であると主張しているわけだ。

「自由こそは、権力を呼び寄せる依代である」
宮台前掲『権力の予期理論』p.12。また宮台は、早出しか後出しか(時間的な前後関係)に関わらず人々がパノプティコン的自己規律に陥ってしまうことを、「優越戦略」という概念を使って理論的に証明している。「眼鏡を外したほうがいい」という強迫観念についても、男性が「優越戦略」を保持していると見れば時間的な前後関係は本質的な問題ではない。

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