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●二本足のレミング
『レミング 壁抜け男』の主人公は、東京は五反田のアパート・幸荘に住む、中華料理店コック見習い。この物語は、彼の住む突然アパートの壁が消滅するところから始まる。
壁を取り払ってみると、隣にいるのは宇宙人と交信を交わす奇妙な女であったり、淫蕩な会話を交わすミス・トルコであったりする。壁が無くなるのは両隣だけではなく、天井からは屋根裏の散歩者が覗き込み、床下からは主人公の母親が顔を出し、さらには映画のロケ隊と思しき一群までが、この主人公の部屋に乱入してくることになる。
ところがこの映画にはトリックがある。この映画の主演女優は、自分と役柄の区別が付かなくなったまま、20年間も同じ役を演じ続けている精神病の患者なのだ。周囲のスタッフは、往年の大女優の狂態をカメラに収めるためにやってきた、テレビ局のクルー。さらには主人公も同様で、「壁が無くなった」といっては騒いでいる患者なのだということが発覚する。要するに、登場人物全員が実は精神病者であり、ここは演技療法を行う開放病棟だったのである。
中盤以降、物語はさらに複雑になっていく。冒頭に登場した、宇宙人と交信する女が再び現れ、ことの真相を暴露する。彼女によれば、実はこの病院の患者は、実は全て医療スタッフであり、ここまでに登場した医者や看護婦の方こそ患者なのだという。一体どちらが患者でどちらが医者なのか? どちらが虚構でどちらが事実なのか? 私たちがその判断を下すまもなく、踏み込んできた映画女優によって、突然主人公は射殺されてしまう。そして彼女は高らかに宣言するのである。
「ほら、事実が死んだ!」、と。
この物語の中では、妄想と現実、演技と現実がいとも簡単に反転してしまう。誰もが他人の人生を自分の夢の中に取り込もうとして、逆に他人の夢の中に絡め取られてしまう。一体誰が誰の妄想であり、誰のシナリオに沿って行動しているのかが、どこまで行っても決定できない。「事実が死んだ」後で、無限の夢の循環を繰り返す世界。この作品で描かれるのは、そんな世界の姿なのである。
だがここまでなら、押井守が『ビューティフルドリーマー』と『トーキングヘッド』の二本で描いたものと変わらない。だが、この物語では終盤、意外な転調が用意されている。ここまで登場してきた人物が、突如狂ったような舞踏を始め、いっせいに死に絶えてしまうのである。まるでレミングの集団自殺のように。
私たちの生きる資本主義社会では、互いが互いの夢の中に引きずり込もうと無限のゲームを続けるうち、循環は加速し、加熱していく。夢のまた夢、夢の夢の夢と虚構は膨れ上がり、「事実」はどこかにかき消えてしまう。が、どれだけゲームの参加者達が声高に「事実の死」を叫ぼうとも、事実は決して死に絶えることはない。最初はわずかな人数が夢から覚め、その人数は次第に増えていく。やがてゲームを放棄する者の数は雪だるま式に膨れ上がり、誰も止められない速度で事態は進行していく。誰も彼もが投資という名の夢を売り払い、貨幣と呼ばれる事実を求めて狂奔する。後に残るのは不良在庫と不良債権、そして底なしのデフレである。この過程の中で、夢を食って生きていた労働者や資本家たちは、残らずむき出しの事実の上に放り出される。そして彼らは実際に死に至るのである。
この現象は一般に恐慌と呼ばれ、いくども私たちの社会を襲ってきた現象である。いわば私たちは、無限に続く夢のレースを突っ走り、恐慌という崖っぷちへ向かって飛び込む集団自殺を繰り返してきたわけだ。つまり、私たちこそがこの劇のタイトルに唱われた「レミング」だったのである。
『レミング 壁抜け男』は、舞台の上にただ一人残った主人公が、観客に向かって叫び続けるシーンで終わる。
「お前たちは壁の出口から出ても、また次の壁に向かって走っていくだけだ。出口なんかどこにもないんだよ! 完全密室だ! 誰もここから出ることはできないんだ!」
やがて主人公の絶叫とともに場内の照明は全て落とされ、漆黒の闇に包まれた劇場の扉を釘付けにする音が、会場中に響き渡る。「お前たちは死に向かって突っ走っていく、二本足のレミングなのだ」。そんな呪詛の声が聞こえてきそうなエンディングである。そして実際に、この再演が行われている最中に、寺山は死んでしまう。「生と死」という名の壁を、彼は一人で通り抜けて逝ってしまったというわけだ。時に1983年、5月4日のことである。
ここでもう一度、この劇のタイトルを眺め直してみよう。『レミング 壁抜け男』。1983年の5月4日というその日から、寺山修司という名の「壁抜け男」によって、私たちは「循環する夢」という完全密室に封じこめられ、「レミング」となったのである。この劇は、寺山が私たちにかけた呪いだったとは言えないだろうか。劇場の扉を打ち付ける金槌の音は、棺桶に釘を打つあの陰鬱な音と、いかによく似ていることか。ここには自らの死を意識した寺山の、私たちへの強烈な悪意がある。恐慌という死に向かって突っ走るレースを続けている、つまり「生きながら死んでいる」のはむしろ我々の方であり、「壁抜け男=寺山」の突きつけた問題は、いまもなお生き続けているのだから。
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