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●押井守の「挟み撃ち」
ところで、『ビューティフルドリーマー』に登場する人物の中には、ただ一人「夢の中」に閉じこめられない人物がいる。夢を仕掛けた演出家である妖怪その人だ。『ビューティフルドリーマー』が、資本主義社会の戯画だとするなら、この妖怪だけは超越的に資本の運動を司ることのできる、「超ブルジョワ」的存在ということになる。だが、現実の社会に、そんな人物が果たしているだろうか? 社会そのものを演出する、超越的な演出家など存在しうるのだろうか? 『ビューティフルドリーマー』を撮った押井守は、この問いに向かって進むことになる。こうして生まれた作品が、実写作品『トーキング・ヘッド』である。
この作品は、同名の「トーキング・ヘッド」という架空のアニメのワンシーンから始まる。だが、映像は途中で中断する。このアニメの演出家が、謎の失踪を遂げてしまったからだ。制作現場は途方に暮れる。失踪した演出家が一体どんな作品を構想していたのか、皆目見当もつかないからだ。が、刻一刻と公開の時は近づいてくる。追いつめられた制作者達は、フリーの演出家を助っ人として雇い、作品を完成させようとする。助っ人演出家は失われた「演出家の意図」を求めて、残ったスタッフに一人ずつ接触する。が、彼がスタッフに話を聞き出すやいなや、そのスタッフは次々に謎の変死を遂げてしまうのである。
この話のオチは、作品を完成させるべく雇われたフリーの演出家の正体は、実は失踪した演出家自身だったというものだ。「次はどんな作品を作るのか」という観客からのプレッシャーに曝され続けることによって、演出家は解離性人格障害(多重人格)に陥っていた。そして全く別の演出家として、制作現場に姿を現したのである。そしてこの演出家は、「失われた演出意図を探す」というプロセス自体を「トーキング・ヘッド」という映画にまとめることで、作品を完成させてしまう。自分の迷走状態をさらけ出すことでしか、彼は作品を作れなかったのである。
お気づきかと思うが、この演出家のメタレベルへの遡行ぶりは、『ビューティフルドリーマー』とほぼ同型である。ただし、『ビューティフルドリーマー』において無限の夢に閉じこめられたのは、タイトルそのままに夢を「見る」側、つまり観客であった。これに対し、この作品で無限連鎖の罠に陥っているのは、『ビューティフルドリーマー』では超越的に振る舞っていた筈の、夢を「仕掛ける」側、つまり演出家なのである。
この作品を、再び資本主義社会の隠喩として捉えてみよう。消費者/労働者であるあなたは、あなたに対して夢を仕掛ける側である資本家の姿に憧れることだろう。その姿は、労働者の夢を支配し、果てしない夢の中に閉じこめる超越的な存在であるように見えているに違いない(あの『ビューティフルドリーマー』の妖怪のように)。あなたはこうした超越的存在に憧れ、いつかは自分も資本家に、と思うに違いない。
だが、あなたが資本家の仲間入りを果たしたとしよう。例えば小さなアパレルメーカーだ。当初あなたは、本当に自分が好きな服を良心的な価格で、と考え、自分でミシンを踏んで一着一着丁寧に仕上げている。だがあなたはすぐに気がつく。「自分の好きなもの」に徹していては、競合メーカーには決して勝てないのだ。あなたは縫製を東南アジアの工場に外注し、売れ筋をねらってデザインコンセプトを曲げていく。参考資料は海外の画集や写真集からマーケティング資料に変わり、デザインそのものも若手に任せるようになる。やがてあなたはデザイナーからも発言権を奪い、最後は営業にデザインの主導権を渡してしまうことになる。
こうしてあなたは、「自分の見る夢を提供しよう」と思って始めた会社が、いつしか「他人の見る夢」にすっかり絡め取られていることに気づく。いまやプチブル階級の一人であるあなたが、もし「自分を表現せよ」と迫られたら、一体何を提示できるだろうか。それはかつてのあなたが示しただろう自由な発想のデザインではなく、各種のマーケティング資料やトレンド情報だけに違いない。もはやあなたは、統合された人格とすら呼べない。あなたの中には、さまざまなデータに解離した、ジャンクな主体があるだけである。まるで、二人の人格に解離した、あの『トーキング・ヘッド』の演出家のような。
消費者/労働者は資本家の夢に規定され、資本家は消費者/労働者の夢に規定されているという循環構造。しかもこの循環は果てしなく未来へ向かって延長されていき、誰もそこから逃れ去ることができない。要するに、我らが資本主義社会にあっては、誰一人として特権的な「事実」であることなどできず、常に誰かの「夢」、あるいは「妄想」として存在せざるを得ないのだ。
「事実が死んだ」後の、無限の夢のループの世界。そんな世界を生きる私たちを、押井守は『ビューティフルドリーマー』と『トーキングヘッド』という二本の作品によって、挟み撃ちにしたのである。
人は往々にして、このエッシャーの無限階段のような循環の中に自足してしまう。こうした無限の循環を繰り返すうち、走り続けてバターになった虎のように、人は自分の輪郭をなくし、融解しあってしまうのだ。それは「ウテナ型」の社会における自閉状態とスタイルを違えているだけで、「生きながら死んでいる」状態には変わりはないのだ。
以上、押井守の二作品によって、私たちに従属を強いる資本主義の輪郭は、ほぼ掴めたように思われる。だが、出口主義者は決して敵を過小評価しない。より深く、より根底的に、この難問を見つめた作品を求めて、私はアニメという問題圏を離れ、演劇作品を取り上げることになる。繰り返しになるが、00年代の出口主義者は、文化の分割線をいっさい認めない。参照できるものならなんであれ参照する。取り上げる作品のタイトルは『レミング 壁抜け男』。作者は寺山修司である。
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