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●お互いの不寛容をなくすため
シンポジウム主催者、ジャクリーヌ・ベルント氏(立命館大学産業社会学部助教授)は、このシンポジウムの意図のひとつには、漫画に関わる人々が「お互いに実際に会ってみて、相互の理解を深める機会を作ること」があると、シンポジウム終了後、筆者に語ってくれた。
つまり、漫画研究者が相互の存在を知りにくく、連絡や接触を取りにくい状況がるという認識である。また、漫画についての資料や知見が、大学の「内」よりも「外」にいる在野の人々の側に蓄積されているという事情もある。実際、現在、まとまった量の漫画の蔵書を持っている大学は、京都精華大学まんが学科だけである。
それだけではなく、繰り返し記しているように、漫画の研究や批評に対する「不寛容」な空気は根強くある。もちろんそれは、漫画関係者のなかだけでなく、アカデミックな他分野の研究者の間にも存在するだろう。
それがただ「不寛容」なだけならばまだいいが、具体的な資料を持っていたり、図版などの使用権を持っている人にそうした態度があった場合、全体に不利益につながる。
ベルント氏は「こうやって実際に会ってしまえば、不寛容な態度は取りにくくなるでしょう」という。相手が何をやっているかを知ることが、相手の理解につながるという、ひじょうに単純な話だ。
●漫画を研究するということ
このシンポジウムは、全体に「そもそも、漫画を研究するとはどんなことか」という問いに貫かれていた。研究者の側からこの問いが発せられた場合には、「そもそも、自分がこの対象を『研究する』ということに、どのような意義があるのだろう」という問いになる。
一方、「漫画研究」の外の視点として、国立近代美術館学芸員の蔵屋美香氏から、「ポストモダンを通過したことで、美術の教授クラスの年代に一種のサブカルチャー・コンプレックスが広がっている。学生のほうがサブカルチャーについては詳しいので、たとえば『仏像を”フィギュア”として見るという研究がしたい』といわれると、何も指導できなくなってしまう」という現状を紹介した上で、「知っていることをべらべら喋るだけでは、学問にはならない。学生は”美術史”という枠組みにぶつかって、はじめて他者に向かって語る言葉を模索することになる」という見解が述べられた。この指摘はたいへん重要だろう。
また、主催者の一人である吉村和真氏(日本学術振興会 特別研究員 立命館大学まんが研究会)、シンポジウム終了後、「評論」と「研究」の違いは何か? という筆者の問いに答えるかたちで、以下のように語った。
「『評論』は、すでに漫画を読んでいる人に向けて書かれるものです。作品や作家に対して、あらかじめ関心を持っている人でないと、『評論』を手に取ることはあまりないでしょう。一方、『研究』は、漫画とは直接関係のない学会誌などに載せて流通させることができる。そこでは、もともと漫画に関心のない人にも読んでもらうことができるのです」
こうした考え方は、普段から漫画に親しんでいるであろうTINAMIXの読者には分かりにくいだろう。たしかに、多くの漫画評論家は、自分が漫画が好きで、読み続けてきて、現在の仕事についている。そこで、漫画は「誰にでも読まれているもの」という前提を自明のものにしがちだ。しかし、実際には漫画を「読む」とした人は人口の36%でしかない(毎日新聞 第54回読書世論調査 2000年9月(16歳以上の男女4800人が対象))。つまり、「漫画は読まれていない」という前提に立ってものを考えること、十分に可能だし、また、意義のあることなのだ。>>次頁
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