TINAMIX REVIEW
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藤本由香里「少女マンガのセクシュアリティ 〜レイプからメイドへ〜」(前半)

■触手に感情移入できるのか

は: 物語を紡ぐってとこでは、男ってのは自分で自分をレイプする存在というか。レイプの定義を「性的でありたくないのにムリヤリ性的にさせられること」とすると、男って頭ではこんなものに欲情してはいけないと思うのに肉体が反応しちゃうことがある。意志とは関係なく勃ってしまう。それは体の内側からレイプされている感覚なんです。女の場合はそれが外からやってくる。「性的でありたくない」という理性自体はおそらくどこかで学習したものなんでしょうけど。

藤: 「性的でありたくない」って自己嫌悪と結びついているじゃない。男の場合は勃っちゃう自分、は自己嫌悪の対象なんだろうけど、女性の場合は、激しく反応する自分、というのは必ずしも最後まで自己嫌悪の対象なわけではないんだよ。もちろん、「いやよいやよもいいのうち」とか、それこそやられているうちに気持ちよくなるだろうという話は、幻想なんだけど。

 レディースコミックに代表される女性の側のファンタジーにレイプものが多いのは、「私はここまで求められている」っていう幻想なんですよね。そういう場合、だいたいレイプの形をとっていても、相手の男はかっこいいわけ。そんな男が「もうこの女じゃなきゃダメだ」っていうぐらいに自分を欲しがっているってとこがミソなわけ。

は: いわゆる“予定調和レイプ”ってやつですね。

藤: そうそう。「王子様にさらってほしい」じゃないけど、そういう感じなわけです。だからそれをレイプって呼ぶか? と。

は: 予定調和かそうでないかは男の顔でわかるんですよね。かっこいいと予定調和で、ストッキングなんかを被っていると犯罪。

藤: そう。ファンタジーとしてのレイプの場合は、相手は好みの男か、さもなければ顔がないのよ。「複数姦」って、感覚だけがあって、レイプされてるっていうよりはマスターベーション・ファンタジーに近い。

は: 顔がなくておちんちんだけがあるとか。

藤: おちんちんだけじゃないのよね。

【図9】
『罪と罰』より
(c)水城ケイ

は: あ、手か。手がたくさんある。

藤: そうそう、手がたくさんある【図9】ってとこがミソなのよ。レディース・ポルノには「女は官能の水をくぐって女が磨かれる」っていう黄金律があって、だから見かけ上、レイプもの、SMものが多い。でも、その内実は男性ポルノのレイプものとは違うんです。男のレイプものって、レイプすることで女性の価値を下げる。たとえば「令嬢とヤクザ」とか、「女教師と用務員」とか、そのパターン。

 だけど見かけは同じレイプやSMでも、女性の場合のそれは「私はこんなに望まれている」っていうか、逆にそのときに女の価値が最高に高まる、そこがだいぶ違うよね。団鬼六さんなんかは男性のポルノ作家だけど、あの構造はわりとレディースコミックに似ている。団さんの小説の醍醐味は女を引きずりおろすことにあるんじゃなくて、女は一見引きずりおろされているように見えながら実は価値が最高に高まっている。そこで女は菩薩になる。

は: たとえばエロマンガでは触手ものがあるのですが。

藤: わたし、触手ものって、女の子も好きだと思うんだ。

相: あれこそ主体性が不明な。

藤: それがいいのよ。

は: それを好きな一群の男もいると思っていて、私もそうなんですが、眼鏡っ娘だとさらにいい。

藤: それはやられてる側に感情移入するわけ?

は: やっぱり、やられたいというか、眼鏡っ娘になりたいんでしょう。けど、やられてる女の子に感情移入しているんじゃないかと思いつつ、ほんとにそうなのか? という疑問もあって、単に欲情しているだけなんじゃないかと思ったり。

藤: でも自分が触手になりたいわけじゃないのね。

は: それはないですね。触手になったって何もおもしろくないわけで。男性向けのポルノでも、男の顔が出てこないものがあるんですけど、それって触手ものに近いところがあって、結局、女の子に感情移入するんじゃないかと。それと内側からレイプされる感覚ってのがうまくマッチして、物語になっていくんじゃないかな。

相: つまりいまの話は男もレイプされている、と読みとることもできますよね。ラカン派精神分析の考えだと、未成熟な主体というのは多形倒錯的で、それがファルスという象徴的な父によって統合され、男の子は去勢恐怖をいだく、というのがありますけど、そういう話に近いんじゃないでしょうか。

藤: そういう精神分析的なことでいうと、前躯快感っていうのがあるの。最終的な快感=性器的な快感に行く前の、くすぐるとかちょっと触るとか抱きしめるとか、そういうようなものね。

 このあいだ小倉千加子さんが早稲田大学でやってた「セクシュアリティの心理学」っていう公開講座で言ってたんだけど、いまでこそ前躯快感は最終快感に至る前の前戯みたいなことになっているけど、実は前躯快感こそが人間の本質的なエロスであって、性器的な欲望なんていうものは人生のある時期にちょこっとだけある副次的なものに過ぎない、と。近代は前躯快感的なエロスを過小に評価してきたんじゃないかというの。

相: すると性器的な欲望というのは、思春期の男性にのみ一時的に発生する欲望ということになりますか。

藤: そう。それに見合うように女性にも一時的に発現する。

相: ペニスがどうしようもなく勃起してしまい、それをなんとかしたいという話で、いわゆる性衝動というやつですね。

藤: そう。でも、それは人間の一生からいえば、非常に限定された時期に過ぎない。触手ってさ、必ずしもそういう性器的な最終快感じゃなくてエロスの根源ともいえる前躯快感が最大限に拡大されてるわけじゃない。まさに、くすぐられるという感覚の延長でしょう?

相: あれがこちょこちょマシーンだとギャグになってしまいがちですけど、触手だとなぜかエロスが描ける。でもこちょこちょマシーンでいうと、「初代ルパン三世」の第一話で峰不二子がこちょこちょマシーンで虐められているのを見てすごくいい! という人もいて。やっぱりその流れなんだなあと。あれでエロスを感じる人もいるんですよ。

藤: 実はこちょこちょで高まっていくほうが女性にとってもいい。擽感(らくかん)っていうらしいんだけどね、くすぐりの感覚。擽感は女性のほうが優れているんだって。

は: そうなのかな。ぼくも触られるとけっこう嬉しい。

相: レズビアンはそういう感覚を発達させるというふうに聞きますけど。

藤: そうだと思う。それから男の子でも若い子だと、くすぐられて気持ちいい感覚、全身が気持ちいい感じを好む子が増えてるんじゃないかなと思う。昔の男の子のほうが性器的に感覚を集中しなきゃいけないみたいなとこがあって、レイプをするにしてもすぐ性器を挿入する。でも、性の中心はくすぐるくすぐられることにある、ってことになると、レイプといっても何をやってるのかみたいなことになるわけじゃない(笑)。

相: そうすると多形倒錯的なのは少年期だけの、男の子同士が戯れること、あるいは戯れているのを見て、やたらとエロティックだと感じる、ってだけではなくて、ずっと普遍的に存在するものではあると。

藤: それは年齢を問わないし、性別を問わない。

相: 勃たなくなっても……。

藤: もちろん大丈夫。

相: でもそれは、やっぱりそういうものが見たいという側の幻想によって枠付けされているようにも思えます。少年同士が戯れていると「いいわ」となるけど、30代の男同士が、課長が部下の肩を気安くもんだりナデナデして「やめてくださいよー」などと言い合ってるのはどうなんでしょう。

藤: それはそれでいいんじゃないの(笑)。そういうので「おお!」と思う女の子も多いわよ。

相: なるほど。やおいが好きな人も性器的な欲望を、男×男関係に投影したい人もいれば、そういうところまで読みとって上司の二人はエッチだなあ、というふうに陰から観察しているテイストの人もいるんでしょうね。

サ: 老人二人のひなたぼっこでも、もう……。

一同:(笑)

藤: やおい回路がそこにあるわけ。だからやおい回路ってそういう前躯快感的なところに近いよね。

サ: 現実の二人の間に何もなくてもいいんですよ。妄想というかやおい回路のつけいるスキさえあれば。

相: つまり、もう肉体的ふれあいのさらに手前にある。

は: 「攻め」と「受け」なんて考えながら見るのですか?

藤: 攻めと受けみたいなのは最初には想定として必要だとしても、そのうちにそういうところを取り外しても楽しめるようになるのよ、きっと。

は: 攻めと受け感覚ってのはよく解らなくて、理屈でこっちが攻めこっちが受けって考えて女の子に聞くと、「いや違う」って言われちゃうんですよ。ぼくらは理屈で、キャラ配置がこうなっていると、こっちが攻めでこっちが受けだろうなどと考える。メガネくんは「受け」とか。そこを女の子たちは直感で理解しているように見える。

サ: わりと理論的に考えると思いますよ。たとえばはいぼくさんと相沢さんがいた場合、理論的には相沢さんが受けっぽいです。

は&相:ええっ!

藤: それはどういう理論なの?

サ: 相沢さんのほうが顔が丸いとか。年下とかそういうの。

藤: 顔が丸いほうが受けなの?

サ: やおいの歴史的にはそういうことが多いですね。そういうことが多いけど、ここはひとつこっちを受けに、とかハズして考えて、思いつくかぎりのパターンを検討した上で、おちつくところへおちつかせます。

は: メガネくんが「受け」ってのはどうなんだろう、三井×木暮とか、グー×ハーとか。

相: 逆にちょっと受けっぽく見えるほうが小悪魔的で(笑)。

藤: だいたいやおいの場合、受けのほうが主導権を握るんでしょ。さっきのレディースじゃないけど、「こんなにまで欲されている」。欲しているほうは、「おまえがこんなだから悪いんだ〜」、「オレは欲情しちゃうじゃないか〜」みたいなところがあって。

相: そういうやおい的なエロスを伺っていると、男性と女性では抽象度の度合いが違うんだなと気づかされます。たとえば男性の場合は、眼鏡っ娘が好きとかメイドが好きとかおかっぱが好きとか、ある種人間という対象を構成要素まで抽象化してとらえる傾向があるんですけど、女の子はそういうふうに抽象化していくよりもカップリング、つまり関係性のほうを重要視する。老人二人がいてそれだけでもいいわ、っていうのは、もっと具体的じゃないですか。

藤: 具体的だけど抽象的でもある。肝心なのはシチュエーションじゃないですかね。場面設定というか。女の子の場合は相手は「好み」であれば具体性はどうでもよくて、むしろ物語というか場面設定のディテールを重視する傾向にある。それに対して男の子は、「今日はこの娘をおかずにしよう」とかするわけでしょ。でも女の子は、「今日はこのシチュエーションでいこう!」(笑)。具体的な相手の顔は設定しないことが多い。もっとも私の友達の中には、実在の人物を設定して、最もそれっぽくない相手でできるか(笑)、というのを競いあっている人たちもいますが。【後半へ続く】

手がたくさんある
水城ケイ「罪と罰」1993年。『香港夜想』竹書房所収。
団鬼六
作家。1931年滋賀県生まれ。関西学院大学法学部卒業。在学中より井原西鶴に傾倒。26歳で「オール讀物」新人杯に入選後、作家活動に入る。30歳頃から官能小説を手がけ、『花と 蛇』『夕顔夫人』などを執筆し、SMの代名詞として名を馳せる。1989年、断筆宣言。その後「将棋ジャーナル」の社主を経て、同誌廃刊後の1995年、『真剣師小池重明』で復帰。未だ 現役活躍中。 →[公式サイト]
小倉千加子
1952年大阪生まれ。かつて上野千鶴子をして「こんなに芸のあるフェミニストはいなかった」といわしめた、話芸の達者な関西系フェミニスト。心理学博士(早稲田大学)。現在、愛知淑徳大学教授。 主な著書に、『セックス神話解体新書』『女の人生すごろく』(ちくま文庫)、『松田聖子論』『アイドル時代の神話』(朝日文庫)、上野千鶴子・富岡多恵子との共著に『男流文学論』(ちくま文庫)がある。最近、『セクシュアリティの心理学』(有斐閣選書、2001年、1,500円)では、紡木たく、鈴木由美子、多田かおるなどの少女マンガを素材とし、「セクシュアリティをどう受けとめるかという重いテーマがどの少女漫画にも通底しています」(p.154)と評価している。
三井×木暮
『スラムダンク』における、三井と木暮のカップリング。木暮はメガネくん。1993年から人気を集め、現在でも根強い人気がある。作品内で「メガネくん」という単語が多用されており、「メガネくん」という概念が形成されていく上で大きな力を持ったと推測される。 青少年のための少女マンガ入門[よしながふみ]も参照。
グー×ハー
『サイバーフォーミュラ』における、グーデリアンとハイネルのカップリング。ハイネルはメガネくん。1992年に人気が大爆発し、現在でも根強い人気がある。グー×ハー以後、メガネくんというジャンルがコミケで目に見えて形成され始める。ちなみに現在注目を集めているメガネくん作品は、『ハリー・ポッター』シリーズ。
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