TINAMIX REVIEW
TINAMIX
東浩紀インタビュー TINAMI(X)との対話 オタク的図像と検索型世界像
東:東浩紀 ま:まさしろ 相:相沢恵

2.新規登録され続ける萌え要素

ま:
インターネットでそういう試みをはじめた、というのは、最初はよくあるジャンルを漠然と分類するというような、わりと考えなしだったんです。でもひとつラッキーだったのが、インターネットの世界が「やりたい人からはじめる」というスタイルだったおかげで、アマチュア中心のクリエイターが自分のイラストをあげてきたこと。技術的制約から、まずイラストレーション中心の作品を発表することからはじまったこと。そういう意味では、アマチュアのクリエイターが好む図像をある程度分類できたと思うんです。

たとえばTINAMIをはじめた96年の段階では、分類していて多いと思ったのがやはり「ねこみみ」でした。分類していくうちに一定の傾向が見えてきたり、また分類している方もオタク的な図像というものに自覚的になれたのはラッキーでした。そうしたなかで「天使」であったり、「ぷに」と呼ばれるディフォルメであったり、あるいはメイドであったり、いわゆるフェチにもつながるような図像を自覚的に整理できましたし。そういう意味では東さんがさっき言いましたが、「僕の絵は天使が20%くらい入った絵」であるといったように、絵を描いている作者自身が数値化した、いままでなかったスタイルで自覚できるところはおもしろいと思います。

東:
おもしろいよね。それに加えて、さっきも言ったけれど、どんどん要素が開発されていくところも興味深い。髪の毛の触覚はいまやほとんどデフォルトになっちゃったくらいでわかりやすい例なんだけど、あれはかたちとしてみれば、のび太やオバQにも触覚があるといえばあるわけで、マンガを描いたときになんとなくあそこに線を描きたくなる、そういう系譜はおそらく昔からあったんだろう。

写真2

でもいまのデザインの流れをみると、あそこに毛が何本かあったらカッコイイという曖昧で美的な判断じゃなくて、「これは触覚、だからこうなってるの」ときっぱりはっきりした選択になっているんだと思うんですね。まず「触覚」という要素があって、それを使うか使わないかで動いているというか。しかもその要素がごく最近発明されたもので、これからもしばらくしたら何が発明されるかわからない、そういう点がとてもおもしろい。

ルネッサンス・ジェネレーションの講演でも言ったけれど、かつてのフェティシズム理論であれば、メイド萌えの人はずっとメイド萌えなはずなの。しかもなぜメイド萌えかというと、普通はマザコンとかね。つまりお母さんがすごく強かったせいで、対等な女性に対して欲望が抱けないから家政婦に萌える。こういうのは昔からあって、精神分析の初期の症例にもメイド萌えの患者は出てくるんだけどね。ところがオタクのフェチって、どうも構造が違う。

ま:
フロイトの話だと「最初に見たものなら何でもよいのだ」なわけですよね。オタクの場合だと、メイド萌えだったら一生メイド萌えなわけではなくて、たとえばメイドにさらにメガネをかけた女の子がよいのだとか、天使の羽がついているのがよいのだとか、ひとつのフェチではなくて、多岐にわたった、要素の組み合わせとしてオタク的図像はできあがっていて、それに対する洗練がされている現状があると思います。

注3:眼鏡っ娘論のはいぼくさん
本誌評論『めがねのままのきみがすき』の執筆者で、『少女マンガ入門』の監修も担当しているはいぼく氏のこと。熱烈なめがねっ娘愛好者として知られる。

東:
これは斎藤環さんに訊かないとわからないけど、精神分析的に正確に言えば、オタクの「フェチ」や「萌え」はフェティシズムとは違うと言わざるをえないんじゃないか。少なくとも、僕は最近そう考えてきている。オタク系文化の特徴は、とにかく、萌えの対象がどんどん変えていいくことにあるわけで、その結果、対象と現実の性欲が切れていることが多い。メガネ萌えといっても――TINAMIXで眼鏡っ娘論を書いていたはいぼくさん*3は違うみたいだけど(笑)――、現実のメガネ少女に萌えるのか、というのはまた全然違ったりするじゃない。

ま:
メガネよりもわかりやすい例でいうとショタですね。

東:
ロリコン、ショタコンは網状言論でも話題になりました。絵の上でのフェチと現実のフェチが違う、という問題。これは斎藤さんの理論だと「二重化」、僕のいい方だと「オタク的シニシズム」でも説明できる現象ですね。「現実は違うんだけど、違う現実だからこそ、そこで遊んでみる」とか。でも僕は、「萌え」は、またそれと違った理屈で動いているように思うんですよ。相沢さんなんかだとどうです?

注4:塔矢アキラ(とうやあきら)
塔矢週刊少年ジャンプに連載中の『ヒカルの碁』(原作 ほったゆみ・漫画 小畑健/集英社)に登場する主人公の好敵手。囲碁が持つ古風なイメージ、名人の息子という設定が、おかっぱの少年という時代錯誤な要素をひきたてている。 【図版(c)小畑健】

相:
『ヒカルの碁』に塔矢アキラ*4という主人公のライバル的な少年がいるんですけど、彼に萌えるというのはありましたね。というのも、塔矢アキラは男の子なのに「おかっぱ」で、しかも小畑健の絵がたいへんうまいので肝腎のおかっぱも非常に美しく描かれている。僕は「おかっぱ」萌えなので、男の子であるにもかかわらず、図像的な要素にやられて塔矢アキラ萌えになる、「おれはショタコンだったのか?」というのは経験上ありましたけど。しかしそれがフェティシズムであるか、ないかで苦しんでいるかといえばそんなこともなくて、感覚としてはもっと軽いものに思えます。

東:
とはいえ難しいのは、オタク的なフェチは「軽い」というけれど、行動だけ見ると多額のお金をグッズに注ぎこむわけで、実際にそれで自慰行為するかはともかく、そのコレクションの欲望はやはりフェティシズム的だと言える。だから、オタクの消費行動にはフェティシズムに似た側面もある。それなのに対象がどんどん変わっていく、これはなんだろう、というのが、昔から僕の疑問なんですね。

一時期、パラノ/スキゾというのがありましたね。簡単に言うと、「パラノ」というのはひとつのことにこだわり続ける人で、「スキゾ」はどんどん関心を移していく人のことですが、その意味でいうと、僕は、オタク的な消費行動ってまさにパラノとスキゾが合わさったものだという気がしてきたんです。パラノイアックにグッズを集めるくせに、その対象はどんどん変わっていく。「おまえこのあいだまでメガネ萌えじゃなかったっけ」みたいなやつが、全然変わったものにどっぷりハマっている。実際、こういうケースがとてもありふれているからこそ、オタクのマーケットって、モードを変えつつ成長できる。メイド萌えのやつが一生メイドだけに萌えていたら、これはあまりに堅実な集団で、もうマーケット・リサーチも何もないわけでしょう。

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