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阿部:おもしろいことに、『D』では物語が進むほど主人公の周辺事情が明確になっていくのに、『湾岸』はどんどんわからなくなっていくんだよ。アキオ自身が本当に希薄になってしまって。途中から周囲が、たしかに悪魔のZもすごい、しかしアキオってやつもすごいみたいなことをみんなで言い出すでしょう。でも何がすごいのかってよくわかんないんだ。さっき言ったフラットレーシングのやつが登場した時に、悪魔のZってどういう車か調べ始めるじゃない。地獄のチューナー北見とは誰だ、とか。あの辺からいろんな歴史がバーッと出てきて、世界が一気に広がるのね。
東:両作の作者二人が『NAVI』(2000年1月号)で対談しましたね。そのとき楠みちはるが、『D』は技術を、『湾岸』は人間を主題とした作品だ、とまとめているじゃないですか。確かにそれはそうなんだけど、でも正反対の言い方もできると思うんですよ。と言うのも、『D』では、さっき阿部さんが説明してくれたように、車は人間の隠喩なわけです。ですから『D』は、車を通して語った人間の物語だと言える。でも逆に『湾岸』では、登場人物たちのコミュニケーションがきわめて希薄ですね。彼らは互いにチューニングやバトルを通して知り合っているだけで、走りを止めてしまえば二度と会わないかも知れない、という覚悟をつねに持っている。14巻でヒロインの友人の過去が導入されてようやく人間的な物語が始まるけど、3巻からそのあたりまではただ延々と技術的な会話が交わされるだけで、人物設定がほとんど見えない。いったい何年が舞台で、みんな何歳くらいなのかも分からない。それでやたらと、「どこまでも踏んでいける」とかいうポエムが続く。
砂:「どこで裏切られるのかわからない」とか。
阿部:「でも俺は信じる」とかね(笑)。
東:そういう決まり文句が語られるのは、走ることが普通の論理では正当化できないという強い意識があるからですね。俺たちは単にやりたいからやっている。バトルも結局は数分の話で、そのあとはお互いバラバラ。出会えるか、出会えないかもわからない。そんなことばかりなわけです。だから、『湾岸』こそむしろ人間の話はしていない――というか、普通の意味での「人間的なもの」は描いていないと言えると思うんですよ。
逆に言うと、今はむしろ、そういうコミュニケーションの方がリアルなのかもしれない。登場人物たちは、車という「もの」を通してしかコミュニケーションが取れない。しかし「もの」を介して結びついてるといっても、そのスペックもまたどんどん交換されるわけで、「もの」を擬人化することもできない。車を通して人間を語ることもできない。だから彼らは、テクニカルタームでしかお互いの意志を伝えあえない。そういう殺伐とした世界が描かれている。
阿部:平気で自分の車貸し借りして、人の車に乗りあってるんだよね。これは『頭文字D』では考えられない。
砂:楠みちはるはそこで何か考えようとしてますよね。
阿部:考えてる、何か思想があるんだよ。俺は思想にやられたんだよ。
砂:『ガンダム』みたいになってるから。走りながら、ニュータイプ同士が……。
阿部:ミノフスキー粒子が、とか言ってるようなものなんだよ。
砂:ニュータイプなんかと本当に並行的ですよ。あれもコミュニケーションレスの宇宙空間で、いかにコミュニケーションらしきものがつくられているかって話だから。
阿部:ブラックバードはシャアみたいだもん。
一同:そうか、シャアか!
砂:妹もいたし。
東:それは間違いなさそうですね。とすれば、 『湾岸』は実は、セイラがいなくなった後のニュータイプたちの物語というわけだ。なるほどねえ……。
阿部:決定的な話が出たね……。
砂:富野由悠季もひたすら何かを考えていた人だし。ロボット同士の戦いを描きながら、断片化したポエムのようなセリフを叫ばせる。
東:コミュニケーションレスな世界で、いかに機械を通して分かりあうか、というのは楠作品にかぎらず大きなテーマですよね。とにかく、『湾岸』で描かれるコミュニケーションは注目すべきものだと思います。バトルにしても、環状線をぐるぐる回っている時に偶然出会って、突然開始される。それで混雑してきたらおしまい。実はこれは、ウェブのチャットにとても似ていますよね。匿名性や一時性という点からも。
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