|
6.
東:ここで少しまとめを入れると、三つの観点を区別するべきだと思うんです。表現論的の話と、物語構造的な話と、そして社会批評的な話。『D』がマンガ表現として傑出しているという話はすでに砂さんから語られているし、また、『湾岸』の物語的な魅力についても阿部さんの基調報告のなかですでに語られている。その両者についてはお二人とも異論がないようなので、ここで社会批評的な観点、つまり、「この両作に見る90年代的な問題」といった話題に移行したいと思います。
それで少し個人的な話から入ると、実は、最後の方に出てくるフラットレーシングのチューナー(黒木)が、実は僕と同い年くらいなんですね。
阿部:そうか、あのGT-Rに乗っているやつだね。
東:彼は一回サーキットで成功したんだけど、プロとして商売し始めるとみな腐っていく、しかし俺は公道で走り続けるんだ、という人物でしょう。これは僕にはすごくよくわかる話だったんです。というのも、思想とか批評の世界にもサーキットの隠喩があるんですね。日本国内のサーキットじゃなくて、世界サーキットに出る、いずれF1に出る、みたいな話です。そして実際に80年代以降、だいたい90年代の半ばまで、日本の思想は誰が一番「速い」かばかり競いあってきた。『批評空間』のサーキットがトップにあって、そこでいちばん頭が良い浅田彰だけが世界でも活躍している、F1でも頑張っているんだ、みたいな話ばかりが交わされていた。しかし実は、そのあいだに一般人のギャラリーはどんどん引いてしまっていたわけですね。その結果、最近ではついに『批評空間』サーキットまで閉鎖されてしまったわけで、まあ、思想界でもレーサーの時代に一区切りついたと言えるでしょう。
そういう場合、元レーサーには三つの道が考えられますね。ひとつは、単純にレーシングを諦めるという道。黒木の仲間のチューナーは、それを選んだわけです。もうひとつは、新たなサーキット、新たなライバルを求めて国外に出るという道。『D』の第二部はそういう展開になりそうなわけです。これはこれで格好いいんだけど、しかしそこには落とし穴がある。その手の対決モデルは、敵を倒したらまたほかの敵を倒し、その敵を倒したらまたステージを上げて……、と、キリがなく一番を証明していく世界じゃないですか。でもこれには終わりがない。かりに本当に「世界最速」のレーサーになったとしても、死ぬ前のセナがいたらどうなのか、ほかの時代に生まれていたらどうなのか、みたいに無限に対象を拡大していくことができる。それに、思想の世界に話を戻せば、こういうときは絶対に言語や歴史の壁にぶつかります。運転の種目を変えてまで「速い」ことを証明することに何の意味があるのか、絶対にそういう疑問が生じる。
こういう点で『湾岸』を読むと、あれが第三の道を描いていることがよく分かります。首都高は公道だから、低速の車がいっぱいいる。しかしそのなかをできるだけ速く走る。敵が来たらバトルするけれど、そのバトルの条件はつねに変わるし、客観的な記録など測りようがない。参加者もみんな条件が違う。金持ちは単純に有利なわけで、たとえばブラックバードは医者という設定ですね。そういう不均等な条件をそれぞれが抱えたなかで、できるだけ速さを追求する。裏返せば、速さそのものは追求し続けるけど、それだけをサーキットのなかで純化するわけではない。自分の不利な条件を背負いつつ、仕方ないからここで走る。僕はこのリアリティには、ちょっと感動したんですよ。
各人は各人の不利な条件を抱えている。けれども、スポーツってのは、そういう不均等を隠したところに成立するわけですね。『D』でも、いくら高級なエンジンを積んでいる車よりも、実は豆腐屋のハチロクが一番速いという設定がある。けれども『湾岸』には、金をかければ速いし、結局走りは金を持ってるやつしかできないし、だから金がなくなったら終わるしかないんだ、という残酷なリアリティがある。しかもここで一番になったからといって、じゃあサーキットに行くというわけでもない。というか、サーキットを走っていてもキリがないし、そこにはもう夢をかけられない。日本で今物書きになるというのは、多かれ少なかれこういう感じじゃないかという印象を僕はもっていて、阿部さんが『湾岸』を評価する理由にはそういうところもあるんじゃないかと思ったんですが。
阿部:なるほどね、それはよくわかる。それは少なからず実感している部分はあって、自分の状況なんかと重ねて読んでいたところはある。文芸誌のなかにいて、芥川賞レースを走らされることの虚しさというのは非常に大きいからね。しかし腐るのも避けたいから、別の道を模索するわけだ。
東:言い替えれば、『湾岸』はバブル崩壊後の世界を描いているんですよね。80年代に盛り上がった世界最速への幻想が崩れ、障害物がいっぱいある世界がはっきり現れてきた。バブルのころは、誰でも1年後には大金持ちになれるかもしれなかった。全員が同じスタートラインに立っているように見えたし、加えて、日本の消費社会は世界最先端だとよく言われていた。でも90年代はまったく違う。長期不況のなかで、生き残るやつは、もう「速さ」は諦めて消費者だまして金儲けをするしかない。そういう条件のなかで、俺は俺のできる状態で湾岸で走っていくしかない。そしてそのときに、速さの追求を正当化する論理なんてもう何も見つからないわけですよ。実際、この作品には「正当化できない」という台詞が妙に多い。
阿部:それでおもしろいと思うのは、楠みちはるの奥さんもマンガ家なのね。最近『モーニング』に、楠が原作で奥さんに描かせているマンガがあって、それがブローカーの話なの。まさにバブル後の東京の整理をやっていく、それに女性編集者が付き合って取材する話なんだけど、見事に対応しているわけだ。バブル以後を見てるんだってことは明白だなと思ったよ。
東:だから、『湾岸』は社会批評的な観点からもとてもよく読めるわけです。そういう点では、『D』と『湾岸』は違うベクトルを描いた作品ですね。『D』の主人公は圧倒的に希望に満ちている。とすれば、僕が『湾岸』に共感できたのは、もしかして年齢を取ってきたからかも(笑)。
阿部:その話に繋げるとね、僕の場合も5年前だったら、『D』はおもしろいけど『湾岸』はつまらない、と言ってたかもしれない。なぜかというと、どうしてもテクニックを読んじゃうわけ。それはくらもちふさこの『天然コケッコー』(集英社)がおもしろいとか、あだち充の『タッチ』がおもしろいって言ってたのも、技術面が大きかったから。ところがこの年齢になって、『湾岸』で描かれているものがよく見えてくるようになってしまったんだな。単なるセンチメンタリズムには回収できないリアリティが確かにある。それはね、否定できない。
|