阿部和重 INTERVIEW
TINAMIX
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阿部:『D』第一部の始まり方も見事だったけれども、第一部の終わり方も綺麗にまとめられてる、と思ったんです。第一部では、拓海の自意識と現実とのギャップがあって、そのギャップが拓海となつきとの関係に置き換えられる。たとえば途中で、拓海はなつきの援助交際を知ってしまうわけだ。その衝動でランエボのドライバーとのバトルに出かけて行ってしまって、ハチロクのエンジンがオシャカになってしまうと。これで一旦、どちらも失うんだよね。拓海にとっては、ハチロクは親父の車だという認識がずっとあった。けれど自分の車を持ちたい、という気持ちが少しずつ芽生え始めて、それをなつきとのデートの時に口にする。なつきっていう娘はそもそも、別の意味で「パパ」のものなわけだ。だからこちらもまだ自分のものではない。こういう話の絡みがうまいな、とも思ったんだ。

写真次に新エンジンを搭載したハチロクに乗るわけだけれども、乗り心地が悪くて最初はパワーが出ない。乗りこなすのに時間がかかるんだよね。この辺りにも、なつきという生身の女性に苦労する拓海、という構図が見える。新エンジンを搭載したハチロクで誰と戦うか、というのもまた巧いんだけど、最初の相手というのがハチロク・トレノの兄弟的な車としてあるハチロク・レビンなんだ。まったく同車種のやつと戦って、そして勝つと。次に戦うのが、以前のハチロクで負けているランエボ。さらに次に戦う相手が重要で、小柏カイという拓海にとっては双子的な存在なわけだ。親父同士がかつてのライバルで、同じように英才教育によって育てられたすごいドライバー。そいつにも勝つ。

つまり単純に言えば、自意識と現実のズレというのが、自分の分身的存在に勝つことによって解消されていく。それに応じてまた、なつきとの関係というのも回復していく。その直後に、第一話で語られた部活で起きた揉め事の原因となった三木先輩とのいざこざが、今度は車を介して再現される。ようやくそこで、拓海はなつきに「好きだ」と口にして、プロのドライバーになる決意を告白する。最後の別れの前に、なつきを助手席に乗せて秋名の下りのコースレコードを塗り替えるほどの運転をするんだけど、そこに「この瞬間だけが… ぎこちなくスレ違い続けた二人の意識がひとつに通じあった瞬間であった」っていうナレーションが入る。ズレがようやく解消されて二つの意識が重なったわけだけれど、しかし「この瞬間だけ」なんだ。

東:もともと車は、精神分析的には女の隠喩ですからね。両方とも「乗る」ものだということで。だから今の話は、そのレベルの話で言えば、『D』とは拓海がセクシャリティの主体として目覚める話だ、ということですよ。いろいろあったけれど、拓海はついに車=女を欲望する自分を引き受けることができるようになった、と。

砂:うわ、いきなり整理されてしまった!

阿部:君の仕事はそういうものだよ!

東:まあ、今日は司会ですから(笑)。それで、その整理で行くと、第二部以降がむしろ気になりますね。第一部は、好きだけど告白できない車=女の子との葛藤を軸にして、それが解消されていくプロセスとして順調に進んでいった。けれど第二部ではその問題はもう解消されているわけで、ハチロクはコントロールできるようになったし、なつきともセックスしちゃったし、拓海はどうするのか? 次に来るプロセスとしては、新しい女の子と次々とセックスしまくる、つまりは新しい車とどんどんバトルしまくる、という展開がオーソドックスだけれど、そこはどうなるのか。

それで話を広げると、『D』が車=女の子を手に入れる物語だったとすれば、『湾岸』では、そもそも車の捉え方、描き方からして違うような気がします。ひとことで言えば、『湾岸』はスペック主義なんですね。エンジン積み替えたり、エアロをいじったり、ボディを分解したり、車は単なる部品の集積、道具としてクールに捉えられている。これと、車の同一性を重視して、エンジンの積み替えに嫌悪感を示した拓海の態度には大きな違いがある。

写真そこで、僕が『湾岸』でひとつ連想したのは、実はコンピュータです。『湾岸』でチューナーたちが交わすテクニカルな会話は、HDD増設、メモリ増設、USBポート二つ搭載、みたいな話に限りなく近い。このような態度と、車をセクシャリティの対象として見る態度はどこか違いますね。たとえばiMacが受けた理由のひとつは、あのコンピュータがセクシュアリティの対象、フェティシズムの対象になったことにあると思うんです。今までコンピュータを避けていて、iMacに飛びついた新しいユーザたちは、おそらくiMacの中身はいじらない。iMacはあの形で「ひとつ」で、それをモニタやモデムやメモリやCPUに分解しちゃいけないんです。裏返すと、コンピュータを大々的にフェティシズムの対象にする、というのがアップルの戦略だった。

この隠喩で行くと、『D』の車はiMacのようですね。それは一種のペットで、だからこそなつきとも比較される。でも『湾岸』では車はスペックに分解される。その結果、実はあの作品では、車という「もの」への執着が薄いようにも見えるじゃないですか。かけがえのないフェティッシュとして存在しているのは、せいぜい悪魔のZだけだけど、それだって改造を重ねているし、ブラックバードのポルシェも相沢のスープラもそうですね。だから、車への愛の表現として、『湾岸』と『D』では大きな違いがある。そこらへんはどうですか?

阿部:『湾岸』における車の扱いって、ひとつは歴史の結節点みたいな面もあるでしょう。たとえばフェアレディZが今湾岸を走っているかっていったらありえないわけ。ところがもう何代も前のZが何度も死と再生をくり返して今走っている。結局アキオが復活させたことで、すでに引退してしまったようなチューナーたちがそこにまた集まってきて、一台の車に込められた時間と出来事を再び取り戻していくわけでしょう。もはや車ならざるものとして、歴史上の様々な場面に通ずる媒介物のように扱われているな、というおもしろさは感じたんだよね。その後も最新型のGT-Rとかも出てくるけど、明らかに悪魔のZより速いであろう車のオーナーでも、このZに対しては過剰な思い入れを持ってしまう。

砂:『湾岸』に関しては、最初のZが潰れた、つまり車の固有性がなくなった3巻以降からが急激におもしろくなっていくんですよ。

東:もしかして、作者自身が、アキオは関係なくなった、悪魔のZの固有性にこだわっていてはダメなんだ、という判断を自覚的に下したのかも知れませんね。3巻以降の悪魔のZは、一種の思い出みたいなものですよね。登場人物の心の中に取り憑いて、湾岸を走り続ける……。

阿部:幽霊だよ、完全に。

ハチロク・トレノ
ハチロク・レビン

1983−1987年にかけてトヨタから販売されたAE86型レビン/トレノのことを「ハチロク」と呼ぶ。AE系最後のFR(フロントエンジン・リア駆動車)。

ランエボ
ランサーエボリューション(三菱自動車)。須藤京一が乗るのはエボリューションIII。

フェアレディZ
日産が「庶民のジャガー」として発売し、日本で最初に280PS(馬力)に到達した車。以後この数値が国産車のメーカー上限規定となる。

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