No.953424

自殺志願少女と誘拐犯 【第1話〜第7話】

瑞原唯子さん

オレに誘拐されてみないか——。
ある夏の日、千尋は暴走車に飛び込もうとした少女を助けると、
そう言って彼女のまえに手を差し出した。


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2018-05-22 21:16:51 投稿 / 全8ページ    総閲覧数:1146   閲覧ユーザー数:1146

第1話 誘拐犯になった日

 

 つまらない人生だな——。

 

 梅雨が明け、もう一週間もカンカン照りの猛暑日が続いていた。

 インクをそのまま流し込んだかのような鮮やかな青空に、まぶしいくらい真っ白な入道雲。アスファルトの上には陽炎がゆらりと揺らめき、アブラゼミもここぞとばかりに大合唱している。

 そんな中、客先での打ち合わせを終えた遠野千尋(とおのちひろ)は、ビジネスリュックを背負い、スーツの上着を片手に掛けて、さほど車通りの多くない交差点で信号待ちをしていた。

 容赦なく照りつける強い日差しにジリジリと肌を灼かれ、顔からは止めどなく汗がしたたり落ちる。最初はハンカチで拭っていたがもうあきらめた。まぶしすぎる直射日光に眉をひそめて、そっと息をつく。

 これといって不満があるわけではない。

 大手企業に入社して七年。システムエンジニアとして真面目に仕事をこなすうちに、幾度かの昇進を重ね、いつしか責任のある仕事を任されるようになった。待遇にも問題はなく、ひとりで生きていくには十分な給料をもらっている。

 私生活においては、趣味といえるほどではないがささやかな楽しみを持っている。友人や恋人はいないのは千尋自身が求めていないだけだ。自分ではそれなりに悪くない日々だと思っている。

 けれど、例えばこんなふうに赤信号に足を止められてぼんやりと立ちつくし、暑さのせいか疲れのせいか思考がからっぽになったときなどに、ふと人生が虚しくなる一瞬があるのだ。

 

 正面の信号が青に変わった。

 しかし、黒のワンボックスカーが交差点の右手側から突っ込んでくる。改造マフラーで爆音を響かせるいかにもな車だ。通行人にしかすぎない千尋に止められるはずもなく、通り過ぎるのを待つしかないなと溜息をついた、そのとき。

 隣の少女がすっと前に進んでいく。

 千尋はギョッとし、反射的にその細腕をつかんで力いっぱい引き戻した。のけぞる少女のすぐまえを、ワンボックスカーがすさまじいスピードで走り抜け、紺色のプリーツスカートをかすめてバサリと音を立てる。少女は後ろによろめいて点字ブロックの上に倒れ込んだ。

 危なかった——。

 あまり物事に動じないタイプではあるものの、これには心臓が縮み上がった。いまだに動悸がおさまらない。深く息をつき、足下に落としてしまった上着を拾うと、立ち上がろうとする少女に手を差し伸べる。随分と幼げに見えるが、セーラー服を着ているのでおそらく中学生だろう。

「青信号でも左右を見てから渡れよ」

「すみません」

 彼女は動揺もせず、何事もなかったかのように醒めた目をしている。確かに血が出るような怪我はしていないし、骨折の心配もなさそうに見えるが、だからといってこの落ち着きぶりは腑に落ちない。

 千尋は近くに放り出されていた学生鞄を拾い上げる。それに気付いた彼女が受け取ろうと手を伸ばしてきたが、無視して自分の肩にのせた。困惑する彼女にそのままじっと冷ややかな視線を送る。

「おまえさ、車が来てるのわかってたんじゃねぇの?」

「…………」

 どうやら読みは間違っていなかったらしい。

 あのとき彼女はまっすぐ正面を向いて歩いていた。静かな風景のなかで動くものは目につきやすいし、何より爆音が響いていたので、よほどのことがないかぎり気付くと思ったのだ。

「ちょっと来い」

 千尋は学生鞄を脇に抱え、折れそうなほど細い手首をつかんで歩き出した。

 

「ほら、飲めよ」

 公園前の自動販売機でペットボトルのお茶を買うと、戸惑う彼女に押しつけた。

 同じお茶をもうひとつ買って公園内のベンチへ移動する。片側だけ木陰になっていたのでそこに彼女を座らせ、千尋は傍らに立つことにした。さすがに灼熱のベンチに座る気にはなれない。

 足下にビジネスリュック、学生鞄、上着を置いてペットボトルのお茶を飲む。炎天下を歩いていた体にはその冷たさがありがたい。喉の渇きも手伝ってすぐに飲み干してしまった。

 そんな千尋を横目で見て、ようやく彼女もペットボトルのキャップを開けた。両手で持ちながらちびちびと飲んでいく。しかし半分も減らないうちに腿の上におろし、うつむいた。

「なあ、おまえ死ぬつもりだったのか?」

「薄っぺらいお説教はまっぴらです」

 何を言われるかは察しがついていたのだろう。驚く素振りもなく、下を向いたまま身じろぎひとつせず淡々と言い放った。千尋はこれ見よがしに深く溜息をつきながら、腰に手を当てる。

「おまえが死のうが生きようがどうでもいいが、まわりの迷惑を考えろ。人を轢かされたほうはたまったもんじゃねぇぞ。オレも目のまえで惨劇なんか見せられたくねぇし」

「私は青信号で渡ろうとしただけです」

 彼女は怯むことなく白々しい答えを返した。思わず眉をひそめて振り向いた千尋に、ちらりと仄暗い目を向ける。

「悪いのは、信号無視をしたあの車じゃないですか」

「……なるほどな」

 つまり、あえて暴走車を狙って突進したということだ。迷惑をかけるならクズにしようと思ったのか、あるいは事故に見せたかったのか、いずれにしても思案したうえでの行動だろう。

 だとすれば、そう都合よく暴走車が通るとは思えないので、前々から機会を窺っていたと考えるのが自然である。気の迷いとか、出来心とか、そういう突発的なものである可能性は低い。

 彼女は表情を消し、ペットボトルを両手で持ったまま再びうつむいた。

「おにいさんを巻き込んだことは謝ります。すみませんでした。迷惑ついでに交通費を恵んでくれませんか。どこか遠い山奥まで行けるくらいの」

「自殺幇助するつもりはねえよ」

 まずいな——頭の中で警鐘が鳴り始める。

 軽々しく関わるべきではなかったのかもしれない。普段は他人に無関心なのに、どうしてこんな面倒なものに声をかけてしまったのだろう。そう後悔しているにもかかわらず興味がかきたてられるのを止められない。

「どうして死にたいんだ?」

「……生きる価値がない、みんなが嫌ってる、迷惑だから死んで、って物心ついたときから言われつづけて……もう疲れました。誰からも嫌われてるのに頑張って生きても意味がない。あのひとの望みどおりになってしまうのは癪ですけど」

 その発言のとおり、もう何もかもあきらめているように見える。絶望のあとに残った抜け殻のようだ。物心ついたときからというのが本当なら、もう十年くらいずっと虐げられているのだろう。そして——。

「それって、親か?」

「別に信じてくれなくてもいいです」

「信じないなんて言ってないだろう」

 実親か養親かはわからないが、どちらにしてもありえないということはない。子供にむごいことをする親なんていくらでもいる。詳しく聞こうとしたそのとき、彼女はペットボトルを置いて立ち上がり、千尋に頭を下げた。

「否定しないで聞いてくれてありがとうございました。ただの気まぐれだとしても嬉しかったです。最後に話をしたのがおにいさんでよかった……鞄はそのあたりにでも捨ててください」

「待てよ!」

 あわてて声を上げると、立ち去ろうとした少女はビクリとして足を止めた。

 ジジジジジジ——アブラゼミの鳴き声がやけに大きく聞こえる中、千尋は小さな背中を見つめ、じわじわと汗をにじませながら眉を寄せる。このまま彼女を行かせるわけにはいかない。

「死ぬくらいなら、いっそオレに誘拐されてみないか?」

「……えっ?」

 紺のセーラーカラーがひらりと揺れて、少女が振り向く。

 表情の乏しい顔のなかで瞳だけがわかりやすく揺れていた。そこに見え隠れするのは疑念と渇望だ。その相反する感情に雁字搦めになったかのように、彼女は声もなく立ちつくしている。

 千尋はすっと手を差し出した。

 その瞬間、彼女のなかで均衡が崩れるのがはっきりと見てとれた。まなざしにも確固とした意志が宿る。そのまま彼女はゆっくりと一歩踏み出して距離を詰め、そして——そっと千尋の手を取った。

 

 

第2話 不慣れな優しさは毒のように

 

「まあ、上がれよ」

 少女を連れてきたのは、購入したばかりの自宅マンションだった。

 3LDKという単身者には余裕のある間取りだが、結婚の予定はない。あくまで自分ひとりが快適に暮らすためである。他にこれといって金をかけることもないので、住まいくらいはと思ったのだ。

 子供のころ窮屈なところにいた反動もあるかもしれない。あのころは常に他の誰かと一緒で、ひとりになれる場所などどこにもなかった。それゆえ自分だけの広い家というものに憧れたのである。

 念のために買っておいた来客用のスリッパを靴箱から出して、彼女の前に置く。つい数日まえにタグを切ったばかりの新品だ。こんなに早く使う機会が来るとは夢にも思わなかった。

「おじゃまします」

 彼女はぎこちなく会釈してサイズの合わないスリッパを履き、千尋のあとをパタパタとついて歩く。遠慮がちにチラチラとあたりを見まわしていたようだが、残念ながら扉はすべて閉めてあった。

 突き当たりの扉を開けるとリビングダイニングだ。日当たりがいいので晴れた昼下がりにはかなりの熱がこもる。千尋はビジネスリュックを背負ったままリモコンを取り、エアコンを入れた。

「そこに座れ」

 四人掛けのダイニングテーブルを示しながら言うと、彼女は素直に従った。その表情や仕草からは緊張がありありと見てとれる。千尋は冷蔵庫を開けてオレンジジュースをグラスに注ぎ、彼女に出した。

「それを飲んでろ。すぐに戻る」

 そう言い残してリビングをあとにし、寝室に向かう。

 北側の寝室もそれなりに暑いが、長居をするつもりはないのでエアコンはつけない。背負っていたビジネスリュックを下ろし、上着をハンガーに掛けて、カジュアルな半袖シャツとジーンズに着替えた。

 会社には午後から有給休暇を取ると電話で伝えてある。今日中に片付けなければならない仕事はないし、以前から有給休暇を消化しろと言われていたので、急ではあるがすぐに了承された。

 リビングに戻ると、彼女はちょこんと座ったまま所在なげにしていた。グラスはすっかり空になっている。

 千尋も冷蔵庫を開けてオレンジジュースをグラスに注ぎ、その場で飲み干した。空のグラスを傍らの流し台に置くと、冷蔵庫にもたれて腕を組み、不安そうにしている彼女をじっと見つめる。

「おまえ、暇ならちょっと手伝え」

「はい……?」

 せっかくなので役に立ってもらおう——そう思い立ち、今度は彼女を連れてリビングをあとにした。

 

「引っ越してからまだ二週間くらいでな」

 書斎には、いくつもの段ボール箱が無造作に積んであった。

 中身はすべて本だ。仕事関係の本はすでに荷解をして本棚に収めてあるので、段ボール箱に入っているのはほとんどが漫画と小説である。3LDKのマンションを買った理由のひとつがこれだった。

 本棚は用意してあるが、そう急いで片付ける必要がないだけに腰が重い。休日もなんだかんだと理由をつけて後回しにしていた。だが、その気になればさほど時間はかからないと思う。

「段ボールには本が入っている。おまえは箱を開けてそれをすべて出してくれ。シリーズものは順番に積んでくれるとありがたい。本棚にはオレが入れる」

「わかりました」

 彼女は素直に応じて、重たい段ボール箱をよろよろと下ろし、素手でガムテープをはがし始める。カッターナイフを渡そうか迷っていたが、なくても大丈夫そうだ。万が一を考えると刃物は与えたくなかった。

 仕事ぶりは一貫して真面目だった。細腕で重いものを持つのに難儀しながらも、文句も言わず指示どおりにこなしていく。見やすいようにタイトルをこちらに向けるなど、細かい配慮もしてくれた。

 その本を千尋が黙々と本棚に収めていく。どこに何を収めるかはだいたい見当をつけていたが、実際にやってみるとうまくいかないこともある。入れ替えたり悩んだりして思いのほか時間がかかってしまった。

「やっと終わったな」

「はい」

 彼女はほっとしたように息をつく。

 エアコンを入れていたので汗だくというほどではないが、さすがに千尋も疲れた。そういえば昼ごはんを食べ損ねていたなと空腹で気付く。彼女も学校帰りなら食べていなかったかもしれない。

「メシにするか。疲れたからレトルトでいいか?」

「私は、何でも……」

 まだ外は明るいし、夕食にはいささか早い時間ではあるが、昼食を抜いているのでちょうどいいだろう。畳んだ段ボールを廊下の収納スペースに押し込むと、彼女とともにリビングへ戻った。

 

 夕食はスパゲティとポタージュにした。

 スパゲティは乾麺を茹でてレトルトのソースをかけただけ、ポタージュは粉末に湯を注いでかきまぜただけ。しかしながら馬鹿にはできない。特にこのパスタソースはそこそこ値が張るだけあってクオリティが高いのだ。

 ダイニングテーブルに食事の準備をして向かい合わせで席に着く。千尋がスパゲティを食べると、彼女もぎこちない手つきでおずおずと口に運んだ。その一口でびっくりしたように目を見開き、皿を見つめる。

「うまいか?」

「うん……こんなおいしいの、食べたことない……」

 きっと外食などしたこともなく、給食レベルのものしか食べていなかったのだろう。千尋自身がそういう境遇だったのでよくわかる。

「冷めないうちに食えよ」

 感情を抑えてそっけなく言ったつもりだったが、声には笑みがにじんだ。

 

 彼女が食べ終えるのを待って後片付けを始める。

 その後ろで、彼女は何か物言いたげにうろうろとしていた。邪魔だからテレビでも見ていろと言うと、しゅんとしてテレビ前のクッションに座ったが、テレビはつけずにこちらをチラチラと窺っている。

 さて、そろそろどうにかしないとな——。

 彼女のいるリビングに背を向けて皿を洗いながら、思案をめぐらせる。

 いまにも死のうとする人間を放ってはおけず、しかし簡単に思いとどまらせることもできず、誘拐などと嘯いて家に連れてきてしまったが、さすがに犯罪者になる気はない。落ち着かせてからきちんと説得するつもりでいた。

 

「なあ、おまえやっぱりここを出てけよ」

 後片付けを終え、隣のクッションに腰を下ろしてそう切り出すと、彼女は一瞬にして愕然としたように凍りついた。そのまま声もなく振り向く。千尋を見つめるその目には絶望の色しかなかった。

「いや、親のところに帰れってわけじゃなくてな。ここにいたところで何の解決にもならないだろう。警察に助けを求めたほうがいい。さっきの現状を話せば多分保護してくれるはずだ。オレが連れて行ってやるから」

 説得を試みるが、彼女はふるふると首を横に振るだけだった。

 千尋にとって都合がいい方法であると同時に、彼女にとっても最善の方法ではないかと思うのだが、まだ冷静に考えられる段階ではないようだ。だからといってこれ以上待つわけにもいかない。

「このままじゃ、オレが犯罪者になっちまうんだよ」

「もう誘拐してるじゃないですか」

 彼女は責めるような縋るような目を千尋に向けた。スカートの上でギュッとこぶしを握りながら、おずおずと言葉を継ぐ。

「誘拐したんですから、ちゃんと責任を持ってここに監禁してください。無理やり警察に連れて行ったりなんかしたら、私、おにいさんに誘拐されてたって訴えます。そうしたら犯罪者になってしまいますね」

 まさか、この年端もいかない少女が脅してくるとは——。

 もっとも、こういうことが平気で出来るような人間ではないのだろう。全身をこわばらせたまま、うっすらと汗をにじませつつ上目遣いで様子を窺っている。慣れないことをしているのが丸わかりだ。

 だからといって脅しに屈してやるつもりはない。彼女が警察よりここにいたがるのは居心地が良かったからに違いない。千尋を優しい人間だと誤解しているのだ。それなら出て行きたくなるよう仕向ければいいだけのこと。

「どのみち犯罪者ってことか」

 千尋はこれ見よがしに溜息をついて、苛立たしげに言う。

 思惑どおり彼女はビクリとした。それでも目をそらすことなく緊張ぎみに次の言葉を待っている。もちろんこれしきのことで劇的に気持ちが変わるとは思っていない。ここからが本番だ。

 威圧するように冷たい目を向けると、その小さな体をラグの上に押し倒して、膝立ちでまたぐ。彼女は言葉もなくただ混乱した顔を見せていた。それでも構わず胸のささやかなふくらみをつかむ。

 ん——?

 どうも下着をつけていないらしく、薄地のセーラー服を通してダイレクトに感触が伝わってきた。思わぬことに内心ひそかに焦ったものの、ここで手を引っ込めるという選択肢はない。逆にグッと力をこめる。

「せめて楽しませてもらわないと割が合わない」

「……私なんかじゃつまらないと思いますけど」

「それを決めるのはオレだ」

 今度は膝からスカートの中へと徐々に手をすべらせていく。

 彼女は反射的にビクリと体を震わせて表情を硬くしたが、逃げようとはしなかった。スカートがまくれて色気のない下着が露わになっても、そのままじっと堪えている。まるですべてを受け入れようとしているかのように。

「オレが何をするつもりかわかってるのか?」

「保健体育で聞いたくらいの知識はあります」

「……悪いが、避妊の準備なんかないぞ」

「平気です」

 そう迷いなく答え、うっすらと自嘲するような笑みを浮かべて言葉を継ぐ。

「妊娠はしないので好きにしてください」

 それは、どういう——。

 千尋は怪訝に眉をひそめた。さきほどの生々しい言葉とはあまりにも不釣り合いな、まるで小学生のような幼げな顔を見下ろしたまま、頭は無意識に様々な可能性をはじき出していく。

「どこか悪いのか?」

「さあ、病院で診てもらったことがないのでわかりません。あのひとは女として欠陥品だとなじるだけで連れて行こうともしませんから。でも中学生にもなって大人の体になれないのはやっぱりおかしいですよね」

 そんなことを無感情に淡々と話す少女を見て、何も言えなくなった。

 急速に頭が冷えて、まくれ上がったスカートを戻して彼女を起き上がらせると、セーラー服の襟とスカーフをそっと直してやる。彼女は何か思いつめたような顔をしてうつむいた。

「あ、あの……」

「オレの負けだ」

「えっ?」

 千尋は前髪をくしゃりとかきあげ、溜息をつく。

 下手な脅迫をして、体を差し出して——彼女はなりふり構わずここに居座ろうとしている。ここしか居場所がないのだと、ここが最後の砦だと、そう盲目的に強く思い込んでしまったかのように。

 もし、ここで無理に追い出せばまた死のうとするかもしれない。不本意だが責任の一端は千尋にもある。そのことに気付かないふりをして己の都合を優先させるほど、非情にはなれなかった。

「おまえ、名前は?」

「……ハルナ」

 すこし思案してから答えたので、もしかしたら本当の名前ではないのかもしれない。それでも構わなかった。気まずげに揺れる瞳を真正面から射るように見つめ、落ち着いた声で告げる。

「ハルナ、おまえをここに監禁する」

 それが千尋の出した結論だった。

 見捨てられないのなら腹をくくるしかない。もうしばらくここを居場所として提供しよう。現実に立ち向かう勇気が持てるそのときまで。それが軽率に関わった自分の取るべき責任だと思った。

「あ、りがとう、ございます」

 彼女は感極まったように肩を震わせながらうつむいていく。泣いているのか堪えているのかはわからない。千尋は何も言わず、子供のような後頭部の丸みにただそっと手を置いた。

 

 

第3話 手探りで始まる監禁生活

 

 ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ。

 寝ぼけ眼のまま、千尋は腕を伸ばして手探りで目覚まし時計を止めた。あまり疲れがとれていないように感じて溜息をついたそのとき、いつもはないはずの気配を感じてビクリとする。

 そうだ、誘拐してきたんだった——。

 すやすやと隣で眠っているハルナを見て、深く息をつく。

 ひとり暮らしゆえベッドはこれひとつしかなく、来客用の布団もないため、ここで一緒に寝てもらうことにしたのだ。ダブルサイズなので窮屈というほどでもない。彼女も大丈夫だと言っていた。

 現に、隣の千尋が体を起こしてもなおぐっすりと寝こけている。心身ともに疲れているせいもあるのかもしれない。サイズの合わないTシャツと短パンを身につけたまま、小さく丸まっていた。

 腕の内側には茶色くなった内出血の痕がいくつも見える。もしかしたらとふいに思ってTシャツをまくってみると、やはり背中にもあった。こちらは広範囲にわたっているのでひどく痛々しい。

 そういえば、きのう後頭部に手を置くとたんこぶらしきものがあった。他にもセーラー服の襟元がすこし破れていたり、髪が無造作に切られていて不揃いだったり、いろいろと不自然なことが多い。

 憶測でしかないが、親から暴言だけでなく暴力も受けていたのかもしれない。そう考えると辻褄が合う。

「ん……うぅ……」

 Tシャツをまくり上げていたせいだろうか。彼女はむずがるような声を上げて身じろぎすると、眠そうに目をこすりながら体を起こした。ぼんやりしているが千尋のことは認識しているようだ。

「おはようございます」

 あちこちに寝癖がついたぼさぼさ頭のまま、伏し目がちに挨拶をする。

「眠いならもっと寝てろ」

「おにいさんは?」

「オレは会社に行くから」

「じゃあ、私も起きます」

「無理はしなくていい」

「大丈夫です」

「……なら朝食にするか」

 千尋がベッドから降りると、彼女は急いでウエストの紐を結び直してついてきた。追いつこうとパタパタと小走りになる。五分丈の短パンはまるで長ズボンのようになっていた。

 

「そうだ、おまえシャワー浴びてこいよ」

 リビングへ向かう途中、思いついたようにそう言って浴室に入る。

 ついてきたハルナにシャワーの使い方や、シャンプー、コンディショナー、ボディソープのありかなどを教えていく。浴槽はあるがゆっくりできる休日しか使わない。平日は基本的にシャワーだけだ。

「悪い、下着の替えは今晩までには用意する」

「すみません……」

 さすがに千尋のボクサーパンツではサイズが合わないだろうし、我慢していまのを穿いてもらうしかない。今日一日くらいなら構わないだろう。

「じゃあ、オレは朝食の用意をしとくから」

「おにいさんはおふろ入らないんですか?」

「寝る前に入った」

 基本的には朝だが、汗をかきすぎたときなどシャワーを浴びてから寝ることもある。ハルナもいることだし、明日からどうするかは考えなければならないが、とりあえずいまは彼女に使ってもらっても問題ない。

 千尋は戸棚からバスタオルを取り出して彼女に手渡すと、廊下に出て引き戸を閉めた。

 

「ありがとうございました」

 ハルナは思ったよりも早く出てきた。

 朝食はまだできていない。出てくるころに合わせて作ろうとしていたのだが、読みが外れてしまった。ひとまず彼女をダイニングテーブルに着かせて、オレンジジュースを出す。

「ドライヤー使うか?」

「いいです」

 見たところ水滴が落ちないくらいしっかりと拭かれているので、とりあえずこれで風邪をひくようなことはないだろう。使いたかったら言えよ、とだけ告げて朝食作りを再開する。

「待たせたな」

 五分ほどしてダイニングテーブルに皿を並べると、ハルナは目をぱちくりさせた。

「どうした?」

「豪華ですね」

「豪華って」

 トースト、スクランブルエッグ、ウィンナー、レタスといったありきたりな洋風の朝食で、豪華といえるほどのものではない。急いでいてトーストだけのときもあるが、普段はだいたいこんな感じである。

 本当にろくなものを食ってなかったのかもな——。

 これしきの朝食を見て豪華だと驚いたことといい、レトルトのスパゲティを食べたときの反応といい、そう思わざるを得ない。だから、こんなに小さくやせっぽっちなのかもしれない。

「食えよ」

 そう言って食べ始めると、ハルナも小さな口でトーストにかぶりつく。その何の変哲もないトーストに、スクランブルエッグに、ウィンナーに、ひとり静かに感動をかみしめているようだった。

 

 ハルナが食べ終わるのを待って後片付けをし、会社へ行く支度をする。

 まだここに慣れていない彼女をひとり残していくのは不安だが、致し方ない。今日は外せない重要な会議があるので休むわけにはいかないのだ。

 

「チャイムや電話が鳴っても出なくていいからな。おまえのことがバレるとまずい」

 黒の革靴を履きながらそう言うと、ハルナは後ろで重たいビジネスリュックを抱えたまま神妙に頷いた。聡い子なので、事細かに説明するまでもなく状況を理解しているに違いない。

「メシはキッチンのものを適当に食え。それと……」

 彼女からビジネスリュックを受け取ってひとまず右肩にかけると、その手でスラックスのポケットを探って目的のものを取り出し、よく見えるように掲げる。

「一応、これを渡しておく」

 ここの玄関の鍵だ。千尋が日常的に使っているものではなく、書斎にしまっておいた予備のうちの一本である。戸惑いながら顔を曇らせる彼女の手を取り、そっと落とす。

「もし気が変わったら、いつでもここを出て行ってくれて構わない。そのときは玄関の鍵をかけて、一階エントランスの郵便受けに入れておいてくれ」

 ひとりになることで正気に戻る可能性もあるので、そのときのために備えておかなければと考えたのだが、彼女は気に入らなかったらしい。思いきりむくれながら鍵を突き返してくる。

「私、出て行きません」

「それでも持ってろ」

「でも」

「いいから持ってろ」

「……はい」

 結局、彼女が折れた。渋々ながらそっと鍵を握って胸元に引き寄せる。その顔には何とも形容しがたい微妙な表情が浮かんでいた。

「行ってくる」

「はい」

 横目で彼女を見ながら、千尋はビジネスリュックを背負い直して外に出る。重量感のある黒い扉がゆっくりと閉まるのを待ち、二つの鍵をかけると、足取りの重さを自覚しつつエレベーターへと向かった。

 

 その日、千尋は普段と変わりなく仕事をこなした。

 自宅に残してきたハルナのことが気にならなかったわけではない。どうしているだろうかと休憩中に思いをめぐらせることはあったが、定時で帰るためにも仕事には集中するようにしていた。

 しかし、夕方からの進捗会議が思いのほか長引いてやきもきした。こればかりは千尋がひとり急いだところでどうしようもない。結局、一時間ほど残業してからの帰宅となってしまった。

 二つの鍵を開けて、扉を開く。

 すぐに突き当たりのリビングに目を向けるが、磨りガラスは暗く、とても明かりがついているようには見えない。エアコンが動いている気配もない。物音もまったく聞こえずひっそりとしている。

 出て行った、のか——?

 気持ちが変わるかもしれないと思って鍵を渡したのだから、想定の範囲内だ。やっかいごとがなくなったのだから喜ぶべきだろう。感傷的な気持ちになるのはきっといまだけである。

 ただ、郵便受けに鍵が入っていなかったのが気にかかる。急いでいてうっかり忘れてしまっただけかもしれないが。足早に廊下を進み、リビングの扉を開けるとすぐに電灯のスイッチを押した。

「っ……!」

 蛍光灯で照らされて、視界に飛び込んできた光景にビクリとする。

 窓際のフローリングに見覚えのないものが横たわっていたのだ。しかしすぐに人間だとわかった。顔は見えなかったが、やせっぽっちの小さな体にサイズの合わない服——ハルナである。

 一目散に駆けつけると、ハルナ、と呼びかけてそっと慎重に抱き起こす。大量の汗をかいてぐったりとしているが、意識はあるようだ。苦しそうに息をしながらぼんやりと千尋を見やる。

「すみ、ませ、ん……」

「どうしたんだ」

「あ……暑くて……」

「待ってろ」

 近くのクッションを枕代わりにして仰向けに寝かせると、エアコンを入れた。

 今朝、家を出るときはつけたままにしておいたはずなので、彼女がわざわざ切ったのだろう。エアコンもつけず、窓も開けず、こんな日当たりのいい部屋にいたら暑いに決まっている。

「ほら、飲めそうか?」

 台所で冷たいオレンジジュースをグラスに注いできて、それを差し出す。

 彼女はだるそうに体を起こして受け取ると、よほど喉が渇いていたのか一気に飲み干し、ふうと息をついた。それだけでだいぶ復活したようだ。千尋は安堵し、背負っていたビジネスリュックを下ろしてその場に座る。

「なあ、おまえエアコン切って電気もつけないで何やってんだよ」

「え……でも、私がいることを知られたらいけないので……」

 それは千尋が出かけるまえに言ったことだった。

 誘拐監禁中なので当然だが、だからといってここまでしてほしかったわけではない。チャイムや電話を無視してくれるだけでよかったのだ。彼女なりに真面目に考えてのことだとは思うが——。

「バカか、それで死ぬようなことになったら本末転倒だろうが。病院には連れて行けないんだから気をつけろ。そもそもオレの部屋なんか誰も気にしてねえから、変に気をまわさないで普通に過ごしてればいいんだ」

「すみません……」

 ハルナはしゅんとうなだれる。

 千尋は溜息をこらえ、彼女の手から空のグラスを取って立ち上がった。そのとき——ぐぅとおなかの鳴るような音が聞こえた。彼女を見下ろすと、恥ずかしそうにますます身を縮こまらせている。

「昼メシは食ったのか?」

「その……すみません……」

「食ってないってことだな」

 適当に食えと言ったはずだが、悩んだあげく躊躇してしまったのかもしれない。

 幼少時から虐待を受けつづけてきた子供は、怒鳴られないよう、殴られないよう、いつも大人の顔色を窺ってビクビクしている。年相応に無邪気でいることができない。彼女もそうなのだろう。

 千尋は無表情のまま口を引きむすんで台所へ向かった。そして空になったグラスに再びオレンジジュースを注ぎ、戸棚を開けてポテトチップスの小袋をつかむと、彼女のところに持って行く。

「とりあえずこれでも食っとけ」

「……開けていいんですか?」

「開けなきゃ食えないだろうが」

 ハルナは不器用な手つきで袋を開けて食べ始めた。相当おなかが空いていたらしく、まるでリスのように一心不乱にかじっている。

「なあ、ハルナ」

 しゃがんで呼びかけると、彼女は手を止めておずおずと顔を上げた。

「オレはおまえが何を食べても何を使っても怒ったりしない。冷蔵庫でも戸棚でもどこでも自由に開けてもらって構わない。ただ、できるだけ後片付けはしておいてくれると助かる」

「はい……」

 返事は素直だが、その声には戸惑いがありありとにじんでいた。これまで自由が許されていなかったのなら無理もない。そのうえ相手がきのう出会ったばかりの男では、全面的に信頼するのも難しいだろう。

「不安に思うことがあればオレのスマホにかけてこい。電話はそれを使え」

 千尋は背後のキャビネットに置いてある固定電話を指さした。

 それでも彼女の表情は晴れないが、いまの千尋にできることといえばせいぜいこれくらいである。毎日きちんと昼食まで用意していくのはさすがに難しいので、ある程度は彼女自身に委ねるしかない。

「それ食べ終わったらシャワー浴びてこいよ」

「はい……あの、着替えって……」

「ああ、食べてるあいだに用意しておく」

「ありがとうございます」

 ハルナは心からほっとしたように安堵の息をつく。

 着替えはきのうのうちにネット通販で注文しておいた。もうエントランスの宅配ボックスに届いている。無駄にならなくてよかったと思いながら、背後のキャビネットを開けてカードキーを取り出す。

「荷物を取ってくるが、すぐに戻る」

 よくわかっていないのか、彼女はきょとんと不思議そうな顔をしたまま頷いた。

 千尋はふっと表情をゆるめてリビングをあとにする。ゆっくりと閉まっていく扉の向こうから、ポテトチップスの袋を探るような音が聞こえてきた。

 

 

第4話 この手で彼女を

 

「おにいさん……私、やっぱりそんなこと……」

 ハルナは床に座ったまま、困惑を露わにしておずおずと千尋を見上げた。

 だが、そんな目を向けられたところで引くつもりはない。シャキンと鋭く軽快にはさみを鳴らすと、その刃先を天に向けたまま片膝をつき、真正面から彼女に迫る。

「おまえはオレに誘拐監禁された身だ。オレの好きにさせてもらう」

「はい……」

 もう何を言っても無駄だと悟ったのだろう。彼女はあきらめたようにそう返事をして、震える瞼を閉じた。

 

 シャキシャキシャキ——。

 はさみが軽快な音を立てるたび、短い黒髪がハラハラと落ちていく。

 朝食のあと、ふと思い立ってハルナの髪を切ることにしたのだ。ときどき自分で前髪を切るので髪切り用のはさみは持っているし、土曜日で仕事が休みのため時間はたっぷりとあった。

 彼女をフローリングに敷いた新聞紙の上に座らせ、ケープ代わりに大きなビニール袋を肩にかけ、黙々と髪を切る。難色を示していた彼女も、もうすっかり観念したらしくなすがままになっていた。

「あの、どうして私の髪を切ろうなんて思ったんですか?」

「こんなガタガタじゃ目につくたびに気になって落ち着かない」

「そんなに……」

 自分ではどんな状態かわかっていなかったのかもしれない。千尋の指摘に、いたたまれないとばかりに身を縮こまらせてうつむいた。

「こら、下手に動くと危ないぞ」

 はさみを止め、彼女の顎を軽くつかんで前を向かせると、再びシャキシャキと切り進めていく。短くするというより見栄えを良くする感じだ。前と横はまだしも後ろがひどく不揃いだった。

「もしかして自分で切ったのか?」

「はい……お金がないので……」

「そうか」

 貧乏というより、親が散髪代を出してくれないということだろうか。気にはなったが、何となく躊躇して尋ねるタイミングを逃してしまい、彼女のほうもそれ以上のことは言おうとしなかった。

 いつのまにか、新聞紙には結構な分量の黒髪が散らばっていた。

「あの……切りすぎてません?」

「手先は器用だから心配するな」

「でも、すーすーする……」

 そう心許なさそうにつぶやく彼女は、いつもより幼げだ。

 千尋は思わずふっと口元を緩めてしまったが、手は止めなかった。左右のバランスを見ながら丁寧に整えて、最後の仕上げに細かく毛先をそろえると、はさみを下ろす。

「よし……ハルナ、どうだ?」

 卓上ミラーを差し出すと、彼女は不安そうに顔を曇らせながら覗き込んだ。瞬間、その目を大きく見開いて静かに息をのむ。

「プロ並みとはいかないが、ちょっとは見られるようになっただろう」

「すごい……」

 肩にかかるくらいだった切りっぱなしのおかっぱを、こころもち長めのショートボブにした。髪の長さはそこまで変わっていないものの、だいぶ軽くなったはずだ。見た目にもすっきりしている。

 実は、他人の髪を切るのは初めてではない。

 十代のころ、カットの仕方をネットや本で調べて小さな子の髪を切っていた。独学なうえ熱心でもなかったので本職には遠く及ばないが、簡単な髪型であればそれなりにカットできるのだ。

「ありがとうございました」

 彼女は淡々と礼を述べるが、その表情はほんのすこし緩んでいるように見えた。

 千尋はほっそりとした肩からケープ代わりのビニール袋を外して、切った髪を払い、フローリングに敷いておいた新聞紙にくるんで片付ける。しかし首筋などについた細かな髪までは払いきれなかった。

「シャワーで流してきたほうがいいな」

 このままでは彼女自身もチクチクして不快だろうし、こちらとしても細かな髪があちこちに落ちるのは困る。すぐにでも入ってもらったほうがいいだろう。

「ちょっと待ってろ」

 そう言うと、寝室のクローゼットから大きな段ボール箱を持ってきた。側面には大手ネット通販のシンプルなロゴが印刷されている。それを所在なげに立ちつくす彼女のまえに置いて、上部を開いた。

「おまえの服だ。好きに使え」

「えっ?」

 おととい注文して、きのう宅配ボックスに届いたものがこれである。昨晩はとりあえず必要な着替えだけを渡したので、まだ全部は見せていなかった。

「こんなに……」

 ハルナは段ボール箱を見下ろしたまま、戸惑っている。

 だが、千尋としては必要最低限しか買っていないつもりだ。普段着として上下それぞれ数着ずつ、パジャマ代わりのTシャツも何枚か、下着は一週間分くらいである。足りないようなら買い足そうとさえ考えていた。

「あの……私、五百円くらいしか持ってなくて」

「おまえに出してもらおうなんて思ってねぇよ」

「そのうち働いて返します。食費とかも」

 彼女は顔を上げ、ひどく思いつめた表情で訴えた。

 もちろん千尋はそんなことなどハナから望んでいない。少女ひとりを養うくらいの金銭的余裕は十分にあるし、出世払いを要求するほど浅ましくもない。受け取らないと一蹴すればいいだけのこと。けれど——。

「じゃあ、それまで死ぬなよ」

 冗談とも本気ともつかない口調でそう告げてみる。

 彼女は小さく息をのみ、何も答えることなくそっと曖昧に目をそらした。その表情はどこか苦しげでこわばっているように見えた。

 

「おふろ、ありがとうございました」

 入浴後、ハルナはおずおずとリビングに戻ってきた。

 着ている服は、段ボール箱の中から彼女自身が選んだものだ。上はゆったりとしたボーダーの五分袖カットソー、下はデニムのショートパンツである。言いつけておいたスポーツブラもつけているようだ。

「悪くないな。似合ってる」

「そんなこと……」

 彼女は微妙に眉をひそめて消え入るように言う。その頬はほんのりと薄紅色に上気していた。湯上がりだからというだけでなく、照れもあるように思う。そういうことを言われ慣れていないのだろう。

 入れ替わりに千尋が入浴した。

 休日なのでシャワーだけでなく湯船も準備してある。ハルナにもあらかじめ遠慮なく入るように言っておいた。カットした細かい髪が浮かんでいるところをみると、素直に従ったようだ。

 髪と体を洗ったあと、すこし冷めかかっていた湯船に寝そべって追い炊きをする。芯が熱くなるまでのんびりとつかるのが千尋の楽しみだ。真夏日であっても猛暑日であってもそれは変わらない。

 風呂から出ると、身だしなみを整えてリビングに戻る。

 ハルナは当然だがそこにいた。ちょうどきのう倒れていたあたりのフローリングにぺたりと座り、レースカーテンの隙間からぼんやりと空を見上げている。その鮮やかな青には雲ひとつ浮かんでいない。

「いい天気だし外に連れて行ってやりたいけど、さすがにな」

「わかってます」

 隣に立った千尋に、彼女は空を見つめたままさらりと答えた。

 もしかしたら外に出たいという気持ちはあるのかもしれないが、それを望める立場にないことは自覚しているのだろう。何より、誘拐が露見して親元に帰されることを彼女自身が恐れているのだ。

「悪いが、オレはちょっと食料品とか買いに行ってくる。昼には帰ってくるから昼メシは一緒に食おう。欲しいものがあればついでに買ってくるが」

「いえ、特にないです」

 ちらりと千尋を見たが、すぐにまた空を見上げてぼんやりとする。

 おそらくきのうもこうやって無為に過ごしていたに違いない。今日はひとりになってもエアコンを消したりしないはずなので、倒れはしないと思うが——。

「おまえさ、何かやりたいことはないのか?」

 そう尋ねてみると、彼女はそろりと怪訝に振り向いた。

「外に出してはやれないが、家の中でもできることはいろいろとある。ぼうっとしてたら時間がもったいないだろう。いや、ぼうっとしてたいならそれで構わないが、遠慮はするなって言ったよな?」

「遠慮じゃなくて……やりたいことって言われても……」

 うっすらと眉根を寄せつつ言いよどむ。

 どうやら本当に遠慮というわけではなさそうだ。これまで大人のいいなりになるしかない環境にいて、ささやかな望みを持つことさえあきらめてきたのなら、急には思いつかないかもしれない。

 それならばこちらから選択肢を提供するだけである。この家の中にいながらできて、中学生の女の子が興味を持ちそうなことといえば——千尋は思案をめぐらせながら左手を腰に当てた。

「書斎の本はどれでも勝手に読んでいい。片付けを手伝ってくれたからわかってると思うが、半分以上は漫画だ。いろいろあるから何か気に入るものがあるかもしれない。興味があったら見てみろ」

「はい……」

「テレビもそのあたりのDVDも好きに見ていい。ハリウッド大作映画とか、中学生でも楽しめるものが結構あると思う。見たいものが見つからなければ言ってくれ。そこに出してないものもあるから」

 本やDVDに興味を示してくれれば、当分は退屈しないはずだ。

 暇つぶしにいちばんいいのはネットかもしれないが、スマートフォンも携帯電話も持ったことがないようなので、使い慣れているとは思えない。自由に使わせるのは避けたほうがいいだろう。

「娯楽だけじゃなく勉強するのも悪くないかもな。勉強はやっておいて損はない。親に頼らず生きていくつもりならなおさらだ」

 千尋自身の経験からそう言い添える。

 いささか説教じみた物言いになってしまったものの、彼女には響いたようだ。真面目な顔になると、ゆっくりと何かをつかむように手を握りながらうつむいていく。

「じっくり考えればいい」

「……はい」

 千尋は予定どおり買い物に出かけることにする。身を翻し、キャビネットの上に置いてあった玄関と車の鍵をまとめて手に取ると、うつむいたままの彼女を残してリビングをあとにした。

 

 

第5話 公開捜査

 

 とうとう、このときが来たか——。

 千尋はだんだんと鼓動が速くなっていくのを自覚しつつ、口を引きむすぶ。

 昼休み、職場の自席で冷たいコンビニおにぎりにかぶりつきながら、いつものようにニュースサイトをチェックしていたら、女子中学生が行方不明になっているという記事を見つけたのだ。

 榛名 希(はるな・のぞみ) 中学二年生 十三歳。

 掲載されている顔写真はうつりが悪くてよくわからないが、年齢や状況からいってハルナのことで間違いないだろう。ハルナというのが偽名かもしれないとは思っていたが、まさか名字のほうだとは思わなかった。

 記事には、終業式のあと学校を出てからの足取りが掴めていないとある。それが本当なら事件性はないと判断されていたのかもしれない。自発的な家出と見なされると積極的な捜索はしないのだ。

 ただ、携帯電話どころか現金さえ持っていない十三歳の子供が、一週間も行方不明になっていれば、誘拐などの犯罪に巻き込まれた可能性を認めるしかない。それで公開捜査に踏み切ったのだろう。

 こうなるかもしれないと最初から考えていたので、覚悟はしていたつもりだが、実際に現実になると心中穏やかではいられなかった。それでも、疑念を持たれないよう普段どおりに過ごさなければ——。

「あれ、今日はのんびり食ってるんすね」

「ん、ああ……メールに気を取られてた」

「カノジョっすか?」

 昼食から戻った後輩が、人懐こく笑いながら隣に座った。

 千尋は曖昧にごまかしつつスマートフォンを机に伏せる。会社に不自然なログが残ってしまうことを警戒して、私物のスマートフォンで他の記事を探していたのだが、熱中して食べるのを忘れていた。

 時計を見ると、昼休みが終わるまであと十分ほどしかなかった。かじりかけのコンビニおにぎりを急いで口に放り込むと、サラダのふたを開け、すっかり冷めているであろう唐揚げに手を伸ばした。

 

 ハルナを誘拐してから一週間。

 彼女は掃除をして、洗濯をして、勉強をして、漫画を読んで日々を過ごしている。

 すべて彼女自身の意思だ。掃除洗濯も彼女のほうからさせてほしいと頼んできた。家に置いてもらうことに引け目を感じたくないらしい。それで気がすむのならと任せることにしたのである。

 勉強も真面目に取り組んでいる。まずは学生鞄に入っていた夏休みの宿題を終わらせるつもりだという。そのあとは参考書や問題集を使って勉強したいとのことで、何を買おうか彼女と考えていた。

 漫画はほとんど読んだことがなかったらしい。とりあえずいくつか適当に見繕って読ませてみたところ、ダークファンタジーの少年漫画が気に入ったようで、毎日すこしずつ読み進めている。

 料理は苦手らしく、朝食も夕食も千尋が作ることにしている。正直、たいしたものは作っていない。おかずが一品だけということもある。それでも彼女はいつも満足そうにしていた。

 もともとあまりしゃべるほうではないのだろう。けれど話しかければきちんと丁寧に答えてくれるし、感情が表に出ることも多い。控えめながら笑顔を見せてくれるようにもなった。

 思いのほか悪くない日々だった。気ままな一人暮らしを望んでいたはずなのに、この二人暮らしを心地よく感じている。漠然とだが、ずっと続けばいいとさえ思い始めていた。けれど——。

 

 仕事を定時で終え、自宅マンションの前まで何事もなく帰ってきた。

 そうすぐには突き止められないはずだと思いながらも、公開捜査が始まったことへの不安は少なくない。自宅にいても、会社にいても、これからはずっとそれを抱えつづけていくのだろう。

 人気のないひっそりとしたエントランスに入り、オートロックのガラス扉を鍵で開けて中に進むと、郵便受けのダイヤル錠を暗証番号で開く。そしていつものように新聞と郵便物を取ろうとした、そのとき——。

 ガチャン。

 何か固いものが落ちたような音が響いた。

 この郵便受けの中から聞こえた気がして、手前のものを取り出して覗いてみると、確かに何かがあった。奥のほうまで手を伸ばして掴みとる。それは、念のためにとハルナに渡した自宅の鍵だった。

 今、たったいまだ!

 ハッとしてガラス扉のほうに振り向くと、あたりを気にしながら外に出ていく少女の後ろ姿が見えた。顔はよく見えなかったが、髪型からも背格好からも服装からもハルナで間違いない。

 全力で追いかけ、いまだ気付かない彼女の後ろから手首を掴んだ。彼女はギョッとして振り向き、それが千尋だとわかるとみるみるうちに青ざめる。凍りついて声も出ないようだ。

「ハルナ」

 そう呼びかけ、千尋はゆっくりと呼吸をしてから言葉を継ぐ。

「どこかへ行くなら車で送っていく」

「…………」

 ハルナは気まずげな顔になり目をそらした。

 言いたくないというより行くあてがないのだろう。頼る相手も、荷物も、お金もないくせに、いったいどこでどう過ごすつもりだったのか。何も考えないまま飛び出してきたのか、あるいは——。

「死ぬ気だったのか?」

 その問いに、ビクリと彼女の体が震えた。

 さらに問い詰めようとした瞬間、わあっと小学生の男の子たちが隣を駆け抜けてマンションに入っていく。そのうちの一人が好奇心を隠そうともせず無邪気にこちらを見ていた。

「とりあえず部屋に戻ってくれないか。ここだと人目につく」

 彼女としてもそれは本意でなかったのだろう。返事はなかったが、手を引くと素直にマンションの部屋までついてきてくれた。

 

「メシを食ってから話そう」

 そう告げると、千尋は着替えて夕食の準備を始めた。

 もうハルナに逃げる気はないようだ。いまだに思いつめた顔をして黙りこくっているものの、おとなしくダイニングテーブルについて、千尋が用意したグラスの麦茶をちびちびと飲んでいる。

 そのあいだに手早くレトルトのスパゲティとポタージュを作り、テーブルに並べた。すぐにできるものを選んだだけで意図したわけではないが、初めてのときと同じメニューである。

 いただきます、と機械的に口にしてから千尋は黙々と食べ始める。彼女も硬い表情のまま従う。食事中にあまり話をしないのはいつものことなのに、今日はとても重苦しく感じた。

 

「ニュース、見たんだな?」

 ハルナが食べ終えるとすぐに後片付けをして、あらためてダイニングテーブルで向かい合い、そう切り出した。

 ハルナはうつむき加減でこくりと頷く。

「私がここにいたらおにいさんが誘拐犯として捕まってしまう。だから……おにいさんも出て行っていいって言ってましたし、ちゃんと鍵をかけて郵便受けにも入れました。なのに……」

 言葉を詰まらせると、眉根を寄せてさらに深くうつむいた。

 テーブルに阻まれて見えないが、膝の上でこぶしを強く握りしめているのだろう。力のこもった腕がわずかに震えているのがわかる。だからといって引き下がるわけにはいかない。

「どこへ行くつもりだったんだ?」

「……まだ、考えてませんでした」

「やっぱり死ぬ気だったんだろう」

「…………」

 答えないことが答えだ。

 帰るタイミングがもうあとすこしでも遅かったら、郵便受けで見つけた鍵の意味をすぐに悟れなかったら、会うことすらできずに死なせていたかもしれない。そう思うと背筋が寒くなった。

「ハルナ」

 落ち着いた声音を意識して呼びかける。

「もしおまえが死んだら、それまでの足取りを警察に捜査されるだろう。本気でな。そうしたらここにいたことは確実にバレる。オレは未成年者誘拐だけじゃなく、下手したら殺人や自殺幇助の容疑までかけられかねない」

「そん、な……」

 彼女は凍りついたようにぎこちなく言いながら、おずおずと顔を上げた。その双眸はひどく揺れている。いまとなってはもうすべてが手遅れなのだと、ようやく気付いたのかもしれない。それでも——。

「オレのことを思うなら死ぬな。ここにいろ」

 千尋はまっすぐ意志の強いまなざしで見据えて、静かに告げる。

 その気持ちを尊重してくれたのか、他にどうしようもなかっただけなのか。ハルナはすべてを飲み込んでこらえるような顔になりつつも、潤んだ目をそらすことなく真摯に頷いた。

 

 

第6話 眠れぬ夜に

 

「ハルナ、起きてるか?」

 ベッドに入ってからゆうに三十分は過ぎているはずだが、一向に寝付けず、ふと隣で背を向けている彼女にそう問いかけてみる。

「はい……眠れなくて……」

 すぐにひそやかな声が返ってきた。

 淡いオレンジ色の常夜灯のみのともる薄暗い中で、彼女は身じろぎしながらこちらに顔を向けて、困ったように眉を下げる。そのとき、こころなしか互いの息がふれあったように感じた。

 

 だったら、このままでいいから眠くなるまですこし話をしないか——そう持ちかけるとハルナは迷うことなく頷いてくれた。そこで、ようやく何について話そうかと思案をめぐらせる。

「ニュース……もしかして毎日チェックしてたのか?」

「はい、夕方のニュースだけですけど」

 彼女は気まずげに答えた。

 警察が捜査しているとわかったら、千尋が捕まらないようにすぐさま出て行こうと、あらかじめ覚悟を決めていたのかもしれない。だからあんなに行動が早かったのではないかと思う。

「おにいさんはいつ知ったんですか?」

「昼休みにネットのニュースで見た」

「……あの、顔写真って出てました?」

「あれはひどいな」

 思わず声に苦笑が混じった。

 不自然に顔がこわばり半眼のようになっているうえ、顔立ちもだいぶ幼い。正直、ハルナと同一人物だとはそうそうわからないだろう。なぜよりによってこんな写真を出してきたのか疑問だった。

「あれ、小学校の卒業アルバムのです。撮られ慣れてないので緊張してしまって。ひどい写りですけど、あれくらいしかなかったんだと思います。写真なんてほとんど撮りませんから」

 まるで千尋の心を読んだかのように、ハルナは話した。

 言われてみれば当然である。親に虐げられているのなら、思い出づくりの写真など撮ってもらえるはずがない。だから学校で撮ったものしかなかったのだ。そのくらい察してしかるべきだったのに——。

「あの……つまらない話ですけど、聞いてくれますか?」

 ハルナは黙りこくってしまった千尋をちらりと見て、そう切り出した。

 たとえどんな話でも、彼女が話してくれるのなら聞くに決まっている。ああ、と端的に応じると、彼女はすこしほっとしたように息をつき、天井のほうに視線を向けて話し始めた。

「父親は、気に入らないことがあると怒鳴りつけて手を上げるひとで。いつもは体にアザとかを残さないように頭を殴るんですけど、激しい怒りで我を忘れたときは、体ごと床に叩きつけたり、踏みつけたり、蹴りまわしたりするんです」

「ああ……」

 父親はきっとそんな感じだろうと予想していたので、驚きはしない。

 ただ、彼女が感情を殺して他人事のように話しているのが痛々しい。そうでもしないと自分を保っていられないのだろう。だからこそ、その思いを受け止めて最後まできちんと聞こうと千尋は決めた。

「そのうえ、すべてにおいて常に自分が正しいと考えているみたいで。やってもないのにやったと決めつけられることもよくありました。あるときなんか、私がいくら殴られても蹴られても認めずにいたら、とうとう息を切らしながら怒鳴り散らしたんです。親が黒と言ったら白いものでも黒くなるんだ、って」

 そこまで言うと、彼女はゆっくりと呼吸をする。

「その瞬間、ショックとか悲しいとかより軽蔑のほうが大きかった。親であっても尊敬してはいけないひともいる。このひとは尊敬してはいけないひとなんだって。同時に、その遺伝子が私にも受け継がれていると思うと怖かった。いつかあんな横暴な人間になってしまうんじゃないかって」

 最後はすこし声がうわずっていた。

 自分でもわかったのだろう。昂ぶった気持ちを鎮めるようにそっと目を閉じる。しばらくそうしていたが、やがてひそやかに息をついたかと思うと、再び何もない天井を見つめて話を続ける。

「母親には幼少のころから暴言をぶつけられてきました。可愛くない不細工だ、生きてる価値がない、生まなきゃよかった、いなくなればいいのに、あんたを好きになるひとなんかいない、みんな嫌ってる、って毎日のように詰られて殴られて。中学生になったころからは、汚いから嫌だって洗濯を拒否されていますし、洗面所のタオルも私だけ分けられています」

 母親のほうは思ったよりもえげつなかった。まるきりいじめだ。

 そういえば、女として欠陥品と言われていたとも聞いたことがある。ハルナ自身には何の非もないのにだ。これだけでも娘に対する尋常ではない嫌悪が窺える。憎悪といってもいいかもしれない。

 いったいどうしてそこまで嫌うようになったのだろうか。ハルナが幼少のころからであれば、折り合いが悪いとかいう以前の問題である。理屈ではなく本能的なものがあるように思えてならない。

「このあいだとうとう耐えきれなくなって、そんなに嫌いならもういっそ殺して、って泣きじゃくりながら訴えたんですけど、あんたごときのために刑務所に入るなんてまっぴらごめん、自分で勝手に死んで、ってぞっとするような冷たい目で言われてしまって。もしかしたら、このひとはずっと私の自殺を願っていたのかもしれない——確証はありませんがそう感じました」

「だから、死のうと思ったのか?」

 そう問いかけると、彼女はわずかに眉根を寄せて考え込む。

「だからってわけじゃないですけど、理由のひとつではあると思います。私ももう生きていたくなかったし、まわりにも死ねって思われているなら、本当に生きていく意味がないなって」

 その目元に、口元に、ふっと淡い自嘲が浮かんだ。

「そんな両親ですけど、世間体は人並み以上に気にするみたいです。学校の先生やご近所さんのまえではいい顔をするので、誰も私がそんな目に遭っているなんて思いません。私も知られたくなくて隠してましたし」

 両親がまわりの信用を得ているのであれば、家で不自然な物音がしても、娘にときどき内出血があっても、なかなか虐待には結びつかないだろう。そのうえハルナ自身が隠しているならなおさら難しい。

「そういうわけで同級生とは一線を引いてました。誕生日も祝ってもらえない、サンタさんも来ない、お年玉ももらえない、テレビも見せてもらえない——なんて言ったら、間違いなく理由を聞かれてしまいますし」

 そこで苦笑まじりの溜息をつく。

「一部の女子には、お高くとまってるとか陰口をたたかれてましたけど、特にいじめられはしませんでした。これでも真面目な優等生として先生に信用されていたので、手を出しづらかったんだと思います」

 真面目な優等生というのは事実だろう。

 こんなところでまで自主的に勉強するなど真面目としかいいようがないし、問題集をすらすらと解いているのだから成績もいいはずだ。話し方や態度からもそういう雰囲気が漂っている。

「ただ……一度だけ、打ち明けようとしたことがありました」

 彼女の声が急に張りつめた。

「相手は養護教諭です。ひとりでいる私をいつも温かく気にかけてくれて。初めてこのひとになら話せるかもしれないと思ったんですけど、親に嫌われていることをちらっと話してみたら、子供を愛さない親なんていないのよって優しく諭されて。それでもう何も言えなくなってしまって……」

 言葉を詰まらせ、何もない天井を見据えたまま口を引きむすぶ。

 ようやく勇気を振り絞って打ち明けようとしたのに、あっさりと全否定されてしまったのだ。養護教諭に悪気がなかったにしても、いや、悪気がなかったからこそ絶望を感じたに違いない。

 千尋はたまらなくなり、布団の中でそっと小さな手を握る。

 ハルナは驚いてビクリとしたが振り払いはしなかった。それどころか応えるようにおずおずと握り返してきた。つながった手から、二人の体温がゆっくりと溶け合っていくのを感じる。

「あの……おにいさんの両親はどんなひとですか?」

 ふと、彼女が静寂を破った。

 個人的なことを尋ねられたのは初めてかもしれない。彼女が興味を持ってくれたという事実につい頬が緩むが、そのあたりについてはあえて言及せず、とりあえず本題である質問のほうに答えることにする。

「オレ、捨て子なんだ」

「えっ?」

 ハルナは目をぱちくりさせた。

「生まれてまもなく、まだへその緒がついた状態で捨てられていたらしくてな。物心がつくまえから高校卒業まで児童養護施設で育った。だから生みの親はわからないし、育ての親もいない」

 その過去を隠したことはない。自ら積極的に話したりはしないが、尋ねられたときにはいつでも正直に答えてきた。逃げたくないなどと気負っているわけではなく、知られることに抵抗がないだけだ。

 しかし、彼女はショックを受けたような面持ちになり目を伏せる。

「すみません……私のこと贅沢だって思いましたよね……」

「いや、親がいればいいってものじゃないだろう」

 たとえどんな親でも子供の幸せのためには必要だ——そういう考えの人も確かにいるようだが、千尋は違う。

「オレは別に自分が不幸だったとは思っていない。恵まれているとは言いがたかったが、それなりに尊重してくれていたし、大人に殴られることもなかったし、誕生日もささやかだが祝ってくれたし、サンタだって来てくれた」

 そう説明するが、彼女の瞳は不安そうに揺れたままである。

「でも、両親に会いたくないですか?」

「どんな人間なのか見てみたい気持ちはあるが、会いたくはねぇよ。捨てられたことを恨んでるとかそういうわけじゃなくて、ただ面倒なだけだ。いまさらオレの人生に関わってこられても困る」

 千尋はきっぱりと言った。

「オレとしては捨ててくれてよかったと思ってる。子供を捨てるってことは、経済的に困窮しているか、育てられない事情があるか、子供に愛情がないかだろう。無理して育てても互いに不幸なだけだしな」

 幼少のころは別として、ある程度の分別がつく年齢になるとそう考えるようになっていた。ただ、強がりだと決めつけて憐れみの目を向けてくるひとが多いので、口には出さないようにしていたが。

 ハルナは眉を寄せ、矛盾と緊張をはらんだような複雑な表情を浮かべる。

「私も……いっそ捨ててくれたほうがよかったのにって、ずっと思ってました。児童養護施設のほうがまだましなんじゃないかって。でも、きっと親のいないひとからすれば不愉快だろうなって……」

「まあ、それは人それぞれだな」

 棄児がみんな千尋のように考えているわけではない。

 親に捨てられてさえいなければ幸せになれたのに。そう思い込み、恋しがったり恨んだりする子のほうが多いかもしれない。そして、そういう子ほど境遇の違うひとを蔑ろにする傾向にある。

「ただ、おまえの境遇なら捨ててほしかったと思うのは無理もないし、その気持ちを否定される道理もない。少なくともオレはそう考えている」

「ん……」

 ハルナは天井に向き直り、口を結んだまま言葉にならない返事をした。泣くのを堪えているのだろう。瞳が常夜灯を反射して淡くきらめいている。瞬きひとつで雫となってこぼれ落ちてしまいそうだ。

 千尋は視線を外すと、言葉の代わりにつないだ手をゆっくりと握りしめた。

 

 

第7話 初めてのデート

 

「なあ、水族館でも行くか」

 休日の朝、千尋はマグカップをテーブルに置いてそう切り出した。

 正面のハルナは声もなくぽかんとして固まっている。食べかけのピザトーストを両手で持ち、パンくずのついた小さな唇を半開きにしたままで。そんな彼女に、千尋はうっすらと意味ありげな笑みを浮かべてみせた。

 

「公開捜査されてるのに信じられない」

 ハルナは助手席に座ってシートベルトを締めながら、口をとがらせる。

 千尋はくすりと笑い、慣れた手つきでエンジンをかけて車を発進させた。カーナビはすでに水族館までの経路案内を始めている。三十分ほどで着く予定となっているが、そう順調にはいかないだろう。

 このことは数日前から画策していた。今日から十日間の夏休みなので、そのあいだにいろいろなところへ遊びに連れていこうと考えている。彼女のスニーカーやキャップもそのために用意しておいたのだ。

 もっとも彼女自身には内緒にしていた。反対されるだろうからギリギリまで伏せておこうという策である。今朝、時間がないからと強引に言いくるめつつ急がせると、渋々ながらも出かける準備をしてくれた。

 ただ、やはり顔写真をさらされていることで神経質になっている。車中なのに周囲を気にしてキャップを目深にかぶっているし、赤信号で止まったときなどは怯えたようにうつむくのだ。

「あの写真しか出てないんだから、まずバレねぇよ」

「そうでしょうか……」

 報道が出てからおよそ一週間。

 続報もなかったようなので、無関係なひとたちはもうほとんど忘れているはずだ。顔をさらしたところで気付かれるとは思えない。あのひどい顔写真しか目にしていなければなおのこと。

 もちろん知人は別だが、髪を切るなどしてだいぶ印象が変わっているので、軽く視界に入ったくらいなら気付かれない可能性が高い。そもそも知人と鉢合わせること自体がめったにないのだ。

 そうこうしているうちに駐車場についた。入口が混雑していたのでしばらく待たされたが、中に入ると係員の誘導ですぐに停められた。そこからすこし離れた水族館まで歩いて向かう。

 車中でも怯えていたのだから当然といえば当然だが、外に出るとハルナはさらに深くうつむいた。まわりに人の気配を感じるだけでビクリとして、顔をそらしたり、キャップのつばで隠そうとしたりする。

「そうやってるとかえって目立つぞ。普通にしてろ」

 千尋はグイッと顎を掴んで前を向かせる。

 しかし、気付けばまた不安そうな顔をしてうつむいていた。それでもさきほどよりは幾分かましになっているので、悪目立ちするほどではない。もうこれ以上はあらためさせようとしなかった。

 真夏の強烈な日差しが痛いくらいに刺さってくる。二人とも早くもうっすらと汗をにじませながら、まばゆい輝きを放っている銀色の丸い建物を目指して、ただ黙々と足を進めた。

 

 チケット売り場には長蛇の列ができていた。

 それを見てうろたえるハルナの背中を優しく押しながら、一緒に最後尾に並ぶ。彼女はうつむき加減のままじっとしていたが、誰もこちらを気にしていないことがわかると、すこしずつ顔を上げていった。

 

 二十分ほど待ってチケットを購入し、入館する。

 そこそこ混雑していたが、冷房が効いているので蒸し暑いということはなかった。そして何より照明が絞られているのがありがたかった。これなら至近距離でもないかぎり顔の判別はできない。ハルナも安心したらしく、人目を気にせずきょろきょろとあたりを見回している。

「水族館は初めてか?」

「はい」

 わかりやすくはしゃいでいるわけではないが、気持ちの高揚は見てとれる。いつも静謐な声がわずかにはずんでいるし、足取りも軽く、表情も明るく、何より目がキラキラと輝いていた。

 順路に従って進むと、彼女は行く先々で水槽に釘付けになった。

 シャチやイルカといった人気どころはもちろん、イワシのトルネードも熱帯魚も気に入っていたし、コウテイペンギンの高速の泳ぎには唖然としていた。すこしグロテスクな深海生物でさえ熱心に見ていた。ただ——。

 

「これ、もうすぐ始まるみたいだな。見に行くか」

 エスカレーター脇に置かれた案内板で、まもなくイルカパフォーマンスが始まることを知った。何十分も待たなければならないのなら迷うところだが、待たずに見られるなら行くしかない。

 ハルナも頷いてくれたので、すぐに屋外のスタジアムへ向かった。

 そこには子供たちの賑やかな声があふれていた。すでに満席のようなので、周囲の邪魔にならないところで立って見ることにする。遮るものがないため容赦なく白い日差しが降りそそぎ、すこしまぶしい。

「イルカパフォーマンスって何をするんですか?」

「さあ、オレも初めてだしな」

 おそらくイルカが跳んだり泳いだり芸をしたりするのだと思うが、知っているわけではないのであえて言わなかった。どうせなら何の予備知識もなく素直に楽しんだほうがいいだろう。

 その直後、開始を告げるアナウンスが響いた。

 正面の大型ディスプレイにイントロダクションの映像が流れ始める。やがて映像のイルカとシンクロして実物のイルカが大きくジャンプした。その演出にわっと大きな歓声が上がった。

 そのあとも様々なパフォーマンスを見せてくれた。高所のボールに跳んで口先でタッチしたり、わざと観客席に大きな水しぶきをかけたり、二頭がシンクロしながら泳いで跳んだり、次から次へと飽きさせない。

 どうやらトレーナーが身振りでイルカに指示しているようだ。それだけでなく、イルカの背びれにつかまって一緒に泳いだり、イルカの協力を得て一緒にジャンプしたり、パフォーマンス自体にも参加していた。

「なかなか楽しめたな」

 二十分はあっというまだった。

 スタジアムを出ようとする観客たちで騒がしくなる中、隣のハルナに振り向くと、彼女はどこか沈んだような面持ちで目を伏せていた。千尋と違って楽しんでいたようには見えない。

「あんまり面白くなかったか?」

「いえ……その、どうやって訓練したのかなって……」

「ああ……鞭で打つようなことはしてないらしいが」

「それならいいんですけど」

 虐待めいた方法で訓練されているのではないかと思ったようだ。

 以前、イルカの調教師について何かの情報番組で見たが、痛みでしつけることはないと言っていた。まずはイルカとしっかり信頼関係を築いたうえで、ご褒美を与えながら芸を覚えさせていくという。

 もっともこの水族館がどう訓練しているかはわからない。虐待をしていないという確信があるわけではないので、いまだに顔を曇らせている彼女を見ても、これ以上のことは言えなかった。

「そろそろオレらも出るか」

「はい」

 目の前に広がっている抜けるような青空とは裏腹に、二人の空気はどことなく重い。それでも互いに何でもないふりをしたまま、スタジアムをあとにした。

 

 その後、館内のレストランで遅めの昼食をとった。

 カラフルな熱帯魚が泳ぐ大型水槽を眺めたり、ガラス窓の向こうに広がる港を見渡したり、とろとろのオムライスを食べたりしているうちに、ハルナはすっかりいつもの調子を取り戻していた。

 もうイルカのことを引きずってはいないようだ。水族館を選んだのは失敗だったかと後悔しかけていたが、イルカパフォーマンス以外はどれも楽しんでいたし、来てよかったと思ってくれるだろう。

 

 ひととおり展示は見たので、食事のあとはミュージアムショップに入った。

 店内にはサブレやまんじゅうなど定番のおみやげから、有名菓子とのコラボ商品、海の生物のぬいぐるみなどがずらりと並んでいる。色とりどりで見ているだけでも楽しくなるディスプレイだ。

 ただ、思うように歩くのが難しいくらい混雑していた。人混みに飲まれてはぐれかけたのであわてて手をつなぐ。ハルナはビクリとしたものの嫌がる素振りはなく、そのまま商品を見てまわる。

「欲しいものがあれば買ってやる」

「え、そんな……別に……」

 何か気になるものがある様子なので声をかけてみると、彼女はうつむき加減で曖昧に遠慮しつつ、あきらめきれないのかチラチラと横目を向けている。その視線をたどってみると——。

「これか?」

 チェーンのついた小さなペンギンのぬいぐるみを手に取って尋ねる。

 ハルナは一瞬にしてぶわりと頬を紅潮させた。そうだとも違うとも言わなかったが、この反応からすると間違いなさそうだ。

「他には?」

 そう尋ねると、あわててふるふると首を横に振った。

 これだけというのも寂しい気がして、近くの平台に積まれていたペンギンのまんじゅうを追加してレジに向かう。列に並んでいるあいだも彼女の手を離すことはなかった。

 

 外に出ると、強烈だった日差しはすこし弱まっていた。

 夏休み時期は夜八時まで営業していることもあり、これから入館するひとも少なくないが、やはり退館するひとのほうが圧倒的に多いようだ。駐車場から出るときに多少時間がかかるかもしれない。

「あの、ありがとうございました」

 並んで歩いていると、ハルナがキャップを目深にかぶったまま礼を述べてきた。

 水族館に強引に連れてきたことか、ペンギンのぬいぐるみを買ったことか——どちらにしても来てよかったと思ってくれたのだろう。千尋は中学生にしては幼い横顔に視線を流しながら、ふっと頬を緩めた。

「欲しいものがあるなら遠慮しないでちゃんと言えよ。まあ、あんな物欲しそうな顔してチラチラ見てたら、言わなくてもバレバレだけどな」

「すみません……」

 彼女は耳元を赤くしながらうつむく。

 すこしからかいすぎたか——キャップ越しの後頭部にぽんと手をのせると、彼女は驚いたように振り向いて千尋と目を見合わせ、ほっと息をついた。こころなしか足取りも軽くなったように見えた。

 しばらく灼熱のアスファルトを歩いて、車に着いた。

 千尋はリモコンキーで解錠し、彼女を助手席のほうに促しつつ運転席に乗り込んだ。サンシェードを広げておいたが熱がこもるのは避けられない。すぐにエンジンをかけてエアコンの風量を最大にする。

「ほら」

 ふと思い立って、みやげものの手提げ袋からペンギンのぬいぐるみを取り出し、助手席のハルナに手渡した。残りを袋ごと後部座席に置いて手早くシートベルトを締める。

「行くぞ」

「はい」

 彼女もあわててシートベルトを締めた。

 それを確認してから千尋はゆっくりと車を発進させる。合間にちらりと隣を見ると、彼女は小さなペンギンを両手ですくうように持ち、そっと嬉しさを噛みしめるように見つめていた。

 

 

続く

 

http://celest.serio.jp/celest/novel_kidnap.html

 

 


 
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