No.953427

自殺志願少女と誘拐犯 【第8話〜第12話(最終話)】

瑞原唯子さん

オレに誘拐されてみないか——。
ある夏の日、千尋は暴走車に飛び込もうとした少女を助けると、
そう言って彼女のまえに手を差し出した。


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2018-05-22 21:20:09 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:1053   閲覧ユーザー数:1053

第8話 紙切れ一枚のおまもり

 

 翌日からも、毎日ハルナと遊びに出かけた。

 地元民には名の知られたテーマパーク、コアラとゴリラで有名な動物園、世界最大規模のプラネタリウムがある科学館、野外開催のフードフェスティバル、そこそこ規模の大きな花火大会など——。

 どれもハルナは楽しんでくれたし、千尋も楽しんだ。

 これまでにもそういうところに行ったことは何度かある。しかし、いずれも千尋自身が望んでのことではなかったため、まったく楽しめなかったわけではないが、義務感のほうが大きかった。

 だが今は違う。ハルナと一緒だと素直に楽しめるのだ。それに、どうしたら彼女が楽しんでくれるだろうかと考えるだけで心がはずみ、彼女が楽しんでいるのを見るだけで心が満たされる。

 幸い、ハルナの知人にも千尋の知人にも会うことはなかったし、見知らぬ誰かに気付かれることもなかった。一応キャップをかぶっているが、取り立てて顔を隠すようなことはしていない。

 案外、こんなものだ。

 刑事でもないかぎり、いちいち行方不明者や指名手配犯の顔なんか覚えていない。たとえ覚えていても、それを意識してまわりの人間の顔を見たりはしない。遊んでいるさなかであればなおのこと。

 ハルナもすっかり安心しきっている。こんなことならもっと早く連れ出していればよかった。仕事中はともかく買い物くらい留守番させるんじゃなかった。そんなことさえ思うようになっていた。

 

「ただいま」

 そう言いながら、ハルナは軽やかに自宅へと入っていく。

 今日だけでなく、帰宅したときはいつもあたりまえのように「ただいま」と言う。千尋と一緒に帰ってきているのにだ。彼女にとって、すでにここが帰る場所になっているということだろう。

 そのたびにどこかくすぐったいような気持ちになり、同時に苦しくもなる。しかしながらそれを悟られるわけにはいかない。表情に出さないよう気をつけながら彼女のあとに続き、玄関の扉を閉める。

「疲れただろう」

「楽しかったです」

「オレは疲れた」

「ふふっ」

 ハルナはおかしそうに笑った。

 今日行ってきたテーマパークは、明治時代の建造物などを移築して公開しているところだが、敷地が広大なため延々と炎天下を歩かねばならなかった。そして建物に入ってもあまり冷房がなかったのだ。

 しかし、ハルナは汗だくになりながらも元気に歩きまわっていた。気持ちが高揚しているから疲れを感じていないだけで、帰ったらぐったりするのではないかと思ったが、そうでもなかったようだ。

 千尋は正直とても疲れた。けれど、もちろん楽しいことはいろいろとあったし、暑い暑いと言い合ったのも思い出になるだろうし、何より彼女が目を輝かせていたので行ってよかったと思っている。

「あしたは美術館でいいか? 今日以上の最高気温になるとか言ってたし、オレとしては涼しいところでまったり楽しめるものがいい。おまえが炎天下を歩きたいっていうなら善処するが」

「美術館でいいですよ」

 ハルナはくすくすと笑いながらスリッパに履き替えて、リビングに向かう。斜めがけにしているフラップ型ショルダーバッグの横では、小さなペンギンのぬいぐるみが揺れていた。

 

 夕食は帰りがけに外で食べてきたので、あとは自由時間だ。

 千尋がダイニングテーブルの自席でノートパソコンを広げると、ハルナは向かいで勉強を始めた。もう手持ちの宿題はすべて終わらせてしまったので、いまは買い与えた問題集を解いている。

 遊びに行っても勉強は怠らないと決めているようだ。無理しなくていいと言っても、無理はしていないとあっさり返されてしまう。ひ弱そうに見えるが意外と体力はあるのかもしれない。

「そろそろ休憩にしないか?」

「はい」

 一時間ほどして声をかけると、ハルナは手を止めて素直に頷いてくれた。

 すぐに二人分の紅茶を淹れて、今日買ってきたおみやげのカステラとともに出す。冷房のきいた部屋なので熱い紅茶がちょうどいい。彼女も一口飲んでほっとしたように息をついた。

「ずっと、こんな日が続けばいいのに……」

 思わずこぼれ落ちてしまったかのような声。

 彼女はすぐにハッとし、はじかれたように顔を上げて何か言おうとするが、千尋と目が合うと口をつぐんで気まずげにうつむいた。テーブルの上で軽く握っていた手に力がこもっていく。

 こんな日は長く続かない、遠からず終わる——。

 彼女はとっくにわかっていただろうし、千尋もわかっていた。しかしながら互いにそのことには気付かないふりをしてきた。それゆえ、彼女はひとりで不安を抱え込んでしまったのではないか。

 そんなことも察してやることができなかった自分を、千尋は情けなく思った。つい苦い顔になりかけたもののグッとこらえ、ゆっくりと深く呼吸して気持ちを整えると、静かに口を開く。

「あと七年だ」

「えっ?」

 彼女は怪訝に顔を上げた。その瞳を真正面から捉え、千尋は続ける。

「二十歳になれば自由になる。親の許しがなくても、自分次第でどこへでも行けるし何にでもなれる。親から逃げても法律に咎められることはない。新しく家族を作ることだってできる」

 この程度のことは知っていたかもしれない。

 そうだとしても千尋が自らの言葉で伝えておきたかった。死にたくなるほどつらい境遇に再び身を置いたとき、思い出してくれるように。そしてこれが耐え抜くための希望になることを願って。しかし。

「七年……」

 ハルナは放心したようにつぶやく。

 確かに、十三歳の子供にとっては気の遠くなるような年月だ。これまで生きてきた時間の半分以上にもなる。そんなにも長く耐えなければならないのかと、かえって絶望させてしまったのかもしれない。

 だからといって、七年なんてすぐだとかいいかげんなことは言えない。千尋でも七年は短くないと感じるのに。口を引きむすび、どうフォローしようか必死に思案をめぐらせていると。

「七年たったら、私と新しい家族を作ってくれますか?」

 ハルナが真顔でそんなことを言ってきた。

 思わず目を見開くが、頭の中がまっしろになって何も考えられない。取り繕う言葉さえ出てこない。ただみっともなく固まっているだけである。その様子を見て、ハルナはうっすらと自嘲を浮かべて目を伏せた。

「やっぱり迷惑ですよね」

「……いや」

 どうにか唾を飲み込んでそう返事をすると、微妙に眉をひそめつつ正面の彼女をじっと探るように見つめる。

「だけど、おまえちゃんとわかって言ってるのか? 新しい家族を作るって、要するに結婚して夫婦になるってことなんだが」

「えっ?」

 やはりわかっていなかった。

 兄妹になれたらとでも考えていたのかもしれないが、現実的に無理だ。自由に家族関係を構築できるわけではない。結婚以外では養子縁組をして親子になるくらいだろう。さすがにそれは抵抗がある。

 彼女は千尋を見たまま何度か目をぱちくりとしたのち、ようやく理解したらしい。急に顔を真っ赤にしておろおろとしたかと思うと、いたたまれないとばかりに小さく身を縮こまらせる。

「すみません……そうだとは思わなくて……」

「オレはおまえさえよければ構わないけどな」

「えっ?」

 当然の反応だ。

 千尋自身、まさかこんなことを言うなんて思ってもみなかった。だからといって失言ではない。思いつきではあったが、その意味するところはわかっているつもりである。

「どうせ誰とも結婚する気はなかったし」

「でも……だからって、そんな……」

 戸惑いがちに言葉を紡ぎながらも、千尋の真意を探ろうとするかのように、上目遣いでちらちらと視線を向けてくる。そこには期待と疑念がにじんでいた。

「ちょっと待ってろ」

 そう言うと、千尋はすぐに書斎から目的のものを取ってきて、ぺらりと開きながらダイニングテーブルの上に置く。

「何ですかこれ……えっ?」

「正式なものだぞ」

 それは婚姻届である。女性誌の付録で、漫画のキャラクターがあしらわれているが、実際に役所に出せるものだという。学生時代から好きな漫画なので、話題になっているのを知って何となく買ってみたのだ。

 とりあえず記入できるところだけ記入して押印し、ハルナに差し出す。

「私、まだ結婚できませんけど」

「だから預けておく」

 そう告げると、彼女は戸惑いながらも手を伸ばして受け取り、手元に引き寄せておずおずと目を落とした。そのまま身じろぎもせず見つめているうちに、その目がじわりと潤んでいく。

「こんなの……勝手に提出したらどうするつもりなんですか……」

「そうしてくれて構わないから渡してる。大人になっても気が変わらなかったら、それを使えばいい。気が変わったら遠慮なく捨ててくれ。オレとしては、きちんと相手を見つけることを勧めるけどな」

 千尋はあくまで本気で言っている。

 だが、彼女がそれを使うことはおそらくないだろうと思う。いまは他に誰もいないので千尋に縋っているだけである。ここから離れてしまえば、すくなくとも大人になるまでには目が覚めるはずだ。

 それでも今の彼女にとっての生きる希望になればいい。たった紙切れ一枚だが、単なる口約束よりは実感があるだろうし、おまもりくらいにはなるのではないか。そう考えてのことだった。

「ありがとうございます……大切にします」

 ハルナは丁寧に折りたたむと、しわにならないようやわらかく胸に抱え込む。

 そのとき、表情もわからないほど深くうつむいたその目元から、真珠のようなしずくがきらりと光って落ちるのが見えた。

 

 

第9話 世界でたったひとりの味方

 

「なんだかんだ炎天下を歩いたよな……」

 空が茜色に染まり、暑さもだいぶやわらいできたころ。最寄り駅から自宅マンションへ向かう道すがら、ふと昼間の強い日差しを思い出してそうぼやくと、隣を歩いているハルナはふふっと愉快そうに笑った。

 今日はのんびりと涼しく過ごすつもりで美術館に出かけた。千尋もハルナも絵画に特別興味があるわけではなかったが、それでもひそひそと話したり笑ったりしながら、楽しく鑑賞した。

 ただ、美術館を見終わってそのまま帰るには時間的に早かったので、もったいないと思い、何となく周辺の繁華街をあちこち歩きまわってしまったのだ。

 街中は直射日光だけでなくアスファルトの照り返しもきつく、そのうえビルの反射光まであり、体感的にはきのうの広大なテーマパーク以上に暑かった。歩いたのが人混みだったせいもあるだろう。

 それでもハルナが好奇心で目をキラキラと輝かせているのを見ると、まあいいかと思ってしまう。どこへでも連れて行ってやりたくなるし、どこまでもつきあってやりたくなるのだ。

 

 公園前の信号を渡ると自宅マンションだ。

 ハルナと二人で帰宅することがもうすっかり日常となっている。いつものようにオートロックのエントランスを通り抜け、エレベーターで四階に上がって自宅の鍵を開けようとした、そのとき。

 ガチャ——。

 隣の部屋から女性が出てきた。小学生の子供がいる三十代くらいの主婦だ。買い物にでも出かけるのか、カジュアルな服装でトートバッグを肩に掛けている。千尋とは隣人として挨拶する程度の間柄でしかない。

「あら、こんにちは」

「こんにちは」

 千尋は動じることなく挨拶を返す。

 しかし、何も知らないハルナはそうもいかなかった。ビクリとすると、あわてて千尋の後ろに隠れてギュッとシャツをつかむ。その手はかすかに震えていた。

「妹です。夏休みなので遊びに来てるんですよ」

 隣の主婦がどこか訝しむような目をしていることに気付き、こちらからそう告げる。とっさのことでハルナと示し合わせていたわけではないが、聡い子なので意図を汲んでくれるに違いない。

「ほら、挨拶して」

 千尋が促すと、背後からおずおずと顔を出してこんにちはと会釈する。蚊の鳴くような声ではあったが主婦の耳にも届いたのだろう。彼女はにっこりと微笑んでこんにちはと応じた。

「お名前はなんていうの?」

「……ハルナです」

 それを聞いた瞬間、主婦は何かに気付いたように小さくハッとした。すぐさま何でもないとばかりに笑顔に戻ったものの、目だけは笑っていない。じっと観察するようにハルナを見つめている。

「随分、年が離れてらっしゃるのね」

「ああ……その、腹違いなので……」

「あら、私ったら立ち入ったことを」

 いかにも申し訳なさそうに口元に手を添えて言うが、本心には思えない。千尋は余計な嘘をついてしまったことを後悔した。もっとも、どう答えてもすでに手遅れだったのかもしれないが。

「では、失礼します」

「ええ」

 それでも動揺を見せることなく二つの鍵を開けると、ハルナを促して中に入り、ドアハンドルに手をかけたまま耳を澄ませる。すぐに、主婦があわてて部屋に駆け戻っていく音が聞こえた。おそらくは警察に通報するために——。

 ハルナも察したらしく、顔面蒼白になり表情を凍り付かせていた。

「名前……私が、違う名前を言わなかったから……」

「そうじゃない。名前をごまかしたところでもう気付かれていた。ハルナ、おまえが責任を感じることじゃない。むしろオレがもうすこし気をつけるべきだった」

 いまさらどちらの責任だと言い合っても意味がない。

 いずれこういうときが来ることは二人とも覚悟していた。それでもいざ直面すると平静でいることは難しい。かすかに震えている彼女の小さな体をグッと抱き寄せて、千尋はゆっくりと呼吸をした。

 

 コトリ——。

 千尋が書斎から取ってきてダイニングテーブルに置いたそれを、向かいのハルナは怪訝に見つめる。

「これ、なんですか?」

「ICレコーダーだ」

 何年か前に仕事用として買ったものだが、いまは使っていない。

 千尋は再びそれをつまみ上げ、実際に操作しながら録音再生などの基本的な使い方を教えていく。本体のボタンにも機能が書いてあるので難しくはないはずだ。一度の説明で十分だろう。

「これで親からの仕打ちを録音しろ。殴ってる音はわかりにくいかもしれないが、暴言なら録りやすい。複数の場面のものがあれば説得力が増すだろう。それを持って警察に行けば助けてもらえるはずだ」

 誘拐犯である自分が何を言ったところで取り合ってもらえない。それゆえ彼女自身が行動するしかないのだ。明確な証拠がないかぎり親の主張が優先されるだろうし、まずは証拠を押さえる必要がある。

「戦え。生きろ。七年たてば自由になれる」

 発破をかけると、ハルナはいまにも泣きそうに顔をゆがめてうつむいた。

 酷かもしれないが、いまの千尋に言えるのはもうこれしかなかった。彼女が親元に帰され、暴力や暴言にさらされる日々に逆戻りしたとき、この言葉が力になってくれることを願っている。

「悪いな。途中で放り出すような形になって」

「悪いのは私のほうです!」

 彼女がはじかれたように顔を上げた。

 そのときチャイムが鳴り響いた。メロディからして部屋の前からの呼び出しである。通常はまずエントランスからの呼び出しがあるのに、それがなかった。おそらく管理人に事情を話して通してもらったのだろう。

「それ、しまっておけ」

「はい……」

 ハルナも誰が来たのかは想像がついているようだ。顔をこわばらせたまま消え入りそうな声で返事をして、ICレコーダーを鞄にしまう。その手つきはひどくぎこちなくて動揺が見てとれた。

 催促するように二度目のチャイムが鳴る。

「ここで待っていろ」

 そう言い置き、千尋は静かに席を立って玄関に向かう。ドアスコープを覗くと、中年男性と若い女性が並んで立っていた。二人ともきっちりとスーツを身につけて、隙のない顔をしている。

 ガチャ——二つのサムターンをまわし、無言で扉を押し開く。

 すぐに二人は警察バッジを見せながら所属とともに名乗った。いわゆる所轄の刑事のようだ。男性刑事が玄関に置いてあるハルナの靴をちらりと見たが、表情を変えずに話を続ける。

「いま、女子中学生の行方不明事件を捜査していましてね。申し訳ありませんが、ちょっと部屋の中を見せていただいても構いませんか。訪問した家のみなさんにお願いしていることなんで」

「どうぞ」

 千尋が促すと、女性刑事が失礼しますと靴を脱いで上がる。書斎、寝室、トイレ、浴室を順に調べていき、そして突き当たりのリビングの扉を開けた。その瞬間、ハッとしたのが後ろ姿から見てとれた。

「警察です。お名前を教えてくれる?」

「…………」

 ハルナの声は聞こえない。女性刑事の困惑した様子からしても、おそらくあえて口をつぐんでいるのではないかと思う。もしかしたら、来るなとばかりに睨んでいるのかもしれない。

「その子は榛名希さんです」

 千尋は玄関にとどまったまま声を上げた。

 隣で動きを警戒していた男性刑事が目を見開いたが、すぐに表情を引きしめ、リビングの入口付近にいる女性刑事に目配せをした。彼女は頷き、あたりを見回しながら慎重に中へと足を進めていく。

 ほどなくして優しげに話しかける声が聞こえてきた。もう大丈夫だから安心して、あなたを助けに来たのよ、怖かったわね、ご両親も待っているわ——けれどもハルナの返事は聞こえてこない。

「署のほうで話を聞かせてもらいます」

 男性刑事は鋭いまなざしを千尋に向けてそう告げた。物言いは丁寧だが有無を言わせぬ迫力があり、絶対に逃がさないという強い意志を感じる。千尋は素直に「はい」と返事をしたが——。

「やめて!」

 背後から悲鳴が聞こえた。

 振り向くと、後ろから女性刑事に抱き留められたハルナが、そこから抜け出そうともがきつつ必死に手を伸ばしていた。

「おにいさんは悪くない! 死のうとした私を助けてくれただけ! 私がここに置いてくださいって頼んだの! 私からおにいさんを取り上げないで!! 世界でたったひとりの味方なのっ!!!」

 あらんかぎりの声を絞り出して全身で訴えている。

 しかし、言葉どおりには受け取ってもらえないだろう。脅されるなどして犯人のことを庇っている、あるいはストックホルム症候群だと思われるのが関の山だ。それに訴えが認められたとしても無罪になるわけではない。

「どうしようもないんだ、ハルナ」

「っ……」

 彼女は眉を寄せ、堪えきれなかったように涙をあふれさせた。それを拭いもせず奥歯をきつく食いしばるものの、嗚咽は堪えきれない。うっ、ぐ、と押し込めたような声が漏れている。

 それを目にして千尋はうっすらと曖昧な笑みを浮かべるが、男性刑事に促されると素直に頷き、後ろ髪を引かれる思いで背を向けて部屋をあとにする。当然のように腕を掴まれたままで。

 閉まった扉の向こうからは、追いすがるような激しい慟哭が聞こえてきた。

 

 

第10話 離ればなれになっても

 

「ハルナ……榛名希さんを、親元に帰さないでください」

 聴取のために連れてこられた薄汚れた取調室で、千尋は最初にそう告げた。

 向かいに座ろうとしていた男性刑事が動きを止めるが、すぐに胡乱な目になり、粗末なパイプ椅子を軋ませながらどっかりと腰を下ろす。

「おまえなぁ、そんなことを言える立場じゃないだろう」

 いかにも面倒くさそうに顔をしかめてそう言うと、ガシガシと頭をかいた。

 当然である。誘拐犯がいきなりこんなことを頼んでも聞き入れられるはずがない。呆れられるのが関の山だ。それでもこの状況で話を聞いてもらうには率直に切り出すよりほかになかった。

「彼女は幼少期からずっと両親に虐待されてきました。身体的にも、心理的にも。それを苦に自殺しようとまでしていました」

 真剣な顔で、必要最小限のことを端的に伝える。

 男性刑事はそれを聞いてわずかに目を見張っていたものの、すぐに微妙な面持ちになった。そのままゆっくりとパイプ椅子にもたれかかって腕を組み、何か探るように千尋を見つめる。

「あの子がそう言うのを、おまえさんは疑いもせずに信じたってわけか」

「……何が言いたいんですか」

 千尋が低く問いかけると、何もないスチール机にすっと視線を落とし、どこかためらいがちに口を開く。

「ご両親によれば、あの子には昔から虚言癖があるそうだ」

「は……?」

 虚言癖なんて大嘘だ。三週間も一緒に暮らしたのだからそのくらいはわかる。むしろこれでハルナの話に信憑性が増した。感情的に叫び出したくなるのを必死に抑えつつ、冷静に言葉を紡ぐ。

「嘘をついているのは両親のほうだと思います。自分たちに都合が悪いことを言われたときのために、予防線を張ってるんでしょう。ハルナと出会ったとき、実際に彼女の腕や背中にはいくつもの内出血がありました」

「…………」

 男性刑事はわずかに眉を寄せる。

「父親は国家公務員でそれなりの地位についているひとだ。俺が実際に会ったのは一度だけだが、理知的で、礼儀正しく、そんなことをするような人物には見えなかった。娘さんのことも心配してたしな」

 世間体を気にする、外面はいい——まさしくハルナが言っていたとおりの人物像だ。これまでもそうやって取り繕ってきたのだろう。家で暴力を振るいながら、それを悟られることのないよう上手く立ちまわって。

「だからといって、父親の言い分だけを一方的に信じるなんてありえない」

「もちろんあの子の言い分も無視するわけじゃないさ。本当に虐待されていたら見過ごすわけにはいかないからな。一応、しかるべきところにおまえさんの話も伝えておく。それでいいな?」

「……お願いします」

 千尋は怒りをおさめて頭を下げる。

 こちらの言い分はあまり信じてもらえなかったようだが、犯罪者の戯れ言と一蹴されなかっただけましだろう。あとは、しかるべきところとやらが対処してくれるのを願うしかない。

「随分な入れ込みようだな」

 淡々とした、それでいてどこか呆れたような声音が耳に届く。

 顔を上げると、パイプ椅子にもたれて腕を組んでいた男性刑事が、じとりと冷ややかなまなざしをこちらに向けていた。

「愛情に飢えた少女を手懐けるのは容易いだろう。自己肯定感の低い子であればなおさらだ。居場所を与えて優しくしてやるだけで信頼してくれる。愛してると囁いてやるだけで言いなりになってくれる。セックスだってし放題ってわけだ」

 グッ、と千尋は奥歯をかみしめる。

 下卑た言いように腹が立ったが、そう思われるであろうことは捕まるまえから覚悟していた。なにせ被害者は中学生の少女だ。身代金目的でなければ猥褻目的と考えるのが自然である。けれど——。

「そんな扱いはしていないし、そんなつもりもない」

 睨むように強気に見つめ返して答える。

 それでも男性刑事は身じろぎひとつしなかった。怜悧な目で、奥底まで探るように千尋の双眸を見つめて問う。

「じゃあ、おまえさんは何が目的で誘拐したっていうんだ。まさか同情しただけなんて言わねぇよなぁ。たとえ本人が望んだとしても、保護者に無断で未成年者を連れ去れば誘拐になる。そのくらいわかってただろう」

「……なりゆきです」

 その声に、顔に、うっすらと自嘲が浮かんだ。

 自己犠牲もいとわず見知らぬ子を救おうとするほど優しくない。それでも本気で死のうとしていることを知ったら放っておけなかった。そのうち見知らぬ子は見知らぬ子ではなくなり、情がわいた。もう自分から手を離すことなどできなくなっていた——どうするのが正解だったかはいまでもまだわからずにいる。

「でも、後悔はしていません」

 静かながらも揺るぎのない声を落として、そっと息を継ぐ。

「ハルナがすこしでも生きることを楽しいと思ってくれたのなら、そのことで生きることへの希望を持ってくれたのなら、これがきっかけで保護されて幸せになってくれるのなら……オレは報われる」

 それは自分自身に言い聞かせる言葉でもあったのかもしれない。

 男性刑事はうさんくさいものを見るような目になった。しかし反論はせず、溜息をつきながらスチール机に肘をついて身を乗り出すと、挑みかけるような鋭いまなざしで千尋を覗き込む。

「まあいいさ、これから聴取で洗いざらい話してもらう。覚悟しろよ」

「はい」

 千尋としても望むところだ。

 この三週間のことを洗いざらい話して信じさせてやる。ハルナが親から虐待を受けていたということも、そのせいで自殺しかけたことも、千尋と性的な関係はなかったということも。離ればなれになった彼女のために、最後に自分がしてやれることはこのくらいなのだから——。

 

 

第11話 ただ生きていてくれるだけで

 

 静かな書斎に、カタカタとキーボードを叩く音だけが響く。

 千尋はもう何時間もそうやってパソコンに向かっていた。ひとり黙々とコードを書き、走らせ、修正し、組み上げていく。遅れているわけではなく、可能なかぎり前倒しで進めるのが千尋の流儀なのだ。

 ふう——。

 一段落すると、椅子にもたれながら大きく伸びをした。

 そのときあくびが出たことで眠気を自覚して、コーヒーを飲もうと傍らのマグカップを手に取るが、すでに中身はなかった。軽く溜息をつき、空のマグカップを持ったままリビングに向かう。

 暖房のきいた書斎から出ると、目の覚めるような冷たい空気を肌に感じた。今日はいっそう寒さが厳しい気がする。それでもコーヒーを入れるだけなら、わざわざ暖房をつけなくても大丈夫だろう。

 台所でマグカップを洗い、電気ケトルに水道水を入れてスイッチを押す。その場に立ちつくしたまま何気なく視線を上げると、レースのカーテンを引いた窓側がやけに白いことに気がついた。

 シャッ——。

 窓際に向かい、中央からカーテンを開く。

 わずかに結露した窓ガラスの向こうに一面の銀世界が広がっていた。いまも白いものがちらちらと舞い降りている。その景色に、千尋はあらためて季節の移ろいを実感してそっと息をついた。

 

 逮捕されたあの夏の日から、約半年。

 ハルナに対する未成年者誘拐罪については不起訴となり、自宅に戻っている。彼女の両親が事を大きくすることを望まなかったらしい。おそらく自分たちの虐待が露見することを恐れたからだろう。

 ただ、会社は退職を余儀なくされた。不起訴とはいえ未成年者を誘拐したのは事実であり、社名にも傷をつけたのだから当然だ。懲戒解雇でなく自己都合退職扱いにしてくれたのは、せめてもの温情だと思う。

 それでも犯罪者として名前が報道された以上、再就職は容易でない。貯金を切り崩しながら身の振り方を考えるつもりでいたが、ありがたいことに退職後すぐ元上司から仕事の打診があった。

 そういうわけで、いまはフリーランスのSE・プログラマとしてやっている。

 基本的には在宅だが、開発環境などの関係で短期的に会社に常駐することもある。元同僚たちと机を並べるのはいささか気まずいが、表向きは何も気にしていないかのように平然としていた。

 現在はかつての取引先からもいくつか依頼を受けている。単純に収入でいえば会社員のときより多い。以前から堅実な資産運用を続けていることもあり、金銭面での不安はなかった。

 気がかりなのはハルナだけだ。

 警察に連行されたあの日からハルナとは一度も会っていない。彼女がどうなったのかもわからないままだ。親元に帰されたのどうかだけでも知りたかったが、誘拐犯の自分に教えてもらえるはずはなかった。

 しかし、その気になれば突き止めることは可能だろう。名前や年齢といった重要な手がかりはすでに得ているし、夏の制服から中学校のあたりがつくので、千尋ひとりでも何とかなるはずだ。

 ただ、現状を知ったところで自分に何ができるわけでもない。彼女と接触することすら世間的には許されない。もし悲惨な状況にあっても助けられないのだと思うと、知ることが怖くなった。

 そのくせ、いつかハルナのほうから来てくれるのではないかと、ほのかな期待を抱いている。だからまわりの住民から白い目を向けられながらも、彼女と暮らしたこのマンションに住み続けているのだ。

 もっとも、そのいつかというのは彼女が成人したあとの話である。いくら会いたくても未成年のうちに会いにくるとは思えない。それでは再び千尋が逮捕されかねないとわかっているはずだ。

 しかし七年が過ぎるころには、もしかすると千尋のことなんかもうどうでもよくなっているかもしれない。好きなひとや好きなことができて自分の人生を謳歌しているかもしれない。

 そう思うと寂しいが、それでも別に構わないと思う。ただ生きていてくれるだけで報われる。幸せになっているなら言うことはない。たとえそこに自分が関わっていなかったとしても——。

 

 カチッと音がして、電気ケトルの湯が沸いたことに気付く。

 千尋はレースのカーテンを閉めると台所へ向かい、インスタントコーヒーをマグカップに入れて沸いたばかりの湯を注ぐ。ふわりと香ばしいにおいが湯気とともに立ち上り、気持ちが緩むのを感じた。

 ダイニングテーブルのいつもの場所に座り、リモコンでテレビをつけると、ローカルニュースが隣の市で起こったコンビニ強盗を伝えていた。それを聞き流しながらゆっくりと熱いコーヒーを飲んでいく。

 そのうちに何となく甘いものが食べたくなり、台所へ向かった。冷蔵庫を開けて薄型のチョコレートをひとつ手に取ると、ふいに背後のテレビから「女子中学生」「自殺」と聞こえて、思わず振り返る。

 昨日、市内の中学校に通う女子生徒が、交差点で乗用車に跳ねられて死亡しました。自ら飛び込んだという目撃情報があり、自殺と見られています——女性アナウンサーがそう読み上げたあと、現場映像に切り替わった。

 瞬間、千尋は息をのむ。

 そこには、ハルナと最初に出会ったあの交差点が映っていた。

 背筋に冷たいものが走り、チョコレートが手から滑り落ちてフローリングに転がる。こんなのは偶然だと自分に言い聞かせながらも、じわじわと嫌な汗がにじむのを止められなかった。

 

 それから丸一日、書斎にこもってネットニュースを読みあさった。

 いや、読みあさるというよりひたすら探していた感じだ。センセーショナルな事件ではないため世間の関心も低いのだろう。報道の数自体が少なく、その内容もほとんどがごく簡単に事実を伝えているだけだった。

 新たにわかったことは、鞄の中に遺書が残されていたということくらいだ。内容は遺族の希望で公開していないものの、原因はいじめではなく、学校関係者もいじめはなかったと話しているという。

 その話にますます疑惑が深まった。遺書として両親の虐待のことを書いていたのなら辻褄が合う。ハルナではないと信じたい気持ちと、ハルナかもしれないという不安が、心の中でせめぎあっていた。

 ハルナ、おまえはいまどこでどうしてる——?

 うなだれながら机に肘をついて両手で頭を抱える。指先に力がこもり髪がくしゃりと音を立てた。そのときふいにくらりと目眩がするのを感じて、ギュッと目をつむってやりすごす。

 そういえば、この一日ほとんど飲まず食わずで一睡もしていない。空腹はそうでもないが、体中がカラカラに渇いているし頭脳も疲れて鈍くなっている。そろそろ限界のような気がしてきた。

 それでもどうしてもハルナではないという確証を見つけたかった。だが、現実問題としていつまでもこうしているわけにはいかない。仕事も明日には再開しないと間に合わなくなる。

 どうすればいい、どうすれば——。

 ひどく追いつめられて頭をかきむしるように両手に力をこめたそのとき、とある考えがひらめいた。すぐさまノートパソコンに飛びついて新規タブで有名SNSを開き、キーワード検索を始める。

 これまで報道記事ばかり探してきたが、SNSになら目撃者や関係者からの生の情報があるかもしれない。千尋自身は一度もSNSをしたことがなかったため、なかなかそこに思い至らなかった。

 女子中学生 自殺

 女子中学生 車 事故

 中学生 自殺

 中学生 車 事故

 中学生 車 跳ねられ

 思いつくワードで片っ端から検索してみるが、報道記事へ誘導しているものや報道記事を引用しているものが見つかるだけで、有用な情報はなかった。それでもあきらめずに他の検索ワードを考える。

 榛名希

 心臓が破裂しそうなほどの激しい鼓動を感じながら、エンターキーを押す。

 しかし、表示されたのはゲーム・アニメ関係の話題ばかりだった。どうやら似たような名前のキャラクターがいるらしい。思わず舌打ちするが、それだけではないはずだと気を取り直してスクロールしていく。

 半年前までさかのぼると、ハルナの公開捜査に関する投稿がひとつ見つかった。「榛名希って同級生やわ」というコメントをつけたうえで、いまは削除されている公開捜査の記事を共有している。

 この同級生が、もし女子中学生の自殺についても何か投稿していたら。そう考えて、おそるおそるアカウントを表示してみたところ、今度はコメントをつけずに報道記事を共有していた。

 榛名希だとも同級生だとも書いていない。けれど——。

 公表されていないから言及できないだけかもしれない。他の投稿から浮いているこの記事をわざわざ共有したのは、やはり同級生だからではないだろうか。そして同級生ならハルナだと考えるのが自然である。

 さらにこの子と相互フォローしているアカウントをひとつずつ見ていく。やはり結構な割合のアカウントが自殺の報道記事を共有しており、そのうちのひとりが続けて言及する投稿をしていた。

 ——前の日は普通に学校に来てたのに、どうして・・・

 もちろんまだハルナと決まったわけではない。ただ、この子も同級生だとすればその可能性は格段に高くなった。次第に汗がにじんで息苦しくなるのを感じつつ、グッと奥歯をかみしめる。

 さらに相互フォローのアカウントを次々とたどったものの、決定的な情報は見つけられなかった。ひとまず新たな手がかりを探すべくキーワード検索に戻り、必死に想像力を働かせる。

 JC 車 ひかれ

 いささか微妙な気はしたが、いまは思いついたものをすべて試していくしかない。エンターキーを押して検索結果がずらりと表示されると、その一番上の投稿を目にしてハッと息をのんだ。

 ——近所でJCが車にひかれたっぽい

 文言の下には事故現場らしき写真が表示されている。それがハルナと出会ったあの交差点であることは一目でわかった。日付からいっても、報道されていた女子中学生の自殺で間違いないだろう。

 搬送されたあとなのか被害者は写っていない。ただ、アスファルトに残された生々しい血痕とブレーキ痕、あたりに散らばるライトの破片が、ここで事故が起こったという事実を物語っている。

 傍らには傷だらけの学生鞄が落ちていた。ハルナが持っていたものと似ている気がしたが、そもそも学生鞄なんてどれもたいして違いはない。他に手がかりがないかと拡大表示して目をこらすと。

 ドクン、と大きく心臓が跳ねた。

 その学生鞄には小さなペンギンのぬいぐるみがついていた。初めてハルナと出かけたときに買ってやった水族館のおみやげと同じものだ。あのころの彼女はそれをショルダーバッグにつけていた。

 トラックパッドにのせた手が震え出す。

 女子中学生、原因は公表しないが学校でのいじめはなかった、ハルナの同級生が自殺の報道記事をSNSで共有している、現場はハルナがかつて自殺を試みた交差点、学生鞄についているペンギンのぬいぐるみ——。

 ハルナでないという確信がほしくて必死になっていたのに、見つかる情報はことごとくハルナに繋がってしまう。ここまでくるともう認めざるを得ない。やはり、あの自殺した女子中学生はハルナだったのだと。

「うぐっ……うっ……」

 目頭が熱くなり、抑えきれない嗚咽とともに涙があふれていく。

 こんなふうに泣くのは物心がついてから初めてのことだ。止め方などわからない。ノートパソコンが濡れるのも構わずその上に突っ伏して、ただみっともなく泣き続けるしかなかった。

 

 

第12話 七回目の桜のころ(最終話)

 

 死ねないのなら、生きたくなくても生きるしかない——。

 

 仕事をして、金を稼ぎ、生命を維持するだけの日々。

 ハルナと出会うまえの自分に戻っただけといえば、そうかもしれない。ただ、あのときはそれをよしとしていたが、いまは虚しさが心に巣くっている。しかしどうしても死を選ぶことはできずにいた。

 

 ハルナがいなくなってから七回目の春が巡ってきた。

 ローカルニュースによればそろそろ桜が満開になるらしい。実際、ベランダに出ると空気がほんのりと春めいているのを感じる。きっとマンションに隣接した公園でも桜が咲いているのだろう。

 ただ、千尋がそれを目にすることはない。いまは仕事の打ち合わせでもないかぎり外出しなくなっている。生活に必要なことはだいたいネットで済ませられるので、数か月ひきこもることもめずらしくなかった。

 今日も朝早くからずっと書斎でノートパソコンに向かっていた。気付けばもう午後二時だ。没頭するあまり食事どころか水分補給すら忘れていたので、すこし休憩しなければと立ち上がる。

 リビングにはうららかな陽気が満ちていた。

 ほっと気持ちが緩むのを感じながら台所に向かい、電気ケトルで湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れ、昼食代わりにバランス栄養食を戸棚から取ると、ダイニングテーブルにつく。

 ひきこもるようになってから、食事はこういうもので済ませることが多くなった。もう料理はしないが、トーストを作るのもレトルトを温めるのも面倒で、そもそも食べることすら億劫だったりする。

 それでも、生きていれば食べざるを得ない。

 袋を開けてバランス栄養食にかじりつき、軽く咀嚼してからコーヒーで流すように飲み込んでいく。食べ終えるのはあっというまだ。中身のなくなった空の袋をくしゃりと捻りつぶす。

 ふぅ——。

 吐息を落としながら頬杖をついた。

 正面には誰もいない。だが、いつもそこに座っていた少女の姿を、いまでも無意識に思い浮かべてしまう。小さな口でもぐもぐと食べて、満足そうな顔を見せてくれることが嬉しかった。

 彼女を忘れたことはない。

 この家には至るところに彼女との思い出があふれている。穏やかな光に満ちた窓際のフローリングにも、寝室のダブルベッドにも、書斎の大きな本棚にも、二人ではすこし窮屈な玄関にも。

 忘れようにも忘れられないが、そもそも忘れたいと思ったことは一度もなかった。いつまでもいなくなったひとに囚われているのは不健全だ。それがわかっていても解放されて自由になることは望まなかった。

 自分にとってハルナとは何なのだろう。

 いくら考えても結論は出ず、いまでもときどき思い出したように頭を悩ませている。

 それまで誰にも何にも執着したことはなかった。恋人でさえ、別れたあとに思い出すことはほとんどなかったし、まして心を煩わされることなど皆無だった。つきあっていたときも淡々としていた気がする。

 ハルナに執着するのは、なりゆきとはいえ人生をかけてまで救おうとしたのに、救えなかったからだろう。虚しさと悔しさと恨めしさが心に巣くったまま、それが未練となっているのだ。

 けれど、それだけではない。

 彼女はここにいたときからすでに特別だった。最初こそなりゆきだったが、いつしか同情心や使命感だけではなくなっていた。彼女の幸せを願いつつも、ずっとこのままでいられたらと思うようになったのだ。

 ただ、その気持ちがどういう類いのものかわからない。いまあらためて会えばはっきりするかもしれないし、しないかもしれない。もう実現しえないことを考えても仕方がないのだが。

 マグカップを手に取り、ぬるくなった残り少ないコーヒーを飲み干す。

 もうすべては終わったことなのに——いくら考えても結論は出ないし、たとえ結論が出たところで何も変わらない。気持ちを切り替えると、空のマグカップを持ったまま立ち上がった。

 そのとき、チャイムが鳴った。

 エントランスからの呼び出しである。マグカップをダイニングテーブルに戻して、背後のインターフォンに向かう。そのモニタに映っていたのは、デニムジャケットを羽織った若そうな女性だった。

 格好からいって宅配便ではないだろうし、マスコミ関係にも見えないし、訪問販売員という雰囲気でもない。しかしながら他に心当たりはない。怪訝に眉をひそめながら応答ボタンを押した。

「はい」

「遠野千尋さんですか?」

「そうですが」

 向こうにはモニタがないので千尋の表情はわからないはずだが、声から訝しむ様子が伝わったのだろう。彼女はわずかに体をこわばらせた。それでもすぐに気を取り直したようにすっと背筋を伸ばすと、明瞭な声で告げる。

「私、ハルナです」

「えっ」

 一瞬、何を言っているのかわからなかった。聞こえてはいたものの、なぜか内容が理解できない。混乱する頭でどうにか咀嚼したその途端、ハッとして食らいつくようにモニタを覗き込む。

 そのとき初めてきちんと顔を見た。モニタが小さいうえ解像度も低いのではっきりとはわからないが、確かにハルナの面影があるような気がする。だが、彼女はもうこの世にいないはずでは——。

「そこで待ってろ!」

 そう叫ぶと、鍵をひっつかんで全速力でリビングを飛び出した。

 

「ハルナ?!」

 エレベーターを待ちきれずに転げ落ちんばかりの勢いで階段を降りると、エントランスで所在なさげに佇む女性のところへ息を切らしながら駆けつけ、その顔を両手で挟んで観察する。

 確かにハルナだ。

 あのころよりすこし顔立ちが大人びているし、身長も高くなっているが、驚いて目をぱちくりさせる表情は変わらない。ほんのりとあたたかいので幽霊ではないだろう。桜色のロングフレアスカートの中には脚があるはずだ。

「死んだんじゃなかったのか」

「死んでませんけど」

 彼女は不思議そうに答える。

 声はあのころのままだった。インターフォンで気付かなかったことが信じられないくらいに。まさか生きているとは思わなかったので、無意識のうちに選択肢から排除していたのかもしれない。

 ウィーン——。

 ガラスの自動扉が開く音を聞いてハッと我にかえり、彼女の頬から手を離した。入ってきたのはジャージを着た中学生くらいの男子だ。怪訝な顔でチラチラとこちらを窺いながら通り過ぎていく。

「あー……ここではまずいな……」

 昼下がりなのでそれなりに住人の出入りがあるはずだし、管理人室もすぐそこだ。いまは不在のようだが近いうちに戻ってくるだろう。しかし、自分の部屋に上がってもらうにはためらいがあった。

「いい天気だし、隣の公園で話さないか?」

「はい」

 千尋の意図に気付いているのかいないのか、ハルナは訝る様子もなく、ふんわりとやわらかく微笑みながら応じてくれた。

 

 隣の公園は、小さな交差点を渡ってすぐのところだ。

 さほど広くない敷地内にブランコや滑り台といった遊具がいくつかあり、周囲にはぐるりと桜が植えられている。ニュースで聞いたとおりちょうど満開で、薄紅色の花びらが春風にのってひらひらと舞っていた。

 正面から中に入り、はしゃぐ子供たちを横目で見ながら隅のほうへ足を進める。桜のほのかな甘さや、草花の青くささ、わずかに湿った土など、春を感じさせる雑多な匂いがふわりと漂ってきた。

 しかしながら気を取られているわけにはいかない。とっさにハルナを公園に誘ったものの何も考えていなかった。いまごろになってどうしたらいいのかと思案しながら、緩やかに足を止める。

「おにいさん、会社を辞めさせられたんですよね?」

「えっ」

 振り向くと、彼女はハンドバッグを後ろ手に持って満開の桜を見上げていた。その横顔はこころなしかこわばっている。怪訝に思いながらも、それを表情に出すことなく丁寧かつ慎重に返事を紡いでいく。

「会社は辞めたが、フリーランスとしていまも同じような仕事をしている。この形態のほうが自由でオレには合っていたみたいだから、おまえが気にすることはない……けど、なんで辞めさせられたって知ってるんだ?」

「父親が言っていたので……というか……」

 彼女は言葉に詰まり、困ったように顔を曇らせながら目を伏せる。

「おにいさんが逮捕されたあと、あのひとが被害者の父親として会社にクレームを入れたらしいです。うちの娘を誘拐した犯罪者をどうしてまだ解雇してないんだ、みたいなことを」

 話し終えるなりふわりとスカートを揺らして振り返った。そして覚悟を決めたような真摯なまなざしで千尋を見つめ、口を開く。

「謝ってすむことではないですが、本当に、本当に申し訳ありませんでした」

「え、いや……」

 彼女の父親がそんなことまでしていたなんて、会社からも聞いていなかったので驚いたが、いまとなってはもう済んだことである。それよりも彼女が深々と頭を下げたことにうろたえた。

「頭を上げてくれ。逮捕されたら辞めさせられるのが普通だし、おまえの父親が何もしなくても結果は同じだったと思う。すべてオレが覚悟のうえでやったことで、オレ自身の責任だ」

「いえ、元はといえば私が……」

 彼女はなおも思いつめたように言い募ろうとする。

 それを止めたくて、千尋は彼女のやわらかい頬を両手で挟んだ。そして大きく見開かれた双眸を真剣に覗き込んで言う。

「ハルナ、おまえが生きていてくれた。もうそれだけでいいんだ」

「…………」

 必死の訴えで思いが伝わったのか、あるいは勢いに負けただけなのか、彼女は言葉を飲み込んでこくりと頷いてくれた。千尋がほっとすると、彼女も同じように息をついて淡く微笑を浮かべた。

 

「あの、私が死んだと思ってたんですよね?」

 頬から手を下ろすと、ハルナが不思議そうに小首を傾げてそう尋ねてきた。

 死んだんじゃなかったのか、と口走ったのを忘れていなかったらしい。気まずさに思わず目をそらすが、こうなったら話さないわけにはいかない。ゆっくりと息をついて答える。

「あの半年後くらいに、おまえが自殺しようとしたあの交差点で、女子中学生が信号無視の車に飛び込んで自殺したって聞いて……おまえに買ってやったペンギンのぬいぐるみも現場に落ちてたし」

「それは……すごい偶然……」

 彼女は驚いたような困惑したような複雑な顔になりながら、ようやくといった感じで言葉を絞り出した。しばらく沈黙したあと申し訳なさそうに言葉を継ぐ。

「あのときは二時間くらい行くあてもなく歩いていたので、自宅からも学校からもかなり離れていて、あの交差点がどこにあるのかも正直わかっていません。半年後の話も知りませんでした」

「そうか……」

 彼女は何も悪くない。

 勝手に誤解したあげく確かめもしなかった千尋が悪い。本気で調べれば、自殺した女子中学生がハルナでないことくらいわかっただろう。しかしながらショックで考える気力すら残っていなかったのだ。

 ただ、こうやって無事に生きているからといって、すなわち幸せに暮らしているとは限らない。あのころより身なりはまともになっているが、さきほど父親の話が出ていたことから考えると——。

「おまえは親元に戻されてたのか?」

「はい」

 彼女はうっすらと苦笑した。

「家に戻ってすぐ、おにいさんにもらったICレコーダーで証拠を押さえようとしたんですけど、あっというまに見つかってその場で壊されてしまいました。すみません、私が不器用なばかりにせっかくのお膳立てを台無しにしてしまって」

「いや……それは、オレのほうが申し訳なかった……」

 思いつきで使い慣れないものを押しつけたのが間違いだった。そうなる危険性くらい認識してしかるべきだったのに。そう後悔していると、彼女はかすかに口元を上げてかぶりを振った。

「でも無駄にはなりませんでしたから。そのとき激昂した父親に殴られながら110番したんです。結局、それは親子喧嘩で片付けられてしまったんですが、あのひとたちは世間体を気にするので、通報を恐れて殴ることをためらうようになりました。おかげでだいぶ楽になってます」

 そこまで言うと、ふっと寂しげに目を細める。

「そのかわり大事なものを目の前で壊して捨てられましたけど。あのペンギンのぬいぐるみ、おにいさんに買ってもらったものだって察していたみたいで。止めようにも私の力ではとても敵わなくて……あの日はショックで泣き明かしました。おにいさんにも申し訳なく思っています」

「そんなものまた買ってやるよ」

 ペンギンのぬいぐるみでも、他のものでも、ハルナが望むなら何だって——。

 その気持ちが伝わったのか彼女は小さく安堵の息をついた。そして傍らで咲き誇っている桜を見上げながら再びゆっくりと歩き出し、あとをついていく千尋に振り返ることなく話を続ける。

「ただ、思うままに手を上げられなくなったせいか、母親の暴言はますますひどくなりました。おにいさんのことまで引き合いに出して、私を傷つけようと躍起になって。でもそれが目的だと認識しているので、いちいち真に受けることはなくなったし、もう傷ついたりしません」

 しなやかながら芯のある声で言い切ると、静かに足を止めた。

「家を出るために、高校生のときからこっそりとバイトをしてお金を貯めました。いまは大学に通いながら進学塾の講師と家庭教師をしています。おかげで残り二年の学費と生活資金くらいは貯められましたし、講師の時給を上げてもらえることも決まったので、もうひとりでもやっていけそうです」

 その直後、ふと桜の花びらが春風に吹かれてあたりに舞い上がった。桜色のロングフレアスカートもふわりと揺れる。彼女はその情景にまぎれるようにすっと振り向いて、やわらかく微笑んだ。

「私、今日でハタチになりました」

 二十歳——。

 だから堂々と千尋を訪ねてきたのだ。壊れそうだった十三歳の子供がこんなにもしっかりした大人になっていた。それだけの長い年月が流れていたことをあらためて思い知らされ、千尋はお祝いの言葉も忘れて立ちつくす。

「あの……これ、まだ有効ですか?」

 そう声をかけられて我にかえる。

 彼女は小さく折りたたんだ紙をこちらに差し出していた。さきほどとは打って変わって緊張した様子で、尋ねる声は硬く、手つきもぎこちない。こころなしか震えているようにも見える。

 千尋は怪訝に思いながらも何も言わずに受け取った。あちこちにしわがついていてかなりくたびれているようだ。破らないよう丁寧に開いていくと——見覚えのあるものが目に入り、ハッと息をのむ。

「よければ、私と家族になってもらえませんか? 形だけで構いませんので……」

 不安そうな、祈るような声。

 彼女から受け取った紙は、漫画のキャラクターがあしらわれた婚姻届だった。生きる希望になればとおまもり代わりに渡したものだ。あのときのまま夫のほうだけ記入捺印されている。

 正直、存在さえ忘れていた。

 それでも彼女に渡したときの気持ちは本物だった。家族になってもいいという人間がすくなくともひとりはいると、希望を持ってほしかった。何なら本当に提出しても構わないとさえ思っていた。けれどもいまは——。

「形だけの家族なんていつか後悔する」

 よれよれの婚姻届に目を落としたまま言う。

 正面の彼女が息を飲む気配を感じた。焦燥感に駆られるもののすぐには言葉が出てこない。次第に鼓動が速くなっていくのを感じながら、下を向いたままひそかに呼吸をして気持ちを整えると、話を継ぐ。

「だから……オレは、おまえと、本当の家族になりたい」

 それは、彼女が求めていることではないかもしれない。

 両親と家族として扱われたくなくて、そこから抜け出すために彼女は別の家族を作ろうとしている。ひとまず形だけでも。つまり、本当に家族になりたい相手を見つけるまでのつなぎなのだろう。

 彼女のためには何も言わずに粛々と聞き入れてやるべきだと思う。そもそもそういう約束だったはずだ。けれど、形だけで構わないと告げられて嫌だと思ってしまった。形だけだなんて——。

 誰にもハルナを渡したくない。

 ここまで強烈な執着心は初めてのことで自分でも戸惑っている。ただ、その気持ちをはっきりと自覚して、それでも物わかりのいい庇護者のままではいられなかった。裏切られたと思われても仕方がない。

 おそるおそる顔を上げると、彼女は大きく目を見開いたまま固まっていた。しかし千尋と視線が合った途端にじわりとその目を潤ませ、ぎこちない笑顔を見せる。

「私も、そうなりたいと思っていました」

 震える声で言い、とうとう感極まったように涙をこぼした。

 それはハルナも同じ気持ちということだろうか。勘違いなどではなく——婚姻届を畳んで半信半疑で手を伸ばそうとすると、それに気付いた彼女のほうから遠慮がちに体を寄せてきた。

 千尋はその背中に手をまわしてそっと力をこめる。おとなしく腕の中におさまった彼女は思ったよりも小さくて、やわらかくて、あたたかかい。その確かな感触は、これがまぎれもない現実なのだと実感させてくれた。

「ずっと、家族として一緒にいてくれるんだな?」

「よろしくお願いします」

 ハルナは感情を抑えようとしても抑えきれないような、はっきりと喜びのにじんだ涙まじりの声でそう答えて、千尋の背中に手をまわす。

 二人のまわりには、数多の薄紅色の花びらがひらひらと幻想的に舞っていた。

 

 

http://celest.serio.jp/celest/novel_kidnap.html

 


 
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