No.803340

「THE END OF FATE」

蓮城美月さん

OPの対峙シーンを基にした悲劇設定のシリアスストーリー。
ダウンロード版同人誌のサンプル(単一作品・全文)です。
B6判 / 104P / \200
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2015-09-20 21:52:51 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:1581   閲覧ユーザー数:1581

◆CONTENT◆

 

Predestination

Anxiety

Kindness

Suspicion

Approach

Positive

Recover

Resolution

Uneasiness

Parting

Tragedy

Conclusion

 

Predestination

 

オーブを脱出したアークエンジェルは、小さな島が点在する海域に着いた。人目につかない場所に艦を隠すと、補給や偵察を目的に数人が島へ上陸。廃墟となった街を見つけ、個別に探索を始める。マリューはクルーと別れ、一人で街外れを歩いていた。

 

教会が破壊された向こう側に、緑の野原が広がる。そこは自然のままで、大地の力強さを体現しているようだ。そよぐ風は優しく、現実世界との隔たりを感じさせた。

「――――平和ね。この世界が戦争の渦中にあるとは思えないくらい」

感慨深く呟いた瞬間、背後で人の気配がした。軍人としての本能がそうさせるように、身を翻して銃を抜く。建物の残骸に転がり込み、すぐさま戦闘態勢に入った。

息を潜め、付近を見渡す。すると、瓦礫の山から一人の男が現れた。銃を構えて周囲を警戒しながらこちらを探っている。着ている制服は地球連合軍の士官のものだ。大西洋連邦の、それも司令官クラス。顔は仮面に覆われていて、年齢などは推測できない。

普通の軍人ならありえない『仮面』という格好を異様だと思うが、今はそんなことを考えている場合ではない。緊迫した事態にこそ、冷静さを心がけなければいけない。こんな状況で的確な判断を誤れば、死ぬのは自分だ。

マリューは、ゆっくりとこちらへ歩いてくる男を観察した。体格からして、接近戦になったら女の自分に勝ち目はない。このまま見過ごしてくれればそれに越したことはないが、もし見つかってしまったら、あとは自分の銃だけが頼りだ。

 

一方のネオは単独でこの地に来ていた。ミネルバに対する作戦実行中だが、あと一歩のところで取り逃がし、次の指令まで待機している最中。なにかの気配を感じ、単機でこの島へ偵察にやってきた。だれもいなくなった街を巡回していると、突然人の気配がして警戒する。

廃墟となった建物が格好の目隠しとなり、人の姿など簡単に隠してしまう。ネオはいつでも応戦できるように足を進めていた。刹那、強い風が吹く。同時に、女が瓦礫の影から飛び出してきて発砲した。瞬時に身をかわすものの、頭を掠めた銃弾がネオの仮面を弾き飛ばす。

怯まずにこちらも発砲するが、機敏な身のこなしに外されてしまった。身体を回転させて銃弾を回避した女は、猶予なく射撃体勢に入る。引き金が引かれれば、自分は撃たれていただろう。だが――――引き金は引かれなかった。

 

自分の撃った弾丸が男の仮面をはいだ。マリューは立て続けに撃つつもりで、体勢を立て直す。しっかりと足を踏みしめ、両手で握り締めた銃で。だが、銃口を男に向けたとき…仮面のはがれた男の顔を見たマリューは大きく目を見開いた。

長い金髪が風に揺らめいている。男の端正な顔が、意志を携えた眼差しがマリューを見つめていた。瞬間、自分の目を疑う。まさか…そんなはずはない。自分はどうしてしまったのだろう。幻でも見ているのか、白昼夢を見ているのか。

ありえないと思い直し、大きく頭を振る。今、自分と向かい合っている男は、銃口を向けている男の顔は…マリューにとって見覚えがありすぎる顔だった。

『マリュー』

忘れようとしても忘れられない声が耳元によみがえる。彼は、自分が愛した二人目の男だった。あのとき、混迷を極めた戦場で散っていった生命。マリューは彼の乗ったモビルスーツが爆散するのを目撃したのだ。身を挺してアークエンジェルを…自分を守った男。

痛みと記憶が遠ざかるには二年という時間は短すぎて、鮮明な映像としてフラッシュバックする。対峙しながらも呆然とする自分を、男は怪訝そうに凝視していた。突然遭遇した敵にこんな動揺を見せているなんて、普通に考えるとおかしい。観察するような視線で様子を伺っている。

しっかりしなければと、マリューは自分に言い聞かせた。このような状況で隙を見せれば、生命を失うこともある。だから、必死で自身に訴えかけた。違う、彼じゃない。彼とは違う。きっと、とてもよく似た別人だ。他人だ。彼であるはずがない。

だって彼は二年前に、ローエングリンの焔に焼かれて散ったのだから。ブリッジの目前で爆砕したストライクを見たのだから。それに彼なら、自分のことを分からないはずがない。まして、自分に銃口を向けるはずが――――。

 

銃を構えたまま、女は挙動を止めた。ひどく驚いた表情で自分を見ている。ネオは、女から目を離せなかった。着ている制服はオーブの軍服だ。けれど、こんなところにオーブ軍が駐留しているはずはない。女は揺れる瞳で、切なさを感じる眼差し。自分にはそんな感情を向けられる理由がなく、ネオは疑問に思う。だが女の顔を見つめていると、脳裏に数コマの映像が浮かんできた。

白亜の戦艦、白いモビルスーツ、破壊されるコロニー、沈んでいく艦隊、一人の女の笑顔、涙を浮かべた表情、想いを潜めた瞳で交わす敬礼、翼を広げるモビルスーツ、激しい戦闘、宇宙に走る悪意の光、仮面の男、白い戦艦に砲口を向ける黒い戦艦、襲いかかる陽電子の光の束、機器が焼け焦げる匂い、真っ白に包まれた中で目に映った女の姿。それらの映像に多く出てきた女が、目の前の女と重なる。自分の記憶にない、自分と思われる者の記憶。

ネオは数回頭を揺さぶると、その不可思議な記憶を追い払おうとした。自分はネオ・ロアノークという人間であるはずだ。経歴は研究所にあったデータだけ。自分が自分であることを、自分だけでは証明できない。それがネオと、研究所の産物である三人の強化人間。過去という時間は存在しない。ただ、戦うための現在だけ。未来という場所は、我々には持ちえないものなのだと。

それで納得していたけれど、この女が記憶を引きずり出す。完全に失われた、過去の時間を巻き戻す。ネオ・ロアノークではない自分を、眠りから覚まそうとする。記憶からすべてが消え去っても、身体が覚えている。女へと伸びていく腕が、近づきたがる心が、過去を忘れていない。

本能が過去への扉を開きかけるけれど、途端に激しい頭痛が走る。自分が過去を取り戻すことを望まない存在もあるようだ。ネオは自分に冷静さを強いながら、女に向かって告げた。

「……何者だ?」

 

そう問われて、マリューは息を呑んだ。その質問に対して困惑したのではない。問いかけたその声が、あまりにも彼そのものだったから。心が震えて、なにも言えなくなってしまった。

そっくりな人間なんてこの世に三人はいるのだから、遭遇したっておかしくない。だけど、顔だけでなく声も同じなんて。この現実にどう対処すればいいのか、マリューには考えられなかった。ただ目の前の男が彼なのか、別人なのか確かめられたら。そう思い、もつれた口調で問いかける。

「あ…あなたは――――」

男に話しかけた瞬間、空からモビルスーツの飛行音が聞こえてきた。あっという間に二人の上空へ現れ、ゆっくりと降下してくる。

「マリューさん!」

スピーカー越しにキラの声が聞こえてきた。フリーダムが強い風を巻き起こしながら着地する。マリューも男も、風の渦に飛ばされそうになりながら身体をかばっていた。フリーダムの両手がマリューを包み込むと、モビルスーツが起こす突風から逃れることができた。

だが、男はどうしただろう。気になって、マニピュレーターの隙間から男の姿を探す。強い風に煽られながら、男は仮面を拾っていた。そして、身を隠せる死角へ逃げ込んでいく。男が視界から消え去るまで、マリューはずっとその男を見つめていた。

 

強烈な風に身体の自由を奪われながら、ネオは物陰に身を潜めた。用心しつつ状況を観察する。モビルスーツは女をコックピットに収容すると、翼を広げて飛び立っていった。なぜか強くインパクトを与えられたモビルスーツ。そういえば、浮かんできた映像の中に、その機体もあった。

「あのモビルスーツ――――」

自分でも解明できない感情が湧いてきて、なにかに呼ばれている気がする。あの女と白いモビルスーツは、自分に関連があるのではないだろうか。そう思ったとき、頭に激痛が走った。

いつもそうだ。なにかが記憶の彼方から呼びかけてくる。それを思い出そうとしたら、ひどい痛みがネオを襲うのだ。まるで、思い出されては困る者の意志が、それを阻んでいるかのように。

『――――さ…大佐』

通信機からノイズの入った声が聞こえてきた。地球軍艦の艦長からだ。

「なんだ」

『戦艦の反応を感知しました。すぐ艦にお戻りください』

なにかあると感じて偵察に来た、自分の勘は間違っていなかったらしい。ネオは白いモビルスーツが飛び去った方向を一瞥しながら返答する。

「わかった。ザフトか?」

『いえ。ザフト艦ではありません。未確認情報ですが、アークエンジェルではないかと』

「………アーク、エンジェル…?」

その名前に懐かしさを覚えながら、ネオは母艦へ戻るべくその場を去っていった。

 

「大丈夫ですか? マリューさん」

マリューをコックピットに収容したフリーダムは、アークエンジェルへ帰投していた。まだ動揺から抜け出せていないマリューは、曖昧な返事をする。

「でも、キラ君が…どうして?」

モビルスーツなんて発進させたら、敵に見つかってしまうかもしれないのに。そんな疑念を抱くマリューに、キラは前を見据えたまま答えた。

「近くの海域に、地球軍の戦艦の存在を探知しました。無用な戦闘を避けるためにも、早く出航したほうがいいでしょう」

「そう」

戦艦と聞いて、あの男の姿が浮かんできた。

「マリューさん。さっきの男は…?」

今しがた対峙していた男のことをキラが訊ねる。

「……地球連合の士官、だったみたいね」

回想するだけで、心に重いものがのしかかってくる。マリューは濁った口調で答えた。

「なぜ、あんなところにいたのかはわからないけれど…」

ひどく苦しそうな声色を、キラは怪訝に思う。操縦席の後ろにいるせいで表情は見えないが、マリューの昏迷する心を感じた。

「大丈夫、ですか? マリューさん」

最初と同じ問いを、別の想いで訊くキラ。マリューはその意味が掴めず、首を傾げた。

「あ…。だって、ほら。銃を向け合っていたでしょう、あの男と」

取り繕うように補足を加えると、マリューは緊張をほどいて納得する。

「それなら大丈夫よ。出会い頭に一発撃ち合っただけ」

笑顔を浮かべ、優しい同志に応えた。そうすることで、自身にも大丈夫だと刷り込みたかったのかもしれない。本当は平気じゃない、訳が分からず混乱している自分に。なんでもないのだと、ひとときの夢を見たのだと。だから早く忘れよう。いつもの自分に戻ろう。けれど心は正直で、欺瞞を許してくれなかった。ありえないと思いつつも、生まれてきた可能性を捨て切れなくて。

「……キラ君」

マリューはためらいがちに切り出す。

「さっきの男のこと、みんなには黙っていてくれない?」

思ってもないマリューの要望に、キラは驚いた。

「お願い、キラ君」

アークエンジェルが視界に映り、意識を着艦へ傾けるが、聞き流せることではなかった。半分はフリーダムの操縦に注ぎながら、残りの思考回路で対応を考える。

「…どうしてですか?」

答えてもらえるか自信はなかったが、とにかく訊いてみた。

「みんなに内緒にする理由が、僕にはわかりません。わからないまま、マリューさんの要望を聞くことはできない。――――訳を聞かせてもらえませんか?」

落ち着いた口調で問い質す。そう言われて、マリューは困惑気味に黙り込んだ。自身でさえその理由を分かっていないのに、どう説明すればいいのだろう。

「さしたる理由ではないのよ。みんなに余計な心配をかけたら悪いから。地球連合の士官と出くわしたと言っても一瞬の出来事で、わたしはこうして無事だったんだし」

思いついた言い訳を並べてみたものの、決定的な理由となりうるものはひとつもない。戸惑い弱るマリューの気配を感じ、キラは口を開いた。

「わかりました」

「え…?」

「さっきの男のことは、だれにも言いません」

あまりにも思いつめている雰囲気なので、キラはマリューの要望を聞き入れる。マリューは重い荷物を背負い込んでしまう人だから、今は追及せずにそっとしてあげたい。落ち着いたら、きっと話してくれるだろう。そう信じて、マリューの希望を受け入れた。

「約束します」

言い切ると、キラはフリーダムをアークエンジェルに着艦させた。

Recover

 

L4コロニー群近辺で、局地的な戦闘が勃発した。地球連合とザフトが戦火を交える中、アークエンジェルも参戦し、キラ、カガリ、バルトフェルドがモビルスーツで発進。ガーティ・ルーも、ステラ、アウル、スティング、ネオが出撃した。

敵味方が入り乱れる空域。ネオのエグザスとバルトフェルドのムラサメが交戦する。アークエンジェルの防衛ライン上で戦っていた両者は、一歩も引かない互角の戦闘を繰り広げる。一瞬の隙をついてエグザスがアークエンジェルに肉薄するが、寸前のところで攻撃をためらった。

 

「…あれは『敵』だろうに、なぜオレは撃てない?」

アークエンジェルを射程距離に捉え、あとはボタンを押せばよかった。なのに、それができなかった。自分たちの前に立ちはだかる者はすべて敵のはずなのに…。どうしてその敵を撃てなかったのか。ネオは自分の行動を懐疑しながら、ムラサメの攻撃をかわしていた。

過去の自分に因果のある戦艦でも、今の自分にとっては敵だ。ならば撃たねばならない。それなのに、あの艦に近づくと帰りたい気持ちが生じて、敵であることさえ忘れさせてしまうのだ。

アークエンジェル。先の大戦で大きな役割を果たした艦。そこに自分もいたというのか。ネオはざわめく心を抑えながら、戦闘を続けていた。

 

「あのモビルアーマー、どうして撃たなかったんだ?」

操艦しているノイマンが、意外そうに呟いた。アークエンジェルのブリッジでは、窮地に陥った先刻の様子に、クルーは怪訝な思いを抱いている。致命傷を負わせる決定的な機会だったのに攻撃しなかった。そのおかげで、アークエンジェルは健在でいられるわけだが。

ブリッジでただ一人、マリューは苦しそうな表情を浮かべている。なぜ、あのモビルアーマーが攻撃してこなかったのか、彼女だけは理解できたからだ。

アフリカ西部沿岸で遭遇した部隊の指揮官が例の仮面の男であることは、バルトフェルドから聞かされていた。そして、宇宙に上がってあの部隊と遭遇。地球で見たモビルスーツとは違うが、指揮官機であるモビルアーマーに、仮面の男が乗っているのは間違いない。

だから、バルトフェルドも「その敵は撃つな」という通信を寄越したのだろう。ムラサメと交戦する敵機を、マリューは静かに見つめていた。あれに彼が乗っている。そしてアークエンジェルに対して引き金を引けなかった理由はきっと、あの仮面の男が『彼』だから――――。

 

ガーティ・ルーのブリッジで、イアン・リーは絶え間なく指令を出していた。アークエンジェルだけでなく、ザフト艦まで相手にしているのだ。休みなく攻撃と守備を繰り広げている。この艦のモビルスーツは全機出払っており、あとは艦の武装で対応するしかない。

頼みのモビルスーツは、アークエンジェル所属のモビルスーツにかかりきりで、こちらを顧みる余裕もない。ブルーコスモスが巨額の投資をして作った強化人間も、強敵相手には優位性を保てないらしい。指揮官であるネオも、敵を圧倒するまでには至らない。リーは内心「大佐も案外不甲斐ない」と思いながら、光学映像で映るアークエンジェルを鋭い眼光で見定める。

かつては地球連合に属しながら、反旗を翻した裏切り者の艦。あの艦さえいなければ、ヤキン・ドゥーエ戦での我らの勝利は確実だった。プラントを核で打ち砕き、コーディネーターなどという化け物はすべて滅ぼすことができただろうに。アークエンジェルが邪魔をしたせいで、その悲願は成就されず。当時のブルーコスモスの盟主、ムルタ・アズラエルを乗せたドミニオンを撃沈させた――――因縁の艦なのだ。

「あの裏切り者の艦…アークエンジェルだけは、どうあっても沈めねば」

そうでなければ、先の大戦で犠牲となった同胞たちが浮かばれまい。リーは決意を新たにし、毅然とした姿勢で指揮を執る。

「ミラージュコロイド展開。ローエングリン起動。一時方向へ二十五度軌道修正」

ブリッジクルーが命令を復唱し、実行していく。アークエンジェルをガーティ・ルーの射程上に捉えた。

「ローエングリン照準。目標、アークエンジェル級一番艦アークエンジェル」

「ですが、大佐のエグザスがまだ射線上に!」

攻撃管制のクルーが、リーを振り返り進言する。

「かまわん!」

「しかし…!」

断固たる返答にクルーは困惑する。この艦の艦長はリーだが、ファントムペインの指揮を執っているのはネオ・ロアノーク大佐だ。リーは、大佐を撃ってもいいと言ったに等しい。

「大佐なら、自力で回避可能だ」

補足しながらも、リーは密かに呟いていた。もしも運悪く撃墜されたら、それはそれでいいと。地球から戻ってきた大佐は、以前となにかが違っていた。過去の記憶は一切抹消したはずなのに、自我を取り戻しつつあるような…。自己の存在に対して、なにか思い出しかけているのか。

もしすべてを思い出したとしたら、大佐が我々と同じ道を歩むことはないだろう。なにもかも知れば、敵対することを選ぶはずだ。

それならそれでかまわない。どうせ、あの三人と同じように最初から捨て駒だったのだ。どうなろうと知ったことではない。戦闘に巻き込まれて死ぬのなら、それまでのこと。我々が危険を負ってまで助ける必要もない存在だ。冷たい視線をエグザスに向けながら、リーは号令を放った。

「撃て――――!!」

 

ムラサメと一進一退の攻防を繰り返していたネオは、こちらへ向かってくる光の束にいち早く反応した。

「ローエングリンか!?」

ハッと気づくと、交戦中のムラサメを爆撃で射程圏外へ大きく吹き飛ばす。そして、照準がアークエンジェルを狙っていると察した。自分がその射程上にいると分かっているだろうに、何の配慮もなく撃ってきた。その判断に、己の価値を実感させられる。結局、スティングたち強化人間と自分は連中にとって戦闘兵器でしかなく、最前線へ放り出して戦わせるだけの存在なのだ。

「リーめ。いい度胸だ」

ガーティ・ルーの艦長である部下を思い浮かべる。上官には従順な人間だと思っていたが、そうでもなかった。意外にも、虎視眈々と上官の失脚を狙っているらしい。自分に対して砲口を向けるなど思いもよらなかった。

ガーティ・ルーの現在位置は掴めない。おそらくミラージュコロイドを展開しているのだろう。だが、ローエングリンの発射された角度から、位置は推測可能だ。ネオは回避行動を取りながら、無線をアークエンジェルの周波数に合わせていた。頭で考える前に身体が勝手に反応していた。

もちろん、ネオはアークエンジェルの無線チャンネルなど知らない。だが手が自動的に動いたのだ。それはきっと、自分がかつてアークエンジェルにいた証。目の前を陽電子砲が掠める、パネルやディスプレイはショート寸前。それでも、ネオの視線は白い戦艦へ向かっていた。

戦場に立つ凛とした姿は、あの女に似ている。ネオの目には、艦長席に座っている彼女の姿が見えた。現実には見えるはずがない、それだけ隔てられた空間に。けれど、たしかにネオは見た。背筋を伸ばして、必死で艦を守るために戦っている女の姿を。それが見えたとき、ネオは身を乗り出して叫んだ。魂のすべてを賭けて、想いを言葉に託して――――。

「避けろ! アークエンジェル!!」

 

「――――艦長!!」

正面から迫ってくる光の束に、ノイマンが引きつった声を上げる。

「機関最大、回避!」

マリューの命令と同時に、艦は回避行動に移っていた。敵戦艦から放たれた陽電子砲は、アークエンジェルの右舷を掠めて漆黒の宇宙を通り過ぎていく。ブリッジは衝撃に揺れたが、致命的な損傷は免れたらしい。チャンドラが艦の損害を報告する。

しかし、マリューには別の声が耳に残っていた。通信回線から聞こえてきたノイズ混じりの声。はっきり聞き取れたわけではないが、マリューには聞こえた。アークエンジェルに「避けろ」と叫んだ男の声が。

その声はあのモビルアーマーから発せられたものだ。確かめるまでもなく彼女は断定する。あの機体には、例の仮面の男が乗っている。そのパイロットは『彼』である可能性が高い。そして自分たちに避けろと言ったその声は、まさしく彼の声で――――。

助けようとしてくれた、守ろうとしてくれた。今は敵対する立場にある彼が。自分たちのことを覚えていないらしい彼が、それでも。やっぱり彼は変わっていない。記憶がなくても、別の人間として生きていても…彼は彼のまま。

マリューは艦の損傷への対応を命じながら、目の前の空域を凝視していた。あの機体も射程上にいたはずだ。無事だろうか。強張った面持ちで、そのモビルアーマーの姿を探した。

 

ギリギリのところでエグザスはローエングリンをかわした。それなりの強度を持ってはいるが、ローエングリンが相手では無事ともいかず。左側が被弾し、推力が三割落ちていた。いつものネオならば被害状況を把握して次の行動に移っているはずだが、今は呆然としている。

先刻の出来事、ローエングリンを間近に体験して、頭の中に奇妙な感覚が起こっていた。いつもの、過去を思い出そうとすると疼く頭痛と共に。以前にも、こんなことがあった…? 深い記憶の淵から、なにかがシグナルを点滅させる。

「なんだ…?」

激しい痛みに頭を抱えながら、その感覚に精神を委ねた。激痛に負けて逃げ出したら、もう二度と思い出せないかもしれない。だから、頭が割れるような痛みに必死で耐え、白い光の向こう側へ飛び込んでいった。

刹那、ネオの精神にある映像が浮かんできた。激戦を物語る戦場、遠くにはプラント、その手前に軍事要塞。あれはヤキン・ドゥーエだろう。自分は大きく被弾したモビルスーツに乗っている。そしてあの白亜の戦艦に帰ろうとしていた。

自分の乗るモビルスーツを受け入れるため、左舷ハッチが開く。まっすぐそこへ向かっていたのだが、こちらへ接近してくる戦艦に気づいた。やがて敵と思われる黒い戦艦から、陽電子砲の光が灯る。間違いなく、この白い戦艦――――アークエンジェルを狙っていた。回避するには、あまりにも敵戦艦との距離が近すぎる。このままでは直撃してしまうだろう。

「させるかっ!」

自分は損傷の激しいモビルスーツを操り、とっさにブリッジの前に出た。陽電子砲の射線上に立ちはだかり、アンチビームシールドを掲げる。恐ろしいまでの光の束が襲いかかってきたが、このモビルスーツの力と、自分の持っているすべての力を注いで防いだ。

執拗に響く警告音、言われなくても機体がもたないことは分かっている。手元の機器が過大な熱量にオーバーヒート、あちこちがショートして火花が上がった。コックピット内はとっくに摂氏五十度を超えている。自分がどうなるかなんて、考えるまでもない。

けれど、そんなことはどうだってよかった。ただあの白い戦艦を守れたら…アークエンジェルが無事ならそれでいい。あそこに、宇宙で一番守りたいものがあるんだ。だからオレは――――。

最後に一瞬、ブリッジを振り返る。現実には見えるはずもなかったろうが、自分の目には見えていた。ブリッジの中央、驚きに目を見開いてこちらを見つめる。

いつだって心優しく、弱さの中にも凛とした強さがたしかに存在して、そんな君が愛しかったよ。哀しい表情をしないで、オレはこれでいい。君を守れたのなら、オレはそれでいいんだ。意識が途切れる瞬間、彼女にそっと微笑んだ。そして真っ白な…痛みも苦しみもない世界へ。

次に目が覚めたとき、自分は『自分』を忘れていた。凄まじい衝撃のためか、ひどい怪我のせいか、『自分』が何者であるかを一切忘れ去っていた。

ネオは静かに回想から意識を呼び戻す。あの激しい頭痛は去り、頭の中に漂っていた白い霧は晴れた。――――思い出した。なにもかも、すべてを思い出した。自分が『だれ』であるかも、アークエンジェルを懐かしく思う理由も。

 

例のモビルアーマーの姿を発見し、マリューは安堵の息。多少被弾があるようだが、致命的な損傷ではない。あれなら母艦まで帰れるだろう。

「艦長、例のモビルアーマーから通信が!」

唐突に入った電信に、チャンドラが報告する。驚きの眼差しでマリューは後方を顧みた。

「通信…?」

「この空域のデータです。今出します」

正面のモニターにデータを表示させる。見るとたしかにこの空域の地域図なのだが、ある箇所に赤くマークされた地点があった。

「ガーティ・ルー?」

マリューはその点を示す文字を読み上げる。考えられることとしては、攻撃をしてきた敵戦艦。そのデータをあのモビルアーマーが送ってきたというのか。ミラージュコロイドを展開中らしく、こちらからは補足できないでいたのだが、味方なら母艦の位置は掴めていて当然。

「艦長、これは一体…? なにかの罠では?」

「いいえ、罠ではないわ。あのモビルアーマーは、わたしたちに敵戦艦を撃たせようとしているのよ」

「しかし…」

「ローエングリン起動。わたしはこのデータを信じます。目標、敵戦艦ガーティ・ルー。照準をデータの座標に合わせて」

士官たちの惑いは当然だが、今が攻撃の好機であることは事実。千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。マリューに迷いはなかった。あれが『彼』の乗っている機体であり、『彼』が送ってきたデータを信じる。『彼』の望みがあの戦艦を撃つことなら、自分も協力するまで。

「ローエングリン照準。撃て――――!!」

マリューの号令のあと、アークエンジェルから陽電子砲が発射。宇宙の闇を切り裂き、敵戦艦へ向かう。寸前にミラージュコロイドを解いて装甲を固めたガーティ・ルーは、必死の回避作業で直撃は逃れたが、右舷を大きく被弾した。

黒煙が船体から上がっている。致命傷までは至らなかったが、これであの艦を沈黙させることはできただろう。そして、マリューは例のモビルアーマーに視線を向けた。一度機首をこちらに傾けたように見えたけれど、反転して廃墟となったコロニー群へ飛び去ってしまう。

なぜ、自分たちに敵戦艦の位置を教えてくれたのか。どうして敵を撃たせようとしたのか。そこに、あの冷たい仮面の男の気配は感じない。感じるのは、どんなときも力強く戦っていた…彼の気配。モビルアーマーの航跡を見つめながら、マリューは切なく瞳を伏せた。

 

Parting

 

廃墟となった建物の中を、マリューは慎重な足取りで進む。かつてはなにかの施設だったのだろう。思ったよりも広く、迷宮のように入り組んでいる。自分がどの方向へ進んでいるのか分からなくなりそうだ。けれど、どこへ行くべきなのかは身体が感じていた。本能が導いている。『彼』の気配がマリューを呼んでいた。

だんだんと人の気配が近づく。彼女は拳銃をホルダーから抜いて、安全装置を外した。隙のない戦闘態勢で、吹き抜けの空間へ侵入する。おそらく、ここが建物の中心部なのだろう。この広間から放射線状に通路が延びていた。身を潜め、そっと様子を伺う。こちらの気配を察してか、仮面の男の姿は見えない。大きな柱の影に身を隠しているのだ。

わずかな音でも反響する立体的な空間。必然的に呼吸数が増えるのを、辛うじて飲み込む。鼓動は正常値を超え、普通の状態ではいられない。それでも自分を落ち着かせ、動揺する心を抑えた。冷静でいないと手元が狂って、狙いを外してしまうかもしれない。

相手はこちらの出方を伺っているようで、気配を殺している。この膠着状態を脱するには、自発的にアクションを起こすしかない。マリューはひとつ大きな呼吸をして、機敏な動きで物陰から飛び出した。両足をしっかり踏みしめ、まっすぐに銃を構える。どこからあの男が現れても対処できるよう、周囲に意識を向けた。

こんな真似をすれば、相手から狙い撃ちされる格好のターゲットだが、マリューはあちらが撃ってこないと確信を持っていた。その相手が『彼』であること、そして『彼』ならば自分を撃つことはないと。水面が張りつめたような静寂、一瞬が永遠にも感じる精神の極限。心も身体も逼迫する最中、彼女はただ待っていた。『彼』の反応を、次の行動を。

微動もない静けさが破られたのは、それから一刹那あとのこと。向かい合った柱の影から、仮面の男がゆっくりと姿を現した。片手で持つ銃を、伺うようにこちらへ向けている。仮面の下、わずかに見える部分はポーカーフェイス。そこから男の感情を推し量ることはできない。三歩ほど前進したところで、マリューは銃を握る手に力を入れた。

「――――動かないで」

厳しさを持った、凛とした口調で告げる。その言葉に男は挙動を止めた。

「少しでも動いたら、撃つわ」

「……………」

「あなた、射撃は得意ではなかったでしょう?」

両者の銃口がお互いに向けられている。けれど、相手よりは早く引き金を引けるはずだ。彼女は最初から狙う『箇所』を決めていたから。男が身構えた一瞬、マリューは迷わずトリガーを引く。銃弾は狙い定めた場所、男の仮面を掠めていった。

「銃を捨てて。仮面を外して」

抑揚のない声で告げ、銃口を男に向けた状態で一歩前進する。二人の間を隔てる距離は、心と同期していた。警戒しながら、彼女は少しずつ男に近づく。接近するごとに動悸が激しくなる。瞳は男を映したまま動かず、呼吸することさえうまく機能していない。

時の流れがひどく遅く感じた。一挙手一投足がスローモーションのように思える。ゆっくりと慎重に近づいていくマリュー。男は無表情のまま、何の反応もない。この状況でも、あくまでシラを切りとおすつもりなのか。だったら、証拠を挙げて問いつめるまで。

「今さら、『自分はネオ・ロアノークだ』なんて言うつもり?」

皮肉めいた声色で彼女は切り出した。

「わたしにあの艦――――ガーティ・ルーを撃たせたのは、『地球連合軍大佐』の『あなた』であるはずがないもの」

ひとつ足を進めるたび、二人の距離は縮んでいく。それが心を比例させていることであると、祈りたい想いで。男はなお平静を装っていた。そう簡単に自分を認められないということか。思案しながら、彼女は男の目の前までたどり着く。

これほどまでに近づけば、ますます『彼』そのものでしかなかった。全貌を観察した視線が、また男の仮面の下に注がれる。何の感情も、人間の体温もないような無表情を貫いていた。けれど、マリューは知っている。その下の素顔、本当の『彼』のすべてを。

男との間隔が間合いの一歩手前まで接近したところで彼女は足を止めた。ここから先は近づけない境界線。相手が『ネオ』だと名乗る以上、この先は踏み込めない領域なのだ。自らの口で『彼』であることを認めさせないと。男を凝視していたマリューは、不意にあることに気づく。男の手に握られた銃、それを見て明らかな確証を持った。

「本当に撃つ気があるなら、セーフティ外したら? そのままの銃では、わたしを撃つことなんてできないでしょう?」

小さく肩をすくめながら告げた台詞に、男の表情が微細に動く。口元が動揺を隠すように引き締まった。彼女は一歩踏み込み、男に向かって微笑む。それは嬉しさや喜びの笑みではなく、寂寥感に満ちた哀しい微笑み。

「――――もう一度、あなたを失うために出逢うなんて、ね…」

表情を歪め、震える声で呟いた。マリューの心に抱え込まれた想いのありったけ。再会から今まで、ずっと苦しみ続けてきた彼女の気持ちがあふれている。それらが詰まった言葉を聞いたとき、男は自分を偽り続けることを諦めた。

かつて愛した女の、そして今も変わらず愛している女の、そんな想いを聞いて、それでも身を背けていられるだろうか。…できないに決まっている。もうこれ以上、自分のことで彼女を苦しめたくはない。決意した男は、冷たい床に銃を落とした。足元に捨てられたそれは、建物の端まで高い音を反響させた。その行動に、マリューが男の顔を見る。

こんなに近くで彼女の顔を見るのは、久しぶりだ。今、ここに君がいてくれること、ここに生きていてくれることに感謝する。あのとき、自分にとって一番大切だったものを守れた。君を守れたのだから悔いはなかった。むしろ、君を失って生き延びることなんて、自分にはできない。『ムウ・ラ・フラガ』って男の人生は、悪いものじゃなかったよ。

心の中で呟きながら、男は口を開いた。

「これも…運命だよ、マリュー」

穏やかな、そうありながらも切なげな響きを持った声。仮面を外しながら、男は静かに告げた。それは『ムウ・ラ・フラガ』としての言葉。自分の名を呼んだ男に対し、マリューは目を見開いて向き合う。露になった素顔は、まさしく『彼』だった。ただ、額を上下に走る傷が痛々しい。それでも、本当に生きていた…生きていたんだ。

こうして彼自身がそうと認めるまで、現在に至るまで、彼女の心にはどこか信じきれない部分もあった。あの状態で生きているはずがないと。けれど、彼の口から自分の名を聞いたとき、すべての不信は消え去った。この男は、自分の知っている男に間違いない。

かつて再会した折には、男はマリューのことを一切憶えていなかった。少なくとも見知らぬ人間の気配だった。なにも知らない、彼女のことを知らない人物だった。けれど、それから先刻の戦闘までの間に記憶が回復したのか、元の彼に戻ったらしい。その事情はマリューには分からないが、今はそんなことどうだっていい。目の前に立っている男が彼である、それだけが真実。

「何のために、戻ってきたの…?」

縋るような瞳で彼女は訊ねる。『地球連合軍の大佐』として現れたことではなく、だれもが知らぬ『戦争の重要因子』として戦場へ戻ってきたことに、言わずと知れた不安が湧いてくるから。

「あなたは、何のために戦うの?」

重ねて問うマリューは怯えている。男がどう答えるか、そしてその先にあるものが分かるから。

「自分の運命に決着をつけるためさ」

わずかに視線を泳がせたあと、男はきっぱり答えた。ここまで来てしまえば、安易な嘘など無意味だ。終局を前にしたこの状況で、気休めなど何の役にも立たない。偽りの甘言を信じるほど彼女は愚かな楽観主義者ではないし、男もまた、そんな欺瞞を自分に許さなかった。

「………どうして」

予測していた男の答え。その選択が導く結末は、自身を滅ぼしてしまう未来だと知っている。知っていながら、男が進もうとしている道を実感しながら、マリューは切なく瞳を伏せる。

「どうして、その道を選ばなければいけないの…? なぜ、すべての業を背負って戦うの? 静かに、ただ平和に穏やかな日常を選ぶことだってできたはずなのに…」

先の大戦以降どういう経緯かは不明だが、地球連合に在籍していた男。けれど、記憶が回復した時点でアークエンジェルに戻ってもよかったのだ。仮面と軍籍を捨て、元の自分に戻れば。しかし男はアークエンジェルに帰ってこなかった。

それはつまり、彼が『ネオ』という人物のまま生きるということ。この戦争を戦い、終わりを迎えようとしている。男がどうしてその選択を選ぶのか、理屈では理解できる。それでも心は納得できない、許せない。マリューはまっすぐに感情をぶつけ、男に訴えかける。向けられた銃口は、心と同様に揺れていた。

「どうして、このままじゃいけないの? 過去の重い荷物に振り回されて、生きることさえ…」

そう口走ったところで、マリューは言葉を止めた。自分が一番恐れていること、この男の未来。アークエンジェルを捨ててでも逢いに来た理由は、引き止めたかったからだ。死んだと思っていた男がこうして生きていたのに、また戦いの道へ…それも、自ら己の存在を滅ぼすために戦場へ行くことを、止めたかったのだ。

「もういいじゃない。あなたは充分戦った。あなたは自分のできることの限りを尽くした。世界にあなた一人が責任を感じることなんてない。もう充分だわ、あなたは嫌というほど苦しんだ。これ以上、戦いの中に自分をさらすのはやめて。もう、あなたは戦わなくていい。この先に待っているのは、傷ついて苦しんで、それでもなお終わらない連鎖…未来のない絶望。そんなところへ、あなたを行かせたくない。だから、お願い。戦うことをやめて。これ以上、戦わないで。わたしはあなたに戦ってほしくない。傷つかないで、苦しまないで。あなた、ずっと苦しんできたじゃない。もういいでしょう? その呪縛から、自分を解放してあげて――――」

マリューは、目の前の男がどういう人間なのか知っている。自分がどんなに引き止めても、心の全部で訴えても、一度決めたことは貫き通す。彼の決心を変えることなど不可能なのだ。

けれど、それでいいはずがない。自分にとっても相手にとっても。少なくとも、今の自分にできるすべて、言葉を尽くしてでも、想いを伝えなければいけない。

彼女は銃を降ろし、肩を震わせて俯く。結局、立派な名目を並べ立てても、自分の言っていることはエゴなのだ。自分の望みを叶えたいだけの…。けれど、人とはそういうものだ。自分の願いを叶えるために、失いたくないものを引き止めること、それがエゴだろうとかまわない。

「……どこかで、ただ平和に暮らせればいい。穏やかに生きて、そして死んでいければ…一番しあわせなのに。どうして、戦場から身を引いて『わたし』を選んでくれなかったの…? わたしが願うもの、望むものはたったひとつ、ひとつだけだったのに――――。欲しかったものは、生きているあなた。わたしのそばにいて、コーヒーを飲んで、些細なことで笑い合う。一緒の時間を過ごしていける『あなた』が欲しかった」

マリューの切実な声を聞き、男は拳を握り締める。悲嘆に暮れる身体を抱きしめたいと思った。彼女の願いを叶えてあげたいと思った。許されるのなら、迷わずそうしている。戦いから逃れ、二人で生きていくことを選んだだろう。

しかし、非情な運命が男にそれを許さなかった。先の大戦からこれまでに犠牲となった人々の生命、それらひとつひとつの重みを知るならば、逃げることなどできない。

「………すまない」

男は短く答えた。余計な言い訳など、何の慰めにもなりはしないから。選べない、自分は君と共に行く道を選べない。

希望の欠片もない返答に、マリューは唇をかみ締めた。分かっていたこととはいえ、やっぱり哀しい。自分が心全部で体当たりしても、男の決意は揺るがないのだ。

「どうしても、行くのね…?」

諦めの胸中で、彼女は再度問いかける。

「ああ」

ためらいもなく、男は即答した。その潔いまでの決断に、マリューの身体から力が抜けていく。手にしていた銃が力なく床に落ちた。もう彼を止めることはできない。どうしたって、戦争の渦に呑まれていく彼を止められない。それならば…と、彼女は頼りない足取りで一歩踏み出した。

「だったら、わたしも一緒に――――」

「マリュー…」

言葉と同時に、男との距離をゼロにする。男の両腕を捕まえて、ぎゅっと握り締めた。困惑の声は、マリューの耳元から聞こえてくる。

「君を、オレの運命に引きずり込むわけにはいかない」

諭すように優しく告げる男が、マリューには恨めしく思えた。自分だけ、自分一人ですべてを背負い込もうとする。男が自分を想っていてくれるように、自分も同じだけ想っていて、大切だからこそ巻き込みたくない気持ちは分かる。分かるけど…。つらいことを一身に負おうとする。自分はそこに立ち入らせてもくれないのだ。苦しみを分けてほしいのに、一緒に背負っていきたいのに。そうすれば、どんな重荷も少しは軽くなるのに。

「わたしは…っ!」

「今度こそ、親父の呪縛を打ち破ってみせるさ」

言葉を遮って、男は小さく微笑んだ。彼女にその先を言わせてしまえば、本能が拒否できない。決して巻き込むまいと思っていても、彼女の望みならば…と甘い誘惑に乗ってしまいそうになるから。そんなことは、間違ってもしてはいけない。この身を滅ぼされるために戦いに行く男と運命を共にするなんて、最も愛する者ゆえにさせてはいけない。

「君は帰るんだ…君の場所へ。アークエンジェルへ」

その台詞に、マリューは哀しく瞳を揺らす。

彼女を、彼女のあるべき場所へ帰すこと。それが彼女にとって最良の選択だと男は信じていた。あの艦にいれば、自分と一緒に堕ちることもない。それに、彼女には支えとなる男もいる。モビルスーツ越しに交わしたバルトフェルドとの会話を思い出した。

『ボクがもらってもいいのかい?』

本当ならだれにも渡したくないが、自分は彼女と共に生きられない。そばにいることも、支えることも、守ることもできないから。癪ではあるが、あの男なら大丈夫だろう。安心して彼女を任せられる。彼女は…オレがいなくても生きていける。この二年間そうしてきたように。

そのとき、地面から波動が伝わってきた。二人は周囲を見渡す。地鳴りのような轟音が遠くから聞こえてきた。コロニー内の異変ではなさそうだが、コロニーの外、両端どちらかの港湾部で爆発かなにかが起こったようだ。

「――――キラ君、なにがあったの!?」

マリューはとっさに通信機でキラに呼びかけるが、ノイズがひどく電波が届かない。返ってくるのは、絶え間なく続く雑音だけ。

「港湾部付近が直撃したのか…。あっちの港はゲートもほとんど破壊されてる。もし直撃ならコロニー内部にも衝撃波がくるぞ」

自分が侵入したサイドの港湾部を思い出し、男は呟いた。言い終わると同時に、磁気の波が襲いかかる。コロニー全体に爆発の余波が広がっていった。この建物も例外なく爆風に煽られ、天井部分からは破片が崩れ落ちる。

足を踏みしめ衝撃波に耐えていた二人だが、人など軽く飛ばしてしまうエネルギーだ。一気に押し寄せた波に呑み込まれてしまう。重力の制御がなくなり、身体は宙を舞っている。強い風に煽られてまったく自由はきかない。必死に体勢を立て直そうとするマリューだが、思うようにいかず、背後には巨大な円柱が迫っていた。

「マリュー!」

瞬間、男は信じられない反射神経を見せた。マリュー同様、爆風に身体のコントロールを失っていたが、彼女に迫る危機を前に、肉体と神経が最大限に駆使される。無重力に等しい空間で流される身体を止め、浮いていた破片を足場に方向を変えた。衝撃風に逆らい、マリューへ追いつく。彼女の腕を捕まえると、自分のそばへ引き寄せた。

くるりと身体を入れ替え、自分が柱にぶつかる格好となる。直後、背中に痛みが走った。男は顔を歪ませるが、それでも腕の力は緩めない。しっかりとマリューを抱きしめ、襲いかかる衝撃から守っていた。頭の上からは、崩れかけた装飾の欠片が落ちてくる。マリューを自分の胸に埋めさせるように、大きな手で頭をかばった。

やがて、コロニー全体を揺るがした衝撃波は通り過ぎ、無重力と化していた空間にも慣性重力が働きだす。二人はゆっくりと床へ降りていった。まだところどころで破片の崩落が続いているが、もう大丈夫だろう。男は安堵の息をもらす。

マリューは男のたくましい腕に守られながら、その体温を感じていた。いつだってこの人は、己の身を呈して自分を守ってくれる。じゃあ、この人自身はだれが守るというのだろう。男だから、女だから、そんな区別は関係ない。自分だって、この男を守りたいのに…。

無意識にとった自分の行動から、男はようやく我を取り戻した。腕の中には温かい体温、やわらかな身体、優しい香り。衝撃波から守るためとはいえ、かなり強く抱きしめてしまった。

今さらながらに気づき、男は腕を緩める。そして、彼女に逢うべきではなかったと思った。これでは下手な未練になる…自分も、彼女も。気持ちに決着をつけるために逢うことを決めたのに、まるで逆効果だ。お互いの傷を深くする。

マリューは、すぐそばにある男の顔を見上げた。その視線に、男も眼差しを向ける。二人だけの世界で一心に見つめあった。言葉にできない切なさが、苦しいほどの想いが伝わる。相手の瞳の中に自分の存在を見つけたとき、二人はすべてを忘れた。現在の状況も、戦争の行方も、互いの運命も、待っている人も。なにもかも心から消え去って、相手だけを希う。どちらからともなく静かに唇を重ねて。世界の終わりのような閉塞感を背景に、二人は心をつなげていた。

しかし、儚い夢はすぐに壊れる。現実にはなにも捨てられない二人は、刹那の夢から目を覚ました。お互いに相手の気持ちを察し、自分と同じだと理解する。やがて、耐え切れなくなったように目をそらした。

こんなに近くにいて心は通じ合えるのに、二人には未来がなかった。どんなに望み、願い、祈っても、運命は二人に微笑まない。マリューは力なくうなだれて、どうしようもなく立ち尽くす。男にしがみついた手を離さなければいけないのに、心が離せない。

痛々しく瞳を伏せ、顔を背けた彼女の視界に男の左手が映った。白い手袋。思い返せば最初に再会したときも。別段おかしいことではないが、マリューはなぜか気にかかる。

彼女の訝しそうな視線を感じて、男はその手を動かした。唇の端に自虐的な笑みを残して、両手をマリューの目の前へ。左手の手袋を右手でゆっくりと外していく。

手袋の下から現れた手に、マリューは息を呑んだ。普通なら、そこには肌色の皮膚が見える。だが男の手は違っていた。目を背けたくなるような、ひどい火傷の痕。これはあのときの、先の大戦で受けたローエングリンの…。

戦艦を一撃で沈める強力な陽電子砲だ。いくらフェイズシフトがあっても、当時のストライクは大きく被弾していた。システムも正常に稼動していなかっただろう。その状態で、ローエングリンの直撃を受け止めたのだ。パイロットスーツでも、膨大な熱量を防ぎきれなかったということ。手でさえこんなひどいのだから、身体はもっと…。

「…さすがに君でも、身体は見せられないな」

重苦しい雰囲気を破るように、軽い口調で男は告げる。そして、苦笑しながら露になった左手を手袋で覆った。

「この手では、君に触れられないよ」

マリューから手を離し、諦め加減に呟く。目の前に愛する女がいて、触れたいと思うのはごく自然の欲求だが、自分の手はそれを許さない。どんなに触れたくてもためらってしまう。

「……オレは、君をしあわせにすることができない」

哀しく淋しい男の台詞に、マリューは首を振った。男の片手を取り、自分の両手で包み込む。その行動に、男は驚きながらも安らぎを覚えていた。『ネオ』として、たくさんの人間の生命を奪ってきたのはこの手なのに、まだぬくもりを求めている、欲している。彼女の体温が手袋越しに伝わってきた。こんな冷たい手でも、温かさを感じられる。

「どんな身体でも、あなたはあなただわ」

たとえどんなに傷ついた身体でも、それは彼の肉体だ。幻じゃない、たしかに彼の手であり身体なのだ。彼が生きている証なのだから。

「だれかをしあわせにできる人間じゃないんだ」

温かい心に惹かれそうになり、男は故意に突き放す。しかし、その虚勢は通用しなかった。

「そんなもの、欲しいなんて思ってないわ。わたしの願いは、あなたと共にありたい…ただそれだけ。こんな稼業をしていて、幸福なんて今さら求めていないもの。あなたにそこにいてほしいと思うことさえわがまま? …しあわせなんていらない。あなたがいればいいの。なのに、一緒に不幸になることさえ、許してくれないの?」

微塵も引く気配を感じない言葉に男は沈黙する。彼女の心を尽くした想いの数々を、うまく宥める手段なんて持っていなかった。

「あなたは自分だけを犠牲にして、それで満足かもしれないけど…。じゃあ、わたしの気持ちはどうなるの。わたしはどうすればいいの?」

「…君は、しあわせになってくれ」

やるせない思いで呟いた男に、マリューは苦い表情を見せる。

「ひどい人」

薄く微笑みながらもらした。そんな彼女に男は困惑の面持ち。突き放し、置き去りにするしかできない自分だけれど、彼女の真摯な想いに心が揺さぶられる。希望という名の甘い毒に、手を伸ばしてしまいそうだ。その悪魔の誘惑を、男は理性で振り払う。

「オレは、そうとしかできない。君に与えられるものなど、なにもない」

「それでもいいと…あなたさえいてくれたら、それでいいのに……」

「男は一番大切なものを置き去りにしても、生命をかけて成さねばならないことがあるものさ」

いかにも男という生物の論理で、マリューを納得させようとした。男の生き方を言い訳にされた女としては、頷けるはずもないが。

「そうやって、男は女を置いていくのね」

嘲笑する彼女は切なく瞳を伏せ、声を震わせながら言った。

「ずるいわ…」

いつしか、痛々しいマリューの表情の中で潤む眼差し。現実には泣けない彼女の、心が泣いている。涙を見せれば、男の判断を鈍らせると分かっているから。けれど、もう耐えられそうにない。やがて訪れる男の運命の末路に、感情は凍りついてしまった。

「あなたの心…だけでも、置いていって」

どんなに引き止めたって、彼は行ってしまう。その決断は変えられないとしても、なにか縋るものが欲しい。男に対してなにかを求めたことのないマリューが、初めて望みを口にした。

「……置いていったさ、あのとき」

男は穏やかに告げ、当時のことを回想する。あのとき、ローエングリンの焔に灼かれながら、心だけは置いていった。君のもとへ帰ると約束した、それを守るために。たとえ、この身は果てようとも、心だけは離れない。君へ帰る、いつでも君のそばにあるように。それは今も同じなのだ。

「――――オレの心は、いつだって君と共にある」

嘘偽りのない、まっすぐな言葉。マリューは男の瞳を見つめ、真実の想いと感じ取る。

「今、ここにこうして君が生きている、存在してくれている。あのときオレが助かっても、君がいなければ何の意味もない。なによりも願ったのは、君が生きていてくれること。この手と脚と身体と心。そのままの君を。なにも失わないで、君が君のままでいてくれたら…それでいい。君を守れた。守ることができた。オレはそれで充分、本当に満足だったんだ」

当時の自分の心境を、ひどく客観的に見つめることができる。それはきっと自分が別の人間として生きていたからだろう。違う人間になってみれば、その男の生きざまはバカだけど、決して愚かではない。男には、己の身を犠牲にしても守らなければならないものがあるのだ。

男なんてものは、最期まで女の前でいいところを見せたがる、単純な生き物だ。そして望むらくは、死んだあとも女の記憶に残り続けること。オレのことは忘れて、他のだれかとしあわせに…なんて建前だ。本当はずっと女の心に棲み続けたい。忘れられたくない。永遠に消えないように、魂に刻み込んでほしい。男というのは、なんて未練たらしく無様な生き物なのだろう。

「ナチュラルとコーディネーターが生命を削り合う戦争。この戦いを、今度こそ本当に終わらせなければいけないんだ」

それが男の戦う理由、戦場に戻ってきた理由。自分の存在が…いや、この身体に流れる血が、遺伝子の本能が、かつて戦火を拡大させ、混乱を深めたものと同じだから。

『ネオ』として生きていた間になにをしたのか理解したとき、男は自己の存在を『この世界に残してはならないもの』と判断した。たとえ記憶がなかったとしても、数多の犠牲を招いたのは、自分のとった命令であり、行動であったからだ。

本当に戦争を終わらせるためには、災いの種は排除する必要がある。未来を切り開いていく力にあとを託し、新しい世界の扉を開ける者に、己を討たせなければならない。

「だから…?」

そんな背景を説明しなくても、マリューには漠然と理解できた。世界の明日のために、男が進んでいこうとしている道を。

「だから、またわたしを置いていくの? 独りで…」

この男はなんて勝手なのだろう。自分だけで運命を決めてしまって、残される者の気持ちなんて考えてもくれないのだから。マリューは心の中で思い、声を震わせた。

「一緒に生きることも、一緒に死ぬことさえも…させてくれないのね? あなた」

男の黒い士官服を握り締め、その肩に顔を埋める。あふれる涙を、男には見せたくなかった。

「残酷なくらい――――優しい」

傷ついた心が叫べない想いを押し殺し、ようやく言えたのはそんな哀しい台詞。この手を離したら、もう二度と次はない。なにを言わずとも聞かずとも、マリューには分かっていた。だから、絶対離したくないのに…。

自分がもっと若く、情熱だけで生きていられたら、きっと止めただろう。キラやカガリたちの世代だったら、諦めはしなかった。どんなにみっともない真似をしても引き止めて、行かないでと縋っただろう。だけど、大人と言われる年齢になって、人生の中でさまざまなことを経験し、物事にはどうにもならないことがあると知ってしまえば…。

愛情ゆえに行かせてしまうのは、愚かな行為だろうか。けれど、そうすることでしか彼が彼でいられないのだとしたら。彼の逃れられない運命が――――。

今になって、バルトフェルドの気持ちが分かったような気がした。心はどんなに引き止めたくても、行かせてしまう気持ちは…。彼には彼の、決着をつけなければいけないことがある。それを邪魔することなんて、他人にはできないのだ。

どちらの道を選んだとしても、後悔するのは同じ。本当の意味で彼に『生きて』ほしいから。だから、そうするしかない。もしも引き止めて彼が生き残ったとしても、それは彼の中の重要な『なにか』を死なせてしまうから。だからきっと自分は、この手を離してしまうのだろう。

自分に身体を預けるマリューを男は無言で支える。懸命に嗚咽をこらえようとする姿が、言葉にならないくらい痛々しいから。大事な女にこんな思いをさせて、苦しめてまた絶望の淵に落とす。自分はなんて最低の男なのだろう。突き放して、切り捨てて、そうできればどんなによかったか。けれど、できなかった。想いを捨て去ることなんて不可能だった。

白い手袋に覆われた手を彼女に伸ばしかけて、一瞬ためらう。この冷たい手が、戦場で数え切れない生命を奪ってきたのだ。なのに、どうして温かさを求めることができる。そんな資格など持ち合わせていない。

けれど、愛しさにはかなわない。どうしても心が動く。これで最後、もう逢うことも触れ合うこともできない自分、だからこそ…少しくらいのわがままなら許してもらえるだろう。

もう一度、手を伸ばした。そっと彼女に触れる。ぎこちない動きで何度か髪を撫でて、それが癒しになりはしないけど。今この瞬間だけが、幸福だった。

『――――…マ……さん…応答…し…さい』

二人の静寂を破ったのは、通信機から聞こえてきたキラの声。ノイズが混ざって、音声は途切れがちだ。

『…リュ…さん!』

さっきの爆発のこともある、キラは必死でマリューに呼びかけていた。男の肩から顔を上げた彼女は惑いの表情。この通信がつながらなければ、男と一緒にいられる名目が生じる。男はそんな考えを読んだのか、通信機をマリューから取り上げた。発信機内蔵タイプなので、応答すればこちらの位置は掴めるだろう。不安な眼差しで見つめる彼女に、男は諦めたように微笑した。

「マリューは無事だ、キラ」

安否を気遣うキラに、男は返事をした。あまりにもあっけない様子に、マリューは切なく瞳を伏せる。無線越しに息を呑む気配がした。それも当然かと思いながら、男は通信を続ける。

「こっちの位置はわかるな?」

『…えっ、あ…はい。わかります』

戸惑いながらキラは回答した。男はマリューに視線を向けたあと、平静な口調で告げる。

「…マリューを、迎えに来てくれ」

そう言って、一方的に通信を切った。自分の意向などおかまいなしの台詞に、マリューは男の顔を凝視した。優しい夢はもう終わり。お互い、現実の時間へ戻らなければいけない。濡れた瞳で訴えても、男の決意は変わらない。

「アークエンジェルが、君を待っている」

宥めるようにささやいた。どんな言葉でそそのかされようと、嫌だと首を横に振る。

「艦長不在じゃ、どこにも行けないだろ、あの艦は」

「わたしは…あなたと――――」

みっともなくても縋りつきたい。女の弱さを武器にしてみても、彼は決して自分の願いを叶えてはくれない。

「オレの知っている『マリュー・ラミアス』って女は、自分の艦を捨てて、男と逃げるような真似はしない。一人のバカな男にとって、世界で…いや、宇宙で一番いい女だよ」

ある意味、卑怯な言い方かもしれない。そう自覚しながら、男は明るく笑って見せた。瞳に満ちる涙が、彼女の頬を伝っていく。

「だったら…」

マリューは声を詰まらせながら男を見つめた。眼差しが、言葉よりも先に気持ちを表している。行かないで、と言おうとした。わたしを置き去りにして、行ってしまわないで――――。

「…頼むから、困らせないでくれ」

マリューが口を開く前に、遮って男が言う。その声色は、ひどく苦しさが入り混じって。甘い誘惑を理性で耐えてきた、それも限界のようだ。これ以上、心痛な彼女を見ていられない。すべての決心も覚悟も揺らいでしまうから。

「君に引き止められたら、その手を振り払えないよ。オレは」

哀しい響きを感じた、男の心からの言葉に。正直言えばそれが本音なのだろう。自分の存在が、想いが、彼の意志を迷わせる。行動を鈍らせる。そんなこと、したくないのに…。

自分の一番大切な人に、ただ生きていてほしいということは傲慢な願いだろうか。ありふれた望みだろうけれど、彼にはそれを望めない。自分が引き止めたら、留まってくれると言う。けれど、そんな選択を彼に強いれば、もっと深く重い苦しみが彼を永遠に縛り続けるだろう。だから…もう止めてはいけないのだ。

腕を掴んでいた手を、男を引き止めていた手を、彼女は力なく離した。これで、彼はどこにでも行ける。戦場へ…二度と帰らない道を行ってしまう。男から目をそらし沈んだ心。俯いた途端、溜まった涙が雫となってこぼれ落ちる。

今、この運命が哀しかった。最も愛する男が死に向かうのを止められず、一緒に行くこともできない。ずっとこらえてきた、感情の淵が破られる。濁流のように、心から想いがあふれてきて。

絶望と哀しみに打ちのめされる彼女に、男もまた心を痛めていた。こんな想いをさせるために、愛したわけじゃない。本当ならこの手でしあわせに…だれよりもしあわせにしたかった。

彼女と結婚して、子どもが生まれて、ありきたりな日常を。平凡な、だけどこの上ない幸福な生活。そんなものを夢見ていた。それが叶わない幻だと知れば、一層まぶしく映るのだろう。刹那、脳裏に浮かんだ光景は、男に穏やかな安らぎを与えた。

「――――帰るから」

むせび泣く彼女へ、男は優しい口調でささやく。その言葉にマリューは顔を上げた。なにを言っているのだろう、この男は。行ってしまうくせに、自分を置いて行ってしまうくせに。

「全部…なにもかも終わったら、帰るから。君のところへ、必ず帰るから」

たとえ身体は失くしても、心だけは残るから…。魂は君のもとへ。きっと、君のところへ帰るだろう。

「だから…行かせてくれ、マリュー」

真剣な面持ちで告げる男を見つめた。しばしの沈黙のあと、掠れる声で呟く。

「…約束」

「えっ?」

「今度こそ、ちゃんと約束…守って」

あのときも言った、同じような台詞を。心配いらない、オレはすぐに戻ってくるよ、と。だけどそれは果たされなかった。

「ああ、約束する」

男はきっぱりと断言する。身体はなくとも心は残るから。もし心が砕け散っても、君を想う意志があるから…たったひとつの欠片でも、君へたどり着くだろう。

「必ず、帰ってくるから。君のところへ」

その約束を心に刻んで、哀しく笑った。手袋越しの手で彼女の濡れた頬を拭う。マリューはその手に自分の手を重ねた。最後にもう一度、二人は優しいキスをして。この瞬間が永遠になればいいと思った。

やがて、フリーダムの接近を報せる轟音が聞こえてくる。二人は崩れた通路を抜けて外に出る。上空からフリーダムが降下していた。突風を巻き起こしながら着地するフリーダム。気流の乱れた風に、男は傍らのマリューをかばう。膝を折った前傾姿勢で機体を固定させると、キラがコックピットから現れた。

「マリューさん!」

ヘルメットを外し、無事だったマリューに声をかける。その一方で、驚きと動揺が混ざった眼差しを男に向けた。

「まるで幽霊でも見たような顔だな、キラ」

あまりにもあっさりしている様子に、あっけにとられるキラ。

「まあ、実際幽霊みたいなものか。オレは」

「…そんな」

明るい口調で冗談を言う。それが男の挨拶なのかもしれない。キラは惑いながら気を取り直す。マリューは無言でその場に立ち尽くし、動けないでいた。別れのときがひどく痛い。男は硬直した彼女の背中をそっと押した。

「マリューを連れて帰れ、アークエンジェルに」

男の言葉にマリューの表情を伺うキラだが、涙に濡れた瞳と憔悴しきった顔を見てなにも言えなくなる。もう、二人の間で決着はついたのだ。

「あとのことは、頼む」

それは、戦いのことも含めた意味合いでの言葉。本当は「はい」と言いたくなかった。言えば、この人の閉ざされた未来を肯定してしまうことになるから。でも、目の前の男がどんな想いで決断を下したか、一番大事なものも選べずに、諦めてしまった覚悟が分かるから。

「――――はい」

まっすぐに男を見返し、キラは力強く頷く。

かつて共に戦った戦士の成長を、男は温かい心で感じ取った。キラ、おまえはオレとは違う。守りきれるさ、おまえなら…。そう心の中で呼びかけ、小さく笑みを浮かべる。

マリューはキラに促されるまま、フリーダムのコックピットへ。ずっと目を背けて男を見ようとしなかったが、最後になってゆっくりとそちらへ視線を向けた。

マリューの唇がぎこちなく動く。男は揺るがない瞳で、彼女を見つめていた。口元には、いつも見ていた彼らしい笑みが。キラは二人の様子を伺いながら、ハッチの開閉ボタンに手をかける。駆動音が響き、コックピットが閉じていく。

視界から消えていく男の姿。お願い、消さないで…消してしまわないで。マリューは必死に男を目で追いながら、手を伸ばした。もう届かない手、もう二度と…触れ合えないぬくもりと、愛しい男の生命。

「――――…ウ」

震える声で彼女は呟く。その呼びかけに男はなにか言葉を発していたが、轟音が邪魔して聞き取れない。なにを言っているの、あなたは。マリューは男を凝視し、唇の動きから言葉を読んだ。男がなにを言ったか理解したとき、彼女の口から出てきたのは呆れたような声。

「……バカ」

そんな台詞なら、ちゃんと目の前で言ってほしかった。最期の別れ際に言うなんて、なんてずるい男なのだろう。そう思いながら、小さく笑った。同時に涙があふれてくる。

さっきあれだけ泣いたのに、それでも涙は涸れていない。自分がどれほどあの男を愛していたのか、今になってやっと分かった。流れる涙は止まらない。心が、魂が引き裂かれるような痛みを感じて。扉が完全に閉ざされる瞬間、マリューは叫んだ。あの男の、本当の名前を。

 


 
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