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Revolter's Blood Vol'07 第一章 ~Impulsive Undead~

C88発表のオリジナルファンタジー小説「Revolter's Blood Vol'07」のうち、 第一章を全文公開いたします。

2015-07-23 22:51:33 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:977   閲覧ユーザー数:977

 

 <1>

 

 古の時代。この大陸に存在する『人類』と称されるものは『人間』だけではなかった。

 そのうちの一種。大陸中に点在する原生林、その奥地に住まい、自然の理そのものを信仰の対象としていた種族が存在していた。

 今は失われし、森林と自然の民。エルフ。

 約二千年前、このエルフに関して記された伝承の中には、彼らが発したとされる、ある言葉が存在していた。

 ──『それ』は即ち、大地の傷である、と。

 自然の理を知らぬ不心得者によって踏み固められた筋状の土塊。砂塵に塗れた根と葉と茎は二度と息を吹き返す事はない。

 嘆かわしき事に、その傷は彼方此方に無数に存在しており、その様は縦横無尽。粗雑に編まれた網目の如し。

 平地に、草原に、森林に──深緑で覆いつくされた地を幾重に、大胆にかつ繊細に分断しているかのよう。

 まさに自然に対する冒涜、その象徴であるのだと。

 しかし、別の時代に生きた、とある劇作家はこう言う。

 ──『それ』は歴史という舞台の、最も有能にして物言わぬ演出家であるのだと。

 大陸に文明が拓かれると『それ』は時の権力者によって整備が施され、より多くの人や物が、徒歩で、或いは荷車や馬車で行き交う事が可能となり、文明の発展を支える基となったという。

 草原に野花が咲き誇る春には、夢と商機を求めた豪商らが隊商を率いて新天地を目指して歩を進め、これらが枯草色へと変じる秋には勇猛な武人が防衛拠点へと馳せ参じるべく馬を駆り、白雪に覆われし冬になると、若く敬虔な神の信徒が聖職の正式な構成員となるべく巡礼の旅の為に利用する。

 そう。『それ』は季節や時代、社会の情勢によって目まぐるしく役割や姿を変え、人々に様々な恩恵を──喜劇や悲劇を与え続けるのだと。

 そして現在。人は『それ』を、こう呼ぶ。

 ──道、と。

 そして今日も、忌まわしき大地の傷跡の上を、誇り高き歴史の舞台の上を静かに歩む者が現れた。

 そこは、とある平原の路上。主要の集落から遠く離れた街道。見晴らしの良い地形ゆえか、魔物の類は少ない比較的安全な道。

 歩むは旅装束の一団。

 数はおよそ十余名。殆どは女子供。男と思しき姿は僅かに五つ。そのうち、荷を積んだ車を引いている者が四。

 そして残る一人は、一行の護衛と思しき武装した戦士であった。

 彼らは皆、一様に無口。まさに疲労困憊といった様相。旅慣れぬのか、或いは車に積まれた荷の重さゆえか、はたまた別の理由ゆえか、足取りは重く、歩みは遅々としたもの。

 時は黄昏。草原の小道が朱の残照に染まりし刻。旅装束の集団のうち、女と思しき一人が、戦士の元へと歩み寄っていく。

 彼女は一瞬の逡巡の後、戦士に向かい深々と頭を下げた後、その重い口をようやと開いた。

「──戦士様。申し訳ございません」

 彼女が発したのは謝罪の言葉であった。

「我々には、これ以上貴方を雇い続けるほどの持ち合わせがございません。本来ならば到着先にて如何なる手段を用いてでも工面し、お支払いするのが筋でありましょうが──『追放者』である我々には、そのような手立ても、換金できる金目の物の持ち合わせもありませぬ」

 強面の戦士は、その言葉に眉一つ動かす事はなかった。背負いし大斧の刃が、陽光に反し、血の色にも似た光を放った。

 女は一瞬、身を固くした。先行する旅仲間──いや、追放者仲間も立ち止まり、振り向いては、半ば無気力な、半ば心配めいた視線を投げかける。

「──『東西境界線』まで、十日間の護衛の契約だったな」

 戦士は静かに口を開く。

「そして今日が契約の最終日。だが、目的の境界線まで恐らくあと一日といったところか。夜を徹して歩いたとしても契約期間までに間に合うとは思えぬ。本来ならば、ここで契約は解消して別れるべきなのだが、どうも今の──境界線の『東』は居心地が悪い。俺自身も一刻も早く西側に抜けてしまいたいと思っている」

「では──」

 その言葉に、女は思わず頭を上げた。

 彼女の視界に、強面ながらも人懐っこい笑みを浮かべた戦士の顔が飛び込んでくる。

「割の悪い仕事だ。だが、今の東、特に王都の惨状を鑑みるに、お前達の準備の悪さばかりを責めるのは余りにも酷な話──仕方ねぇ、境界線までは面倒を見てやる」

 粗雑な物言いあれども、温情に溢れた言葉であった。

 女は戦士の優しさに胸を打たれた。涙に咽び、深々と頭を下げては何度も何度も礼の言葉を述べた。

 先行する仲間たち──男も女も子供たちも同様、この粗野な男に向かい、深々と首を垂れては、まるで聖職者が神に礼拝するかの如く、幾度も幾度も感謝の言葉を口にする。

 醜い容姿が災いしてか、この長い人生の中、好意的な言葉を述べられる経験のなかった男は、この不意なる謝辞の連続に堪えきれぬほどの照れを感じずにはいられなかった。

「だが、面倒を見るのは明日、境界線に辿り着くまでだ!」

 故に、彼は声を大にして言い捨てる。

「西に入った後は近くの境界警備隊の砦にでも出向いて泣きつく事だ。そうすれば、近くの集落までの護送の手配くらいはしてくれるだろうさ」

「護送の手配……ですか?」

「……ああ」

 尋ね返す追放者達の顔を真正面から見返すことができぬ照れ屋の強面は軽く頷いた。

「──俺も事情は良く知らないが、噂によると最近、東からの難民が急激に増えているようで、それを受けて、西ではあんた達のような人達に対する支援を始めたとの事。事情を話せば手を差し伸べてくれるだろうさ」

 戦士は続けた。

「俺としては割が悪くともこうやって護衛の仕事にありつけて、尚且つ何かと息苦しい東から離れられる口実が作れたのだから好都合ではあったのだがな。──やはり難民が増えたのは、昨年から東と西の衝突が始まり、彼方此方で戦禍を被り始めたからか?」

 その問いが発せられた刹那、追放者らの誰もが俯き、表情が強張らせるのみ。苦悶、悲痛、そして悲愴──顔に浮かべる色彩は様々であったが、その何れも明るきものはない。

 重々しく口を閉ざしたまま、これに答えを与える者はいなかった。

 ただ、一人を除いては──

「私たちは『密告』を恐れたのです」

 それは、戦士の側に立ち、言葉を交わし続けた女であった。

「──密告だと?」

「ええ」

 女は小さく頷いた。

「我々が住んでいた王都では、西方のアリシア殿下に対する支持を厳しく禁じられており、その一環として市民達に密告を奨励しているのです。支持者を炙りだすために」

 語る彼女の表情は真剣そのものだった。

 決して、嘘や偽り、夢や妄想を語るような態度ではなかった。

「なるほどな」戦士は女の真摯さを感じ、得心して頷いた。

「おおかた、あんた達も何かの拍子でうっかり口外してしまい、処罰を恐れて着のみ着のまま逃げ出して来たといったところか」

「俺たちは現政権に対する不満の声をこぼしただけだ!」

 追放者のうち、荷車を引く男の一人が涙ながらに声を荒げた。

「あんな働きの悪い隣国の騎士団を呼ぶために去年、俺たちの私財が大量に徴収されたんだ! それに飽き足らず奴らは今年も……」

 不満を漏らして何が悪い──言い捨て、その男は拳を震わせる。

 女は彼が落ち着くのを見計らい、暫くの後、彼女は戦士に向かって頭を下げ、場を乱した事を詫びた。

「密告者の事情は様々です。目先の金の為に致し方なく隣人を売る者もいれば、現政権を狂信的に支持し、これに反意を有する者を炙りださんと積極的に奔走する者もいます。斯くして我々は王都の現状に失望し、同様の事情を抱える人達と力を合わせて西へと流れる事を決断した次第であります。政権派の人達は以前から『反対派は王都から出ていけ』と強弁し、煽り立てておりましたから」

「だったら俺の方から捨ててやるさ、あんな土地など──かつては誇りとすら思っていた王都だったが、そこに住まう民草や貴族の醜悪さを見てしまった以上、もはや愛郷心の欠片も残ってはいないさ」

 女の言葉に誘発されたかの如く別の男が吐き捨てた。

「──東の奴らはアリシア殿下を『悪魔』と罵っているが、ならば俺は喜んで、その『悪魔』に魂を売るさ。殿下には是非とも王都を攻略し、あの腐った地を浄化して頂きたい」

 まるで各々の言を継ぐかの如く、口々に東の政権に対する怒り、怨嗟の声を語りだす。

 強面の戦士は、自分の頭は然程良いものではない、愚鈍であると自覚している。しかし、そんな戦士の耳にも、しかと聞こえていた。

 彼らの怒りの声に乗って──東の政権、その崩壊の音が。

 人間というものは元来、極めて愚かな生物である。

 各々が各々、多様な事情を有するがゆえに、異なる意見や意志、利権やしがらみを持つのが常。互いが衝突した時、激しく争い、時には命を奪い合う。

 長きにわたる人の歴史の中、そのような悲劇の例など枚挙に暇なく、その度に人は死に、社会は疲弊していった。

 故に言論という概念が生まれた。異なる意見を集約し、議論を重ね、擦り合わせを繰り返し、理知的に解決・昇華していくための先進的な仕組みが。

 だが、東の現状とは、まさにその真逆。

 反論を悉く封殺し、文字通り排斥を行っている。

 多くの悲劇を、数多なる流血を経て構築した仕組みを否定し、破壊し、元の愚劣だった──原始的な頃に戻ろうとしている。まさに歴史に対する冒涜。犠牲になった先人に対する不敬極まりなき行為であると言えよう。にも関わらず、東方の政権はこれを是としている始末。

 ──そして、そんな歪み切った思想が、権力者によって一方的に押し付けているだけの話だとしたら、まだ幸せな話だっただろう。

 民には権力者に異を唱える権利がある。あわよくば一致団結し、そんな悪辣な連中を権力の座より引き摺り降ろす事も可能であるのだから。

 だが、現実は限りなく非情。

 事もあろうか民の一部が、これら権力者に迎合。民衆同士で牽制しあい、反意のみならず自由な思想すらも封殺しあう風潮を作り上げてしまったのだった。

 最早、その体は亡国の危機に瀕したそれ。

 戦士は、これこそが東方地域全体に感じていた息苦しさの正体と結論付けた。

 そして、目の前の彼らはその被害者である。

 故郷に残り続けていれば今、こんな苦労をせずに済んだだろう。

 考える事を止め、異を唱えるべき場面で自分の口さえ塞いでしまえば、たとえ息苦しくても、ある程度は楽で安定した生活が送れていた事だろう。

 だが、彼らはそれを選ばなかった。全てをかなぐり捨ててでも、彼らは人間としての思考の自由を求めたのだろう。

 それは何の後ろ盾もない、一般の市民達にとってはとても勇気のいる選択である。

 戦士は心の中で、この勇気ある弱者たちに敬意を表した。

 そして、再び歩みを始める。そんな弱き勇者たちを守るために。

 女も、子供も、先ほどまで無念に涙していた男達も、何も言わず彼の後に続く。

 気持ちは皆、同じだった。

 少しでも遠く離れたかった。

 誇りを失い、天より堕ちた都──王都グリフォン・ハートから。

 かつては気高き気風と、豊なる生命の芳烈に満ち溢れていた、昔日の栄華の地から。

 

 追放者の旅路は、更に丸一日を要した。

 旅慣れぬ女子供連れの者達にとっては、あまりにも過酷な行軍であった。水も食料も尽き、命そのものを消費しながらのそれは、まるで一瞬が永遠と思えるほどの錯覚を覚えるほどであった。

 しかし、生存への意志、未来への希望は一度たりとも萎える事なく、王都からの逃走より数えて十一日目の夕刻、戦士と追放者の一行は遂に東西の境界線へと足を踏み入れようとしていた。

 彼らの目の前に聳えるは、街道上の門。

 まるで砦の正門の如き様相であった。

 左右には、天を衝くかのごとき物見櫓と果てしなく続く壁。まるで大陸中を二分しているかの如きそれは、まさに東西の対立、隔絶の象徴であるように見えた。

 門の両脇には番兵と思しき、簡素な槍と甲冑で武装した四人の男が立っていた。

 番兵の長と思しき男は立派な髭を蓄えた中年の男で、東から逃れて来たという事情を知るとひどく憐れみ、形式的な質問と簡易的な身体検査の後、手下の者に開門を命じた。

 こうして、追放者たちの前に門が開かれ、自由への道が示されたのである。

 しかし、門を潜り終えた彼らが目にしたのは、夢見た希望とは程遠い光景であった。

 魔物除けの背の低い柵に囲まれた一角だけがそこにはあった。

 粗雑な天幕や、木造の小屋が所狭しと並んでおり、これらの間隙を縫うかの如く、姑息的に舗装された狭き通りが複雑に絡み合う。

 あまりにも静かな、静かすぎる場所であった。

 立ち並ぶ天幕全てが無人であるかのように、気配すら感じられぬ。

 その様は廃村を連想させた。

 東側より見える頑強な門が、まるで張子の虎と思えるほどの貧相な光景。

 砦と思しき建物はすぐに見つかった。

 いや、それは砦と呼ぶより、石造りの大きな館というべきか? 正確には一角を管理する者達の詰所なのだろう。

 一行の足が、自然とそちらへと向かう。

「──そちらに何か御用ですか?」

 その時、後方より不意に声がかけられた。

「東から逃れて来た方達と見受け致しますが──今はみな出払っており、不在との事。私で良ければ対応致しますが」

 遠慮がちにかけられたそれは少女と思しき声。

 全視線が一斉に、後方に立つ声の主へと集まる。

 振り向いた視界の先に現れたのは僧衣を纏いし、長い黒髪の少女であった。

 腰帯に戦槌を吊り下げ、僧衣の隙間より銀色に輝く鎖帷子が覗く。

 ここは一見、集落めいてこそいたが、他のそれに見られるような騎士隊による防衛も碌に施されておらぬ場所。その上、敵地との境界線である。

 極めて危険な地帯であるとも言えよう。故に、このような尼僧ですら武装行為は日常なのであろう。

 だが、そんな環境下であるにも関わらず、眼前の少女は穏やかなな笑みを浮かべていた。それは当然、心に余裕がなければできぬ行為。

 見れば、彼女の腰に下げられし鎚からは見たこともない強い輝きを放っていた。言い換えれば業物の剣が放つそれに似た光。

 一行を率いる、強面の戦士の表情が──厳しくなる。

 眼前の女はそれを有するに相応しき使い手であるのだろう。それ故の余裕であり、自分の容貌に臆することなく声をかける事ができたのだ。

 戦士はそう結論付けた。

 敵意の欠片すら伺えぬ、だが、戦士は身を強張らせる。

 それは手練の存在を前にしての、戦士の本能であった。

「──貴方は?」

 問うたのは戦いの素人──そのような感覚とは無縁の者たる逃亡者の一人であった。

 黒髪の尼僧は言った。私はこの難民野営地を管轄している者たちの協力者であると。

 そして、彼女は名乗った。

 セリア──と。

 ソレイアの孫娘にして、今は亡き司教セティの養女。西の勢力の総大将アリシアに仕える尼僧である、と。

 

 <2>

 

 石造りの館。その二階。

 会議用の部屋なのだろうか。中央には大きな円卓と、それを取り囲むように配置された椅子が備えられており、更にそれを囲むかのように、四方の壁際には傍聴者用のものと思しき座席が並んでいた。

 東からの難民一行をこの部屋に通したセリアは、壁際の席を彼らに勧めた。そして、全員が座り終えたところを見計らい、静かに口を開く。

「まずは、貴方達の勇気ある判断と行動に敬意を表し致します。そして、本来ならば東にて差別と迫害を受けている貴方達を一刻も早く保護せねばならぬところ、我々の未熟さゆえ、このような苦労をおかけしました事を、アリシア殿下に代わり心からお詫びいたします」

 そう言い、一礼する。

 尼僧が最初に口にしたのは、称賛と謝罪の言葉であった。

「アリシア殿下は貴方達の英断に敬意を表し、その証として安全な場所での住居と仕事の保障、そして、当面の糊口を凌ぐために必要な金銭を提供すると仰せです。我々の力不足ゆえ、これらの内容が貴方達の希望に完全に沿うものではないかと思いますが、今は有事における急場ゆえ、何卒ご容赦を」

 住居に仕事、そして当面の生活資金。

 これらは新しい生活を始めるのに最低限必要とされるものである。

 無論、食うのがやっとな庶民にとって、他地域での当てなどあるはずもなく、そういった保障の不安定さが、彼らのような善良なる市民の逃亡を妨げる最大の要因となっていた。

 そんな彼らの心を、まるで見透かしたかのような心配りに、彼らは感動し、歓喜させた。

 ある者は神に感謝の祈りを捧げ、またある者は、この西の地の指導者に対する忠誠の言葉を述べ、そして、またある者は「我々の窮地を熟知するが故の高度な政治戦略だ」と、アリシアの手腕を高く評価した。

 だが、セリアは横に振り、彼らが最後に述べた評価を即座に否定した。

「我々が事実として把握しているのは『東ではアリシア殿下の支持者に対し、差別と迫害を強いている』この一点のみ。貴方達が、その街以外において生活の場がない事を知った上で『不満ならば街から出ていけ』と追放を強いている。そういった類の無理難題を吹っ掛けて、反意を持つ者を委縮させるといった手法を用いているといったところでしょうか」

 だが、救いの手を差し伸べる理由としては十分──

 セリアは語り、難民らに真摯な眼差しを向けた。

「我々は、その現状を常々憂いておりました。貴方たち国民が思想の自由も許されぬ東の地にて窮屈な生活を強いられるならば、東から追放されても困らぬよう西側にて生活の場を提供し、心置きなく自由な意思のもと生活を営ませるべき。そのような人道的な意志のもと、アリシア殿下以下、騎士団、神殿勢力、それを支持・支援する貴族や豪族らは一丸となって難民の受け入れを呼び掛け、こうして門扉を開いているのです」

 慈愛に満ちた言葉であった。

 艱難辛苦に喘ぎ続けた難民らにとって、眼前の尼僧の口を介したアリシアの温情、手厚い支援の約束こそ、長きにわたって渇望し続けてきたもの、そのものであった。

 セリアは立ち上がると、彼女の近くにて首を垂れて涙する子供の元へと歩み寄り、そのか細き身体を優しく抱きしめた。

 その姿に誰もが目頭を熱くし、涙に咽び、詰まる声を振り絞って、感謝の言葉を口にする。

「随分と手厚い支援だと感心する。その志はご立派だと思うがな」

 誰もが嬉し涙を流す中、そんな彼らに冷や水を浴びせるかのような冷静な言葉が投げかけられた。

 刹那、感涙の気配に満ちた場は急冷する。

 顔を伏せていた男は、まるで夢から覚めたかの如く頭を上げ、滂沱と涙を流していた女子供は、その涙をぴたりと止めていた。

 ──発言者は、逃亡者らを率いてきた強面の戦士であった。

「確かに東では思想の自由すら利かぬ重苦しい空気に満ち続けている。だが、かの地は敵対勢力が支配する地域、お前たちの訴えはさほど大きく広まってはおらぬ。だが、それも時間の問題だ。これだけ具体的な支援を約束し、呼びかけを続けている知られれば、そのうち、東から多くの難民が流れてくる事だろう」

「ええ。それこそが我々の本懐ゆえに」

 男は得心して頷いた。

「それは同時に多くの民に安全な場所へ避難してもらうための誘導、即ち、本格的な戦を──東への侵攻を始める目途がついたという解釈でよろしいか?」

「機密がありますゆえ、多くを語るのは憚れますが──そう遠くない日には、と殿下はお考えです」

「そうなれば、難民の数は更に増大するだろう。そんな状況に陥ったとしても、あんた達は彼らにも同様に手厚い支援をし続けられるとでも言うのか?」

 当然の疑問であった。

 この度の内乱は王都における政変を発端とした、二勢力間における争いなのだ。

 双方とも同じ王の血を引くとは言え、片や賤民の血を継ぐアリシアと、片やかつての国賊ソレイアの血を濃く継ぐラムイエ。

 どちらの正当な王位継承者の資格がありながらも、いずれも血統上の瑕疵を有している。それゆえ両派の言い分は平行線を辿る一方。

 戦いの泥沼化・長期化による戦渦の拡大は避けられぬと思われた。

 戦士の言葉は、それ故の憂慮であった。

 強面の男より投げかけられる視線は鋭く、これが常人ならば怯えて竦み、次なる言葉など発せられる事などできはしないだろう。

 だが、数々の修羅場を潜り抜けてきたセリアにとって、このような些細な脅迫など恐れるに足らぬ。

 彼女はその顔に笑みを保ちながら、穏やかな声で反論をした。

「詮無き事。これは我々が果たすべき『責任』であるが故に」

「責任だと?」

「ええ」

 セリアは子供の頭を優しく撫でる。

 だが、それとは裏腹、表情を彩るは極めて厳しい色彩であった。

「この戦──王位を巡る内乱の当事者と自認するアリシア殿下は、難民への支援はおのれに課されるべき最低限の義務であると仰っております。同時に殿下を支持する西方に活動基盤を置く貴族や豪族に対して、如何なる手段を用いてでも支援の手を緩めてはならぬと厳命しており、これに反した者は例外なく私財及び地位の剥奪に処すと明言されております」

「──随分と強硬だな。彼ら貴族連中だって自分を支持してくれる貴重な連中だろうが。そのような真似をして支持が離れるとは考えぬのか?」

「そもそも、この国の貴族らは大半が古からの土着の身分。王命に背けば権限の後ろ盾を失い、野に落ちる儚き代物にございます。ですが、それは同時に戦勝後の地位が保障されると同義。この度の難民支援による金銭的損失など、後でいくらでも回収が可能な訳です。しかしながら、そのような事情は民には全くの無関係。ならば貴人の義務として、この程度の痛みくらいは受けてもらわねば不公平だとは思いませんか?」

 尼僧の声に表情に、迷いの色彩は一切なかった。

 戦士は知っていた。そのような声を発し、そのような顔をする人間に共通した特徴を。

 ──『覚悟』を決めた人間。例えるならば、おのれの理想の為に戦地の赴く騎士。嘘や虚偽を語る者には決して宿る事のない鋭い光が、その両の瞳に宿る。

「……その辺りの駆け引きは、既に決着済みという訳か」

 強烈な覚悟の光に射抜かれ、男は圧倒されるほかなかった。無意識のうちに納得の言葉を吐き出す。

 難民たちは元々、自由を求めて東から逃れて来た者達である。西の人間を、セリアを信じるほかに選択肢は存在せぬ。

 だが、彼女の真摯な態度は、その信用を強烈に補強していた。

 納得し、頷いてみせる難民たちの顔を見回し、セリアは言った。

「貴方達を西に受け入れるに際して、色々とお尋ねしたい事がございます。その内容は現在の東の情勢について──貴方達の生活状況や、差別や迫害の内容、あと可能であれば、この数年間に施行された法や、主だった貴族たちの動向などに関して、詳しく教えて頂ければと存じます」

「それが、西へ入るための交換条件という訳ですか?」

「そう考えて頂いて結構です。やはり東の情報を仕入れるには、直前までそこに住んでいた人達に尋ねるのが一番ですから」

 察しの良い逃亡者の若者の問いかけに、セリアは柔和な笑みをもって答えた。

「私もかつて、自分の中に流れる血が原因で差別と迫害を受けて故郷を追われた過去を持っております。私がこうして立ち直ることができたのも仲間の支えがあってこそ。その仲間が必死になって共に戦ってくれて、世の中を変えてくれたからこそなのです」

 彼女は思い出す。

 ウェルトやアリシアといった掛け替えのない仲間たちの顔を。そして、彼らの勇気ある行動の数々を。

 クラルラット家、騎士団、神殿勢力といった、自分達を支える全ての者達を。

 そして、自らの力不足、或いは過ちを自覚し、反省と猛省を経て、それを挽回せんと奮闘する姿を。

 数瞬の沈黙の後、尼僧は続けた。

「ですから、貴方達もここで自らが受けた苦しみを吐露して下さい」

 万感の思いを込めて──

「その言葉を集めれば、我々は堂々と東の非正当性を訴える事ができます。そして、それは将来──アリシア殿下が治める新たな国にとっても大きな教訓と姿を変え、いつの日か、故郷での生活を再開させた貴方達の生活を自由で豊かなものとする礎となるのですから」

 

 難民を乗せた馬車が消えていく。

 まるで、今まさに地平の彼方に沈まんとしている太陽に溶けていくかのように。

 野営地を発ち視界より消えるまでの間、セリアは神に祈りを捧げ続けていた。

 旅の無事と、彼らの未来が幸福に満ちたものであらん事を、と。

 馬車が西の彼方に消えたと同時に祈りを終えたセリアは、ゆっくりと後ろを振り向いた。

「貴方は行かれないでのすね?」

 視線の先には男がいた。

 強面の戦士。

 この野営地を訪れるまで、彼ら難民の護衛を続けて来た醜男であった。

「心の優しい貴方の事ですから、最後まで彼らに付き添われるのか思っておりましたが」

「おいおい」

 戦士は照れくさそうに慌てて言い繕った。

「俺が優しいだって? この悪人面を見て、よくも言えたものだ」

「──そうでしょうか?」

 ぶっきらぼうに言い放つ男の言葉に、セリアは優しく微笑んだ。

「先ほどの貴方の言葉は、あの方々の行く末を案ずるがゆえの発言だと思ったのですがね」

「勘違いするな。ただの好奇心だ」

 戦士は言い捨てる。その視線をセリアの顔より大きく逸らして。

 心にもない嘘を言っているのが見え見えの反応だった。

 嘘が下手であるという事、それは善人の証左。

「──そうですね。では、そういう事にしておきましょう」

 だが、セリアはこれ以上の追及を止めた。

 男にとって、それはおのれの沽券に関わる事であったからだ。

 女であるセリアの目には、つまらない意地を張っているようにも見える。だが、そんな意地を貫く事に拘るのが、男という生き物なのだろう。

「それで、貴方はこの後、どうなされるのですか?」

「護衛の代金の不足分を、あんた達に補填してもらった上に色までつけてくれたからな。どこか適当な街の酒場にでも入り浸って、次の仕事まで英気を養うつもりさ」

「そうですか。それならば、向かわれる予定の街の名を教えていただけませんか?」

「何故だ?」

「およそ二ヶ月後、この野営地に聖都グリフォン・テイルより神官戦士団が到着し、以後は彼らが中心となって難民に対する本格的な支援が行われる手筈となっているからです」

 戦士は緊張のあまり言葉を飲み込んだ。

 西の聖都大聖堂はアリシアこそが正当な王位の継承者として認め、彼女に対する全面的な支援を約束しているという。

 そんな聖都の人間に対し、アリシアはこの東西境界線にて、難民に対する積極的支援を要請したのだ。

 更に多くの難民を出す状況が生まれるという事を想定し、その備えに全力を注ぐという意志の表明──

 即ち──本格的な東に対する攻撃。

 先程は民の面前。彼らを気遣い、尼僧は言葉をぼかしていたが、恐らくそれはかなり具体的な段階にまで進んでいるのだろう。

 遂に西の勢力が王都を奪還する為に動き出す。

 そして、これは多くの民が望んでいた事でもあった。

 重税、教育の制限、民衆の言論や思想に対する規制などといった、貴族階級や富裕層に偏頗した政治。

 孤島の『施設』を舞台とした、敵対者に対する加虐行為と、それらを見世物として娯楽化させた事。

 そして、数ヶ月前。アリシア派によって征圧された南の僻地グリフォン・アイの街を奪還すべく、民の犠牲を顧みず市街戦に挑まんとした事。

 現王家を中心とした東方勢力が行って来た、非人道的な行為の数々はもはや擁護の余地はなく、そんな状況下においてアリシア一派の勃興は民衆にとって救世主の到来に他ならなかった。

 アリシアを正当な王位に──彼女を待望する声は国中に広がっている。

 エッセル湖東のこの地を境界とした東西分断より約一年。民衆からの圧倒的な支持を受け、遂にアリシアは東への攻撃──王都奪還を決意したのである。

 そう。この難民野営地の存在は言わば『布石』。聖騎士アリシアと、これを支持する聖都大聖堂との密接な関係を表し、その正当性を印象付ける為に準備された代物であったのだ。

『弱者救済の戦い』という名の正当性を。

「聖都大聖堂と言えば、高名な聖職者が沢山集っていると聞く。なるほど、難民救済の為に参じて下さったお歴々を出迎えるには怪我や病人を看る施設すらもないようでは話にはならぬか」

「ええ。その為には施設の建設は当然の事ながら、治療薬の買い付けのため、近隣集落に住む錬金術師との契約も交わさねばなりません。当然、その際の交渉人や輸送部隊への護衛──力のある人の手は極力借りておきたい事情がございます」

「なるほど。それじゃあ、俺が働ける環境が整ったら迎えに来てくれ。それまでは自堕落な生活を送らせてもらうさ」

「ありがとうございます」

 セリアはゆっくりと頭を下げ、礼の言葉を述べた。

「その時には、必ず使いの者を送るよう手配をしておきますので」

「ん?」

 セリアからの返答に違和感を覚えた戦士は、改めて彼女に問うた。

「あんたが来てくれるんじゃないのか?」

「申し訳ありません。仲間のもとへ帰らねばなりませんので」

「……アリシア殿下のもとへ、か」

「ええ」

 セリアは頷く。その表情からは笑みが消えていた。

「私の本来の役目は殿下のそばにて力添えをする事。その見返りとして保護を受けている身にございます。東への進軍を──殿下の御決断を実行に移されるとなれば、私も本来の役目に立ち返り、それに準じるのが筋というもの」

「……それでいいのか?」

 戦士は問うた。率直な疑問を。

「お前の中に、かつての逆賊ソレイアの血が流れているという事を知られれば、戦いを終わった後、お前に危害を加えようという連中がいずれ出てくるかも知れぬ。お前が救おうとしているのは──今後、お前に対して牙を剥く連中なのかもしれないのだ。それでもお前は彼らのために戦おうと考えているのか?」

「ええ」

 セリアは首肯した。何の迷いもなく。

「人間の善悪とは生まれや血筋に起因するものではない──これこそが、私の真意ですから」

 それは、三年前──グリフォン・アイの貧民街にて命を落とした錬金術師ルーセルの遺志でもあった。

「私は命を賭し、同じ血を分けた者の悪事を、この手で罰する事によってそれを証明しようとしております。そんな私に牙を剥くというのならば、その者も今の私と同じく、おのれの思想に命を賭すほどの覚悟と責任があるはず──ならば当然、私はその覚悟に敬意を表し、武器を手に全力で相手するのが筋というものではありませんか?」

 自分に仇なすのならば、相手が何者であったとしても容赦はせぬ。

 そのような覚悟が見え隠れする、静かにして強い語調であった。

 尼僧は付け加える。

 所詮、それは些末な事に過ぎないのだと。

「まずはこの国を現政権の呪縛より解放するのが先決です。ラムイエを倒さぬ以上、彼らは私に対して敵対する意思を持つ事すら許されないのですから。当然、そんな悪辣な思想など個人的には気に入りませんが、それでも、その程度の思想を抱く自由くらいは保障してあげたいのです」

「命を賭してでも、か?」

「それはもう」セリアの目に真摯な光が宿る。「無論ですよ」

 戦士は嘆息した。二十にも満たぬ女とは思えぬほどの達観ぶりと、その胆力に圧倒されて。

「大した度胸だ」

 戦士の声には驚きを通り越し、呆れにも似た色彩が帯びる。

 貧困な語彙しか持たぬ彼には、セリアを評するにこれ以上の言葉を持ち合わせてはいなかった。

 セリアは何も答えなかった。彼女は無言で、難民を乗せた馬車が消えていった西へと向き直り、その彼方へと視線を飛ばす。

 その先に、このセリアという娘が何を見て、何に思いを馳せているのか──

 難民たちが向かうとされる街か?

 或いは、彼女の仲間──アリシアらがいるとされる街か?

 はたまた彼女が信仰する聖都グリフォン・テイルなのか?

 一介の凡人に過ぎぬ強面の戦士には、全く見当がつかなかった。

 

 

 <3>

 

 尼僧セリアが視線を投げかける方向──遥か遠くに、その街はあった。

 エッセル湖北岸の街、グリフォン・クラヴィス。

 大陸中央部を代表する巨大商業都市であると同時に、首都なき西における執政の中心地。

 東西に分裂した国内勢力の一方、西の盟主『聖騎士』アリシアの姿がそこにはあった。

 街の北、まるで壁の如く聳え立つ山岳の中腹にある城砦。その最奥に備えられし、彼女の執務室。

「かねてより御命令にございました──王家とハイディス教国の関係に関する調査。その結果をご報告いたします」

 グリフォン・クラヴィスの街を一望できる窓の外に向かい、アリシアは頷いた。

 そして、ゆっくりと振り向き、それを視界に捕えた。声の主──閉ざされた入り口の扉の前にて跪く、黒装束を纏った男の姿を。

 男は小さく頷き、低頭の姿勢のまま口を開いた。

「王女ラムイエの母──今は亡き王妃シルヴィアと、その妹である錬金術師アーシュラは、殿下もご存知の通り、あのソレイアの長女の血筋にございます。故に我々は、その長女とハイディス教国との関係を探る事と致しました」

「五十年前の内戦終結時、セリアの母君──ソレイアの次女アイナと共に騎士団に保護されたものの、何らかの事情によって長女の行方は不明となってしまった。ここまでが騎士団上層部が知り得る事の顛末だったな?」

「御意にございます。では、その『事情』とは果たして何なのか? 当然の疑問でありながらも、長らく謎とされてきた『長女の行方』──我々はそれを調べ上げる事に成功致しました」

「──話せ」

 アリシアが促す。男は彼女に従い、調べ上げた内容を話し出した。

「長女は戦後間もなく、ある人物に拉致され、ハイディス教国へと連れ去られていた事が判明いたしました」

「その人物……とは?」

「ソレイア政権における元重鎮の一人。ソレイアを神格化していた妄信的な人物であるとされ、戦後、国内に潜伏を続け、復権の機会を虎視眈々と狙っていたとの事にございます」

「なるほどな」アリシアは得心して頷く。

「長女を拉致し、逃れた先が──ハイディス教国であったと」

「ご明察の通りにございます」

 黒装束の男は首肯し、そう答え、更に続けた。

「ですが、当時のハイディスは教国──即ち、宗教国家などではなく、資源や食糧に乏しい貧国の一つに過ぎませんでした。ですが、彼らがハイディスの地を踏んで数年後、かの地の民は一致団結。やがて軍事国家としての隆盛へと繋がっていったのです」

「……ハイディスが、そのように舵を切った契機とは何だ?」

「ある新興宗教が興り、それが国教として認められた事が境となっていると言われております」

「妙だな。そう簡単に宗教など興せるものだろうか?」

 アリシアは怪訝めいた表情を浮かべた。

「聞けば当時のハイディスは資源や食糧に乏しく、民の生活は困窮していたという事ならば、彼らにとって必要なのは食料であり、傾倒するのならば、貧者への施しを行う義務を負った富裕者や権力者であって、胡散臭い新興宗教の類ではないはずだが──」

「それが常道にございましょう。ですが、狂気というものは時折、その常道を覆すもの。元重鎮の狂気──ソレイアに対する信仰めいた感情は、やがて、ハイディスの内情に大きな影響を及ぼしていくのです」

「ソレイアに対する信仰めいた感情──か」

 アリシアは密偵より発せられた言葉を、繰り返し、呟いた。

「ソレイアの長女を崇拝の対象──神たるソレイアの実在を裏付ける証として、その思想を広めたのだと言うのか? そして、ハイディスはそれを受け入れたとも?」

 そう。現在のハイディス教国における国教『肯定の天使』教。その源流こそ、かつてこの国を悪夢に陥れたソレイアの思想にあるという。

『際限なき肯定』

 如何なる思想も、趣味や性的嗜好、欲望に至るまで──それが他者の尊厳を蹂躙し、社会に害を及ぼすものであっても無条件で肯定される。

 無論、秩序や人道、人権といった概念とは無縁の世界。あまりに荒唐無稽な思想であると言えよう。

 事実、五十年前──ソレイアが支配下に置いた当時の聖都グリフォン・テイルでは、瞬く間に社会が崩壊。騎士団の攻撃によって、その支配は僅か四年で幕を閉じる事となった。

「……そんな馬鹿げた思想に基づいた宗教など、如何にして土着させたと言うのか?」

 アリシアは呻いた。

 人道に基づくのならば、彼女の言う通り、そんな荒唐無稽な宗教など浸透するはずもない。

 だが、ハイディス国は国土の多くが高山地帯によって占められており、農耕に殆ど向かぬ。食料の生産は限られ、国民全員分など賄う事ができぬ有様。

 貧困から脱する術は、何一つ残されてはいなかったのだ。

 他国を侵略する──そんな非道に手を染めぬ限りは。

「その『際限なき肯定』という教えが、ハイディスの上層部に大きな影響を与えたのです。本来は禁忌とされるべき『他国に対する侵略』という選択肢を与えてしまったのです」

 そう。当時のハイディス国には、そんな馬鹿げた思想すらも受け入れかねぬ土壌が確かに存在していたのだった。

「──こうして、ハイディスは国民皆兵制度を敷く軍事国家となり、王侯は兵士となった民衆を引き連れ、時には侵略目的で、またある時は、他国に雇われる形で諸外国に出向いては戦で得た金で糊口を凌ぐようになったのです」

『際限なき肯定』というソレイアの思想は、侵略を是とするハイディスに言い訳を与え、国教としての地位を与えるに至る。

 こうしてソレイアは──ハイディスの『神』となったのだった。

「ソレイアの長女は、ハイディスにとってまさに神の子。崇拝の対象となるのは必然。そして、神の子をもたらし──また当人もこれを強く信仰している元重鎮は、ハイディスにて興った、新しき国教の開祖となったのです」

 黒装束の男は最後にこう語った。

「ハイディスの民にとって、ソレイアはまさに神に等しき存在。そして、その血を引くシルヴィアとアーシュラが『神』を殺めし国に向かう──それが何を意味するかは最早、言うまでもございませぬ」

「報復──か」

 アリシアは呻いた。

 事実、ハイディス教国は、報復の題目の元、この国に対する侵略を始めたのだろう。

 勝利の暁には、この国の肥沃な土地や豊富な資源が手に入るのだ。

 ハイディスの民は一致団結し、死にもの狂いとなって攻撃を仕掛けるのは必定と言えよう。

 そして今、目論見は半ば成功を収めている。

 この国の政治の中心である王都議会に潜り込み、王家に近づいたシルヴィアは先々代国王と、先代国王との婚姻に成功。ラムイエというハイディスの『神』の血を極めて濃く継いだ人物を王家に後継者に据える事に成功し、現在はシルヴィアの妹アーシュラがラムイエの後見人の地位を獲得している。

 そのような人物を頂点とした政権が、この国の民に対して慈悲など与えるだろうか?

 アリシアの戦いとは、そのような政権による圧政からの一刻も早い救済。真の意味で、国の威信を賭けた戦いであったのだ。

 焦りを胸中に秘めた聖騎士は、黒装束の密偵に向かい、更に問う。

「ラムイエ以下、東の重鎮らの行方は、まだ掴めないのか?」

 男は再び頷き、淡々とした口調で答えた。

「以前のグリフォン・アイを巡る攻防戦以降、ラムイエ王女をはじめとし、宰相ダリウス、ハイディス教国騎士隊長ガルシアといった東の重鎮らの姿は一切確認されておりません」

「公式の場にも……か?」

「グリフォン・アイを巡る敗戦以降、不安に駆られたのでしょう。ラムイエ支持派の上級貴族たちが相次いで王都に出向いておりますが、謁見はおろか、王城内にすら通されぬといった有様。王城内外ともに警備は極めて厳重であり、調査は遅々として進んではおりませぬ」

「……警備を行っているのは、相変わらずハイディス騎士団が担当しているのか?」

「ハイディス騎士団と、王都議会の支配下にある私兵団の者達が半々……といったところでしょう」

「ふむ……」アリシアは唸った。「先の戦いで切り捨てられたのは下級の貴族たちのみ。上層部と王家はいまだ蜜月の関係にあるという事か」

「御意にございます」

 黒装束は恭しげに答える。

「彼ら下級の貴族たちは、民衆の支持によって支えられている者が大半。民意の影響が王家や王都議会に伝播せぬよう処置したものと思われます」

「しかし、それでは民衆は黙ってはおるまい。私の呼びかけに応じ、日を追うごとに我々の側に流れて来る者が増えていると聞く。東の勢力の維持は今後、困難となるであろう。常軌で考えれば、我々側が有利になると考えられるが──」

「……」

 黒装束は黙す。アリシアの言葉に相槌を打つことなく。

「──私見を聞こう」

 密偵の沈黙を、逡巡した様子を、男が自分と異なる意見を有するがゆえと察し、聖騎士はこれを促した。

 男は程なくして、ゆっくりと言葉を紡ぎはじめる。

「東の民は殿下の声に応じたのではなく──政権が、遂に民へと牙を剥いたもの。その毒牙より逃れるために過ぎぬと愚考いたす次第」

「根拠は?」

「この民の不満が噴出しかねぬ事態を前に、王家をはじめ政権の中枢にいる者達が自ら出張って民への説明責任を果たすべきところ、先程も申し上げた通り、彼らは一切、公式の場に姿を現していない事にあります」

 ──即答。

 それは、その目で現地を見たがゆえの自信の現れゆえであろうか。

 アリシアは彼の意見を聞く価値があるものと判断し、更に続けるよう促した。

「替わりに、不満に駆られる民を牽制しているのは同じ民衆──ラムイエに心酔するがゆえ、政権に反意を持つ者に対して一斉に攻撃を行い、果てには追放運動を繰り広げる事によって、反意自体を委縮させることを目的としている模様。その数は、王都に住まう者の二割程度。数としては少数派でこそありますが、それ以外の多くの政治的無関心層を牽制するには十分すぎる数とも言えるでしょう」

「しかし、現政権は民衆の私財にまで重税をかけ、搾取しているそうではないか。それでも尚、連中に心酔しているというのか?」

「家は借家。蓄財も殆どせず、その日暮らしをしている者達にとって、その政策は一切の痛手にはなりませぬがゆえ。教育に対する規制も同様──教養そのものに対して価値を見出さぬ人間ならば反対をする理由などございませぬでしょうな」

「馬鹿な!」

 信じられぬと言わんがばかりに、聖騎士は吐き捨てた。

「金がなければ家族を養う事もできぬ。読み書きや計算ができなければ、子供たちの将来にどれだけ悪影響が及ぶことか──そんなもの人間の生活とは言えぬ。まるで家畜の生活ではないか!」

「──御意にございます。しかし彼らにとって、それが些末と思えるほど、現政権に強烈な魅力を感じているのでしょう」

 アリシアは怒りに駆られ声を荒げた。

「そんなもの『あれ』しかないであろう! 私が厳しく禁じている忌まわしき行為の自由──ラムイエを支持せぬ者や『区画』に隔離されし者に対する差別や迫害だけではないか!」

「民衆というものは本来、多少の不満程度では権力者に対して刃向う事をせぬもの。一切の抵抗される恐れのない者を捌け口として与えられれば、悪意や害意の類は無論、そちらへと流れるものにございます」

 密偵の男は彼女の言葉に同意の意を示しつつも、淡々と事実を述べる。

「事実、王都ではこれらの行為は、ラムイエ政権の悪法による不満解消の一助となっております。殿下は過去の御経験より、差別や迫害を社会にとっての害になるとして厳しく禁じておりますが、王都のラムイエ支持者からは、これらの殿下の行動を『極めて非現実的にして偽善的政策』とし、殿下自身を『民衆の心が理解できぬ暗君』と厳しく非難。これに迎合するくらいならば、現政権の圧制に耐えるほうが現実的という意見が支配的であるとの事」

「ただの悪党の集団だと高を括っていたが──なかなかに強かな連中だ」

 間接的にもたらされた辛辣な批判。しかし、アリシアはこれに眉一つ動かす事なく聞き入り、そして、東の手法をこう評した。

「流石は政治家として一日の長があると言うべきか、自分の支持者が如何なる層に属するか随分と研究をしているようだな。そして、彼らに負担がいかぬよう器用に立ち回り、その不満の刃が自分に向かぬよう、細心の注意を払っている」

 口調こそ淡々としてはいるものの、その表情は晴れぬ。釈然とせぬと言わんがばかりの感情を強烈に滲ませる。

「撤廃が非現実的なのだと、弱者の救済が夢絵空事なのだと──そんなもの、私自身が骨身に沁みてわかっているさ」

 だが、それでも示さねばならぬのだ。そこへ至るまでの道を。

 この国で起こった様々な悲劇、それらの発端となっているものこそが市民達による差別と迫害であるのだから。

 グリフォン・アイで起こった暴動。

 孤島の施設における嗜虐と、それを娯楽として嗜む心情。それによる、ラムイエ政権に対する心酔──

 そのような浅ましき感情が、政権が統治を放棄してもなお、民より一切の批判すら許されぬという風潮を形成してしまっている。

「……解せぬ話だ」

 だが、アリシアは納得ができなかった。

 故に呟き、問いかける。

「それではハイディスにとって片手落ち。報復は成功となるだろうが、この国の富を手中に収めるという第二の目的は満たせぬ。それこそ政権を維持し、民より長く搾取を行うよう施策するべきではないのか?」

「一説には極東の鉱山地帯よりエジッド銀の再発掘を目論んでいるとの事ではありますが……」

「今更、そんな目論見に何の意味がある?」

 西の主は配下の意見に否を突きつける。

「確かにエジッド銀は高価な代物だ。銀塊一つ掘り出しただけでも国の経済に影響を及ぼす程にな。だが、港町エルナスなどに代表される諸外国への玄関口は全て我々の勢力下にあり迂闊に利用する事はできぬ。そんな状況下で王都をはじめとした東方地域の民を締め付けたとなれば、これらの現金化を委託できる民間の手を制限させる事に直結するのだからな──事実、東を拠点とする多くの商人たちは、早々にラムイエ政権に見切りをつけ、西に流れてきているのだぞ?」

 我々は何かを見誤っているのか?

 あの山は既に『死んだ鉱山』と言われており、武具に転化させるほどの埋蔵量など期待できぬ。

 軍備の強化や現金化が目的ではないのか?

 ラムイエが、あの極東の鉱山を──エジッド銀を手に入れる事に、また別の意味があるとでも言うのか?

 皆目、見当がつかぬ。

 アリシアは言い知れぬ不安に駆られていた。

 だが、唯一──歴然としている事がある。

 ラムイエをはじめとした、東の政権が何の陰謀を企んでいるかはわからぬ。だが、その影響ゆえに東の民が事実上、棄民も同然と化しているのだ。

 王として、それだけは看過できぬ。

 故にアリシアは、東への出兵を決意したのだ。

 付和雷同な世論に後押しされた訳でも、戦に賛同する臆病者の無責任な意見を聞き入れた訳でもない。

 これこそが貴人としての義務と信じ、おのれの責任において判断を下したのだ。

 ──だが、それは同時に苦渋の決断でもあった。

 東西の緊張が長期化した事により国内が疲弊。早期の王都制圧と平定が求められていた。

 また、西側の現状も苦しい。

 グリフォン・クラヴィス北の鉱山が実質上の機能不全に陥り、鉄の入手は諸外国からの購入に依存する形になってしまった事により、西方の財政は逼迫の一途を辿っていた。

 度重なる交渉の末、一時期の暴騰には一定の歯止めこそかかったものの、それでも尚、かつての安定期の相場とは程遠い状況。

 ──そんな中、追い打ちとばかりに、最も恐れていた事態が起こったのである。

 西方地域の経済を支えていたエッセル湖における水運事業の収益が、ここにきて著しく減少してしまったのだ。

 エッセル湖における水運事業の肝とは、言わば大陸東西を駆け巡る物品輸送網の構築と、その利便性向上にある。

 王都グリフォン・ハート。西の聖都グリフォン・テイル。そして、この大陸中央部の商業都市グリフォン・クラヴィス。

 これら商業の三大拠点が健全に機能してはじめてこの事業が万全な力を発揮するのである。

 東西の緊張が増し、王都との交易が断絶しつつある今、収益の減少は当然の帰結。事業の運営権を握る騎士団への収入も当然、その煽りを受けた。

 鉄の高騰と収入の減少。この二つの要素がアリシアに決断を急がせたのである。

 アリシアにとっての頭痛の種は、それだけに留まらぬ。

 主要な街の彼方此方で、魔物の襲撃が同時多発的に発生したのである。

 被害は日を追うごとに深刻化、被害も拡大の一途を辿っている。

 これらを討伐し、治安を安定させぬ限り、とてもではないが出兵など不可能な状況であった。

「……ウェルトは大丈夫なのだろうか?」

 アリシアは呟いた。最愛の義従弟を案じる言葉を。

 襲撃を受けた街の一つに赴き──今頃は、魔物の討伐に躍起となっているであろう騎士の身を案じる言葉を。

「──確認して参ります」

 控えていた黒装束は一礼の後、部屋を後にした。

 彼は密偵である。主君たるアリシアが求める情報を一刻も早く集める事こそが、彼の存在意義。

 故に彼は次なる任務を、これと定めた。

 魔物の襲撃──その状況を確認する事。

 ──そして、魔物の討伐に出向いたウェルトの安否を確認する事であると。

 

 <4>

 

 破砕音が鳴り響く。

 次いで、響き渡るは人間のそれと思しき悲鳴。怒りと怨嗟の声。

 街の彼方此方にて火柱が天を衝く。肌を刺すは熱気。鼻腔を刺激するのは焦臭。

 ウェルトは焔が燃え盛る街の中を歩いていた。

 両の手に握られているのは抜き身の大剣。刀身にへばりつくは真紅の液体。

 そして、彼の身体、纏う甲冑の表面にも同様、真っ赤な返り血によって染め上げられていた。

 疲労が蓄積しているのだろうか。彼は肩で息をし、時折唾液交じりの咳を吐く。

 それでも周囲に視線を送りながら、歩を進める。

 燃え盛る家屋の隙間。路地や裏道への入り口。

 市街地における、ありとあらゆる死角になりうる場所を注視し、不測の事態に備えていた。

 息も絶え絶え。体力も尽きかけていたウェルトの背後より近付く三つの影。

 それは人間だった。全身に大きな傷を負い、全身をおのれの血によって染め上げられたそれらは、脚が動かぬのか、手を足にして這いずるかのように近づいていた。

 無防備な背中を露わとし、力なく歩む騎士の姿を視認するや、この格好の獲物を仕留めんと、じりじりとにじり寄りはじめる。

 そして、それは顔をあげた。

 生皮の剥げた人間の顔だった。ある者は鼻を失い、またある者は右の頬に深い傷を負い、口腔がまるで耳元に至るまで裂けているかのよう。そしてまたある者は、頭頂が割られ、裂け目より例えようのない色彩を帯びた脳が露わとなる。

 無論、このような生物が、全うな人間であるはずもない。

 ゾンビと呼ばれる、不死種族に属する下級の魔物であった。

 その数秒の後、魔物と騎士との間隔は一飛びほどの距離に達していた。

 卑しき魔物は限界まで口を開いた。腐敗し、変色した歯肉と、半数ほどが抜け落ちた黄色く変色した歯が露わとなる。

 不死者はウェルトを標的と定めていた。脳の機能が停止している不死者が、どうして自発的に人間を襲うのか──本当の理由は誰も知らぬ。

 一説には、おのれの境遇に対する怨嗟ゆえと言われている。死んでも死に切れぬ、永久に続く苦痛。その刹那的な慰めの為に、これら不死者は人を襲うのだと。

 嘘か真かはわからない。三体の不死者は、その冥い感情に身を任せ一斉に飛びかかった。

 足代わりとした手を思い切り地面に叩き付け、その反動で飛んだ。

 刹那──炎によって真っ赤に染まった空に、腐肉が舞う。

 ゾンビの頭が破砕され、その際に飛び散った脳漿や肉片であった。

 絶命が困難である不死者であれども、齧ること以外に手段を持たぬ者にとって、頭部を完膚なきまでに破砕すれば、戦闘能力を殺したと同義。

 そして、これらの致命傷を負わせたのはウェルトの携えし大剣。

 騎士は、接近する魔物に一瞥すらくれてやることなく、接近したところを見計らって一刀のもとに切り捨てた。

 そう。彼は戦っていた──この街を襲う魔物の群れと。

 いや、正確には魔物に変異してしまった住民のなれの果てと。

「確か俺は、魔物の襲撃から街を守るために来たはずだったよな?」

 無力感に苛まれていた。力なき言葉が、その口より漏れる。

 彼はその言葉が示す通り、西方地域における各集落にて頻発している魔物の襲撃──これに対応する為、ウェルトは隊を率いて駆けつけ、そこに駐留している騎士隊への応援を目的としていた。

 だが、集落に到着したウェルトらが最初に見たのは、当初聞いていたものとは全く異なる光景。

 ──住民同士の衝突。

 主戦派と反戦派に二分した市民同士の衝突であった。

 情報とは違う実情に、ウェルトや隊員らは一時、混乱したものの、以降の彼らの対応は至って冷静なもの。

 隊を率いるウェルトは──この伝達された内容と実情との齟齬は、混乱ゆえの情報の錯綜ゆえと結論づけ、任務の内容を、眼前にて繰り広げられている衝突への介入と、鎮静へと切り替えたのである。

 だが、それは騎士にとって辛い決断であった。

 騎士とは防人。騎士が守るべきは力なき民。民の集合体とも言うべき街や国を、魔物など外敵より守る事こそが、その本分である。

 非殺の任務とはいえ鎮圧のため、これら市民に対して一定の武力を行使せねばならぬのだ。

 騎士としての本分に背く行為。忌むべき行いである。

 だが、魔物の襲撃を受けたという当初の情報から考えれば、このような事など些末な事に過ぎぬ。

 誰も死ぬような事はない。平和的な解決への道──その手段がまだ残されているのだから。

 そう、誰もが考えていた。

 一瞬だけ意識が弛緩した、その刹那──そんな儚き期待をも粉々に粉砕するかのような変化が、ウェルトらの目の前で生じたのである。

 その悲劇の発端、原因は不幸な事件であった。

 二派に分かれ、衝突する中で感情が昂った主戦派の住民の若者が、手にした刃物で反戦派の老人を刺したのである。

 滅多刺しの様相。傷は深く、出血は夥しい。

 市民達より沸き上がる悲鳴と歓声。

 騎士達は、眼前にて起こった市民達による愚行に絶句し、怒りを露わとし、そして、意識を緩めてしまった数瞬前のおのれを呪い、後悔した。

 だが、全ては遅かった。主戦派の若者の凶刃によって、老人は程なくして息絶えた。

 多くの者が悲嘆に暮れる。少数の者が歓喜する。

 激情によって心は揺さぶられる。

 ──『異変』が起こったのは、まさにその時であった。

 まるで、そんな人間達の心の動揺を、予見し、見透かし、そして嘲笑うかのように。

『異変』が起こったのは、力尽き、斃れたと思われた反戦派の老人。

 絶命したはずの老人が急に起き上がり、今しがた自分を殺めた若者の喉へと食い付き、その喉笛に噛み千切ったのだ。

 鮮血が舞い上がり、老人の顔へと付着する。

 濁り切った目へと飛び込んだ返り血は、まるで血の涙のごとく、その頬を伝い、流れ落ちていく。

 土気色へと変色した、血の通わぬ頬を。

 老人は哄笑をあげた。その際に開いた口腔、その中より覗く歯肉は腐り、脆くなった歯が次々と抜け落ちては、涎の尾を引きながら、ぼとりぼとりと地面へと落下していく。

 それはまさに、不死者──ゾンビであるかのよう。

 そう。若者の手によって殺害された老人は、その死の瞬間、不死者へと変じたのである。

 ──そして『異変』はそれだけではなかった。

 次に異変が生じたのは、喉笛を噛みちぎられ、第二の犠牲者となった若者。彼もまたゾンビへと変異し、周囲の生者に向かい、襲い掛かったのである。

 以後は、まるで急激な勢いで伝染する病の如く、命を落とした者達が次々と不死者へと変じていった。変異の拡大は加速度的であり、これに気付いた騎士団が対処にあたった時には既に取り返しのつかぬ事態に陥っていたのである。

 ウェルトや騎士隊は、この異変の原因について心当たりがあった。

『白い羽』

 装着した者の精神の歪みに感応し、その肉体を魔物へと変異させる悪魔の品。東のラムイエ政権を事実上、掌握している隣国ハイディス教国よってもたらされた、狂気の産物。

 この衝突は東方の介入によって引き起こされたのであろう。

 西に混乱をもたらす為に。

 そう、ウェルトや騎士たちは考えていた。

 だが、それは所詮『心当たり』。現状のあらましを根拠なく、適当な予測をしただけに過ぎぬ。

 異変の原因が判明したわけでもなければ、対処方法が確定したわけでもない。

 毎秒ごとに状況は悪化していく。混乱の度合いが深まっていく。

 そして、湧き起こる恐慌。騎士に焦りを生じさせ、正常な判断力を失わせるには十分にして余りある状況。

 その結果がこの──集落を嘗め尽くさんとしている炎。

 不死の生物、主にゾンビのような下級の魔物は腐敗した皮膚の脂や、体内に蓄積した可燃性の気体を多く含有しているがゆえ、極めて炎に弱い性質を有する。

 事実、騎士団でもこのような魔物と遭遇したら、下手に刀剣を用いるよりも松明や火矢の類を用いるよう指導されている。

 騎士は、その指導に忠実であった。愚かしいほどに。

 目の前に突如現れた不死の生物を討たんと、とある若い騎士が放った火矢が命中し炎上。突如暴れ出したそれは、事もあろうか、辺りにあった木造の家屋の壁に激突してしまったのである。

 炎上するゾンビは、それはまさに火の着いた油袋と同様。これが衝突した木造家屋は瞬く間に燃え上がり、それはやがて街を嘗め尽くす大火の最初の火種となってしまったのである。

 事の実態が掴めず、場は更に混迷。

 混迷は新たな焦りを生み、焦りは拙速を更に誘発させ、混乱に拍車をかけていく。

 ──気が付けば、事態は最悪な状況へと陥っていた。

 だが、このような混沌の坩堝の中であれども、一つだけ真実が存在していた。

 ウェルトは剣を振るい、前方より襲い掛かってきた不死者──住民の頭を叩き潰す。

 ──彼らはみな、一度死んでいる。何らかの理由によって、その死を歪められているに過ぎぬ。そして、ゾンビと化した者達は、新たな『歪んだ死』をもたらす為の担い手になる。無論、彼らが助かる術はない。その点においては『羽』の被害者と同じであった。

 斃す以外に彼らを救う方法は存在せぬ。哀れな民に、これ以上の罪を重ねさせぬために。

 ウェルトは剣を振るう。

 心を鬼にし、容赦なき一撃を不死者と化した民へと向けて。

 炎に包まれし街の彼方此方で、騎士があげたと思しき声があがる。

 咆哮。慟哭。そして、苦悶。

 民を守るべき騎士が、その民を殺めるのだ。

 これらは、その矛盾に対する、儚くも脆い人間の叫び。

「……畜生」

 ウェルトは毒づき、吐き捨てるかのようにぼやく。

 彼は別段、大衆というものに思い入れがある訳ではない。

 無責任にして付和雷同。口達者な癖に、自分で吐いた言葉に沿う程の力もなければ、矢面に立つ勇気もなく、かと言っておのれを研鑽する甲斐性すら持ち合わせぬ。

 脆弱なのだ。

 さも知った顔で、正しさを語りこそすれ、それを語るに相応しき強さを持たず、かと言って、おのれの弱さを受け入れ、身の丈に合った言動をとるほどの節度すら持つ事もできぬ。

 こんな連中を、どうして誇る事ができるのだろうか?

 しかし、それでも──彼らがこの国において、掛け替えのなき支柱である事には変わらない。

 騎士として守らねばならないのだ。

 大衆というものが如何に愚かで、どうしようもないほどの下劣な存在であったとしても。

 そして何よりも、そんな愚かな大衆の陰で、僅かながらに存在する善人や弱者の類が、大勢の悪意に巻き込まれて傷つき、心を痛めていている──そんな現実が、ウェルトにとって許せなかった。

「……何を泣き喚いていやがる!」

 ウェルトは叫んだ。

 やり場のない怒りの声は、赤熱する空──そこに木霊する騎士達の声を掻き消していった。

「俺達にはまだやるべき事が残っているんだ! こんなところで戦意を萎えさせてどうする! 戦え! 相手が何者であろうとも、目の前の敵を殺さなければ自分が殺されるだけなんだ!」

 騎士は叫ぶ。『現実』を受け入れろ、と。

 対峙している敵が──元々、この国の民衆であったとしても、今は魔物と化して敵対をしている。

 命の奪い合いをせねばならぬ関係へと変じてしまっている。

 そして現在、彼らを生きながらに元に戻す方法は判明していない。

 ──『殺す』以外に彼らを救う以外に方法がない。

 それが『現実』。非情な『現実』。

 非情な戦場に立つ騎士が、非情な『現実』に向き合わずして、どうして生き残り、戦に勝つ事などできようか?

 だが、騎士とて所詮は人間。心が弱くなれば、非情な現実より目を逸らし、都合の良い夢絵空事に縋ってしまう事もあろう。

 ウェルトは叫び続けた。苛立ちを叱咤の声へと変え、騎士は怒りの声をあげた。

 現実逃避をする仲間たちの頬を殴りつけ、現実という名の茨の道に縛り付けんとする。

 叫びながらも、ウェルトは手を止めぬ。戦い続ける。

 声を聞きつけ、襲い掛かって来る魔物の群れを次々と切り捨てる。

 我武者羅な突撃からの遮二無二な太刀筋。その様はまさに狂戦士の如く。

 刃に、顔に、甲冑に、腐った血が付着する。

 ──人間の血の味だった。

 ここにきて、ウェルトは人を切り殺したのだと、騎士の義務として守らねばならぬ者を殺めたという事実に直面する。

 叫びたかった。狂気の咆哮をあげたかった。

 だが、彼はそれを必死に噛み殺す。

 声をあげてしまえば、狂気に身を委ねてしまえば、自分が常に向き合い続けて来た『現実』より目を逸らしてしまう事になる──そんな気がしていたからだった。

 

 ウェルトは炎燃え盛る集落の道を力なく歩き続けていた。

 既に市民の姿は何処にもなく、魔物の姿も散見する程となっていた。

 代わりに現れたのは数多の骸で構成された屍山血河。絶望と怨嗟の表情のまま固まった、命失われし者たちのなれの果て。仮初の命を付与された市民達の最期の姿であった。

 戦いの終焉は時間の問題と言えよう。

 ──騎士は落胆していた。

 かつては野に落ち、根無し草の如き流浪人として生きていた最中、民衆というものの無責任さや身勝手さを知り、彼らに対する過剰な思い入れを捨て去っていたはずだった。

 だが、こうして数多くの物言わぬ骸を前にすると、悲しく思う。

 足元に横たわっている主戦側の文様を身に着けた市民の死体も、反戦側の文様を身に着けた市民の死体さえも、悲しく思う。

 生前は頭の固い、たとえ間違っていたとしても自分の意見を曲げたりはしない愚か者であっただろう。口だけが達者な救えぬ半端者であっただろう。

 生きていれば、双方とも自分達の脚を引っ張りかねぬ邪魔者であるとわかっていても──今では生きていて欲しいと、元気に動いていてほしいと思わずにはいられなかった。

 だが、これが仮にハイディスの工作だったとしても──ウェルトは、このハイディスの行いを責めるつもりなどなかった。

 これが彼らなりの『戦い方』である。戦法、戦術に貴賤などなく、強いて言えば、斯様な策略に易々と嵌められる自分達が間抜けであったに過ぎぬ。

 この考え方こそが、戦争の当事者として通すべき最低限の『筋』である。

 故に辛く、苦しい。

 騎士とは、この国の民を守るもの。故に、その民が攻撃されれば騎士は防戦に回らざるを得ぬ。

 そう言った意味において、騎士にとって市民の存在こそが弱点と言える。ハイディスはその明確な弱点を突いたに過ぎない。

 卑怯だとは口が裂けても言えぬ。

 勝つために、生き残るために、戦果を母国にもたらす為に、考えられる全ての手段を行使するのが戦の常道。

『生か死の二択』

 これこそが戦における絶対無二の理論。巻き込まれれば、それが戦士であろうと市民であろうと無差別に適用される絶対の法。

 そして同時に、これこそが『戦う』という事の現実でもあるのだ。

 ──だからこそ、一日も早く終わらせねばならない。

 この悪夢の日々を。

 それこそが権力者であるアリシアの義務であり、王家の人間のみに許された神聖な行為──いや、王家という特権階級の人間でなければ背負いきれぬほどの責任が伴うと言うべきであろう。

 それに尽力する彼女を支えるのが、今のウェルトの任務である。

 無論、この暴動の鎮圧もその一環であるが──それは今、まさに失敗に終わらんとしていた。

「──帰ろう」

 ウェルトは天を仰ぎ、そう呟いた。

 生き残り、生存者を引き連れ、任務の失敗を告げねばならぬ。

 集落を赤く染めていた炎が消えた日──ウェルト以下、派遣された騎士隊はまるで掻き消すかの如く、そこから消えていた。

 

 <5>

 

 砂埃が舞い上がる。

 いまだ舗装が施されぬ土砂が露出された路上。その上を走るは多くの騎兵と歩兵から成る一団。

 六台の幌馬車と、それを守衛するかの如く、百の兵が並走する。

 一見すると、その様たるや高位の貴人、或いはそれに該当する地位を有した者による周遊の如き様相。

 だが、その印象は随行する騎兵らの姿の詳細が明らかとなった瞬間、完全に否定される事となる。

 彼らは本来、この国にいるべきではない者達であるのだから。

 甲冑の胸当てには、ハイディス教国騎士隊の紋章が刻まれていた。

 そう。彼らは王家と王都議会の上層部らが主宰する一団。

 現在、大陸東部の民を圧制する当事者どもの群れ。

『周遊』などという生易しい行動に出るとは、最も考えにくい者達であった。

 そんな中でも一際目立つのは、六台の馬車のうち前より三台目。

 前後に頑丈な扉が備えられた──一際大きく、頑丈にして、豪奢な装飾が施されていた四頭立ての幌馬車。

 周囲には他の五台と比べ、厳重な体制が敷かれていた。警備に多くの人員が割かれており、各々が纏う気配は熟達した者のそれ。

 馬を操る御者が前方の空、その雲間より覗くあるものを発見した。

 東へと伸びる尾根。この国の北に聳え立つ山脈、その稜線。

 一団は国の北端、山脈にそって東へと進む。

 御者の男は後ろを振り返り、閉ざされたままの頑丈な扉に向かい、声を発した。

「──グリフォン・クロウ自治区内にございます」

 その声が内部に届いたかどうかは定かではなかった。地面と接する車輪の音。並走する守衛隊の馬の嘶き。甲冑が打ち鳴らされる音。様々な騒音と、厚手の幌の遮音効果によって彼の声は掻き消されたのかも知れぬ。

 だが、それでも御者の男は幌の中へと向かい、声をかけ続ける。

「じきに到着でございます」

 それが彼の──案内役を担う者としての役目であるが故に。

「──ラムイエ陛下」

 

『──到着だそうよ。ラムイエ』

 言葉が、少女の脳の内を駆け巡る。

 それは常人の耳には伝わらぬ意思。口や喉を介さぬ意思の疎通。質量としての音声は有さぬ、純然たる意志の力であった。

 そして、それを感知し、その意思を明確に悟る事ができるのは、この三番目の馬車の中、厚手の幌に覆われた暗き空間の中に座する一人の少女のみ。

 封の施された真鍮の壺を、大事そうに抱えし少女。

 ラムイエであった。

 錬金術によって、齢三歳ながらも大人同様の肉体を与えられた、東方政権の領袖。

 五十余年前、この国を絶望の淵へと陥れた人物、司祭ソレイアの魂を継ぐと自負する女であった。

 彼女は護衛すら置いていなかった。

 王位の継承者、政権の頂点に立つ人間らしからぬ不用心さであると言えよう。

 狂気の少女は、まるで愛おしいものを愛でるかの如く、抱えし真鍮の壺に刻まれし彫刻を、優しく指でなぞる。

「わかりましたわ。アーシュラ叔母様」

 それはまるで──壺の中身に向けて語り掛けるかのような口ぶりであった。

『あれも馬鹿な女ね。最初から口を割っておけば、あんな目に遭わずに済んだものを──』

 再び少女──ラムイエの脳内に意志が駆け巡る。

 それはまるで、壺の中よりラムイエの手指を通じて伝わって来るかのような、不可思議な感覚であった。

「確かに少々手がかかりましたが、もう過ぎた事ではありませんか」

 屈託のない笑い声があがる。

 この狂人は、そんな非現実的な感覚を、さも当然のように受け入れ、応対する。

「──ですが、これで私も得心がいきました」

 壺への語り掛けは続く。

 その声は穏やかにして、朗らかだった。

「この体が成長するにつれ、鮮明に、そして強烈になっていく、この地に対する愛着めいた感情。見ず知らずの地であるにも関わらず、胸中より沸き上がる、どこか懐かしい──惹かれ、焦がれるかのような不思議な感覚──その理由に辿り着きつつあるのですから」

 この感覚は、言葉や理屈では説明できぬ。

 脳が求めている訳でもない。体が求めている訳でもない。

 肉体という物理の殻の内にある、原始的にして高次元な代物からの欲求。

 強いて言えば『命』と『魂』からの希求。

 それ故に誘惑は強烈にして甘美。抗う事などできなかった。

 為政者として極めて不適切であれども、彼女は二分した国内勢力の片方を担う人物である。にも関わらず、彼女はおのれの果たすべき役割を放棄し、このような僻地に出向いていた。

 政治的な意図すらなく。

「私を導いてくれた事に感謝するわ──アーシュラ叔母様。私一人では到底、あの女の口を割らせる事はできなかったのだから」

『詮無い事よ。いくら今の貴女の身体が大人のそれに生育しようとも、その実は所詮、四歳にもならぬ子供。いくら脳が成長して知性を身につけようとも、肝心な精神が成熟していない。それを補うのは、貴女というものを作り上げた私の役目なのですから』

 クスリと、一瞬笑うかのような意思が、ラムイエの脳内へと流れ込む。

『さて、私たちは仕上げへと取り掛かりましょう。それさえ無事に済ませれば、我々の悲願が叶うのですから』

「邪魔が入ったりしないかしらね。聞くところによれば、あの聖騎士、遂に東への攻撃に打って出るみたいだけど?」

『ガルシア達が必死に内部の混乱を引き起こすよう工作をして、牽制しようとしているようだけれど、そろそろ限界ね』

「限界?」

『騎士団は中立の立場──西の民意とは無関係に東への攻撃を行うという姿勢を打ち出してきたからね。そうすれば万一、自分が敗北したとしても、民は戦禍にこそ巻き込まれるであろうが、戦後の罪までは問われぬ。言わば、民の痛みは一瞬で終わり、未来にまで禍根を残す事はないという算段よ』

「国の平定と東の民の救済という真の理由を隠し、あくまでこの戦いを権力者同士の争いと位置づければ、確かにそれは可能ね」

 真鍮の壺より、肯定の意思が伝わってくる。

「善意を根源とした戦いとなれば当然、民衆の支持は得られよう。しかしその場合、敗北し、西の民が敗戦国の人間という立場と成り果てたとしても、それを覚悟した上での総意である以上、結局は自業自得の範疇。彼らはアリシアや騎士団と同等の『戦争の当事者』として責を受けるのが筋というもの」

『──だが、力なき民にその責を受け入れる度量はない。ならば建前を変更してでも、戦による責を聖騎士や騎士団、彼らを支持する貴族たちのみで留めたという訳よ。万一の際、後顧の憂いを取り除くために』

「なるほど」ラムイエは得心して頷いた。

「戦への覚悟は既に固まっているという訳ね」

『そんな状況下で、いくら民を標的とした工作を行って混乱させたとて無駄という訳よ。幾許かの牽制にはなろうとも、戦に臨む姿勢までは、決して揺らいだりはしないのだから』

「いかなる事態に陥ろうとも──攻撃は予定通りに行う、と?」

 壺の女より、再び肯定の意思が帰って来る。

「確かに、ハイディスは工作活動を──平和な土壌に混乱の種を植えこむ事に長けている。事の長期化はハイディスにこれら工作に必要な時間的猶予を許しかねぬ悪手と見切りをつけ、短期決戦へと打って出たか」

 一見すると、理にかなった判断であると言えよう。

 だが、ラムイエは訝しがった。

「──あのアリシアという聖騎士。直情的な性格だと聞いていたけど、その割には随分と合理的な判断を下すのね」

『優秀な側近を抱えているという事なのでしょうね。西方勢力の母体は元々、この国を千年以上も魔物より守り抜いてきた騎士団なのですから』

「人材は豊富──か。彼女が望めば、引退した騎士を招集し、その知恵を借りる事くらいは造作にもないか」

 呟き、ラムイエは口元に微かな笑みを浮かべる。

「何か大きな事を為すには、人は群れを為し、束とならねばならぬ──それは如何なる時代、如何なる国においても、こればかりは不変のものよ」

 大軍と呼べば脅威なのかも知れぬ。だが所詮、蓋を開ければ愚かな人間の群れであるに過ぎぬ。

 ならば付け入る隙を突く事など、幾らでも可能というものよ。

 ──その為に、私はあの男を蘇らせたのだから。

 宰相ダリウスを。

 不死者の頂点に君臨する種族──『地獄からの帰還者』へと。

「手札はダリウスの手元にある。我々の目的を達するために必要な時間、それを稼ぐための手札を」

 それで十分。そう言わんがばかりに、ラムイエは頷いた。心底より得心した様子で。

 彼女は遂に、最後まで口にする事はなかった。聖騎士アリシアと戦う現政権の頂点に立つ人物として──近い未来、西の騎士団と交戦する運命を辿るであろう王都議会私兵団の総大将として、本来、語らるべきであろう言葉を。

『勝利』という言葉を。

 そして示さねばならぬはずであった。それへと至るまでの道筋を。

 二度、三度と腕に抱えし真鍮の壺を優しく撫で、やがて彼女は口を閉ざした。

 頭の中に流れ込む意志との会話を楽しむために。

 そして、それは本来彼女が目指さねばならぬ『勝利』という概念に、全く興味がないと言わんがばかりの様相であった。


 
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