No.773887

夏陽の花庭

くれはさん


2人のエルダーPSP版4周年に合わせてのss。

***

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2015-04-28 00:23:26 投稿 / 全11ページ    総閲覧数:1361   閲覧ユーザー数:1344

 

「――優雨のお見舞い、ですか?」

「ええ、そうなんです。優雨ちゃん、治療が終わって、今はリハビリに入っていて。

 それで、色々大変かもしれないから、皆でお見舞いに行きたいな、って」

 

――蝉の鳴く声を窓の向こうに聞き、青から茜色、

そして濃紺へと移りゆく空が見える……そんな夏の夕暮れ時。

僕は、寮の部屋を訪れた相手と言葉を交わしていた。

言葉の主は――同じ寮生である、初音さん。

 

 

 

 

会話を暫く交わし、5分程が過ぎた頃。初音さんは、こう切り出してきた。

――優雨ちゃんのお見舞いに一緒に行きませんか、と。

 

……優雨は、元々身体が弱く。入学してからもよく体調を崩し、学院を休む事も多かった。

自分だけが、他の人とは違う場所にいるんだと。自分は、『お客さん』なんだと。

そう、零す様に呟いていた彼女に――7月、ある転機が訪れた。

その転機の後、優雨は……身体を治し、皆と同じように学院に通いたい、と。そう言う様になった。

 

 

 

優雨は、今都内のとある病院に入院し、治療とリハビリを行っていると、そう聞いている。

そして、今回初音さんが話をしてきた要件は――そんなリハビリ中の優雨の所に、お見舞いに行こう、

というものだった。

 

「それで……ですね?千早ちゃんのご予定はどうかな、って。そう思って」

 

伺う様な、だけどそうすると信じているような……そんな声に、

初音さんの心の中まで想像できるようで、ふ、と微笑する。

 

「勿論、大丈夫です。渡りに船、と言いましょうか――私も、優雨の事が気になっていましたから」

 

夏休みに入って直ぐ、史と初音さん、それに優雨――その4人で出掛けた日の事は、記憶に新しい。

けれど、だからと言って直ぐ最近、という訳でもない。

励まし、送り出した優雨が今どうしているか、気になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

そうして、初音さんとお見舞いの日取り、時間、そして集まる場所を決め。

僕達は。優雨のお見舞いに行く事になった――。

 

 

 

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夏陽の花庭 -Little little flowers "Daisy and Boneset"-

 

 

 

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「――あっつーい……。ねえ千早、病院って涼しいかな」

「涼しい、とは思いますけれど……病院の冷房を当てにしてはいけませんよ、薫子さん。

 それに、薫子さんはこの間夏風邪を引いたばかりでしょう?あまり冷房に頼るのも」

「……うう、病院にお見舞いに行くのに風邪の話をされるのも、それはそれで気が滅入る……」

 

――立秋を過ぎ、けれど相変わらずの暑さが続く、8月の半ば。

病院に行く道を、僕達は歩いていた。優雨のお見舞いに行くために。

 

 

今回のお見舞いの参加者は、僕、薫子さん、史、初音さんの四人。

香織理さんと陽向ちゃんは、都合で参加が出来ない……という事で、今回のお見舞いは見送る事になった。

そして、僕達は寮を出発し。電車を乗り継ぎ――そして今は、歩きながら。目的の場所を目指していた。

 

 

 

 

「ねえ、初音。もしかして、あそこに見えてる大きい建物が――」

「はい。あれが、優雨ちゃんが今入院している病院ですよ」

「……まさかとは思ったけど、ほんとにそうなんだ。凄、あたしがイメージしてる病院と全然違うわ……。

 全然大きさが違うし、病院って何だか真っ白なイメージしか持ってなかった」

 

電車を降り、駅から数分ほど歩いた頃。

薫子さんは遠くに見える建物を指さし――初音さんはそれに頷く。

そんなやり取りをしながら指した場所は、琥珀色に白を混ぜたような――茶系統の外壁。

白をイメージしていたという薫子さんからすれば、思いもよらない色だろう。

 

「確かに、病院の外壁は白い色、というイメージが、私にもありますね。

 清潔感、という意味で白を思い浮かべるのかもしれませんし……

 ドラマなどで、そういった外観の病院を見た記憶がある、というのもあるかもしれません」

 

ですが、と。僕はそこで一旦薫子さんへの言葉を区切り、

 

「煉瓦調のタイルを貼り付けていたり、ベージュやクリーム色、あるいは薄桃色、

 という外観の病院もあるそうです。外壁の色は、入院する患者さんに影響を与えるのだとか。

 以前、そんな風に聞いたことがあります」

「へえー……」

 

そんなやり取りをしながら、僕達はその病院に向けて歩を進める。

先程よりも近付き、距離が短くなったことで、病院の詳細が先程よりもよく見えるようになる。

 

 

 

……広い敷地に、何棟もの病棟が立ち。

此処から見える緑色は――中庭だろう。そこに、何本もの木々が生い茂る。

その奥には、噴水も見える。

 

「……昔と、大分変わったね。史」

「はい。……ですが、此処から感じる樹の匂いは――あまり変わっていないように、史は思います」

 

少しだけ歩を遅らせ……前方を歩く初音さん、薫子さんと、距離を取り。

僕が歩みを遅くしたを察し、自分もそれに合わせ、僕の隣に並んだ史と、密かにそんなやり取りをする。

 

 

 

……もうすぐ着く、そこが僕達の目的地。優雨が現在、治療とリハビリで入院をしている病院だった。

 

 

 

 

 

 

 

……病院の入り口から、両脇が芝生で挟まれた道を少し歩き。

正面玄関から中に入り……受付で、面会の取り付けを頼む。

面会の取り付けは初音さんが行い、僕達はそれが終わるのを待つ。

 

……と、いう状況なんだけど。

何故だろう、僕達に視線が向けられているのを感じる……。

いや、学院でも同じ状況はあったから理由は分かるけれど。まさかここでも視線を集める事になるなんて。

 

ちらちらと僕達を見る人がいるのを感じ、また、隠す事もせず真っ直ぐにこちらを見る人もいる。

その目は、小さい子や同年代と思われる子からは尊敬の様なものを感じ、

それよりも年上の人からは好奇の目だったりと……。

 

うう……学院では似たような状況は何度もあったから、慣れたかと思っていたけど。

やっぱり、好奇の目の方にはあまり慣れないな……。

 

……と、そんな風に思っていたら、初音さんが戻って来た。

 

「お待たせしました、千早ちゃん、薫子ちゃん、史ちゃん。

 面会の了承、頂けました。それじゃあ、優雨ちゃんの所に行きましょう?」

 ……あら?どうしたんですか、千早ちゃん?何だかちょっと、お疲れみたいな表情ですけど……」

 

戻ってきて早々、初音さんにそんな風に言われてしまう。

……そんなにはっきり、顔に出ていたんだろうか。

 

「いいえ。なんでもありませんよ、初音さん。

 ……ちょっと、誰かに見られているような気がしただけですから」

「ああ……、千早ちゃん、美人さんですからね。

 それは、皆の目を引くと思います。私、いつも千早ちゃんの事、綺麗だな、って思っちゃうくらいですから」

 

……初音さんの言葉に、反応に困る。恐らくここに香織理さんがいれば、

『良かったわね、千早。美人さんですって』とからかわれる事だろうと思う。

 

だけど……褒められてもあまり嬉しくはないんだよね。本当は男なんだから。

………………今日も、いつも通り女装をしている訳だけど。

 

とりあえず、初音さんに有難う御座います、と返して。

再び、僕達は歩き出し――そして、エレベーターの前に着く。

 

「お、丁度エレベーター下りてきてるじゃない。タイミング良い」

「ええ、そうですね。それでは――」

 

薫子さんの言葉に頷きながら、上昇ボタンを押し。それからエレベーターの案内板を僕は見る。

確か、初音さんに聞いた話だと優雨は4階の病室に入院している、という事だった。

病室の番号を確かめる為、案内板の階数を上からなぞる様に見、視線を下ろしていき――

 

 

「――――――――」

 

 

「…………ん?千早、優雨ちゃんの病室はこっちの階だよ?そんなに上じゃなくて」

「え……、

 ああ、御免なさい。4階、ですね」

 

……薫子さんの言葉に、不意に我に返る。

案内板のある階で、僕は――そして、隣で同じように案内板を見ていた史は、目を留めて固まっていた。

いけない、今日は優雨のお見舞いに来たんだから……と、気を取り直す。

 

「んー……ねえ、千早。もしかして体調悪い?あと、史ちゃんも。ぼーっとしてたけど、大丈夫?」

「え、ええっ!?千早ちゃんと史ちゃん、具合、良くないんですか?

 私、もしかして二人が忙しいときにお見舞いの予定を入れてしまったんでしょうか……」

 

薫子さんと初音さんが、僕と史のことを心配する。

……少し、困った。とりあえず初音さんの為に誤解は解いておく必要はあるだろうか、と考えて、

 

「……いいえ、そういう訳ではないのです。ただ、少しだけ。気になる事があって」

「千早様の仰る通りです。……それに、史が体調を崩す事などあってはなりません。

 侍女として、千早様にお仕えする事に障りが出てしまいますから。

 ……ですが、薫子お姉さま、初音お姉さまにお気遣い頂きました事、感謝致します」

 

僕と史は、それぞれに薫子さん達が心配しているような事はない、と説明する。

 

「そう……なんですか?」

「ええ。……それでは、エレベーターも降りて来た様ですし。参りましょうか」

 

初音さんに説明をしている間に、エレベーターが下りてくる。

階層の表示は一階を示し――扉を開く。

……タイミングよく降りてきてくれて助かったと、そう思いながら。僕達は、エレベーターに乗り込んだ。

 

 

 

 

 

「ふーん……ま、千早と史ちゃんがそう言うなら、いいけどね。

 ……調子が悪いわけじゃない、っていうのは嘘じゃないみたいだけど」

 

……初音さんは誤魔化せたけれど。

薫子さんは、僕達の様子がおかしい事に気付いていた。

 

***

***

 

「――お見舞、ありがとう。ちはや、かおるこ、ふみ」

「元気そうで嬉しいわ、優雨」

「うん。初音に聞いてた通り、順調みたいだね」

 

――4階につき、以前も何度かお見舞いに来たという初音さんに案内され。

僕達は、優雨の病室に来ていた。

 

入院をすることになり、夏休みのあの日以降、暫く優雨の顔を見ていなかったのだけれど――

 

「……ん。今は、そんなに体調、悪くない、かも」

 

優雨は、少しだけ微笑みながら――そう、自分の様子について話した。

 

顔色も良く、体調に関しては心配はほとんどない様に見える。

それに――今もそうだけど、少し、笑う事が多くなったように感じる。

良かったと、そう思う。

 

 

 

 

……それから、しばらく。

僕達は、各々の近況、優雨のリハビリの進み具合。

そして、いつごろから寮に戻れるか――という話をした。

 

話をする優雨は、以前のような何処か諦めを秘めた表情ではなく。

リハビリの――そして、帰寮した後の、その先を。しっかりと、描いているように見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……しばらく、話をして。

不意に、優雨がもぞり、と体を動かしたかと思うと、

 

「……ん」

 

上半身を気にするような動きをしながら、優雨が小さく呟く。

その様子に、寮生活の記憶の中に思い当る事があった。確か――

 

「優雨。もしかして、汗をかいているのかしら?」

「ん……。ちょっとお肌、汗でべたべたする、かも」

「……あら、それなら拭いた方がいいと思うわ。初音さん、優雨の清拭、お願いできますか?」

「はい、任せてください、千早ちゃん!実は何回かお見舞いに来ている間に、

 優雨ちゃん、私に任せてくれるようになったんですよ!」

 

予想通り、優雨は汗をかいていた。

5月頃優雨が熱を出した時、同じような動きをしていたのを思い出したけれど。どうやら、当たっていたみたいだ。

……リハビリを行っているなら、汗をかかないはずはない。その時にかいた汗が、気持ち悪いのだろう。

 

とはいえ、それが分かっても。僕が優雨の清拭をする訳にはいかない。

……というか、したら不味い。だから初音さんにお願いしたのだけど……

初音さんと優雨の距離が近づいていることを、思わぬところで知る事が出来た。

 

「へー……すごいね、千早。あたし全然わからなかったよ」

「優雨との付き合いも、長いですから。少しは、分かるようになってきたんです」

「ほう、成程ね……ってことは、同じようにあたしも史ちゃんや千早の事も……………………」

 

と、言いかけ。薫子さんは、じっと僕と史の方を見る。

 

……多分、僕と優雨が過ごした分と同じ時間を過ごしている、

と考えて、それで僕と史を対象に選んだのだと思う、けど。

 

「……」

「……」

「……あの、薫子お姉さま」

「…………………………ごめん、やっぱりあたしはわからない。優雨ちゃんの事を分かる千早は凄いよ」

 

暫し、僕達の間に沈黙が降り――そして、薫子さんが大きく溜め息を吐いて。そう言ってきた。

僕は、そんなに難しい事をしたのだろうか……?

 

 

 

と、そんなやり取りをしていると。

 

「あの、ね……はつね。ちょっとお肌、汗でべたべたするから……拭いて、くれる?」

「ええ。それじゃあ、カーテンを引いて……と」

 

さあ、と初音さんがベッドの周りのカーテンを引く。どうやら、優雨の肌の清拭を始めるらしい。

……さて、このままここに居ても意味はない、というよりは居辛い……、と考え、

 

「それでは、少し飲み物など買って参りますね。……行きましょう、史」

「はい、千早さま」

 

カーテンの向こうにいる初音さんと優雨にそう伝え。

僕と史は優雨の病室を一旦、後にした。

 

 

 

***

***

 

――飲み物を買う為、自動販売機でも探そうか。

そう考え、廊下に設置されている自動販売機を探したが、折悪く飲料の補充が行われていた。

仕方ないので、3階の自動販売機を――と思ったが、3階、2階、1階と、

こちらも折悪く、売り切れが多かったり、待ち人がいたりと、すぐに買える状況ではなく。

 

仕方なく、1階を出、中庭を通り。中庭の向こうに入り口のある別の病棟まで、

自動販売機を探す事になった。そして飲み物を買った、その帰り。

 

「……ところでなのですが、千早さま。薫子お姉さまは、どうして私達が病室を後にする際、

 何故二人で行くのか、というような顔をされていたのでしょうか」

「多分……僕が本当は男だっていう事を、忘れてたんじゃないかな」

 

史から、そんな質問をされた。……先程病室を出る際の、薫子さんの話だった。

……薫子さんは、僕が「そう」であるという事を忘れている様な雰囲気の時がある。

いや、こんな恰好をしている僕もその一因だとは思うけどね……。

 

 

……と、ふと。受け答えをしながら、史の様子に違和感を感じる。

今の様な受け答えを史は普段、僕にしていただろうか、と思い、史の方を見る。すると、

 

「…………」

 

いつもと同じ、落ち着いた表情。

……けれど、何故だろう。その中に、僅かに焦りの様なものを感じる。

史が、こんな状態なのは珍しい……と、理由を思い巡らせる。

 

先刻の、優雨の清拭が原因だろうか。男である僕が、優雨の清拭をしようとするあの場にいたからと、

……いや。史はそれを話題にはしたが、恐らく違うような気がする。確証はないけれど……何となく。

…………いや、確かに僕があの場にいる事は問題でない訳はないのだけれど。

 

だったら……、と、他の理由を考えた時。……ふと、緩やかな風の流れを感じる。

夏の熱気をわずかに帯びた、服の裾を軽く揺らす程度の風。

 

……その風の運ぶ匂いで――いつかの昔に嗅いだ、同じ緑の香りで。僕は思い至る。

『ここ』が、僕達にとってどういう意味を持つ場所だったかを。

 

 

 

「……史」

 

 

 

聞こえるか、聞こえないか。そのくらいの声で、ぽそりと呟く。

けれど、その声は史には届き……そして、

 

「……申し訳ありません、千早さま。優雨さんのお見舞いに来たというのに、史は」

 

僕が史の様子に気付いていることを……史は、察した。

 

 

 

 

史の気持ちは、痛いほどに分かる。……先刻、僕達が案内板を見て固まっていたのも――同じ理由だから。

だって、ここは――

 

 

 

 

 

 

 

 

――かつて千歳さんが入院していた、病院なのだから。

 

 

 

 

 

***

***

 

――千歳さん。御門千歳。僕の姉である彼女は、先天性の難病に罹っていた。

その病気は、千歳さんの身体を蝕み、体力を奪い。外に出る……どころか、

歩く事すら儘成らない衰弱を千歳さんに齎し。そして彼女は、異常な若さで早逝した。

そんな千歳さんが、入院し――そして息を引き取ったのが、この病院の7階にある病室だった。

 

この病院は、名家の人間が利用する事も多い場所。

そして、聖應にはそんな、名家、あるいはそれに準ずるだけの裕福な家からの出身の子も多い。

だとすれば、そんな『偶然』はあり得ない話ではなかった。

 

 

 

 

……だけれど。今の僕達には、それは只の偶然以上の意味があった。

つい、先日の事。いなくなったはずの千歳さんが――幽霊として、僕達の前に現れたのだから。

 

そして、そんな千歳さんがかつていた病院に。幽霊の千歳さんと出会った優雨は、入院していた。

千歳さんと強い繋がりを持つ僕と史も、ここへ来た。

それは、まるで千歳さんに導かれたようだと――そう思うくらいに。

 

「史。……『此処』が、病院が、怖い?だから、落ち着かないの?」

「いえ。病院を、恐れているという訳ではありません。ですが、

 ……どうして、でしょうか。史は、千歳さまがまだここにいらっしゃるような、そんな風に感じています。

 もう、……ずっと昔の事の筈なのに」

 

その言葉に、一瞬僕の動きが固まる。そうか、史は――

 

「無理もないよ。……史は、この間千歳さんの事を思い出したばかりなんだから」

「……はい」

 

……落ち込みを見せる史に、僕は言葉を掛ける。けれど、史の顔は、相変わらず浮かないままで。

 

仕方ない、と。史には、そう言えるだけの事情がある……でも、史はそれを良しとしないのだろう。

史は、千歳さんの死を正面から受け止められず、忘れてしまった自分を許さないだろうと、そう思うから。

 

 

さて、どうすればいいだろうか……と、そう考え――

 

 

「――千早さま。少しの間だけ千早さまのお傍を離れる事を、許可して頂けないでしょうか」

「え?」

 

 

それを思いつく、前に。史は、僕から少しの間離れたいと、そう言った。

普段の史なら、ずっと僕の傍に居ようとするのに。どうしてだろうか――ああ。

 

「……千歳さんの病室に行くの、史?」

「はい。宜しいでしょうか、千早さま」

 

史は、千歳さんの病室――正しくは、千歳さんが嘗て入院していた病室に行きたいと、そういう事らしい。

そうすることで、史なりに再度、千歳さんの死に向き合おうとしている。

……そういう事なら、僕に止める理由はない。ふ、と。史を安心させるために笑顔を作って、

 

「いいよ。行っておいで、史。……というより、僕にわざわざそんな事を聞く必要はないのに。

 史がそうしたいと思うなら、僕に許可を取る必要なんてないんだから」

「その様な事をする訳には参りません、史は、千早さまの侍女ですから。

 ……それでは、暫し失礼致します、千早さま」

 

僕に向かって深々と頭を下げ。

……そして史は、一人。病棟に向かって歩いていき――その姿を、僕は見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……全く」

 

――病棟に入る史の姿を確認し、短く呟く。

史も手が掛かるんだから――と、そう続けようとして、苦笑する。

普段の史であれば、全くそんな事はないのだから。

 

さて、史を待つ時間の間、何をして過ごそうかと考え、

とりあえずは、中庭に設置されたベンチに座って待つ事にした。

 

 

 

***

***

 

 

――史を見送ってから、少しの時間が過ぎた。

 

 

太陽は煌々と輝き、暑気を振りまいている。……けれど、そう暑くは感じない。

ここに来る道を歩いた時よりも、少し涼しく感じられるのは、

この中庭がそういう作りを意識しているからだろうか……と、そんな風にぼうっとしている事に気付く。

 

理由は、分かっている。史の――いや、千歳さんの事だ。

史にはああ言って、送り出しはしたけれど……僕も史程ではないけど、確かにそれに引っ張られている。

 

 

「……いけないな、これじゃ」

 

 

……ここには、優雨のお見舞で来た筈なのに。

こんな事では、誘ってくれた初音さん達にも、見舞い相手である優雨にも……申し訳ない。

 

ふう、と溜め息を一つ吐く。

 

 

 

「……乗り越えたと、思っていたんだけどね」

 

 

 

あの春の日、薫子さんに『姉』の話を切り出す時。

思ったよりも、落ち着いて話を出来ていた、と……そう思っていたけれど。

史程ではないにしても……僕も、やっぱり千歳さんの事を引きずっていたという事だと思う。

 

……ふう、と溜め息をもう一度吐き。もう少し落ち着くまで待とうと、そう思う。

こんな状態で、史を迎えに行ったら不安に思わせてしまうし。

 

――それに、何よりも。僕はこの顔を優雨に見せたくない。

優雨は、千歳さんに勇気をもらって。自分で身体を治す選択をしたのだから、

優雨にこんな……千歳さんを失った事に引きずられた姿を見せるわけには、いかない。

 

もう少し、落ち着いてから史を迎えに行こう……と、そう思い、

 

 

 

「――あら、お一人かしら?」

 

 

 

不意に、影が差し。ベンチに座っていた僕に、声が掛けられた。

顔を上げた先にいたのは……一人の、黒髪の女性だった。

 

 

 

「御免なさいね。貴方が、何だか暗い顔をしていたものだから。

 どうしたのかしら、と思って」

 

 

 

 

 

 

 

「――成程ね。貴方はお友達のお見舞で来たのね」

「ええ。友人が、夏休みの間入院する事になりまして。

 それで今日は、お見舞に、と」

 

昼の日中。ベンチの空いた隣に座った彼女と、僕は言葉を交わす。

隣に座るのは……齢は、40代か50代ほどだろうか。

ある程度の歳を重ねてはいる様だけれど、けれどそうは見えない若々しさを見せる黒髪の女性。

 

こうして話していても、その所作一つ一つに、落ち着きと……

そしてどこか、凛とした、という形容の似合う、不思議な人だと思う。

同年代の女性と比べても、何処か動きに、他の人とは違う積み重ねを感じる……そんな人だった。

そんな彼女が、病院に来た理由をそれとなく聞いてみたところ、

 

 

「――私はね、娘に会いに来たのよ。今、ここに入院していてね。そのお見舞い。

 今は娘のお友達がいるみたいだから、少し待っているの」

 

 

と、そう言った。

成程、ここに入院している人の親族なら、そんな身の熟しをしていてもおかしくない……と思う。

ここは、そういう病院なのだから。

 

 

 

では、そんな人がどうして僕に話しかけてきたのか。もしかして、僕の事を見抜いて何かを言われるのか……

なんて、順一さんの時のことを思い出して少し身構えたけれど、そうではない様だった。

 

「病院で、患者でもないのに暗い顔をしている人なんてあまり見ないものだから。

 だから、貴方は何か悪い事を聞いてしまって、気を落としているのかもしれない、と思って。

 ……失礼かもしれない、と思ったのだけれど。声を掛けさせてもらったのよ」

 

そういう、理由だった。……一瞬でも、そんな事を考えてしまった自分が恥ずかしい。

いや、それを言ったら女装をして此処にいる僕の存在自体も…………うん、考えない様にしよう。

 

「そのお友達は、様子はどうなのかしら。順調?」

「ええ。治療自体はうまく行っていて、今はリハビリ中だという事で。

 夏休みが終わる前には退院できるそうです」

 

彼女の問いに、僕は答える。そして、彼女は穏やかに笑う。

そう、良かったわね、と。そして、

 

「……そんな風に、嬉しそうに話している、っていう事は、

 貴方にとって、その子は大事な子なのかしら?」

 

その問いに、少し考える。……僕は、優雨の事をどう思っているだろうか、と。

 

「そう……ですね」

 

4月のあの日に、雨の中で出会い。――何処か、儚さと、そして自分に近しい何かを感じ。

学院に入学して、不安ばかりだった僕に……安らぎ、ではないだろうけれど。

それに近しいものを、優雨と言葉を交わす内に、僕は持ち始めた。

 

この学院に入り、薫子さんや香織理さんにも影響を受けている、思っていたけれど

……優雨にも、かなり影響されているのかもしれない。

 

「大事な人、と言えるかは分からないですけれど……。

 でも、その子の御蔭で、私も変われた部分はあると。そう思っています」

「……あら。貴方みたいな美人さんに、そう言われるなんて。その子も幸せ者ね」

 

……その言葉には、苦笑するしかない。

見た目では女だけれど、実際は男なのだから。

 

最初は、世間話程度の内容で……と思ったが、いつの間にか、色々と話してしまっている。

この人は、話の運び方が上手い、と思う。

 

……と、そんな風に思っていると。不意に、彼女からの言葉が途切れた。

そして、

 

 

 

「少しは笑顔になってくれたみたいで、良かったわ。

 ……それで、そんな風に笑える貴方はどうして、先刻みたいな暗い顔をしていたのかしら」

 

 

 

少しだけ間を空け、落ち着いた声で。彼女は、先程の件を切り出した。

そして気付く。……彼女のこれまでの会話は、僕に警戒を解かせる為のものだったのだと。

……驚いた。全く、そんな風には感じなかったのだから。

 

「……」

 

気を取り直し、どう答えようかと考え――彼女の娘が入院している、という話を思い出し、

正直に返してしまうのは間違いなく良いことではない、と判断する。

ここで『死』を話題に出すなんて、あってはいけない。だから、

 

「――病院は、少し苦手なんです。雰囲気や、薬の匂い……そういったものが。

 昔、色々とありまして。私、身体が弱かったものですから」

 

嘘を、吐いた。それは自分の事で、今はもう元気になっていて問題はないのだと。

それで納得してくれれば、とそう思って。けれど、

 

「……そう、なの。大変だったのね」

 

僕の言葉への、彼女の返答に、その声色に。どうしてだろうか――

逡巡まで含めて、嘘を見抜かれたと……そう感じた。

彼女の落ち着いた声音には、僕の返答以上の重さがあったと……そんな風に思ったからかもしれない。

 

「こう、言ってはおかしいかもしれないですけれど。

 ……この間、それを思い出す出来事があって、それで今日は憂鬱になってしまったんです。

 友人の見舞いでこんな姿を晒しては、いけないですよね」

 

……だけど、本当にそうかは分からない。だから、嘘を吐き続ける。

何でもない事のように、苦笑で自分の感情を繕い……その実、千歳さんの事を思い出し、痛みを感じながら。

 

「……」

 

少しの間、沈黙が生まれ。……それでやはり、察されていると感じる。

こんなに長く続けず、話をどこかで適当に切り上げてしまった方が良かったのか、とそう思い始める。

後悔が――ざわりと、心に蠢く。

 

 

 

 

 

 

――けれど。

そんな僕に、彼女は、

 

「貴方は昔、大変な事があったのね。きっと、今でも引きずってしまうような事が。

 ――だけれど、貴方が今日ここに来たのは、大事な人へのお見舞の為」

 

一拍、おいて。

 

「その大事な人が、もうすぐ無事に退院できるというのなら。

 この病院は、その大事な人を治してくれるのだから……嫌うばかりじゃなくて、

 少し、好きになって欲しいって。そう思うわ」

 

……その言葉に、はっとする。

隣を見れば、彼女は――落ち着いた、けれど穏やかな微笑を浮かべる。

 

「本当のところを言うとね。おばさんもあまり、病院は好きではないの。

 この子は体が弱い、人並みの生活を送る事は難しい――なんて、

 お医者様にさんざん、娘の事でさんざん言われてきたもの。……だけど」

 

ふふ、と。何かを思い出すように、彼女は小さく笑い声を漏らし、

 

「娘が、言ったのよ。――やりたい事が出来た、探したい事が出来た、って。

 だから頑張って、お医者様に通って……身体を治したい、って。

 そんな風に言われたら、いつまでも病院が好きじゃない、なんて言えないでしょう?

 だから私は、娘を治してくれる病院を少しでも好きになろう、って思ったの。

 ……本当。あの子、寮生活で何があったのかしらね?」

 

寮生活、と聞いて。一瞬、動揺する。

……その話に出てくる彼女の娘に、優雨と重なる部分を感じたからだろうか。

けれど、そんな偶然はないだろうと思い……返す言葉を心の中で探す。

何と返せばいいだろうか、と考えて――夏休みに入る前の、優雨の姿を思い出す。

 

「そうですね……。その子にはきっと、何かいい出会いがあったのだと。――そう思います」

 

……優雨は。千歳さんとの出会いを経て、変わったのだと思う。

だからきっと、その子にも――何かいい出会いがあったのかもしれないと。

そう考えるのは、都合がよすぎるかもしれない。……けれど、そんな事があってもいいと思う。

 

……ふと、気付けば。口の端が、僅かに緩んでいた。

彼女の話が、それをさせたのだろうか。それとも――優雨と千歳さんの事を思い返したのが理由だろうか。

――そんな僕に、彼女は微笑みながら、

 

 

 

 

 

「……貴方は、どうかしら。おばさんの戯言で、押し付けがましいと思うかもしれないけれど。

 此処の事を――少しでも好きになってくれると、嬉しいわね?」

 

 

***

***

 

 

「――余計なお世話を、焼いちゃったかしらね。鬱陶しく思われていないといいのだけど」

 

銀色の髪を、緩やかに風で揺らし。落ち着いた足取りで歩いていく背中を、私は見送る。

有難う御座います――なんて言われたけれど、実際はどうだろうか。

 

 

 

 

……最初は、病院の中庭に随分と容姿の整った子がいるものだと、そう思い。

スカウトでもしようかと思い話し掛けた。少し話してみれば、頭も良く、気配りも効き。

 

         ・・・・・・・・・

それに何よりも――本来とは違うだろう自分の姿を、すいとこなせるだけの演技力を持っていた。

磨けば一流の俳優にもなれるだろう素質があった。

女優の――『柊亜希子』としての私の勘が、あの子を逃してはいけないと、

埋もれさせてはいけないと……そう言ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

……けれど、話している内に。見た目よりもずっと、重いものを抱えて生きている子の様だったから……

つい、世話を焼きたくなってしまった。

 

結果として、スカウトしよう、という当初の目論見は崩れ去ってしまったけれど。

まあ、そんな事もあるだろう、と思う。……非常に、惜しいけれど。

 

 

 

 

 

――そして。娘の知らぬ間に、娘の事を勝手に話題に出して。

やっと娘を励ませる機会が出来たと……娘に、親らしい何かをしてあげられる機会が出来たと、

そう思っているのに、娘よりも先に見知らぬ子に世話を焼いてしまった。

これは、娘には悪い事をしたかと思い――呟く。

 

 

 

 

 

 

 

「……ごめんなさいね、優雨。お母さん、あなたの所にお見舞いに来たのに、全然別の事をしちゃった。

 でも――あの子が元気になってくれたみたいだから、許して、ね?」

 

 

***

***

 

 

――中庭から、再び病棟に戻り。

恐らく史が待っているだろう場所へ歩いていく。心は、先程に比べ随分と軽くなっていた。

……これは、あの人の御蔭だろうか、と。そう思う。

 

歩きながら、考える。……確かに僕は、ここで千歳さんを失った。

それはずっと、消えない喪失の傷として残るだろう。――だけど。

 

 

……あの人が言った通りに考えるのなら。

ここは、これから優雨が様々な事を始めていくための、始まりになるだろう。

だったら、そんな場所を嫌っていても仕方がない。……そんな風に、思う。

 

と、そこまで考えて。……やっぱり僕は、優雨にもだいぶ影響を受けているみたいだ、と改めて思う。

優雨がそうしようとしている場所だ、というだけで……

喪失の傷を抱えて尚、それでも前向きに考えよう、という気持ちになるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

そして……7階。史の待つ場所――かつて千歳さんが入院していた病室に着く。

そこには、

 

 

 

「お待ちしておりました、千早さま」

 

 

 

史が、待っていた。……先程までの、憂鬱な表情をすっかり潜めて。

 

「……史。もう、大丈夫?」

「はい。――ご迷惑を、お掛けしました。違う方が病室にいらっしゃるのを見て、

 千歳さまはもう『此処』にはいないのだと、やっと、史の中で整理できたように思います」

「……そう。史も大丈夫そうなら、良かったよ」

 

史も、とは、と。史が聞いてくる。

……けれど、それを答えるのは少し気恥ずかしい気がして、何でもないと僕は答える。

そして、心の中で。……それを今、一人で乗り越えた史は――もしかして僕より強いのかもしれないと、

密かにと思う。

 

 

「それじゃあ戻ろう、史。……薫子さんと初音さんが、遅いって心配しているかもしれないしね」

「はい、千早さま」

 

 

 

……そうして、僕達は。

優雨の病室へと、戻る道を歩き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……それにしても。

中庭で出会った、あの人は。……どこかで見覚えのある人だった気もする。

多分気のせいだとは思うけれど――テレビで見た記憶があるような。

 

 

 

 

一体、誰だったのだろう。

 

 

***

***

 

 

『――もう、史もちーちゃんも、いい子なんだから。

 そんなにわたしの事、気にしなくていいのに』

 

 

――ふわり、と。

地に足を付けず、宙に浮くようにして。

わたしはこっそり、廊下の柱の陰からちーちゃんと史の様子を眺めていた。

……うん、柱の陰に隠れる必要はないんだけどね。わたし幽霊だもの。

 

 

 

ちーちゃんと史の様子を見る為に、あと優雨ちゃんの様子も見る為に。

こっそりちーちゃん達について来たんだけど。……もう、二人とも仕方ないなあ、と思ったりはするけど。

でも、ちーちゃんと史にわたしの話をしてもらえるのはちょっとだけ嬉しかったり。お姉ちゃんだから、ね?

 

 

……さて、と。

それじゃ、また優雨ちゃんの様子を見に行こうかな?

そう思い、壁から手を離し……ふわりと浮いて、ちーちゃん達の後を追いかける。

 

 

 

『ね、優雨ちゃん。優雨ちゃんは、大丈夫。きっと元気になれるよ。

 わたしみたいにもう駄目なんだ、っていう事じゃないし、優雨ちゃんも頑張ってるし。それに――』

 

 

くすり、と笑って、

 

 

『――ちーちゃんも、史も、薫子ちゃんも、初音ちゃんも。みんな、優雨ちゃんを助けてくれるから。ね?』

 

 

 

***

***

 

「――あ、やっと帰ってきた。遅いよ、二人とも」

「申し訳ありません、薫子さん、初音さん。

 ……お待たせしてしまったお詫びに、どうぞ、先にお好きなものを」 

「あ、じゃああたしこれ貰うね、千早」

「……うう、薫子ちゃんに先に取られてしまいました」

「……はつね、なかないで」

 

……そんな風に、賑やかに。薫子さんと、初音さんと、史と、優雨と。

僕達は、病室で少し賑やかな時間を過ごす。

 

優雨が退院し、寮に戻ってきて。……おそらくは、それからも。

きっと、こんな風に皆で話せるような、そんな予感を持ちながら――

 

 

 

「――ねえ、優雨。もし、迷惑でなければ……なのだけど。

 もう一度、優雨のお見舞に来ても、いいかしら?」

 

「……うん。ちはやが来ると、わたしもうれしい。

 今度は、ちはやがお肌、拭いてくれる?」

 

それは……、と苦笑し、この状況をどう切り抜けようかと考えながら、思う。

いつか、自分を『お客さん』だと言った優雨が……今、こんな風に楽しそうにしている姿を、

僕は自分で思っていたよりも、嬉しく感じているのかもしれない――と。

 

 

***

***

 

「――どう、優雨?お友達とのお話、楽しかったかしら?」

 

――夕方になって、ちはや達が帰った後。お母さんがわたしの病室に来た。

お仕事が忙しいけれど、時間を空けて。わたしのお見舞に来たって、そう言った。

 

「うん、すごく。――あの、お母さんはみんなが帰るまでお外で待ってたみたいだけど、

 お仕事、だいじょうぶ?」

 

……そう言ったお母さんに、わたしは、ちょっと心配になる。

お母さん、すごくお仕事忙しいのに……そんなに、時間を作って大丈夫なのかな、って。

そうしたらお母さんは、

 

「大丈夫。優雨の為に仕事を全部断ってきた――なんて言ったら優雨に怒られるからしないけれど、

 お母さんのお仕事を手伝ってくれる皆に、ちょっとお話してね。今日一日、何とか予定を空けてもらったのよ」

 

一か月前だから何とか予定を組み直せた、期間の決まってる学生の夏休み万々歳だわ――と、

お母さんは、そう言った。……そんなに無理をしなくてもいいのに、と思うけれど、

でも、お母さんといられて、話す時間があるのは嬉しい。いまは、お母さんと話したい事がたくさんあるから。

 

 

……そんな風に、考えていたら。

 

「あ、そうだ。ねえ、優雨?」

「……?お母さん、なに?」

 

お母さんが、何かを思い出した、みたいな顔をした。

なんだろう、と思ってわたしが聞き返すと、お母さんはすごく嬉しそうな顔をして。

 

「お母さん、さっき其処で凄く可愛い男の子に遭ったのよ?

 ああもう、あの子磨いたら一流になれる素質があるのに……!勿体ないわ、またどこかで会えないかしら」

 

お母さんは、ちょっと興奮しながらそう言った。

 

「……?」

 

……男のひとって、可愛い、って言われて嬉しいのかな?

お母さんはすごく興奮してるけど、それは、その男の人にとって、本当に嬉しい事なのかな……

と、ちょっとだけ思う。

 

でも、お母さんは女優さんだから、そんなお母さんが見て、凄い人だっていう事だと思うけど……。

どんな人、だろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――そのときのわたしは、まだ知らなかった。

 

それからずっと後、秋が来て、冬になって――もうすぐ、春になる頃に。

そのお母さんの言っていた人を、わたしが連れてくる、なんて。


 
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