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スフィーと聖なる花の都の工房 ~王立アカデミーのはぐれ綴導術士~<1>【2章-4】

みっくーさん

◆既存投稿ページを再利用したまとめ投稿です。最新投稿分からの続編になります。(2015/05月)

2014-08-14 22:14:14 投稿 / 全27ページ    総閲覧数:431   閲覧ユーザー数:431

「あははっ。うふふふっ」

 そんな廊下でのできごとの一風景を、隣の棟の上階より覗き見る者があった。

「出会った、出会った。ふたつの色が、出会ってしまった」

 手にした小ぶりの双眼鏡には気品に満ちた装飾が施されている。彼女の背側で廊下をゆく者たちの身なりも足取りを見ても、スフィールリアたちの棟にいる生徒たちとは、どこかが一線を画している。

「世界の果てからこぼされた、天なる〝金〟と深淵(ふか)き〝黒〟。ああ、今日はなんて素敵な日。とても輝かしい記念日。とても、とても、とても……」

 いわゆる『貴族組』の講義が行なわれている建物だった。

「……」

 歌うように弾ませていた女は、ほぅ……と陶然とした息を漏らした。

「ああ……フォマウセン・アーテルロウン学院長様。あなたはすばらしいお人。まさかあのおふたりが同じ期で入学することになるだなんて。これは偶然? それとも必然? これもすべて、あなたの懐深きご采配のおかげ」

 窓枠に身を乗り出してあまりにも無邪気に足を揺らつかせても、彼女を見咎める者はいない。いるわけがなかったし、第一もし見られていたとしたって、彼女は貴族組の中でも変わり者で通っているので問題はない。

「でもでも、いいのかしら? よろしいのかしら? ああ、学院長様。あなたは分かっていらっしゃるのかしら。彼女が創設なさったこの学び舎に。彼女たちを抱え込むという、その、意味が」

 双眼鏡の内側に映る少女が、別の少女に引きずられてゆく。彼女の視界に、彼女が求める者たちの姿はいなくなった。

 彼女も、ぱっと廊下へ着地し、浮き立った足取りで生徒たちの流れに混じってゆく。

 しかしそこで一度振り返り、いたずらっぽく笑むと、

「わたくしめにだって分かりませんのに」

 再び歩みを始めて、今度こそ生徒の群の中に消えていった。

 彼女を見留める者はいない。

 彼女は、そこにはいなかったのだから。

 

 

「スフィールリア・アーテルロウンとマテリス・A・ミルフィスィーリアが接触したようですね」

 教職員棟、学院長執務室。執務机の傍らに控えたタウセン・マックヴェル教師が、次なる報告書の内容を淡々と読み上げる。

「それで? なにか、目に見える変化は?」

「……これといって、特には。スフィールリア・アーテルロウンが放課後に体調を崩す様子があったようですがすぐに復調。以降、両者ともに平常通りの生活を送っていたようです」

 報告を聞き届け、フォマウセン学院長はふっと息を抜いて笑った。

「……まあ、そうでしょう。出会っただけでなにかが分かると期待していたわけでもなし」

「やはり、偶然ではないとお考えで?」

「どうかしらね? ここは<アカデミー>。世界中からどのような綴導術師が集ってきたとて、おかしなことなどひとつもないわ。でも、そうね……」

 一度、言葉を切った学院長は……おもむろと引き出しの鍵を開け、内部で厳重に保管してあったもののひとつを机の上に取り出して置いた。

「……やはり、まだ〝そのまま〟ですか」

 ええ。と簡素にうなづくフォマウセン。

 それは、スフィールリアが触れたのと同型の、素養計測に用いる導宝玉板だった。

「〝黒〟の才能」

 中央の水晶球は、純粋な黒色に満ち満ちている。

 照り返しすらない。室内に満ちる照明の光さえも吸い込んで、水晶球の周辺だけが、薄暗い闇に包まれている……。

 この水晶に触れたのは、ミルフィスィーリアだ。

 実のところ、スフィールリアが〝金〟の素養を見せるよりも前の段階で、ふたりはこの〝黒〟色の素養に出会っていた。彼らが驚いたのは、なにも〝金〟を見たからという理由だけのことではなかった。

 絶対にあり得ないはずの〝色〟の素養に、二度も続いて出会ってしまったためだったのだ。

 学院長は、闇色をまとう水晶に己の手を近づけさせる。

「っ……!」

 本来ならば彼女の力を受けて新たな〝色〟を灯すはずの水晶球だったが……手を触れても、〝色〟の上書きが起こることはなかった。見えない抵抗に阻まれ、火花が散り、その光も水晶に満ちる〝黒〟色に吸い込まれていった。

 手を離す。

「駄目ですか」

「ええ。案の定。……今日のわたしの色は〝赤〟だけれど、おそらくどの日に試しても無駄でしょう。この導宝玉板ももうダメね。今日中には破壊しなければ。余人の目に触れる前に」

「……わたしには、やはり不安材料としか思えません。ようやく世界規模から見た学院の基盤も整いつつあるというこの時期に」

「綴導術の概念を、学院を、根底から打ち崩しかねない要素だと? もしくは彼女たちのどちらかあるいは両方が、それを望んだなに者かの差し向けた刺客だと?」

「その可能性もあります」

「スフィールリア・アーテルロウンに限って見たとしてもかしら?」

 術師としての彼にとって敬愛を抱くべきアーテルロウンの系譜に並ぶ、彼女のことであっても? と、いう意味だった。

 しかしタウセンは、動じずにきっぱりと断言する。

「可能性として、考慮には置いておくべきです」

 フォマウセンは茶化さずうなづく。

 彼女をこの学院に送ったというヴィルグマインの手紙も、手続きも、すべて書面によるものだ。彼本人であるという絶対の保障は、ない。

 しかしフォマウセンは次に気を抜いた笑みを浮かべると、このいつまで経っても生真面目で実直で苦労性な腹心に労いの言葉をかけた。

「そうね。あなたが言うのならそうなのでしょう。ですがこのことの判断は、今はまだ。わたしに一任してちょうだい」

「かしこまりました」

「さ、遅くまで悪かったわね。今日はもういいので休んでちょうだい。わたしももう休むわ」

「は。では、失礼いたします」

「……」

 タウセンが席を辞して、五分ほど。フォマウセンは〝黒〟の水晶を眺めていた。

「マテリス・A・ミルフィスィーリアの〝A〟は、〝アーテルロウン〟のA」

 フォマウセンは聞く者のない自らのつぶやきに首を振る。そのことに大きな意味があるのかないのか。それを考えるべきなのかを置き去りにして。

「そして、あの〝杖〟」

 同じ引き出しから、バトンサイズの装飾品を取り出す。

「出でよ」

 装飾品は淡い輝きとともに伸長し、数秒後には、天井付近まである長大な杖に変化していた。

 背より両翼を広げ、なにかをかき抱くようにして微笑む乙女の像と、その頭頂に輝いた美しき七色の光輪。師フィースミールより贈呈された杖を基礎にした、彼女だけの<縫律杖>――<オーロラ・フェザー>。

 それに施された装飾は、色や細部こそ違えども、ミルフィスィーリアの所有していた<縫律杖>とかなりの部分が似通っている。

 内部構造に至っては酷似しているとすら言える。少なくとも同じ理論思想を持つ人間によって作成された<縫律杖>であることは間違いない。

 ミルフィスィーリアに〝黒〟の<縫律杖>を贈ったのは、フィースミールだ。

「砕け」

<オーロラ・フェザー>より発生した赤い光線が、もう片方の手に掲げた導宝玉板を取り囲む。

 光は幾何学を描く光条の檻となり、無限に狭まり……それまでなに〝色〟の支配も阻んでいた闇色の導宝玉板を、音もなく滅ぼし去った。

 すでに導宝玉板への意識は逸らし、学院長はため息をついていた。

「あの子は、物心がつくころには、すでにとあるひとりの〝女術師〟と旅をしていた。『学院に身を寄せよ』という書き置きとともに唐突に取り残され、放浪の末、ここにたどり着いた。その術師がフィースミール師……?」

 確証はないが、間違いはないだろう。今いちコミュニケートを成立させるのが難しいあの子供からどうにか聞き取り出した経緯も含めてまとめると、そういうことになる。

 学院に入学するにあたってのミルフィスィーリアの身元保証およびすべての手続きと支払いは、東方フェリス王国の<王宮綴導術師学術院>に所属する『とある高名な術者』が一切を引き受けていた。

 が……その術者は、架空の人物だった。

<アカデミー>諜報機関が綿密な調査を行なった結果、機関はそういう結論を返してきた。

〝彼女〟が学術院に残してきた数多くの〝実績〟は実在する。それら研究成果に対する王宮よりの表彰授受式すら正式に執り行なわれていたし、学術院内においてその人物と幾度となく取引をした経験があるという人間すら数多い。

 だが、肝心な生身の人間としての〝本人〟を、どうしても見つけることができなかった。

〝彼女〟と取引をした、または〝彼女〟と旧知であるという人間全員を調べた。

 ――結果、〝彼女〟と実際に対面して話をしたことのある者というのは、ひとりとして存在しなかったのである。しかしそれまで、だれひとりとして〝彼女〟の実在を疑う者はいなかったのだ。

 彼らの聴取から得た内容には〝彼女〟の性格や人となりに関する非常に細やかな情報までが含まれていた。中には、『実際に会ったことがあるという者の話では……』という逸話まで。

 そう。

 フェイクだったのだ。

 皮膚のない人間。器なき場所に、数々の実績、そして〝人物像〟という中身を注ぎ込まれただけの。

 かの地には〝伝聞〟〝取引〟、そして王宮に提出される研究成果という名の〝実在証書〟を用いた、〝彼女という人物像を自動で更新し続けるシステム〟が設置されていたのだ。取引はすべて手紙やバイヤーを通す形式だったし、個人的交流に対する返信まで行なわれていたほどの徹底ぶりだった。

 自分は直接対面をしたことはないが、会った者はいるという話はある。そして、自分は〝彼女〟と実際何度も取引をしたし、手紙による交流の内容も、話に聞く〝彼女〟の人物像とまったく相違はない。――さらにそんな自分と同意見な者との情報交換があれば、その見識は一層、強固なものとなる。やがては〝彼女〟と会ったことがあるという錯覚さえ起こす者が現れて、伝聞のネットワークはより密度を上げてゆく……。

 同じ場所に蓄積を続けた情報はやがて〝歴史〟となり、知識をも超えた揺るがぬ〝概念〟と化すのだ。

 事実、この結果を諜報員が聞かせてみた何人かの内の全員は『それはそうだ。〝彼女〟は滅多に人に会わない』『遠出をしているんだろう』といった以外の反応は示さなかった。明日の日の出を疑う耕作人などいないだろうし、教会で神の不在を謳う愚か者もいはすまい。

〝彼女〟はそうして明日も、何年先までも存在を続けてゆくのだろう。

 非常に巧妙な工作だと言わざるを得なかった。そのシステムというのが使い魔などを用いたものなのか多数の工作員によるものなのかまではつかめなかったが、フォマウセンはそれが分かった時点で、機関に調査の打ち切りを命じた。

 フォマウセン自身も手紙の交流があり名前を留めていたほどの術者だったので、ちょっとした衝撃ではあったのが……〝そこ〟まではまだ、重要ではなかったのだ。

(問題なのは、〝なぜ〟そのようなことをしたのか、ということ)

 フォマウセンの〝立場〟を考えれば、それは一見して無意味な回り道でしかない。

 フォマウセンは、アーテルロウンの名を与えられた、フィースミールの直弟子だ。

 あの〝杖〟を見ればミルフィスィーリアが〝彼女〟の弟子であることなぞすぐに分かる。ついでに言えば、フォマウセンの所有する調査能力があれば、ほどなく工作が看破されることも分かり切っている。

 そして、この学院は、〝彼女〟の創設した学び舎だ。

 そこへ自らの弟子を送り込むにあたり、〝彼女〟の名前を隠す必要がどこにある?

 いや、それは違う。

 ……そうする理由というものが、あったのだ。

(それは、なにかしら? 〝彼女〟の存在の示唆を世間一般、あるいは〝何者か〟から隠しおおせるため? それとも、その〝理由〟とやらの存在を、このわたしに察知させるため?)

 ……加え、奇しくもミルフィスィーリアと同期で入学することとなった〝金〟色の少女。

 アーテルロウンの名に連なる、スフィールリア・アーテルロウン……。

「まあ、あなたが寄越した子供たちなら、わたしが面倒を見ますけれどもね。でも」

 偶然などではない?

 これは、必然?

 そこにどのような意味があるのか? その意味を与える〝役割〟にいるのは果たしてだれか?

 学院長は、自らがスフィールリアへ与えた語りかけを思い出し、長い長いため息を吐き出した。今は、なにも、分からない。

「フィースミール師……あなたは今どこにいて、なにを考えているのかしら…………?」

 振り返った窓へ漏らしたつぶやきは、夜闇に淡く拡散する白月の輝きに溶けて、ただ消える。

 

 

「……やっぱりあるじゃん」

 夜。大図書館前。

 宵闇に沈み黒々とそびえる巨大な建物の間からかすかに漏れ出る橙色の光を見て、スフィールリアは今度ふたりに見せてやろうと考えながら歩を進めていった。

 が。

「あれ?」

 路地の突き当たりにあるものを見てスフィールリアは足を止めた。そこにあるのは先日に見た〝店〟とは別のものであった。

 屋台車は屋台車だったのだが……。

「ごめんくださ~~い……あ、やっぱりおじいさんだ。お店やってないんですか?」

 垂れ下がっていた布を持ち上げて内部を見ると、そこにいたのはやはり店主の翁。

「今日は、ラーメンの日」

「……ら……ラァ、ミェイン?」

「ら、あ、め、ん」

「っらぁ、アー、メィ、ン!」

ん。とうなづく店主の翁。

 先日と違いこぎれいな白の帽子に半袖の調理服と衣装を変えている。そんな彼の前には煮え立つ大なべからもうもうときれいな湯気が立ち上がり続けている。

 翁とスフィールリアの間にはカウンター。椅子。

 そして椅子の上には、先客の姿があった。

「スヤァ……………………」

「……」

 ミルフィスィーリアだった。

 マイ枕(いつでもどこでも一緒らしい)に顔半分をうずめて大爆睡をしている。

 彼女の横には、食べ終わりと思しき、白色のスープが半分ばかし残るどんぶりと。

 小皿に載せられた短冊型でブラウン色のやわらかそうななにかをかじるリスの姿。

「……食べ物?」

「そうだよ」

「お店は?」

「今日は、ラーメンの日」

 毎日、あの雑貨店をやっているわけではないらしい。もしかしたらいつ雑貨屋を開くのかとかは、気まぐれなのかもしれない。

 それにしても、ただでさえ〝あの店〟だって思いつくもの全部詰め込んだようなものだったのに。あまつさえ飲食店って……。

「そーなのかー……水晶水の素材、買い足せると思ってきたんだけどなー……」

 翁は小さな肩を揺すって、あの独特の笑いを返してきた。

「食べてくかい」

「うーん、そですね。せっかくだし。……でも、なに料理? 聞いたことないけど、どこの国の食べ物なんです?」

「そんな国ないよ」

「へ?」

「遠い…………たどり着けない国から届いた〝まぼろし〟さ」

「はぁ」

「友達が好きだった。いつでも思い出せるよう。いつ帰ってきてもいいよう。こうして作ってる」

「……」

 語る内容は分からなかったものの、スフィールリアの顔に俄然興味が惹かれたような笑みが湧き立ってきた。

 それはつまり『情熱が込められたもの』ということだ。そういうものは、『いいもの』なのだ。

 スフィールリアはミルフィスィーリアの隣に座り、元気よく立てた指一本を突き上げた。

「よぅし……おやっさん、オススメひとつっ!」

「いいね」

 得心したようにうなづいた翁。コップに注いだ水を置くと「待ってな」と短く告げ、作業に取りかかる。

 後ろに積んでいた木製の番重から取り出したるは、手のひらに納まるくらいの、卵色の束。

 それを束の質量に対してはずいぶんと圧倒的な湯量の大鍋の中へと惜しげもなく放り込む。

「あ、麺料理なんだ」

「そうだよ」

 答えつつ翁は手を止める時間も惜しいとばかりに、慌しくこそはないものの、静かで、かつ的確となにかに包丁を入れ続けている。

 なんだかプロの手際から伝わる安心感のようなものがある。

「楽しみだなー」

 そして……。

 

「う、うめえええええええ~~~~え!」

 数分後。スフィールリアの悲鳴が響き渡っていた。

「う、う……うまーー! なにこれ、うま……ごくんっ。田舎のオショーユと全然違うよ……どこか素朴でいて、ふーっ、ふーっ、もぐもぐ……でもお肉と油のガッツリ感とコッテリ感が見事に調和してて麺もすごくモチモチですんごい卵の匂いが……ズズズーっ!」

「醤油は分かるのかい」

「ぷはっ。あ、はいっ。ウチの田舎はフィルラールンで、あっちは東側の大陸からの輸入品も運ばれてくるから」

「あっちの大陸からかい。だいぶ広まったんだね」

「こっちの方じゃ探しても全然見当たらないですけどねー。もぐもぐ……産み立ての卵使ったたまごかけごはんとか、小さいころはよく食べたなぁ」

「俺もよく食わされた。失敗作の醤油とできのわりぃ卵使って、何度も一緒に腹壊した」

 翁は笑う。

 スフィールリアは、眠りこけるミルフィスィーリアの横にあるフォーク入りのどんぶりを指差した。

「これは?」

「そっちは、トンコツ」

「トゥンクァツ……ごくり」

「明日はトンカツ屋にしよう」

 ……店内を見回してみると、横手の屋台骨にメニューがぶら下げられている。

 シオ。ショーユ。ミソ。トンコツ。パーコー。タンタン。具材も別々に選べるらしく、タマゴに、野菜炒めに、チャーシュー、メンマ、角煮の厚切り……。

 いずれも比較的一般的な価格設定であったが、中には、アルン(金貨)単位がする驚きな値段のメニューも並んでいるのだった。

「『オーバー・リミテッド・STR=ミソ・スープ』50アルン……? おじいちゃん、あれは?」

「それは、食べたら筋力が増強される効果つきだよ。期限は一日だけね」

「じゃあ『クリスタル・カエダマ(1.5玉)』200アルン、は?」

「食べた者のタペストリ領域を一時的に2~10割増しするよ。期限は個体差」

「へぇ……」

 どう転んでも<アカデミー>に根を張る店には違いないらしい。『サーガ・オブ・レジェンダリィヒロイックラーメン ~オーバーザレインボゥ~(100000アルン)』とか食べたらいったいどうなるんだろうか……。

 ともかく値は張るものの、どうしても自分の力量を超えた仕事に挑みたい時などは便利かもしれなかった。毎日〝このお店〟とは限らないみたいだけど……。

「……ごちそうさまでした! はぁ~おいしかった。なんだか染み渡る味だねっ」

「はいよ」

 店主が小皿に載せて卵をプレゼントしてくれる。スフィールリアが特に絶賛していた味染み半熟卵だった。「やったぁーー!」と歓声を上げて口の中に放り込む。つまむとマシュマロのようにへこむほどやわらかい卵は、くっと舌に力を入れるだけで濃厚な風味の黄身を溢れ出させて、口いっぱいに広がってくる。

 幸せをかみ締めながら、スフィールリアは、隣の少女に目線をやった。

「ん、く。……起きないね」

「ずっとそうしてるよ」

「邪魔じゃないの?」

「問題ないよ」

「……こんばんは~」

 リスに手を振ってみる。リスはメンマという食べ物を完食し、追加されていたチャーシューに取りかかっていた。

 振り向いたリスは一旦チャーシューを手放し、ミルフィスィーリアのおしぼりで手を拭き、こちらの下まで歩いてくると、両手を差し出した。

「……あは。どもっ」

 こちらも差し出した人差し指を小さな両手でつかんだリスは、くいくいっと上下させるように力を込めて、またチャーシューの攻略に戻っていった。

「スヤァ……ァ…………」

「起きないなぁ……」

 スフィールリアはついた片肘に頬を乗せ、少女の横顔を眺め続けた。

 ……なんだろう。

 話がしてみたいと思っていた。聞いてみたいこととか、おしゃべりすることとか、いっぱいあるような気がしていたのに。

 こうして目の前にしてみると、それらが全部幻想だったと思い知ってしまった。なにを話せばいいのかなんて分からなかったし、お互い、知ってることなんてなにもないのに。

 それなのに、まだ、そんな錯覚が消えずに残っているのだ。

 どうしてこんなにも気になるのだろう?

 起きて欲しいのか、眠ったままでいてくれた方が助かるのだろうか。

 こうして眺めていても眠ったまま? それとも、ふと起き出してこちらに気がつくまでのタイムリミットは迫っている?

 期待しているのか不安なのか――どちらでもある胸中の高鳴りをあえて見すごしたまま、時間は刻々とすぎていって――

 パサリと。見つめていた少女の肩に細い手が重なるのを見て、スフィールリアは我に返った。

 厨房側から回り込んできた翁が毛布をかけたところだった。

 少女の寝息は、当たり前のように尽きることがない。

 スフィールリアはふっと息を抜いて、自分を、笑った。

「おじいちゃん、ごちそうさまでした! お代ねっ」

「はいよ」

「……ミルフィスィーリア、大丈夫かなぁ? おじいちゃんは大丈夫?」

「問題ないよ」

「そっか……そいじゃ、またきます!」

「はいよ。またね」

 

 そして翌朝。入室するなりまたも奇異の視線を集めたミルスフィーリアに、早速スフィールリアは駆け寄っていった。

 注目を浴びているのは、なぜか彼女が毛布を羽織っていたためだった。

「おはよ、ミルフィスィーリアっ。それ昨日の毛布じゃない。どうしたの?」

「……?」

「ら、ぁめん屋さん。おじいちゃんがかけてくれたヤツでしょ、それ?」

「らーめん……たべた」

 少女がうなづいてくると、それだけなのになぜか無性にうれしくなって、スフィールリアも無意味に力んでうなづき返していた。

「うんうんっ。あたしも食べたよ。おいしかったね――あれからどうしてたの? いつ起きたの?」

「朝」

「朝ぁっ?」

「これ……包まってた」

「おじいちゃん被せたまんまにしてくれてたのかぁ……起こしても起きなかったのかなー」

「返すまで……着てる。忘れるし…………ぬくぬくするので」

「んー、そっかぁ。目立つと思うけどなぁ、うーん……でもいつも眠ってるし絶好の装備なのかもね。今日もお店やってるといいね」

「……うちのリスも、お世話になりまして。と……言ってる」

「リス? リスっていうのその妖精? そのまんまだなぁ」

「? でも、リスなので」

「リスだけどさぁ。実はちゃんとした名前とかあるんじゃない? ウチにもネコだけどフォルシイラっているし――あっほら全力な感じでうなづいてるよ?」

「……これが慣れているので」

 がっくりと頭を垂れたリスが、ぴしゅーと小さなため息(だろう)をついた。

「そっか、苦労してるんだね。――ねえ、ミルフィスィーリア。また〝お店〟とかで会ったら、お話しようね。学院でも見かけたらいつでも声かけてよっ」

 うなづいてくる少女に満面の笑みを返し、スフィールリアは「そんじゃねっ! リスちゃんもちゃんと起こしてあげてねっ」と言い残し、元いた席に駆け戻っていった。

「……あなたよくもまあ、あれだけのコミュニケートを成立させましたわね。早くも教室一の奇人認定されているあの人に」

 呆れた風に頬杖をついているアリーゼルだが、スフィールリアはまったく気にせず笑い返した。

「でも本当はすごくいい子だよ。あたし、最初に会った時からこうしたかったんだ、きっと。なんでか分かんないけど。でも、頑張ってみてよかった」

「……わたしたちも今度、お話できたらいいね。学院って広すぎるし、ひとりぼっちじゃ寂しいもの」

 見ればいまだにミルフィスィーリアは教室最下段の位置からこちらを見上げ、じぃっ……と無垢な眼差しを投げかけ続けてきている。

 表情は相変わらず読み取りづらいが……室内の喧騒から取り残されてこちらを見つめる姿は、広すぎる孤独の中にほのかな温みを見つけた希望を灯しているようにも映る。

「そうだよね。今度フィリアルディも一緒にお話しようよ。お昼とかあたし誘うよっ」

「ふふ、そうだね。お願い」

 まだ多少の人数に注視されているのも気にせず気軽に手を振るスフィールリアと、手を振り返してくるミルフィスィーリア。

「大丈夫なのですかねぇ……」

 そんなふたりを交互に眺め、アリーゼルは、やや惰性じみた息をついた。スフィールリアが隣のふたりと話し始めたためか、ミルフィスィーリアも自分の席に戻って流水のごとき鮮やかな手順で睡眠に入っていた。

「そういえばあなたたち、いつの間にそんなに仲良くなったんですの?」

「仲良くなるのはこれからの予定だけど、昨日の夜にね――あっ! ねぇね。やっぱりあの場所にねぇ、〝お店〟あったんだよ。ミルフィスィーリアだっていたんだから!」

「はぁ? あなたのおっしゃっていた、怪しげな〝お店〟とやらですの?」

「ま、またあの場所にいったの? 夜にっ? だめだよって言ったのに……」

「うんっ。ラァメン食べたの!」

 呆れ顔を見合わせていたふたりの表情が、怪訝なものに変わる。

「らあ……めん……?」

「ラーメンですの? ……あの、〝アイバール・タイジュ〟の? 〝金灼の望郷〟とも言われる珍味の?」

「あ。アリーゼル知ってるんだ? でもなにそれ?」

 アリーゼルは呆れ半分、思い出しの渋面半分という顔を作った。

「むしろあなたが知っていて食べたわけではないんですのね。……知っているもなにも、一部では有名な食べ物ですわよ。〝伝説の勇者〟アイバール・タイジュ=セロリアルが開発して伝えた、彼の故郷にあったという麺料理ですわよ」

「あ……その人は分かるかも。子供のころにわたしが読んだ絵本の中だと、タイクーン・アイバー=セロリアって名前だったけれど」

「だれそれ知らない」

「〝世界樹の騎士〟とも言われる数百年前に実在した英雄ですわよ。地方によってつづりや発音の伝承がいろいろ異なりますの……それもそのはずで、彼の本当のお名前というのは、わたくしたちの世界とは、文字も、発声法も異なる大系によって形成されていたのですわ。ですから呼ぶ人によってまるで音が変わってきますの。と、いう話ですわ」

「うーん? どゆこと?」

「ですから。世界滅亡の危機に際しセロ国へ突如として現れた彼は、神代の国から遣わされた勇者――つまり生まれ育った世界が違っていたんですのよ。文化も、言語も、世界法則さえ異なる場所で彼は生まれ育ち、使命によって遣わされてきたんですの」

「エラい人から出張命令出されちゃったんだ。大変だね。……でも世界の危機ってなんかすごいね。わくわくする。それってなに?」

「子供ですの……その世界の危機とやらがどのようなものだったのかについては、実ははっきりしたことは分かっていませんの。彼のたどった旅路には謎が多かったんですのよ。

 たしかに当時は世界中の至るところで異変が起きていましたし、いくつもの国が滅びていたという文献は残っているのですけども、その全容、原因――〝中核〟とも言うべきものの正体は不明なままなのですわ。ですから伝承や絵本製作を手がけた作家によって、神に反逆する魔王の暴虐であったり、人間の傲慢を濯ぐ神の試練であったり、封印を解かれた〝霧の魔獣〟の影響であったり……描かれる〝救世〟の様子もさまざまですのね。

 ともかくセロ国へと降り立った彼はその後、緋薔薇の剣聖レウエン・グランフィリア、白銀の賢者ウィーグマイル、煌桜洞の秘術廊の鍵守ロ・パロ・トゥルらとともにこの世界を巡り……危機の根源を断ち切ったんですの。

 そして謎多き旅を終えて再び歴史の表舞台に姿を現した彼は、生き残った人々へ、こう言い残したんですの。

 破滅は免れた。世界が今再びなる試練の時を迎えるのならば、私もまた再びあなたたちの下へと現れるであろう。

 ――とね。こんな言葉が残されているから、神代の世界から遣わされた〝勇者〟なんですのよ。彼らがなにと戦い、なにを成したのかははっきりしませんけれど、事実としてそれ以降世界中の異変や災害は収まったようですし。まあ、謎多き英雄ということですわ」

「ふぅん……面白そうだね。で、ラーメンは?」

「ああ……そうそう。で、彼の故郷に存在したという麺料理が、その〝ラーメン〟ですわ。なんでも彼はことあるごとに故郷の実在を周囲の人間に説いていたのだとか。故郷の郷土料理と味の似た料理を絶賛し、自らもまた旅路の中で精力的に故郷の料理の再現を試みていたんですの。それこそ思い出すように、懸命にね……その様子から、別の説では彼は乱世の中で生じた単なる記憶喪失あるいは記憶混濁者だったのではとも言われていますが……ともかく、そんな再現料理の内のひとつが、その〝ラーメン〟ですのよ」

 ちなみに、東方大陸のかつてセロ国が存在していた地にある国の騎士団では、現在でも伝説の英雄にあやかって戦士に力を授ける食べ物として作り続けられている。

 魔を退ける食べ物として扱われることもあり、真っ赤なスープで満たしたラーメンを大通りを練り歩く巨大藁人形へ向けて家中の窓からぶちまける〝ぶっかけどんぶり祭り〟は世界100奇祭のひとつとしてあまりにも有名である(スープを真紅に染め上げるほどの唐辛子を溶かし込んだスープを使って魔を払うのが本来の姿であったが、巻き添えにスープをかぶって病傷人が続出しすぎるので近年では染料が使用されている)。

「へぇ……アリーゼルは食べたことある?」

 アリーゼルは再びなにかを思い出したように、眉を寄せて肯定した。

「ええ……父が珍味好きというか、好事家といいますか。ある日そのレシピを習得しているという料理人を招致して晩餐に供されたんですけれども……あのなんとも言えない独特なスープのクサみとパスタを大げさにふやかしたような麺の食感が…………思い出しただけでまたお腹がもたれそうですわ……」

「え~。下手っぴな人だったんじゃないの?」

「そうであったのかもしれません。ですがこの料理に用いられるスープの風味が独特であるということだけは世界中の美食家共通な定説ですわ。ですから珍味、なんですのよ」

 相変わらず物知りなアリーゼルによって明かされた〝ラーメン〟の意外な奥深さに、スフィールリアは感心した息を吐いていた。あれは、やはり〝いいもの〟だったのだ。

「そっか……でもおいしかったしなぁ。今度ふたりも一緒にきなよ。おじいちゃんに紹介してあげる。珍しそうなもの売ってる時だってあるんだよ?」

「じ、時間が合えばね」

「ラーメン屋さんでない時でお願いいたしますわ。ていうかなんですの。雑貨にラーメンて」

「うーん……分かんないけど。器用な人なんだよきっと」

「暢気な。節操がない、の間違いなんではないかしらね」

「さぁ。それは、あなたたちのことなのではないんですか?」

「?」

 後ろから唐突にかけられた声に、スフィールリアたちは振り返った。

「ごきげんよう。アリーゼル・フォア・フィルディーマイリーズさん」

 そこにいたのは、質素で飾り気のない――しかし一見して上質な仕立てをしていると分かる衣装に身を包んだ少女が立っていた。

「あぁ……そうでしたわね。今日は、今日からは、基礎クラスも〝貴族組〟と合同に行なわれるのでしたわね」

 アリーゼルの含ませぶりな微笑に、少女の方もどこか鼻がかった吐息を返した。感じが悪い。

 見れば教室の後ろからは一様に彼女と同じような雰囲気な衣装をまとった者たちが、続々と入場して、空いていた教室後ろ半分の席へ陣取ってゆく。粛々と。

 この学院に決まった制服というものはないが、学院に入る貴族の女子は、なぜか決まってこうした派手ましくない衣装を持ち込む。旧世紀の伝統にある、修道院に入る貴族女子でもあるまいに……とアリーゼルなどは思うのだが、集団生活において清貧さを主張するのは彼女たちにとってはいつの時代も変わらぬステータスなのらしい(ついでに、仕立てもよさや裏地の柄など見えない部分でファッション性を主張するところも含めてだ)。

 そういえば今日に限って、みんなずいぶんと後ろの席を空けていたよなとスフィールリアは思ったが、あとから聞いた話、今日の日程と先輩諸兄からのアドバイスを受けた〝寮〟の者たちが、暗黙に示し合わせた結果としてこういうことになっていたらしい。

 教室の喧騒が一斉と小声に抑えられてゆく。

〝貴族組〟の彼らはそんな一般性たちに見向きもしない。淡々と教材の準備を行ない、行儀よく隣の者と談笑をしたり、立派な装丁の本を読み始めたりしている。

 まるで、水槽の中で水と油の仕切りがどかされた瞬間みたいな……静かで、意味のない揺らめきだった。どちらが水でどちらが油なのかは知らないが。

 結局、わざわざ〝こちら〟に寄って話しかけようという者は、彼女ひとりだけのようだった。

 そして、目の前の彼女からは、そんな衣装の大人しさにはどこか納まり切らないような気性の強さが感じられた。

 ややブロンドがかった、熱を感じるような金の髪。気立ては悪くなさそうだが、常に吊り上げられ気味に見える眉。双眸。そう。炎ではなく、まるで粛々と焦がれ続ける炭火のような。

「お話はかねがね。<銅>への昇格、おめでとうございます、と言わせてください。大変ですよね。わざわざ無意味に一般生としてご入学されて、いの一番に貴族の権威を知らしめようという使命感。涙ぐましいとしか。ご苦労様です。さすがは、この聖王都に高名を馳せるフィルディーマイリーズ家のご息女であらせられますわ」

「えっ。そうだったのか」

 瞬間、ギッと鋭すぎる眼差しでスフィールリアをひと刺ししてから、アリーゼル。

 席からにっこりと首をかしげて、はるか上に目線を置く少女に返事をした。

「ええ。おかげさまで、〝そちらよりは〟退屈しない日々が送れそうなもので安心していますの。偉大なる姉や兄の助言に、感謝の念を押さえ切れません」

 またも「ふっ」と撥ね返すような息で笑う少女。

 が、しかし、次のアリーゼルの言葉で。

「でも……申し訳ありません。せっかく当家に有り余る賛辞を頂戴いたしましたのに。わたくし、あなたのお顔とお家のことは、とんと存じあげませんの。それとも、いずれか当家の催した立食の席などでお会いしたことでもありましたものか、それすら……すべてわたくしの不届きのいたすところですわ。お恥ずかしいばかりです。なにぶん、いまだロクに社交の場を許される機会も少ない、幼い世間知らずのこと。……笑って、お許しいただけますかしら…………?」

「……」

 チリ……と。笑顔は変わらないまま。両者の間に互いの面の皮を炙るような、熱的衝突を思わせる空気が混じる。

「……。これは大変な失礼を。エイメール・トゥールス・アーシェンハスと申します。以後意味知りおきを。こちらの方こそ不届きをお許しください……なにせ序列七位の大公爵家が一員への最初のごあいさつのこと。万が一にでも、浅ましく道楽に勤しむ平民さん方のついでに名乗りを上げられたのだとでも思われてしまうことを恐れたのです。お許しくださいますか?」

 これにスフィールリアはまたも「えっ」と声を上げた。

「それってひょっとして、あたしたちのこと?」

 エイメールという少女は満面の笑顔に込めた険を少しも治めず、むしろ快活なほどの調子で、

「ええ、もちろんです」

 と、答えた。

「…………」

 どうやら〝標的〟はこちらであったらしいのだと、スフィールリアはようやく気がつく。

「だってそうでしょう? 一番大切な走り始めのこの時期に、暢気にのんびりと、食べ歩きなどと……。世界の様相の守護すらをも担う綴導術師として、その英知の羽を育ててゆくおつもりがあるなどと、到底思えませんね。大半の一般生の方々と、同じように。なにかおかしな点でも?」

「感じわっるいなー……」

 正直に告げるスフィールリアのジト目にも、彼女は退く気配を見せなかったが。

「ええ、大変けっこうなことですよ。正直申し上げて――不愉快なんです。あなたたち市井から勘違いをして入学してくる一般生のほとんどが。わたしたちにとって、迷惑この上ない存在なんです」

「……」

「今日はそのことを、慎ましい同輩たちに代わり、その迷惑筆頭のあなたへはっきりとお伝えしようと思ってはせ参じました次第なんです。どうかたとえギリギリでもこの学院にたどり着くことのできた知能を最大限理解の方向に傾けていただいて、さっさとこの学びの庭からやかましいお足をどけていただけないでしょうか? 王都観光は、この基礎クラスの二週の間に、せいぜい全力を尽くしていただくこととしまして……ね?」

「えっ? 迷惑筆頭あたしがなんで? まっさかぁー。あははっあは、ははは……!」

 これには寝耳に水だという表情を浮かべたスフィールリア。そんな彼女に向け、じっとりと見つめてくるアリーゼル、とことん心配げに口元へ手をやるフィリアルディの姿が……。

「え……。なんで。ふたりともねぇ?」

「あなたは……」

「スフィールリアお願い落ち着いて……あとでゆっくりお話しよう? ね?」

「なんでっ!?」

 短く大きく息を吐いたエイメールが、今度こそ苛立ちを隠さず額へ手をやる。

「これだから……〝力〟にのぼせ上がった勘違いさんというのは。ええそうです。あなたが代表なんです。綴導術のなんたるかを考えもせず、ただ腹いせに無関係であった立場から軽率にその力を振るい、他者を脅かしたあなたがね」

「……」

「掲示板や、この学院そこかしこで行なわれる裏取引などもそう。すべては、無教養から始まり身の丈に合わない〝力〟を欲してがむしゃらに浅ましくその手を聖なる智の梯子にかけんとするあなたたちが。この学院に、綴導術という学問に、退けがたいカオスを根づかせているんです。〝わたしたちだけ〟であったなら、そのようなこと……」

「えーそうなのかなー……」

「あなたに綴導術を伝えたお方のお里も知れるというものです」

「それは否定できない」

「ふっ。ご自分のお師匠様をかばい立てもできないなんてね」

「お前はなにも知らないのだ……」

「どこまでも薄情なんですね。人間関係の薄っぺらさもにじみ出るよう。だから似たもの同士、そうやって寄り添っていられるんですね。浅ましい者同士で」

 スフィールリアの顔に宿っていた摂氏が、一度、冷えた。

「今のって、このふたりのこと?」

「はい。ほかにどう聞こえました?」

「いいね」

「お待ちなさい――」

 静かに立ち上がろうとするスフィールリアの肩を、アリーゼルが押さえて、

「――なっ」

 再び椅子に沈ませた

「おやめなさい。なにする気ですの」

「なにって。言葉で分かり合えない人とはもはや拳で語り合うしかないんだよ」

「あら野蛮なんですね。いいですよ。わたしはなにもいたしませんので、思う存分に暴威を振るってくださいな」

「うん。毎朝あたしの足の指を丹念にいやらしくなめ上げて『スフィールリアさまのお足は王都で一番の美食でございます』ととろけきった顔で言わなきゃ生きていけない身体にしてあげる。夜明けまでに」

「なっ――!」

 これには知らぬフリを決め込んでいた教室中もどよめいた。

 さすがのエイメールもギクリとして後ずさっている。

「あ、あ、あああ、あ、あ、あなっ! あなた! わわわたしにいったいなにをするつもりなんですかっ!?」

「それは、これから。……あたしの部屋で……たっぷりと……!」

 再び立ち上がり。

 ジリ……とにじり寄るスフィールリア。たまらず一歩退くエイメール。

 ざわざわ……。

 ひどいことするつもりなのか……! すべてのカーテンを閉ざし、四肢の自由を奪って!

 ふおぉぉぉぉぉん!

 たまんねぇ……!

 そう、それは身分を越えた愛……倒錯的なまでに、その双丘と愛蜜を、互いに……。

 素敵……スフィールリア様……。

 ざわざわ……ざわざわ……!

 教室の上下問わずに投げかけられる無責任な言葉の数々に、少女の真っ赤な顔面にもすでに涙の粒が浮かんでいた。

「ひひ、卑猥な! ハレンチです! おぞましき邪悪!」

「邪悪じゃないよ。だってね……師匠……直伝……だってすぐに美しい思い出にして、『よかった』って言わせてあげるから……」

「~~~~~~~~ッッ!!」

 ゾワゾワゾワ。と。ゆらりつらり歩み寄るスフィールリア、その、艶かしすぎるほどになめ上げられた唇の照り返しに、人知を超えた〝なにか〟が胸の深奥より沸き立ってきて――

「――はい、そこまでね」

「ひぅっ!?」

 ポンとうしろから置かれた両手の感触に、エイメールが跳ね上がった。

「先、輩」

「エイメール、あなたの負け。引き際くらいはわきまえないとね?」

「……」

 彼女の振り向いた先に現れていたもうひとりが、にこりと微笑んだ。どこか、嫣然と。

 スフィールリアに。

 目を合わせた瞬間、「あ、この人なんとなく苦手かも」と、スフィールリアは直感する。

 明らかにふたつみっつ以上は年上なその人物は、黒髪長身の、女性だった。

 エイメールらと同じく派手めではないがいくぶんか洒落っけのあるワンピースの胸元には、<銀>のネックレスが下がっている。

「不愉快な思いをさせてしまったようでごめんなさいね。でもコレも、毎年のことなの。笑って乗り越えてあげてちょうだいな」

「は、はぁ。……えと。貴族さん? 先輩も? でも、なんで」

「それは、今言った通りかしら。あんまり恒例なものだから、こうして初日はわたしたちみたいな変わり者が、出すぎたトラブルでも起こらないよう教室を見て回ってるのよ。でも、あなたから貴族様? なんて聞かれてしまうと……自信を持って答えることはできなくなってしまいそうだわ。うふふ……」

 しっとりと、見つめてくる。

「えっ? き、恐縮っすね。え、えへへへへ……」

「ええ、本当に。うふふふ……」

「へ、へへへ、へへ……」

 間が保たない。保たせられずにいると、謎の長身美女。ほぅ……と息を漏らして、

「本当……美しいのね……」

 とか言いながら、エイメールの肩を離し、近づいてくるではないか。

(……アリーゼルぅ~、助けてよぅ)

 振り返ると、アリーゼルは肘つきした手に乗せた顔を正面にやったまま、

(あなたが煽ったケンカですのよ。火の粉を飛ばさないでくださいなっ)

 と、にべもない。

「お顔を見せて……」

「ふぇっ? あっ――」

 気がつけば、もう目の前。ほほにひんやりした手を添えられ、近づいてくる顔から背くこともできない状況に――

「本当に、美しい。あなたと比べたらわたくしたちこそ凡庸の極み。王など愚者。女王は雌犬。あなたが貴族……」

 スフィールリアは、これが蛇にに睨まれた蛙かと察知していた。と言いつつ蛇に睨まれて動けなくなった蛙というのも見たことはないのだが、この際それは重要なことではない!

 重要なのは、そう。まさに、そう。これから起ころうとしていること――男の人ともまだなのに――いやでも女同士だしこれは別にいいのか――いやでも公衆の面前だし明日からどうすれば――いやいやいや! じゃあふたりきりの時ならいいのかと言うとそいういう話でもなくてでも別に女性同士ってそんなに悪いことかって言われてもでもそれは普通じゃないって言うのか――

 完全に、わけが分からなくなっていた。

「あなたに会えたこの日、今日が輝かしい記念日……」

(どどっ、どうしよう、あたし、あたしこの人のこと……)

 どんどん近づいてくる。細められる双眸。朱が指した頬。艶かしい吐息。唇の体温が……もう――

(ニガテです!)

 きゅっ! と目を瞑り――!

 ゴホン――!

「……?」

 いつまで経っても訪れないその接触の時。やがて恐る恐る目を開いて横にずらすと……教壇の位置からタウセン・マックヴェル教師が、冷たく鋭い目を向けてきていた。

「授業だが?」

「あら。残念。うふ」

「……!」

 愕然な表情でいるスフィールリアの肩を気楽に引き離し、女は困ったように笑いかけてきた。

「そんなお顔しないでちょうだい。冗談よ。わたくしにはそんな資格はありませんもの?」

「…………」

 なにも言えずどぎまぎしていると、女はぱっと踊るみたいに身を翻して教室の後ろ戸まで駆け上がって、

「それじゃあ、ごめんあそばせ。みなさんの学院生活が善きものでありますよう」

 と扉から出していた半身も引っ込めて……去っていった。どこまでも浮き足立ったステップの足音を、残して。

 ひたすらぽかーんと静まり返る教室のただ中、スフィールリアは机の縁に手をかけ、胸をなで下ろしながら……

「死ぬかと思った……」

「っ……」

 バッと長い髪を翻して席へと戻ってゆくエイメール。

「君もさっさと席につきたまえ。スフィールリア・アーテルロウン君」

 乙女の貞操の危機の重要性も知らないで。相変わらず平常運行な彼にむっすりした表情を送りつつも彼女が座ると、タウセン教師はまったくもってなにごともなかったかのように教壇に手を置き、よく通る声で語りかけ始めた。

 背後の貴族席と前面の一般席から、ともに押さえられた黄色い声がさざめいてゆく。

「本日からは知っての通り一般生と貴族出身の諸君らも基礎の席をともにすることになる。どうせ基礎クラスが明ければそんなものは一切関係がない世界に放り込まれることになるのだ。諸君らも今のような見苦しい騒ぎは、くれぐれも思い立たないように。一年二年後に思い出して顔を赤くすることになるだけだぞ。では授業だ」

 と、いうことになった。

 そして、一時間後……。

 

 スフィールリアはぷりぷりとしながら、金盤に宛がった〝のみ〟に小槌を打ちつけていた。

〝彫金〟項目の授業である。

 さまざまなマジック・アイテムやその部品を作り出す綴導術師が、その製作の過程において関わる分野は多岐に渡る。

 彫金、彫刻、調合、裁縫、成型、溶接……それらひとつひとつを最終的にすべてひとりでこなす綴導術師もおりはしないが、それらの細工にも〝効果〟を付与するためには、それぞれの分野の作業工程を熟知を得た上で特殊な処理をも施さなければならない。

 綴導術、そして魔導具の製作というのは、一般的世間に知られる華やかさからはかけ離れて、地道な、地道な、地道な――ひたすら繰り返される慎重な収斂の果てに完成する芸術品・建造物に等しいものなのだ。

 そういうわけで彼女ら基礎クラスは、まず、そういった最基礎項目となる作業を短い期間の中、すべてひと通りだけでも触れさせられることになるわけである。

「ほんと、なんなの。貴族って……貴族? 貴族様ってみんなあんなんなのかいねぇ。まったく、あのザマときたら……」

 ちらりと振り返る。

 コツ、カツ。コンコンコン……。

 と、黙々として作業音が響き続ける教室内。そこでは、

「た、たたっ、タウセン様っ。ここからどう進めるべきなのか分からないのですがっ――」

「……術式付与のための複層構造を目指しているのかね。だがこれでは土台からダメだ。まずは背伸びをせずだれにでも分かるような形状の細工だけを目指したまえ。だれも買ってくれんぞ」

「タウセン・マックヴェル教師、こちらにもおいでになって――」

「全然、できていない。呼ぶなら評価が可能な段階になってから言うように」

「ずるいですわ。タウセン先生、わたくしの父が今度ぜひ、あなたと――」

「初めてにしては悪いできとは言わないが、申し訳ないね。別段、君のお父上と話をしなければならないようななにかを感じ取れるわけでもない。だが、続けたまえ」

 そして表情ひとつ変えずに次の席の列へと見回りに去っていって……

「「「素敵~~……!」」」

 と、こんな調子なのである。

「ケッ。ヤツの本性をなにも分かっちゃいない。可愛らしいおしめの取れねぇお姫ちゃんどもめが」

「すっ、スフィールリア、お下品だよっ」

「むしろ、これ以上ないくらいあけっぴろげなように見えますけれどね」

「それに、それを言うなら」

 フィリアルディが自分たちの前列方向に目をやれば……

「「「タウセン様~~!」」」

 一般生の女子面々も、彼の気を引こうと一生懸命な様子だった。

 彼が教室前面にいるグラッシュ特別講師にそちらを回ってもらうよう手だけで合図を送ると、なにを勘違いしたか、それだけで「きゃー」とか言って喜んでいる。

 ちなみにグラッシュ特別講師は綴導術師の専属として、彼らの替わりとなって金細工に特殊加工などの下処理を行なうスキルも取得した、国家資格持ちの彫金師だ。タウセンひとりで教室全体を見て回るのは手に余るので、授業進行の補佐役兼、細工に関する講義役として呼ばれている。

 整えられたブラウンで硬質な口ひげが厳めしい職人気質を体言しつつも、実際に生徒へと触れる態度は紳士的な、ナイスガイである。スフィールリアとしては無機質冷淡メガネのタウセンなんかよりはよっぽどポイントが高い。呼ぶならあの人にしようそうしよう。

 ともかく、スフィールリア。歯がゆい気持ちをこらえつつ、がっくしと頭を落としたのだった。

「くっ。で、でもそれだけじゃないもん。ねぇアリーゼル。連中、なんなの?」

「そう言われても見たままだとしか。ま、最初にマックヴェル教師殿はああおっしゃいましたけど……半年か、一年ですわよ。最初のね」

「そうか……ヤツの人気も……一年きり。くくく。いいぞ。それならば待てる。一年待って、しょぼくれたヤツの背中を笑ってやることとしようではないか……」

「そっちじゃなくて」

 アリーゼルのジト目が痛かった。冗談なのに。

「貴族組と一般組の軋轢というものは、たしかにありますわ。温度差というものも。彼女の言葉のすべてがウソでもありませんけど、本当にこの学院が彼女の言う通りの仕組みばかりでできているわけではありません。そのうち、貴族かどうかという枠に囚われたままでは立ちゆかなくなる。そういったことに気づける人と、気づけない人とに、貴族組も分かれるんだそうですの」

「……」

 淡々と、自分の作業だけを進めるままに、アリーゼルは続ける。

「学院にとっても可能な限り在籍を続けようとする貴族は優秀な運営資金の〝提供者〟ですから。たしかに一般生に比べれば査定も甘めに設定されていますし、お金さえ出せば六年期までの在籍までも容易に許されますわ。

 ……でもわたくしたちの目的は、お話しましたわよね? 己が志す綴導術師になること。ただその一点においてのみ、貴族組と一般生の間に差異などというものはありませんわ。

 ですが先に申し上げた〝勘違い〟を召されたグループの方々は、往々にしてご同類の獲得には余念がないものなのですの。そんな方々に少しでも煩わされるのはゴメンでしたし、そうでなかったとしても貴族組というだけで常に授業や査定に対し、目に捉えきれぬ細々とした修正を加えられて温い生活を送るはめになるのが嫌だったんです。だからわたくしは一般生としての門戸をくぐることに決めたんですわ」

「えらいんだね~。アリーゼルはいい子だよなぁ……!」

「ちょっ、頭なでようとしないでくださいましっ。邪魔ですわ。しっし!」

「冗談だよ~。でもアリーゼルは、タウセン様~とか言わないんだね」

「えぇ……? まぁフォマウセン学院長の片腕にしてご自身も偉大なる綴導術師であるマックヴェル教師ですから、敬愛はしていますけれども。そうですわね。彼女たちの抱いているような思慕とは違うのかもですわね」

「むしろなんであんな人気なのか分からん……。ファンクラブまであるんでしょ?」

「そうなんだ?」

「あなたって妙に情報網が偏っていますわよね。……実際、遠方の大陸でも彼のお名前を知らない術師は少ないですし。紛れもない頂点にして気鋭のおひとりですわ。どんなマイナスイメージを抱いてらっしゃるのか存じませんけれど、この学院で高みを目指すのならどうあがいても彼のことは無視できませんわよ? 若手の求心を一身に集めるのも無理ないことかと」

「そうなんだ……それに、格好いいものね。女の子が憧れちゃうのもしかたないかも」

「! だっ、だだだダメだよフィリアルディ!」

 聞いた瞬間、スフィールリアは彼女の肩を掴んでいた。フィリアルディは非常にうろたえる。

「えっ? なにっ?」

「だだだ、ダメなんだよ、フィリアルディみたいなのが一番、引っかかっちゃダメなタイプなんだよ、アレが! あたしには分かる……!」

 スフィールリアには……見えていた。

〝あなたお帰りなさい。今日も腕によりをかけてお夕食作ったのよ〟

〝ああ、いただくよ。……美味いな。評価に値する〟

〝ふふっ……わたし、幸せだわ〟

 数年後――

〝あなたお帰りなさい……疲れているみたいだけど、お風呂は〟

〝すまないが必要ない。明日も早くに出るので朝食は不要だ〟

〝……あの。明日は、あの子の小等部の、〟

〝そうだったな。金は置いてゆくのでなにかおいしいものでも食べてきたまえ〟

 十年後――

〝あなた……あの子が、捕まってしまったの。憲兵から連絡があって。お願い、あの子と話を……〟

〝仕事だ〟

 ――――

〝…………〟

〝出会わなければ、よかった〟

〝…………〟

〝終わりに……しましょう…………〟

 …………。

「じょんなのらめらろよ~~~。タウセン先生あの野郎許じぇないよこの野郎~~~」

「え? へぇっ? あの、ごめんスフィールリア本気でなんだか分かんないよ――」

 大泣きしながらガックンガックンと揺さぶっていたかわいそうなフィリアルディの視線が横にずれ――彼女が、「ひっ」と引きつった声を出す。

 そちらを見ると――

「わたしがどうかしたかね。スフィールリア君」

「……」

 さぁっ……と、スフィールリアの顔から血の気が引いてゆく。見上げた先に轟然とそびえる無機質なハーフリム。彼はそれをクイ、と持ち上げると、

「どれ。見せたまえ。どのような作品だったのか」

「あっ」

 ゴリ、と彼女のこめかみに両拳を宛がい。

「いつでも騒ぎを起こさないと気がすまないのか・ね・君は~~~~~~~~ぁッ!」

「ひわあああああっ!? あぎごがががががっががっ、い、痛い痛いなにこれ信じらんねぇくらいイ、イテェ~~~~~~~~~~…………!?」

 たっぷり十秒間の時がすぎ……。

 ビクンビクンと冗談ではなく痙攣しながら、スフィールリアは机に突っ伏していた。

 ざわ――

 なんてうらやましい――――!!

「う、ぅぅうぐう。うらやましくねぇよぅ……うっうっ……」

「その通りだ。では君たちの作品を見ようか」

 そう言ってタウセン。まずはアリーゼルの金細工を手に取った。

「ほう? 〝癒しの女神〟ステイラの仮面だね。すでに二次術式回路までの複層織り込みもすんでいるのか」

「ええ。お仕事に用意するつもりでしたので、練習がてらにと。ですがこのまま送ってもよさそうなできになりそうですので、これは買い上げさせていただいてもよろしいでしょうか、マックヴェル教師?」

「かまわないよ。帰りに事務へ寄ってゆくといい。素材代だけでいい。Aランクの品の素材品を見ることになるとは思わなかった」

 品を返し、ボードへなにごとか短く書きつけるタウセン。次はフィリアルディへ断りを入れ、その品を取る。

 続いて、笑う。悪意のあるものではない。

「クマか。デフォルメの」

「あっ……は、はい。昔から粘土で、弟たちによく作ってあげていて、形として慣れていたので。……まずは、ちゃんと分かるように作ろうかと」

 恥ずかしそうに顔を赤らめる彼女に、タウセンはむしろ満足げにうなづいた。

「いや、むしろ、これでいいのだ。たとえ時間がかかったり部分だけであっても、ていねいに仕事に向かうことが今は大事だ。どうせ必要に迫られればスキルや生産性は身につけなければならなくなる。しかし手を抜くことは論外だ。かわいくできているのじゃないかな」

 と評価し、ボードへ記入。フィリアルディがほっと胸をなで下ろす。

 そして、スフィールリアの前へと視線を移し……

「……」

 スフィールリアは涙の残る瞳をキランと輝かせ、「さぁ早く褒めろ」と無言のサインを送った。

「……」

 タウセンは、ポケットからハンカチを取り出して自分の指先を保護してから〝ソレ〟を手に取ろうとして――

 直前で、やっぱりやめた。

「これは、なにかね」

「にゃんこちゃんです!」

 沈黙が、三秒。

 タウセンは意を決した風に〝ソレ〟を手に取った。

「顔が四つあるように見えるのだが」

「え……違っ。それは四匹並んだにゃんこちゃんであの」

「グラッシュ先生。ちょっとこちらへ。これを」

「これは――!?」

「…………」

 ひそひそ。

 興味深い。これは南方エングダグラニュマ古代部族の邪神・カールマイルーかね――

 四つの頭と、四本の足に十ずつの爪を有する魔獣です。ご覧ください、この部分――

 これは……もしかして文献からも失われた彼らの呪術の最秘奥についての隠喩表現的装飾では――

 斬新な解釈と言わざるを得ません――

 しっ! 静かに。耳を近づけてみたまえ! 〝呪波〟の生成に成功しておる――!

「………………」

 しばしして、彼女に向き直ったタウセン教師。

「故郷を捨て、国を追われ、邪黒師を志すつもりはあるかね」

「ないですけど」

「では、評価Eだ」

「えぇっ!? なんか今の絶賛してるっぽい流れでなんでなんです!?」

「評価……E……と」

「あーーっ、なに書いてるんです。チクり帳ですかソレ!」

「純粋な評価表だ」

「ぐぬぬ……」

「これは浄化処理をした上で処分しなければならない。手間賃くらいは請求させてもらうのでポストは見ておくように」

 と言って、ハンカチに包んだ〝ソレ〟をポケットに落とした。

「そ、そんな~」

 がっくしと肩を落としたスフィールリアにはまったく頓着を見せようともせず、去ってゆこうとするタウセン教師。

 ふと戻ってきて、

「スフィールリア君」

「……ぐすっ。なんです?」

「教師のことはなるべく、ファーストの方では呼ばないよう気をつけた方がいい。わたしはまだいいが、失礼だと受け取る先生もいるからな」

「……。じゃあ先生もあたしのこと、アーテルロウン君って呼んでくださいよ。不公平でズルい」

 微妙に、ばつが悪そうなしぐさでこめかみへ指をやるタウセン教師。

「……いや。その、だな。わたしとしては、なるべくなら君のことはスフィールリア君と呼びたいのだ」

「はい?」

「だから君も、わたしに関しては今まで通りでいい」

「いやー、ちょっと申し訳ないんですけどあたしとしてはもうちょっと愛想がある人の方がというかタウセン先生も決してお顔とか収入面とか悪いセンということではないんですがちょっとお気持ちはうれしいんですけどはい」

 タウセンは疲れたように肩を落とした。

「なんの話をしているんだ。……そのだな。君の持つアーテルロウンという名は、わたしにとってしてみれば、この世でもっとも敬愛すべき綴導術師たちの、そう。称号、にも等しいものなのだ。憧れにも近い絆なのだ」

「……」

「だからだな、君をその名前で呼ぶというのは微妙に抵抗があるというのか、君がその系譜にある人物であること自体を否定しようというのではないが」

「……」

「……」

 言葉を止める。

 タウセンが語るほど、スフィールリアは例の「ニャンマリ」顔になっていっていた。ニャンマリしつつ、あごも上げ「フフン」という得意げな顔になっていた。

 スフィールリアが次の要求を告げる前に、タウセンはすばやく彼女のこめかみに拳を宛がった。

「分かった・か・ね!」

「ひわががががががっがあぎゃぎゃ分かりまひただだっだだだ!?」

「まったく……」

 うらやましい、ねたましい――

 あの子タウセン様とどんな関係――?

 ため息を吐きながら教壇側に去ってゆくタウセンの背中を、スフィールリアは冗談抜きであふれ出る涙ごしに睨みつけていた。痛くて泣くなんて本当、何年ぶりだろうか。

「じゃあだれか替わってみろよぅ……うう。踏んだり蹴ったりだよぉ~」

「ダメだよ……心配してくれてるのにあんな態度取っちゃ」

「わたくし、今、分かりましたの」

「……ふぇ? なにが?」

 ジロリと、隣席から視線だけで見下ろしてきて、

「踏んだり蹴ったりというお言葉は、まさしくそのまんまなのだなと。ほかならぬご本人が踏んだり、蹴っ飛ばしたりしている様なのですわね」

「うう……」

「細工道具の扱いも補習内容に追加ですわね。有意義な授業でしたわ」

「ううううううう……!」

 だいたいこんな感じでスタートを切った、スフィールリアの学院生活なのだった。

 

「……ミルスフィーリア君。手が早いのはいいが起きたまえ。あとは君だけだ。コレは、なになのかね?」

「……。超新星爆発を、」

「……ほう?」

「……花にたとえ、」

「……なに?」

「……形而上学的減算を加えた上で、」

「……待ちたまえ」

「……前述までのインスピレーションをすべてかなぐり捨て、」

「なんだと……」

「…………」

「寝るな」

 

 

 

 


 
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