No.594361

フェイタルルーラー 第十三話・闇の萌芽

創作神話を元にした、ダークファンタジー小説です。死体表現、流血・グロ描写あり。17710字。

あらすじ・クルゴスはリザルの中にあるヤドリギを侵食させるために、その手を汚させようと画策する。
一度は神殿遺跡を脱出したエレナスだが、リザルを助けるために再度神殿へと向かう。
第十二話http://www.tinami.com/view/590137

2013-07-04 20:57:37 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:482   閲覧ユーザー数:482

一 ・ 闇の萌芽

 

 クルゴスが初めてリザルに会ったのは、花のほころぶ春先だった。

 ようやく歩き始めた小さな王子は、宝石のようなスミレ色の瞳をきらきらと輝かせ、跪く彼を見上げてにっこりと微笑んだ。

 

 妻を持たず子もいないクルゴスには、幼い王子は太陽のように眩しい存在だった。

 二年後にフラスニエルが生まれてからは王位継承権を譲ったものの、リザルはクルゴスにとってはかけがえのない大切なものとなった。

 

「小さな我が君」

 

 クルゴスは人知れず、リザルをそう呼んだ。

 だが彼は人間であった頃の眩しい記憶、優しい思い出を、自らの望みのために全て打ち捨てた。

 

 

 

 未明の神殿遺跡で、リザルとアグラールは再び対峙した。

 王都ブラムで遺体を確認出来なかった時から、いずれこの日が来るだろうとリザルは思っていたが、あの時とは比べ物にならないほどアグラールは恐ろしい敵となっていた。

 

 護りたいものも無く、とめどなく溢れ出る狂気は、ただ眼前の敵を殺す事しか考えていない。

 何も持たないと思い込んでいる人間ほど、恐ろしいものはない。たったひとつの命さえ、手放さない理由がないからだ。

 こうなってしまった以上、殺すか殺されるかしか道は残っていない。彼自身、軍に属する時に覚悟は決めている。生きるか死ぬか。この世はこの二つだけで明確に構成されているのだから。

 

 闇雲に斬り掛かって来るアグラールの刃を躱しながら、リザルはちらりと後方を振り向いた。

 幸いにもエレナスは二人を護りつつ後退しているように見える。だがその心配を余裕と取られ、怒り狂ったアグラールへ更に油を注ぐ結果となった。

 

「貴様! この私をバカにしているのか! 私は……私はこんな所で終わる人間じゃない!」

 

 アグラールがいきり立てば立つほど、リザルの心は冷静になっていく。

 先ほど打ち込まれた矢尻はもう痛みもない。だがそれと同時に体の奥底が冷え、生きる力が失われていくように感じる。

 どうしてアグラールはこんなものを望んだのだろうか。誰かに選ばれる事で特別になれる訳ではない。誰かのために特別であろうとしなければ何も得られはしない。

 そう思い至り、底冷えする心に彼は死の影を意識した。こんなにも死を近しく感じたのはいつ以来だろう。自分は遠からず死ぬのだ。そう思うと、それまでどこかに潜んでいた生存本能が生きろと鎌首をもたげ始めた。

 

「まだ……死ねない」

 

 跡が残りそうなほど柄を握り締め、リザルはアグラールへ向き直った。

 相手の武器はナイフだ。接近さえ許さなければ勝てる可能性は十分にある。

 

「無様だな。やはりお前は選ばれるべきじゃなかったんだ。お前を殺し八つ裂きにして、体内から矢尻を引きずり出してやる!」

「やれるものならやってみろ。お前がオレを殺せると言うならな」

 

 リザルの挑発に、アグラールは雄たけびを上げて突進した。

 相手が激昂すればするほど、癖を知れば知るほど、攻撃を読みやすくなる。攻撃を仕掛けたくなる位置に体勢をずらすと素直に刃を向けるアグラールを見て、ほぼ手の内を知り尽くしたとリザルは感じた。

 その反面、躱すだけで攻撃を加えて来ないリザルに対し、アグラールは更に苛立ちを募らせた。

 

「ふざけるな! かかってこい! 俺を無視するな!」

 

 余裕の無いアグラールの怒声を合図に、リザルは駆け出した。

 急に接近され、アグラールは意表をつかれ立ち止まる。だがリザルの武器は軍刀であり、ナイフが届く距離には入って来ないはずだ。必ず攻撃範囲外で足を止めるだろうとアグラールは高をくくった。

 

 その思い込みがアグラールの運命を決定付けた。

 少しでも切っ先を向ければ、肉に刃が到達するぎりぎりまでリザルは踏み込んだ。そして左手でナイフを叩き落し、勢いを乗せたまま右肘で顎に重い一撃を加える。

 

 格闘技術に心得がなければ、顎が人体において弱点のひとつだと知っている者は少ない。ましてや互いに武器を取っての戦闘に、格闘を織り交ぜてくるなど誰が予想するだろうか。

 受身が取れなかったアグラールは頭部から吹き飛び、そのまま床に崩れ落ちた。脳震盪を起こしているのか意識は朦朧とし、声すら上げる気配が無い。

 

「アグラール、お前の身柄はしかるべき所に預ける。これまでの罪を、洗いざらい吐いてもらわないとならないからな」

「……それは困りますな、リザル様」

 

 アグラールに投げかけた言葉を背後から返され、リザルは驚き振り向いた。果たしてそこには声の主、代行者となったクルゴスがいた。

 不健康そうな骨ばった顔はそのままに、人間離れした真っ黒な眼窩には青い炎がおぼろげに灯っている。

 

「その者をどこぞに引き渡されては困りまする。この場で殺して頂かなくては」

「何故殺す必要がある? こいつは教団最後の生き証人だ。ダルダンなりレニレウスなりに引き渡せば、それで丸く収まる。無駄な血を流さずに済むんだ」

「そうもいかぬ事情があるのです、我が王」

 

 言葉の意味を理解出来ず、リザルはクルゴスを見つめた。

 

「あなた様が殺したくないとおっしゃるのであれば、そうしたくなるように仕向けるだけにございます。たとえば、このように」

 

 クルゴスが手にした青銅の杖を振り下ろすと、アグラールの全身に炎が奔った。

 それも瞬時に焼き尽くし、消し炭にする業火ではない。じわじわとくすぶり、嬲り殺すための炎だ。

 逃げる事すら叶わないアグラールには、文字通り地獄の業火にも等しい。苦痛に絶叫しながら身を焼く煙を吸い込み、苦しそうに転げ回った。

 

「古来より異端は火刑と相場が決まっておりまする。あの炎はもう誰にも消せませぬ故、温情を下賜されるのであれば、止めを」

 

 眉ひとつ動かさないクルゴスの言葉にリザルは絶句した。くすぶる煙の中からは途切れぬ悲鳴が聞こえるだけだ。

 

「どうして……どうしてこんな」

 

 苦しそうにもがくアグラールを見ていられず、リザルは震える手でナイフを拾い上げた。

 敵とはいえ、安楽死させてやるのが最善の道だ。そんな事は分かっている。だがこれがクルゴスによって仕組まれた状況である事も理解している。

 やりきれない苛立ちに、リザルはクルゴスを睨み付けた。

 

「あなた様はまだ、その手で人を殺めた経験が無いと存じますが、命を奪うとは人が人たる所以であり、原初に約束された大いなる行為。恐れる事など何もございません」

 

 クルゴスの放つ恐るべき論理に彼はおぞけ立った。だが今はそれよりも、目の前でのた打ち回る哀れな男を解放してやりたいとリザルは思った。

 一体何が悪かったのか。生まれた時が、場所が、環境が悪かったのか。アグラールの事は何も知らないが、本来であれば家族に愛されて育ち、妻を娶り、子を成して静かに老いていく。そんな人生もあったはずだ。

 アグラールの傍に膝をつきながら、リザルはぽつりと呟いた。

 

「今、楽にしてやる。あの世で会おう」

 

 すでに意識が無いのか、アグラールは溺れる魚のように口をぱくぱくさせた。彼の首筋にナイフを当てると仕損じないよう注意を払い、柔らかい肉を切り裂く。

 生暖かい血飛沫を頭から被り、ナイフを手にしたままリザルはゆらりと立ち上がった。虚ろな瞳は何も映さず、ただ幽鬼のように立ち尽くすだけだ。

 

「……これで満足か、クルゴス」

 

 動かなくなったアグラールの横で放心したまま呟くリザルに、クルゴスはにやりと微笑んだ。

 

「上出来にございまする。これでヤドリギも首尾よく芽吹くはず」

 

 クルゴスの言葉が届いていないのか、リザルはただ俯きナイフを握り締める。

 目的のために手段を選ばないクルゴスに、彼は心底嫌悪を抱いた。遠い昔リザルが子供だった頃、クルゴスは実の祖父のように優しい笑顔を見せていた。

 それらは幻想ではなかったはずだ。だが今となっては、何が真実だったかなど分かる訳もない。

 

「許さない」

 

 リザルは静かに呟いた。目には光が戻り、次第にそれは強い感情に支配されていく。

 

「……人の命を弄ぶお前を、オレは許さない」

 

 リザルは怒りと悲しみに燃えた目をクルゴスへ向けた。

 ぎらぎらと輝くスミレ色の瞳に、何故か懐かしい小さな王子の微笑みを、クルゴスは思い出した。

二 ・ 翻る蒼

 

 リザルは死ぬ気だ。エレナスにはそれがよく分かっていた。

 だからこそ、彼が命がけで救ったセレスを護り切らなければならない。

 

 前方を見やれば、無数の獣人たちが扉前にひしめき合っている。自分一人ならどうにでもなるが、こちらには未だ意識の無いセレスと、歩くのがやっとのノアがいる。

 彼らを護りながら突破するしか道は無いだろう。命を救うために命を奪う。そうしなければ生を諦めた者から死んでいくのだ。

 この神殿自体が、蟲毒の器なのだとクルゴスは言った。ならば生き残るしかない。

 

 セレスをそっと降ろし、エレナスは剣を抜いた。戦いながら離脱するのは難しい。少しでも敵の数を減らし、安全を確保しながら後退するのが最善だろうと彼は考えた。

 今や巨木をぐるりと囲んでいた獣人のほとんどがこの場へ集結している。獣人たちは狼を思わせる頭部から真っ赤な舌を見せ、汚れた唾液をだらだらとこぼした。

 

 包囲されるのは得策ではない。エレナスはそう思い二人を壁際に押し込んだ。扉まであと少し。一角を崩せば辿り着ける距離だ。

 左右から飛びかかってくる獣人を斬り払いながら、エレナスはこの場面に既視感を覚えた。

 セレスを護り、死人たちと戦っていたあの時の光景。翻る蒼。輝く軌跡。敵をなぎ払うまばゆい斬撃が今、眼前に見えた気がした。

 

 その瞬間、彼らを取り囲んでいた獣人たちの首が一斉に床へ転がり落ちた。

 動きの止まった体躯は血液をほとばしらせながら次々に倒れ、大きな地鳴りとなって響き渡る。

 

 視界の開けたそこにはひとつの大きな影があった。

 しなやかに揺れる銀の尾。月光にはためく蒼い衣装は、あの時と何ひとつ変わりない。血に濡れた巨大な太刀が床に散らばる白骨を舐め、鮮やかな血溜りを作り出している。

 

「ソウ……?」

 

 エレナスの呟きに影は答えず揺らめくだけだ。それは蒼い衣装を翻すと、太刀を握ったまま巨木目掛けて走り出した。その先にはリザルと代行者たちがいるはずだ。

 アグラールと対峙しているであろうリザルを探すと、黒煙が立ち上っているのが見えた。その横に立ち尽くすのはリザルとクルゴスだ。

 その二人が一体何をしているのかは、エレナスの目をもってしても分からない。

 

 行くべきなのか。それとも退くべきなのか。

 一瞬の逡巡を振り切って、エレナスはセレスとノアを伴って扉を開けた。すでに篝火は燃え尽き、石造りの廊下はただ暗黒だけを包容している。

 これだけ暗ければ、たとえ獣人が襲って来ても暗視能力のあるエレナスにとって不利ではない。今はセレスとノアの安全を図り、二人をここから遠ざけるのが先決なのだ。

 

「すぐに戻るから……待っていてくれ」

 

 二人を抱えたまま呟き、エレナスは暗闇満ちる廊下へと消えていった。

 

 

 

 ナイフの刃をクルゴスに向けたまま、リザルは動けなくなっていた。

 その手をアグラールの血で染めてから、痛みの消えていた背中に強烈な熱を感じた。それは生き物のように熱く脈打ちながら、底冷えする恐怖を体内に撒き散らしている。

 植物が水を吸い上げて成長するように、打ち込まれたヤドリギは返り血を吸って成長しているのかも知れない。そう思い至るとリザルは恐ろしくなり胸を押さえた。

 

 ヤドリギの成長を促すためにアグラールを殺させたのなら、クルゴスがリザルに対して更なる殺戮を要求しない訳が無い。そうしていくうちに魂を食われ、成長したヤドリギに肉体を支配されてしまうのだろうか。

 リザルの恐怖心に気付いたのか、クルゴスは不気味な猫なで声で話し掛けた。

 

「怯えずとも良いのです、リザル様。あなた様は奇しくも依り代として選ばれた方。姿かたちを持たぬ意識体である深淵の神を、その御身で顕現する存在なのです」

「意識体の顕現……。その神とやらに体をくれてやれと言うのか? オレに人身御供にでもなれと?」

 

 普段ならそんな話があるかと一笑に付すところだが、代行者の存在や獣人などを見せつけられては信じるしかない。

 

「神の魂が込められたヤドリギを宿したあなた様には、もっともっと血を浴びて頂かなくてはなりませぬ。ちょうど今、王都ブラムに同盟の軍が集結している模様。これは楽しみでございますな」

 

 クルゴスの意味ありげな微笑みにリザルはぞっとした。

 

「戦場であれば、どれだけ殺そうが、どれだけ血を浴びようが誰も何も言いますまい。そうする事でこの大陸は乱れ、我が望みも叶えられようというもの」

「クルゴス……こんな真似までして、王家を裏切って、お前の望みは一体何なんだ!」

 

 リザルの言葉にも顔色ひとつ変えず、クルゴスは不気味に言い放った。

 

「それは申せませぬ。我が望みを知るのは今の主、シェイルード様だけ。我ら代行者の望みはそのまま消滅条件へ繋がります故、お教えする訳には参りませぬ」

 

 その時、大広間の入り口付近で大きな音がした。

 見れば山のように集まった獣人たちが一斉に倒れ、その一帯が血の海になっている。その中にゆらりと立つ蒼い影は、太刀の血糊を振り払うとこちらへと向かって来る。

 クルゴスもそれをちらりと見やると、まるで知っていたかのように呟いた。

 

「来たか『狂』。だがこのわしの敵ではない。返り討ちにしてくれるわ」

 

 骸骨の双眸はめらめらと燃え上がり、懐から鏡のように輝く銀盤を取り出すと不敵に嗤った。

三 ・ 『狂』対『執』

 

 リザルとクルゴスの前に現れた男――ソウは血まみれの太刀を引っ提げ、ゆらりと幻燈のように立ち尽くした。

 傷を負い臥せっていた頃とは明らかに異なる。リザルはそう思った。身の丈はそれほど変わらないというのに、今は彼が恐ろしく巨大に見える。それはまるで人が得体の知れない闇に恐怖するのにも似ていた。

 ソウの様子に銀盤を抱えたクルゴスは楽しげに微笑み、値踏みするようにソウを見やった。

 

「ようやく来たのか『狂』。お前の行動は我が銀盤に映り込んでおったわ。よりにもよってあの『罪』めに加担するとは許しがたい」

「許せぬと言うならどうするのだ。こちらとて子供に危害を加えようとした貴様らが許せる訳ではない」

 

 抜き身を構えるソウに、クルゴスは不気味に笑った。

 懐から術符を二枚引き出すとそれを放り上げ、鬼神たちの名を呼ばわる。

 

「来るが良い。タケハヤ。ツクヨミ」

 

 宙に舞う小さな紙切れは名を与えられた刹那輝き、まばゆい光の柱となって大地を打った。

 そこにあるのは人の数倍はあろうかという巨大な二体の人形だ。豪腕を振りかざし猛々しいタケハヤとは対照的に、三日月の冠から艶やかな長い髪を垂らし、金の弓はずに弦を張った弓を携えるツクヨミは、貴公子然といった風格だ。

 

「タケハヤ。ツクヨミ。『狂』を斃せ。それが終わったらリザル様を連れて山岳遺跡へ戻る」

 

 見た事も無い異様な人形たちにリザルは驚き後ずさった。だがソウは驚く様子も無く淡々と人形を見上げた。

 

「夜万斗の神々の影を使役しているのか? こんな真似が出来るのは、夜万斗の民以外にはあり得ない。我が同郷とは思えない悪逆振りだな」

「抜かせ。『罪』めに加担した事を後悔させてやるわ」

 

 クルゴスの命令と共に、タケハヤがソウへ襲い掛かる。ツクヨミは後方に待機し、黄金の弓に矢をつがえた。クルゴスはそのさらに後方に陣取り、薄気味悪い笑みをにたにたと浮かべている。

 振り上げられたタケハヤの重く鈍い一撃が、白骨にまみれた床を砕き飛ばした。もうもうと立ち込める土煙が視界を奪う中、鋭い空圧が一閃し真っ白い世界を切り裂いていく。

 

 ――瞬間。

 

 追撃のために拳を振り上げていたタケハヤは胴から真っ二つに裂かれ、轟音を立てて床へと落ちた。

 すかさずツクヨミが矢を放つが、土煙を射抜いただけでソウの姿を捉える事は出来なかった。

 

「この程度ではやはり斃せぬようだな。だがお前ではわしには勝てん。時間が経てば経つほど不利になるからな。お前も分かっているのだろう『狂』よ」

 

 リザルの目には、ソウの方が遥かに有利に見えた。

 巨大なタケハヤを一太刀で斬り倒し、ツクヨミの放つ矢さえ当たる気配が無い。接近を許せばクルゴスとて無事では済まないだろう。

 ソウに目を移すと、すでにツクヨミへと迫っているのが見えた。すでに勝敗は決している。

 

 一刀のもとにツクヨミをも屠ったソウは、クルゴスへとその刃を向けた。

 だがクルゴスは顔色を変えるどころか、不気味な笑みを絶やそうとはしない。

 

「気をつけろ! そいつは何かを隠している」

 

 リザルは得体の知れない不安を感じてソウに叫んだ。

 何かある。余裕を見せる骸骨の表情からは、背筋も凍るほどの凶悪な含み笑いがこぼれているのだ。

 

 放たれる鋭い刃はツクヨミとクルゴスを巻き込み、その軌跡はまばゆい弧を描いて炸裂した。打ち下ろされる斬撃が石床を破壊し、砕け散る破片が爆発のように周囲に飛散する。

 リザルは咄嗟に物陰に伏せてそれをやり過ごしたが、辺りは砂礫で遮られ物音ひとつ聞こえて来ない。

 

 不気味な静けさに彼はひたすら気配を探った。

 聞こえる音と言えば自分の鼓動と呼吸音だけで、足音すらまるで無い。

 視界を奪われる直前に見えたのは、斬り倒されるツクヨミと何かを抱えているクルゴスだ。骨ばった腕に抱えられていたぎらりと光るもの。それは銀盤に他ならない。

 

 嫌な予感がする。

 砂礫が舞い落ち視界が開けると、リザルは物陰から様子を窺った。

 遠目に見えるのは、転がるツクヨミの残骸と倒れている何者かだった。そしてそれに歩み寄る影がひとつ。クルゴスだ。

 倒れているソウは身じろぎひとつしない。死んだのか失神しているのかすら把握出来ないが、ひとつだけ分かるのはクルゴスが止めを刺そうとしているという事だ。

 見ればクルゴスの手にはツクヨミの矢が握られている。それを倒れこんだソウに振りかざし彼は嗤った。

 

「我が王器・銀盤は全ての刃、術を反射する。その程度の知識も無くこの『執』に挑もうとは片腹痛い。死んで砂塵の仲間入りでもするがいいわ」

「やめろ!」

 

 リザルは咄嗟に物陰から飛び出した。

 王都の病室にいたソウが何故今ここにいるのか、何故代行者となっているかなど分からない。だが息子セレスの恩人をむざむざと殺させるわけにはいかないのだ。

 リザルの言葉にクルゴスはゆっくりと振り向いた。その双眸は変わらず不気味な炎を灯している。

 

「リザル様、そのような所においででございましたか。今『狂』の息の根を止めます故、すぐに参りましょう」

「行くってどこへだ」

「我が主シェイルード様の居城にございます。人など辿り着けもしない巌の果て。王都の兵どもを血祭りに上げるのは、その後でも遅くはありませぬ」

 

 クルゴスの青い双眸がうねり、嬉しそうに微笑む。

 

「あなた様の手で大陸を破壊出来ると思うと、このクルゴス大いに胸が高まりまする」

 

 響き渡る笑い声にリザルは立ちすくんだ。狂っている。クルゴスは一体何を言っているのか。そして何をさせようとしているのか。

 笑いながらクルゴスが矢を握り込み、倒れたままのソウへ振り下ろすのが見えた。

 

 

 

 神殿遺跡を後にし、南に少し下った巨岩の陰にエレナスは膝をついた。

 人間の目では目視出来ない暗闇に紛れ、追っ手にも気付かれないまま彼らは安全な場所へ辿り着けた。国境を越えるまでは絶対に安全とは言い切れないが、元より全ての教団員を大広間に集めていたのか、神殿内に人の気配はまるで無かった。

 

 居並ぶ巨岩の陰にセレスとノアを降ろし、エレナスは抜き身を確かめた。仄かに光る刃は傷ひとつ無く淡い色を発している。

 見上げれば月が傾き、夜明けが遠くない事を指し示していた。今から神殿へ引き返せば、陽が昇り切る前にこの巨岩へ戻って来れるだろう。

 未だ目覚めないセレスをノアに託し、彼は立ち上がった。

 

「神殿へ戻ってリザルを探してくる。こんな状況で君たちを置いて行くのは忍びないけど……セレスを頼む」

 

 エレナスの言葉に、ようやく覚醒を始めたノアは気丈な微笑みを返した。

 

「あたしはこう見えても軍人なのよ。自分の身くらい護れるし、セレスだって護ってみせる。だから心配しないで」

 

 そう笑いかける彼女に、湧き上がる暖かい感情をエレナスは感じた。

 岩陰を後にしようとすると背後から声が掛かり、彼は振り向いた。

 

「……助けに来てくれてありがとう。あなたが来てくれて、嬉しかった」

 

 ノアはそれだけ言うと、武運をと呟き微笑んだ。

 後ろ髪を引かれる思いを必死に断ち切り、エレナスは神殿遺跡へと向かった。星はまだ輝き続け、彼の行く先を照らし出した。

 

 

 

 ソウに振り下ろされた矢は途中で止まった。

 正確に言えば、途中でクルゴスの腕が止められた。骨ばった老人の腕を掴み制止しているのは、他でもないソウ自身だ。一時的に気を失っていたのか、クルゴスの腕を掴んだまま身を起こすと、銀盤へ手を伸ばした。

 

「ふん、まだ息があったか。だがそろそろ時間が無いぞ『狂』。意識を保てるのもあと僅かであろうが」

 

 クルゴスは老人とは思えぬ素早さで身を翻し、銀盤を抱えたままソウを睨み嘲った。

 

「意識を手放し完全に『狂』が乗り移った状態では、反射を避ける事すら出来まい。どの道お前はわしには勝てぬわ」

 

 余裕の表情で銀盤を弄ぶクルゴスに、ソウは立ち上がり太刀を構えた。

 だが無闇に斬り掛かっても、銀盤に反射されるだけだ。現にソウの左肩には初撃を反射された傷痕が残っている。咄嗟に避けたために軽微で済み再生出来たものの、直撃を受けていたら肉体が四散していただろう。

 反射を避けるには銀盤の裏側に回り込むしかない。だがそうするにはクルゴスの気を逸らす必要がある。

 

 クルゴスは背後に意識を失ったリザルを置き、銀盤の反射角には入らないよう気を遣っている。何らかの方法によってクルゴスを振り向かせる事が出来れば、攻撃の反射を一瞬ためらうはずだ。

 ただこの状態で、どうやって背後を振り向かせられるだろうか。仮にリザルが大きな物音を立てても驚きはすまい。もっと想定外の何かが必要だ。

 早く倒さなければ。『狂』の膨れ上がった集合意識は、すぐそこに迫っている。体の奥底から目を覚まし、蛇のように鎌首をもたげているのに気付き、ソウは焦った。

 

 不意に遠くから物音がした。

 ソウはクルゴスに気付かれぬよう音の方向に目をやり、それの正体を探った。

 音は大広間の扉方向から聞こえて来た。そこに何かがいるのは確かだ。ゆっくりと開かれる扉からは、仄かな青白い灯火が見える。やがてそれは少年の影を伴い内部へと姿を現した。

 

「エレナス……!」

 

 ソウは少年の姿を認め、小さく呟いた。

 何故戻って来たのか。恐らくはリザルを救出するためなのだろうが、危険にも程がある。

 だが考え方を変えれば、彼がリザルを連れ出せるのなら、『狂』の暴走が始まっても彼らに危害を加える心配は無い。

 

 そう思い立ち、エレナスが動きやすいよう、ソウはクルゴスをその場から引き離す事にした。

 銀盤を叩き落すように一撃を加え、さも裏側に回り込もうとしているように見せかける。神器と同硬質の王器に傷が付く訳でもなく、銀盤はただ硬い金属音を跳ね返すだけだ。

 

「どうした『狂』。もう打つ手無しか? 我が銀盤の前では、お前の能力も生かせまい。代行者きっての戦闘力が聞いて呆れるわ」

 

 クルゴスはソウの思惑にまるで気付かず嘲り笑った。裏側に回り込む様子を見せながら遠ざかると、嘲笑を上げながら追いかけて来る。

 ソウがちらりとエレナスへ目をやると、彼はすでにリザルの近くへ寄っていた。ソウの中で勝機が確信へと変わる。

 

「見ろ、『執』。リザルが逃げるぞ。お前たちが何を企んでいるか知らんが、もう終わりだ」

 

 ソウの言葉にクルゴスは一瞬、背後を振り返った。

 その虚を衝いてソウは一気に間合いを詰め、銀盤を叩き落した。視線を戻す間を与えず太刀を振りかぶり、肩を目掛けて斬り落とす。

 

 鈍い手ごたえがあった。

 クルゴスは刃を袈裟懸けに食らい、銀盤を拾う間も無く床へ沈んだ。

 だがソウもすでに限界近く、意識をどす黒い何かが覆い始めた。一度意識を手放したらどうなるか分からない。どす黒い集合意識たちは血を求め、殺戮を求めてソウの体を支配しようと蠢いている。

 声を上げて駆け寄ろうとするエレナスが視界に入り、ソウは必死にそれを制止した。

 

「来るな! 『狂』の意識を抑えきれない。早く行くんだ、早く。ここから離れないとお前たちが危ない」

 

 ソウの異変にエレナスも何かを悟ったのか、リザルを伴い足早に大広間を後にする。

 二人の姿が見えなくなった頃、ソウは苦しげに膝を折った。意識が黒に染め上げられていく。憎悪、恐怖、憤怒、慟哭。様々な感情が入り乱れ、ソウは完全に自我と意識を手放した。

 途切れた意識の深淵に沈む直前、笑う誰かが見えた気がした。

四 ・ ブラム奪回戦・前夜

 

 セレスとノアを岩陰に隠し向かった神殿で、エレナスは対峙するソウとクルゴスを見た。

 クルゴスの背後にはリザルが倒れており、助けようにもクルゴスの位置が悪かった。

 

 どうやらソウはエレナスに気付いていて、徐々にクルゴスを引き離そうとしているように見える。クルゴスの目がソウに向いている間、エレナスは素早くリザルに駆け寄り、彼の容態を看た。

 脈と呼吸を確認し頬を叩くと、リザルはようやく意識を取り戻した。

 

「エレナス……。お前、何で戻って来た」

「こんな所に置いて行ける訳がないだろう。セレスが悲しむ。さあ、行こう。ソウが注意を引いてくれている間にここを出ないと」

 

 リザルに手を貸し立ち上がらせると、二人の代行者の間にはすでに決着がついているようだった。

 ソウの名を呼び近寄ろうとすると、彼が必死に押し止めているのが聞こえる。

 

「早く行けって言ってる。とにかくここを離れよう」

 

 リザルが歩行可能なのを見て、エレナスは足早に大広間を抜けた。途中ざわめく巨木が目に入り、何かが葉の間で揺れているのが分かったが、見てはいけないと感じそのまま突っ切った。

 死んでいった獣人たちの血で巨木はまた満たされるのだろう。この神殿遺跡は古戦場跡に勝るとも劣らない恐ろしい地だ。どれだけの血が流れ、肉が食まれていったのだろうか。それは転がる白骨たちが、その身をもって語っているのかも知れない。

 

「王都に戻ろう。早く戻って治療をしないと」

 

 リザルやセレスの体力で無事王都に戻れるのか、いくばくかの心配はあったが、エレナスはそう決め神殿遺跡を後にした。

 遠目に岩陰が見え始め、安堵して背後を振り返ると、神殿遺跡のある空には獣の恐ろしい咆哮が響き渡っているような気がした。

 

 

 

 ブラム奪回作戦を前に、シェイローエの許を訪れる影があった。

 暗闇から音も立てずに忍び寄る様はまるで暗殺者のようにも見える。黒い軍服に身を包んだそれは天幕の前まで来ると、小さく彼女の名を呼んだ。

 

「マルファス様。どうなさったのですか」

 

 シェイローエの招きにマルファスは天幕内へ足を踏み入れた。見れば見るほど、マルファスとフラスニエルは雰囲気が似ていると彼女は思った。

 

「様、なんて付けなくていいよ。僕はもうダルダンの守護者ではないんだから」

「ではマルファス。何か火急の用件でもあったのですか」

「うん。……キミの命を奪おうとしている者がいる。警戒して欲しい。キミは僕にとっては切り札のようなものだから、ここで死なれては困るんだ」

「はっきりおっしゃるのですね。わたしたち有限生命は代行者にとっては駒。これも本当は代行者たちの代理戦争なのではないですか?」

 

 シェイローエの言葉にマルファスは静かに頷いた。

 

「僕が初めてシェイルードに会ったのは、彼がまだ子供の頃だった。あの時に殺しておけば、今こんな状況にはなっていなかったんだ。代理戦争と言われても、この責任は取らなくてはならない」

「……ひとつだけ、よろしいでしょうか」

 

 その言葉にマルファスは、答えられる事ならと頷いた。

 

「ではお尋ねします。あなたは代行者となる時、何を望まれたのですか」

 

 意外な質問にマルファスは口をつぐんだ。それから静かに口を開き、ただぽつりと言った。

 

「それは言えない。言ったところで誰も僕を消滅させる事は出来ないからね」

「では質問を変えます。フラスニエル様とよく似ている気がするのですが、それは望みと関係があるのですか」

 

 マルファスは答えられずに押し黙った。目を伏せ少しの間考え込んでいたが、しばらくの後に口を開いた。

 

「……彼らは僕に連なる者なんだ。遠い昔、僕には娘が一人いた。代行者となってから、娘の子孫たちをずっと探したんだ。今や彼らは静かに息づき、大陸中に散らばっている。だから僕はこの大陸を護りたいんだ」

 

 過去の贖罪のように語るマルファスに、シェイローエも沈黙した。

 

「代行者はね、神などと崇められるに値しない者たちなんだ。代行者の資格は強い願望を持った者。ただ己のために存在し、願いを叶えて砂と化す。創世の神は人の持つ欲望を生きる力と考えたようだけど、それが正しいのか僕には分からない」

 

 そこまで言うとマルファスもふと言葉を切った。思考を巡らせているようにも見えたが、シェイローエにはまるで考えが及ばなかった。

 

「無駄話が過ぎたな。ここまでにしよう。シェイルードが直に姿を現す可能性もあるから、神器は必ず携帯するように」

 

 シェイローエは了解しましたとだけ答え、マルファスを見送った。

 

 

 

 夜が明ける前に斥候たちは本陣へ戻った。彼らの報告をまとめ上げると、南門は開かれているが、王城に近い北門は閉ざされたままだ。市街に人影は無く、城内に篭城している可能性が高いという。

 門を破る手間は省けたが油断は禁物だ。ブラムを奪回しない事には火薬や火工品類も補給出来ない分、使用を制限される。

 大陸における硝石産出量の九割をダルダンに依存している現状、ある程度の余力を残しておかなければ、今後の戦線維持に影響が出るのは必至だった。

 

「明らかに誘い込んでいる。敵の懐深くまで入り込むのは、ためらわれますな」

 

 本陣にある作戦本部の天幕で、額をつき合わせる四つの人影があった。総司令セトラ将軍と将軍付き参謀のシェイローエ。副指令ユーグレオル将軍とダルダン王ギゲルだ。

 薄暗い中ランプに照らし出され、地形図が広げられる卓上を見つめていたユーグレオル将軍が呟く。

 三十八歳の若さで軍部最高位の将軍職を務める彼は、周囲の嫉妬や批判すらねじ伏せるほど優秀な男だ。レニレウス王カミオの側近という肩書きを無くしても、その判断能力、指揮能力はずば抜けている。

 

「いかが致しますか、セトラ将軍。北門は頑丈に封鎖されており、戦槌で破るか爆破でも行わない限り厳しいようです。こちらからの挟撃を防ぎ、かつ地の利を生かそうとしている。生半可な相手ではありません」

「そうだな、ユーグレオル将軍。かつて古代の戦では、わざと門を開き、敵の疑心を利用して凌いだ例もあるという。だが我々は、これが虎口であったとしても退く訳にはいかない」

「畏れながら、発言許可を頂きたく存じます」

 

 シェイローエが発した言葉に三人の目が集まる。

 

「カイエ参謀の見解を伺おうか」

「ありがとうございます。この場合、最も危険なのは我々が挟撃を受ける可能性がある事です。市街に人影が無いとはいえ、建物内に兵を潜ませ挟撃を仕掛けられると厳しい。よってここで戦力の分割を具申致します」

「分割か……。いずれにしても篭城されては騎馬も役には立たず、突入を仕掛けても数を投入出来ない。城内に潜入した斥候数名も戻って来ない以上、慎重にならざるを得ませんな」

「城内に関しては、どうかこのギゲルに先陣を任せてくれないだろうか。すでに詳しい見取り図を作り部隊に配布してある。勿論将軍方の采配に従う」

 

 ギゲルの嘆願に、セトラ将軍は承諾した。

 最も城内に明るいのは王自身だ。どこに伏兵が潜み、どこに隠し通路があるのかも十分に理解しているのだろう。

 

「了解致しました。……ところで大公殿下のお姿が見えないが、いかがなされたのか」

「先ほど物資の点検に行かれたようです。攻城戦では長弓部隊と弩部隊は扱いにくいですが、弩部隊に火薬を使用させる可能性もありますので」

 

 シェイローエの答えにセトラ将軍は頷いた。

 

「王族の方々は我々が死守せねばならない御身故、後方におられる方が安心出来る。後方の警戒という意味でも、騎馬隊を南門と城門前に待機させる事にしよう」

 

 セトラ将軍の判断にユーグレオル将軍とシェイローエも従った。

 

「進軍開始を明朝、地平に太陽が顔を出した直後とする。あまり猶予がないが、それぞれ配置願いたい」

 

 彼らはそれぞれ敬礼をし、天幕を後にした。

 シェイローエがふと夜空を見上げると、ひときわ輝く星が流れ北の空へ落ちた。

 

「不吉な……」

 

 不気味なざわめきがシェイローエの心を支配したが、戦の準備をするべく彼女は自らの天幕へ戻っていった。

五 ・ 深淵の顔

 

 エレナスたちが王都ガレリオンに戻ったのは、それから数日後だった。

 リザルはすぐに医療施設へ移され、エレナスはノアを伴いカミオに拝謁を申し出た。申し出は即日了承され、二人はすぐにカミオの仮邸宅へと向かった。

 

 カミオと以前顔を合わせた執務室に彼らは通された。今回は大きな卓は無く、執務机に着いているカミオにノアは敬礼をした。

 

「申し訳ありません、陛下。自らの責務を全う出来なかった上、恥を忍んで帰還致しました。いかなる厳罰でもお受けする所存です」

「よい。処分は明日以降に通達する。今日の所は下がれ」

 

 カミオは机に両肘をつき、手を組み合わせたまま感情も無く答えた。

 俯いたままのノアの後を追ってエレナスも退席しようとすると、カミオはそれを制止した。

 

「君は残りたまえ。話がしたい」

 

 ノアの足音が廊下から消えると、カミオは静かに口を開いた。

 

「……よくやってくれた。心から礼を言う」

 

 エレナスの目には、カミオの手が微かに震えているのが見えた。先ほどはまるで感情が無いように感じたが、ノアの手前もあって無理に抑え込んでいたのだろう。

 

「ノアはこちらで預かる。現在ブラム奪回作戦のために人手が足りないのだ。陸軍の八割をブラムに向かわせた分、王都エレンディアの警護を海軍に委託している程だ」

「奪回作戦はどのようになっているのですか……?」

「分からん。そろそろ始まっている頃だろうが、まだ連絡が無い」

 

 カミオに椅子を勧められ、エレナスは半ばうわの空で椅子に腰を下ろした。

 恐らく姉もその作戦に加わっているだろう。そう思うと気が気ではなかった。

 

「今からどうこう言っても仕方が無い。我々は信じて待つしかないのだ。それよりも君にはやるべき事があるはずだ。今は自分が出来る事に全力を傾けたまえ」

「リザルの事ですか……? 本当にお耳が早いのですね」

 

 エレナスは精一杯の皮肉を言ったつもりだったが、カミオはそれを笑い飛ばした。

 

「私は自分に出来る事をやったまでだ。自らの能力と才覚は、未来を切り開く剣であり、身を護る盾になる。それをおろそかにする者には、それなりの未来しか無い」

 

 日が落ちて来たために室内は薄暗くなり、カミオは手ずからランプの明りを灯した。

 

「そろそろ行きたまえ。フラスニエル殿がまたいらん心配をするだろうからな。かの王は、若さ故に余裕も落ち着きも無いのが玉に瑕だ」

 

 カミオに別れを告げエレナスは席を立った。

 扉を開けたところで、不意に背後から声がした。

 

「今回の件は本当に感謝している。君が望むなら、あれを嫁にやってもいい」

 

 突然の発言にエレナスは驚き、振り向いたまま固まった。

 恐らく顔が赤くなっているだろうと思うと恥ずかしくなり、更に顔が熱くなるのを感じた。

 

「冗談だ。……本当に面白いな、君は」

「心にも無い冗談はやめて下さい!」

 

 顔の熱を抑える事が出来ず、エレナスは逃げるように執務室を後にした。

 エレナスの足音が遠ざかるのを聞きながら、カミオは楽しげに笑みをこぼした。

 

「……心にも無い訳ではないがな」

 

 夜のとばりが降りた空を眺めると、北の空がちらちらと明滅している。

 その様をカミオはしばしの間見つめ続けた。

 

 

 

 暗い。何も見えない。

 ここはどこだろうかとリザルはふと思った。

 

 体は暗闇に漂い、目を開けているはずなのにその瞳には光ひとつ映らない。

 何も見えない、何も感じ取れない恐怖に彼は怯えた。手を伸ばしても何も触れず、ただゆるゆるとどこかへ流されていく。

 

 もがいても何も変わらず、行き着いた先には一人の男が見える。

 真っ白い外套のような衣装を羽織った男の姿を見て、リザルはまたこの夢か、と呟いた。

 

 神殿遺跡を後にしてから、眠れば毎夜のように見る夢。

 男がリザルを振り向く事は一度もなかったが、夢を見るたびにはっきりしていく姿は、明らかに人ではない。黒い髪に黒い肌。今日に至っては赤い目がこちらを睨み始めた。

 

「お前がこの肉体の持ち主か」

 

 赤い目の男はそうリザルに言った。

 聞き覚えのある声だ。だが誰の声なのか思い出せない。答えずにいると、赤目の男は更に言葉を続けた。

 

「ひとつの肉体に二つの魂は必要無い。ヤドリギが芽吹いた今、お前の魂はいずれこの体から消え失せるだろう。だが嘆く事はない。肉体が寿命を迎えるその日まで、私が使ってやる。この『深淵の大帝』がな」

 

 今まで、これほどはっきりした夢を見た事が無かったリザルは、ただ夢から醒めて現実に戻る事だけを願った。

 悪い夢だ。ヤドリギなどという物を埋め込まれたために見ている、ただの悪夢なのだ。

 目が覚めれば、そこにはいつも通りの日常が待っているはずだ。家族がいて、友人がいて、他愛も無い話をしながら食事をし、仕事に入る。

 

「早く目覚めてくれ」

 

 リザルはひたすらそう願った。

 見れば赤い目の男は次第にこちらを振り向きつつある。

 あの顔を見てはいけない。見てしまえば、もう人ではいられない。

 

「つれない奴だな。すでにお前は私であり、私はお前である。この声もこの顔も知っているだろう? 逃げる事はもう叶わない」

 

 リザルへ振り向き顔を上げたそれは、鏡のように彼自身の姿を映し出した。黒い髪と肌、赤い目をしたリザル自身がそこにいるのだ。

 声も顔も、姿さえも自分自身だと気付き、リザルは恐怖の声を上げた。

 

「恐れる事などない。お前の意識が消える時には、痛みや苦しみは無い。ただ何もかも忘れるだけだ」

 

 自分と同じ顔をした深淵の笑い声が響き、リザルは頭を割られるほどの苦痛に転げまわった。

 遠くから誰かの呼び声が聞こえた気がして、ひたすら声の方向へ彼は手を伸ばした。柔らかい光がリザルを捉え、眩しさを堪えながら目を開ける。

 そこにあるのは白い天井と仄かに灯るランプだ。目覚めた場所が見慣れた病棟である事に安堵し、彼はゆっくりと身を起こした。

 

 寝台の脇を見ると、椅子に腰掛ながら眠ってしまっているセレスがいた。

 王都に戻って来てから、ずっと傍にいてくれたのだろうか。夢の中で聞こえた呼び声もセレスだったのかも知れないと思うと、リザルは胸が締め付けられる思いがした。

 程なく病室にエレナスが入って来ると、彼は驚いた顔をしてリザルの傍に寄った。

 

「目が覚めてよかった。随分うなされているから、気になってたんだ。外傷は見当たらないから問題無いように見えるけど、どこかに不調があるのかも知れない」

 

 リザルは一瞬、夢の話をしようか迷ったが、笑われるだけだろうと思い直し、口にはしなかった。

 

「大丈夫だ。痛みも無いし、許可が下りればすぐにでも本隊に合流するつもりだ。お前にも随分迷惑を掛けたな。すまなかった」

「元はと言えば、俺がセレスを連れて行ったのが悪かったんだ。やはり王都に帰すべきだった。……でもセレスがいなければ、きっとノアを助けられなかったと思う」

 

 その言葉にリザルは黙り込んだ。エレナスが単身であの神殿遺跡に行っていたら、今頃彼がヤドリギを埋め込まれていただろう。

 これでよかったのかも知れないとリザルは思った。死にたい訳ではない。何もかも解らなくなって消えていくのは怖い。それでも他の誰かが、死の恐怖に怯えているのを見てはいられない。

 ヤドリギの夢について話しておくべきなのかも知れないと思い、彼は口を開いた。

 

「エレナス。お前に話しておきたい事がある。笑わないで聞いて欲しい」

 

 リザルはつぶさに夢の話を伝えた。

 酒の席であれば一笑に付すような内容を、エレナスは真剣に聞き続けた。あらかた語り終わると、何かを考え込むようにエレナスは黙りこくった。

 

「神話で伝えられている深淵の神は姿かたちを持たず、人の心の奥底である『心海』に潜むという。ヤドリギは、深淵の神を『心海』から引き上げるための術具なんだ」

 

 エレナスの見解をリザルは静かに聞いた。

 

「大切な人を失う事を、心に穴があくという言葉で表現するけど、深淵はその隙間を狙うのかも知れない。知らないうちに心の空洞を苗床にされ、養分にされる。侵食が進むと自我を全て塗り潰されるんだろう」

「なるほどな。お前やセレスをそんな目に遭わさずに済んでよかったよ。……侵食が進んだら、オレはどうなるんだろうな」

「恐らく、意識のある時間が徐々に短くなって行くんだと思う。いきなり意識が途切れて、気付いた時に覚えの無い場所にいたら、それはかなり進んでいると言える」

 

 自らの無力さを悟り、エレナスは肩を落とした。

 姉がいない今、意見を訊く事すら出来ない。外傷や異物感さえ無い物を取り出すのも難しい。このまま指をくわえて侵食が終わるのを待つしかないのだ。

 

「……そんな悲壮な顔をするなよ。侵食を食い止められなくても、その時のために対策を練る事は出来る。そうだろ?」

 

 椅子で眠るセレスを別の寝台に寝かせながら、リザルはそう呟いた。

 傍らでセレスの額を撫でるリザルと、安心した表情で眠るセレスを見て、エレナスは今はもう亡き両親を思い出した。

 結果的にセレスは父親も失ってしまうだろう。それを考えるとエレナスは顔を上げる事が出来なかった。


 
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