夜。学生達や、企業戦士達が、通勤通学電車で、帰宅ラッシュの押しくらまんじゅうをしている頃。彼女はただ一人、真っ暗となった高校、その中で唯一、煌々と輝く理科準備室で、居残りをしていた。
別にどうということはない。中間テストの採点が、まだ終わらないだけの事だった。帰宅すると、決して仕事をするわけがない、と彼女自身が知っているからこそ、こんな風に学校に居残っているのだ。
元々は宿直室だったと聞く、この理科準備室は、必要以上に広めで、座敷があり、そして、コレは彼女の私物であるが、こたつも設置されていた。さすがに電源を取る事は出来なかったが、それでも、このコンクリートとリノリウム張り、その上暖房の切れた、真冬の学校という環境では、随分と快適に過ごす事が出来た。
しばらく前に、警備員が巡回に来て、そろそろ我々も引き上げるから、気をつけてください、と告げてきた。ごくごく田舎の、閑静な住宅街の中にある高校だ。そもそも予算がないのかもしれないが、あまりしっかりとした警備は行われていない。
例えば彼女は、この学校には沢山の抜け穴・抜け道が隠されていて、そこを使えば、学校内外を自由に出入り出来る事を知っていた。元々、彼女はここの出身であり、そして決して真面目な方ではなかった――勉強こそしっかりと行っていたが、それ以外の普段の生活は、それこそだらしのないものだった――為に、そういう事を知っているのだ。またその知識のおかげで、何度か警備の目を欺いて学校に侵入し、忘れ物を取る事が出来た、という事もある。
そんな警備の緩い、思い出深い学校の一室で、黙々と作業を続けていた。
こんこん、と、理科準備室の扉を叩く音がした。
「開いてるよ。入りな」
彼女は顔を上げる事もなく、そう鷹揚に答え、答案と模範解答を交互に睨みながら、赤ペンを走らせ続ける。
耳障りな、扉の軋む音が聞こえて、中に一人、入ってきた。入ってきたのはいいが、どうやらどうするべきか悩んでいるらしい。入ったまま、ただ立ち尽くしている。
「寒い。早く閉めな」
そう言いながら顔を上げると、そこにいたのは、この学校の制服を着た少女だった。そして、その少女は、彼女もよく知る少女だった。
「おや、小野木じゃないか。もう完全下校時間は過ぎてるぞ」
そう言いながら、彼女はよっこらせ、と立ち上がり、戸棚からマグカップを取り出す。ざっと水で洗い流し、キムワイプで拭き、そして、こたつの傍らに置いてあった大きな魔法瓶を傾け、コーヒーを注いだ。そして少女――小野木に、座るように身振りした。
はじめは躊躇していた小野木も、しかし、こんな時間にここを訪ね、しかも受け入れてくれた先生に申し訳ない、と思ったのだろう。失礼します、と頭を下げ、靴を脱ぎ、座敷に上がって、こたつへと入った。
そんな小野木の緩慢な動作を見ながら、彼女はこたつの上に置いてあった答案を、自分の鞄の中へと入れ、自分の空になっていたマグカップに、コーヒーを注ぐ。そして、思い出したように、これまた傍らに置いてあった、スティックシュガーとミルクのポーションが山積みにされた籠を、こたつの上に置いた。
彼女はスティックシュガーを二本取り、コーヒーに入れ、籠の持ち手の部分に刺してあったマドラーを取って混ぜる。小野木は、ミルクのポーションだけを取り、それをコーヒーに注いで混ぜた。
「それで、何かあったのかい?」
ずずず、と、音を立てながらコーヒーを啜りつつ、彼女はそう聞く。小野木はただぼんやりと、マドラーでコーヒーをかき混ぜている。
やれやれ、これは大変そうだぞ、と彼女は、心の中でため息をついた。と同時に、ちらり、と時計を確認する。時間はそろそろ20時。あまり遅くなると、そろそろ小野木の両親が心配するだろう、と思う。前に、授業参観の際、彼女の両親を見たが、至って平凡そうな父親と母親だった。恐らく、方々に電話をし始める頃じゃないか、と、彼女は危惧していた。
「タダで美味しいコーヒー飲ますほど、私はいい人じゃないよ」
ま、インスタントなんだけどさ、と彼女は笑い、そしてまた、一口啜る。小野木の手は、いつの間にか止まっていた。
「死んだんです、私の彼氏が」
彼女は、思わずぶっ、とコーヒーを吹きそうになったのを、ぐっとこらえた。表面上は、何の動揺も見せなかった。
と同時に、彼女は冷静に分析を始める。今朝、この高校で臨時の全校集会は開かれなかったはず。職員会議でも、どこの学年の誰某が死んだとか、そんな話は聞かなかったはず。という事は、恐らく他校の生徒だろうか。
「今朝。テレビを見てたら、専門学校の先輩の車に同乗していて、大型トラックと正面衝突した、って」
彼女は、そういえば、と、忙しい朝の中、ちらっとつけていたテレビに、そんなニュースがあったな、と思い出した。専門学校生が車を運転。深夜。片側一車線の道路。直線。ハンドル操作を誤った。乗用車の二人は死亡、トラックの運転手は軽傷。
「いい人だったんです。その、彼の先輩も。将来、獣医になるんだ、って。犬好きだったんです。彼は、猫好きだったんですけど、動物好きというところで、意気投合したみたいで」
ぽつり、ぽつり、と小野木は語り続ける。彼女は、マグカップの黒い液面を睨み付けていた。
「でも、私を置いて天国に行ってしまった。私を置いて。私をひとりぼっちにして。先輩も好きだったのに、彼と一緒に行ってしまった。仲良し二人組なんですよ、二人は。でも……でも……」
小野木のマグカップが、ことり、とこたつの上に置かれる。彼女はちらり、と視線を走らせると、小野木もまた彼女と同様に、マグカップの、黒みの強い茶色の液面を、見つめていた。
彼女はそっと立ち上がり、小野木の横に行き、膝立ちになる。
「泣きな。我慢するこたないよ。どうせ私以外誰もいないさ。それとも、私もいない方がいいかな?」
彼女は、きっと小野木は我慢をしているのだろう、というのは、とっくに見抜いていた。以前、誰か他の教師と話をしていた時に、こんな話を聞いている。
「小野木はね、妙に頑固なんですよ。――。この間なんかも、うちのクラスの西条が、ああ、西条が犯人だっていうのは、後で調べて分かった事なんですがね、彼女の教科書を無断で持っていってた。にも関わらず、彼女は何も言わなかったんですよ。新井先生が授業の時に教科書を持ってないのに気付いて、それで聞いて、ようやく盗まれた、と言ったそうです。それで、何故それを言わなかった、と聞いたら、先生達に余計な手間をかけさせたくなかった、と答えて、なんと泣き出したそうですよ。――」
彼女は、そっと小野木の肩に手を添える。
「先生」
小野木の細い肩が、小さく揺れている。
「ずっと良い子ぶったってさ、辛いだけだよ」
諭すように、彼女は言う。
「先、生……」
「だから、さ。我慢しちゃ、ダメだよ」
小野木の最後の堤防は、そうして決壊した。大きな声を上げて、彼女の胸に顔を埋めて、彼女はただ、泣き続けた。泣き叫んだ。押さえに押さえていた感情が全て、流れ出していた。彼女はただ、そんな小野木を、何を思うでもなく、ただ抱きとめていた。
どれほどの時間が経ったのだろうか。あふれ出た、押さえ込んでいた感情を全て放出しきる事が出来たのだろうか。小野木は、すっかりぬるくなってしまったコーヒーに、口をつけていた。
元の位置に戻った彼女は、同じくぬるくなってしまったコーヒーに口をつけながら、彼女を見て言う。
「そいつの夢を継いでやれ、とは言わないさ。無理にそんな事したって、身体が持たないからね。それよりも、そいつが経験できなかった世界を、たっぷりと経験してきてやんな。そしていつか、天国に行ったなら、思う存分 こうだったよ、と教えてやりな。きっと、それを待ってるはずさ」
だから、と彼女は、マグカップを置いて言う。
「後追いで死ぬ、なんてのはよしてくれよ。そんなにぽんぽん死なれたら、天国が満員御礼、満員電車のおしくらまんじゅう、ってなってしまうからね」
ふふっ、と笑いながら彼女は言う。彼女流のユーモアらしい。自分でそのユーモアを笑うのは、少々減点対象ではあるが。
小野木も、先ほどまでの泣き顔は既に無く、曖昧な笑みが浮かんでいた。
「さて、もう八時半だ。送ってやるから、帰り支度しな。忘れ物するんじゃないよ」
彼女はそう言い、部屋の隅に丸めてあったコートを取って、羽織る。そして、空になった二つのマグカップを取り、流しに下げる。鞄に、中途半端に詰められていた答案をしっかりと詰め直し、魔法瓶も、他の鞄に詰め、蓋をする。
両肩に二つの鞄を提げ、窓の戸締まりをチェックし、それから小野木を廊下に出し、電気を消し、彼女も理科準備室の外へと出た。戸締まりをし、それから鍵を戻す。
そして、彼女が学生時代に知ったうちの一つの脱出口から、二人で学校を抜け出し、彼女を車に乗せ、家へと送った。
それから、彼女は自宅で、様々な誘惑に耐えながら、中間テストの答案の採点をする事となるのだが、それはまた別のお話。
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「天国」「コタツ」「暗黒の高校」というお題を頂いての三題噺。といっても、三題噺をあまりよく理解していない節があるので、どうにも怪しい具合に。