No.385156

蒼天 ~『エベレストは昔海だった』その後~

健忘真実さん

『エベレストは昔海だった』を出版した私は、妻美也子と数十年ぶりに上高地を訪れた。

2012-03-01 12:14:30 投稿 / 全2ページ    総閲覧数:569   閲覧ユーザー数:569

 河童橋の中央に立ち、やまなみを眺める。

 右から明神岳、前穂高岳、奥穂高岳、そして左手には西穂高岳が連なって見える。

 山の斜面にあるナナカマドは紅く、カラマツは黄金色に色づき始めている、10月。

 

 私と美也子は昨夜、新宿駅西口を11時に発する夜行バスに乗り、今朝6時過ぎに上

高地に到着した。

 平日であるにもかかわらず、上高地バスターミナル付近には登山者の姿がちらほらと

みられ、彼らは荷物をまとめるとさっさと歩き始めた。

 後に残された観光客は、同年代の夫婦者たちがほとんどである。

 五千尺ホテルに荷物を預けて表に出ると、朝日を受けたやまなみの紅黄葉は、明るく

きらめきたっていた。

 

 ホテル前の河童橋を渡り、梓川沿いの遊歩道を大正池に向かって、ふたり並んでゆっ

くりと歩いた。

 時折白い噴煙を上げる焼岳は、正面に大きく構えて居座っている。

 樹林の中を入ったり出たり、小一時間で大正池に出た。

 立ち枯れの木が点在する水面は、山の姿を映し出していた。

 

 

 遠征前そのままの家に、美也子は孝史一家と暮らしていた。

 家に帰った翌日、美也子に水晶を渡した。

「遭難した翌日にこれを見つけて、ポケットに入れていたんだ」

「まあ、水晶! 水晶は命のパワーの源だといわれています。きっとこれがあなたに、

生命力を与えていたにちがいないわ。大切に、大切にお守りとしてお預かりします。三

上さん、大橋さん、吉田さんもお持ちになっていらしたら、きっと生きていらっしゃる

はずだわ」

「水晶を持っているかどうかは知らないが、きっと生きていると思うよ」

 

 

『エベレストは昔海だった』を出版した私は、しばらくの間虚脱状態にあった。全力を

注いで仕上げた仕事に、心地よい陶酔感を味わってもいたが、次に何をしようという気

もなく、毎日孫の相手をしていたのである。

 

「あなた、意外と子供の相手がお上手なのね」

「あ? ああ」

 

 三上、吉田、大橋らと鬼子との間に生まれた子供たち。額に突起を持つ者と持たざる

者がいたが、全員背中には金色の毛が生えていた。人間社会に連れ込めば一目瞭然、違

いが分かる。

 しかし、太陽や茜たち子どもは私の孫たちと全く同じだった。子供は子供なりの動き

をし、考え方をしている。

 そんなある日、「美也子、上高地に行かないか」と誘ったのである。

 穂高は、私と美也子の思い出の地であった。

 

 

 翌日ホテルに荷物を置いて、身の回り品と着替えを詰めた小型ザックを私が背負い、

徳沢に向かった。

 徳澤園。

 美也子と初めて出会った場所である。

 

 

 山仲間三人と徳沢キャンプ場にテントを張り、前穂高岳の北尾根から前穂・奥穂・西

穂経由で上高地に下るという継続登攀をし、徳沢のテントに戻ると、テント内の食料は

消えていた。タヌキの仕業らしかった。

 仕方なく徳澤園に頼み込んで、食事を用意してもらったのである。

 

 そこで美也子は、夏休みを利用してバイトをしていた。

 お盆のように丸く平べったい顔は陽によく焼け、それを気にするでもなく、山の話に

なると夢中になってくる彼女の生き生きとした目の輝きに、魅せられてしまった。

 

 翌年、ふたりで屏風岩を登攀しピークに立った時、プロポーズをした。

 遠くに見えた富士山に、誓った。

 不幸にはしないから、と。

 

 

「孝史をおなかに宿してからすっかり山から遠ざかっていましたから、何年ぶりになる

んでしょう」

 すまなかったな、とつぶやいた。

「若いころ、山は逃げないからあせらずに、なんて言われたけれど、山は逃げなくても

体力がなくなってきますよね」

 

 徳澤園の案内された部屋『槍の間』からは、前穂高岳の東壁が眺められた。

 周辺に広がる芝生には数張のテントがあり、昔日の我が姿を見る思いであった。

 

 

 翌日、上高地へ戻る途中の明神。

「ねぇ、嘉門次小屋、まだあるらしいのよね。イワナの塩焼きを食べましょうよ」

 

 あの頃は、装備や道具にお金をつぎ込み、交通費を捻出するために食費を切り詰めて

いた。

 イワナの塩焼き食べたいね、と言いながらいつも素通りしていたのである。

 

 生け簀のイワナを眺めていると、肺魚や電気ウナギのことを思い出し、再び三上たち

の事が浮かんできた。

 彼らのことだからきっと、時々あの洞窟の出口の所へ行き、夜空や草原を見渡してい

るであろう、その姿を思い描いた。

 

「そろそろ戻ろうか」

 綺麗に身をそぎ落としたイワナの骨を見やって、どっこらしょ、と立ち上がった。

 

 山、川、木々、空、虫や鳥、いろいろな色と音の中でいろいろな生き物と共に、解放

された空間の中で生きていけることの幸せを、しみじみと噛み締めた。

 そして何よりも、愛する人と共にいることの幸せを。

 

 翌朝、山はうっすらと雪をかぶっていた。

 針葉樹の緑色を基調として、白色と紅黄色に染まった山、その上には蒼い空が広がっ

ていた。

 


 
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