No.219772

【加筆修正版】 "Two-Knights" Vol'02 第一章「歴史の血脈」

全8巻で構成される長編ファンタジー小説
"Two-Knights"第2巻の第一章を公開いたします。

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 <1>

 

 

 朝霧のかかった渓谷。

 静かで心地よい渓流のせせらぎを、鋭く風切る音が引き裂いた。

 音の主は、まだ陽光の届かぬ薄暗い渓流、その川岸に立つ一人の細身の男。

 男は、鎧の下地と思しき黒い衣服のみを纏い、正眼に剣を構えたまま不動の姿勢を保っていた。

 両の手に握られているのは、両刃の剛剣。切っ先から柄まで含めると、その長さは、成人男性の首の付け根の辺りまでに達する。この場に、彼と対峙する者がいたとしたら、その剣の重厚さに威圧され、慄然し、足竦むことだろう。

 数瞬の間、不動の姿勢を保っていた男は静かに剣を上段に構え、振り下ろす。

 細身の体躯から繰り出されたとは到底思えぬ程の速度を伴い、振り下ろされた剣は再び空を鋭く切り裂いた。次いで、前に踏み出していた右足を、摺り足で更に半歩ほどの距離を進め、腰を落とす。

 刹那、下段から斬り上げ、そこから構え直し、左から右へと横に薙ぐ。

 その一連の動作は、僅かな邪念の介在も感じられぬ形式美にも似た様相。しかし、その所作より繰り出された剣からは、烈風のような唸りをあげていた。

 鋭さと速さ、そして重さを伴った唸りは、その刃に捕らわれたものの命を掻き攫う、死神の鎌の呻きを重ね見るかのよう。

 心奪われる程の美麗にして、肌が粟立つ程の戦慄──この二律背反は、まさに魔性と称すべき業。

 男は、その細身の体躯に似合わぬ重厚な大剣を、まるで第三の腕のように扱っていた。

 無論、それは凡人の一夕の努力で身につく類のものではない。

 類稀なる身体能力をもった者が、幾日も幾月にも渡り研鑽された果てにこそ存在しうる形である。

 曙光がこの渓谷にも射しこみ、かのような戦慄の剣技、その主の詳細を照らし出した。

 若い男。黒髪の青年だった。

 けして、絶世の美青年という訳ではない。しかし、瞳の奥に宿るのは気高さと真摯さであり、その眼差しに魅入られた者は、やがて彼に良い印象を抱く事だろう。

 彼の名はレヴィン。グリフォン・フェザーと呼ばれる街に駐在する騎士隊に所属している若き騎士である。

 レヴィンは、自らの視界に飛び込んだ曙光を意識することなく、最初の姿勢に戻り、再度先刻の動作を繰り返した。

 上段からの振り下ろしから下段からの切り上げに繋ぎ、そして中段からの横薙ぎで締めくくる。

 ──剣技の基本的な動作。

 時折、思い出したかのように、鋭い突きや袈裟切りにも似た変則的な動作を織り交ぜることはあるものの、基本的には同じ動作を百数十回、数百回と繰り返す。

 これは彼が騎士となり二年もの間、有事の時以外、毎朝一度たりとも欠かしたことのない習慣である。

 愚鈍なまでに積み重ねた努力の果て、彼の剣技はこの境地にまで進化を遂げていた。

 顎の先から滴る汗が、その証。

 瞬間的に集中力を高め、剣の切っ先に至るまで、まるで己の肉体の一部であるかのように神経を行き渡らせたそれの軌道には寸分たりも狂いは見せぬ。

 それは、一振りごとに精神力を消耗させ、神経を磨耗させる苦行。肉体・精神双方を徹底的に鍛え上げた果ての業。

 学者の家に生まれ、幼少期は書物に囲まれた生活を送っていたレヴィンの体躯は、騎士として、剣士として恵まれたものではない。

 重厚な鎧を身に纏い、剣を振りかざし魔物と対峙するのを生業とする、騎士の中では稀有な出自の彼が、父と同じ学問の道ではなく、騎士道を志すこととなったのは、幼少の頃に出会った、ある少女の影響であった。

「精が出るねぇ」

 騎士に向かい、不意に声がかけられた。明るい女性の声。

 その声に応じるかのように、レヴィンは全身の緊張を解く。正眼に構えられた大剣が降ろされ、切っ先が砂利だらけの地面に向けられた。

 口元に軽く、しかし優しい笑みを浮かべ、小さく息を吐いた。

「騎士として、剣の腕を錆び付かせる訳にはいかないのでね」

「騎士が騎士に説教、ですか」

 明るい笑い声があがる。

 声の主は、短く切り揃えた活発的な印象を与える髪と美しい額飾りが印象的な女性。

 帯剣し、肩当てと胸当てといった簡素でありながらも、着用者の敏捷性を損なわぬ、機能的な造りをした鎧を身に纏っていた。

 そして、その胸当てには、鳥類の翼を模った紋章が刻まれていた。

 頭と翼は鷲、胴は獅子の形をした獣──この地方で、聖獣として崇められている、グリフォンの翼を模したもの。

 それはレヴィンと彼女が所属する騎士団の紋章である。

 彼女の名はエリス。

 この地方の全騎士団を総統する男を父に持つ、生粋の武官の娘。

 幼少の頃、二人が体験した些細な事件を契機に出会い、今では十年近くの付き合いとなる。

 また、レヴィンを学問の道から、騎士道へと導いた──その張本人こそ、彼女である。

 レヴィンは再度、剣を眼前に構え、振り下ろした。

 剣によって切り裂かれた空気が唸る。

「さすがだね」

 その音を聞いた、エリスは率直な感想を述べた。

 剣を振るうことを生業としている者は、素振りの音を聞くだけで、その者の技量をおおよそ推し量ることが出来る。

 エリスの耳には、レヴィンの荒削りなれども、恐るべき技量。そして、幾月にも渡り、愚鈍なまでに積み上げた努力の足跡を、しかと捉えていた。

 それは、昼夜問わず机に向かい学問を究める学者の出自とは到底思えないものだった。いや、生粋の武官の家で生まれ、幼少の頃より剣の手ほどきを受けていたとしても、その若さでこれほどの音を出せる者がいるのだろうか?

 彼──レヴィンは生来より類稀なる身体能力を内包していた。

 幼少の頃より、走れば同年代だけではなく、年上の者よりも速く駆け抜け、飛べば倍近くも高く、そして遠くへ跳ぶ。敏捷性に関しては、常人のそれを遥かに凌駕していたのだ。

 その類稀なる素養を見出され、騎士団長であるエリスの父──現シェティリーゼ家当主に強く説得されたのだ。騎士道とは厳しく険しい。到底凡人には薦められぬ道であるにも関わらず。

 しかし、レヴィンはその苦難の道に屈せず、日々邁進し、精進を続けている。

 その精神力の強さに、エリスは尊敬の念を払わずにはいられない。

 そのとき、彼女の横で金色の風が流れた。

「おはよう、セティ」

 エリスは金色の風の主に向かい、元気良く挨拶をした。

「おはようございます」

 セティと呼ばれた女性が、微笑んだ。

 彼女の金色の髪は、身に纏っている神官着の肩のところを超えたあたりまで伸ばされ、簡素なヘアバンドで飾られている。

 旅の最中であれども、そのしなやかさと美しさは生来のものなのだろう。彼女の長い髪は、まるで神話の世界に存在する金色に輝く河を連想させる。

 二人の騎士と一人の神官──彼ら三人は今、旅の途にある。

 彼らは、ある事件を契機に知り合い、事件を解決へと導く中で、友情を育んだ。

 その事件とは、あまりにも凄惨なものであった。

 たった一人の錬金術師の『実験』の為、罪のない者達の命が蹂躙された──その数は百十余名。

 その事件を経て、この数多の『死』というものを目の当たりにして、セティは沢山のことを思い知らされた。

 幼き少女の頃に神殿に身を寄せてから六年。神に祈るだけ、教典を読みなぞるだけの毎日の中で、次第に薄れていた認識。漠然としか理解していなかった事実──事件により、その『無知』に気付かされ、思い知らされた事があった。

 生命の喜び、生きるという意味を。

 人が人である為の、その始原となるものを。

 それを再認識する為に、セティは旅立ちを決意した。

 かつて訪れた巡礼地を巡り、見聞を広げようと思い至ったのだ。

 そして、その旅に護衛として同行しているのが、レヴィンとエリスの二人の騎士である。

「レヴィン、そろそろ出発の準備をしようよ」

 朝の稽古を止める様子のないレヴィンに、エリスが声をかける。

 まだ、天に曙光が差して間もなく、空はまだ薄暗い。行動を起こすには少々早い時刻とも思われたが、彼女が先を急ぐには理由があった。

 この渓流に沿い、下流に下れば、やがて街が見える。

 街の名はグリフォン・アイ。

 グリフォン・フェザーの街を旅立った三人にとって、旅立ち後、最初に辿りつく街となる。

 そこは、もう目と鼻の先の距離──今、出発すれば夕刻には到着することだろう。日が暮れる前に、そのグリフォン・アイの街に着く為、早々の出発を主張しているのだ。

「そうだな」

 レヴィンは穏やかに流れる川の水面を眺め、言った。

「そろそろ出発するとしよう」

 

 高く昇った太陽が穏やかな光を渓流に投げかける。その暖かい陽光を身に感じながら、三人は歩を進めていた。

 渓流のせせらぎ、渓谷を吹き抜ける風、砂利道を踏みしめる独特の音、天を舞う鳥の囁き。

 その全てが、心地よい。

「気持ちいいね」

 エリスが、心底からの感想を漏らす。旅立ちから幾日。彼女から同じ言葉を何度聞いただろうか。

 その言葉に、二人は苦笑で応えた。

「なによ」

 そんな反応にエリスは頬を膨らませ、軽く拗ねた。二人からは遠慮のない笑い声があがる。

「率直な感想を言っただけじゃない」

「その感想とやらに興味を示して欲しかったら、その乏しい語彙をどうにかすることだな」

「レヴィン!」

 エリスが声を荒げ、相棒の騎士を睨みつけるが、当のレヴィンは小気味良さそうに目を逸らしながら鼻歌を歌う。

 渓谷に、また笑い声が木霊した。

「……しかし」レヴィンとセティの遠慮のない笑いが収まりつつある頃、セティは不意に川の上流を見上げ呟いた。「今でこそ、これほどまでに穏やかな場所が、かつては戦場へ赴く戦士達の重要な道として使われていたなんて信じられませんね」

 憮然とした表情をしていたエリスが、その何気ない呟きを聞き、表情が一変した。

「──千年前の戦争だね」

「あの、忌まわしき魔物との戦い、そして騎士の起源となった戦いであると伝えられている」そう、レヴィンが言い、少し視線を落とす。

 今では伝承上の出来事となっている昔日の戦い。無論、レヴィンも書物の上でしか読んだことのない史実。

 しかしそれは、この地に住んでいる者ならば、誰もが知っている昔話だった。

 落とした視線の先には、まるで千年前のこの地を見るかの如く、今のこの渓谷の光景に、かつての時代のそれを重ね見ていた。

 

 <2>

 

 ──千年前。

 二千年に一度とも、四千年に一度とも言われている、魔物の大量繁殖が起こった。

 それらが自然発生によるものなのか、または別の要因からくるものなのかは、未だ明らかにされてはいない。

 しかし、その繁殖の勢いたるや凄まじく、すぐに人間の持つそれを超えた。獰猛で残忍、種によっては狡猾さも併せ持つ彼らは、瞬く間に人間達の領域──街をも侵略せんと、その魔の手を伸ばしていった。

 それは、街を、国を、果ては大陸、周辺の島々をも巻き込む大規模な戦いへと発展していった。

 そう、今も続いている人と魔物との戦いの歴史の中で、最も熾烈を極めた時代であるとも言えよう。

 人間が住まう街の中、魔物が住まう洞穴の中、それらを結ぶ街道や山道に至るまで、戦火のあがらぬ日はなく、そして、人々の嘆きの声が鳴り止む日もなかった。

 そんな、幾年にも渡る戦乱の世。

 死して横たわる魔物の血肉は大地を腐らせ、背中合わせの死に怯え、安寧の奪われた日々は、やがて人の心をも腐らせていった。

 魔物のうち狡猾な部類のものは、生来より人の腐った心に付け入る術を熟知しており、その悪意に満ちた術を如何なく発揮させていった。

 ゴブリンは、病に苦しむ老人に薬と称して猛毒を飲ませ、インプは、終わりの見えぬ日々に苛立つ青年に「同族の生娘を神の生贄に捧げれば戦は終わる」などと囁き、その者の理性の箍を外し、凶行へと導いた。

 夢魔は疲弊した聖職者を淫夢に溺れさせ、邪獣マンティコアは、老いを恐れる余り不老不死を望んだ女の心に付け入って騙し、加護と称して呪いを施した。それは、生きながらにして屍人と化す呪い。

 女の肉体は、次第に腐敗し蛆の沸く醜き不死者へと変じていった。

 その後、女は日増しに腐り果てていく己の姿を受け入れる事が出来ずに発狂し、他の魔物と同様、人間に仇なす存在へと成り果てた。

 そこには多種多様の堕落、そして破滅があった。多くの人が、人でありながら魔へ堕ちていった。

 貧しき者達は、魔物のみならず、魔物同然にまで堕ちた同族の陰に怯え、富める者達は、将来に希望を見出すことをせず、その私財を今日の快楽の為のみに使う。

 食人鬼やトロール達による暴力。そして、インプや夢魔達による狡猾な悪意により、人間達は確実に蹂躙されつつあった。

 そんななか、現在の王都グリフォン・ハートの南方に存在していた小さな街ファイナ。その街の外壁に駐在し、魔物達との戦線、その前線に展開し、一進一退の戦闘を繰り広げている『第三自警兵団』と呼ばれる一団があった。

 彼らは、小規模な兵団だった。

 しかし、彼らは訓練と規律の厳しさに関しては屈指の兵団であり、その実力は国内でも高く評価されていた。

 その根幹を成していたのは、兵団を統べる長──ウェイン=シェティリーゼという男が、神殿勤めを兼任していた敬虔な神官であったこと。兵団の規律に神殿での教えを取り込んでいたことにあった。

 勇気、高潔、誠実、寛容、信念、礼節、崇高さを美徳とし、清貧を尊ぶこと。

 そして、毎日二回、神に祈りを捧げること──毎朝の起床後、その日の安全と無事を祈り、夜の就寝前に、無事に一日を終えられた事を感謝することだった。

 美徳を守るよう努めることにより兵達は、欲に打ち勝つように自らを戒め、その戒めを守ることにより、自然と精神を鍛えられた。そして、神に祈ることにより心の安定を促す。

 結果、個々が堅固な精神力を築きあげたこと。それが、インプや夢魔らの誘惑を除け、兵団を心身ともに堅固な戦闘集団となる、その確固たる土壌を築き上げていた。

 だからこそ、魔物との熾烈な戦いに、他の兵団が次々と敗北を喫していく中、その小さな兵団だけは、悉く勝利を収めることが出来たのだ。

 無論、絶望の闇に埋没しようとしている人々にとって、彼らは一条の光、最後の希望に他ならない。

 そんなある日のこと、第三自警兵団に対する、援護要請が舞い込んだ。それは当時、国の首都機能を果たしていた都、ブレイザからの要請だった。

『自警兵団が事実上壊滅。魔物の大勢が街中に侵攻、至急兵を派遣せよ』

 短いながらも、絶望的な報告に添えられた、ブレイザからの要請ともあれば、これは事実上の『勅令』である。

 勅令に従い、都へ援軍に駆けつけたが、状況は改善することはなかった。

 再召集された元兵団の幹部ら──魔物に誘惑され、堕落させられた者による裏切り・妨害により、新たに構築された指揮系統が完全に乱されたからだ。

 作戦を立てれば漏洩され、別部隊に伝令を指示すれば、その伝令の内容と異なる事を伝え、士気を失墜させる偽の情報を流布した。

 魔物との戦いの中で、自ずと外見のみで敵味方を判別するようになっていた人間達に、このような『人の形をした魔物』の存在を認知することは困難だったのだ。

 兵団は再び分裂の危機に瀕していた。失望が彼らを支配する。

 そんな絶望的な戦況の中、彼らの心の空白に夢魔が入り込み、篭絡されるのも時間の問題と思われていた。

 しかし、その心の空白を埋めたのは、夢魔ではなかった。

 

 ──ある日の夜、そのウェインは夢を見ていた。

 魔物の侵攻を受け、炎に包まれるブレイザの街。逃げ惑う人々。それは、悪夢の色彩を色濃く帯びた夢。

 そんな絶望的な光景の中、ウェインは逃げ惑う人々を先導する任務についていた。それはまるで、自分が兵団の一員として、最後の役目を果たすかのように。

 任務の最中、逃げ惑う人々の中に一人佇む少女の姿を見た。

 避難するよう呼びかけても反応を示さず、近付き強引に腕を引こうにも少女は微動すらせぬ。

 建物から上がる黒煙と、炎が照らす強い光によって、少女の顔、その詳細までを視認することは出来ない。

 ただ、彼が認識したのは、眼前の少女より発せられる、まるで近付くものを畏怖させるまでの圧倒感であった。

 ウェインは焦燥感に駆られた。

 目の前の少女を逃がさなければならないという使命感。そして、その少女から醸し出される、あまりにも不自然な印象。

 焦燥感に混乱が付与される。足元がぐらりと揺らいだ。それは、急な事態にウェインの意識が追いつかないのか? これが夢の世界であるからなのか?

 しかし、辺りを漂う黒煙を吸えば咳き咽せ、炎を直視すれば瞳は熱を認識した。その感触は夢現の産物ではなく、明らかなる現実味を帯びていた。

 不意に声が聞こえた。混乱の色合いが深まったウェインの意識に、まるで滑り込むかのように「汝、諦めることなかれ」と。

 少女の口から発せられたことを視認したわけではない。だが、夢の世界の住人であるウェインには、その言葉が少女の口から発せられたという確信を抱いていた。

 その時、眼前で閃光が迸り、ウェインの視界を一瞬だけ遮った。

 視力が戻ったときには、既に少女の姿はなく。先刻まで少女の腕を掴んでいた手には一枚の羽──鷲の羽が握られていた。

 羽の存在を認識した数瞬の後、ウェインの意識は闇の中へと落とされ、現実の世界へと引き戻されていった。

 

 現実の世界に引き戻され、目覚めたのは、夜の明けぬ時刻。

 三日ぶりの睡眠であったにも関わらず、実質の睡眠時間は三時間程度。

 ウェインは、夢の内容を鮮明に覚えていた。

 ──いや、忘れられるはずもない。

 あのような悪夢の色彩が色濃く、それでいて現実味を帯びた夢を。

 夢特有の話の道筋の不整合。しかし、その不整合の中に、作為的な暗示、伏線めいたものを直感する。

 歴史に名を残す高僧たちに時折舞い降りると言われている『神託』というものがあるとしたら、恐らくこういう類のものなのかもしれない。

 しかし、夢から覚めたウェインの手の中に、夢の世界で掴み、現実の世界では失われているはずの鷲の羽の存在を認識したとき、彼は見た夢が、只の夢ではない。──先刻、彼が自嘲気味な気持ちで喩えた『神託』というものを授かったと思い至った。

 それは、頭の中で論理的に認識したわけでも、心の中で倫理的に感じたわけでもない。それよりも更に深い、人間の深層、その根底のどこかに刻み込まれた、限りなく『確信』に近い『認識』。

 運命に対峙したとき、全身に駆け巡った衝撃。それがその『認識』を抱いた証。

 しかし、そのような『神託』を授かっても事態は好転することはなく、魔物の息のかかった兵団員幹部の放逐は遅々として進まず、魔物達の侵攻を防ぐ為の磐石な基盤を構築するには至らなかった。

 川の流れを塞き止める堅固な堤防ですら、蟻が掘った穴一つから崩壊することもある。それが、磐石ではない基盤であるのならば尚更、崩壊は速い。

 そのような者達によって構築された戦線など、砂の城に等しい脆きものであろう。

 そして、狡猾な魔物達が、その隙に付け入らぬ理由はない。

 人間達の戦線も後退を余儀なくされ、街中への魔物の侵入を防ぐことすらままならず、住民への被害が拡大していく。

 第三自警兵団は、王都ブレイザを救うことは出来なかった。

 あらゆる手段を試みた。しかし、魔物との戦い、そして魔に魅入られた人間との戦いを両立させるのは、それが練磨な兵であれども、過酷を極める。

 そして、それは常に疑心暗鬼と暗中模索の毎日。兵は自分の行いに疑問を感じずにはいられず、それは自信の喪失へと繋がり、信念が揺らいだ。

 揺らいだ信念による振られる剣は鈍く、戦いへ赴く兵の腰は重い。

 それは、敗北の前兆でもあった。

 

 そして、約束されたかのようにやってきた敗走の日。

 絶望と失意の中、ファイナの街から派遣された第三自警兵団は、ブレイザの街の住人を率い、ファイナの街へ避難させることとなり、長であるウェインは、逃げ惑う人々を先導する任務についていた。

 炎に包まれ、黒煙が沸き立つ建物の間を縫い、泣き叫ぶ人々を眺めていたウェインは自嘲的な笑みをこぼしたという。

 ──あの夢と同じだ、と。

 道の脇で黒煙をあげる建物の位置、炎の大きさすらも、あの夢に出てきた景色と同じように思えた。

 あの夢は神託ではなく、予知夢だったのではないか? いや、夢魔の悪戯だったのかもしれない。

 思考が悪い方向へと進む。

 第三自警兵団は、全員疲弊していた。戦に疲れ、ブレイザの兵団の建て直しに失敗し、そして何よりも自らの無力さを呪った。

 この帰路は地獄への道でもある。

 王都守衛の任務に背く行為。背信行為だ。住民をファイナの街へ無事避難させたとしても、勅令に反したこの行為には、必ず厳しい沙汰がある。

 第三自警兵団は、間違いなく解体されるだろう。幹部の数名の首が──文字通りの意味で──飛ばされることだろう。

 今思えば、勝ち目のない戦いだった。機能を失った大都市の兵団を、どうして田舎街の小兵団ごときが、建て直しできるだろうか。

 進むも地獄、退くも地獄のこの戦い。

 王も魔物の息がかかったのではないか、という疑念さえ浮かぶ。

 ウェインは、その場に佇んでいた。失望が胸のうちを支配し、彼から全ての気力を奪っていた。

 ふと空を見上げる。ウェインの視界には、夕焼けと建物を燃やす炎の色が混じった赤に支配されるはず。

 しかし、彼の視界を支配した色は、黒だった。

 宵闇の黒ではない。ウェインの目が驚愕に開かれた。

 その黒色の正体──それは、天空を舞う巨大な鳥。

 いや、鳥ではない。頭と翼は鷲、胴は獅子の形をした獣。

 ──グリフォン。

 最強の魔獣と謳われ、畏れられているグリフォンが、ブレイザの街の上空に現れたこと、それは魔物達の攻勢が、本格化したという証であろう。

 ウェインの心に絶望が付加される。

 その鋭い爪で、人間達の眼を抉りに来たのか?

 その鋭い嘴で、人間達の肉を屠りに来たのか?

 魔獣が、王城の尖塔の上に降り立った。

 最初の獲物に狙いを定めるためか?

 心に一滴落とされた絶望は、まるで乾いた羊皮紙に落とされた漆黒のインクのようにじわりと広がり、醜い染みをつくっていく。

 ウェインは、尖塔の上の魔獣を、無気力な眼差しで見上げていた。

 ──あわよくば、俺を一番の獲物にしてくれ、と願わずにはいられない。

 その時、一瞬グリフォンと目が合った。そんな気がした。

 魔獣が飛び立つ。

 兵団を統べていた男は、その魔獣の姿を静かに見つめている。最強の魔獣の爪にかかって最期を遂げるのであれば、兵としては本望なのかもしれない。

 しかしその直後、ウェインは信じられない物を見た。

 飛び立った魔獣・グリフォンが狙った獲物は、自分でも、眼下で逃げ惑うブレイザの住人達でもなく、同じく空から人間達を威嚇していた空の醜女・ハーピーだった。

 ──人間達を滅ぼすため、共闘をしていた魔物同士が何故?

 その様子を呆然と眺めていたウェインをよそに、一瞬でハーピーを屠ったグリフォンは次なる獲物を求め、地面に向かい降下し始めた。

 この同士討ちと思しき魔獣の行動で、この戦いは終わりを告げた。

 後ろ足で、食人鬼の頭を握りつぶし、鉤爪の一薙ぎで、群れの食人鬼数体の首を吹き飛ばす。

 逃亡を図る人間達との間に割って入り、食人鬼の群れと対峙する。

 数瞬の後、グリフォンの目が輝く。その輝きはやがて閃光となり、眼前の群れを強く照らした。その輝きを照射された屈強な肉体を誇る食人鬼の群れは一瞬にして、脆き砂の塊と化す。それは恐るべき神罰と称すべき魔力。

 そして、天空に舞い、新たな獲物──人間を襲う魔物を視認するや否や、再び地面に降り立つ。

 その壮絶な光景はブレイザの街の各所で起こり、ブレイザの街に侵入した魔者達を一匹残らず駆逐するまで続いた。

 魔物達だけではない。幾人かの人間もグリフォンの睨みにより、砂の塊と化していた。それは、事前の内部調査で魔物の息がかかったと噂されていた者達。

 この街に巣食う、魔という魔が全てが、一頭のグリフォンによって滅ぼされた。

 その後、残されたのは人間達。ブレイザの街の住人達。そしてこの戦いで生き残った半数の自警兵団。そして、瓦礫の山。

 まるで、嵐が通り過ぎた後の様相。

 最強の魔獣の力を、まざまざと見せ付けられた結果だった。

 静けさが辺りを支配する。

 住人達のすすり泣く声が聞こえる中、ウェインはまるで夢遊病者のように、ふらふらと歩いていた。

 無論、目的地などはない。

 覚束ない様子で歩を進める中、彼は瓦礫の山と化した広場に出た。

 ──かつて王城だった場所。

 王は死んだのだろうか? それとも城の地下にあると噂される避難路を使い、逃げたのだろうか?

 そんな疑問が一瞬、ウェインの頭を過ぎったが、彼はすぐにその疑問を忘却の彼方に追いやった。

 瓦礫の山の頂上に佇むグリフォンの姿を見たからだ。

 あれだけ壮絶な戦いを一頭で沈静化させたにも関わらず、その毛並みは乱れることはなく、その容姿は知性と気品に満ち溢れたものだったという。

 しかし、その眼差しは、どこか淋しげな──喩えるなら、親しき者を失った悲しみにも似た感情が浮かんでいたような印象を抱いた。

 ウェインの存在に気付いたグリフォンは、彼を一瞥し、一度頷くような仕草をした後、北の方向へ向かって飛び去った。

 その方向にあるのは、当時、人の手の入っていない未開の地。

 ──魔物達の本拠地があったと噂されていた地。

 グリフォンは、そこで魔物の大多数を滅したと言われている。そして、その代償として、グリフォンの肉体もまた、その熾烈な戦いの末に力尽き四散したとも。

 その日以降、魔物の侵攻が止み、戦いが終わった。

 そして、グリフォンがもたらした奇跡は、それだけではなかった。

 現在、この地方での主要都市には必ずグリフォンの身体の部位を模した名がつけられている。

 それは、北での戦いの折、四散したグリフォンの肉体の一部が降り立った地に奇跡が起こり復興した事が発祥とされ、街の名はその地に降り立ったグリフォンの肉体部位に由来している。

 心臓──それは全ての生命の根源。故に心臓は『生命』の象徴。

 心臓が司る『生命』の力により、魔物の死骸により腐り果て、荒廃した大地が浄化された。

 グリフォンの心臓が降り立った地は豊潤な地へと変わり、そこには農業が栄えた。大地の恵みがあるところには、更に人が集まり活気付き、いつの日からか、政治を担う場所へと発展を遂げた。

 こうして人が集まり、出来た街こそが、今の王都グリフォン・ハートである。

 翼──風無くして、翼は意味を持たぬ。故に翼は『風』の象徴。

 翼が司る『風』の力に乗って、各地より様々な樹木の種子が運ばれた。

 グリフォンの翼が降り立った地には、瞬く間に樹木が生い茂り、澱んだ空気を澄んだ空気へと変えた。

 森林と化した地には、様々な動物達が集まり、人々の間には林業が盛んとなった。豊富な建築資材の産地となり商業の中心ともなった。

 こうして、人が集まり、出来た街こそが、今のグリフォン・フェザーの街である。

 爪──爪を無くして、物は掴めず。そして、爪を無くして敵は討てず。故に爪は『富と武』の象徴。

 爪が司る『富と武』の力により、大地に富を生む黄金の種が植えられた。

 グリフォンの爪が降り立った山脈の奥底に、突如様々な鉱脈が生まれ、緑すら生い茂らぬ険しい不毛の山地を、世界有数の鉱山地帯へと変えた。

 豊かな鉱山資源は、工業の発展の礎となり、鍛冶師や職人を志した者達が集い、この国に剣や鎧などの武具類や、工芸品、宝飾品などといった、武と富を象徴する物品を次々と生み出した。

 こうして発展していった街こそが、今のグリフォン・クロウの街。

 他、様々なグリフォンの肉体の部位が、この地方に多数舞い降り、様々な奇跡をもたらし、戦で疲弊した人間達が、復興するための礎を築いたと言われている。

 神殿は、戦いの折に人間側に与し、そして戦に疲弊した大地に奇跡とも称すべき恩恵をもたらした魔獣グリフォンを、神の使いである獣──聖獣として定め、崇めた。

 

 <3>

 

 今、レヴィン達がいる渓谷こそが、千年前に第三自警兵団が、当時の都ブレイザの街を目指し、行軍をしていた道であった。

 かつて、この川の水は血の色で濁り、人間・魔物問わぬ朽ちた死骸に敷き詰められ、そこは蛆や蝿だけではなく、その他の害虫という害虫、全てにとっての格好の住処となっていた。今の清流からは、全く想像の出来ぬ凄惨な光景であったという。

 千年という悠久とも称すべき時間、そして自然の自浄作用の賜物ともいえる。

 しかし、その歴史を知るものならば、壮絶な歴史の息吹を感じざるを得ない。

「戦いから復興した人間達は、戦での教訓を生かし、魔物から弱きものを守護する為の武を司る者として、己の肉体のみならず、精神共々鍛えることに主眼を置いた、かつての第三自警兵団の思想を取り入れた、新たな武装兵団を設立することに至ったのだそうだ──それが、騎士の起源とされている」

 レヴィンが最後に付け加えて解説する。

 この渓谷に、歴史に息吹を認識したセティは、自分の周辺の光景を眺め、改めて感慨深げに溜息をつく。

 レヴィンとセティの二人が、この光景に自らの知らぬ昔日の光景を重ね見、想い馳せる中、ただ一人──エリスだけが、同じ光景に他の二人とは全く違う想いを込めた視線を投げかけていた。

「ウェイン=シェティリーゼ──我がシェティリーゼ家の初代当主」エリスが呟く。その呟きを聞いた、レヴィンは静かに頷き、セティは驚いたかのように目を大きく見開いた。

 エリスの本名は、エリス=シェティリーゼ。

 昔日の伝説に出てきた、第三自警兵団の長ウェイン=シェティリーゼは、エリスの祖先にあたる。

 かの戦いの後、彼は現在の騎士の起源となった武装兵団の長の座に就いた。

 それ以降、シェティリーゼ家の当主は代々、騎士団の長、または国王の近衛兵長などを勤めている。まさにこの国の武を担う、由緒正しき武の家系ともいえる。

 エリスは、その千年続くシェティリーゼ家の正当なる嫡女なのだ。

 そう、この渓谷に流れる歴史の息吹、その捉え方がエリスだけ違っていたのは、これに起因していた。

 遥か太古の歴史への想い。それは多くの者にとっては、現実であって現実にないもの──まるで夢物語に近い感覚を抱く。

 しかし、エリスにとって──いや、エリスの家系・シェティリーゼ家の者にとっては違う。

 それは紛れもない現実であった。自らの体内に流れる、歴史の血脈がその確固たる証である。

「普段は気にしない事にしているけどね」

 いつもの笑顔に変わる。私は私だ、と自分に言い聞かせるかのように。

 レヴィンが口元に微かな笑みを浮かべ、静かに頷く。

 セティには、その微かな笑みに、エリスへの配慮を垣間見たような気がした。

 伝統ある家系。それはその行動、普段の生活、日々の騎士としての勤め。それら一挙手一投足、全てが天秤にかけられていると言っても過言ではない。

 ──この国の武の要、騎士団の中核を担うに相応しい人物かどうか。品格を兼ね備えているのかどうか。

 しかし、その秤にかけられているエリスは、年端二十そこそこの、たった一人の女性に過ぎない。

 その重圧たるや、一介の神官に過ぎぬセティには、全く想像することは出来ぬ領域のものである。

 口では、強がりを言っているものの、それは脆さの裏返しの行動とも言えよう。

 家系という名の網に絡まれ、毎日必死に足掻いている。その苦しみは、エリス本人にしかわからない。

 だからこそ、レヴィンは多くを語らず、長年連れ添ってきた相棒の心を静かに支える。

 そんな、レヴィンの──少し不器用な、でも確かな温もりに満ちた優しさをセティは垣間見ていた。

「さぁ、行こう!」

 いつもの元気を取り戻したエリスが声を上げ、歩き出す。

 そんな親しき友を、微笑ましく見つめていた神官セティが慌てて追いかけ、その後を静かに歩き出すレヴィンが続いた。

 時は白昼。少し急がねば日没までに、グリフォン・アイの街にたどり着くことは出来ない。

 三人は先を急いだ。

 

 <4>

 

 ──瞳の街、グリフォン・アイ。

 目指すは、この街の中央に位置する神殿。

 この旅は、神官であるセティの旅であるのだから、街に着いて、先ず目指すは神殿であるのが筋。

 公式の巡礼の旅ではないので、神殿で礼拝を執り行うということはないが、数日は滞在し、現地の神官らとともに、祈りを捧げ、語らい、奉仕活動に従事することになる。

 その間、彼女の護衛として同行している騎士──レヴィンとエリスの二人もまた、現地の騎士隊と合流し、一時的に身を置く手筈となっている。

 早馬による事前通達が確かに届いているのならば、今頃は受け入れの準備が整っていることだろう。

 街を支配する宵闇を、道端に灯された松明が鮮やかな赤色に彩る中、レヴィン達三人は、街の中心部に至る大通りを歩いていた。

 人々は昼間、生活の糧を稼ぐために働き、日が暮れれば、明日に備えて身体を休める。即ち夜は休息の時である。

 そして、休息は総じて静けさを求める。故に夜は、静寂が支配することが常であるが、今日は違っていた。

 道一杯に屋台が立ち並び、昼間の晴天の影響もあってか、辺りは圧倒されそうな熱気に溢れていた。石畳の道を歩きながら、レヴィンたちはその様子を眺めていた。

「賑やかですね」

 セティは目を細め、静かに、そして率直な感想を漏らす。

 見知らぬ者同士が、酒をあおり、歌をがなり、肩を叩き合う。

 日頃から研鑽を積み、芸術の領域へと達した曲芸を披露し、人々の歓声を我が物にする大道芸人の一座や、甘い声で恋物語を詠い、道行く若い女性の溜息を誘う吟遊詩人の姿も見られた。

 活気は喧騒の色を帯び、街中を力強く彩っていた。

 エリスは何気なくセティに話しかけた。

「お祭り、なのかな?」

「──でも、今日は祭日ではないはずですけれど」

 答える神官は疑問を口にし、小首を傾げた。

 この国では日を定め、年に数回は街を挙げて、このような祭事を行う。それは神に奉納し、その季節の国の安寧を願うというのが本来の目的であるため、その性質上、神殿が主体となる。

 祭事を行う日は、その地方の事情や天候によって二日程度の前後はあるものの、然程、大きなずれはない。

 そして、今は祭りを行う時期ではないのだ。

「ならば考えられる事は限られてくるな」と、レヴィン。「慶事でもあったのだろう。恐らく、この街の重鎮や貴人の類の」

「だとしたら、喜ばしいことですね」セティが笑顔で頷く。

「でも、これだけ盛大なお祭りということは、余程のことがあったんだね」

 祭りの喧騒に目を輝かせるエリスに、レヴィンは苦笑を浮かべた。

 明らかに、彼女の意識は祭りに向いてしまっている。

 レヴィンが、エリスの頭を軽く小突いた。

「エリス、任務を忘れるな」軽い口調で注意を促す。

「わかってるって」エリスは小突かれた頭を右手で覆い、大袈裟に痛がる素振りをし、口を尖らせて抗議した。

 セティから、小さな笑い声が漏れる、その声を聞いたエリスはセティを睨みつけるが、セティは我関せずと言わんがばかりに、わざとらしく視線を反らし、女騎士からの理不尽な声無き非難を軽くあしらった。

「まぁ、セティを神殿まで送り届け、騎士隊に挨拶をしにいった後ならいいんじゃないかな」

「そうですね。私も神殿で挨拶を済ませた後でしたら、お二人と一緒に祭りを楽しもうかなと思っていましたし」

 さすがにからかい過ぎたと、少々罪悪感を抱いたからか、慌ててレヴィンとセティが、そう言い繕う。

「そうだよ、グリフォン・フェザーの街から、何日もかけて来たんだから、たまには羽を伸ばさないと疲れちゃうよ」

 エリスはまだ少し拗ねていた。

 学者の家に生まれたレヴィンはもちろん、神殿暮らしの長いセティも、その生活環境上、感情よりも思慮が先行しやすい。

 そんな二人にとって、感情が表に出やすいエリスは、からかうには丁度良い標的なのだ。

 三人が旅をするようになって幾日。このような場面は何度あったことか。

 ──しかし、これはエリスに対する彼らなりの気遣いでもあった。

 由緒正しき家に生まれ、千年に亘る歴史や伝統の重圧を、そのか細い背中に背負うことを宿命づけられた彼女。

 ゆくゆくは、その伝統に従い、この国の騎士団、その中核を担う騎士となっていくことだろう。

 そのような立場に立てば、自らの理念に反した決断を下さなければならない場面に直面することも出てくるであろう。

 本心とは全く異なる事を、自分の責任において、発言しなければならない場面に直面することも出てくるであろう。

 己の中にあって然るべき己が失われていく、喪失感にも似た感覚に悩まされることだろう。

 そして、エリスはその定めに時には抗いつつも、真正面から受け止めようとしている。必死に足掻いている。

 その苦しみたるや、二人には計り知れない。シェティリーゼ家の生まれではない二人には、その苦悩を肩代わりすることは出来ない。

 ならば、ありのままの自分を認識できる場を、ありのままの自分でいることが許される場を、今から作り上げていこう。

 怒りたければ、怒ればいい。

 笑いたければ、笑えばいい。

 愚痴を言いたければ、愚痴を言えばいい。

 疲れたのならば、眠ればいい。

 そんな場を作る事が出来るのは、他ならぬ、友や仲間と呼ばれる者だけに与えられた──たった一つの、しかしとても大きな力なのだから。

 ふと、セティとレヴィンの視線が合う。

 お互い、同じことを考えていたのだろう。二人はお互いの瞳の奥にある、友に対する暖かい感情を認識し、軽く笑いあう。

 そんな様子を、エリスは訝しげに見る。

 その時、人々の盛大な歓声が沸き起こり、それに驚いた三人の思考が一瞬止まった。

 

 声は中央広場の方から沸き起こっていた。人垣が出来、広場に向かい、その盛大な歓声を発している。

 自分達の目的地もあそこなのに、とレヴィンは目の前の人垣を、少し疎ましく思う。

 しかし、好奇心に目を輝かせたエリスとセティが広場のほうへと駆け出し、人垣に混ざろうとしていたので、レヴィンもその後を追った。

「レヴィン、こっち」

 エリスが手招きする。

 レヴィンが人垣を掻き分け、エリスとセティの元へと向かった。

 そこは人垣の最前列、目の前が開け、中央広場の様子が一望できる場所。

「レヴィン、あれ」

 隣のエリスが、広場を指差した。

 彼女が指し示した方向、そこにあるのは、篝火が焚かれ周囲を鮮やかに照らし出された空間。そこを占拠し、自らの華麗さ、豪勢さで観客を魅了していた一団がいた。

 それは数十名にも及ぶ重厚な鎧で武装した騎士達に護衛された馬車があった。

 一団の両脇に連なる奏楽隊が祝いの曲を奏でる中、その馬車の上、正装した御者の後ろに、二人の男女──純白の衣装に身を固めた初老の男。そして純白のドレスと、金や様々な宝石を施された煌びやかな冠で着飾った若い女性が座し、歓声をあげる人々に手を振り、笑顔で応えていた。

 月明かりと、篝火がもたらす幻想的な光に照らされたその姿は、その美しさを一層際立たせる。

 彼女が身に纏っている純白のドレス、そして様々な装飾品も、月明かりや篝火などがもたらす様々な光、その加減を計算された造りをしているのだろうか。それ程までに、完成された美がそこにはあった。

「──綺麗な人ですね」

 セティが目を輝かせ、溜息を漏らす。

 俗世からある程度離れた場所で生活を送る神官といえども、彼女もれっきとした女性である。美しい衣装で自分を着飾るということに、強い憧れを抱くのは当然。

「そうだね、綺麗だね」

 そんなセティにエリスが同意する。彼女もまた、着飾った女性の美しさに魅入られ、溜息をついていた。

「成人の儀かな?」

 成人の儀──それはある程度の地位のある貴族家の嫡子が十六の誕生日を迎えた日、街の住民の前にその成長した姿を披露し、正当な有力者、その後継者として、街の為に生涯を捧げることを誓うというものだ。

 そして街は、新たな時代の風を、街を挙げて盛大に祝う。

 その時、屋台に並ぶ酒や肉、そして各地から取り寄せられた珍味の類に至るまで、主催となる貴族家の負担のもと、これらは全て無料で振舞われるのだ。

 無論、それは街に対する自らの影響力を示すといった、政治的な意図もあるのだが、退屈な日々を潤す良き機会とし、人々はその祭りを喜んで受け入れ、心酔した。

 今でこそ都市部では薄れた伝統である。しかし、数十年前まではどこでも頻繁に行われた慣習であり、地方によってはこのように昔日の名残を留めているのだ。

 それならば、国が定めた祭日ではない日に、祭りが行われたことにも説明がつく。

「ならば、あの隣に座っている初老の男は、この街の太守か有力な貴族なのだろうな」

「旅の方かね?」

 レヴィンが納得したかのように頷いたその時、不意に声をかけられた。声の主は、セティの隣にいた初老の女性。

「ええ、そうです」

 セティが、女性の方を向き愛想よく返事をし、略式の礼をした。

 女性も少し遅れて、それに倣う。

「この集まりは一体?」セティが率直な疑問を女性に投げかけた。

「領主様の、ご成婚ですわ──あの馬車の上の、白い衣装に御身を包まれた方こそ、このグリフォン・アイの領主様。そしてそのお隣にいらっしゃる方が、このたび、領主様の新しき妻となられる御方です」

「──え?」

 セティが驚き、素っ頓狂な声をあげ、改めて馬車の上で手を振る二人の姿を見た。

 傍目には親子──いや、下手をしたら祖父と孫の間柄と称してもおかしくない程、年齢が離れていると見て取れる。

 セティだけではない。その場にいたレヴィン、エリスも驚きの表情をしていた。

 その様子を見て、セティの隣にいた女性は上品な笑い声をあげた。

「驚かれたご様子ですな、神官殿」

「ええ、それはもちろん」

「──まだ、領主様には跡取りがおらぬ」

 その一言に、レヴィンとエリスの表情は、少し厳しいものへと変わり、お互い顔を見合わせた。

「子宝に恵まれぬままに、昨年奥様に先立たれ……昨年の今頃は、後継者問題で政治は荒れ、それは酷いもの。これで少しは街も落ち着けば良いのですが」

 少し苛立ちの含んだ女性の愚痴にセティは、大変でしたねと返事を返し、改めて広場の中央、馬車上の二人──グリフォン・アイ領主と、その新しき妻の姿を見た。

 セティは改めて、人間が抱く印象というのは、不思議なものだと実感した。

 純白の美しい衣装に身を包み、街の人々の歓声に笑顔で手を振って応えるその姿に、喜びに満ち溢れている印象を抱いていた。

 しかし、隣の女性の話を聞いた今、その喜びの姿は、暗い真相を覆い隠す為に作られた精巧な仮面をかぶっているような、そんな気さえしていた。

 化粧で顔を作られているものの、見れば花嫁はかなり若い。エリスやセティよりもかなり年下──およそ十五、六歳といっただろう。まだ、穢れを知らぬ年齢である。

 もし、ただの街娘として生を受けたのならば、気の合う友人達と、まだ見ぬ将来の夢を語り合っていたのかもしれない。

 意中の男性に、淡い恋におちていたのかもしれない。

 だが現実は、生家の政争の切り札として、その身を、女としての性を売り飛ばすかのような、過酷な運命を背負っている。

 そう思うと、あの喜びを装う姿に哀れな印象すら抱く。──無論、貴族間の婚姻など、純粋な慕情の果てに結ばれる事こそ稀有な話ではあるのだが。

 セティは、少しやるせない想いを抱いた。

「そろそろ、行こうか」

 横からエリスの声がかかり、セティの意識は、現実へと引き戻された。

 見れば、エリスは少し退屈そうにしていた。さっきは自分と同じく花嫁衣裳に魅入っていたのに。

 神官は少し乾いた笑いを浮かべた。

 しかし、綺麗なものも長いこと見続けていれば、やがて飽きる。ましてや活発な性格のエリスのことなら尚更、綺麗な花嫁衣裳よりも、屋台に立ち並ぶ酒や珍味のほうに興味津々なのだろう。『色気より食い気』とは、よく言ったものだ、とセティはそう結論付けた。

「そうですね。早く用件を済ませてから、私達もお祭りを楽しみましょうか」

 セティがそう笑顔で答え、この人垣から脱出しようとする。

 エリスもそれに続いた。

 しかし、レヴィンだけがその場に留まり、静かに佇んでいた。

「レヴィン、行くよ」

 エリスから、再度声がかかる。

 しかし、騎士は動かない。

 セティもその異変に気付いた。

「レヴィンさん?」

「やだ、レヴィン。いくら花嫁が綺麗だからって、そんなに見惚れなくてもいいじゃない」

 エリスが軽い口調で笑い、レヴィンの肩を叩く。

 レヴィンだって、健康な男性だ。目の前に美しい女性がいるのならば、見惚れるのも無理はない。

 もし、それがその場に留まっている本当の理由ならば、自分は何なのだろう。その辺り、後で絶対に問い詰めてやると、心に決めた。

 だが、そのエリスの安っぽい覚悟は、全く当ての外れた心配だった。

 レヴィンの目つきが、その可能性を否定していたからだ。

 確かに、彼の視線は花嫁の姿を捉えていた。しかし、その魅力に取り付かれていた様子は欠片も感じさせなかった。

 真剣な眼差しではあった。しかし、その視線はどこか否定的な感情が込められているような、そんな気配がしていた。

 そう、まるで学者が、他の学者が書き記した論文を読んでいるかのような目つき。

 ──あの視線、どこかで。

 エリスは、その視線に見覚えがあった。

 任務に赴くときの、真剣な目つき──違う。

 それとも、調査の任務の途中、行き詰まり思案しているときの目つきか──それも、違う気がする。

 エリスは記憶の糸を探る。その最中に突然、彼女の頭の中で閃光が走った。

 ──思い出した。

 あれは幼い頃、レヴィンと出会って一年くらい経っての頃。私が友達の家に遊びに行き、些細なことで喧嘩をして帰ってきた時の事だ。

 体中の怪我を見て、心配したレヴィンに私は『転んだ』と嘘をついたことがある。

 レヴィンに心配させたくない、その一心でついた、他愛のない嘘。

 その時、彼が私に向けた視線。無言で、じっと私の目を見つめ、私の嘘を、見抜こうとしていた。

 嘘の挙動を一瞬たりとも見逃さないという意思を込めた、そんな分析的な視線だったような、そんな気がする。

 ──レヴィンは、あの花嫁姿に何を見たのだろう?

 エリスは彼の思考を邪魔せぬよう、彼の横顔をじっと見詰めたまま、その場に佇んでいた。

 セティはその二人の様子から、ただならぬ気配を察していた。

 頭の良いレヴィンの事、先程の自分のように、あの花嫁の姿から何かを察したのだろう。

 今は恐らく、その聡明な頭を回転させ、考察している頃だろう。

 それを察したエリスが、彼の思考の回転を邪魔せぬように、静かに見守っているといったところだろう。

 エリスが、一度セティのほうを一瞥し、軽く頷く。──セティの予想が的中している事を暗に示す動作だった。

 だから、セティは神に祈った。レヴィンがその思考の回転の中、何かしらの答えを導き出すことが出来るように、と。

 

 レヴィンは先刻セティと会話していた女性の話を聞き、このような祝福されるべき場にそぐわぬほど冷淡な目で、馬車上の二人を観察していた。

 宵の口の時刻。夜の帳が下りてこそいるが、四方より盛大な篝火で照らし出された空間には影が潜む場所などはなく、かのような舞台の上に佇む役者、その詳細を視認するには、然程問題はない。

 ──権益が絡む貴族同士の婚姻。純粋な愛情を育んだ結果ではないことを想像するには難しくない。

 悲しい宿命ではあれども、生家の為に、そして親や家族の利権を守る為に、貴族の娘としてその身を政争の戦火に投じる。

 権力渦巻く執政の世界は、まさに伏魔殿と称すべき様相を呈している。

 それは人としての、倫理など通用せぬ世界。

 金、権力、婚姻。──その全てが権力を握るための切り札の一つに過ぎず、その世界に生きることを生業とした貴族家に生まれた者ならば、皆、その黒き渦の中に飲まれる定め。

 このような、自らの望まぬ者との婚姻もその一つだ。

 家の発展の為に『自分』という札が切られる日を覚悟し、備えて待て──貴族家に生まれた娘ならば、そのように徹底的な教育を受けているのが常。

 穢れを知らぬ少女が、幼少の頃より決めていた覚悟を胸に、政界という名の伏魔殿に身を投じる為の儀式。それがこの手の婚姻劇の真の姿ともいえよう。

 それでも、レヴィンは拭い去れぬ違和感を抱いていた。

 その違和感の種、それは彼の視界の中にある、馬車上で笑顔を浮かべ、手を振る花嫁の姿にあった。

 笑顔の仮面の奥、瞳の中を見る。

 そして、そこには、意志の力を感じ取ることは出来なかった。まるで、物言わぬ人形のように、空虚そのものと言っても過言ではないほどに。

 自らの望まぬ者との婚姻に拒絶を示し、反発の意志を拭い去れずにいるわけでもない。

 家の為、親の為と覚悟を決めた──ある種の強さを秘めたわけでもない。

 ──ただ、空っぽだった。

 空虚な感情を秘めた目を笑顔の仮面で覆い隠し、喜びを繕う様は、異様ともいえる光景。そして同時に痛々しい光景でもあった。

 だからこそ、レヴィンは違和感を抱くに至る。

 祭りの喧騒、表面上の祝福の空気に踊らされた人々の視点とは、一線を画した観察眼がなければ思い至らぬ疑問に、騎士は辿りついていた。

 それは、学者の出自であり、常に他人とは異なる視点から物を見ることを意識することに慣れ親しんだレヴィンだからこそ至る、思考の領域。

 ふと、花嫁から目を離し、レヴィンは空を仰いだ。

 そこには、雲ひとつない。──まるで新しい夫婦の門出を祝福するかのように、美しい星々が、夜空を彩っていた。

 しかし、レヴィンはその夜空に、このグリフォン・アイの街を覆う暗雲を見たような、そんな気がしてならなかった。


 
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