No.219750

【加筆修正版】 "Two-Knights"Vol'01 第一章「二人の騎士」

全8巻で構成される長編ファンタジー小説
"Two-Knights"第1巻の第一章を公開いたします。

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 <1>

 

 辺りに、柑橘類のそれを思わせるような、甘く酸味を帯びた香りが漂っている。

 その香気に誘われるかの如く、男はゆっくりと目を覚ました。

 ──頭が痛い。まるで大きな鐘を頭上で鳴らされているかのような痛みに苛まれる。

 長き眠りから覚めたばかりか、意識はやや朦朧。目の焦点すら定まらぬ。

 暫く待つと、男の視界に松明の火で薄紅色に照らし出された石造りの天井を捕えた。

 暗い室内に寝かされているようであった。

 男は状況を更に詳しく確認しようと、いまだ気だるさが残る身を起こそうと、上半身を起こそうと、腹筋に力を込める。

 しかし、如何に力を込めようとも、その身体は一切動かなかった。

 改めて、その身を起こそうとも、或いは捻ろうとも、肩も、腕も、腰も、脚も、微動させることすら叶わなかった。

 首と上半身の一部が、辛うじて微かに動かせる事が精々。

 これは、覚醒時特有の──気だるさの所為ではない。

 巡回兵としてこの十年。街に巣食う悪党どもを、この腕と自慢の槍術で捻じ伏せてきた。齢四十を超えても衰えを実感したことは、一度たりともない。

 故に、この異変は急な病や、疲労、加齢による衰えの類によるものとは思えなかった。

 原因の解らぬ、だが、この明らかなる異常は男に恐怖を覚えさせるに十分なものであった。

 戦慄し、全身から脂汗が噴出す。

 その恐怖と戦慄が引き金となったのか、一斉に意識と触覚が鮮明となった。そして男は自覚した。

 肩、手首、腰、脚、そして足首を包む、圧迫感にも似た感触が存在しているという事を。

 微かに動く首と、目を動かし、五体を支配する何かを視認しようと試みる。そして、事実を知るや、男は驚愕のあまり、言葉を失い、息を飲んだ。

 金属製の寝台に寝かされ、拘束されていたのだ。

 それは、その寝台に備え付けられた革製の拘束具により、左右の肩、肘、手首、胸、腹部、腰、そして左右の大腿部、膝、脛、足首といった、身体の要所が全て固定させられていた。

 捕らわれた罪人ですら、ここまで強力な拘束を施すであろうか?

 この常軌を逸した事態に、男の焦燥は更に加速していく。

『なんだ、これは……』

 男は言葉を発しようとした。しかし、猿ぐつわを噛ませられており、それすらも叶わぬ。

 心臓が今まで体験したことがないほどに早く脈動し、全身から止め処なく汗が流れ落ちた。顔面は蒼白、鼻腔を往来する呼気は荒い。

 男は全身の力を振り絞り、身を捩った。

 しかし、頑丈に固定された革製の拘束具は微動だにせず、ただ徒らに身体に痣や傷をつくるだけであった。

 次第に鮮明になる痛み。皮肉なことかその痛みをもって、男は知ることとなる。

 ──これは夢ではなく現実なのだ、と。

 ここにきて、暗闇に目が慣れてきた。次第に広がる視界。

 暗闇に慣れたとしても、例えようのない、しかし絶対的な恐怖が男の心を捕らえて離すことはない。

 いや、この場合に限っては、視界など戻らなかったほうが幸せだったのかも知れない。

 男は、自分が寝かされている寝台の隣に設置されてある大きな水槽の存在を察知し、それに視線を向けた。大の大人が身体を横にしても平気で全身を漬けることが出来るほどの大きな水槽を。

 緑色の半ば透明な液体に満たされたそれは、柑橘類を思わせるような甘く酸味を帯びた香りを強く漂わせていた。

 恐らく──いや間違いない。

 自分を眠りの世界から、恐怖の現実の世界へと誘った香り、悪魔の香気の正体はこれである、と。

 そして、その水槽の中に男は見た。近い未来、自分が辿るであろう末路を。

 球状か、やや卵型に近い『それ』は、水槽を並々と満たした半透明な緑色の液体の中を、色濃い靄のようなものをゆっくりと引き連れながら漂っていた。

 液体の中を、ゆっくりと漂う『それ』は、角度によってありとあらゆる形を見せる。

 ある時は球形、またある時は卵型、そしてまたある時は──

 水中を自由に漂う『それ』が水槽の内壁を打つ。

 その刹那、男は見た。

 硝子の壁面に映し出された物体の表面を。

 水分によってふやけ、原型すら留めてはおらぬ『顔』であった。

 水槽の中を漂う『それ』とは──人間の首。

 胴体から切り離されてから、それほど時間が経っていないのであろうか、その首の切断面と思しき箇所から血は靄と化して、首と伴って液中を舞う。

 男は、恐怖と絶望のあまり、必死で叫び声をあげようとした。

 しかし、猿ぐつわを噛まされているせいで、それは叶わぬ。知らぬ間に口の端が切れ、口元の布に血が滲み出す。

 水槽に漂っていたのは、人間の首だけではない。

 首を失った人間の上半身や、切断された沢山の腕や下半身。そして、人間のものであろう内臓の類──多種多様の切断された人間の部位の数々。

 それを鮮明に視認した途端、男の心に狂気が牙をむいた。狂気の正体は死への恐怖、生への渇望。

 男は更に叫ばんと喉を振るわせる。先刻の必死さとは全く異質の、まるで狂気の色すら帯びた所作。

 猿ぐつわが口元の肉に食い込み、布に滲んでいた赤色が、更に広がりを見せる。

 その時、部屋の奥から大きな音が聞こえた。

 錆びかけた鉄が擦れて、軋む音。──恐らく、この部屋の扉が何者かの手によって、開かれたのだろう。

 その音を聞き、男の心を支配していた狂気は瞬時にして鳴りを潜め、同時に男は息を潜めた。

 明らかな人の気配。そして、男のほうに近付く足音。複数の人間が発しているであろう、規則的であると同時に複雑な音の連続が鳴り響く。

 音が止み、男の視界の中に、二人の男の姿が飛び込んできた。

 一人は不自然なまでに頬のこけた男。首から下を灰褐色のローブに身を包んではいたが、その体型はかなり大きくがっしりしていた。

 眼は常に見開かれており、その瞳には正気の欠片すら感じ取ることは出来なかった。

 もう一人は、頬のこけた男と比べればかなり小柄に見える。同様の灰褐色のローブに身を包み、フードを深くかぶっていた。

 その為、顔や表情の類は視認することは出来ない。

 ローブの袖から見えるのは黒く焼け焦げ、爛れた両の手。そして、各々の手の先に握られているのは鋸と鉈。

 男は、その酷い火傷に見覚えがあった。記憶の糸を必死に探る。

 そして、程なく求めた答えへと辿りつく。

 先刻、狂ったように暴れたお陰か、猿ぐつわが緩んでいた事を察した男は顔を捻り、口元より布を除けると、恐怖に震えながらも初めて声を発した。

「貴様は……」

 しかし、火傷の男からは返答はない。右の手に握られた鋸が、松明の灯りに反射し、ぎらりと不気味な光を発していた。

 その時、男の頭を閃光が駆け巡った──十日前だ。

 十日前に、この男に会っている。

 しかし、恐怖の所為か、狂気の所為か、記憶の糸が複雑に絡まり、前後の記憶を掘り起こす事は出来なかった。

 男は、考えるのを諦めた──その時だった。

 いつの間にか、傍らに近付いていた頬のこけた男の手により、急に頭を押さえつけられた。

「何を……」

 声を上げようとした瞬間、強引に手を押し当てられ、口を封じられる。

 苦しい。呼吸すらままならぬ。

 必死に足掻こうと、身体を捩ろうとした瞬間。今度は腹部に別の圧力を感じた。

 小柄な男が馬乗りになっていた。

 ──そして、右手に握られた鋸を静かに首に当てる。

 逃れようと、巡回兵の男は必死でもがいた。なんとか、口に当てられた手を払いのけ、言葉を発する。

「……殺すつもりか」

 二人の男から、一切の返答はなく、その代わりに鋸が一度引かれる。首の皮膚が数枚切れ、血が滲んだ。

 彼らの動作は淡々としていた。

 まるで、退屈な毎日の仕事をこなすかのように。

 恨みや快楽で命を奪うような異常者の所作とは一線を画した機械的な動作であった。

「こんな事をして、ただで済むと思うな……」

 恨みの言葉を吐きかける。しかし、恐怖に駆られるだけの男の心に、遺恨の感情など微塵も芽生えてはなく、眼前の男らに何らかの感情の起伏を起こさせんとするが為に行った、必死の演技であった。

 しかし、この必死の努力も空しく、二人からは何の変化も反応もない。淡々と鋸の往復が繰り返されるのみ。

 やがて、傷口から真紅の液体が噴出し、鋸と、それを握りしめる、皮膚の爛れた手の甲を濡らし始める。

「殺すつもりなら、ひと思いにその鉈で頭を……」

 もう助からない。男は悟り、諦めた。

 そして懇願した。苦しまないように、一撃で殺してくれ、と。

 だが、その必死の懇願すらも、往復を繰り返す鋸の動きに一切の変化を与えることはなかった。

「それでは、駄目なのだよ」

 鋸を引く男──フードを深々と被った男が頭を横に振り、初めて言葉を発した。

 枯れた声。まるで老人のような声だった。

 しかし、老人のそれとは違い、その声には特有の力強さが感じられた。間違いなく若い男性のそれであった。

 また一度、鋸が引かれる。

「頭を壊してしまっては、何の意味もない」

 更に一度、鋸が引かれる。

「脳は、壊れるのが早いからな……そうなっては、『部品』として使い物にならぬ」

 この言葉を発せられた時、男は絶命した。──最後に最愛の妻と子の顔を脳裏に浮かべながら。

 

 悪魔の所業とも呼ぶべき、凄惨な作業は一時間程で終焉を迎え、頬のこけた男は、切断された頭部、上半身、下半身、脚、腕を、拘束台の横にある水槽に沈めていく。

 床には血の海が広がり、この非人道的な作業を行った二人の男の踵を濡らしていた。

「今日もご苦労だったな、サーディス」

 枯れた声の男が助手の名を呼んだ。サーディスと呼ばれた頬のこけた男は、首を何度も縦に振る。

「今日はもう、持ち場へ戻れ」

「……?」

 サーディスは首を捻る。

 助手の、この間の抜けた動作に、枯れた声の男は苛立ったように、少しだけ声を荒げた。

「火薬庫だ……何度も言わせるな」

 そう言って、枯れた声の男が部屋の片隅にある、うず高く詰まれた、人間の胴体や腕の山を一瞥した。

「ついでに、この残骸も捨てておけ。捨て場所は貴様に任せる」

 サーディスは、再び首を何度も縦に振る。それはまるで糸の解れかけた操り人形のような、あまりにも不自然な動作であったが、その反応に満足したのか、枯れた声の男は皮袋を、助手の手元を目掛け、投げた。

「これは今日の報酬だ。好きなものを買うといい」

 皮袋は助手の両手の中に収まるや、それは微かな金属音を奏でる。

 中身は金貨であった。数にして三十。この街で一般の男性が半年働いて得られる報酬に匹敵する。

 しかし、このサーディスという男は、この大金を一夜のうちに使い果たしてしまうだろう。

 その理由は、今の彼の状態にあった。

 彼は『ある物』を大変嗜好している。──それは葉巻。無論、それは一般の者達が嗜好するような代物ではない。

 闇の世界で取引されている葉巻である。火を付け、吸い込むと精神的快楽を得られるという魔法の葉巻。それ故に常習性が強く、また多用することにより心身を蝕み、時には死に至るという魔性の産物。

 サーディスはその葉巻による障碍の末期症状にあった。

 いや、そういう人物だからこそ、枯れた声の男は彼を助手に選んだとも言える。

 金貨の入った袋を受け取ったサーディスは、てきぱきとした調子で、部屋の片隅にある残骸を大きな麻袋に積め、その肩に担いだ。

 そして、足早にこの建物を後にする。

 こうして一人残された枯れた声の男は、暫くの間、この惨劇の部屋の中に佇んでいた。

 血に塗れた拘束台。踵を濡らすくらいまでに広がった血の海。新たに増えた水槽。──そして、その中に浮かんでいる新しい『部品』。

 それらを、静かに眺めたまま。

「これで、完成にまた一歩近付いた。……これで、議会の頭の固い爺どもの認識も変わるだろう……『騎士』などという時代遅れなものよりも『こいつ』を使ったほうが遥かに有益だということに」

 部屋の中を掠れた笑い声が反響した。

『こんな事をして、ただで済むと思うな』

 その時、こんな言葉が脳裏をよぎる。

 それは先刻、彼の手によって命を絶たれた男が遺した言葉。

 その言葉を一笑に付した彼は、聞く相手の存在しない闇の空間にこう答えた。

「ただで『済む』のだよ、何故なら私は──」

 

 <2>

 

「待て!」

 そして、整備が行き届いていない石畳をブーツの踵が激しく打ち鳴らす耳障りな音に混じり、同調した若い男女の声が辺りに響いた。

 度重なる魔物達の侵攻と復興の繰り返しの歴史の中、その規模を縮小せずに維持している街──グリフォン・フェザー。

 しかしながら、その復興の恩恵に与っているのは、政治の中心である太守の居城周辺、貴族階級の身分の者が住む高級邸宅街、それと商売の中心となっている大通りの街道周辺といった一部地域のみに限られており、一度裏の通りに回れば、程なく未だ手付かずの地域へと辿り着く。廃屋と区別のつかぬ程に老朽化した小屋が立ち並ぶ、貧困層の者達が住まう通りへと。

 そう。一見、整備が行き届いた街の外観は、貧困に苦しんでいるという庶民の現状を覆い隠す『蓋』の役割を十二分に果たしていた。

 それはまさに、この街が如何に『虚栄』というものに満ちているのかを、象徴しているかのよう。

 声が鳴り響いたのも、そんな政治の恩恵から見放された貧民街の一角。

 人の気配すら感じられぬ寂れた一角で、今まさに、一つの追跡行が終焉の時を迎えようとしていた。

 追っている一方は一組の男女。黒髪の青年と、短く切りそろえた活発的な印象を与える髪と、美しい額飾りが印象的な女。

 青年は金属製の甲冑を纏い、女は簡素ながらも機能的な胸当てを身につけていた。

 青年の名はレヴィン。そして、女の名はエリス。

 二人は、王からの勅命によって、この街に派遣・駐留し、守衛する役目を担う『騎士隊』と呼ばれる部隊に属する者──即ち、二人はれっきとした『騎士』であった。

 そして、追われている方は、独特な走り方が印象的な小柄な男。

 近年、このグリフォン・フェザーの人達を悩ませている、とある賊の首領と言われている男である。

 彼らは街中で他人と擦れ違う時にわざと肩と肩を衝突させ、なるはずもない大怪我をしたと言いがかりをつけ、脅迫をしては多額の金銭を要求するといった手口で、荒稼ぎをしているという。

 昔より、この手の賊は基本的に個人の犯行というのが定説とされており、街の治安を守っている巡回兵達に任せておけば、問題はないと考えられてきた。

 しかしその定説は手口を組織化・凶悪化させることにより、脆くも崩れ去ることとなる。

 要求額は日増しに高くなり、かと言って支払いを拒めば自宅まで追跡され、その周辺で居座りや誹謗中傷の類を繰り返す。

 それでも尚、支払いを拒むようならば、彼らは被害者の家族にまでその汚い手を伸ばしていった。

 一人でいるところを連れ去り、集団で暴行するだけに飽き足らず、さらにそれが婦女子ならば、更に非道な行為にまで及ぶまでに冗長していった。

 名目上、巡回兵は騎士隊の指揮下に置かれてはいるが、その正体は、金で雇われた一般の者達である。ある程度の訓練や教育を施されてはいるものの、騎士のそれとは比べ物にならぬ。

 無論、与えられた権限も、然程強くはない。

 このような性質上、組織化・凶悪化した集団にとって、彼ら巡回兵は無力な存在であったのだ。

 そう。常に巡回兵の目があるにも関わらず、罪のない弱者から金銭を脅し取り、莫大な利益を不正に得ることに成功していたのは、このような背景があってのこと。

 もはや巡回兵達の手に余ると判断した『騎士隊』は、レヴィンとエリスに、この賊の掃討を命じたのだった。

 調査により賊の本拠地を突き止めた二人は、一網打尽にせんと、十数名の仲間を引き連れ、その本拠地と思われる貧民外の一角にある廃屋に一斉に雪崩れ込んだのだ。

 レヴィンとエリスは、齢二十を超えて数年。騎士資格を得てから二年足らずの若い騎士ではあるが、騎士になるために過酷な訓練と試練を乗り越え、騎士の名に恥じぬ武力と、騎士道精神をその心身に叩き込んでいる生粋の職業戦士である。

 また、レヴィンに従う者達も、長き戦いの歴史の中で培った百戦錬磨の強者であった。

 ましてや、敵は所詮、弱者に対し卑劣な手を使わなければ、己の力を誇示することができぬような者達である。騎士の手にかかれば、彼らを征する事など、赤子の手を捻るよりも容易い事であろう。

 しかし、賊も長年この貧民街を牛耳っていた訳ではない。この廃屋が彼らにとっての本拠地である以上、地の利は彼らにあった。

 追われる者としての長年の経験により、こうした隠れ家で生活する際の備えとして、配下達を入り口付近、格上の者は家の奥に備えられた逃走用の抜け穴近くに配置して生活するという決まりごとを定めていたのだ。万一の際、部下達を盾にし、格上の者が逃走するための時間を稼ぐ為に。

 今回も、その掟が功を奏し、結果、この首領格の男はレヴィン達の捕縛を逃れ、逃亡に成功していた。

 夜空を、今にも雨が降りそうな重く厚い雲が覆い隠す中、レヴィンとエリスは男の後を追っていた。逃げる男の独特の走り方は、足音を立てずに早く走る盗賊独自の技術の賜物である。

 恐らくこの男は、この卑劣な稼ぎをする以前に、盗みの類の経験もあるのだろう。そう、レヴィンは値踏みしていた。

 そんな追跡行の末、とうとう男は袋小路に迷い込んでしまった。男の表情が後悔の念で歪む。

 貧民外の地理に詳しい盗賊ではあるが、長時間に渡る全力疾走の末、最後の最後で逃げ道の選択を見誤ってしまったのだ。

 逃げる側は追う側を意識しながら、常に逃げ道を模索していかなければならない。即ち意識が四散した状況の行動を強いられることに対し、追う側は、ただ追えばいい。

 街中の逃亡劇において、逃げる側と追う側の立場の違いを、視点の違いはあれど、改めて認識させられた。

「もう、逃げられないよ。……観念しなさい」

 そんななか、エリスが声を張り上げた。可憐な唇から漏れる息こそは少々荒いが、まだ余力は充分。

 己の勝利を確信した彼女は腰より剣を抜き放ち、男に切っ先を向ける。

 彼女の剣の刀身は、成人の脚の長さと同程度に作られている。修練を積めば女性でも片手で扱える重さである。刃は片刃、全体的な厚みを持たせることによって、耐久性も格段に高い。まるで彼女の為に作られたような理想的な剣といえよう。また、そのエリス本人もこの剣を大変気に入り、愛用している。

 しばしの沈黙。

 いつの間にか雨が降り始めていた。雲が唸り声を上げ、雨足は次第に強くなっていった。

「もう一度言うわよ。……観念しなさい」

 強く激しい雨の中で発せられたとはいえ、先ほどと比べて覇気が感じられない。しまった、とエリスは心の中で舌打ちをした。勘のいい者ならば、彼女のこの繰り返しの言動に、ある感情を察することが出来るだろうからだ。

 それは、男からの一切の反応がないことに対する『焦り』。

 しかも相手は、裏社会での生活が長い者である。相手の感情を察知し、その間隙を突くのに長けた連中だ。恐らく自分の『焦り』を利用して、何らかの行動出るに違いない。

 しかし、とエリスは考えを改めた。力比べをする際、駆け引きの一環として、自分からわざと力を緩め、相手の隙を誘発させることもある。膠着した状態を脱するには、自ら隙を見せることも必要なのだ、と。

 そう思うと、自然と彼女の心から焦りは消えていた。改めて賊の一挙手一投足に注意を注ぐ。

「くそ!」

 盗賊の発した下品な言葉がエリスの耳朶を打つ。その盗賊の手には、ぎらりと光るものが握られていた。

 反射した光の加減から見ると、恐らく得物は短剣の類だろう。

「……面白いじゃない?」

 エリスは愛用の剣を構えなおした。眼前に剣の切っ先と、盗賊の姿を視認する。

 全神経を戦いの為に集中させた。もはや、激しい雨の音すらも気にならなくなっていた。

「そこまで堕ちたか……」

 そんな中、エリスを現実に引き戻したのは、後で沈黙を守っていたレヴィンから発せられた不意の呟きだった。その呟きには、明らかに怒りの感情が込められている。

 突然、相棒の口から放たれた怒りの言葉、その真意をエリスは理解出来ずにいた。

「それ、どういう……」

 しかし、彼女の疑問に答えを出したのはレヴィンではなく、皮肉にも彼女の言葉を遮った青白い稲妻の閃き。

「!」

 稲妻の閃きこそは一瞬だったが、その光に照らし出された盗賊の真の姿から、レヴィンの怒りの理由を知るには充分過ぎる時間であった。

 エリスはその中で確かに見た。短剣の刀身に塗られている漆黒の液体。即ち、毒。

 武器に毒を塗ることにより殺傷能力を高めるのは、ゴブリンやコボルトといった、肉体的に人間よりもはるかに劣る下級の魔物が、自らの非力さを補う為に用いる手法である。

 それ故に、人間が武器に毒を塗るという行為、それは自らの非力さは修練によって補うことができることを知っているにも関わらず、毒という安易な方法で力を得るという、下級の魔物と同等にまで自らの精神を堕とし入れた証明でもある。

 エリスは改めて怒りに満ちた視線を盗賊に投げかけた。正確には盗賊にではない。盗賊の胸の奥に潜む腐り果てた心に向かって。

 もう、迷いはない。全力で叩き伏せてやる。

 剣を握りなおし、腰を落とした。いつでも動き出せるように。

「……来なさい、相手をしてあげるよ」

 その言葉を、挑発の言葉として受け取ったのか、盗賊は全速力で突進してきた。

 眼前に盗賊の短剣が迫る。エリスは、その短剣の動きを冷静に観察する。

 たとえ武器を扱う者の威勢が如何によくとも、最終的に相手に手傷を負わせるのは、拳であり武器であるのだ。

 故にその一点に集中し、それを剣で薙ぎ払うか、盾で受け止めるか、体ごと移動させて攻撃そのものを避けるかを瞬時に判断し、即行動に移すこと。

 これがレヴィンやエリス達が騎士の道を志す時、戦いの基本として、徹底的に叩き込まれる防御術の基礎である。

 しかし、エリスは追跡行の妨げになるという事情から、盾を自分の部屋に置いてきてしまっている。また、ここは狭い路地である。体術で攻撃を避けるにも限界はある。

 それを瞬時に判断した彼女は剣による防御を選択した。

 悪意の液体が滴る短剣に狙いを定め、躊躇なく剣を振り下ろす。

 うまく武器を払い落とすことが出来れば、唯一の武器を失った賊の戦意が喪失するのは必然。そうなれば捕縛するのも容易い。そう思い、意識を自らの太刀筋へと集中させる。

 次の瞬間、金属と金属が打ち鳴らす甲高い音が鳴り響き、短剣が地面の石畳の隙間に突き刺さった。

 うまくいった。一瞬、エリスの心を歓喜に支配された。

 しかし、歓喜とは時と場合によっては心の緩みを生み、そして、その心の一瞬の緩みが大きな失敗を招く。そのことを、彼女は身をもって知る事となる。

 賊は、唯一の武器を叩き落されたことに一切怯むことなく、逃げ道を確保せんと、渾身の力を込め、その体を衝突させてきたのだ。

「しまった!」

 その全力の体当たりを受け、エリスは無様にも尻餅をついてしまったのだ。

 エリスが身につけている鎧は、騎士団から支給される女性向きの鎧で、肩当てと胸当てが一体になった胴鎧、篭手と脛当てのみで構成されており、男性向きのそれと比べ、少々軽く造られている。

 このように、不安定な体勢で強い衝撃を受けたら、簡単に転倒してしまう。男性用の鎧のように、鎧そのものの重量が味方になってはくれないのだ。

「しまった!」

 エリスの顔に後悔の表情が浮かぶ。背後に派手に泥が跳ねた音が聞こえた。恐らく男も体勢を崩して転んだのだろう。

 盗賊が急いで体勢を立て直して、逃亡を図ろうとしているのはわかっていた。

 絶対に逃がしてはならない。

「レヴィン!」

 そういう思いを込め、エリスは自分の後ろに控えているはずの相棒の名を声の限り叫んだ。

 刹那、大きな雷鳴が轟き、その声を掻き消した。

 

 レヴィンはエリスの背後、十歩ほど離れた位置から、必死に逃亡を図ろうとしている盗賊の姿を冷静に眺めていた。

 すでに抜き身となっていた剣を下段に構え、腰を落とす。

 レヴィンの剣は両手持ちの大剣。切っ先から柄の部分まで含めると、その長さは、成人男性の足から首のあたりまでに達する。重厚な鎧で守られていない限り、一振りで命もろとも掻き消されてしまいかねない大剣。構えるだけでも、相手に与える威圧感は相当なものともいえる。

 無論、このような大きさの剣など、並大抵の筋力の持ち主で扱える代物ではない。ましてや、重い男性用の鎧を身に纏った上ならば、尚更である。

 そして、レヴィンの肉体も、どちらかと言えば細身なほうに分類される。決して戦士として恵まれた体躯とはいえない。

 しかし、彼は生来の身体能力に加え、徹底的な訓練と独自の食事管理のもと、このような大剣を扱えるほどにまで、己の肉体を鍛え抜いてきたのだ。この重厚な鎧の下には、無駄な肉がどこにも見当たらぬ理想的な肉体が存在している。それが何よりの証であった。

 大剣を、今一度力強く握り締める。

 渾身の体当たりで立ち塞がるエリスに尻餅をつかせたときに、崩れた体勢を慌てて立て直した盗賊と目が合った。

 再度逃亡を図ろうと、盗賊は新たな一歩を踏み出す。半呼吸遅れ、レヴィンも左足を一歩踏み出した。

 胸の奥より気合の声を張り上げ、下段から剣を繰り出す。盗賊を捕らえんと地面を這い、太く重い音を立てる唸る剣の威圧は、まるで獲物を捕獲せんと襲いかかる荒鷲の如く。

 そして、その剣はエリスの剣よりも数段も速く、鋭い。そして何よりも荒々しく、重い一撃。

 避けきれぬ。レヴィンの威圧に押され、そう悟った盗賊は、前方に走り出そうとした体を渾身の力を込めて大きく後に仰け反らせた。前に踏み出した足に余計な負荷がかかり、独特の痛みが走る。

 その刹那、鼻先紙一重の距離をレヴィンの剣、その先端が駆け抜けた。恐怖で呼吸が一瞬止まり、全身から脂汗が噴き出した。

 振り抜かれた剣が、盗賊の頭上で天を突く。レヴィンはそこから瞬時に上段に構えなおし、更に一歩大きく踏み出す。

 賊は、第二撃は頭上から来ると判断した。あの巨大な金属の塊が脳天を直撃すれば命はない。幸運にも狙いが外れて肩に刃が当たろうものならば、自分の細腕など、簡単に切り落とせるだろう。

 ならば、と賊は横方向に逃れようと体を翻そうとした。

 しかし、動かない。

 最初の一撃を回避する際、無理な体勢を取ってしまったため、後足に全体重がかかっていた。次の動作に移れない。盗賊の目が恐怖に泳ぐ。

「もらった!」

 レヴィンは、渾身の力を込めて剣を振り下ろす。狙い過たず、大剣は盗賊の肩口を捕らえた。

 剣を握る両手に何かが砕けるような不快な感触が伝わってくる。

 賊が膝を崩し、肩を押さえ、うずくまった。激痛に耐え切れず沸き起こる悲鳴。それは、けたたましい雷音を掻き消さんが如く。

 肩口から一切の出血はない。先刻、剣を上段に構えなおす際、平で打ちつけるように持ち替えたからだ。

 とはいえ、あれだけの重量をもった剣を渾身の力を込め振り下ろせば、例え剣の平で打とうとも、その衝撃は凄まじい。

 今の一撃で鎖骨と肩は間違いなく砕かれただろう。

 心情的には、刃で思いっきり切りつけてやりたかった。レヴィンの剣技をもってすれば、肩口から心臓か肺を捕らえ、一撃で絶命させることも出来た。

 だが、それは実行しなかった。

 この男には、色々と話してもらわなければならない。自らの行ってきた罪の全容を。それらを明るみにし、裁きにかけなければならない。

 国の管理下にその身分を置き、剣を振りかざし、権威を振るう騎士にとってはそれが道理である。私情で人を殺めることはできない。

 どちらにしろ、この男が犯してきた罪を、どれだけ少なく見積もっても、数十年単位の投獄は免れない。余程のことがない限り、生きて娑婆に出ることはないだろう。

 レヴィンは、そう自分に言い聞かせ、怒りに煮えたぎる心を冷やした。これは、事実上の死罪だ。だから、これが最善の行動なのだ、と。

「大丈夫か?」

 戦いの興奮から冷め、我に返ったレヴィンは、まだ尻餅をついた格好のままの相棒に声をかけた。

「……ありがとう」

 自分の失敗を補ってくれたレヴィンへの感謝の気持ちはあった。

 だが、それ以上に挑発した相手に思わぬ不覚を取ってしまったことに対する羞恥。そして何よりも、手柄を攫われたことに対する悔しさのほうが遥かに勝っていた。

 だから、礼の言葉を口にしたが、エリスはレヴィンに顔を向けることは出来なかった。

 

 <3>

 

 暖かい暖炉が、雨で冷えた二人の騎士の体を癒す。

 捕らえた盗賊たちを引き渡したところで、その日の任務を無事に終えたレヴィン。晴れて自由の身となったのも束の間、即座にエリスに首根を掴まれた。

 嫌々ながらも酒場に連れて行かれ、今日の失敗の愚痴を朝まで延々と聞かされる羽目になること、断っても無駄だということは、この長い付き合いで重々承知のこと。

 こうして、レヴィンとエリスの二人は、騎士達の宿舎がある界隈の高台に位置し、周囲を一望できる景観に定評がある酒場の奥、一番暖炉の近くにあるテーブルに陣取り、酒を酌み交わしていた。

「だから、なんであんたは、そうやっていつも、美味しいところだけもっていくのよ!」

 無愛想に差し出されたグラスに酒を注ぐ。

 愚痴はまだまだ終わりそうにない。慣れたこととはいえ、レヴィンは気が滅入っていた。

 だから、エリスの愚痴には適度に相槌を打つ程度にし、延々と酌をする役目に徹する。普段は鬱陶しい雷の音や、屋根を打つ激しい雨音が、時折彼女の声を遮る。それが今のレヴィンには都合がよかった。

「まぁ、今日の事は飲んで忘れろ。お前が尻餅をついたことなんて、報告したりなんかしないからさ」

「……うるさいなぁ。昔は本ばっかり読んで、碌に剣も使えなかった癖に」

 悪態をつく。酒が相当回ってきたときに出る、彼女の悪い癖。

「はいはい」

 いつの間に飲み干したのか、再び無愛想に差し出された空のグラスに、再び酒を注ぐ。

 この一杯を最後にどうか酔いつぶれてくれるように、と願いながら。

『本ばかり読んでいて……か』

 注がれた酒をちびちびと飲んでいるエリスを、ぼんやりと眺めながら、レヴィンは彼女の言葉を心の中で反芻していた。

 この言葉は、昔からエリスがレヴィンに突っかかるとき、必ず口にする口癖のようなもの。

 発端は、二人の出会いの時に起因する。

 二人の出会いは今から遡ること九年前。このグリフォン・フェザーの街の隣に位置する、首都グリフォン・ハートの王城にて、年に一度行われる国王の誕生日を祝う式典でのことだった。

 

「また、お前か!」

「毎年毎年懲りない小僧だな!」

 王城の警護の任についている歴戦の兵士といえども、逃げ回る子供というものはかなりの強敵である。数人の大人が、笑いながら逃げ惑う一人の少年に手を焼いている様は、滑稽ながらも、どこか微笑ましい光景であった。

 散々翻弄され肩で息をしている兵士達を尻目に、元気良い笑い声を残し、その場を風の如く駆け抜けた。

 少年にとって、必死の形相で自分を捕まえようと掴みかかってくる兵士達と追いかけっこに興じることも、毎年の楽しみでもあった。

 その少年──幼少期のレヴィンは、首都グリフォン・ハートに住む学者の家に生まれた。

 知恵者を尊び敬う事を習慣としていたこの国の王家は、知恵者の代表とも言える学者を、知識の教授の為にと度々城に招く事があり、その慣習を長きに亘り続けてきた結果、学者とは爵位こそないものの、貴族階級相当の地位にあると考えられ、人々の尊敬を集めていた。

 そしてこの日は、年に一度の国王の誕生日式典の日。国内中より王家に縁のある者が集められ、盛大な催しが行われるのである。

 もちろん今年も、レヴィンの家は王城に招待されることになった。

 幼いレヴィンにとっては、毎年式典に招待されるということには、もう一つ大きな意味──目的がある。

 それは、王城に併設されている図書館に納められている、膨大な数の蔵書。

 学者の家に生まれ、読書と勉学に勤しむなか、知的好奇心が旺盛な少年に育ったレヴィンにとって、退屈な式典よりもそれらの蔵書を閲覧することこそ、年に一度の最大の娯楽であった。

 式典開始早々に、会場を抜け出したレヴィンは、厳戒体制がとられていた城内を元気良く駆け出して行った。

 必死に追いすがる兵士達を振り切り、少年は目的の地に──知識の宝庫。グリフォン・ハート王城内にある図書館へと辿りついた。

 式典の開催中、警備の問題上、こういった施設を一時的に閉鎖するよう命令が下されているものなのだが、この図書館を管理する司書は、毎年笑い声とともにやってくる知的好奇心が豊富で、知識と書物を愛する少年に好感を抱き、この罰則なき命令を無視し、少年の訪問を歓迎した。

 こうして式典が終わり、晩餐会が始まるまで、少年は読書に没頭する。年に一度の至福の時。

 文学、歴史、数学と、沢山の書物を朝から半日以上読み耽るうちに、日も暮れ、レヴィンは晩餐会の会場に戻る事にした。朝から姿を眩ましていたため、両親も心配するだろうと、子供ながらに判断してのこと。晩餐会の会場は、城で一番大きい広間。図書館から子供の足では十五分はかかる。

 式典が終わったことにより厳戒態勢が解かれたようで、城内の兵士達の数もかなり少なく、仮に擦れ違っても、朝のように追いかけられるようなことはない。

 知識に飢えた頭に、急激に沢山の知識を叩き込んだ所為か、頭がかなり火照っていた。それでも少年は、今日叩き込んだ知識を少しでも忘れないよう、読み得た知識の数々を何度も頭の中で反芻する。

 自分の世界に浸りながら歩いているせいか、それとも疲れのせいか、長く静かな廊下を歩くその足取りはどこか夢うつつ。

 その所為か、静かな廊下に不意に響いた怒声は、そんな少年の意識を現実へと引き戻すには十分にして余りある効果をもたらしていた。

「もう一回言ってみろよ!」

 それは子供の声。声質から声の主は恐らく女の子供。年齢は幼いレヴィンと同じくらいか、もうすこし下なのかもしれない。

 ──女なら、もう少し上品な言葉を使ってほしいものだが。

 そう、レヴィンは心の中で毒づく。

「騎士の娘。お前は魔物の血に塗れて生まれた穢れた娘。今すぐこの城から出て行け!」

 今度は男の子供の声がした。

 これらの怒声の連続は右手に見える扉の向こうから聞こえてきた。

「──この部屋は確か」

 レヴィンは呟いた。

「今日の式典の為に、来賓の子供たちに用意された控え室のはず。休憩室も兼ねており、こういった催しが行われるとき、喧騒を嫌った子供たちが自然とこの部屋に溜まるようになっていたはず」

 少年は思わず、罵声の応酬の止まぬ部屋の前で立ち止まっていた。

「騎士の娘は、この晩餐会の食事を口にする資格はない。騎士の娘らしく町の外で冷めた魔物の肉でも食っていればいいのだ」

 また扉の向こうより同じの男の子供の声がした。その言葉が発端となったのか、まるで煽られるかのように、そうだそうだ、という声が一斉に沸きあがる。全てに共通しているのは、声の主は子供であるということ。

「こいつら、騎士を何だと思っているんだ……」

 レヴィンは呆れ果て、思わず呟いた。

 学者同様、この国では騎士も貴族階級相当の地位として扱われる。

 勅命に従い、街の中に蔓延る悪から街を守る。武勇をもって弱きものを助け、善を貫くことの意味を教える。強く、そして優しき生きた指標。そんな騎士の中でも上級の者ともなると、街の外に跋扈しているゴブリンやコボルト、食人鬼といったおぞましき生物──魔物と常に最前線で対峙し、街の中へと侵入する事を防いでいる誇り高き防人。

 それが『騎士』と呼ばれる者達である。

 街中の安全が確保されているのは、全て彼らの働きがあってのものと言って過言ではない。その強さと勇気、高潔な精神は、民から憧れと尊敬の眼差しを向けられるのだ。

 この役割を考えると、『騎士』とて貴人として扱われるのは至極当然のこと。ある程度分別がつく者ならば、あのような言葉が出てくるはずもない。

 しかし、これが貴族の子供社会という現実なのだ。

 まさに、上流の大人社会の悪しき伝統のみを脈々と受け継いだかの如く。年不相応なまでに心の表裏を使い分け、慇懃無礼な態度をとり、自尊心だけは強く、他人を高い位置から物を見ているかのような素振り。そんな子供たちによって構成された社会なのだ。社交界には縁の無い者達が想像しているような世界ではない。華やかでこそあれ、決して上品な世界とは、お世辞にも言えた物ではない。

 レヴィンも年を重ね、現実の姿を子供ながら認識するようになってからは、次第にそういった社会とは距離を置くようになっていった。

 そういう経緯もあってか、レヴィン本人も、他の貴族の子供たちとの関係は、決してうまくいっているわけではない。

 だから、この喧騒も貴族の子供側から喧嘩をふっかけたもの。それも『騎士』という誇り高き家系に生まれた子供を目の前にし、安っぽい自尊心を損ない、やりようのない歪んだ妬みから発せられたものに他ならない。

 そう、容易に想像が出来た。

「──しかし、これは良くないな」

 レヴィンは眉をひそめた。会話の内容から想像すると、一人の女に対して、多数の子供が寄って集って虐めているという構図が浮かぶ。

 虐められていると思しき女は、恐らく騎士の家に生まれた娘。生まれながらにして、騎士の精神を叩き込まれたのだろうが、所詮は年端も行かない女だ。今でこそ、威勢良く突っ放しているが、いつそれにも限界がくるかわからない。泣き出してしまえば奴らの思う壺、かといって、怒りに我慢しきれず暴れ出してしまえば、奴等は即刻、親に泣き付くに違いない。そうすれば娘の親に相応な恥をかかせる事が出来るだろう。無論、娘も実の親から相当な叱責をされるに違いない。

 どちらに転んでも、理不尽な結果が待ち受けているということは明らか。そこまで計算高くなければ、貴族の子供社会では生きていけぬものなのだろうか?

 レヴィンは心底呆れ果てていた。

「……よし」

 冷静に判断した結果、レヴィンは止めに入ることを選択した。それで喧嘩に巻き込まれようとも、もともと貴族の子供社会になど興味はない。無論、その事を告げ口され、結果的に両親より若干の咎めを受けるであろうが、正直に説明すれば理解してくれるはず。

 それだけで十分。

 もちろん、日頃から貴族の子供がとる態度諸々が気に入らなかったので、その鬱憤を晴らす契機がほしかったというのもあるが。

「おい、何をしている?」

 扉を開け放ち、レヴィンは喧騒の舞台となっている部屋に身を躍らせた。

 扉を開け放つその音で、あれだけ騒がしかった喧騒が一瞬で止んだ。その代わりに緊張で、空気が張り詰める。

 隠れたところで悪さをしている時、不意の親の侵入を警戒している時に出る、子供特有の悪癖。

「誰だ、お前は?」

 一人の幼きレヴィンよりも二つほど年上のように見える男児が、今にも噛み付いてきそうな形相で睨みつけてきた。声質からして、先頭に立ち暴言を放っていた男児に間違いない。

 しかし、その表情に凄みというものが存在しなかった。

 子供としては異様なまでに弛んだ頬、二重三重に波打つ顎、これもまた産み月の女性なのかと言わんばかりに迫り出した胸と腹。

 人間というものは生まれたとき、体の大小のそれほど個人差はないと言われている。しかし、貴族階級の家に生まれ、今まで何不自由なく贅を尽くした食事・生活を送ってきたと思しき目の前の男児は、見事なまでに丸々と肥えていた。人間というものはこれほどまでに変貌するのだろうか。

 彼だけではない、この部屋にいる全ての子供たち、男児女児問わず、似たような体型をしていたのだ。

 ──まるで、豚小屋じゃないか。

 レヴィンは心の中で毒づいた。

 殴り合いの喧嘩も覚悟の上で意気揚々と部屋に踊りこんだにも関わらず、これでは拍子抜けするというもの。

 そんな中、投げかけられる視線に気がついた。部屋の奥の壁際、肥えた子供達の群れに詰め寄られ、半ば埋もれるように、その視線の主が立っていた。

 そこには、レヴィンより一つ、二つばかり年下の端正な顔立ちの少女。質素ではあるが上品さ溢れる衣装を纏ったその姿は、誰もが好感を受けるだろう。

 涙を浮かべたその目には、明らかな意志の強さをうかがえた。あれが、虐められている騎士の娘だろう。年端もゆかない子供が、これだけの人数に非難を受けながらも、泣き出さずにいたのは賞賛に値する。

「おい! お前!」

 自分に意識が向いてないことを察したのか、目の前の肥えた男児が声を荒げ、レヴィンのもとへと近付くと、その胸倉を掴んだ。鈍重な肉体でも、こういったところだけは敏感なようだ。

「『誰だ、お前は?』と聞いている!」

 男児の鼻息は荒い。

「……レヴィン」

「どこの家の出身だ?」

 自分に意識が向いてくれたことを確信し、男児は満足そうに、かつ悪意に満ちた笑顔を浮かべる。

「クラルラット家の一人息子だ」

「爵位は?」

 男児の笑顔に悪意が増した。不運にも吐く息を嗅いでしまったレヴィンの顔が不快感で歪む。胸の奥から吐き気が催すような、そんな不快感。

「それが、何の関係がある?」

「常識だろう?」

「……どの世界のどの常識だ?」レヴィンは呆れ、呟いた。

 この国では、学者は貴族と同等として扱われてはいるが、正式に爵位を与えられているわけではない。無論、正式な爵位を持つ貴族よりも身分は低いと言わざるを得ない。

 とはいえ、それを正直に白状してしまえば、恐らく相手の思う壺。これ以降、レヴィンが如何様な言葉を用いたとしても、聞く耳をもつ事は期待できない。

 これは同時に、この男児は相応の爵位を持った由緒ある家の生まれであるということを暗に示しているということになる。

 だから、レヴィンはこう切り返した。

「俺は名乗った。ならばお前も名乗るのが礼儀ではないのか?」と。

 その予想が外れていないか確認したかった。もちろん、この分析癖は学者である父から譲りうけたもの。

 その瞬間、男児は胸を張り、高笑いを始めた。とうとう、その笑顔に込められた悪意が最高潮に達する。

「我こそは、レーヴェンデ=アンクレッド。アンクレッド公爵の正当な後継者である!」

 高らかに男児はそう名乗った。

 今まで、自らの出自を明かすたび、周囲にいる爵位の低い家に生まれた子供たちだけではなく、大人でさえも震え上がらせてきた。

 その時の様子が、男児の脳内を駆け巡っているのだろうか?

 恐らく彼にとっては、この瞬間こそ最大の愉悦なのだろう。肉に埋もれた双眸は、明らかに現実の世界に向けられてはいない。

 レヴィンはその様子を冷ややかに観察していた。そして時機を見計らい、自分でも吐き気がするほど、慇懃な口調で鋭く切り返す。

「なるほど、由緒正しきアンクレッド公爵様のご子息でしたか」 

 発した言葉は、まるで、舞台経験皆無の役者の台詞口調の如く、一切の抑揚や感情の類が込められていない。淡泊なものであった。

「では、先ほどのお言葉、あれはアンクレッド家の公式の声明と受け取って宜しいのでしょうか?」

「……なんだと?」

 不意な言葉を受け妄想が中断されたことに、男児の顔が不快感に歪む。

「『騎士の娘。お前は魔物の血に塗れて生まれた穢れた娘。今すぐこの城から出て行け』そして『騎士の娘は、この晩餐会の食事を口にする資格はない』」

 レヴィンは、冷ややかな視線をさらに鋭く、室外で聞いた暴言を繰り返した。

「それが、どうかしたのか?」

「ええ。由緒正しきアンクレッド公爵様の正当な後継者のお言葉。これは即ち、貴殿が家督を継いだ際の公爵家の施政方針であると考えて問題はないかと」

 大げさな口調をもって、レヴィンは捲し立てた。周囲の集う他の子供達も、この突然のやり取りに、なかば呆然としていた。

 学者の息子は続けた。まるで学会で持論を展開するかの如く。

「……そうであるのならば、我々のような下々の者達は、そのご発言を看過する事は出来ません。やはり正式な声明として王の前、そして父親でありますアンクレッド公爵様の前で発表願いたいものです」

「何故、そんな事をしなければ……」

 ここに来て、ようやと事態を理解したのか、肥えた男児の顔が焦りによって醜く歪んだ。その弛んだ額や顎からは脂汗が滲み出した。

 その変化を見て、レヴィンは心の中で笑みを浮かべる。

「無論、王より誉れ高き位を授かっているのですから、ご子息殿であれども例外なく、日頃の言動や行動に責任と品格が問われるもの。もし、それを遵守した上で、そのような言動を取られているということならば、それは騎士団とアンクレッド公爵の間にあってはならない軋轢がある証。いち早く公表し、関係を改善させなければならない由々しき事態──この国の基盤を揺るがしかねない事実を、私も国民の一人として見過ごすわけには行きません」

 レヴィンは男児の言葉を遮り、強引に腕を取り室外に連れ出そうとした。

「……さぁ、今すぐ王の御前で全てをご報告ください!」

 もちろんレヴィンも、そんな暴挙が現実になるなど思ってはいない。そんな事があれば、アンクレッド一家の断絶は免れないのだから。

 だが、このような行動によって、相手に面倒を掛けるよう仕向ければ、無責任で悪意に満ちた発言を連発した手前、確実に窮地に追いやることが出来る。

「や、やめろ!」

 男児は全身から汗が噴出し、顔には明らかな狼狽の色を浮かべている。

 ──やはりな、と。レヴィンはその様子を冷ややかに見つめる。

 これまでの行動とやり取りの中、この男児達は、親の目の届かないところで陰湿な苛めをしていたにも関わらず、いざという時には、その親の権威を振りかざす──あまりにも身勝手にして、理不尽。無責任極まりない腐った性根の持ち主であるのだと、学者の少年は理解した。

 そこから導き出されること──それは、親の権威の影に隠れ、自らを安全なところに身を置いた状態で他人を誹謗すること。自らは責任を全く負わず、他人を陥れることこそが至上と考える。人間性を疑いたくもなるこの素性こそが目の前の男の本質そのものであると。

 そして、この手の人間は、このように親の権威という絶対なる盾、硬固なる甲冑を剥ぎ取り、自らが自らの足で責任ある行動を強要されたとき、その脆弱な本性を露にするというもの。

 学者の家に生まれ、論客と言われる猛者たちと、時と場所問わず議論を交わしていた父の背中を見て育ったレヴィンにとって、この程度の口喧嘩に勝つことなど容易であった。

 こうなれば、完全に窮地に追いやられた、この男児がとる行動は一つ。

「や、やめろぉ!」

 レヴィンの頬を、熱いものが打った。渾身の拳による、体重に乗せた一撃は、身体の小さく、体重の軽いレヴィンを吹き飛ばすのに余りある威力をもっていた。

 痛みに耐えながらも、レヴィンは心の奥底で笑っていた。これで、あの気に食わない連中相手に暴れることが出来る。その大義名分を得たのだから。

 ──さぁ、勢い良く立ち上がって、殴りかかってやろう。

 そう思い、立ち上がろうとした矢先、不意に声がかけられた。

「……大丈夫?」壁にもたれかかっていた少女だった。

「大丈夫。むしろ、これでやっとあの豚どもを相手に暴れる理由ができて都合が良かったくらいだ──普段から俺の神経を散々逆撫でして下さった高飛車な貴族のご子息のお歴々を相手に、な」

 痛みに耐えながら起き上がるレヴィンの姿を見た少女は、少しだけ視線を落とす。

 そして、数瞬の間の後、彼女は口を開いた。

「……そう、偶然ね。私も、丁度同じこと考えていた」

 そう言い、再び顔を上げた少女の目には怒りの炎が宿っていた。

「今まで父の立場の為と自重してきたけど、見ず知らずの貴方を巻き込んでしまった以上、黙っている訳にはいかない。騎士の娘として、目の前で自分を庇ってくれている人が殴られた以上、見過す事なんて出来ないわ」

 一瞬、少女のその反応がレヴィンにとって意外なものに見えた。

 視線を落としたのも、自分の代わりに殴られたレヴィンに対する、罪の意識からくるものだと思っていたからだ。

 しかし、その実は違う。

 彼女は騎士の娘。この反応こそが至極当然なものであったのだ。

 誇りというものを踏みにじられた事を、自らの怒りに変える事が出来ること。これこそ、この娘に騎士の血が脈々と受け継がれている証。

「貴方には感謝しているわ」少女は会心の笑みを浮かべた。「こんな鬱積した気持ちを晴らすための契機を作ってくれた事を、ね」

 そう言うや否や、その少女は肥えた男児のもとに駆け寄り、その顔面に渾身の鉄拳を見舞った瞬間、それは始まった。

 部屋中の子供達全員を巻き込んだ阿鼻叫喚の大喧嘩。

 男も女も、年長の者も幼き者も、高き身分の家の者も、そうでない者も、皆が皆、レヴィンと少女のもとへと殺到し、その髪や衣服などに掴みかかり、或いは拳で殴りつけ、或いは爪で引っ掻いた。

 多勢に無勢かと思われた。

 しかし、これらの群れに応戦するは、騎士の娘として生まれた誇り高き少女。そして学者の家に生まれながらも、歴戦の兵士達を手玉に取る体力と身体能力を持ったレヴィン。

 幾ら数に任せようとも、喧嘩の経験すらないような肥えた豚の群れに後れを取る謂れはなく、かと言って、次々と襲いかかる彼らに対し、一切の手心は加える事はなかった。

 ある女児は、少女より放たれた拳を顔面に受け、両の鼻の穴から血を噴き出して倒れ、またある男児はレヴィンの鋭い蹴りを鳩尾に受け、床に吐瀉物を撒き散らす。

 また別の男児が少女の背後に忍び寄り、羽交い締めにするも、その股間を踵で思い切り蹴られ、そして、レヴィンに向かい一定の距離を保ちながらも罵声を浴びせ続ける女児らは、彼によって蹴り上げられた椅子が天井に届き、備えつけられた照明を破壊するという子供のものとは到底思えぬ脚力を見せつけられ、同時に、頭上の破砕音に驚いては、その戦意を瞬時に喪失していった。

 勝負は最初から明らかであった。

 暫く後、その部屋で満足に二本の足で立っていたのは、少女とレヴィンの二人だけだった。

 

「やるじゃない。レヴィン……と言ったわね?」

 喧騒の後、少女は肩で息をしつつも笑っていた。心に貯まった鬱憤を一気に晴らした満面の笑み。

「ああ」

「本ばかり読んでいる学者の生まれの癖に、たいしたものよ。さすが城の兵士達を、身のこなし一つで翻弄するほどのことはあるわね」

「何故、それを知っている? そして、俺の名も」

 レヴィンは素直に驚いた。このことを知っているのは自分と、自分を追いかける兵士達、そして図書館の司書だけのはずだったからだ。

「当然じゃない? だって、この城を警護している兵士は、みんな父さんの部下なのだから。レヴィン=クラルラット──国王の生誕日式典に必ず現れ、我が国の英知の結晶である図書館に秘められた知識を狙う大怪盗……って、専らの評判よ」

 少女が笑う。屈託のない魅力的な笑顔だった。

「お前……何者だ?」

 それと好対照に、レヴィンは憮然とした表情をしていた。年に一度の楽しみを、年下の少女に笑いものにされるのは、愉快な話ではない。

「私はエリス。エリス=シェティリーゼ。この国の騎士団を統べる騎士総帥の娘。代々騎士の家系であるシェティリーゼ家の生まれ」

 憮然とした表情のレヴィンの顔を見つめ、少女は笑顔で名乗った。

 ──これが、二人の出会いであった。

 

 <4>

 

 目の前には酔いつぶれ、机の突っ伏し眠ってしまったエリスが安らかな寝息を立てていた。

「……やっと眠ってくれたか」

 レヴィンは心底から安堵した様子で、その様子を眺め、呟いた。

 彼女が持っているグラスには、レヴィンが注いだ酒が、半分ほど残っている。

 外の雨脚は勢いを増すばかり、明日の朝までに止むかどうか、見当もつかない。

「こんな雨の中、こいつを抱えて帰らなければならないのか……」

 レヴィンは新たな問題に頭を悩ませる。

 九年前の出会い以来、レヴィンとエリスはずっと一緒だった。遊ぶ時も、喧嘩をする時も、勉強をする時も、剣の稽古をうける時も、こうして酒を飲む時も。

 そして、騎士になる時も。

 この国では貴族階級、またはそれ相当の家に生まれた男児、そして武官の家に生まれた者は、家督を守る為に幼少の頃から剣の稽古をうける風習がある。

 レヴィンも例外ではなく、その時、稽古をつけてくれたのは、エリスの父。騎士団総帥シェティリーゼ卿であった。

 学者志望だったレヴィンが騎士になったのも、師たるこのシェティリーゼ卿がレヴィンの身体能力を高く評価していたから。そして、エリスの強引な説得があったからである。

 こうして、二人は正式に騎士を志した訳だが、その直後にレヴィンはその選択に後悔することとなる。

 二人の教育役として現れたのは、数人の兵士……幼少の頃、レヴィンが散々からかった王城守衛の兵士達だったからだ。

 それ故、彼らとの訓練生活は地獄そのものであった。

 騎士団長の娘であるエリスは丁重に扱われた事に対し、レヴィンには昼夜問わず過酷な訓練が課せられた、もちろんこれは積年の恨み以外の何者でもない。幾度となく、この運命を呪ったことか。

 苛酷な訓練期間も終わり、正式に騎士資格を得た後、腐れ縁というものも、ここまでくると珍しいもので、二人は同じこのグリフォン・フェザーの街を守衛する騎士隊への編入を命じられた。それが、今から約二年前のこと。

 それを周囲からは男女の関係と勘違いされたのか、よく先輩の騎士達からは冷やかしの対象にされている。任務のことについて喧嘩をすれば『痴話喧嘩』だの『夫婦喧嘩』だのと茶化され、その度にレヴィンは必死に弁明する羽目にあわされていた。しかし、そんな必死に否定するレヴィンに対し、当のエリスはこの事に関してのみ、何一つ弁明するようなことはしていない。曖昧で歯切れの悪い返答をするばかり。

『──エリスからも否定したおいた方がいい』

 過去に一度、エリスに詰め寄ったことがあった。増長した先輩騎士達の態度に、レヴィンの苛立ちが最高潮に達したときだ。

『無理にはっきりさせる必要はないじゃない?……周りにからかわれたからって任務に差し支えがあるわけじゃないからね』

 しかし、レヴィンの思惑とは裏腹に彼女は涼しい顔でこう答え、更にレヴィンを悩ませた。

 レヴィンもエリスも既に二十を超えている年齢だ。

 そろそろ良い相手を見つけ伴侶とし、子を残すことを真剣に考えなければならなくなる時期。そんな大切な時期に周囲を──それがたとえ、腐れ縁の幼馴染とはいえ──異性が付きまとっている状態では、色々な意味で不利益が生ずるのではないだろうか?

 特に女性は結婚する年齢が高ければ高いほど、出産の際に失敗する可能性が高いと言われ、最悪の場合、母子ともども命を落としてしまう事だってある。

 まして、レヴィンやエリスのような階級の者に関しては跡取りの問題が今後重要視される。特に女性であるエリスは尚更、結婚年齢に対する世間の評価は厳しい。

 そういった事情から、レヴィンはエリスの今後の人生とその身を案じている。しかし、当のエリスからは全く焦りというものをうかがい知る事は出来ない。

 長年、顔をあわせてはいるものの、この一点に関してのみ、レヴィンはエリスを全く理解できないでいた。

「う……ん」

 そのエリスが、吐息を漏らした。少し眠りが浅くなってきたのだろう。起こして連れ帰るにはいい頃合なのだが、外の雨脚は一向に衰えを見せる様子はない。

「店主、部屋を頼む」

 レヴィンはエリスを連れ帰ることを諦め、酒場の店主に声をかけた。

 この酒場では、酔いつぶれて帰宅が困難になってしまった人向けに、簡単な休憩施設も併設している。有料であるが、路上で眠ってしまったがために風邪を引いたり、物取りにあってしまったりする可能性を考えると、この出費は安いものともいえる。

「一部屋でいいかい?」

「二部屋だ」

 嫌らしい笑みを浮かべる店主との、こういったやり取りにも慣れたものだが、これで二人揃って朝帰りが確定したようなもの。

 また、先輩騎士達に盛大にからかわれるだろう。

 それを思うと少し気が滅入った。

 

 時同じく、サーディスは雇用主から管理を命じられた建物、その奥に潜み、今まさに至福の時を迎えようとしていた。

 サーディスの視界には、見渡す限りの木箱の山。

 その中には火薬と呼ばれる発火性の粉末が詰め込まれているため、火気を持ち込むことを厳しく禁じられていた。

 一度、引火すれば、辺り一帯を焦土と化すほどの量があると脅されていた。

 サーディスにとって、その指示に従うつもりなど毛頭ない。

 実際、この場で幾度と無く隠れて火気を扱ったが、そのような事態に見舞われたことは一度としてなかった。

 その経験則より、雇用主の言葉は、ただの虚仮脅しであると、彼は結論付けていた。

 そもそも彼にとって、あの雇い主はただの金蔓に過ぎず、忠誠心の欠片も持ち合わせてはいない。

 彼にとっては今の快楽こそが全てであり、生き甲斐でもあった。

 先刻処分を命じられた、人間のものと思しき死体の一部を適当な場所に廃棄した後、サーディスは裏街道の奥に潜む、露店街へ至る道を急いた。

 凄惨な作業の末に手に入れた金貨の入った布袋──一般の男性が半年働いて得られるほどの金は、数刻にして、たった十数本の葉巻へと姿を変えていた。

 無論、ただの葉巻ではない。

 この町の闇に潜む商人から仕入れた、特別製の葉巻。

 吸うと高揚感と、心地よい脱力感に包まれ、その陰で心身を蝕むという魔性の葉巻。

 無論、この類の代物を使用・販売問わず、取り扱う事は法により厳しく禁じられている。

 騎士や巡回兵に見つかれば、即刻監獄行きになるのは間違いない。

 だからこそ、火気を持ち込む事が禁じられている、この場こそ、隠れて葉巻を吸うのには絶好の場所であった。

 サーディスは、いつものように火打ち石を用い、葉巻に火を点け、紫煙を燻らせた。煙を肺一杯に吸い込む。

 次第に包まれる浮遊感。

 意識の輪郭こそ鮮明であるが、同時にその実像は霞んでいるような不思議な感覚。

 常に夢現でありながらも、現実味が帯びていた。

 そして次に襲うのは、大量の煙を吸い込んだことによる息苦しさ。

 半ば廃人と化した己の肉体が、最後の悲鳴を上げていた、激しい頭痛が、一瞬だけ彼を苛む。

 全ての筋肉が弛緩し、成す術なくサーディスは失禁した。垂れ流された尿はローブに染み込んだ返り血と混じり、薄い赤色を帯びながら、床へと広がっていった。

 しかし、それらは全て心地よい快楽へと変換されていった。痛み、苦しみ、気だるさ、何もかも全てが。

 中毒者たる男は、この矛盾に満ちた感覚を、心底愉しんでいた。

 大金を叩いて購入した十数本の葉巻を二時間程で吸い終えた男は、これらがもたらす脱力感に抗うことなく至福の表情で眠っていた。

 火薬庫の床に散乱する吸殻の数々。そのうち一つの先端には、未だ消されぬままの紅い火種が宿っていた。

 

 休憩室のベッドに、すっかり酔いつぶれたエリスを運び込んだのは、夜もかなり遅い時間のこと。あと三時間ほどで空に曙光が差し込む頃だろう。

 エリスは、ベッドの上の規則正しい寝息を立てている。この様子ならば朝には酒も抜けるはず。

 騎士とは有事の際にはいついかなる時でも、任務が与えられることがある。そして、全身全霊をもってその任務を遂行する義務がある。そんなときに二日酔いで行動することもままならない……では勤まらない。

「……俺も休むか」

 安らかな寝息を立てている幼馴染を一瞥し、その部屋を去ろうと踵を返す途中、レヴィンの視界に窓が目に入った。

 雨の勢いは収まることを知らず、激しく窓を打ち鳴らしている。

「……?」

 レヴィンはその時、窓の外に起こった、不自然な変化を察した。

 この酒場は高台に位置しているため、街の様子をこの窓から一望できる。その窓の外で起こった異変。

「……!」

 最初は自分の目を疑った。酒のせいかとも思った。しかし、そのどちらも否定せざるを得ない、高台に位置するこの場所からでも、はっきりと視認できる確固たる事実。

 街の一角から立ち昇る黒煙。その源に目をやると、赤熱した強い明かりを捕らえることができた。あれは紛れもなく、炎。

「エリス!」

 次の瞬間、レヴィンは眠っていたエリスを乱暴に揺さぶり起こす。

 この豪雨に晒されながらも衰える事なく立ち昇る黒煙と炎である。その威力や規模は推して知るべし。異常事態である事は間違いなかった。

「……どうしたの?」

 エリスが気だるそうな声をあげた。少し眠ったおかげか、意識ははっきりしているようだ。そのことにレヴィンは少し安堵する。

「窓を」

 言葉少なに、でも緊迫感に満ちた声で窓の外を見るように促した。

 普段は眠っていたところを無理矢理起こされたことに、不平不満の一つは吐くところ、普段とは違う幼馴染の様子にただならぬ雰囲気を察したのか、今回ばかりはエリスは素直に従う。

 そして、レヴィンに従い窓の外を眺め、彼の意図を察した彼女の表情が豹変する。

 信じられない。悪夢を見ているような、そんな表情であった。

「急ぐぞ」

「うん」

 レヴィンとエリスは顔を見合わせ、頷きあった。二人は騎士である。民が危機に瀕しているのならば、その危機から遠ざける為に命を賭す者。

 次の瞬間。二人は自らの剣を手にとり駆け出していた。その足取りに、もう酒の気配は残ってはいない。

 

 <5>

 

 赤い。目に映る全てのものが赤い。そして、この赤は死と破壊を司る悪意の色。

 この界隈は比較的裕福な者達が住む住宅地となっている。とはいえ、貴族達の邸宅のように高価な石材などを建材として使用しているようなものはなく、ほぼ全てが木造の家屋である。

 故に、炎の勢いも凄まじい。

 辺り一帯が炎に包まれていた。炎が吹き荒れる音が二人の耳を打つ。古来より伝説上の魔物として言い伝えられている、炎の暴君イフーリートが、もし現世に存在していれば、恐らくこのような咆哮を上げるのかも知れぬ。

 炎はかなり広範囲、十数軒に渡って燃え広がり、辺りは炎の海へと変貌を遂げていた。しかし、先刻より降り続いていた豪雨がこれ以上の延焼を防いでいた。

 腰に下げられた剣が、眼前の炎に一切通じないとのことに、普段は鬱陶しいだけの雨よりも無力だということを思い知らされ、エリスは歯がゆさを感じられずにはいられなかった。

「こっちだ!」

「慌てないで、私達の指示に従って!」

 そんななか、レヴィンとエリスに出来る事と言えば、逃げ惑う人々を安全な場所へと誘導せんと、必死に立ち回る事のみ。しかし、逃げ惑い奔走する人々を統制するのは、若い騎士二人だけでは手が足りぬ。

「そこの巡回兵!」

 エリスは、偶然近くで呆然と立ち尽くしていた巡回兵の青年を見つけ、必死の形相で声をかけると、その兵は素っ頓狂な声をあげ、飛び跳ねるように直立不動の姿勢をとる。

「誰か、人を連れて来て! 他の地域を巡回している兵達に手当たり次第に声をかけて!」

「わ……わかりました!」

 巡回兵の青年は、まるで弾かれたかのように全速力で走り出した。その頼りない後姿に、一抹の不安を覚える。

「大丈夫なのか?」

 その様子をエリス同様、不安な面持ちで見送っていたレヴィンがそう漏らした。

「わからない。でも信じて応援を待つしかないよ」

 しかし、これ以外の選択の余地は残されていなかった。

 欲しかったのは、何よりも人手だった。住民を誘導するにも、消火活動を行うにも、更に別の場所に応援を要請しに行くにも、実行に要する人員が圧倒的に不足していた。

 エリスの言う通り、あの青年がなんらかの役目を果たしてくれることを信じ、待つしかなかった。

 しかし、二人の希望は予想外な形で裏切られる事になる。

 暫く後、巡回兵の青年は応援の者を誰一人伴わずに戻ってきたからだ。

「どうして……」

 引き続き、住民達の誘導をしながらも、その様子を視界の端で捕らえたエリスは、その様を見て泣きそうになっていた。

 先ほども、二人の制止も聞かずに残された我が子を助け出さんと、母親と思しき女性が炎の海に身を躍らせたばかりであった。

 自殺行為に等しき行いを看過してしまった事に対する後悔と自己嫌悪に苛まれている最中の事である。エリスの失望は想像に難くなかった。

「それが……」

 青年の目が泳ぐ。その様子には明らかな動揺が見て取れた。

「何があった!」

 堪らずエリスが詰問した。青年を責めるつもりは毛頭なかったが、自分の役目がうまく遂行出来ぬことに対する苛立ちが、口調を荒々しいものとさせていた。

 それを自分への叱責と受け取ったのか、青年は完全に萎縮したかのように肩を竦めた。レヴィンはそんな彼女を睨み付け、牽制する。

「し……死んで……」

 それでも青年は混乱した頭で、必死に言葉を紡いだ。

 言葉には情報が足りなさ過ぎて、レヴィンは彼の言葉の意図を殆ど汲み取ることが出来なかった。

 唯一理解出来たのは、これ以上応援は望めないという、漠然ではあるが絶望感に満ちた印象を抱くという事のみ。

「どういうこと?」

 もちろんエリスも理解できずにいた。

 誰が? どこで? どんな風に?

 しかし、それを新たに問いただす余裕など、彼らにはなかった。

 刹那、辺りが響き渡る重苦しい音によって支配された。脳を、肺を、胃を、腸を、心臓を──ありとあらゆる臓器を揺るがす轟音が。

「エリス!」

 次いで、レヴィンの張り裂けそうな声が、エリスの耳朶を打つ。

「伏せろ!」

 エリスは真横にいたレヴィンに地面に押し倒された。不意を突かれ、抗うことすらできずに地面を突っ伏す。

 直後、彼女は猛烈な速度を伴った風を感じた。その勢いは嵐の如く、立てば軽々と吹き飛ばされるほどの烈風であった。

 炎に嘗め尽くされた家屋の一つから、大きな爆発が起こったようだった。二人はその家屋から少し離れていたため、爆炎に巻き込まれはしなかったものの、その爆発の勢いは凄まじく、そこより起こった爆風に晒された。

 頭上から数多の悲鳴が聞こえた。その悲鳴の主は今まで誘導しようとしていた住民達。

 反射的に地面に伏せる者。反応が遅れ突然沸き起こった突風によって吹き飛ばされ地面を転げまわされる者。熱風で自分の身長の三倍ほどの高さまで舞い上げられ、遥か遠くの地面に叩きつけられる子供達。

 三種三様の悲劇を、エリスはその目に捕らえた。たとえ、どんな屈強な肉体をもっていたとしても、この突風に晒されれば、命の灯火など容易く掻き消されるだろう。そう思わずにはいられない凄惨な光景の数々。

 爆発を起こした家屋から、おびただしい量の黒煙が沸き起こり、辺りの空は更なる闇の色に包まれた。

「ひどい……」

 眼前の凄惨なる光景に、エリスは知らぬうちに涙を流していた。

「エリス……顔も伏せたほうがいい」

 上に覆いかぶさるレヴィンが囁いた。顔がかなり近く、もう少し近ければ唇が触れそうな距離。彼は自ら重しとなり、相棒が爆風で吹き飛ばされないようにしてくれていた。

 こんな時にも関わらず、心臓が一度強く鳴る。

「え?」

「また……来る!」

 レヴィンが顔を伏せるのを見て、エリスは反射的にそれに従った。

 また、内臓を揺るがすような重く太い音──爆音が轟いた。今度は一度だけではない。二度、三度、四度、五度。

 先刻とは比べ物にならない程の強い風が、二人を掻っ攫い、吹き飛ばそうと襲い掛かる。

 エリスは悲鳴を上げた。体を強張らせ、必死に抗う。レヴィンの身体が力強く抗う自分を支えてくれる。それが何よりも頼もしかった。

 しかし、どれだけ抗おうとも、地面と同化させんとばかりに地面に伏せ密着しても、強大な風の力は二人の身体を浮き上がらせ、吹き飛ばさんとする。

 そんなレヴィンとエリスの耳に届いた、六度目の爆発音。刹那の間に襲い掛かる更なる爆風。

 そして、相次いで七度目の爆発が起こる。

 高潔な騎士道精神性をその身、その胸に叩き込んできた。しかし、それも今まさに掻き消されようとしていた。

「もう、駄目──」

 エリスの肉体は限界を遥かに超えていた。体が軋んでいるような錯覚すら覚える。

「レヴィン……ごめんね」

 エリスの心が風の力に屈した。抗うことを止めたエリスの体は重力から開放され、舞いあがった。

 視界には、自分が今までしがみついていた地点、その地面がどんどんと遠のいていく様子を捕らえていた。そして、そこにいるはずのレヴィン──ずっと一緒だった男に、心からの感謝と謝罪を捧げる。

 しかし、そこに彼はいなかった。今まで自分を支えてくれた男はいなかった。

 どこ? どこなのレヴィン?

 爆風に吹き飛ばされながらも、エリスの体を覆いつくす暖かな感触。それが答えを、レヴィンの確かな所在を導き出していた。

「……馬鹿」

 その答えを知り、エリスはこう呟かざるを得なかった。

 レヴィンもエリスと一緒に吹き飛ばされていた。

 エリスを後ろから抱きかかえたまま。

 そう。彼は地面に衝突したとき、その衝撃の全てを自分が受け止めんとしていた。

 ──昔から、こういう男だった。

 冷静で、頭の回転が速くて、そして少しだけずる賢い。

 でも、情熱的で、一本気で、その為には自分の損得すらも厭わないくらいに頑固。

 だから惚れたのだ。この男を。

 いつからか自覚するに至っていた。彼に対する慕情を。

 たとえ、想いを伝える事はなくとも、彼の胸の中で死ねるのならば本望であった。

 絶望の中、ほんの少しだけ救われたような、不思議なほど晴れやかな気持ちに抱かれながら、エリスの意識は闇の中へと落ちていった。

 

 
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