TINAMIX REVIEW
TINAMIX

多重人格探偵サイコ オウム真理教的、宮崎的

■宮崎勤、主体の欠乏

大塚によれば、宮崎は自分の犯した犯罪について、被害者の固有名を交えて語ることができないのだという。その一方で宮崎は、家族や知人に対し、アニメソングのタイトルを単に列挙しただけの手紙を数度に渡って送りつけているのだという。しかも彼は自らの妹に向けて、「これがお兄ちゃんだと思ってくれ」と書き添えて、アイドルの出演したCMのリストを送りつけてさえいる。宮崎は生身の人間の固有名を交えて犯罪を語ることができない一方で、商品の膨大な固有名を交えて自己を語る。そしてついにはその商品の固有名の集積こそ自分だと、彼は言い切ってしまうのである。

この宮崎の(一見奇妙な)ふるまいを、単なるオタク特有の性癖と混同してはならない。そもそも宮崎勤という人物は、かつて言われていたような、アニメやホラーのオタクではない。彼が所有する約6000本のビデオのうち、ロリコンもの、ホラーものはわずか数十本。後はテレビをザッピングして録画したような、無作為抽出的な寄せ集めに過ぎないのだ。その出鱈目ぶりは、精神鑑定を行った鑑定人が「糞も味噌も一緒と言ってもいい」と驚嘆したほどである。そして何よりも慄然とさせられるのは、宮崎自身がこれらの一つひとつに全く愛着を持たず、ビデオの余白さえ埋まればそれで安心する、と答えていた点だ。宮崎は犯行の直前には1日10本の割合で蒐集を続けていたという。これはもはや蒐集ですらない。宮崎は単にダビングという単純作業を繰り返していたに過ぎないのである。

純粋なオタクに限らず、多かれ少なかれ俺たちは「宮崎的」な傾向を持っている。ネットで個人の運営するサイトをいくつか覗いてみると、そこにはたいてい「プロフィール」とか「about me」とか題された表組みのページがあり、彼ないし彼女のお気に入りの商品(それはCDだったりブランド名だったり映画だったりする)が淡々と書き記されたリストがある。こうした商品の固有名のリストがなぜ「私」なのか、なぜ自分自身の生身の体験や内面がそこに一切記されないのか、奇異に思う者の方がもはや少数派だろう。俺たちは既に、宮崎と相似形の生き方を選択してしまっているのである。

だが、宮崎勤と俺たちを隔てる、希薄ではあるが決定的な壁がある。どんなに膨大な量のデータベースを前にしても、俺たちはそこに溶解してしまうことはない。たった一語のキーワードであっても、それを入力して検索し、何らかの秩序に沿って情報の蒐集を行っていく「主体」を俺たちは持っているからだ。ところが宮崎の場合、この「検索する主体」が壊れてしまっている。そして宮崎はその「穴」を埋めるかのように、無作為抽出的なダビング、純粋にジャンクでスカムな作業を続けたのである。

図4【図4】
】例えばドラッグストア。女子高生たちが日々展開する、無作為抽出的な「消費のための消費」。俺たちの日常生活と宮崎のジャンクな行動は、もはやすれすれの線まで近づいてきている。

『多重人格探偵サイコ』より
(c) 田島昭宇/大塚英志

■時代の呼び声、主体の残骸

この一連のスカムな作業の果てに、宮崎の主体はデータベースの中に溶解していく。そして彼が辿り着いたのは、現在のオタクをも遙かに凌ぐほど、超ポストモダンで空虚な主体のあり方だった。再び大塚によれば、宮崎は自分の行為を受身形でしか語ることができないのだという。例えば「ビデオを集めさせられた」、「テープを万引きさせられた」、といったように。宮崎が獲得したのは「客体としての主体」ともいうべき、がらんどうな主体のあり方だったのだ。そして宮崎は、「ネズミ人間」や「おじいさん」といった奇怪な幻覚の命ずるままに、一連の幼女連続殺人を犯すことになったのである。

宮崎が「ネズミ人間」と呼んだもの、それは人の主体のあり方に変容を迫る、この時代そのものではなかったか。そして「内面を放棄せよ」、「主体を放棄せよ」、「規格品の集積であれ」と命ずるこの時代そのものの呼び声こそ、ネズミ人間の指令ではなかったろうか。宮崎は、時代の強いる命令に対して誰よりも過剰に従ってしまった。あの忌まわしい犯罪は、まさに「時代」が宮崎に強いたものだった、と言えるだろう。この時代によって溶解された宮崎の主体、その残骸。大塚が食い入るように見つめ続けてきたのは、この宮崎の「主体の残骸」だったのである。

大塚が宮崎について書いた文章を読むとき、俺はそこに言いしれぬ鬱屈を感じてしまう。気まぐれに「ゲームの規則」を人に押しつけ、知らぬ間に勝手にそれを変更し、従わなければ置いてけぼりに、従えばハシゴを外して法の下に裁く。そんな身勝手極まりない「時代」に対する怒りを、俺はそこにどうしても読みとってしまうのだ。

大塚はかつてロリコン・コミック編集者として、「切れば血の出る身体表現」をコミック表現から葬った人物だ。また大塚は、自身の作品から「内面」を追放し、ゲームの規則に黙々と従う登場人物を描いてきた人物でもある。彼もまた、時代の命ずる「ゲームの規則」に従って生き、宮崎と同じ不毛を強いられた人間なのだ。大塚の「時代」に対する怒りは、同時に「ゲームの人・大塚英志」自身に対する怒りでもある。『サイコ』の登場人物が見せる「ゲームの規則」への叛逆は、大塚の「時代」への怒り、そして「時代」の命ずるままに生きざるを得なかった自分自身への、例えようもない鬱屈に根ざしている。そんなふうに、俺には思えてならないのである。

糞も味噌も一緒
宮崎が殺害した幼女の遺体は、『動物の赤ちゃん大集合』、『1、2、3と4、5、ロク』と題されたテープの中に、通常のテレビ番組に混じって5分間だけ録画されていた。
万引き
宮崎は1日に10時間もの番組録画を行うため、ビデオテープの大量万引きを繰り返していた。宮崎がこの万引きを語る際に用いる言葉には奇妙な屈折があり、大塚が指摘するような受身形の使用のほか、行為の最中の記憶の途絶、自身の身体についての離人感などが錯綜して現れている。宮崎は万引きの記憶だけでなく、「今田勇子」としての行為も全く忘却している。彼は幼女殺人の事実関係については争う姿勢は見せておらず、ビデオの万引きや「今田勇子」の犯行といった、些細な犯罪を否認するメリットは何もない。一般に多重人格の人格交代の際には記憶の途絶が伴うとされており、こうした点が「宮崎=多重人格」鑑定の論拠となっていく。
「ネズミ人間」や「おじいさん」
宮崎は犯行に及ぶ際、鼠の頭部を持つ人間、「ネズミ人間」の命令によって少女に襲いかかったのだと主張している。また宮崎は彼の実の祖父の死後、たびたび「おじいさん」の幻覚を目撃している。また一審の最初期には、「一連の犯行によって、実体を持たない祖父に肉体を与えようと思い、幼女のビデオを祖父に捧げる儀式を行った」、と宮崎は述べている。いずれにしても自分の犯行の背景には、こうした幻覚の「指令」や「考え」があった、というのが宮崎の主張である。
「時代」が宮崎に強いた
ここに述べた解釈は、俺がいくつかの2次文献から憶測したストーリーに過ぎない。裁判所や検察、弁護人や鑑定に当たった精神科医たち、そして大塚をはじめとする傍聴人たちは、宮崎という人間を相当の期間に渡って直視し、それぞれの回答を見いだしている。こうしたナマの人間の直視に基づいた「宮崎観」が最優先されるべきであることは、改めて言うまでもない。また、俺は「社会のみがこの犯罪の責任を負うべきである」とか、「宮崎は免罪されるべきだ」とか言っているわけでもない。ただ、宮崎という個人を全くの健常者として裁くことで、結果として社会に巣くう病理、「宮崎的なるもの」が延命されるのであれば、これほど救いのない話もないと思っている。なお、この事件は冤罪であるとするグループも一部存在し、これらグループは宮崎とも接触を持っているが、宮崎自身これらグループとは距離を置く身振りを見せているという。
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