TINAMIX REVIEW
TINAMIX
めがねのままのきみがすき〜恋愛少女マンガの思想と構造(3)
はいぼく

・『りぼん』の変遷

恋愛少女マンガを一般化したのは、70年代半ばに流行した「乙女チック」だとされている。いわゆる「乙女チック」とは、ふつう『りぼん』誌上で看板を張っていた、陸奥A子、田渕由美子、太刀掛秀子の3人を指す。当時『りぼん』誌上で「乙女チック」という称号が与えられていたのは陸奥A子だけだったが、歴史上、3人をまとめて乙女チックと呼ぶ慣行となっている。私は、3人のイニシャルを採ってMTTと呼ぶことにする。このMTTが絶大なる人気を保ったのは、1976年〜1981年の6年間であった。人気の指標として『りぼん』本誌の表紙にイラストを描いた回数と巻頭に登場した回数をカウントし、それを図示したものがグラフ1とグラフ2である。緑の部分がMTTを表している。宮台真司は乙女チックが1977年に衰退したとしているが、この見解は『りぼん』の表紙や巻頭登場数の統計データからは支持できない。むしろ1977年はMTTの最盛期であり、その人気は1981年まで持続すると見るほうが正確である

グラフ1
グラフ2
グラフ1 グラフ2

MTT人気絶頂に至る直前の1975年に田渕が乙女チック眼鏡っ娘マンガを完成させたのは、前回検討したとおりである。そしてこのMTT隆盛期、『りぼん』誌上でもそれ以外の雑誌でも、眼鏡っ娘マンガが盛んに描かれるようになった。このあたりの事情は、グラフ3に図示してある。グラフ3の棒グラフの部分は、『りぼん』『りぼん増刊』『りぼんオリジナル』に登場した眼鏡っ娘のうち、主役を1、脇役を0.1とし、雑誌一冊あたりに何人の眼鏡っ娘が登場したかをカウントして「眼鏡っ娘指数」として表し、グラフ化したものである。70年代前半の眼鏡っ娘指数は、高くても約0.3(1誌あたり0.3人、つまり3誌につき1人以下しか眼鏡っ娘が登場しない)に過ぎなかった。
グラフ3
グラフ3
これが1977年には眼鏡っ娘指数は0.74と高いレベルを示すようになる。そして1977年から1981年の間、眼鏡っ娘指数は常に0.5を超えている。つまり、最低でも2誌につき1人は眼鏡っ娘が登場しているわけだ。しかし1982年以降は急激に減少し、常に低い水準を示すようになってしまう。結局、眼鏡っ娘指数が0.5を超えていたのは1977〜1981の5年間だけだった。これはMTTの最盛期とみごとに一致している。グラフ3にはMTTの『りぼん』本誌巻頭登場数を折れ線グラフで示してある。眼鏡っ娘登場率とMTTの流行の時期が一致していることは一目瞭然だろう。

MTT隆盛期に描かれた眼鏡っ娘の大半は逆転眼鏡っ娘マンガであり、橋本の洞察どおり「そんなキミが好きなんだ」というマンガである。まさに眼鏡っ娘黄金期と言えよう。ただし注意を要するのは、田渕と共に乙女チックと呼ばれた陸奥A子や太刀掛秀子は、実際には「そんなキミが好きなんだ」マンガは描いていなかったことである。大塚英志は乙女チックの特徴として「大きな眼鏡をかけた主人公たちも多い」と気づいているが、MTTの眼鏡の扱い方はそれぞれまったく異なっている。その差異はかなり大きく、それは「恋愛博打」への態度の違いとも密接に関係している。検討しておこう。>>次頁

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乙女チックが1977年に衰退した
宮台真司『まぼろしの郊外』朝日文庫、2000、p.196。1977年は宮台が高校を卒業する年である。

「大きな眼鏡をかけた主人公たちも多い」
大塚英志『『りぼん』のふろくと乙女ちっくの時代』ちくま文庫、1995、p.136。

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