TINAMIX REVIEW
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日本マンガ学会第一回総会・大会レポート[2]

日本マンガ学会第一回総会・大会が京都精華大学で開催されてから約三ヶ月がすぎようとしている。その間、昨年12月には学会理事による理事会が開かれ、また年明け早々には学会誌『マンガ研究』の投稿規定が発表され、すでに原稿の募集もはじまっている。学会の体裁は着々と整えられつつある。

日本マンガ学会は、発足以前の段階から旧来的な「学会」の枠組みにおさまらない、いわゆる大学人以外の人々も交えた場というものを指向してきた。「アカデミズムの新しいありようを模索する」試みであると学会設立趣意書に記されているように、その意図は明確に示されている。学会入会には事実上の制限はなく(会費を払えば誰でも入れる)、公式サイトは「より多くの方々のご入会をお待ちしております」とアピールしている。

事実、実にさまざまな立場の人々が「マンガ学会」に対するさまざまな期待を持って総会・大会に参加していたことは、先のレポートですでに述べた。もちろん、私もそのひとりでしかない。私の期待も、学会に寄せられた多様な期待のひとつにすぎないのである。

こうした前提に立ったうえで、前回とは視点を変え、私なりの立場から、自分の意見を交えつつ、マンガ学会総会・大会とマンガ評論・研究の状況について記すことにしたい。

総会・大会の感想を一言で言うのならば、「退屈だが、同時にスリリング」という感じになるだろうか。この相矛盾した感情は、主に、それこそ考えられる限りの幅と広がりで、「マンガ」について私たちがこれから語るべきこと、考えるべきことが示されていたことによる。題材が山ほどあるということ、そして、事前の予想を超えて幅広い人々と出会い、共通の話題について語り合うことができたことは、私に大きな興奮をもたらした。そこでの体験に触発され、自分の考えを積極的に発言する気になったことは、この小文が単なる取材レポートを超えて書かれていることでも明白だと思う。

一方、学会理事たちによる発表は、大枠の方法論と、私たちの目の前に何があるかという確認に終始していた。一日目(11月3日)行なわれた夏目房之介氏と呉智英氏の総論的な対談(「冗談からコマ−マンガ論?マンガ評?マンガ学?」*1)がそうであるのは当然として、二日目(11月4日)に各担当者ごとに持たれた分科会も形式の上でいわゆる「研究発表」ではないという事情もあり、「少女マンガ・リテラシー―コマ割りと心のアヤシイ関係―」*2と題された分科会を除き、具体的なマンガ作品を題材にするものではなかった。

学会の初回の大会がこうした構成を取ることは、むしろ普通のことだろうし、堅実な姿勢と言うべきだと思う。しかし、やはり私には退屈に感じられるところがあった。新しい情報や知識が次々と得られる興奮や、漠然としていたものが言説によってクリアになる瞬間の喜びといったものは得られなかったのだ。もちろん、もう一歩退いてみれば、学会の「幅の広さ」を保持するため、語られる言説を大枠のものにせざるを得ないという判断が働いたということは想像できる。ここでいう「幅の広さ」にはふたつの意味がある。ひとつは学会に参加する人の多様さ。いまひとつは「マンガ」ということばの指し示す範囲の広さである。>>次頁

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リンク先は、日本マンガ学会公式サイトに掲載された各分科会の報告文です。参照してください。

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