TINAMIX REVIEW
TINAMIX

「第二回子どもの商業的性的搾取に反対する世界会議」レポート

■比較文化論的研究の問題点

美学者であるジャクリーヌ・ベルント氏は、比較文化論的なマンガ研究の立場からコメントを発表した。今回言及されたのは、英文で発表された最近のジャパニーズ・スタディーズにおける日本のマンガ研究だが、対象はロリコン系マンガとレディースコミック、論者はほとんどが女性である。そのなかでは男性向、女性向を問わずエロマンガを批判的に見る立場と、その多様性を検討する立場があるというが、ベルント氏は、エロマンガを批判的に捉えることには三つの限界があると指摘する。

第一に、論者がこうした文化をアウトサイダー、つまり外からの視点で見てしまうこと。この場合、エロマンガが、日本人のみならずアメリカ人の読者にも求められている事実を見逃している。

第二に、論者がこうした文化を「単一の日本文化」という括りにして批判的に語ってしまうこと。この場合、論者の研究に潜むモチベーションには、いわゆる西洋近代的価値観が潜んでおり、欧米ですら見られるセクシュアリティの多様性を無視してしまう。

第三に、性描写がなされている一ページ、一コマ、コマの一部分に注目しすぎるあまり、それらの作中におけるコンテクストを無視してしまうこと。

こうした限界から、エロマンガは読者の欲望を反映したメディアであり、それは子供っぽい現実逃避のファンタジーである、とさえ結論づけられてしまうだろう。とはいえ他方では、以上のような問題は日本人論者の側にもいえると、ベルント氏は指摘する。たとえば「日本文化を代表するマンガ」が強調され、「ある単一のセクシュアリティに対して別種の単一のセクシュアリティを肯定する」傾向があり、「架空の絵という非現実性を主張することには、ファンタジー対リアリティの二項対立的思考」が働いているというのだ。

こうしたマンガにおける性表現の研究が陥りやすい問題について、ベルント氏の提言は以下のようなものだ。――第一に日本を同質的に捉えられないことを踏まえ、第二に80年代以降のエロマンガと少女マンガの関係を視野に入れつつ、第三にテクスト分析とコンテクスト分析を結びつけ「誰が何を目的に読むのか」つまり単なるポルノ目的でない読みの可能性を考える必要がある。そして最後に、フィクションが持つリアリティ、読者自身の内的なリアリティも重要である。

■虚構の自律性

臨床精神科医の立場から斎藤環氏は、「CSEC」とマンガ・アニメ文化の関連性について、「アメリカとの比較」「虚構の自律性」といった観点から発言を行った。

前者について、日本のマンガ・アニメ文化はたしかに性的表現に支えられている。では実際に、日本で児童への性的犯罪が増えたかというと、決してそうではない。たとえば日本における児童への性犯罪、強姦、強制猥褻が5608件(2000年)だったのに対し、CNNのレポートによれば毎年アメリカでは325000人の児童が性的虐待を受けているという。1957年に実施したコミックコードによってあらゆる性表現を規制し、マンガ文化を衰退させたアメリカの方が、むしろ児童性犯罪に苦しめられている。

後者は斎藤氏の著書『戦闘美少女の精神分析』でも展開されていた論だ。つまり日本の表現空間においては、様々な虚構(あるいは倒錯)に自律的なリアリティをもつことが許されている、ということだ。リアルな虚構は現実という担保を必ずしも必要としない。斎藤氏の考えでは、たとえ倒錯的な願望を反映したマンガでも純粋なフィクションとして消費され、読者の日常的/健常的な性生活(ヘテロセクシュアル)に影響を与えないのだ。

その典型的な事例として言及されたのが「やおい」である。なるほど読者はそこから性的刺激を受けているのかもしれない。しかし女性がホモセクシュアルな男性を愛することが、日常においてどのような倒錯行為に結びつくだろうか?――以上ような考えから、斎藤氏は、オタクは性的に最も安全な集団といってよく、(たとえば1989年の宮崎勤による連続幼女殺人事件以降、そうした犯罪はわずか一例しか知られていない)

したがって今のところ、「児童に対する性犯罪については、むしろ小学校教師や警察官といった集団を疑った方がよい」「セクシュアリティにおいて、虚構と現実の乖離を促進する傾向にあることから、マンガ・アニメ表現は「CSEC」と親和性が低く、部分的には「CSEC」を抑制する効果すらあると考えている」「マンガ・アニメ表現が実際の犯罪に影響を与えているというならば、そのエヴィデンス(証拠/徴候)の蓄積を講じる必要がある」――と結論づけている。 >>次頁

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