TINAMIX REVIEW
TINAMIX
逆境哀切人造美少女電脳紙芝居『少女椿』

【第伍幕】見世物の復権

かつて寺山修司は「見世物の復権」を標榜し、文化的スキャンダルを巻き起こしてアングラ演劇シーンを席巻した。舞台上に超肥満体の女優オカマといったマイノリティを登場させたのも、説教節に題材を採った劇を上演したのも、この「見世物の復権」というコンセプトに基づくものであったと言える。丸尾〜原田版『少女椿』は、確かにそのストーリーの骨格として、近現代の見世物を担ってきた異形の人々へのステレオタイプな偏見を含んでいる。だが丸尾・原田版『少女椿』は、かつて寺山が試みた「見世物の復権」の延長上にある作品として理解できるのではないだろうか。実際に作品を見て頂けば一目瞭然なのだが、『少女椿』はそもそも見世物に対する憧憬や賛嘆の念がなければ、生まれようはずもない作品なのだ。

また、丸尾・原田版『少女椿』の物語では、観客から罵詈雑言を投げつけられた異能の曲芸師・ワンダー正光が、観客の怠惰さと尊大な権利意識に怒り狂い、その異能の全てをぶつけて観客に復讐する場面がヤマ場となっている。つまり、丸尾〜原田版『少女椿』は「見世物を見る側」の偏見を描き出すと同時に、「見られる側」の怒りや逞しさ、図太さをも描き出しているのである。こうした背景を踏まえつつ再び作品を提示するならば、関連諸団体の理解もいつか得られるのではないか。いささか楽観的な展望かもしれないが、そんなふうに俺は思っている。

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スズナリ興行で上演された獅子舞 (c)丸尾末広 霧生館

とはいえ、この点をクリアしても、さらに問題は残る。実は見世物というのはもともと、それほど「おどろおどろ」した世界ではなかったのである。いや、「おどろおどろ」という枠には収まりきれないほど、もっと多様で猥雑、かつエネルギッシュな存在であった、というべきかもしれない。『少女椿』に描かれる、異形の人々とイカサマを中心とした見世物の光景は、実は近現代に至って生まれてきた「衰退した見世物」のイメージなのである。

近世以前、見世物は曲芸や細工物、動物見世物に大道芸など、多種多様なジャンルを横断する、芸能のクロスカルチャー空間であった。後に見世物のイメージを決定づける「グロテスク系見世物=人間の見世物」は、江戸時代を通じて見るならわずか数パーセントを占めたに過ぎないのだ。エログロ・ナンセンスだけにとどまらず、自然科学から中国文学までを素材として取り込んだ、清濁併せ飲む広大な世界。それが江戸期までの見世物の姿だったのである。

例えば幕末期に大流行を博し、今日では忘れられてしまった見世物として、「細工物」が挙げられよう。魚の干物で三尊仏の仏像を作り、「とんだ霊宝」と洒落てみせるもの。あるいは籠で古代中国の豪傑・関羽の像を作ってみせるもの。さらにはムギワラだの糸だの貝ガラだの、挙げ句の果ては昆布を使って神仏や虫魚禽獣を作ってみせたものまであったという。こうした細工物は文政期には量・質ともに絶頂期を迎え、多種多様な見世物の中でも半ばを占めるに至る。この細工物をはじめとして、多種多彩な芸の集合体が、近世までの見世物だったのである。

だが、このように隆盛を極めた見世物文化にも、やがて衰退のときが訪れる。細工物はマネキン人形へ、動物見世物は動物園へ、曲芸はサーカスへ。かつての見世物の担い手たちは、自らの芸を西洋起源の制度と融合して再編成し、近代的な装いのもとに新たな道を歩み始めていったのである。江戸期の見世物を担った人々は、一人また一人と見世物というクロスカルチャー空間を去っていった。かくて文明開化のかけ声とともに見世物文化は解体され、一群の人々だけが取り残されることになる。それが『少女椿』に描かれる、「グロテスク系見世物」を担う人々だったのである。

丸尾〜原田版『少女椿』は、「見世物の復権」の延長上にある作品として理解できる。だが、その肝心の復権しようとする「見世物」が、近現代によって再編され、狭められた結果の見世物の枠にとどまるなら、これはやはり寂しい話だというほかない。

言うまでもなく、俺は近現代のグロテスクな見世物を否定しようとしているのではないし、いわんや人の商売を邪魔しようとしているのでもない。そうではなく、近現代の社会が排除してきた異形・異能の人々と、その清濁併せ飲む図太さ、スケールの大きさ、さらには異なるカルチャー間を往来する融通無碍さをこそ復権させたいのである。

いま、日本に現存する見世物小屋は、たった2軒にとどまるという。人間ポンプこと安田里美氏も亡くなられて久しい。俺は丸尾〜原田版『少女椿』を通じて、見世物とは一体何だったのか、近現代が葬ってきた世界とはどのようなものだったのかを、もう一度考えてみたいのである。

※なお、この項については、見世物文化研究所代表・川添裕氏のご教示によるところが大きい。川添氏の主宰する見世物文化研究会のサイトはこちら

>>終幕

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超肥満体の女優
寺山修司主宰の劇団・天井桟敷には、「大山デブ子」と名乗る超肥満体の怪女優がいた。

オカマ
天井桟敷の初期のヒット作『毛皮のマリー』には、丸山(美輪)明宏をはじめ、新宿のゲイバーのオカマたちが大挙出演していた。俺は先日『毛皮のマリー』の再演を見る機会を得たが、元コメディアンにして小人俳優のマメ山田氏が下男役で出演。その独特な存在感を味わうことができた。またこの再演では、美輪明宏自身による、華麗なる異類ぶりが存分に示されたことも記しておきたい。

毛皮のマリー
「毛皮のマリー」

説教節
中世末から近世初頭にかけて流行した芸能。寺社の境内や往来で、ムシロ敷きと傘のみという、超ミニマルな舞台空間の中で演じられた見世物であった。この説教節の演目の中から「しんとく丸」をロックオペラとして再編成したのが、天井桟敷版『身毒丸』である。このほか説教節の有名な演目としては、後に森鴎外によって『山椒大夫』としてリメイクされた「さんせう太夫」などがある。

動物見世物
幕末には舶来の動物を見せる「動物見世物」が大流行した。象や駱駝や豹、クジラや巨大なイカなどが陳列され、人気を博したという。

芸能のクロスカルチャー空間
江戸の見世物は、黄表紙や浮世絵のシーンとも連動していた。浮世絵には「見世物絵」と呼ばれるジャンルがあり、多彩な芸能と異能・異形の人々の渦巻く見世物空間を活写していたのである。また、これら見世物絵と連動する形で、数多くのカタログ本のような黄表紙も出版されていたらしい。長らくこれら見世物絵はゲテモノ扱いされてきたが、今日では再評価の気運も一部にはあるという。江戸のクロスカルチャー空間の全貌が明らかになるには、いましばらくの時間がかかるのかもしれない。

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