TINAMIX REVIEW
TINAMIX
逆境哀切人造美少女電脳紙芝居『少女椿』

【第四幕】少女椿救出作戦

実を言えば、他にも『地下幻燈劇画・少女椿』にはやたらと問題がある。動物殺傷のシーンに始まって、昭和天皇の直写シーンだの性器や陰毛の描写だののほか、「こびと」や「どかた」などといった差別用語がばんばん出てくる作品なのだ。はっきり言って、通常の映画館でのノーカット上映は到底無理な作品といって良いだろう。このため通常の映画館で上映を行う際には、映倫指定の約26カットを削除したりぼかしを入れたりした「映倫通過版」のフィルムを用い、これにR指定をつけて上映を行わなければならないのである。

問題はもう一つある。見世物小屋に関する描写である。『少女椿』は紙芝居版、丸尾版、アニメ版のいずれを問わず、主人公の少女椿・みどりちゃんが見世物小屋(紙芝居版では少女レビュー団)にさらわれて芸人にされ、諸国を遍歴するという筋立てである。これが現在もなお見世物を生業として営む人々から、公開自粛の要望を受ける原因となったわけだ。こちらは特に映倫からは何の指摘も受けてはいないが、道義的な問題は存在する。

TINAMIXなどというハイカラかつポストモダンな媒体をお読みの皆さんはご存じないかもしれないが、その昔は親がきかん気の子供を叱るのに、「そんな悪いことしてたらサーカスのおっちゃんに連れて行かれるで!」などといって怒鳴りつけていたものであった。もちろん実際に見世物小屋の芸人がそんなことをするわけがない。そのへんの素人の子供をいちいち拉致してゼロから芸を仕込んでいたら、全く商売あがったりである。「サーカスのおっちゃんに連れて行かれる」云々というのは、見世物に対する差別と偏見のステレオタイプである。『少女椿』のあら筋は、このステレオタイプの再現でもあるわけだ。

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(c)丸尾末広 霧生館

それでは、『地下幻燈劇画・少女椿』は、二度と公開することができないのだろうか? 少女椿・みどりちゃんは、再び陽の目を見ることはないのであろうか? いや、あきらめるのはまだ早い。フィルムは没収されてもビデオは現存するのだから、全く不可能ではないはずである。そこでここでは上映に際しての問題点をもう一度、俺なりに整理しておきたい。「少女椿救出作戦」の立案の、叩き台くらいにはなるからである。

まずは映画界・アニメ界からの批判についてであるが、こんな批判は問題外の外である。だいたい映画なぞ覗きカラクリから出発した、たかだか100年そこそこの歴史しか持たない「芸術もどき」に過ぎないのではなかったか。それがあたかも高尚な「おゲイジュツ」のふりをして、「あんなものは映画ではない」などと宣うのだから笑わせる。映画でなくて結構、それがどうしたと言わせてもらおう。アニメにしたって同様だ。そもそも“Animate”の原義とは「生命を与える」ことではなかったか。決まり切った約束事を遵守して作った死に態のフィルムのどこが“Animation”なのか。こんな批判をする奴は伝統芸能よろしく、アニメの「お約束」を後生大事に守って、勝手に衰退すればいいのである。

次に成田税関からの国内上映禁止の指示だが、これはなんの強制力も持たない曖昧なものだから公開しても違法性はないし、昭和天皇の直写に至ってはそもそも何ら法的に問題はない。性表現も(基本的にはナンセンスだと俺は思うが)ぼかしやカットで対応すれば済むのだし、暴力描写なぞ『ハンニバル』が鳴り物入りで公開されるこのご時世に、一体何をかいわんや、である。差別用語だって(これもナンセンスな話だが)言い換えで対応すれば十分である。通常の映画館では無理かもしれないが、自分で物事を判断できる大人を対象にした自主上映なら、ノーカットですら構わないだろう。理詰めで考えれば、『地下幻燈劇画・少女椿』の上映を妨げる理由はほとんど見当たらない。要するに上映のリスクを引き受ける、肝っ玉の座った興行主がいれば済む話なのである。

だが、見世物小屋に関する問題だけは別である。こちらはストーリーの根本に関わる問題であるだけに、ぼかしやカットなどといった対症療法では解決できない。また、具体的に人の生業に差し障るわけだから、性描写や天皇の問題とはその重みがまるで違う。多くの中小・零細の商工業者がそうであるように、見世物小屋をはじめとする仮設興業者はいま、後継者難にあえいでいる。そこへ差別と偏見を助長する映画など上映されてはたまらない、というわけだ。哀れ我らが少女椿・みどりちゃんは、再び陽の目を見ることができないのであろうか? 危うし、みどりちゃん!

>>第伍幕

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差別用語
例えば、「口唇・口蓋裂(こうしん・こうがいれつ)友の会(略称 口友の会)」は、ベストセラー「ハリー・ポッターと秘密の部屋」(J・K・ローリンク原作・松岡佑子訳、静山社)の一部を口唇・口蓋裂への差別的表現とし、訳者との話し合い、著者の代理人の承諾を経て、問題の個所を含む一文の削除(初版第66刷以降)を行った。ここまでは良い。病を何らかの「隠喩」として用いる表現には俺も疑問を感じるからだ。だが、一部の図書館ではこの動きを受けて、削除前の資料すべての除籍を実施、検討しているという。差別が過去に存在した証拠そのものを一切合切隠滅しようという発想は、単なる事なかれ主義を越えて、逆に差別を助長しかねない。「土方」もいわゆる「差別語」とされ、「労務者」と言い換えられた。が後にこれも差別語扱いになり、現在は「作業員」だの「現場職員」だのという言葉が当てられている。これもどうせそのうち「差別語」になるだろう。「差別語死すとも差別は死せず」である。

通常の映画館
実は、この無茶な映画を正面突破で上映しようとした映画館も、いくつかある。大阪府高槻市にある「高槻松竹」という映画館も、そんな突破な映画館の一つ。観客には登場人物にちなんだ扮装で来場させ、「ロッキーホラー・ショウ」のような観客参加型のカルト・ムーヴィーとして上映するプランを練っていた、という。俺のこのフィルムに対する解釈は高槻松竹とは異なるが、独自の試みとして非常に興味深い。現在同館による計画は諸般の事情でペンディング中だが、今後の健闘を祈りたい。

覗きカラクリ
エジソンが覗きカラクリ型の「キネトスコープ」の特許を出願したのは1888年のこと。現在の映写式シネマトグラフは、1895年のリュミエール兄弟のものを待たなければならなかった。要するに映画もまた、「見世物」としての出自を持つ芸術ジャンルなのである。

問題はない
文学作品においては「今上天皇の直写」をもって不敬とする渡部直巳の見解があるが、1992年の『地下幻燈劇画・少女椿』に登場するのは昭和天皇であって、当時既に今上天皇ではなかった。この作品は法的にはおろか、文芸理論に照らしても不敬とは呼べないのである。

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