阿部和重 INTERVIEW
TINAMIX
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東:砂さんは今回、『フェミニズムセックスマシーン』(太田出版)を出版されました。それを一読すると、とても形式的な実験が行われているのに驚きます。他方阿部さんも、デビュー当初から形式的な実験を小説内に導入するのに意欲的で、『公爵夫人の午後のパーティ』(講談社)などにそれは明確ですね。しかし実際には、形式的実験の追求にはどうしても限界がある。これは『湾岸』で描かれたチューニングの歴史でも主題になっていますよね。かつて90年代の初め、どんどんスペックアップをして、最速を競い合っていた時代がある。けれどもみなが徐々にゲームから降り、いまや速さを求める人間はいなくなってしまった。形式的な実験もまた一種のチューニングのようなものなわけですが、そういう試みの行方について、最後にお二人に伺っておきたいと思います。

僕はこの点で、『湾岸』の主題は、時代の変化と同時に、「老い」の問題でもあると思うんです。サブカルチャーは一般に、老いの問題にとても弱い。これは当たり前で、70年代までの初期のサブカルチャーは、単純に反体制的であり、若者が担うものだったわけです。しかしそれ以降、サブカルチャーの歴史的な蓄積が増えていくなかで、30代、40代になってもサブカルチャーの担い手であることが可能になっていった。その結果、いまやサブカルチャーの担い手自身が老いているわけで、マンガだからといって20代の文化だとはとても言えない状況になっている。そのような現状を踏まえたうえで、お二人の作品が今後どう展開していくかを話してもらえますか。まずは砂さんから。

砂:マンガの作者たちって、親を描くのが苦手なんじゃないか。世代的な業(カルマ)の問題とかは大雑把にしか扱われない。これはまさしくマンガが若者文化だったからかなと思いますけど。マンガの場合、他のジャンルではすでに主題化されてきたこれらの問題をどう取り込んでいくのか、そういう形で老いを描くことに直面していくのではないか。

もうひとつマンガの可能性で言うと、キャラを扱うことで人称以下のレベルを描くことができないかと考えています。キャラクターって人称以下の単位に思えるんです。それゆえ人間ドラマのシミュレーションよりも、もう少し細かいレベルのことを、しかし人間の問題であるかのように扱い得るんじゃないか。たとえば私のキャラでいうと、涼子を活字で描くと、単に男になってしまうと思うんです。実写でやったとしても、きわめて演じにくいでしょう。しかしマンガだと、男の言葉に美形の女という外見を与えてやることで、ああいった特異なキャラを自然に見せることが可能になっていると思うんですね。たとえばミステリーの手法をとったとして、他のジャンルならつい犯人という人称レベルに謎が収束してしまうような場合であっても、マンガなら独特の多重性をキャラに込められるのじゃないか。普段ミステリーを読んでいると、ついもう少し細かい謎の方がおもしろいとかと思ってしまうんですよね。阿部さんの『インディヴィジュアル・プロジェクション』を読んでこれはと思ったのも、人称以下のレベルの謎を小説的に追求していたところです。犯人の次の段階に興味があるんです。

東:なるほど、砂さんはもう少しできることがある、やり残したチューニングがあると感じているわけですね。

砂:そこらへんはかなりはっきりと感じてます。

東:阿部さんはどうでしょう?

阿部:展望という点では、あまり明るいイメージは持ってないね。サブカルチャーの担い手が老いを迎えている、という問題については実は数年前から考えていて、純文学の世界だと一番わかりやすい先例としては村上龍がいると思うんだ。彼はデビュー当時から先端的な情報を扱って作品を構成し、いわゆるサブカル好きの人を読者として取り込んできた。ところがある時期から、彼が書く作品内の情報が必ずしも先端的じゃなくなってしまう。写真彼の小説が、最新のサブカルチャーを伝達するものとして機能しなくなっちゃうんだよね。たとえばインターネットのアングラサイトで得られる情報の方が、先端的かどうかはともかく、より刺激的だったりする。だから『インディヴィジュアル・プロジェクション』を書く前あたりの時期に、自分はもう同じことをやれないなと思ったんだ。この作品を発表した後に受けたインタビューのなかで「すでに世間で流通しきってしまったようなものを、再検証する形で作品を書くようにしてるんだ」と答えたわけだし、その認識はあるんだよ。それでもね、砂さんの発言を引き継ぐと、僕も形式的な実験をやる余地がある気ではいる。僕としては、純化した世界の論理的なパズルとは別の可能性を考えたいんだけれど。

東:砂さん、阿部さんともに今後もチューニングをやる、それは可能だと思う、という答えですね。しかしそのうえで、もう少し突っ込むと、問題は可能性ではなく、それをやる気が起きるかどうかだとも思うんですよ。ふたたび僕の話をすれば、『存在論的、郵便的』(新潮社)の試みを発展させるのはおそらく可能なんですね。けれども、僕はもうそのスタイルでの思考には魅力を感じなくなっている。それはマンネリでしかないように感じるから。20代と同じことをやっていても、それはマンネリだと言われるし、また自分自身そう感じてしまう――それが「老い」の問題だと思うんです。『湾岸』もまたそういう問題を考えた作品なわけですが、阿部さん自身はどう考えていますか?

阿部:それにうまく応えられるかわからないけど、とりあえず僕は今『シンセミア』を連載している(『アサヒグラフ』)。そこではできる限りのところまで老け込んでみよう、という考えは持って書いているんだ。J文学作家として世間に流通して、サブカル系の作家だという認識ができてしまった。その後にどうするかというと、もう老け込むしかない。『シンセミア』のネタ自体はずっと前から持っていたんだけどね。とにかく今回は、人の生き死にを書きまくって、それでどこまで老け込めるかなと考えている。

東:楽しみにしています。今日は『D』と『湾岸』をきっかけにしながらも、かなり一般的な話にまで広がり、有意義な会話ができたと思います。お二人とも、どうもありがとうございました。


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