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■日常はキツくも耐えがたくもない
よしなが作品の登場人物たちは無表情です。いえ、本当は人物の内面を何気ない表情で表現するのが非常に上手な人なのですが、今までの少女マンガと比べると無表情といいたくなるほどの微妙な表現をする作家です。しかし、現実の世界でも驚いたときに白目になったり、顔にタテ線が入る人間はまずいません。「静かな演劇」と呼ばれるお芝居でも、役者は殆どその表情を変えませんし、驚いた時にコップを落としたりしません。日常で驚くたびにコップを割ったりしないように。だっていちいちそんなことしてたら掃除が大変だし。
コップも落とさない白目にもならない、どこにでもいる普通の人間のどこにでも転がっている何の変哲もない人生が、マンガにおいても芝居においても、バブル崩壊と相前後して描かれるようになったというのが筆者には非常に興味深い、そういえばバンドブームで爆発的に売れたユニコーンの奥田民生が、ユニコーン解散後初のソロアルバム「29」で、息子との心のふれあいや筑波山に釣りにいって昼間っからビール飲んじゃうよん、などといった力の抜け切った日常を歌いはじめたのが1995年、バブル崩壊の3年後でした。

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『』1巻より
(C)よしながふみ
ビブロススーパーBE×BOYコミックス 2000年
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それはバブルがはじけた後につまらない日常しか残らなかった、ということではなく、資本主義原理の中で他と自己との異化を商品化するメディアとそれに己を同化させようとする大衆との異化他己競争から降りてみて、等身大の生活のなかでの感情の起伏、幸福や不幸、善意や悪意を再発見させてくれるものでした。そこで描かれる等身大の日常は、劇的でも何でもなくありふれたものでありながら、キツくも退屈でもなく、瑞々しい新鮮さに溢れていたのです。
よしながふみの作品では、よく食事の風景が出てきます。作家が好きだという池波正太郎の影響でしょうか、登場人物たちの日常の食卓が丹念に描かれます。ハレの部分ではなく、そんなケの部分の丁寧な描写によって、登場人物たちの性格が明確に浮かび上がってきます。例えばフランス革命前夜のおフランスを舞台にした『ジェラールとジャック』(ビブロスBE×BOYコミックス2000年第1巻発行以下続刊)シリーズにおいてすら、主人のジェラールと元貴族の召使ジャックの主従関係は日常生活に重きを置いて描写されています。
■そして新たなる地平へむかう『西洋骨董菓子店』
よしながふみをその最初の単行本『月とサンダル』(芳文社花音コミックス・1996年)で初めて読んだとき、普通の高校生が社会科の先生をなんとなく可愛いと思い始めて(しつこいようですが両方オトコです)、先生宅にあがりこむのに成功し、でも結局は先生には別に恋人がいて(しつこいですがオトコです)……というそのありきたりのストーリィのなかで、微細な表情の変化だけで、殆どモノローグのネームがないにもかかわらず主人公の心の痛み、切なさを表現しきった内容に感銘を受けたものです。どこにでもいる人間の普遍的な日常のなかの感情の起伏を、不自然ではない描写で描く雁須磨子、架月弥(注2)といった作家が時を同じくして出てきたことを考えると、この等身大で力の抜けた作劇法は、ボーイズ・ラブというジャンルにおいても、ひとつの洗練された形として定着しつつあるようです。
彼女たちの作品において、「愛している」というセリフはあまり、というか殆ど出てきません。これは少女マンガにおいては異常なことだと考えてください。でも、マンガの中ならともかく、普段「愛している」とかいうかぁ〜?たとえ恋人に向かってでもちょっとどーかと思うセリフだと思うんだけど。実際いきなり「愛している」とかBFやGFに言われてひいちゃった経験ありませんか〜?なんというか、少女たちは自分のなかにある、相手が好き、いっしょにいたい、という気持ちと「愛している」という劇的なセリフとのずれに気付きはじめたのではないでしょうか。

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『西洋骨董菓子店』1巻
(C)よしながふみ
新書館ウィングスコミックス 2000年
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そんな日常と変わらんリアルさなんてウンザリ、とまだお考えのあなた、しかし、よしながふみはここに来て平均点以上を取りにきました。現在ウィングスにて連載中の『西洋骨董菓子店』(新書館ウィングスコミックス、1〜2巻以下続刊)では、従業員がごつい男ばかりのケーキ屋を舞台に、狙った男はオールゲッチュな魔性のホモ(通称魔性様)やリングのジャニーズと呼ばれた元プロボクサーのケーキ職人の弟子、ヒゲのオヤジ等が入り乱れてケーキ屋の日常を淡々と描きつつも、子供の頃誘拐事件に巻き込まれたヒゲオヤジのトラウマなどを上手く絡ませて、メリハリのある物語作りに成功しています。未解決事件の謎で読者を惹きつけつつ、お得意の日常生活の丹念な描写で絶妙なバランスをとる筆者の力量は、近年の少女マンガ作品の中でも出色の出来といえましょう。ホモ描写もギャグで押さえ、ボーイズ・ラブが苦手な向きにも安心して読める作品となっております。
つまんない日常からの逃避の手段だったやおいが、いつの間にか同じもとの日常に帰ってきていたとはまるで青い鳥のようなオチ。しかし、一度でも既存のシステムからの跳躍を試みたやおい少女たちが帰ってきた地点は、たとえ飛んだと思ったのが錯覚だったとしても、以前と同じではありえない、と筆者は信じたい。少なくとも筆者も日常ボーイズ・ラブのファンたちも、その物語が退屈だとは思ってはいないのだから。私たちの着地点からは、また新たな地平が広がっているのが見える。それがたとえ錯覚だとしても、終わりなき日常は私たちにはまだまだ退屈でもキツくもないのです。
……でもやっぱりまだオトコ同士が好きなんだけどね。 >>コラムへ
注2 雁須磨子と架月弥はともに、『花のあすか組!』などで有名な高口里純が発行している同人誌「高口組」の出身だと筆者のやおいココロの師匠エノ氏(欄外コラム担当)に教えていただきました。
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