No.962751

Blue-Crystal Vol'05 第一章 ~外来~

C94発表のオリジナルファンタジー小説「Blue-Crystal Vol'05 ~Damnation~」のうち、 第一章を全文公開いたします。

2018-08-06 21:01:02 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:709   閲覧ユーザー数:709

 

 <1>

 

 穏やかな波音が港町を吹き抜ける風に溶けて消えていく。

 船着き場の桟橋に佇むは一人の青年。陽光に反して銀色に輝く海の水面をぼんやりと眺めていた。

 王都アルトリアの東──馬で二日ほどの距離にある港町セイラム。

 ラムド国に点在する諸外国との玄関口のうち、最も規模の大きく栄えた街。

 青年はこのセイラムで生活を営んでいる労働者。所属している商会が所有する船の荷揚げや荷卸しを補助するのが彼の主な仕事であった。

 時は白昼。数多くの商船や客船の類がひっきりなしに出入りし、彼のような港湾労働者が多忙を極めるはずであった時刻。本来、この場を支配するは人々の熱気や忙しなき声であるのが常。

 しかし現在、港を覆い尽くしているのは静寂。停泊、或いは往来する船は一隻たりともなく、ゆえに港に勤める者の姿も彼を除いて皆無であった。

 一度たりとも経験したことのない光景を前にした青年は、まるで止まった時間の中に置き去りにされているかのような感覚を覚えていた。

 そして、この青年もまた、停滞した時間の流れに魅入られたかのように、その場に立ち尽くしていた。

 彼の瞳に映るは陽光に反して銀色に輝く水面。絶えず満ち引きを繰り返し、波音を奏でる様はまるで制止した時流に抗うかの如し。

 一時間後、そんな不変なる空間に変化が生じた。

 その前兆は水平線の彼方より現れた。

 小さな黒い影であった。順風のなか、ゆっくりとした速度で影は次第に大きさを増し、やがてそれは青年の肉眼でも視認できるほどにまで拡大をしていた。

 影とは船であった。一隻の船が姿を現すと同時に両隣より新たな影が生まれ、それもまたやがて船影と化す──そんな現象が五度繰り返された。こうして水平線の彼方より現れた一つの船影は瞬く間に二十を超えるであろう船団へと変貌を遂げていた。

 変貌の一部始終を見ていた青年は唖然とした。青年が属している商会をはじめ、ラムド国内においてこれほどまでの大船団を所有している商会は存在してはいないのだから。

 諸外国に存在していると噂される大商会なのだろうか?

 ──いや、それはない。青年は心のなかで否定する。

 このラムド国は『魔孔』による脅威に晒され続けている呪われた国。『魔孔』の休眠期ならばいざ知らず、活動期に入った今、治安も生活上の安全面においても不安定な状況。経済面上の先行きの知れぬ国を相手に商売をしようなどという酔狂な人間など存在せぬ。

 青年も商人の端くれ、この程度の常識的な判断を下すことなど容易であった。

「では、あの船団はいったい──」

 思わず青年が口にしたこの疑問──程なくして答えが与えられ、氷解することとなる。誰かの口を解した言葉ではなく、疑問の対象となった船、それ自身をもってして。

「あれは──」

 疑問の氷解、その発端となったのは団の先頭をゆく船、その帆に描かれし巨大な一頭の獣を意匠化した紋様。

 黄金色の鷲の頭と羽を有した純白の獅子。伝承上に登場する聖なる獣グリフォン。

 これを意匠化した紋章を掲げているのは唯一。聖獣グリフォンの名を冠した大国。

 ラムドの遥か東、四の大海と二の大陸を超えた先に存在するその国は別名「賢者の国」とも称され、国民一人ひとりに至るまで幼少期より水準の高い教育を施し、これによって育て上げた優秀な人材を次々と国内外の事業、その要職へと登用。内戦の混迷期を終え、長い年月を経た今もなお、著しい発展を遂げていると聞く。

『魔孔』の被害によって発展を阻害されるがゆえ、子供すらも貴重な労働力として駆り出さねばならぬ、このラムドとはまさに雲泥とも言うべき格差のある相手。

「存在していたのか──」

 青年は思わず感想の言葉を口にした。

 そう。ラムドの民にとってそれはまるでお伽噺に出てくる理想郷とも言うべき場所。この国の存在を疑問視する者も少なくはない。

 そして何よりも、そんな大国があのような大船団を率いてまでラムドのような小国に果たして何の用があるというのだろうか?

 疑問は尽きぬ。

 だが、この港の──あの船団の入港に備えたとしか思えぬ、船一隻の停泊すらなく、これら船舶の雑作業に従事する人間すら払われた状況から鑑みるに、何らかの権力の介入があったと見て間違いはない。

 恐らくは、王家の人間が彼らを呼び寄せたのだろう。

 理由はわからない。だが、ここ一年『巫女』制度の是非を巡って国内が不安定な状況になっている。都市部でも『巫女』推進派と反対派の衝突が相次ぎ治安は悪化の一途。

 この状況を一日も早く収拾するため、王家は外部の識者──「賢者の国」の人間に助言を求めたのだろう。

 反対派の弁によると『巫女』の儀式には非合法な邪法が用いられているという。もし、この噂が真実であるのならば諸外国より反発を招くのは必至。

 交易による税収で経済を支えているラムド国にとって諸外国との関係の悪化はまさに国の生命線の断絶するに等しい。

 そうなる前に、あらかじめ諸外国との関係性を密にして、国家としての自浄作用を強調し、心証の悪化を最低限に留めたいという狙いがあるのだろう。

「国の面子は丸つぶれだな」

 そう独り言を呟き溜息を吐いた。

 だが、彼はすぐにこう付け加える。

「──だが、俺のような交易で口に糊をしている貧乏人にとっては、そうしてくれたほうが助かるがね」

 何らかの権力の介入によって、この港より人や船が払われているのならば、今ここにいる自分もいずれ衛兵に見つかり、何らかの罰を受けることだろう。

 港の一労働者に過ぎぬ彼にとって船団に対する好奇心より、近い未来に待ち構えている面倒事を忌避する気持ちのほうが強かった。

 ゆえに、青年はゆっくりと歩き出した。

 港に近づいてくる船団に背を向け、まるで逃げるかのように。

 

 <2>

 

「──あと数刻で、ラムド国南部セイラム港へと到着いたします!」

 帆にグリフォンの紋様を掲げし船団の先頭をゆく一隻の船。その甲板に、威勢の良い声が響き渡る。

 声に応じ、乗組員と思しき男達が着港の準備に追われて右往左往とするなか、そのような喧騒などまるで我関せずとばかりに佇み、吹き抜ける海風の感触を愉しんでいる人物がいた。

 見る者に神秘的な印象を与える長い銀色の髪が靡く。

 年の頃は二十前後の女。

 帯剣し、肩当てと胸当てといった、簡素でありながらも着用者の敏捷性を損なわぬ機能的な構造の鎧を身に纏っていた。

 表面には彫刻による繊細な装飾が施されており、陽光に反して銀色に輝くその様相たるや、ある種の完成された工芸品の如し。

 それはまさに金属に対する高い精錬技術と加工技術の為せる業。この船が属する国が有するこれらの文明水準の高さを誇示する装飾の役目を果たしていた。

 そんな麗容なる女の背後──右往左往する水夫たちの群れの中より一人の騎士が現れた。その者は足早に女へと近づき、足元にて跪く。

「エルシェ公女。そろそろ上陸のご準備を」

「──ええ。わかったわ」

 エルシェと呼ばれた女は、そう返答して口元に穏やかな笑みを浮かべた。顔の端正さと相俟って、見る者にどこか安心感を覚えさせる穏やかな笑み。

 だが、跪く騎士に弛緩した様子はない。どこか張りつめたかのような緊張感すら漂わせている。

 そんな気配を察し、エルシェは改めて前方を──ラムド国へと視線を向けた。

 正確にはラムド国の上空。透き通るかのような青空に浮かぶ黒点。

 ──『魔孔』。

 時には天空、時には地底、時には海上に現れ、魔物を召喚し続けては人に危害を加え、或いは生態系を歪ませる異界への孔。

 即ち、これこそがラムド国を蝕む元凶。

 彼女の足元で跪く騎士の緊張、その理由はこの得体の知れぬ超自然的な現象に対する恐怖であった。

「これほど遠くでも肉眼で視認できるほどなのだから、実物の大きさたるや言うまでもないわね。凶暴な巨人や悪鬼、獰猛な邪鬼に邪竜──何でも通り放題じゃない」

 エルシェは呑気な調子でそう感想を漏らした。

「……ラムド王からの書簡を見ただけでは想像できなかったけど、こうして実物を見るとその恐ろしさが理解できるわ」

 一陣の海風が吹き抜け、女の前髪を跳ね上げる。

 露わとなったその目には鋭い光が宿っていた。

 武人に相応しき、戦意にも似た輝きが。

「そして、何よりも恐ろしいのが──」

 エルシェは続けた。

「あんな代物が実は人為的に作り上げたものであり、今に至るまでの後世の人間にあれとの共存を強要していたということよね」

「──御意」

 ここにきてようやく、騎士が声を絞り出した。

「五百年前ハイディス教国より侵攻を受けた際、魔族の王と契約を交わしてあれを召喚したとのこと。ハイディスに侵攻させる理由を失わせるためだとか」

「だからと言って、魔物を国中に溢れかえらせることによって国土全体を焦土同然とさせるなんて馬鹿げた話よね」

 公女の言葉に騎士は恭しげに頷きを返した。

 そんな騎士をエルシェは一瞥する。

「──その話、ラムド本土に上陸した後は口外厳禁よ」

「心得ております。私以下、この船団にて公女殿下と同行している騎士団の者達──誰一人の例外なく」

「お願いするわ。これはラムド国内では王家の人間をはじめとした一部の者しか知りえぬことだそうだからね」

 そう言うと、女は口元に微かな笑みを浮かべた。

「ラムドの民は、当時の敵国──ハイディス教国の魔術師が『魔孔』を召喚したと信じているって話よ」

「当然でございましょう。まさか、自分たちの国を魔物どもが跋扈する魔境と化させたのが祖先たち──外敵との戦いから逃れるために講じた手段が原因であったなどとどうして信じられましょうか?」

「もし、その事実が知られた場合、宮廷の一部──強硬な国粋主義者たちが王家に楯突くようになるでしょうし、彼らに煽られた一般人による暴動も多発することでしょう。恐らく数年は国内を安定的に治めることができなくなるわね」

 それを聞いた騎士は訝しげな表情を浮かべた。

「……しかし、そのような細心の注意を要するような情報を、どうして我々に明かしたのでしょう?」

「ラムドは怯えているのよ」

「──え?」

「この世界、七つの海と五つの大陸を支配している共通にして唯一なる絶対の法というものに」

 その法とは、人間と魔物との関連性について定めたもの。

 世の人間全ての敵である魔物と手を結ぶこと──それを最大の禁忌と定め、この大罪に手を染めし者は以降、人として扱う事は許さず。魔物と同様として扱い、死罪に処す。

 そして、この法による罰の執行には一切の例外は許されぬ。

 長き歴史のなか幾度となくこの法が司る正義の名のもとに戦が起こり、人の道を踏み外した外道を血の海へと沈めていった。たとえ富国の王、巨大軍事帝国の頂点に君臨する皇帝であろうとも。

 エルシェは微かに視線を上へと向け、視界の中央に『魔孔』を捕えた。ラムド国の上空にまるで君臨するかのごとき天空の孔へと。

「定期的に生贄を捧げれば一時的にあれの力を抑えられ、ラムドの民は束の間の平和がもたらされるという契約が結ばれているとのこと。即ち、ラムド国全体が『魔孔』──魔物と契約を結んでいるに等しい状態。言い換えれば、あの国の民全体が魔物と与していると解釈することが可能よね。この事実だけで周辺国より攻撃をさせる十分な大義名分となりうるわ。ラムドは小国ながら交易を積極的に行っている国であり諸外国との交流も盛んゆえ、これらの国々の密使も商人らに紛れて多く流入している。いずれ、この情報は彼らを介してもたらされ、それにより各国はラムドに対する攻撃の機運を高めることになるはず」

 だが、と公女は続けた。

「そうなる前にラムド国自身が自浄作用を発揮することができれば話は変わってくる。猛省の証として事実をつまびらかに公表し、自らの手でその災厄の芽を摘み取る──その意志を示せば、他国は法の正義を盾にしている立場上、鉾を降ろさねばならない。我々の国でもそうだったでしょう?」

「確かに。長年、口うるさく侵攻を主張していた主戦派がラムド王より寄せられた書簡の内容が読み上げられた瞬間、一斉に目を逸らして口を噤んだのは我々騎士団幹部一同、空いた口が塞がらぬ思いにございました」

「──でしょう?」

 その場面を思い出したのだろうか。エルシェは小気味良さそうな笑みを浮かべた。

 だが、それも一瞬のこと。すぐにその表情は引き締まったものへと変じる。

「でも、そこはさすが小国であれども一国の主。そういった一部の主戦的な機運も利用してか『協力』を要請してきたわ」

 自らの手で災厄の芽を摘み取る──それは即ち、かつての『巫女』制度を支持する北の勢力との衝突は避けられない。

 その際に問題となるのは、戦力を北に向けたことによって発生する王都を中心とした南部各都市や集落の治安維持である。

 ラムド王は書簡をしたためた際、これらに必要な手勢、後方支援の要請にも触れたのである。

 無論、相手は飲まざるを得ない。

 かの法を履行する国の一つとして、魔物出現の源泉たる『魔孔』という災厄、その呪縛から脱しようと努力する者達を支援しない訳にはいかなかったのだ。

 ──こうして、ラムド国の要請を受けて本国より勅命を受けたエルシェは騎士団を引き連れてラムド国に派遣されたのだ。

「我々の使命はあくまで各都市の治安維持──罪人の捕縛や周辺の魔物の掃討。普段の本国で行っている騎士団の任務と変わらないのだから、気楽に構えましょう」

 エルシェは畏まる騎士を気遣うかのように、穏やかな声で語り掛ける。だが、その柔らかい口調とは裏腹、その視線は鋭く、ラムド国の空にぽっかりと開く孔へと向けられていた。

 ──国として自浄作用を強調する。それは殊勝なことだ。

 だが、一体どのような手段を用いてあれを──『魔孔』を消し去るというのだろう?

 時には空、ある時には海、またある時は地底へとその位置を瞬間的に変え、絶えず魔物を召喚する異界の門を。

 既にあれは人智を超えた存在。果たして人の手で対処できる代物なのだろうか?

 そして何よりも──あれが国外へ、言うなれば我が国の領土内へと転移せぬ保障などあるのだろうか?

 もし、ラムド国が自浄に失敗し、内戦は泥沼化の果て滅亡してしまった場合、あの『魔孔』はその後も大人しく滅びた国の上にて佇んだままなのだろうか?

『魔孔』の先にあるのは魔物どもが住まう異界の地なのだ。当然、その選択権は異界の住人たる魔物たちにある。

 ラムド国に人間という餌が失われたのならば当然、『魔孔』もまた新たな獲物を求めて別の地へ移動することも考えられよう。

『魔孔』の消滅に失敗した場合に備えて、自分達は見定めねばならない。

 その可能性を──

 もし、その可能性が実現しかねぬのであれば、絶対に止めねばならぬ。ラムド国の滅亡を。

 最悪の場合、せめてあれをラムドの地へと留め続けておくために。

 自国を守るため、ラムドの民には引き続き『魔孔』の犠牲になり続けてもらわねばならないのだから。

『魔孔』より視線を外し、ふと正面を見るとラムド国のセイラムと思しき港の姿が既に肉眼で視認できるほどにまで近づきつつある。

 あとほんの僅かな時間で到着することだろう。

 その瞬間より、新たな任務が始まるのだ。

 エルシェは心が引き締まる思いがした。

「……船から降りる準備をしないとね」

 そう呟き、公女は踵を返すと船室へと向けて歩きはじめた。

 

 <3>

 

 王都アルトリアはラムド国の中南部に位置する都市である。南部特有の豊かな自然に囲まれながらも豊かで利便的な都市機能を兼ね備えた風光明媚な土地柄。それゆえであろうか、アルトリアの住民は自由な気風を尊重する気の良い者達が多く、窮屈さとは無縁な場所でもあった。

 街の周辺には平坦で起伏の少なく、肥沃な平野が広がっており、交易の盛んなラムド国南部における陸路の要衝であると同時に国内最大の穀倉地帯でもある。

 アルトリアの街は背の低い建物が多く、行商人の馬車や農民が扱う牛車の類が通りやすくするためだろうか通りは広く造られている。そのため、大通りを歩いてもっとも目につくのは、街の外れにある高い丘の上に建てられ、まるで街を見下ろすかのように佇む王宮の姿であった。

 異国の騎士団を率いし異邦の公女エルシェは住民の奇異の視線を浴びながら、セイラムにて出会った王宮からの使いを名乗る案内人に先導される形でこの王宮を目指して歩いていた。

 セイラムに着いて二日ほど物資の補給と休養のため滞在した後、十日ほどの旅路を経てのことであった。

「エルシェ公女をはじめとした鷲獅子国騎士団の皆さま──もうじき王宮に到着いたしますゆえ、今暫くの御辛抱を」

「詮無き事。この世に生を受けて初めての異国の地。祖国と大きく異なる建造物の形式、宿場街より漂う食欲をそそる焼いた肉の香り、なんら変わらぬ人々の営みの様は我々にとって新鮮な光景、眺めるだけでも楽しいものです」

「そう言って頂けると、案内役を任された私も気が楽になるというもの。心より感謝いたします」

「いえ……」

 笑みを崩さぬまま、エルシェは沿道に居並び、自分達に向けて奇異の視線を向ける群衆たちの視線を向ける。

 まず目についたのは庶民と思しき男女。

 その身に纏う衣服の形式、流行の色彩こそ異なれど、品質面において大きな差はないように見える。

 次に目についたのは、街の治安を担う巡回兵と思しき男の武装。

 右手に携えし鉄製と思しき槍──その穂先は入念に手入れこそ施されているものの、長いこと使用されているのか表面に光沢の類は全くなく、あちこちに劣化の痕跡が見て取れる。

 また、身に纏っているのは革製の防具。人間の暴漢を相手にするならばいざ知らず、膂力に優れた魔物を相手にするにはいささか頼りないと思われる代物。

『魔孔』の影響により、たびたび街への魔物の闖入があるとされている状況下において、少なくともゴブリンの持つ棍棒による衝撃に対応するための鎖帷子、或いはコボルトの持つ短剣より急所を守るための、金属製の胸当て程度は支給されて然るべきであろう。

 異国の公女は得心して頷いた。

 ──『魔孔』は一度活動を止めると、長い期間の休眠期を置くという。その存在があるがゆえに、五百年もの間、他国からの侵略を受けてはいないと聞く。

 脅威が存在せぬ理想郷ならばいざ知らず、この世は魔物という常在する世界である。そして当然、魔物より身を守るに必要なのは武具の性能、それに伴う金属の精錬技術の発達であることは言うまでもない。

 しかし、この長き平和の日々はラムド国の人々より魔物に対する自己防衛の意識を薄れさせ、本来は時代の流れとともに発達して然るべき技術の成長を著しく妨げているものと考えられた。

 数十年に一度しか需要の発生せぬ武具類の製作や売買を生業とする商人など現れるはずもなく、他国に比べて国内外の流通網が発達しているラムド国において、武具類の分野に限って全くの未成熟の状態にある。

 エルシェの脳裏に率直な感想がよぎる。

 この構造──あまりにも歪である、と。

 だが、彼女は同時に理解した。

 これこそが数十年周期に再活動を遂げる『魔孔』のもつ性質の悪さゆえであるのだと。

「──エルシェ公女?」

 その時、案内人の男に不意に声をかけられ、彼女の意識は思考の世界より引き戻された。

 見れば、彼のみならず後続の騎士達も彼女に怪訝めいた視線を向けている。

 王城に向かう最中であるにも関わらず、思考に浸るあまり足を止めていたのだ。

「ごめんなさい。街並みの美しさに思わず見惚れてしまいましたわ」

 羞恥を誤魔化すかの如く、公女は冗談めかした言い訳をすると、一行より遠慮のない笑い声があがった。

 

 アルトリアの城は街の外れの高い丘の上、生い茂る深緑の木々に囲まれ、まるで城下町を見下ろすかのように聳え立っている。

 正門へと至る跳ね橋の上より眺めることのできるその麗容に誰もが溜息を漏らすなか、案内人の男が門番の兵士に一言何かを伝えると、事前にエルシェらの来訪の通達が成されていたのか、すぐに門を開けるよう手配された。

 以降、案内人の代わりを任された衛兵の先導のもとエルシェたちは門を潜り、城内へと招かれた。

「美しい……」

 エルシェの後に続く、配下の騎士の一人が思わず感想の言葉を口にした。

 窓より降り注ぐ木漏れ日によって淡く照らされた廊下の大理石は、中央に敷かれている絨毯の真紅と相俟った絶妙な色彩を織り成し、その天井には金の枠によって四辺を囲んだ宗教を題材としたと思しき美麗な画が描かれていた。

 城とは本来、防衛拠点である。武力による権威を誇示する象徴として、堅牢さを第一に設計されるのが常。建造後、いかに美麗に着飾ろうとも、どこか本来の無骨さが際立つものである。

 ──だが、この城は全てにおいて高水準であった。

 まずは眼下の広大にして深き森林。

 生い茂る木々は攻城兵器や騎馬の侵入に対する阻害するのはもちろんのこと、森林での戦いは兵一人ひとりの土地勘──森林に対する慣れ、絶え間なく続く木々の景色の中に身を置いても決して狂うことのない方向感覚など、経験に裏打ちされた様々な訓練の度合いによって大きく左右される。

 まさに天然の砦と言っても過言ではない。

 続いて、城への侵入経路が正門に至る跳ね橋のみという点。

 裾野に広がる木々によって攻城兵器の侵入を阻害されている状況下において、この跳ね橋さえ上げられてしまえば、城壁沿いに聳え立つ崖を登る以外に侵入方法はない。

 兵士一人ひとりの背に、まるで神の御使いのような翼が生えぬ限り攻め入ることは不可能と言えよう。

 そして何よりも、この天然の砦たる木々の中に映える、アルトリア城の麗姿。春や夏の深緑の中における城の主色たる白色が映えるのは言うまでもなく、冬場──木々が雪化粧をする季節。森林を覆い尽くす雪の白に囲まれて浮かぶこの城の姿はまさに幻想的にして芸術的。その絶景は雪なき現在においても想像に難くない。

 エルシェは当初、街を巡回する兵士たちの粗雑な武装より、この国を未開の小国である考察していた。

 だが、この堅牢さと美麗さを兼ね備えた城はエルシェの祖国である鷲獅子国においても存在せぬ。この城はまさにラムド国における建築技術、そして芸術分野における文化水準の高さ、その証明と言えよう。

 彼女は最初の印象を修正した。

 いや、修正せざるを得なかったのだ。

 誰もが城の美しさに舌を巻きながら歩いた果て、遂に城の最奥にある謁見の間の前へと辿り着いた。

 エルシェが扉の前へと立った瞬間、両脇に控えていた儀礼用の鉾槍を携えた衛兵が扉の取っ手へと移動し、それを引く。

 軋むような音を立てて扉は開いた。視界が開け、室内の全貌がエルシェの視界へと飛び込んでくる。扉からは赤い絨毯がまっすぐに伸び、その先にある三段ほどの階段の上に玉座が置かれていた。

 玉座には、質素ながらも壮麗さを感じさせる意匠を纏った老いし国王の姿があった。

 両側の壁際にはラムド国の文官や、高位の武官と思しき者達が居並び、そこより漂うのは仰々しいまでの重圧感。

 国王は頭に略式の王冠を戴き、その視線はまっすぐにエルシェへと向けられていた。左右より醸し出される圧迫感にも似た気配とは異なり、王の双眸に宿るのは穏やかな光。

 どこか人を安心させる、そんな優しさめいた印象を抱かせた。

 エルシェはそれに応じるかのように穏やかな笑みを浮かべ、一人室内へと足を踏み入れた。そして、玉座へと続く階段まで七歩ばかりの位置にて立ち止まり、深く頭を下げた。

「どうか顔をあげよ。鷲獅子国からの客人よ。我々からの救援要請を受け、遠路はるばる参じて頂いたことに対し、本来礼を尽くし、頭を下げねばならぬのは我々のはずなのだからな」

 王の声が室内に響いた。高齢ゆえか、どこか嗄れた声でこそあったが静かで優しさに満ちたものであった。

 応じ、エルシェはゆっくりと頭をあげた。そして彼女は落ち着いた様子でゆっくりと口を開く。

「お初にお目にかかります。ラムド王。鷲獅子国より参りましたクラウザー家長女エルシェにございます」

「クラウザー家……王家筋に連なる公爵家の名でありましたな。そのようなご高名な方の協力を得られるとは大変心強い」

 異国の公女は一切動じた様子を見せず一礼すると、懐より紫の布に包まれた親書を取り出した。厳重に蝋で封を施されたその親書は長旅のためか角のあたりが僅かに傷んでいた。

 蝋にはグリフォンを模した紋様の印が押されていた。グリフォンを聖獣と崇めるエルシェの祖国──鷲獅子国王家の紋章であった。

 侍従の一人がやってきて、エルシェから親書を受け取ると、玉座に座するラムド王へのもとへと運んでいく。

 王は侍従より親書を受け取ると、厳重に施された封に刃を入れ、中より書面を取り出すと、それに素早く目を通していく。

 救援を要請した相手──鷲獅子国王からの親書であった。

 その内容は先ほどエルシェが語った言葉とほぼ同等のもの。

 鷲獅子国騎士団一個大隊──約千騎の援軍と、これを率いるクラウザー公爵家の長女エルシェを客将として派遣すること。

 期限はラムド国が『魔孔』に関する全ての諸問題──『魔孔』の維持を目的とした巫女制度を支持する北教区との何らかの決着をつけるまでとし、それまでの間、彼女率いる大隊に対する指揮権はラムド国に委ねること。

 また、『魔孔』と戦ううえで更なる支援を要するのならば、人員や金銭、物資の類を無担保で提供する準備があるとのこと。

 その交換条件として隊に同行している学者らを『魔孔』に関する研究全てに参加させ、これらの情報を両国の間で共有することが盛り込まれていた。

『魔孔』の真実──魔物の恩恵によって束の間の平和を長く享受してきたという事実が明らかとなった今、それの存在は言うなればラムド国にとって最も恥ずべきものと言っても過言ではない。

 無論、それを他国に晒すことは国の名誉、その失墜を意味する。

 だが、その点にさえ目を瞑れば破格な条件と言えよう。

 戦力の提供のみならず、賢者の国と名高い鷲獅子国で高い教育を受けた学者が『魔孔』研究に参加するとなれば、ラムド国独力で行うよりも進捗が大幅に改善されることだろう。

 鷲獅子国は世界屈指の大国である。魔物排除を基とした『絶対の法』の遵守、及び罰の執行に関して相応の重い責任を負っている世界の盟主であるとも言えよう。

 ゆえに、誤った道より決別せんとするラムド国南教区の自浄作用を促進する役割を担わねばならなかったのだ。

 この破格の条件は盟主としての責任ゆえ。

 だが、当然これには明確な『裏』が存在する。

 彼女らは寄騎、客将であると同時にこの騒乱の後見人──いや、監視役でもある。

 現在、先発隊として北教区に送り込んでいるラムド国騎士団の一個中隊が更に北進し、いずれはあの宗教都市ルインベルグへ迫り、圧力をかける手筈となっている。

 これを契機に、ラムド国における南北間の緊張関係は更に強くなることだろう。結果、争いが勃発。激化する戦いの果て、互いが疲弊してしまうことも考えられる。

 その際、これ以上の消耗を避けたいがために、北との和睦へと舵を切るという選択肢も浮上することだろう。

 だが、その選択を彼女らは──鷲獅子国は絶対に許すことはない。

 北は巫女制度の体制維持、これを絶対に譲らないであろう。北との和睦は言うなれば、この条件を飲むことに他ならぬ。それは南教区が『魔孔』の維持を認めると言うこと──即ち魔物の軍門に下ることと同義。そして、それは同時に法の順守を絶対とする鷲獅子国のみならず、これに歩調を合わせる周辺諸国にラムド攻撃の大義名分を与えることとなる。

 無論、その先に待っているのは──破滅。

 ラムドは瞬く間に焦土と化し、各国の歴史に魔物に与した邪悪な国家としてラムドの名が刻まれることとなるのだ。

 この国が破滅から免れるには、北と戦って勝利を収め、巫女制度の廃し、巫女とは別の『魔孔』を完全に消去するための手段を考案し、実行せねばならぬ。

 そう。この破格の条件とは、ラムド国王が自ら退路を断ったことに対する対価であるとも言えるのだ。

「──要請に応じて頂いたこと、感謝の極みである」

 ラムド王は親書を読み終えると、ゆっくりと書面より顔を上げた。そして、親書を元通りに丁寧に折りたたみ、傍らに控えていた従者へと戻す。

「貴殿らもご存知の通り、ラムドは小さな国。『魔孔』による被害も数十年ごと、人との争いに至っては五百年ほど遡らねばならぬ。ゆえに騎兵の練度も十分かどうか判然とせぬ。騎士団には武具の支給こそ可能としているが、その品質の根幹をなす金属の精錬技術に関しては、他国と比べて著しく劣っていると言わざるを得ぬ。ましてやこれら国防の分野は貴人の仕事であると貴族たちが恋々としがみついているゆえ人員の拡充が遅々として進まず、その結果、現在の有事に備えるに十分な戦力確保すらままならぬ有様。課題は山積しており、我々としてもどこから改善して良いのやら、ほとほと困り果てておる。エルシェ公女をはじめとした鷲獅子国騎士団の皆さまも、どうか国同士の垣根など気にせず、積極的に意見やご批判、指導鞭撻を頂ければと思っている」

「それが『魔孔』を消し去り、このラムドの地より魔物を退ける、その一助となるのであれば」

 エルシェは答えた。

「一切の助力は惜しみませんわ」

「感謝する。城内に幾つか部屋を用意してあるので、公務や会議、或いは休憩のために利用していただきたい。後程、学者の皆様には我が国の学者の者達との顔合わせを。そして、騎士団の皆様には滞在のための宿舎へと案内させよう。夕刻より歓迎の晩餐会を催すので参加して頂けばと思う」

 王のこの言葉で謁見は終わりを告げた。

 同時に入り口の扉が開け放たれ、案内を仰せつかったと思しき召使いの者が現れると、それに促される形でエルシェたちは謁見の間を後にした。

 心中に渦巻く複雑な思い──それを笑顔の仮面で繕いながら。

 

 <4>

 

 アルトリア城の二階にある大広間。

 窓はなく、四方を石造りの壁で囲まれ、外界との接点は鋼鉄製の扉と、天井に設けられた小さな通風口のみ。

 四方の石壁は二重。その外壁と内壁の間には羊毛によって敷き詰められており、その吸音効果により、入口の扉と閉ざすと室内での物音は完全に遮断される。

 この部屋は別名『静寂の間』と呼ばれ、主に機密性の高い情報を交換する事の多い会議をする際に、度々使用される。

『静寂の間』の中央には円卓が備えられており、入り口に最も遠い席に、まるで並ぶかのように座して言葉を交わしている十数名の男女がいた。

 エルシェと、彼女に同行した鷲獅子国の騎士団、その幹部と思しき者達であった。

 この場に、ラムド国の関係者は誰一人として存在していない。

 ここは鷲獅子国の者が会議を行うため、ラムド国王が用意した部屋であった。普段はラムド国の関係者が会議用として使用しているのだろう。壁のあちこちに棚が撤去された痕跡が見られた。恐らく気密性の高い文書の類が保管されていたものと思われた。

 エルシェを中心として集う彼らの表情は皆一様に複雑。時折、愛想笑いめいたものを浮かべるこそあれども、すぐに暗く沈んだものへと変じていく。

「……小国といえども流石は一国の主。このような状況にありながらも強かなものよ」

 幹部の一人が言った。まるでぼやくかのような口ぶりで。

 話題の中心となっているのは先刻の謁見の場における、ラムド王の立ち振る舞いであった。

「ラムド国は『魔孔』の休眠期間、殆ど魔物が出現せぬ平和な時を過ごしてきた。言い変えれば、数十年置きに一人の少女を生贄に捧げ、魔物と契約を交わすことによって平和を享受してきたということでもある。無論、法に照らし合わせればまごう事なき大罪に値する行為──その負い目こそあるがゆえに、我々を寄騎兼後見・監視役として置こうと考えたのだろう。自らの国の自浄作用、その証人として」

 その言葉に釣られるかのように、また別の幹部が吐き捨てる。

「ラムド王の言葉を信じるのならば、ラムドの騎士たちが出征している間、我々は街の治安維持に徹すれば良いとのこと。危険性の極めて高い前線や兵站を担う必要がないというのは確かにありがたい話かも知れぬ。だが──」

「その交換条件が我々の持つ武具に関する技術の提供となれば、我々としても複雑なものよ」

 武具の性能──それは、素材となる金属の精錬、武具の重量、耐久性など、その分野は多岐にわたっており、いずれが欠けても発達とは言えぬ。

 そして、それらは一朝一夕で為せるものではない。何代にも及ぶ職人たちの失敗と思考錯誤の連続によって初めてそれは達せられる。

 今でこそ、鷲獅子国製の武具は世界屈指の品質を誇っている。

 しかし、今現在の形となるまで、どれだけの月日がかかったのだろうか?

 そんな年月のなか、何度の戦争、内乱を経験したであろうか?

 そして、その最中で何人の戦士や騎士達が出来損ないの武具に振り回され、斃れただろうか?

 そう。武具の発達──その歴史はまさに死の歴史。数多の人間たちの犠牲の上に成立しているのだ。

 かけがえのない、自らの国の人間達の──

 こうして培った武具精製の技術をラムド国は引き出そうとしているのだ。

 ラムド国王を責めるつもりはない。

 巫女依存の平和──偽の平和をもたらす魔物との契約の手を切り、おのが国の自浄作用の存在を証明せねば、いずれは他国の軍事介入を招いてしまうのだ。

 滅びの運命をを回避するため、彼らは必死になっている。躍起になっている。

 持ちうる全ての戦力を、巫女文化の維持を推奨する北教区への圧力へと差し向けるため、王都のみならず主要な街や集落の守衛、治安維持、そして一連の問題解決に至るまでの監視、その役目を他国の騎士団に委ねようとしているのだ。

 名誉を重んじる騎士文化の国にとって、まさに屈辱と言っても過言ではない。

 だが、そのなかで彼らは明確な『実』を得ようとしている。

 誇りを捨て、自ら血を流し、泥を啜りながらでも。

 強引、かつ同時に捨て身。

 まさに腕力の外交と言えよう。

 その強かさは事実、大国である鷲獅子国の使者たちを圧していた。

「──私たちは心のどこかで彼らを小国だと思って侮っていたみたいね」

 エルシェは口元に笑みを浮かべる。

 自嘲的な笑みを。

「良いでしょう。彼らの望むとおり、我々の持ちうる技術の全て叩き込んで差し上げましょう。そうして築き上げた戦力で彼らがどこまでできるのか──その行く末、しかと拝見させていただきましょう」

 そう言うと、一堂に会した幹部たちの顔を見回す。

 そして、続けた。

「対等な立場として、ね」

 

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 ──商業都市シーイン。

 ラムド国を南北に隔てる境界線の北側、程近くに存在する街。

 いまだ保守的な巫女信仰の根強い北教区のなか、比較的穏健な風潮を有する土地。

 一見、平和であるかのように見えるこの街に、一ヶ月ほど前、人知れず静かな戦いが繰り広げられていた。

『魔孔』の研究資料を巡っての戦い。

 この戦いのなかで対立したのは、皮肉なことに本来ひとつであるはずであった騎士隊同士であったのだ。

 片や、宮廷の置かれた南部より派遣された騎士隊。巫女制度における非人道的行為を正すため、派遣された有志による小さな隊。

 もう片や、シーインを守衛する騎士隊。本来彼らも宮廷の指示により、この街に派遣された者達であるのだが、地域住民との関係性を良好に保つため、巫女制度に肯定的な姿勢を貫かねばならぬ立場であったのだ。

 こうして、互いに立場の異なる南北の騎士隊が衝突した結果、南部の騎士隊が勝利を収めた。

 以降、宮廷の指示に従い、与力として召集した鷲獅子国に南部の治安維持を任せるための準備を終え、ラムド国騎士団の全勢力を北へ向けられる環境が整うまでの間、シーイン騎士隊に代わってこの街に駐留。治安維持活動と戦いのなかで入手した研究資料の初期解読、及びこれらの王都への輸送などといった多岐にわたる任務に従事していた。

 慣れぬ北の地での駐留生活は多忙を極めていた。

 宮廷の意志に逆らったシーイン騎士隊の即時解体が決定したゆえ、十分な引継ぎができなかったということが要因であった。

 誰もが夜明けとともに活動を初め、十日のうち九日は夜半過ぎに眠りにつくといった有様。

 それでも彼らは必死となって日々の任務を果たしていた。

 そんな激務の只中にあるシーイン駐留隊の騎士のなかに、アイザックとアイリ、そしてクオレの姿があった。

 アイザックとアイリは平民の身分、騎士団に属してあれども立場は見習いに過ぎぬ。クオレに至っては騎士団にすら属してはいない。にも関わらず、三人は他の騎士の者達と同様に働いていた。

 だが、三人に不満はなかった。

 巫女儀式の真実を暴き、その非人道的な行為を止めさせるべく奮起した張本人であるがゆえに。

 か弱き女の生贄に依存するのではなく、また別の──『魔孔』を抑止する手段を考え、国の体制をそれへと移行させるために。

 シーインの街の北部にひっそりとたたずむ古びた館。

 建物のあちこちが傷み、今にも朽ち果ててしまいそうな印象さえ受ける。

 ここがまさに一ヶ月前、戦いの舞台となった場所であった。

 すでに住民のなきはずの館。しかし今、室内より灯りが漏れ、人の気配や話し声の類がいくつも聞こえてくる。

 騎士団による資料の持ち出し作業が行われていた。

 資料が納められている地下室、その前室には『聖皇庁』の者達が『魔孔』と契約した際にもたらされた黒き聖書が所狭しと納められている。

 聖書は契約者以外の者の手に触れると忽ちのうちに発火して相手を攻撃するという防衛機能が備えられている。その機能を利用し、ルインベルグ大聖堂と『聖皇庁』の者達が『魔孔』の資料、その秘匿のために用いたものと思われた。

 慎重に慎重を重ねた上での作業を余儀なくされ、一日の作業のなかで持ちだすことのできる資料の数は数冊程度が精々。

 遅々として進まぬ調査に時間をいたずらに浪費していくなか、騎士団の頭を悩ませる事態が相次いだ。

 その最たるものが『聖皇庁』と思しき者達による襲撃。

 聖書に秘められし邪な魔力によって、彼らの命を転生先の肉体の中で維持することを可能としているがゆえ、聖書の消失とは即ち彼らの消滅を意味する。

 資料の秘匿の為に用いられていた聖書が今、敵対する騎士団の手の中にある。それは即ち、そこに聖書を預けていた『聖皇庁』の者達にとって、自分の命を敵に握らせているに等しい。シーインの街奪還のため躍起になるのは自明であった。

 一度の襲撃自体は小規模であり、その戦力も数名から十数名によるものが主。だが、少数の隊で構成され、王都へ強制送還された旧シーイン守衛隊の穴を埋めるのが精々の状況下において、深刻な負担の増大となっていた。

 従来の街の治安維持に加え、襲撃対策のための予備戦力を確保せねばならず、その余波は資料運搬の任務を担っていた者達へと直撃。

 一ヶ月経った今でも資料の持ち出し作業を終えることのできぬ大きな阻害要因の一つとなっていた。

 アイザックとアイリの姿は、そんな遅々として進まぬ作業の舞台となっている館の正門にあった。

 二人は館周辺の警備を役目とした五名程度で構成される班、その末端に属し、班長である中年の騎士の指示のもと日々の任務についていた。

 時は夕刻。館のあるこの界隈は、シーインの街のなかで比較的裕福な者達が住まう邸宅街。他の街であれば、これら館の使用人らが夕食の食材調達のため商店街へと繰り出さんとする姿が見ることができる頃合。

 だが今、そういった人の生活めいた姿を見ることはできなかった。

 原因は治安の悪化。

 一ヶ月前の戦い以来、街に慣れぬ南部の騎士団が変わって治安維持に携わったことで盗賊や人さらいによる犯罪が増大したこと。そして、時折『聖皇庁』の人間との間で発生する小競り合い──これらの要因によって人々は外出を控えるようになっていた。

 それゆえに、騎士団に対する街の住民の感情は日増しに悪化。旧シーイン騎士隊の復帰を望む声が高まり始めているという。

 邸宅街を包み込む不気味なほどの静寂のなか、アイリが吐いた溜息がやけに大きく感じられた。

 今は任務中。アイザックは相棒のそんな気の抜けた態度を注意せねばならない立場にある。だが、彼はそれをしなかった。

 いや、する気になれなかったと言うべきであろう。

 遅々として進まぬ『魔孔』の調査。それに水を差す『聖皇庁』による襲撃。そして、住民との関係悪化──自分達が前に進もうと思えば思うほど、理想や想定よりかけ離れた結果ばかりが返ってくる。

 未熟な騎士見習いより、意欲を奪い倦怠感に苛ませるには十分にして余りある──苦労に対して殆ど報いのない、全く間尺に合わぬ状況が続いているのだから。

 しかし、だからと言って不貞腐れるわけにもいかなかった。

 一年前、ルインベルグより傷ついたクオレを連れて這う這うの体で逃亡し、彼女を蝕んだ巫女儀式の真実を伝え、その結果、国王自ら巫女依存の体勢からの脱却を打ち出させ、今回は勅命という明確な後ろ盾をもって、北への圧力をかけにいっているのだ。

 自らも、その一員となって。

「もう少しの辛抱だ。もうすぐ王都から応援がやってくる手筈になっているんだからさ」

 アイザックは注意する代わりに励ましの言葉をかける。だが、彼女の表情は暗いまま。ただ「そうね」と返事をするだけであった。

「陛下が諸外国に救援を求めているという話だけど、それも結局のところ、『魔孔』の資料の存在を確認したヘクター達が、外国籍の商人たちにその情報を吹聴して回ったことが起因していたわけじゃない。一部の国ではラムド国民が魔物との契約状態にあると見做して、攻撃を仕掛けるか議論を始めていたというし」

「ああ。資料の存在の噂話を騎士団に流し、自分達は何の見返りも求めない──裏に何かあるとは思っていたが、まさか他国に戦争を煽らせるのが目的だったとは」

「奴らだって元々は騎士団の一員。本当の意味でこの国の破滅は望んでいないだろう。むしろ、諸外国の視線をラムドへ向けさせる環境を作り、外圧を誘発させて王家を動かして巫女文化廃絶へと仕向けたかったのだろうね」

「──結果、その通りになっちゃったわね」

 アイリが再び溜息を吐いた。

 事実、研究資料の存在をヘクターらが諸外国へ漏洩させたことにより、宮廷は速やかにその存在を、『魔孔』と巫女に依存し続けてきた歴史上の汚点を認めた上、改善していく姿勢を見せ、ラムドに対する明確な敵意が向けられる前に国としての自浄作用の存在を示さねばならなかったのだ。

 諸外国に救援を求めたのは、それゆえの苦肉の策。

 だが、諸外国より支援を受けることができれば、北に更なる戦力を注入する事が可能となる。

 確かに、王都をはじめとした南部の都市や集落の防衛を他国の騎士団に任せるということは、まさにラムドの騎士にとって屈辱以外の何物でもない。

 しかし、背に腹は代えられぬ。

『魔孔』によってもたらされた長き平和に飼い慣らされた結果、騎士団の勢力は殆ど拡大させることはなく、武具類の改良化に関しても他国と比べて大きく後れを取っているのが実情。この状況下で、北への圧力を強め、場合によってはルインベルグが抱えている僧兵団との武力衝突への対応することは、ラムド国騎士団の独力では不可能であったのだ。

 ラムドの騎士団が他国の騎士団に比べ、戦力面で劣っていること自体は彼女とて自覚をしていた。

 だが、こうして目の前に現実を突きつけられると、情けなさのあまり涙さえ出そうになる。

 彼女を苛んでいるのは、それだけではない。

 ラムドはれっきとした国家である。にも関わらず、元騎士とは言えども単なる個人に過ぎぬヘクターの行動に誰も彼もが翻弄される始末。

 挙句の果てには、彼の行動によって刺激された諸外国の動きに対して完全に後手に回ってしまい、結局、その思惑に完全に嵌められてしまったのだ。

 しかし、彼の行動が功を奏して現在、緩やかでこそあるが事が進展しているのもまた事実であった。

 自分達の不甲斐なさばかりが強調される。

 それが余計に情けなく、腹立たしかった。

「腹を立てても仕方ない。今なすべきは自分達ができることに専念することだ」

 そんな相棒の心情を汲み、アイザックが静かに言った。

「巫女に頼らぬ『魔孔』対策。その未来図を描き、示し、実行すること。それがこの国が生き残るための唯一の道。今、誰もが必死となって、この道を邁進しようとしているんだからな」

 その道の第一歩となるのが、この館に秘蔵されていた『魔孔』の纏わる資料。その解読にある。

 今、この場にいない仲間──クオレも、その作業に参加している。

 彼女は唯一『巫女』になりかけ、寸でのところで生還した人間。即ち、この世で最も『魔孔』の真髄に近づいた人物であると言えよう。

 解読された資料の文言とクオレの証言──その双方をすり合わせることによって、五百年もの間判然としなかった『魔孔』の仕組み、その実態に近づける。

 どうして『魔孔』の力によって人を転生させることができるのか?

 そして、一月前に戦ったあの使用人の女のように、どうして人を蘇らせることができるのか?

 彼らは死しても何らかの手段をもって再び世に生を受けることのできる存在である。言うなれば、現存の命など執着する必要などない人種であると言えよう。

 そんな人間に武力で圧力をかけたところで何の意味もない。

 ──塞がねばならぬ。北の大聖堂とその関係者である『聖皇庁』の連中より『死』という逃げ道を。『転生』という逃避先を。

 この点を解明し、対策を打って初めて圧力は意味を成すのだ。

 北と対等な立場で『戦う』ことができるのだ。

「──わかっているわよ」

 アイリが憮然として言った。

 彼女とて理解をしている。それに至るまでの道というものが、あまりにも地道で、地味で、泥臭いものであるということなど。

 派手さや華やかさとは程遠い、むしろ真逆と言っても過言ではないということも。

 だが、求めてしまう──捌け口を。

 ヘクターに唆された悔しさを埋めるために。

 対策が後手に回ってしまい、この国の杜撰さが他国に露見されてしまった、その恥ずかしさを紛らわせるために。

 そして何よりも、これら全ての原因であるとも言える──おのれの不甲斐なさを挽回するために。

 アイリは胸中に渦巻く悶々とした思いを振り払うかの如く、頭を横に振った。

 この思いは自分だけではない。アイザックやクオレ、この国の騎士団員全ての人間が思い抱いている感情であるに違いないのだ。

 だが、誰もがそんな刹那的な感情を抑え込み、各々の任務に集中している。

 感情に身を任せて暴れ回るだけでは、何一つ物事は好転せぬ。それを知っているがゆえに。

 彼女は気分を切り替えて、任務に専念しようと思い始めていた。

 アイリはふと空を見上げた。そして、後ろを振り向き、今も資料の持ち出し作業が続いているであろう廃墟へと目を向ける。

 既に日は傾きはじめ、館の中を照らす明かりの数が増えていた。

 現在、シーインに滞在している騎士隊が背負っている任務は多岐にわたっているため、数少ない幹部級の騎士が全班の動向を把握・統制することが不可能な状態にある。

 ゆえに各々の班の活動、その始終は各班の長の判断に委ねられていた。いつまで続くかは、班員の体力と志次第であり、若く血気盛んな者の多い班は恐らく夜半まで活動をしていることだろう。廃墟を調査している班を初めとして。

 今日の調査は、まだはじまったばかりなのだ。

 アイリはズボンのポケットより携帯食の入った包みを取り出し、中に納められていた乾燥肉の欠片を一つ、口に入れた。風味の強い香辛料が喉に絡む。

 ──ちょうど、その時であった。

 悲鳴と思しき人の絶叫が辺りに轟いた。続いて耳に飛び込んできたのは、警告を発するような声。

 アイリが今しがた視線を向けた、廃墟の方向からであった。

「何だ!」

 思わずアイザックが声を上げた。二人は顔を見合わせ、互いに頷きあうとアイザックは背に負った、アイリは腰に佩いた剣の存在を確かめてから廃墟へと向けて全力で駆けはじめた。

 かつてこの廃墟は、先々代巫女の夫であった男が、妻の功績を称える形で爵位と同時に与えられた館が原形である。ゆえに、二人が番を務める門より入り口までの距離は長く、移動だけでも相応の時間を要した。焦燥感が二人の心を支配する。

 二人は様々な可能性を思い描いていた。

『聖皇庁』による襲撃かも知れない。だとすると、彼らはどうやってこの館に侵入したというのだろうか?

 外部から敷地内に入るには、自分達が番をしている正門を通らねばならないし、仮に壁を越えて侵入するにしても、辺りを警備している別の班の騎士たちに見つかる可能性が高く、とても現実的な手段とは思えなかった。

 疑問ばかりが胸中に渦巻く。だが、空論ばかりを思い描いたところで答えに辿り着けるはずなどない。

 行けばわかる──そう結論付け、二人は館の中へと飛び込み、蔵書が納められている地下へと向かい、駆けた。

 地下の書庫が見えるところまで辿り着くと、アイザックとアイリの二人は一旦立ち止まり、慎重に様子をうかがった。

 状況はすぐに理解ができた。

 書庫の扉が開け放たれ、その近くに三人ほどの騎士が倒れていた。

 彼らに与えられた任務は書物の持ち出し作業である。当然、そのような作業に重厚な甲冑などいった重装備など不要。護身用の短剣を腰に佩く程度のいたって軽装。

 しかし今、その判断が命取りとなっていた。

 倒れた三人のうち、一人は肩を負傷したのだろうか、痛みに喘ぎながら逆の手で患部を押さえている。

 そして、残るもう二人は──刃物と思しき凶器によって腹を裂かれ、その傷口より夥しい血が溢れ、辺りの床を濡らしていた。

 流血した二人の身体は一切の動きを止めていた。呼吸による体の微かな動きすらも。

 賊に違いはない。そう、アイザックは判断した。

 見たところ、肩を負傷した一人より出血の類は見受けられなかった。ならば、賊を倒して完全に安全を確保してから救助、手当をしても遅くはないだろう。

「行くぞ! アイリ!」

 アイザックが合図を送り、抜き身となった大剣を構えながら慎重に歩を進めた。アイリも彼に倣い、後に続く。

 二人が扉付近に辿り着こうとしたとき──扉より一人、黒い影が姿を現した。

 賊が室内の灯りを背にしていたため、その顔を視認することはできなかった。左手には一冊の書物、そして右手には抜き身の剣が握られており、その切っ先より被害者のものと思しき血の雫が垂れ落ちていた。

 間違いなく賊はこの男だ。二人は確信する。

 刹那、アイリは駆ける足の動きを更には止めた。

 アイリがアイザックを追い越し、気合の声をあげながら賊に向かって走り込んでいく。

 アイザックは彼女の行動、その意図を瞬時に悟った。

 賊も軽装とはいえ、三人の騎士を倒すほどの腕前である。生半可な攻撃など通用せぬ。

 だが、相手は防具の類を一切身に着けていない、手持ちの剣を除いて無防備な状態。彼女が先んじて一撃を見舞えば、賊は手にしたその剣のみでそれに対応せねばならない。次に来るはずであろうアイザックの攻撃を防ぐ手段を持たぬ。

 たとえ、相手がいかなる手練れであろうとも、この状況下であれば仕留めるのは容易い。

 それゆえに、彼女は先行したのだ。自ら囮となって、賊の持ちうる唯一の防御手段を潰すために。

 賊も二人の接近に気付いたらしく、その体の向きを変えた。剣を構えて臨戦態勢に入る。

「お前達は──アイザックとアイリか?」

 その時だった。賊の足元で肩を押さえて蹲っていた生き残りの騎士が呻くように声を上げた。

「二人とも待つんだ。その男は──」

 何かを言いかけていた。だが、その声はあまりにも小さくか細いもの。鎧の金属音を打ち鳴らしながら急き駆ける二人の騎士見習いの耳に彼の声が入ることはなかった。

 アイリは駆けた。剣先を突き出すと、もう一度気合いの声をあげて飛び込んでいく。

 囮として飛び込んだと言えども、繰り出した一撃は一切の手抜きのない渾身のものであった。

 もし、相手が後続のアイザックに気を取られ、自分への防御に手を抜こうものならば、構わずその間隙を突くために。

 これほどの威力と覚悟なくば、相手より防御の動きを引き出すことはできぬ。囮の意味を成さぬ。

 アイリは一瞬、目の端で賊の右手に握られた剣を見た。

 ──さぁ、動け。私の一撃を弾くために。

 そして、晒すがいい。私の相棒の前に無防備な懐を。

 祈りを込めて剣を突き出した。迫真の演技による一撃を。

 そして、アイリは備えた。必ず来るであろう敵の防御に。弾かれた衝撃によって、得物を手放してしまわぬために。或いは、生身の肉を切り裂き、骨を断つ独特にして嫌な感触に。

 だが、次の瞬間──彼女が得た感触とは、そのいずれでもなかった。

 彼女の五感のうち刺激されたのはこれらの手に対する触覚ではなく、単なる聴覚であったのだ。

 虚しく空を切る音。そして、数瞬の後に聞こえてくる、金属同士が打ち鳴らされる音。

 彼女の渾身の突きは、大きく身を翻した賊によってかわされていた。刹那、響き渡る金属音は、瞬時に構えを直して次に繰り出されたアイザックの一撃を剣で弾き飛ばした際の音であったのだ。

 勢い余ったアイリは賊の脇を勢い良く通り抜け、その体勢を大きく崩した。危うく転倒しそうになったところを何とか持ちこたえ、再び賊のほうへと向き直った。

 刹那、アイリの表情が凍りついた。

 先程、光の加減により詳しく視認できなかった賊の顔。賊と体の位置が入れ替わったがゆえに、アイリはその詳細を視認することができたのだ。

「貴方は──」

 

 

 その声は、まるで信じられぬものを見たと言わんがばかりに、緊張感に満ちたものであった。

 だが、その声色はやがて非難めいた感情を込めた、怒声へと変じていく。

「どうして貴方がこんな真似を! 同じ騎士団、同じ調査班であるはずの貴方が!」

 アイリの視線、その先にある賊。その正体とは見知った人間の顔であったのだ。そう。あろうことか賊とは──騎士。同じ班に属している仲間の男であったのだ。

 この騎士の名はエルザ。アイリやアイザックよりも五歳ほど上の正規の騎士。

 王都アルトリアの高級邸宅街に実家を構える有力貴族家の子息であると記憶している。

 家柄、騎士という身分に相応しき実力、共に申し分ない。将来、宮廷の中核を担い、ラムドの将来を背負うと思われし人物。

 そんな、未来が安泰なこの男が、どうして仲間を、国を裏切るような真似をしたというのか?

 アイリは詰問を続ける。襲撃の理由を問う。

 だが、エルザより一切の答えはない。見れば彼はアイザックと鍔迫り合いを演じ続けていた。

 互いに微動だにせぬ。だが、片やアイザックの武器は両手持ちの大剣。片やエルザの得物は護身用の短剣。

 武具の重量、威力の差は歴然であるはずであった。にも関わらず、両者の力量は互角。腐っても正規の騎士と言うべきか、武装の差を膂力と技量によって埋めるどころか、本来有利であるはずのアイザックを圧してすらいた。

「アイザック!」

 相棒の窮地を前にしてアイリは思わず声をあげ、動いた。

 再度剣を繰り出す。

 狙うは賊の右手──アイザックの一撃を受け止め続けている短剣を携えし手首。そこを痛めつけ、短剣を落とさせることができれば、戦況は一気に逆転する。

 戦いの趨勢とは敵をいかに早く無力化させることによって決まる。敵の得物を手より叩き落とすことを狙ったアイリの戦術は、その基本中の基本。

 言うなれば定石であると言えよう。

 だが、アイリの剣は再び空を切った。

 彼女の動きを瞬時に察したエルザがアイザックを跳ね除ると同時に一気に身を翻すことによって、アイリの剣にも対応したのである。

 そう。相手は職業戦士たる騎士。アイリの戦術が定石に則ったものであるがゆえ読むのは彼にとって容易いことであったのだ。

「──くそっ!」

 アイザックとアイリの毒づく声が同調する。

 二人は体勢を整え、改めて剣を構えなおす。エルザの一挙手一投足に注視し、その出方と隙をうかがった。

 負傷した騎士が呻き声をあげる。一秒でも早くエルザを倒し、彼に手当を施さねば──そんな焦りが戦いへの集中力を掻き乱す。

「もう一度聞くわ。どうして彼らを襲ったのよ!」

 アイリが再び問いただす。

 納得する答えを得られるなど期待はしていなかった。だが、この問いかけで僅かでもエルザに隙を作ることができれば──そんな思いがあった。

 だが、その問いに対して賊の男が見せた反応とは、彼女の予測を裏切るものであった。

「──世界を転生させるため」

 エルザがはじめて声を発し、アイリの問いに答えた。

 だが、アイザックもアイリもそれを理解するに至らぬ。常人である二人にとって、この支離滅裂めいた答え、その真意を掴むことができなかったがゆえに。

「──!」

 だが、その言葉に対する不理解こそが、アイリに一つの気付きをもたらした。

 刹那、彼女の表情からは先程の怒りの感情が完全に消えていた。

 その豹変ぶりを不審に思った手負いの騎士は、反射的に女騎士の顔を一瞥する。

 だが、アイリはそんな騎士の反応を意にも介さず、ただ真正面の──エルザの顔をまじまじと見つめていた。

 視線こそ鋭かった。だが、彼女の瞳に宿る光には敵意や戦意の意志は薄く、どこか冷静にして沈着。例えるならば学者が研究物を観察するかのような、そんな目つき。

 賊と化した騎士の顔、或いはその一挙手一投足を数瞬眺めた後、アイリは意を決したかのように口を開き、改めて問いかけた。

「貴方、誰なのよ?」

「──アイリ? お前は何を言っている?」

 その問いに即座に反応を示したのは、質問の対象となったエルザではなく、相棒であるアイザックでもない。

 手負いの騎士であった。

「誰なのって……エルザじゃないか。俺たち資料発掘班の一員の」

「違います」

 アイリはぴしゃりと言い放ち、騎士の言葉を遮る。

 騎士は、そんなアイリの発言、その意図を汲みかねていた。

 違うとはどういうことなのか?

 顔も姿も、声だってエルザそのものじゃないか?

 騎士は肩に走る痛みに耐えながら、彼女より発せられる次の言葉を待った。だが、次に彼にもたらされたのはアイリからの返答ではなかった。

「確かに顔も姿も、声もエルザのもの。でも、明らかに違うのです。表情を変えるときや身体の体勢を変えるときの僅かな癖とかね」

「それと、発声の際に現れる癖もそうね。何故、南方の人間であるエルザが北の訛りの強い話し方をするのかしら?」

 それは、画家としての感性を持つアイザックと、歌い手としての感性を持つアイリだからこそ、気付くことのできた異変であった。

 二人の才が異口同音に語る。

 まるで、別人のようだと。

 或いは別人格を有する何かが、エルザの肉体へと憑依しているかのようだとも。

「──憑依している?」

 手負いの騎士が怪訝めいた表情を浮かべる。

「エルザは今、悪霊のようなものに憑かれてこのような凶行に走ったのだと言うのか?」

 そう言うと、騎士は小さな声で「やはり、あれが兆候であったのか……」と呻くかのようにこぼした。

「──何かあったのですか?」

 それを耳聡く聞きつけたアイリが問うた。

 アイザックと共にエルザへの牽制に必死となりながら。

「最初はエルザも普通だったのだ。だが、我々がこの部屋に入った瞬間、急に苦しそうに蹲ってしまったのだ。我々が彼の病状を検分、介抱をしようと思った矢先、急に立ち上がってこのような凶行に走り出したのだ。これをお前達の言う悪霊の憑依が原因だと言うのならば、全て合点がゆく」

「そんなことが……」

 アイリが牽制の一撃を加えながら言った。

 もし、この騎士の言う通りの事態が起こったのならば、確かにこの一連の事件、全ての辻褄が合うことだろう。

 しかし、二人は納得ができなかった。

 この手負いの男の仮説を信じきることができなかった。

 もし、エルザに憑いているものが悪霊──強烈な憎悪や怨嗟によってその霊性を得たものであるのならば、憑依によって人の肉体を得た場合、その霊性の赴くまま、破壊衝動に身を任せて遮二無二に突っ込み、暴れ回るのではないのだろうか?

 言うなれば、動物的──獲物を目にした餓えた豺狼のように。

 無規則的に暴れ回る手合いならば、見習い騎士であれども正規に剣術の訓練を受けた剣士であるアイザックやアイリにとって対処は容易い。

 だが今、二人の前に立つ敵は違っていた。次々と繰り出される二人の太刀筋を見抜き、手にした短剣一本でしのぎ切っていた。

 このような芸当を成立させるには、十分な剣術の技量を備えているのは当然のこと、それ以前に『理性的』であらねばならない。

 ゆえに二人は結論付ける。このエルザに取りついているのは一般的な意味における悪霊などというものではない。

 何らかの明確な意図、意志をもった人間の霊であろう、と。

 そして、その憑依の理由、その真意。その秘密は恐らく──

 二人はエルザの左手に携えられた書物──研究資料のうちの一冊へと視線を向けた。

 表紙に掠れた文字で「魔孔白書」と記された、その文書へと。

 白書とは、調査対象物の実態について周知させることを主眼とするものである。即ち、その書物には『魔孔』の仕組み、その核心にいたる内容が数多く記されているのだ。

 この男の手に、その奪われた白書がある。この状況が意味しているものは──

「つまり、お前は……」

 アイザックは呻くかのように、或いは血を吐くかのような声で言った。

 そう。エルザに取りついているものとは──つまり、『魔孔』の仕組みを知られては都合の悪い側の人間。

「ルインベルグ大聖堂、或いは『聖皇庁』の人間だというのか」

 彼らならば可能なのかも知れない。

 そう。彼らは『魔孔』に住まう魔物の力を利用して、死んだ人間の魂を別の人間へと移し替え、生まれ変わることのできる──転生の術を行使することができるのだから。

 二人はリュートの街の一件より、この術によって魂の移し替える先は赤子にのみ限定されるものと思い込んでいた。

 だが、その限定の存在を誰も確認した訳ではない。

 アイザックもアイリも、この仮説、思い込みが正しいという材料を何一つ持ちあわせてはいない。

 実は、こうして大人の身体であっても、新たな魂の器として憑依、転生することができるのではないか?

 もし、そうだとしたら──

「その身体の本来の主であるはずの騎士エルザの人格や魂は……」

 彼の脳裏に、真実の絵が描きあがっていく。

 地獄絵図、極上の悪夢が如き真実の絵が。

 それを悟った刹那、彼の全身が怒りによって震えあがる。

 激情に任せ、彼は吠えた。

「どこへやった! 答えろ!」

 男から答えはない。

 だが、代わりにその顔に浮かべたのは──笑み。

 凄惨な、悪魔の如き邪悪な笑みだった。

 二人の騎士は本能的に、かつ直感的にその笑みを意味するものを知った。

 刹那、二人の心臓が灼熱の如き炎と化した。

 炎熱によって送り込まれた沸騰した血液は瞬時に腸を煮えくりかえらせ、四肢に尋常ならざる力を滾らせた。

 熱は脳へと至る。本来、人として備えられている理性、知性は忽ちのうちに吹き飛び、人の源流である動物の持つ戦闘本能へと変換されていく。

「貴様ぁ!」

 二人は渾身の力を込めて床を蹴った。

 床が火花を散らす。

 二人は騎士エルザ──いや、騎士エルザだったものとの距離を一瞬で詰めていく。

 その速度は人間離れした、入神の域へと達したそれであった。驚愕のあまり、男の表情が一瞬だけ歪む。構わず、二人は剣を繰り出した。

 今、この男を殺めたところで意味などないだろう。

 あの邪な術によってその穢れた魂が、また別の肉体へと転生するだけなのだから。いたずらに犠牲者を増やすだけに過ぎぬ愚行。

 だが、激情に駆られた二人に、そのような冷静な判断力など最初から失われていた。

 仲間の肉体を、その穢れた魂の束縛より解放したい──そんな感情だけで衝き動かされた。

 男の手にした「白書」を奪われることに対する恐怖。それを防がねばならぬという、その一心で剣を繰り出していく。

 アイザックは太刀を横薙ぎに払う、鎧なき胴を断つために。

 アイリは上段より剣を振り降ろす。兜なき頭を叩き割るために。

 その二種の太刀筋は紫電の如く。いかなる達人であれども、これを防ぎ切るのは不可能であろう。

 勝利への核心が二人の胸中に到来しようとする。

 だが、そんな甘い考えを二人は封殺した。

 二人は知っていた。その油断こそが命取りであるのだと。

 事実、今の二人は有利な立場であった。だが、有利不利とは勝利との距離、その遠近の差に過ぎぬ。

 確実に相手の胴を断ち、頭を叩き割り、敵の生命活動を完全に停止させて初めて、二人の勝利が確定する。

 その確定の瞬間まで、二人は弛緩するつもりはなかった。

 それこそが幾度となく重ねてしまった失敗のなかで得た教訓。怒りに身を任せてはいても、その一点においては冷静であった。

 だが、二振りの神の刃は空を切った。

 剣を繰り出し終えた二人が見たものは──壁。廊下の壁がただあるだけだった。

 エルザの肉体は、アイザックらの目の前から消えていた。まるで掻き消えたかのように。

 信じられぬ──そんな思いが、二人の騎士の胸中を支配する。怒りの熱が一気に引いた。絶望のあまり、目の前が真っ暗になるかのような錯覚を覚えた。

 それゆえに、一瞬だけ忘れてしまっていた。消えた男の姿が今どこにあるのか探すことを。

「アイザック! アイリ!」

 ゆえに、男の居場所、それに最初に気付いたのは傍観者である手負いの騎士であった。

「外だ! 窓の外!」

「え?」

 指摘を受け、二人は慌てて窓の外へと視線を向ける。

 窓の外、庭を隔てた地点。敷地を囲う塀の側に男の姿があった。

 悠然と佇み、二人の騎士に向けて嘲るかのような笑みを浮かべて。

「どうしてあんなところに一瞬で?」

 アイリが疑問の言葉を口にする。

「窓から飛び出す動作すらなかったのに?」

「見ろ!」

 彼女の隣でアイザックが指さした。

 今まさに、塀を乗り越えようとしているエルザの頭上、そこを無規則に舞う黒点の群れを。

 まるで蚊柱の如く空中を蠢く、異形の群れを。

「翼小鬼(インプ)……あんなにたくさん」

 翼小鬼──肉体的な脆弱でこそあるが、その醜悪な肉体の内に宿る魔力は強く、一度標的となれば最後、その精神は忽ちのうちに侵され、操られてしまう。

 そんな魔力の持ち主があれだけ束となれば、人間の肉体一つを瞬時に引き寄せることなど造作にもないだろう。

 妖術の類に対する知識のないアイザックらとて、それは想像に難くなかった。

「……くそっ!」

 アイザックは歯噛みした。

 今すぐにでもこの窓より飛び出し、男を追いかけたいという衝動に駆られる。

 だが、その頭上には翼小鬼が大量に舞い、男を守っている。あれほどの魔力が一度に向けられれば、精神を侵されるだけでは済まされない。

 心を崩壊させられ狂人や廃人と化すか、或いは知性という知性を悉く破壊、生命の維持に必要な呼吸すらも忘れさせられ、死へと至らしめらるか──その二つに一つである。

 軽々に追跡などできなかった。

 二人は塀の向こうへと消えていく男の姿を、ただ漫然と眺めるしかなかった。

「世界を転生させる」

 彼が口にした唯一の言葉、それがもたらす違和感──心の引っ掛かりめいた感情を覚えながら。


 
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