信号が青に変わり
アクセルを踏むと、ゆっくり左へと曲がった
待ち合わせの場所が見渡せるようになると
どこにいるのか探すまでもなく彼女を見つけた
大きいつばの帽子にスカーフとサングラス
この暑さの中、長袖を着て
側に大きめのカバンを置き日傘をさしていた
どれも一目見ただけで高そうな代物だと分かる
軽くクラクションを鳴らすと
彼女はすぐこちらに気づき
大きく手を振ってみせた
車を彼女の近くに止めると
「先生〜おっはよ〜」
といつものようにテンションの高い挨拶をされる
車を降りて彼女のカバンをトランクへと入れると
僕の安い車には、高そうなカバンがとても不釣り合いで滑稽に見えた
彼女、京佳(きょうか)は
僕が講師をしている大学の生徒だ
うちの大学はお金持ちの子供達が多く
構内では彼女のその姿が特別目立つというわけでは無かった
逆に安いスーツを着て構内を歩いている僕の方が目立つほどだ
とは言え
さすがに今日の大きな帽子とサングラスは無いな……
車に乗り込んだ彼女は
日に焼けちゃうと言いながら
車の中でもその変な帽子を脱ごうともしなかった
彼女はいつもこんな風にマイペースなので
僕はいちいちそんな言動を気にする事もしない
今日の目的地の大手老舗旅館のご主人と交流があった僕は
何度かそこに宿泊をしていた
その旅館は本館と分館があり
旅館のご主人がその両方を切り盛りしていた
しかし、旅館のご主人が亡くなってからは
同じ旅館なのに経営が分裂状態になってしまっているという
先日そこの分館の料理長から旅館の事で相談があると内々に頼まれ
僕は旅館へ泊まりに行く事となった
当然、京佳には行く理由を話さなかったが
旅館へ行く事になったと言うと面白そうだから
一緒に行きたいと半ば強引について来る事になってしまった
いつ頃からか僕の所へ入り浸るようになっていた京佳は海外留学が決まっていて
もうすぐ日本を離れるから日本での旅行を楽しんでおきたいと言うのだ
本館と分館同士の交流がほとんど無い今
本館の様子が知りたいという料理長の頼みで僕は本館へ宿泊する事にしていた
顔見知りの従業員と会う可能性を考え
季節外れの宿泊を疑われないよう
今回、表向きは大学の研究の為という事にしてあったので
助手という形で誰かが一緒なのは
こちらとしても都合が良いとは言えるのだが
旅館の本館に着き中へ入ると
どこからか怒鳴り声が聞こえた
仲居さん達が少し困った顔をしながら
お客さんへの対応をしている
廊下の奥の方を覗き込むと
後ろ姿から、それがこの旅館のおかみだと分かった
今は、あのおかみがここ本館の経営者というわけか
叱られているのはまだ若い仲居さんのようで
うつむいたまま必死に謝っているようだった
「客商売でこういうのってマズイですよね」
と後ろからついて来ていた京佳が
小さい声で僕にそう言う
僕は黙ってうなずき予約していた部屋へと向かった
「いや〜さすが老舗ですね!
窓からの眺めもすごく良い!」
「君の部屋は隣だよ」
何故か僕の部屋へ一緒に入って来ていた
京佳にそう言うと
「分かってますって
期待を裏切って、ちゃんと夜には自分の部屋に
帰っちゃいますから」
と僕をからかうように笑った
当たり前だ、生徒に手を出して
講師をクビになるなんて笑い話にもなりはしない
余程気に入ったのか
京佳は長い間、ホント綺麗と言いながら外を眺めていた
窓からの景色は確かに
自然豊かな場所で眺めが良かった
そしてその景観を壊さない造りの分館が
この本館からも見えていた
料理長との約束があったので部屋から京佳を追い出すと
僕は料理長と落ち合う事になっている場所へ歩いて向かった
料理長は先に着いていたようだ
「よく、おいで下さいました」
と深くお辞儀をされる
そこで本館と分館の状況についての話を聞かされた
僕も親しかった旅館のご主人から生前に
お恥ずかしい話ですがと多少
旅館の内情についての話は聞いていたが
改めて料理長からも話を聞いた
本館にいたおかみは、旅館のご主人の奥さんなのだが
元々、家同士が決めた結婚相手だった事もあり
ご主人の生前から何度も離婚話が持ち上がっていた
しかしお互いの家が家柄を重んじる家系であった事や
旅館のイメージダウンになるのではという周りの猛反対で
離婚の話が持ち上がっては立ち消えになっていた
その為、戸籍上の夫婦というだけで別居暮らしの実質離婚状態にあった
そんな別居状態の中、ご主人は旅館の仲居さんの女性と恋仲になり
旅館のご主人はその仲居さんとずっと一緒に暮らしていた
その仲居さんとは僕も何度かお会いした事があった
幸枝(さちえ)さんと言って和服の似合うとても綺麗な方だ
幸枝さんは分館の方でご主人の生前からずっと働いている
そして料理長の話によると現在
本館をおかみが経営し分館の方を幸枝さんが経営しているのだという
お互いが交流する事も無いので
ほぼ今は別の旅館のような状態になってしまっていて困っているそうだ
おかみには息子と娘がいて
娘の方は旅館のご主人の子供では無く
父親が誰なのかは、おかみしか知らないのだという
幸枝さんの方にもご主人との間に娘がいたが
子供が出来た時におかみと一悶着あり
子供の身を案じた
ご主人と幸枝さんは泣く泣く
生まれてすぐにその子を養子に出してしまった
子供に自分達の重荷を背負わせないように
養子に出した後は会う事は無かったという
養子に出した先はご主人しか知らなかった為に
今ではその子が生きているのかどうかも分からないそうだ
そんな事情から、本来ならご主人と血の繋がりのある息子が
旅館のすべての跡を継ぎ経営者となるはずだった
ところが跡取り息子が急に事故で亡くなってしまった
跡を継ぐはずだった息子がいなくなった事で
誰が旅館の主人になるのかと問題になり話がまとまらないまま
本館はおかみ、分館は幸枝さんが経営を続けていた
そして今、本館の利益が目に見えて減っているのだという
お客からの評判も落ちていて
このままでは本館の経営が行き詰まるのも
時間の問題だろうとまで言われるようになり
焦った周りの関係者達が
おかみにはもう任せられないと次の正式な経営者を決める事となった
おかみの娘の方はご主人と血の繋がりも無い事から
最初から跡継ぎとしては反対意見も多く
とりあえず今、順調な経営状態を保っている
分館の幸枝さんにすべての経営を任せるしかないのではないかという声が
大きくなっているらしい
老舗なだけに周りの親戚やら何やら口を出す人間が多く
意見がまとまとまらず
こじれにこじれて現在に至ってしまったというのに
今更、幸枝さん頼りなのか
こんな事ならご主人が生きている内に
どうしてそうしなかったのかと
第三者としてはそう思わずにはいられなかった
ご主人は生前こういう事になった時の事を見越していたのか
自分がいなくなった後に経営が悪化した場合の遺言を残していたらしい
その事については料理長と弁護士に託されていた
料理長は本館のおかみの経営状況や周りの騒ぎを見て
今が遺書を開ける時だろうと決断したのだという
そして交流のあった僕に立ち会いをお願いしたいと言ってきた
身内だけだとどうしても感情的になる者が出て来るので
他人がいる事でそれを多少抑えられるのではないかと考えたのだ
今まで、もめにもめてきているだけに慎重になっているようだった
ここまで来て断りますとも言いづらいので
立ち会いについては了承した
分館からは本館の様子がよく分からないので
本館の中の様子を見ておいてくれるようにとも頼まれた
僕が了承すると料理長は僕に丁寧に礼を言い
他の人に見つからないよう別々に戻る事にした
料理長と別れて本館へ戻る途中
分館近くを通ると幸枝さんの姿が見えた
誰かと話をしている
相手は本館の廊下で
おかみに叱られていた若い仲居さんのようだ
本館と分館は交流があまり無いような話だったが
2人はとても親しくしているように見えた
幸枝さんが僕に気づいたようで
こちらを向いてお辞儀をする
若い仲居さんは慌てて本館の方へと走って行った
何も言わずに立ち去るのもと
幸枝さんに近づき
「お久しぶりです」
と挨拶をした
「ご旅行ですか?」
と聞かれ、えぇまぁ大学の研究でちょっとと曖昧に答えると
幸枝さんはちょっと不思議そうな顔をした
それはそうだろう
ここへ来る時はご主人とゆっくり話が出来るよう
いつも分館の方へ泊まっていたのだから
幸枝さんはその事について深く掘り下げるでも無く
取り止めのない会話を続けていると分館の仲居長さんが幸枝さんを呼びに来た
幸枝さんは僕に失礼しますと言い
分館へと戻って行った
仲居長さんとも顔見知りだったので挨拶をすると
やはり本館の方へ宿泊している事で
不思議そうな顔をされた
「まぁあんな事故もあった後ですしね」
と仲居長さんがため息混じりにそう言ったので
「あんな事故とは?」
と聞いてみる
仲居長はてっきり僕が知っているものだと
思って出た言葉だったらしく
慌ててはぐらかそうとしたので
余計に気になり、その話を聞いてみた
事故とは、おかみの息子さんの事故の事だった
事故にあったというので
てっきり車か何かかと思っていたら
どうやら分館の階段からの転落事故だったようだ
ちょうどお客さんのいない場所での事故だったので
出来るだけ内密にして
詳しい話はしないようにと口止めされているのだという
しかし、僕になら話しても大丈夫だろうと話を聞かせてくれた
息子さんは跡継ぎ候補だった事もあり
本館と分館の行き来を頻繁にしていたらしい
旅館のご主人も経営者として
当時は本館と分館を頻繁に行き来しているようだったし
両方の旅館の橋渡し役としての任務も継ぐつもりだったのだろう
そしてたまたま分館に来ている時に事故にあってしまった
その事で橋渡し役が誰もいなくなり
今は完全に分断されている状態になってしまったのだという
仲居長さんはここだけの話ですけどと前置きすると
息子さんは分館では随分横柄な態度をとっていたようで
分館での評判は決して良いものではなかったのだと教えてくれた
本館へと帰ると
さっきの若い仲居さんが近づいて来た
僕の顔を見て若い仲居さんは
ちょっと困ったような顔をしながら
「分館にいた事は誰にも言わないで下さい」
と頭を下げた
僕は心配しなくて良いよと声をかける
若い仲居さんはホッとしたように笑顔を見せた
話を聞くと若い仲居さんは身寄りが無いらしく
たまたまここで働く事になったのだという
他に行くあても無いので
ここで頑張らないとならないのだと話してくれた
そんな自分を幸枝さんはとても良くしてくれていて
分館の方で働いたらどうかと何度も薦めてくれているのだけど
おかみが何と言うかと思うと言い出せずにいるのだという
詳しい話は知らなくても
本館と分館がうまくいっていない事は
従業員も良く分かっているのだろう
部屋に戻ると窓際の椅子に腰かけた
この豊かな自然とは裏腹な話を聞いてきたせいか
少し疲労感を感じていた
そういえば京佳はどうしたのだろう?
そんな事を考えている内に、うとうととしてしまっていた
ドアをノックする音で目を覚まし
部屋のドアを開ける
「先生〜私もここでご飯一緒に食べるね!」
と言いながら京佳が部屋へと入って来た
「テンション高いな
どこか観光でもしてきたのか?」
そう聞くと
「ううん、ずっと部屋にいたよ」
と答えた
あまりインドア派にも見え無いが今日は日差しが強かったし
あれだけ日焼けを気にしていたのだから
外に出る気にもならなかったのだろう
本館の食事はやはり分館に比べると
はっきり分かるほど違っていた
経営状況からして安い素材を使っているのではないかというのが
料理については素人の僕ですら分かるほどだ
「老舗でこの味ってなくない?」
京佳も食べながらそう言った
この事も料理長には報告しておかないとな
食事を終えると
京佳がどこに行っていたのかと
しつこく聞いてきた
まさかこの旅館の内情を話すわけにもいかないので
適当にはぐらかすと
つまんないの〜と言い、諦めたのか別の話題を始める
夜遅くなるまで京佳のテンションの高い会話は続いた
もう遅いから部屋に戻るように言うと
仕方なさそうに自分の部屋へと戻っていった
次の日
弁護士がやってきて
遺言の公開がされる事になった
廊下を歩いていると
若い仲居さんが、おかみにまた大声で叱られていた
そこにちょうど幸枝さんがやってきて
若い仲居さんをかばうように仲介へと入る
一触即発な空気に僕と通りがかった従業員が
慌てて間へと割って入った
おかみは何かイライラしている様子だった
弁護士に呼ばれた理由を薄々は分かっているのかもしれない
おかみは従業員に連れられ
去り際にこちらを睨みつけながら
弁護士のいる部屋へと歩いて行った
「大丈夫だった?」
と若い仲居さんに幸枝さんが優しく声をかける
「何かあったらすぐに分館へ逃げてくるのよ」
そう若い仲居さんに言うと
自分も呼ばれた部屋へゆったりした歩調で歩いて行く
若い仲居さんは僕にもお礼を言うと
反対方面へ幸枝さんと同じようにゆったりした歩調で歩いて行った
部屋の中にはおかみと幸枝さんの他に
何人かの親族も座っていた
そこで弁護士が遺言を読み上げる
内容は簡単に言うと
何かしらの理由で本館と分館が分断し
もしどちらかの経営が経営困難になるほど悪化をした場合は
経営状況が良好な方の経営者が
本館、分館、両方の経営者としての権利を持つものとする
悪化した方の経営者は速やかに経営から手を引くように
というものだった
まさに今の状況だった
ご主人は経営者として先の事まで色々と予測して
考えていたのだなと改めて思った
それを聞いたおかみは最初、反論しようとしていたが
頼みの息子もいなくなり今の経営状況ではとても
旅館を続けて行く事は出来無いというのを分かっていたのか
それとも周りの親族を含め誰も自分の味方がいない事で諦めたのか
最後は納得はしないまでも
経営から手を引けばそれなりのお金を貰えるという条件を呑んで
遺言の内容について承諾をした
もう少し大ごとになるのではないかと心配していたが
思っていたより順調に話は進んだ
話し合いも終わり
おかみと幸枝さんが席を立った後
料理長が僕に近づき助かりましたとお礼を言った
僕は座っていただけで
何も礼を言われるような事はしていなかったので
何のお役にもたちませんでと答える
そんな話をしていると
親族達がおかみの話をしているのが耳に入ってきた
「昔ならこんなにあっさりと
首を縦に振るような事はなかっただろうに
おかみも年を取ったのか
それとも溺愛していた息子がいなくなったのが
余程こたえているのかもしれんな
こちらとしては金で解決出来て良かったが」
聞いていてあまり気持ちの良い話ではなかったので
料理長との話を早々に切り上げその場から離れた
部屋への廊下を歩いていると
また幸枝さんと若い仲居さんが話している
若い仲居さんは僕に気づきその場を離れた
幸枝さんはホッとしているような
とても穏やかな顔をしているように見えた
僕はちょっとためらいがちに
「あの仲居さんはもしかして幸枝さんの……」
と聞いてみる
幸枝さんは、ふふっと笑うと
「失礼します」
と言ってその場を離れて行った
部屋に戻ると京佳がTVを見ながらごろごろしていた
朝食を一緒にとって
そのまま僕が部屋を出る時も居座っていたから
ずっと部屋でごろごろしていたのか?
「何やってんだ」
僕はちょっと呆れた声でそう言うと
そんな事を気にする様子も無く
「だって休暇に来てるんだもん、休まなきゃ」
と訳の分からない返事をしてくる
「どうだった〜?」
唐突にそんな質問をして来たので
「何が?」
と答えると
「何か用事があって出かけてたんでしょ〜?」
とだるそうに言う
「まぁそうだけど、お前には関係の無い話だよ」
僕の言葉にふ〜んと気の抜けた返事をすると
またTVを見始めた
まったく部屋で1日ごろごろしてて
いったい何しについて来たんだか
次の日
話し合いがスムーズに終わった事もあり
僕達は帰る事にした
元々観光旅行というわけでも無かったので
仕事も残っていたし
用が済み次第帰るつもりではいたのだ
京佳も観光らしい観光もしていないのに
帰ると言うとあっさりと
「分かった〜」
と言って帰り支度を始めた
旅館を後にする時に
おかみが顔を見せる事はなかった
立会人として呼ばれた事が分かった僕の顔を見るのが嫌だったのか
それともこんな事になって
もうやる気を無くしてしまったのか僕には分からないが
これでやっと本館と分館の分裂状態は
解消される事になるのだろう
料理長に挨拶していこうと
分館の前に車を止める
京佳は車の中で待っているというので
一人で分館へ入り料理長へ挨拶をした
料理長も肩の荷が下りた様子で
晴れやかな顔をしていた
挨拶を済ませ車に戻る途中で幸枝さんと会った
幸枝さんと挨拶を交わす
長年のいざこざから解放されたからなのか
幸枝さんもどこか今までと表情が違うような気がした
僕は
「これからはお嬢さんと一緒に暮らせますね」
そう言うと
幸枝さんは
「あら、誤解させてしまったようですね
あの子は私の娘では無いんですよ」
と笑った
「娘が成長していたら
これぐらいの年になっているのだろうと思って
つい気にかけてしまってはいたのですけど」
「そうでしたか、これは失礼しました」
僕が勘違いを詫びると
「いいえ、私も最初あの子を見た時に
若い頃の自分に似ているような気がして
もしやとも思ったのだけれど
私の娘には生まれた時に
首の後ろに珍しいあざのような星型のほくろが
2つ並んでいたの
あの子にはそれが無かったから
すぐに勘違いだと分かりましたのよ」
と言って微笑んだ
忙しい時だからと見送りを断り
分館を出て車へ戻ろうと再び歩き出すと
車の側に仲居長さんがいるのが見えた
京佳と話をしているのだろうか?
話を終えたのか
仲居長さんがこちらへと歩いてくる
「もうお帰りなのですね
今度はゆっくりと観光でいらして下さいな」
と声をかけられ
今度は観光で来ますよと答えると
「あの、お嬢さんもご一緒にどうぞ」
と言われる
何か勘違いされているなと思い僕は苦笑いをした
すると
「先頃いらっしゃった際も今回もあまり観光が出来なかったでしょうし」
と仲居長さんが言葉を続ける
……先頃?
いったい何のことだ?と疑問に思い
「以前に彼女がここに?」
と聞くと
「えぇ、ご長男さんの事故の日に
たまたま、こちらの分館に宿泊されていましたのよ
内密に事を済ませたとはいえ
警察がいらっしゃったりしていたので
宿泊されていた方は事故があった事
ご存知な方もいらっしゃいましてね
あのお嬢さんも事故の事を知って
怖くなったからと予定を早めてお帰りになったものですから
よく覚えていたの
サングラスで顔が分かりづらかったのだけど
もしやと思って声をかけて近くでお顔を拝見したら
やはりあの時のお嬢さんだと分かりましたわ」
仲居長さんの話を聞きながら
僕の胸が何故か、もやもやしてくるのを感じていた
車に乗り込むと仲居長さんが
わざわざ見送りに来てくれた
京佳の顔を横目で見たが
帽子とサングラスで表情までは見て取れなかった
仲居長さんの挨拶に
京佳は無言で頭を下げただけだった
帰り道、いつもテンションの高い京佳にしては
おとなしい気がしていた
僕は胸はずっと、もやもやしたままだった
車を止め
トランクから京佳の荷物を下ろすと
「先生〜ありがと〜
じゃあね〜」」
といつものテンションで
大きく手を振り荷物を持って帰っていく
僕は離れていく京佳の後ろ姿を見ていた
その時に風で京佳のスカーフが外れた
この気温でスカーフは暑かったのだろう
首筋の広い服を着ていたようで
スカーフを拾い掴むために下を向いた時に
彼女の首筋がよく見えた
そこには星型のあざのようなものが
2つ並んでいる
僕は思わず
「あっ……」
と声を出していた
小さな声だったので京佳には聞こえなかったのか
彼女は振り返りもせずに
そのまま立ち去って行った
車に乗り込むと僕の頭の中で
色々な疑問が湧いてくる
彼女は何を知っていた?
僕が旅館の主人と親しいと話したのはいつだ?
彼女が僕の所へ入り浸るようになったのはいつからだ?
僕はどこまで彼女に旅館の話を教えていた?
幸枝さんは気づいていたのか?
そして
彼女は……何をした?
……いや、よそう
あくまで僕の憶測だ
それも最悪の憶測……
彼女の目的が分からないじゃないか
少なくとも彼女は今のご両親とうまくいっている
お金に困っているはずも無い
復讐……
いや、彼女はそんな事考えるようなタイプじゃないはずだ
偶然が重なっただけ
そうに違いない
僕は自分に言い聞かせるように
「ただの偶然だよ」
と呟いた
その後、京佳は僕の所へぱったりと姿を見せなくなっていた
いつの間にか海外留学へと出発していたようだ
現地から
元気だよー
先生ありがとー
と短い文章の絵葉書が届いたが
連絡先は記されてはいなかった
老舗旅館は新しい経営者の元
新メニューを売りに本館分館共に繁盛しているそうだ
END
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老舗旅館を舞台にした短編ノベルです