No.81970

怪物と魔女

メイジさん

オスカー・ワイルド氏の「ナイチンゲールとばらのはな」のオマージュとして、また原作が本当に救いのない最期なので、自己補完のつもりで書きました。そのうち挿絵も載せられたら載せたいと思っています。

2009-07-01 14:54:23 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:718   閲覧ユーザー数:684

それは誰も知らない物語。

 

 そこは人と魔物と魔女が共存する世界。

 人里から遠く離れた、東のはて。

 

 常に雪原に覆われ生き物が住むことのないその土地に、魔物が住む森がありました。

 

 森のはずれには古びた館があり、そこには森を守る領主と領主の子、

侍女と従者が住んでいました。

 

 森は領主のかけた魔法によって守られており、常に冬の厳しい寒さにさらされる森の外の世界とは違い、静かで、春のように常に緑が生い茂り、木々は実を実らせ、魔物達は安心して暮らすことが出来ました。

 

 領主は森の魔物を従え、さらに毎日館の中で怪しげな薬を作り続けているせいか、森の外の住人からは≪魔物を統べる魔女≫として恐れられていました。

 

 また、とても厳格な性格の持ち主である為、森の魔物たちさえも畏怖していました。

 

 一方領主の子である青年はとても敬謙で誠実な人柄でした。心優しく、魔物たちはこの青年を慕い、青年も、森に住む魔物たちを家族のように大切に思っていました。

 彼はとても信仰に厚く、見聞を広め森の外の世界に伝わる神の教えを深く学ぶために、領主の目を盗んではしばしば森の外へ出向くことがありました。

 

 しかしある日、悪名高い夜風の魔女がやってきて森にかけられた魔法を激しい突風で吹き飛ばしてしまいました。

 

 夜風の魔女は凍てつくような冷たい心と、何より各地に現れては光を奪い去り、

闇をもたらすという、魔女の中でも特に恐ろしい魔女でした。

 

『ははは、ようやくこの森のこざかしい魔法を解くことが出来た。夜の闇の恐ろしさを知らぬ魔物たちよ。さあ、夜の祝福を受け取るがいい。』

 

 魔女は漆黒のマントをひらりと翻すと、たちまち黒い雲が空を覆い太陽の光を遮りました。

 

 光をなくした森の青々とした緑には霜が降り注ぎ、小川にはうっすらと氷がはり始めます。

 

 このままでは森の木々や花たちは枯れ、魔物たちは凍え死んでしまいます。この様子を館から見た青年は侍女が止める声もむなしく、真っ先に飛び出し、荒ぶる風のなか魔女と正面に向かい合い、諫めようとしました。

 

『夜風の魔女よ、どうか気をお静め下さい。このままではこの森も魔物たちも死んでしまう。

お願いです。この森に光を戻して下さい。』

 

『私の正面に立つとは、なんと無礼な。気が変わったぞ。私への非礼は死をもって償ってもらおうか。』

 

 しかし青年の言葉は逆に魔女の怒りを買い、魔女の指先から稲妻のような激しい光が青年の心臓目掛けてほとばしります。

 

 青年は呻くと、そのまま冷え切ってしまった大地に倒れこみ起き上がることはありませんでした。魔物たちは悲鳴をあげて次々に駆け寄り青年に声をかけますが、返事はありません。

 付き添いにいた侍女も飛び出て青年を呼び覚まそうとしますが、青年の肌は青白く死人のように生気を失っていました。

 

『その男の勇気を称え、特別な贈り物を授けたのだ。世にも珍しくも美しい、花の種を植え付けてやったぞ。』

 

 青年は魔女の呪いによって死の花の種を体に植え付けられてしまったのです。その種は生きるものの生気を糧にゆっくりと成長し、やがて茎や蔓が皮膚を貫き、夜空のような黒い花が幾つもの蕾から咲き乱れるのです。

 

夜風の魔女は高らかに笑いながら言いました。

 

『この花が全て咲いたその日、この男は死ぬだろう。

助けたくば西の果てにいる私の姉の元へ行くがいい。』

 

『ただし、姉は私よりも恐ろしく、冷酷な魔女。

誰ぞ行ける者がいるならば顔をみてみたいものだ。』

 

そう告げると、夜風の魔女は不気味な笑いと共に漆黒のマントを翻し、嵐のような風に乗って去っていきました。

 

 嘆き悲しむ魔物たちは、青年をかつぎ領主の館へと向かい、助けを乞いました。

 

 話をきいた領主は、夜風の魔女によって森を覆われた黒い雲を払うために、煙突の下で薬を煎じました。薬を煎じた煙は、吸い込まれるように空に立ち込める黒い雲へと立ち昇ると、黒い雲はどんどん薄くなり、やがて温かな日差しが森に降り注ぎました。

 

 春の風が運んできたかのように緑は生い茂り、川は優しいせせらぎと共に流れ、森は再び輝きを取り戻すことができました。

 

 次に青年の手当てを、と領主は振りかえります。

しかし領主は変わり果てた我が子をみると、目を伏せて言いました。

 

『この呪いはとても強力で、私の薬でも助けることは出来ない。魔女の呪いを解く方法は、西の果てに住む花の魔女の花園に咲く陽の花を、青年を心から愛する者が摘みとることです。』

 

 一体誰が恐ろしい魔女の下へ行くのか?

 

 森を出たことのない魔物たちは戸惑います。

 

 領主も森を守るため、離れることができないでいました。

 

『ご主人様、私に行かせて下さい。必ずこの方をお救いいたします。』

 

 周りが躊躇する中、侍女はこの哀れな青年を助けるため、領主に花の魔女の園へ行くことへの許しを願い出ました。

 

 それを聞いた彼女の主は冷たく言い放ちます。

 

『お前は、心を持たぬただの怪物にすぎない。一体何が出来ようか。

それに、お前の泥でできた体では、とても西の果てまで保たない。』

 

『そうだ、そうだ。心から愛する者しか救えないのだ。心がないお前では無理だ。』

 

 領主の言葉に呼応するように、周りの魔物たちも口々に言い始めました。

 

 その侍女は一見美しい人形のような外見を持つ少女ですが、その正体は領主に命を吹き込まれた、ヘドロの泥から作られた怪物だったのです。

 

 領主は彼女をただ自分の助手として作ったため、命を吹き込む際に「心」を植えつけませんでした。

 そして彼女は森に住む魔物たちと異なる所、それは「作りものの命」であることでした。そのため、魔物たちからもとても気味悪がられていました。

 

 そして怪物は泥から生まれたせいで、暑い太陽の日差しや強い光にはとても脆いのです。

 

 その日は結局、結論が出ずに森の魔物たちは自分達のねぐらへと帰っていきました。

 

 領主はせめて花の成長を遅らせる薬を作ろうと、それから部屋に篭りきって薬の研究に没頭してしまいます。

 

 青年が死の花を植え付けられて3日が経った、

ある新月の夜のことでした。

 

 その夜は、領主の従者が青年の看病をしていましたが、やはり青年は一向に目覚める気配はありませんでした。

 

 領主が作った薬のおかげで花の成長は幾分遅らせることが出来ましたが、それでも所々に蔦が皮膚を突き破り始めていました。

 

『お可哀相に。何故よりにもよって誰からも愛されたあなたがこのような目に合わねばならないのだ。きっと今頃あの魔女はあざ笑っているのだろうな。』

 

 青年を哀れみひっそりとため息をついたその時、部屋の鍵が外される音が静かに木霊しました。

 驚いて振り返った時、従者のすぐ後ろにはあの侍女が立ってたのです。

 

『なんだ、お前だったのか。驚かさないでくれ。』

 

 従者はホッと胸をなでおろしますが、内心は血が凍りつくような思いをしていました。

 

 元々この従者は森の外の戦地を点々と渡り歩く、所謂傭兵を生業としていたため、人の気配や殺気には特に敏感で自分でも絶対的な自信があったのです。しかしこの怪物である侍女は、気配もなく背後に立つことなど造作もないことでした。

 

『驚かせてしまい、申し訳ございません。折り入ってお話があるのです。』

 

 そして懐から小さな小瓶を取り出して見せると、侍女は言いました。

 

『お願いです、どうか私をこの小瓶に入れて、西の果てまで連れて行ってください。ご主人様の言ったとおり、私一人では花の魔女の花園へ着く前に朝日の光によって砂となってしまいます。近くまでで構いません。どうか、お願いします。』

 

 それを聞くなり、従者は血相を変えます。

 

『お前はなんていうことを言いだすのだ。主に逆らってみろ。どうなるかわからないのだぞ。』

 

 従者もまた、領主の命令に逆らうことなど出来ませんでした。

領主は2人にとって、ひいては森の中において絶対的な支配力を持っていたからです。

 

 しかしいつもとは違う侍女の様子に戸惑いも感じていた従者は、しばらく従者は押し黙った後、侍女に尋ねます。

 

『お前は何故そこまで必死なのだ?お前には出来ないことだと知っているだろう。』

 

 侍女は迷いなく、答えました。

 

『私は、私の成すべきことをするのです。その為に何の理由などいりましょうか。』

 

 そう言うと侍女は従者の返事も聞かずにその姿を元の泥の姿に変化すると、液状になった体で用意した小瓶の中に入り込みました。

 

 従者は自分の行く末に大きな失望を見て取ってため息をつきましたが、

やがて意を決したような顔つきで小瓶を厚い黒地の布で包むと懐にいれました。

 

『仕方ない、お前の意気込みに俺の人生をかけてやる。どの道誰かがやらねば、あの方は助からないのだから。』

 

 その顔つきは従者というよりも、かつて戦場を駆け回っていた戦士のような不敵さに溢れていました。

 

 そしてその日、2人は領主には秘密で館を抜け出し、森を出て遠い西の果ての花の魔女の花園へと旅立ちました。

 

 雪原を乗り越え、幾日幾夜を馬で駆け抜けました。

 

 時には恐ろしい魔物や山賊に襲われ、窮地に陥ることも幾度かありました。

 

 それでも2人はようやく西の果ての花の魔女の園へとたどり着きます。

 

 しかし2人はそこで信じがたい光景を目にしたのでした。

 

 陽の花園と呼ばれる花の魔女の園には、本来ならば季節に関係なく様々な花が咲き乱れているはずでした。

 

 命を灯す花、恋人達の愛を守る花、悲しみを癒す花、憎しみ、怒りを植えつける花・・・

 

 花の魔女はそれらの花たち全てを支配しているのです。

しかし2人の目の前の花園には、花ばかりか蕾すらありません。

 

『なんということか。あの魔女め、これを知っていてわざとけしかけたのだな。』

 

 従者の男は怒りに肩を震わせます。

侍女はその様子を見て、少女の姿になると従者を宥めるように言いました。

 

『花の魔女を探しましょう。きっと何かご存知のはずです。』

 

 花園はとても広かったので、2人は別れて捜すことにしました。

 

 迷路のように入り組んだ花園は、2人をあざわらうように惑わします。

しかしどこを探しても、花の魔女は見つかりませんでした。

 

 やがて空が夜の戸張に覆われ、月が白く輝く頃、一人侍女は花園の奥に辿り着きました。

 

 そこには美しい大きな水晶の薔薇の花が咲いていました。

 

 そして氷のような冷たい青い水晶の薔薇の中には、美しい女性が眠っていたのです。

 

 侍女は水晶の中に眠る女性に尋ねました。

 

『あなたがもしや噂に聞く花の魔女なのですか?なぜそのようなところにいるのです?』

 

『花の魔女よ、あなたの妹が彼の人にかけた死の呪いを、あなたなら解くことが出来ると聞き、東の果ての魔物の森から参りました。』

 

 水晶の中の女性は答えません。変わりに、水晶の薔薇が答えました。

 

『花園に咲く、陽の花を持ってすれば、死の花を打ち負かし再び命の灯火を宿すことができるでしょう。しかしその花はその者を心から愛する者の祈りがなくては、咲かすことが出来ません。』

 

『そして花の魔女はこの通り、眠りについてしまっています。そして妹の魔女の仕業です。あの魔女は美しい姉に嫉妬して、魔物をけしかけて姉をこの水晶の中に閉じ込めてしまったのです。』

 

 水晶の薔薇が話した真実は、それは今まで遠く旅してきた侍女の胸に突き刺さるようなものでした。

 

 しかし侍女は懸命に、言葉を続けます。

 

『私は泥から生まれ、主から心を与えられておりません。ですがあの人を救う為ならば、どんな犠牲を厭いません。どうすれば魔女の眠りを覚まし、あの人を救うことが出来ますか。』

 

『心なき者よ、それを承知でここへ来たのなら、お前はなんと傲慢なのでしょう。しかしそこまでいうのなら、方法は無くはありません。』

 

『その者への祈りを捧げながら、そこにある茨の棘に、深く、深く、お前の胸をお刺し。生き血を注ぐのです。そうすれば魔女は、再び力を得ることが出来、お前の望みを叶えるでしょう。』

 

 水晶の薔薇が言う茨の棘は、月明かりに照らされて恐ろしくも美しく、妖しく輝いていました。

 

 侍女は戸惑いました。何故なら彼女は泥から作られているため、当然血も通っていないのです。

 

 

 やはり自分では青年を助けることが出来ないのだろうか。

 

 もう会うことも、出来ないのだろうか・・・・。

 

 

『血を差し上げることは出来ませんが、かわりに私の命を差し上げます。その棘を刺したまま、朝日が登るのを待ちましょう。朝日を浴びれば私はたちまちただの塵となるのだから。』

 

 侍女は言ってから愕然としました。

 何故このようなことを言ったのか、理解できないままに言葉を発してしまったからです。

考えもせずに言葉を発してしまうことは、いつも落ち着いている侍女にとって、とても珍しいことでした。

 

『良いでしょう。さあ、その棘の前にお立ち。』

 

 すると青い水晶の薔薇は一変して真赤な薔薇の花のように赤い光を帯びます。

そして茨がたぐり寄せられると、その大きな茨の棘が目の前にあらわれました。

 

侍女はまがまがしい大きな茨の棘の前に立つと、ゆっくりと棘を胸にあてました。

 

『もっと深く、深く…さあ、もっと』

 

水晶の薔薇は血のように赤く輝きを増します。

 

 そのとき、ほうぼう迷い続けていた従者の男がようやく駆けつけましたが、男は胸に棘を刺し貫こうとする怪物の姿を見て言葉をなくしました。

 

『何をしている。やめろ。これではお前が死んでしまう。』

 

 従者はたまらず声をあげますが、侍女は構わず棘を胸に貫き通し続けました。その姿をみていられなくて、従者は剣を構え茨の棘を切り落とそうと駆け出します。

 

 しかし幾重もの茨が垣根のように絡み合い、行く手を阻みます。

 

 何度切ってもまた次の茨が生えてきてしまうので、従者は一向に侍女に近づくことが

出来ません。

 

『おやめなさい!このものは今、神聖なる儀式をしているのです!』

 

 茨の垣根の向こうから水晶の薔薇の声が響き渡ります。

 

 そして遅れて侍女の声も聞こえました。

 

 棘を胸に刺しているというのに、その声はいつものように落ち着いていて、

涼やかなものでした。

 

『その水晶の薔薇のいう通りです。私には心がないから、心のある人間の生き血の代わりに私の命を捧げるのです。そうしなければ、あの方は助からないのです。私なら平気です。この体は痛みも何も感じることはないのですから。』

 

 いよいよ棘は怪物の体を貫き通そうとしても、心を持たない侍女は何も痛みを感じることはありませんでした。

 

 

『ああ、ごらん、もうすぐ夜が明ける…なんと輝かしい光だこと。』

 

 東の空を覆っていた雲が、ぼんやりと光に照らされてきます。それは夜明けのしるしです。

 

『喜びなさい、もうすぐお前の大切な人は、力を得た花の魔女によってお前の命と引き換えに死の淵から蘇ることでしょう。』

 

 水晶の薔薇の歌うような言葉は甘い誘惑のように侍女の意識をさらいます。

 

 朝日の光がだんだんと花園に差し込み、木々が黄金に輝く頃、侍女の体は少しずつ足元から泥へ変わり、やがて渇いた砂となりサラサラと流れゆくのでした。

 

《これで、良い。あの方は、助かる・・・》

 

 ちょうど腰のあたりまで砂が流れおちた時、侍女はふと青年のことを思いました。

 

 それは青年と過ごした懐かしい日々。

 

 青年はしばしば森の外へ出かけることがあったので、侍女の知らないことをたくさん知っていました。

 

 彼が訪ねた国の話や、その国に伝わるおとぎ話を聞くのを、森の魔物たちはいつも楽しみにしていました。

 

 侍女も青年のそんな話をいつも興味深く聞いていたので、青年も森の外から帰ってくる時には、必ず彼女に何か贈り物を届けにきてくれました。

 

 異国の石であったり、書物であったり、それらはどれもみたことのないものばかりでした。

 

 怪物でありながら、領主の助手でもあった侍女はとても頭が良く好奇心旺盛な性格であるため、物珍しいそれらを大切に、彼女しか知らない隠し場所にしまっていました。

 

 青年と過ごした日々を思い出すと、胸のあたり・・・ちょうど棘が刺さっている部分がひだまりのような優しい温かさを感じさせました。

 

 何故今更思い出すのか、侍女は見当がつきませんでした。

 

 ただ次々と思い出していくうちに、侍女はそれ以上棘を胸に押し進めることができませんでした。

 

 するとどうでしょう。

 

 落ちゆく砂の早さが、ゆっくりとしたものになったのです。

 

 そして従者が問いかけた言葉が頭をよぎりました。

 

 “何故そこまで必死になって助けようとするのか。”

 

《それは、あの方がご主人様のご子息であるから・・・、彼がいなくなれば、ご主人様はきっとひどく悲しまれるから・・・。悲しむ?私は今、悲しみを感じた・・・?》

 

 ずきん、と棘が刺さった胸に侍女は確かに何かを感じました。

 

 それは酷く不愉快で、そこから波紋のように体中に広がっていく気持ち悪くて奇妙な感覚に、侍女は戸惑いました。

 

 そして書物で読んだことのある、一つの感覚を思い出しました。

 

《・・・これが、痛み?》

 

 それは侍女が生まれて初めて感じた「痛み」という感覚でした。

 

 しかし棘に貫かれた痛みの他にも、何か違う別の「痛み」を侍女は自覚し始めていました。

 

 やがて彼女は自分が今まですることのなかった――する必要のなかった、

自分自身に対する問いかけを、密やかに試みたのです。

 

《私の、本当の望みは、何・・・?》

 

 どれくらい時間がたったのか。

 

 実際は瞬きのような短い束の時にしかすぎない間でも、侍女にとっては長い、苦しい時間であったことでしょう。

 

 流れゆく砂はいつのまにか止まっていました。

 

《…私は、あの方に生きていて欲しい…。その為ならこの作り物の体と命など、何の価値がありましょう。ですが、何故こんなにも苦々しい思いが込み上げてくるのか。》

 

『何を躊躇っているのですか。あと少し…さあ!』

 

 焦れたように水晶の薔薇は更に赤い光を放ちます。

その赤は暁よりも赤く、毒々しいものでした。

 

 しかし侍女はもうそれ以上その体を茨の棘に貫くことはできません。

 

 侍女はその時、生まれて初めて自分自身の本当の望みと向き合うことが出来たのです。

今まで感じたことのない、辛く絶望に打ちひしがれる思いで侍女はそっと胸の中でその答えを出しました。

 

《ああ、許して下さい、私はあなたを救うことが出来ない。私は、私の本当の願いに気づいてしまった…。死にたくない…あなたと共に、生きたい!それが私の望み!》

 

 知らず侍女の瞳からは涙が溢れだしていました。

 

 その涙が棘を濡らした時、棘は光の粒となり侍女の胸からあっという間に消えてしまいました。

 侍女のその言葉と、消えた棘を目の当たりにした水晶の薔薇には次々とひびが生まれます。ひび割れながら、水晶の薔薇はつんざくような世にも恐ろしい叫び声をあげました。

 

『ああ、なんということ!愚か者め、お前は自分の命が惜しくなったのか?せっかくお前の願いを叶えようというのに、なんと卑しいのだ!』

 

 恨めしげに水晶の薔薇は侍女をなじると、眩い光を放ちながら跡形もなく砕け散ってしまいました。その破片は四方八方に飛び散り、その場にはわずかな破片が残るだけとなりました。そして従者を阻んでいた茨の垣根も光と共に消え、下半身を失い倒れ伏す侍女に駆け寄りました。

 

 光が消えると、そこにはあの水晶の中に眠っていた女性――

花の魔女が立っていました。

 

 ついに2人は、花の魔女の元にたどり着くことが出来たのです。

 

『心を持たぬ―――いいえ、無垢なる人ならざるものよ、ありがとう。』

 

 花の魔女は夜風の魔女とはまるで正反対の、それは美しくも慈愛に満ちた微笑みをたたえ、侍女に深くお辞儀をしました。

 

 そして手をかざすと、砂となり消えかけた侍女の下半身が再び元の形を象ったのです。

 

 花の魔女は足元にわずかに残った、砕け散った水晶の破片を拾い上げると、悲しげに眼を伏せると、語り始めました。

 

『その棘こそが私を封印し、力を奪った妹が作り出した魔物だったのです。妹によって水晶に封印されていた私には、ここに来る幾千の愛の為に身を投げだした人間たちを止めることが出来ず、彼らの血を吸い、心を枯らしたそのおぞましきあの魔物を制する力がありませんでした。』

 

『でもお前は死を覚悟してその魔の棘に胸を貫かれても、霧で覆い隠していた誠の心が枯れることがなかった。その真心が封印を破ったのです。』

 

『心、ですって?私に、心が宿ったのですか?』

 

 とっさに聞いたその言葉に侍女は魔女に問いかけますが、花の魔女は侍女のその問いかけには答えず、ふわりと笑みを返すだけでした。

 

『さあ、お前の誠の言霊をこの蕾に語りかけておやり』

 

 そういうと花の魔女は胸元から一輪の小さな花の蕾を取り出し、侍女に渡しました。

 その蕾は、侍女の掌の中でかたく閉じられていました。

侍女は手にした蕾に、小さな声でそっと語りかけます。

 

『あなたの、そばにいたい。たとえ醜い姿になろうとも、変わらない。どうか、生きて。』

 

 侍女が蕾にそう呟くと、輝きを増し頑なに閉じられていた蕾はゆっくりと花開きます。

 その光は遠く東の果ての魔物の森にまで、病床の青年に巣くう死の花たちを根絶やしにしました。

 

 そして蕾をなさなかった花園にも幾つもの蕾がなり、誇らしげに咲く

鮮やかな花や、さながらやがて訪れる春を待ちわびる蕾で溢れかえりました。

 

『ごらんなさい、これがこの花園のあるべき姿なのです。』

 

 地上の楽園と呼ぶに相応しいその光景を目の前にして、侍女と従者は鳥肌が立ち言葉が出ませんでした。

 

 しばらくしてようやく時間が戻ったかのように我に帰ると、魔女に跪き深く頭を下げるのでした。それがその時唯一2人に出来る、最大の感謝と敬意のしるしだったのです。

 

しかし2人にはひとつ、気になることがありました。それを先に口に出したのは従者でした。

 

『花の魔女よ、あなたのおかげであの方は救われました・・・。

だがあなたの妹は、また何か悪さをしでかすのではないだろうか。

情けないことですが、私はそれが恐ろしくてたまらないのです。』

 

 そう、あの夜風の魔女のことです。

 

 またいつ森に現れてあのような恐ろしい呪いをかけてくるかと思うと、2人は安心して館に戻れる気がしなかったのです。

 

 その言葉を聞くと花の魔女は掌の中の水晶の破片を、

そっと握り締めました。

 

『あれは元々夜の闇に浮かぶ星達の光を守る、心優しき魔女でした。

しかし人が夜の闇を恐れる心が、星の光でさえも遮るほどの光を作り出してしまった。星たちの嘆きが、妹に耐えがたい悲しみと憎しみを、そして冷たい氷の心を植え付けさせてしまったのでしょう。』

 

花の魔女は祈るようにその破片を両手で包み込みます。

 

『妹の誰も寄せ付けぬ凍てつた心は、私を閉じ込めていた水晶そのものだったのかもしれません。それが砕かれた今、妹はきっと変われるはずです。私は飛び散ったこの破片を拾い集め、一日でも早く妹の背負った悲しみ、憎しみを癒しましょう。それで、私の妹・・・夜風の魔女の業を、許してもらえますか。』

 

 そう言うと、花の魔女は目を閉じて小さく呪文を唱えました。

 

 そして掌を開くと、鋭い輝きを放っていた水晶の破片はたちまち優しい香りを放つすみれ色の花弁に変わり、ふわりと風に舞い上がりました。

 

 それは高く遠く、夜風の魔女の元へ飛んでやがて彼女の心に一片の温かさをもたらすのです。

 その破片が全て夜風の魔女の元へとたどり着いたとき、夜風の魔女も本来あるべき姿に戻れるはずでしょう。

 

 花の魔女はすみれ色の花弁を遠い空に見送ると、侍女の側へと歩み寄りました。

 身を屈めると、侍女にしか聞き取れない程の小さな声で囁きました。

 

『…この出来事は彼の人は勿論、お前たち以外の者たちの記憶からは消えてしまいます。』

 

『何故なら、本来この花は心ある人間が必要だったのだから。それでもその者を救いたかった切なる望みと、死を前にして生まれた慈愛の心に免じて、お前が花を摘むのを許しましょう。』

 

 侍女は何か口に出そうとしました。 

 しかしそれよりも先に花の魔女は身に纏う薄桃色のケープを広げると、

一面に淡い紅色の花びらが舞い散り、2人を包みこみました。

 

『でも忘れないで。お前が彼の人を想い続けていれば、たとえ彼の人からその事実が消え去ってしまっても、いつか必ずお前の深い愛に巡り合い、知ることとなるでしょう。この花をお前が咲かせたのは紛れもない事実。運命とは、光と影の両方で織りなされているのだから。』

 

 花びらが舞う中で告げられたその言葉は、侍女の頭の中にいつまでも響き残っていました。

 

 こうして花の魔女は、侍女と従者を東のはての魔物の森へと送りだしたのでした。

 

 怪物と従者はこっそり裏口から館の中に入り、青年の部屋へ急いで駆けつけました。青年はまだ床に伏していました。

 

 しかしその体にはあの忌まわしい蔦や花はなく、頬には赤みがさし、死の影はとうに消えていたのです。

 

 そして次の日の昼には、すっかり元気になり領主をはじめ魔物たちは喜びの声をあげ、青年もいつもの変わらぬ優しさでそれらを迎えるのでした。

 

 悲しいことに魔女がいった通り、青年は自分が何故病に伏していたのかを、覚えていません。

 

 そして他の森の魔物たちも誰一人として侍女と従者が旅立った理由を、

覚えていませんでした。

 

 侍女は領主の断りなしに森を出た罰として、元の醜い泥の姿にされ館の地下に閉じ込められてしまいました。

 

 従者の男も同じ罰として、森から追放されてしまいました。

 

 従者は青年を助けたのが怪物である侍女だということを知っていた唯一の人物でしたが、領主の命令には逆らえなかったのです。

 

 それを覚悟の上で侍女と旅に出たので、森を出る時には何の未練もありませんでした。

 

 ただひとつ、あの侍女の行く末を心配に思っていることを除いては。

 

 暗い地下の檻に閉じこめられても、怪物は悲しみにくれることは

ありません。

彼女の、本当の願いが叶ったのだから。

 

 青年の呪いも解け、森に再び平穏が戻りました。

 

 今日も青年は欠かさず、地下に閉じ込められた侍女の元へ来ては様々な話をしてくれます。

 

 そしてふと尋ねました。

 

『僕は今でも何故自分が、何の病に伏していたのかわからない。

誰に聞いても知らないというんだ。』

『けれど何故だろう、君をみると胸にぽっかり穴が空いたように、とても大切なことを置き去りにしてしまったような、不安な気持ちになるんだ。』

 

 すると青年はおもむろに、侍女に向かって手を伸ばしたのです。

 

 侍女もう少女の姿ではなかったので、また、差し伸べる青年の手を汚してはいけないと思い、目を背け動けずにいました。

 

 それでも青年は構わず冷たい檻の鉄格子越しに手を伸ばし続け、ようやく指先で侍女のどろりとした体の一部に触れることが出来ました。

 

 侍女が恐る恐る視線を合わせると、青年は今にも泣きそうな、でも嬉しそうな笑顔でこちらを見つめて、

 

『生きて帰ってきてくれて、本当にありがとう。』

 

 そう一言いうと、その場に突っ伏しておいおいと泣き始めてしまいました。

 

 侍女はただ黙って、出来る限り青年の近くに寄り進むと、泥の手で泣き伏せる背中を優しくさすってやりました。

 

 冷たかったはずの侍女の手が、かすかな温もりを宿していることを気のせいではないと悟ったのでしょうか。

 

 青年はぬめる醜い体に縋るように、ただひたすらに涙しました。

 まるで神に懺悔するかのように、ただ、ただ、ひたすらに。

 

 そして侍女も今になってあの時『自分に心が生まれたのか』という問に

対して花の魔女が答えなかった理由を、ようやく見つけることができたのです。

 

《答えなど、初めから必要なかった・・・。》

 

 背中を撫でながら、思い出すのはいつの日か青年が語った言葉でした。

 

 満天の星空の下、森の川辺で侍女は青年に「心」について尋ねたことがありました。

 

 青年は侍女の問に諭すようにこう答えたのです。

 

――全ての生まれくる命には、神様が祝福を下さる。

その祝福はきっと、まっ白な雪のような「心」なんだ。

その「心」は生きていく中で、様々な色に染まっていくのだよ。

 

――君も人の手で作られたとはいえ、かけがえのない命なんだ。

だから心がないだなんて、絶対に思わないでおくれ。

たとえ君にとっての神様が母だとしても、天上に住まわれる神様が、

君がこの世界に生まれ出た瞬間にその祝福を授けてくださっているのだよ。

 

 

 そして、この青年に呪いをかけた夜風の魔女のことを、少し哀れに思うのでした。

 

 きっとあの魔女は、星たちの嘆きに悲しみ、憎しみを一身でその身に受け止め、心を本当の闇に染め上げてしまったのだから。

 

 太陽がやがて西の空を赤く染め上げ、夜の闇に星が散りばめられても、侍女は青年が泣き止むまでずっと、ずっと側を離れず寄り添っていたのでした。

 

 

 それは誰も知らない物語。

 語り継がれることもなく、

 置き去りにしてしまった、お話。

 

終わり

 


 
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