No.817561

Aufrecht Vol.3 「約束」

扇寿堂さん

艶沖長編です。

2015-12-07 14:59:51 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:207   閲覧ユーザー数:207

その頃、京での新選組は、禁門の変の後始末として市中の残党狩りを命ぜられ、きりきりとよく働いていた。

長州とのつながりが報告されている旅籠や料亭、寺院などに上がり込み、この際だから徹底的に炙り出そうという気構えで一斉捜査に乗り出したのだ。

ちなみに、近い将来屯所となるはずの西本願寺にも足を運んだことは、言うに及ばずである。

 

私たちの動きが指標になっているかはともかくとして、引っ越すための余力がある町の人たちは、いち早く京を脱し大阪へと移っていく者が後をたたない。

泣く泣く京に留まる者たちも「関ヶ原以来の大戦が始まる」などと、恐怖に顔を凍りつかせて囁き合い、あれほど賑やかだった往来は昼間でも人の気配が薄らいでいる。

 

(それにしても、寝てるだけっていうのも退屈だなぁ)

 

下山してすぐに高熱を出した私は、しばらく寝込む日々が続いていた。最初のうちは熱中症にかかったのだと思っていたのだけど、恒常的な胸の灼熱感に疑わしさを覚え、それが労咳の症状なんだということを後から思い出したのだ。

 

(熱さえ出なければ、今のところ支障はないんだけどな)

 

今も微熱が続いているけれども、一時期に比べると食事や厠なども楽にこなせるようになってきたし、ちょうど床にいるのが苦痛に感じられる頃合いだった。

意味もなく寝返りを繰り返す私は、隊士たちの雄叫びを日がな一日聞かされている。

ここぞとばかりに武術の鍛錬をする者が多いせいで、鬼気迫らんとする咆哮が近在の家々にまでこだまし、慄いた住人たちは着の身着のまま出て行く始末だった。床に伏せっている私にしても、微熱のためかすべてが鬱陶しく思われて、悪気なく耳障りだと感じてしまうのだった。

 

(うぅ…落ち着かない)

 

じっと寝ているのがつらくなって、いそいそと羽織を掴み袖を通す。こそこそする必要などどこにもないというのに、寝巻きのままでそっと部屋を抜け出した。

 

「沖田先生。お目通り願いたいという女人がお見えですが…」

 

明らかに不自然な格好で縁側に這い出ると、今しがた通りがかったとばかりの隊士が、物怖じもせずに声をかけてきた。

 

ガンッ!

 

右の膝小僧が仕切りの溝をまともに食み、その衝撃が骨の髄まで伝わってビリビリと痺れていく。

驚きのあまり平常心を欠いていた私は、咄嗟に後退しようとしたところで思わぬドジを踏んでいた。

 

(まさしく痛恨の一撃…)

 

脛をぶつけたのと同じくらいの痛みが、膝頭から脊髄を伝って駆け上がっていく。頭のてっぺんを突き抜ける頃には、床に頭を打ちつける寸前でもんどりうってしまった。

 

「ッ! …おどかさないでくださいよ…」

 

膝を庇いながら涙目になって見上げると、隊士は依然として表情を変えずに突っ立っている。

 

「おどかした覚えはないのですが…すみません。客人がお見えですけれど、どうしますか?」

 

果たして、彼はこの災難を理解しているのだろうか。心遣いを見せるそぶりも、思いやりの言葉もなく、淡白な声で用件を告げるのみだ。私がうずくまっているのにも、何食わぬ顔で見下ろしている。

 

(文句をいうのも阿呆らしくなってきた)

 

「ええ。いいですよ。お通ししてください。」

 

つい投げやりな声音になって、痛めた膝小僧をさすった。

 

(せっかく星さんが訪ねてくれたというのに、これじゃあ幸先が悪い)

 

単純でわかりやすい不満を持ちながら、能面隊士の後ろ姿を目で追い払う私であった。

 

彼女とは常照寺以来会っていない。

こんな状況だからかノコノコと出かけられる雰囲気でもないし、彼女も襲名披露の準備などで忙しいだろうからと遠慮していたのだ。それ以前に、私が寝込んでしまったということもある。

 

(どうしたんだろう? 何かあったのかな?)

(もしかして、結城くんと連絡がとれたんだろうか?)

 

居住まいを正すことで逸る気持ちをおさえ込み、小さい歩幅で前庭を歩いてくる彼女を待つ。

庭木や塀の外側で、蝉が命の大合唱を繰り広げ、生命力のしぶとさを消し散らかすように、猛者たちの雄叫びが雷鳴のごとく降り注いでいる。

 

(ちょっと間が悪いかもしれない)

 

男くさいのはいつものことなんだけど、それに輪をかけて武一点張りという空気が辺りに漲っていた。

隊士の大多数は壬生寺の境内を間借りし、行軍を見越した隊列の組み方や、型の訓練、二人一組で行う模擬訓練などに精を出している。

戦に向けての準備というのは、何も体づくりだけには留まらない。武具の手入れや修復も、戦への気構えとして重要なことだ。

壬生寺に入りきれない者や、武具の手入れに余念がない者は、門長屋の前に寛げて思い思いに手を動かしている。

鎖の着込みにほころびはないか、皮胴の縫い合わせにほつれはないか、刀に曇りがないかなど、自分の命に関わることとなるとその目は真剣そのものだった。

菰を引っ張り出して武具を並べつつ、どっかりと座り込んで黙々と作業をしているものだから、事情を知らない人間が見れば立ち入っていいものかどうかと二の足を踏むだろう。

彼女もその例にもれず、時折びくついたように体を縮こませながら、しきりに首を動かしては左右に注意を払っている。

まさしく、女の子がひとりで訪れるには、なかなか勇気のいる場所だった。

 

「こっちです!」

 

たまりかねた私は片手を上げ、周囲の喧騒に負けじと声を張り上げた。

すると、こちらに気づいた彼女は安堵したように歩を早め、手招きに応じるようにして笑みを深めるのだった。

「こんにちは。突然お邪魔してすみません。皆さんずいぶんと熱心ですね。何も考えずに押しかけちゃって、不謹慎だったかも…。」

 

少しおっかなびっくりという顔で、彼女は辺りの様子を窺っていた。物陰から鬼でも出てくるのではないか、という具合に肩幅がぎゅっと狭くなっている。

こう言っちゃ悪いんだけれど、小動物のような彼女の怯えように、口もとがゆるむのを隠すのが大変だ。

 

「そんなことは考えすぎですよ。なぜかってね、池田屋の報奨金を天子様に賜ったからです。みんな泣いて喜んでました。特に近藤先生が。よほど励みになったのでしょう。」

 

言いながら、私はあのときの状況を思い浮かべた。

その場面に居合わせるのはこれで二度目だけど、何度思い出してもいかめしい顔がうるうると瞳を揺らすのがおかしくてたまらない。もちろん、天子様より直に下賜されることがどれほどの名誉であるのかわからないわけではないが、感激の度合いが激しすぎてひとり反応に窮する私であった。

そんな私の感想とは対照的に、彼女は神妙な顔つきで頷いている。

 

「だったら、なおさらですよ。用件だけで、すぐにお暇します。」

 

「そんなつれないこと言わないでくださいよ。土方さんのことなら心配いりません。今は外出中ですからね。鬼の居ぬ間になんとやらってやつです。」

 

冗談が通じたのか、彼女は微妙な顔をして笑っている。

何かにつけて土方さんを笑いのネタにするのを、幼稚だなと思っているのかもしれない。

今度からは、もっと気の利いた冗談を言えるようにならなければ、と思った。

 

「ところで、用件というのは、もしかして結城くんのこと?」

 

「はい。手紙を出してみたんですけど、宿に帰っていないみたいなんです。だから、連絡のつけようがなくて…ごめんなさい。」

 

しょげたように顔をうつむかせて、彼女はよろよろと視線を落とした。

いろいろと情報が錯綜しているせいか、結城くんが無事でいるのかどうかもわからないのだ。行方がつかめないことで、きっと不安を感じているのだろう。

 

「謝らないでください。情勢が落ち着いてくれば、対面する機会が訪れるでしょうから。そのときにいずれ。」

 

コクリと彼女は頷いて、次の話題を探るような顔つきになった。

抜いた衿の隙間から見えるうなじが、香袋の匂いを漂わせかすかに汗ばんでいる。惜しみなく降り注ぐ陽の光の中で、それはうっすらと輝いていた。

沈黙が続くとそればかりに目がいってしまい、何かを喋らなければという思いに私は急き立てられていく。

そこで、当たり障りなく彼女の近況に触れることにした。

 

「それはそうと、太夫になることが決まってるんでしたよね?」

 

「はい。京がこんなことになってしまったので、お披露目も先送りになりそうですけど…」

 

彼女は曖昧な笑みを浮かべながら、何かの懸念を隠すみたいにきゅっと指先をしまい込んだ。

 

(太夫になること、緊張してるのかな?)

(それとも、何か別のことで不安でもあるんだろうか?)

 

どうかしたのか、と問うのは簡単だったが、それをしてはいけない気配が彼女の方に漂っていた。とにかくこういうときは、深追いをせずに気持ちがほぐれることを言うのが定石というものだろう。

 

「おめでとうございます。あの吉野太夫の名跡を継ぐんだから、星さんはすごいや。」

 

我ながら陳腐な表現だとは思ったけど、最上級に飾り立てた賛辞など私の口からは到底出せるものではない。素朴な言葉が相手にどれだけ伝わるかわからないけれど、この喜びが彼女に伝わればいいなと思った。

 

「そんなこと…でも、ありがとうございます。がんばった甲斐がありました。」

 

本当なら一番に喜ぶべきなのは本人のはずなのに、なんとなく切なそうに微笑む彼女のことが気になった。返す言葉も控え目で、微笑みの中にあっても、瞳だけは何かを訴えるように揺れている。

あえて言葉にしない感情が、うっすらと透けて見えるような気がした。

 

――太夫になるのは沖田さんのためです

 

どんなときでも利他のために動く彼女が、そこまでの覚悟を秘めていたなどと露ほども知らなかったし、どうしてそこまでするのだろうと泣きたい気持ちになった。

あと何年生きられるかもわからない私には、そこまでの価値はないと思っていたから。

 

(私なんかのために、がんばらないでください)

 

彼女の想いがあまりに大きすぎたため、当時はそれを受けとることすらできなかったのだ。

ひたむきな強い想いが、私の心を塗り替えてしまうようで怖かったのもある。

 

(今まで誰かが私なんかのために、ここまで情熱を傾けてくれたことなんてあったろうか)

 

初めてだった。だからこそ、どうしていいかわからなかったのだ。

(私は、彼女に何をしてあげられるんだろう?)

(彼女の思いに答えられるだけのものを、私は持ち合わせているのだろうか?)

 

その答えは明白で、私にはあげられるものが何ひとつなかった。唯一「こころ」というものがあったけれど、新選組と命運をともにすると誓った以上は、こころのすべてを彼女に捧げることはできなかった。「からだ」にしてもそうだ。私のからだは、労咳に支配されていた。いつの日か、体からぬくもりが奪い去られ、冷たい躯だけを彼女に残すことになってしまう。

 

(どうせ、いつかは死ぬ男だから)

 

長く生きられないのなら、情を通じることこそ残酷ではないかと思った。

この日かぎりで諦めてしまえば、痛みは長引かないのだと信じていた私は、人生で初めての大きな嘘をついたのだ。

しかし、彼女の気持ちを拒むことは、彼女の真心を踏みにじることと同じだった。そんなこと痛いほどわかっていたのに、そうすることでしか、彼女の幸福を守る手立てが見つからなかったのだ。

彼女に不幸を背負わせないようにするために、自分の心など死んでも構わないと思ったのに。

 

――太夫になんてならなければよかった

 

初めて耳にする卑屈な言葉に、しばし私は愕然とした。

「彼女を見ていると励みになる」「つい応援したくなる」と玄人からも愛される彼女が、あえて投げやりな言葉を選ばなければならなかった心情が哀れだった。

 

(私と知り合わなければよかったんだ)

 

深入りしすぎているのに気づいたときには、すでに私たちの間には生々しいほどの恋情が絡みついてしまっていた。

 

(私なんかのせいで諦めたりしないでください)

(太夫となって、幸せな道を歩んでほしいから)

(私なんかのために、手放すのは間違いなんだ)

 

島原に籍を置く遊女たちが、どれだけ太夫になることを望んでいるだろう。そういう切実な気持ちを彼女が知らないはずもない。

たとえ素養があったとしても、志す者のすべてが太夫になれるわけじゃないし、ほんの一握りにしか与えられない最高峰の栄誉なのだ。

 

(星さんは、島原の看板を背負って立つにふさわしい人だから)

 

私なんかのせいで、一生に一度の晴れ舞台を駄目にしてほしくなかった。

日々のたゆまぬ努力で得た証を、もっと他の人に見てもらいたいと思うし、彼女がどれだけ素晴らしい女性であるかを世間はもっと知るべきだと思った。

かつての私がそうだったように、彼女の存在がこの京の希望になるような気がするのだ。

 

「ひとつ約束していただけませんか?」

 

「約束?」

 

「はい。せっかく太夫になるのだから、簡単に辞めないでほしいんです。」

 

私のために太夫になったのだと彼女は言っていたが、今度こそはその動機を自分のために役立ててほしいと思っている。

雅野の頂点を極めた太夫たちは、公卿や豪商がこぞって手に入れたいと思うほどの高嶺の花だという。武家の者ですら敬意を払い、一目置くほどの存在だ。公方様や天子様に拝謁の叶う権利を持つことからも、振った賽子から出た偶然ではないとわかってもらいたかった。

この時代で彼女が唯一築き上げた地位を、簡単に手放してほしくないのだと、ぜひこの場で強調しておきたかったのだ。

 

「すぐには辞めたりしないとは思いますけど、でも、ずっと太夫でいるというのは…」

 

私の願いが直接すぎたため、彼女は逃げ場を失ったような顔をして言いよどんでしまった。「辞めないで」と言った私の言葉には、何か二重に含むところがあるのではないか、という思案げな顔になっている。

 

「カメラが見つかるまで?」

 

彼女の思考を言い当てた瞬間、ゆるく開いた唇にぎこちない笑みが浮かんでいた。

太夫になったそもそもの原因が、「カメラ」であることを見破られたせいなのか、なんとなく後ろめたい笑みに見えたけれど、それでも彼女はごまかしたりはしなかった。

 

「…知ってたんですね。」

 

「結城くんから聞きました。カメラが見つかるまでで構いません。もちろん無理強いするつもりもないのだけど。でも、せっかく血の滲むような努力をされたんだ。できれば太夫を続けてほしいんです。あなたの笑顔は人々を元気にするのだから。京の皆さんは落ち込んでいるでしょう? あなたの存在は、みんなの希望になると思うんです。もちろん、私にも。」

 

見習いの頃の彼女は、菖蒲さんという姉女郎の陰で、粗相のないようにと何もかもが覚束なく初々しかった。しかし、今はどうだろう。菖蒲さんはもちろんのこと、他の芸妓にも差をつけて、彼女の評判は日に日に高まっていく一方だった。

一体、彼女の何がそんなに魅力なのかと問われれば、顔馴染みのほとんどが真心だと答えるだろう。

どんな人間も、他人の真心に触れたとき、心が洗われたり、気持ちがあたたかくなるものだ。

男というのは単純なもので、女の人に慰めてもらったり癒してもらったりすると、気持ちがほぐれて心地よい気分に浸れるのだが、その余韻も一夜にして消えてしまうことが多い。座敷をともにして、後々まで印象に残るものは、真心を込めたもてなしであったりするのだ。

もしも投扇興の勝負がなかったら、単に色を売る街だという偏見でしか島原を見ることはできなかったかもしれない。

 

「私なんかが、傷ついた京の皆さんを癒すことができるんでしょうか?」

 

「弱気になっちゃダメですよ。あなたは自分がどれほどの魅力を持ってるのか、気づいていないらしい。もっと、自分に自信を持っていいんです。なんてったって、私は星さんの一番のファンなんだ。その私が言うのだから、間違いありません。」

「あはは。ファン? なんだか芸能人になったみたいな気分です。」

 

はにかみながら笑う彼女を見て、いつものくだけた調子が戻ってきたのだと分かりうれしかった。彼女が太夫になってしまったら、今までのように気軽な会話はできないかもしれないけれど、こうした会話の中に飾り気のない素顔を見つけられたときはやっぱりうれしいなと思う。

 

「太夫はもっと格式が高い人ですけど、そうだなぁ…確かに、大勢から注目されるという点では、芸能人と大差ないのかもしれない。そりゃ男の人はもちろん、同性にとっても憧れの人ですからね。何せ故郷に自慢ができる。私の恋人は太夫なんです、って。」

 

ふと、武州にいる姉のことを思い出し、手紙を書こうかという気になった。

恋人ができたことを知らせたら、どんな顔をするだろうか。その人が今度太夫になると知ったら、腰を抜かして驚くかもしれない。

 

「どうせ自慢されるのなら、太夫としてではなく、私そのものがいいんですけど…」

 

いたずらを思い出して笑いを噛み殺しているような私を見て、彼女は冗談を言っていると思ったらしく、かわいらしい頬をぷくっとふくらませた。

 

「それはもちろんです。私の星さんは、頑張り屋で、誰にでも真心を尽くす優しい人だって。みんなに言いふらしますよ。」

 

胸を逸らして得意げに笑うと、慌てふためく彼女が身を乗り出してきた。

 

「言いふらさなくていいです! 適度にお願いします…」

 

うれしいのか恥ずかしいのかどっちともつかない彼女は、耳の際をほんのりと色づかせている。

これから先のことはわからないけれど、たとえば彼女を故郷に連れて帰ったとして、そのときにもこんな表情をするのだろうかと思った。

 

「そうですか? 私はあちこちに自慢したい気分ですよ?」

 

「っ…もう、沖田さんってば。変なときに大胆なこと言うんだから…」

 

にわかに振り上げた手のひらで、私の腕をひとなでした後、さっきよりもずっと恥ずかしそうに彼女は俯いていた。

地面に視線を注いだまま、心に何かが浮かんだときのように彼女はポツリと呟く。

 

「私、今すごく幸せかも…」

 

ごく自然に紡がれた言葉だけに、しばらく感情がそれに追いつかなかった。それくらい彼女の声は素朴だった。

 

(星さんは無欲な人だな)

 

彼女のために、これといって何かをしたわけではない。恋仲の男女であるならば、忍び逢いを交わして気持ちを確かめたり、気の利いた贈り物をしたり、家族に引き合わせたりするのが一般的だろう。そのどれもが疎かであるのにもかかわらず、彼女は何もほしがらないばかりか、私といるだけで幸せだと感じてくれているようだ。

男冥利につきると言えばいいのか、それとも、身に余ると表現するほうがいいのか、とにかく私は幸運な男だと思った。

 

(こんなにも満ち足りた気持ちにさせてくれるなんて)

 

それは、涸れ果てた大地に水が染み渡っていくように、心が歓喜に染まりながら息を吹き返していくみたいだった。

 

「本当に?」

 

「はい。自分だけ浮かれてちゃダメだってわかってるんですけど…」

 

自分の幸せを後回しにしてしまう彼女は、この時代で生きていくには優しすぎるのかもしれない。

花がしぼんだように言う彼女は、雄叫びが飛来する方角を不安そうに見つめていた。

気落ちする彼女に引きずられながら、無情にも現実へと引き戻された私は、同じようにしてその方角に視線を送る。

 

(私こそ浮かれすぎていたかもしれない)

 

言いたくはないけれど、耳触りのいい言葉でこの場をやり過ごすのは、単なる現実の逃避でしかないと思った。彼女と私だけの世界にも、無関心を貫くことはできない事実がそこにある。

 

「残念ながら、戦は避けられないことです。上層部の考えだけで動いているのではなく、そこにはたくさんの意思が関わっている。己の意思で戦うことをやめたとしても、誰かが代わりに戦場へ立たなければならなくなるんです。」

 

まるで、自分への言い訳みたいだと思った。

「道理がある」と激しく責め立てられたあの日から、それこそが果たすべき贖罪のような気がしてならないのだ。

戦うのをやめるのは、もしかすると邪道なのかもしれないとも思う。つまり、それこそが私欲の極みではないかと思うのだ。

そんな迷いの中で刀を眠らせてしまえば、死の寸前まで自分を苛め倒すだろうし、繊細な彼女を苦しめて共倒れになってしまう可能性があった。それだけは、絶対に避けて通らなければならない道だ。しかし、もっと嫌なのは、その答えを彼女に求めることだった。

 

「沖田さんが戦うのをやめられないことはわかっています。新選組のために、命を使いたいと思っているのも知っています。だけど、沖田さんには傷ついてほしくないし、他の誰も傷ついてほしくないんです。こう思うことは、自分勝手なんでしょうか? みんなが思い思いに命を賭けて戦っているのに、誰かが他の人を傷つけたり、傷つけられたりするのが怖いんです。」

 

やさしい心根を持つ彼女が生きるには、あまりに無情な世界だと知った。

私は以前、この時代の住人にさえなれば、自ずと生き方もそれに染まるというのを結城くんに言ったけれど、それは明らかな誤りだったのだと改めて思う。純真な彼女が受け入れられるほど、生やさしい世界ではないのだ。だからこそなおさらに、自分だけは戦に関わってはいけないのだと悟った。そう思うにつけ、戦を厭う感情が克明に頭をもたげ始めるのだった。

(なるだけ早く彼女を未来へ帰そう)

 

迎えに来た場所が、ここではなく未来であればよかったのにと思う。

そうすれば、彼女が怖い思いをすることもないのに――

 

「あなたは正しい。傷ついていい人間なんていませんよ。でも、止められないんだ。誰にも…」

 

できることなら、これ以上彼女を悲しませたくなかった。恐怖に怯える彼女にしてあげられることもなく、ぐっとこらえて耐えていける自信がない。

ならば、一刻も早く未来へと帰るのが最善というものだ。

 

(カメラを探さなければ…)

 

確実に未来へと連れて帰るには、修学旅行のカメラが必要だった。

結城くんに探索を任せきりで、彼を当てにして待つのはまるで効率が悪い。できれば、私も伝手を頼りながら探してみたいと思った。

噂によれば、発明家の「からくり儀右衛門」が所有している可能性が高いとのことだ。

その儀右衛門さんとやらを訪ね歩くのには、一にも二にもまずは体力が肝心だった。

しかし、その体力とやらが近頃めっきり落ちてきているのは、いかにも見過ごせない事実だった。

 

(レントゲンが撮れるわけじゃないから、どの程度進行しているのかもわからないけど…)

 

自分の感覚では、まだまだ頑張れると思うのだけど、天王山を目指したときの山道を思い返すと、やっぱり持久力は低下しているのだと認めざるをえない。

 

(別に足で稼ぐこともないじゃないか)

 

それに、めぼしい相手が必ずしもカメラを持っているとは限らないだろう。まずは、書簡で事情を説明して、カメラの有無を訊くのが賢いやり方ではないかと思うのだ。

 

「私もカメラを探します。それが見つかったら、三人で帰りましょう。」

 

「え? …でも…」

 

カメラのことを唐突に切り出したせいか、彼女の目に明らかな戸惑いが浮かんでいた。

その瞳が暗に物語るものとは、いかにして新選組を脱退するのか、労咳を押してまでそれをしようというのかという種々の懸念だった。

 

(確かに、現状のままではどうにもならないな)

 

そこで、先々の不安に対する打開策となりえるかはわからないが、とりあえず私は目下の考えを伝えることにした。

 

「療養のために、役職を降りることにしようかと思ってるんです。」

 

「えっ?」

 

驚愕で目を瞠いた彼女は、それっきり言葉を失っていた。何度説得されようが、泣き縋って懇願されようが、徹底して否定を繰り返してきた私だ。なんの前触れもなく逆さまの主張を展開すれば、なぜ今になってそんなことを言い出すのかと問い詰められても不思議ではない。だけど、彼女はそうしなかった。言葉を発する代わりに、目だけが「なぜ?」という疑問符を投げかけている。

 

「私は労咳です。どの道戦えなくなる。まだ余力のあるうちに、カメラを探すのを手伝いたいんです。」

 

疑問符で翳りはじめた瞳が、今度は戸惑いを映すように揺れている。どう反応したらいいかわからないという迷いが、沈黙の間に溶けて流れていった。

 

(どうやら、困らせてしまったようだ)

 

自分で決めて発言した言葉に、今さら苦い物を飲み込むような気持ちになった。

彼女もまた、困ったような顔をしている。

 

「お気持ちはありがたいんですけど、療養するなら出歩くのはまずいですよ。それに、カメラなら翔太くんと私が探しますから。沖田さんは体を休めてください。」

 

(労咳のことを気にしてるのか)

 

あくまでも彼女の主張は、誰にも頼らずに自分たちの力でカメラを手に入れようというものだった。その心意気は素晴らしいと思うのだけど、蚊帳の外にされるのはどうにも寂しいし、私の性分からしても手を貸さずにはいられないというのが本音であった。

 

「確かに。労咳だと公表するからには、おいそれと外出はできませんね。だからといって、何もしないわけにもいかない。人を雇って調べることくらいはできるでしょう。」

 

代役を立てて探し物をさせることが、どれほどの成果につながるのかはわからない。けれども、何もしないよりかは幾分かマシだと思っている。

 

「でも、新選組はこれから戦に加わるんでしょう?」

 

おそるおそる口にした彼女が、何を言いたいのかははっきりしていた。濡れたように見える瞼に、悲愴感が見えるのは気のせいじゃない。

あなたは出陣しなくていいのか? と、無言で問われているような気がした。

 

「はい。むろん、そうなりますね。でも、私ひとりが抜けたところで、どうってこともないんです。だって、強者ばかりですから。」

 

何でもないことのように笑ったつもりでいても、彼女にそれが通用しないことは明らかだった。自分が感じているよりも、他人の目から見る真実の方がずっと深刻なのかもしれない。その差分を埋めるための覚悟が、今ひとつ足りないのかもしれないとも思った。

「……」

 

「信じられませんか?」

 

目の前でこわばっている両肩を包み、あやすようにしてその緊張をなだめていく。不安げに見上げる彼女の瞳が、心細さを映しながら揺れていた。

 

「そうじゃないんです。そうじゃなくて…実感がないというか…沖田さんは、私なんかが手を伸ばしても、絶対に届かないところにいる人なんだって思ってたから…」

 

(そんなわけないじゃないか)

 

私なんて、新選組という肩書きを取ってしまえば、どこにでもいる平凡な男だ。ただ、剣の腕が立つというだけで。

 

(同じく、私も手の届かない人だと思っていた)

(彼女をほしいと思うことは、とてつもなく大それた望みだと思っていた)

 

昼も夜もわからなくなるほど好きになった相手というのは、蜃気楼のように淡く透けて見えるときがある。ずっと掴まえておかなければ、そのうちするりと腕を抜かれてどこかへ消えてしまうのではないかと思うことさえある。理屈なんてまるで意味をなさず、底知れない不安がつきまとうのだ。

それと似たようなことを、彼女は感じているのかもしれない。

 

「不安なんですね?」

 

「…はい。不安なのかもしれないです。戦わなくて済むようになるのはうれしいですけど、本当にそうなるのかなって…だって、自分の意思とは無関係に周りが進んでしまうこともあるじゃないですか。人間って、気づいたらいろいろなことに振り回されてたりするでしょう? だから、不安なんです。」

 

(自分の意思とは無関係に物事が進んでしまう、か…)

 

そう言われてまた、長州人の言葉が呪詛のように甦ってくる。

 

――抜かなければならない道理があるじゃろう

 

あんなにまぶしかった剣の道が、今や蟻地獄のように砂の輪を拡げ、私の足元を絡めとろうとしがみついているかのようだ。天下へと高らかに志した夢は、いつしか修羅にとって代わり、立ち塞がる獣道に変えてしまった。

 

「そうですね。確かに、私の意思ではどうにもならないようなことがあるかもしれない。でも、私の意思が通用するかぎりは、星さんを悲しませるようなことはしないと約束します。」

 

無限に拡がり続ける蟻地獄を見据えながらも、せめて私だけは彼女の恐怖の対象から外さなければならないと強く思ったのだった。


 
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