No.814745

戦極甲州物語 弐拾壱巻

武田菱さん

日本よ、私は帰ってきた!……と、関空に着いた途端に言いたくなりました。
やはり日本人は日本にいるのが一番いい……としみじみ思って久しぶりにネットに繋げてみたら。
戦極姫が6!? 3の時代はすでに遺物ですか!?
と、何だか取り残された感で一杯の今日この頃。いやだって、あの国でネットに繋ぎたくないんだもん……監視されてそうで。職場のPCでネットサーフィンするわけにもいかんし。
またしばらくしたら行かなければいけないんですが、それまでにできるだけ投稿できたらなあ……というわけで何年ぶりかの投稿です。

2015-11-21 00:32:03 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:2630   閲覧ユーザー数:2425

 

 雨は降り始めてからあっという間に本降りとなり、馬を走らせると顔に当たる雨粒が痛く感じるほどだった。

 その雨の中、信繁と虎昌率いる本隊は躑躅ヶ崎館に帰り着く。小休止を繰り返しただけであった兵たちに温かい飯と休息の場を与えるよう館の者に指示し、信繁は虎昌と共に軍議の間に入った。濡れた体のままではと服を着替えるものの、2人して鎧はまたすぐに身につけておく。飯も握り飯だけにし、そのまま2人は小姓が広げた地図を前に現状の確認に入った。

 

「若……御館様。お体は平気で?」

「心配は無用だ。それより多田はまだ戻らないか?」

「さすがに距離がござる。多田と言えど時間はかかりましょうぞ」

 

 上杉軍の侵攻。

 撤退途中に信繁は満頼が捕らえて聞いておいたというその情報を聞き、急ぎ彼女に命じて上杉軍の偵察に向かわせた。

 さすがに撤退を始めてから数刻。そのまま向かったとはいえ、満頼が偵察を完了して戻ってくるのはまだ先だろう。信繁は自分が冷静さを欠いていることを察し、一旦考えることを中断。小姓から水を一杯受け取って息を落ち着かせた。

 追手が来ないとはわかってはいても、追われる身となるといつ山手から北条の旗が現れるかとついつい山の方を気にしながらの帰還であったし、ピリピリしてしまうのは仕方のないことかもしれない。炎の壁もこの雨で消えてしまうことだろうし、それ以前に北条軍の手で消し止められたかもしれない。もしくは迂回して追撃をかけてきているかもしれないし、風魔衆がどこかから監視しながら暗殺の機会を窺っている可能性もある。そんなことを考えていた最中に上杉軍の侵攻だ。これでまったく動揺しない方がおかしいのかもしれないが、総大将が慌てていたら指揮に関わる。副将として在り続けた前世でもそれは貫徹していたつもりだったが、総大将の身となって、どれだけ肩にかかる荷の重さが違うかということを改めて知らされる。

 

「どっこらしょいと……ふう」

 

 そんな信繁の心情をいい意味でか悪い意味でかぶち壊しにする虎昌の気の抜けるような一言。軍議の間は基本的に音漏れを防ぐ意味でも入口の襖を閉じてしまえば密室状態にある。虎昌はしっかりと閉じた上で信繁の向かって左側に座し、大きく息をついて胡坐をかいていた。

 

「黒備えの相手はさすがに虎昌殿と言えど一苦労だったようだな」

「人外の相手は初めてのことでござっただけじゃ。次はああはいかぬ」

 

 減らず口はそれでもなくならないらしく、虎昌は鼻息荒く膝に掌を叩きつけた。『北条五色備え』が相手となればこれくらいは必然の結果かもしれない。北条軍別働隊は3千。大軍とは言い難いが、質で見れば『黄』と『黒』の2人が揃っているのだから手こずるのもやむなしか。

 

「北条の動きにはどこか先を急ぐようなところがあったが、上杉のことを最初から知っていたのだな」

「わざわざ『黄』と『黒』の2人を別働隊に配置したのも、3千ほどで別働隊を編成したのも、甲府を可能な限り素早く落とすためだったのでござろう」

 

 諜報能力の差があからさまに出た結果に、信繁は額に手を突いて眉間をほぐすように揉んだ。満頼には悪いが、やはり武田軍の情報収集と分析の能力は貧弱だ。受け身としての態勢さえ整っていないようでは、積極的に情報に工作を加えるような真似はできまい。

 『武田信玄』は多くの情報を仕入れ、精査して正誤を見極めた上で最適な工作を行った。ただ単純に悪評をばらまくだけなら簡単で、そしてそんなものは常よりどこでもやられているから、民衆もたいがいのことではいちいち動じない。他家の家臣や民衆が本当に主君に対して疑心を持つのは、どれだけその情報に真実味を持たせるかが肝要なのだ。

 

「御館様。無いものねだりをしても何にもならん。今必要なのは具体的な対策でござる」

「然り」

 

 2人して地図に目を落とす。甲斐国全土を俯瞰した地図の上に、現状で分かっている限りの状況に即し、各勢力を示した色付きの木片を地図の上に置いていく。

 

「まずは我が隊の状況じゃが、損害はおおよそ200から250。跡部と浅利を失い申した。休みをほとんど取らずの行軍と戦で疲弊も大きく、士気は低いと言わざるをえないでござる」

 

 躑躅ヶ崎館に置いておいた守備兵500と合わせて700から800。だが怪我や疲弊の問題があるので、満足に動けるのは600いるかどうかというところか。

 

「信玄から最後に届いた報告では、策は見事に上手くいき、韮崎を発して武川へ進軍したとのこと。先鋒はすでに衝突しているやもしれぬとのことだったな。信廉も上手くやったようであるし、あとは合戦の結果や如何にか」

「期待通りの結果なれば兵の士気も上がりましょうぞ」

 

 甲斐西部の状況も兵力的に気を抜けるものではないが、ほぼ当初の作戦通りに進んでおり、残すところは合戦の結果とその後の小笠原・諏訪の信州連合軍がどう動くかだ。報告が届いた時点からして、おそらく合戦はもう終わっていると見ていいだろう。

 

 

 

 むしろ終わっていてもらわねば困る。

 

 

 

 諏訪頼重が小笠原長時と離れたのは狙い通りであり、離れるとすれば頼重は自身の軍をすべて引き連れていくだろうと踏んでいた。自分の大事な兵を長時に預けるとは思えないからだ。本国に何かあればすぐに諏訪の地へ帰れるという意味でも、頼重ならば戦況の悪化は高遠を付け入らせる機会となりかねないため即座に取って返すだろうし、そのために勘助を高遠に派遣し、その情報をわざわざ教えているのだ。

 すると小笠原勢は単独で5千。これならば信玄率いる武田軍主力4千と兵力にそう開きはなく、武川という地の利を生かせば充分に勝機はある。

 とは言え、合戦が長引けば頼重が舞い戻ってくる可能性があるし、5千と4千がまともにぶつかり合えば主力と言えども武田軍の被害も大きかろう。この戦は短時間で如何に小笠原勢を追い込むかが重要で、かつ武田軍の被害を最小限に抑えなければならない。従ってまだ戦っているようではそれは望めないということになる。そのために信繁本隊と信龍ら岩殿城守備隊へ回す兵力を可能な限り抑えてでも信玄に兵と家臣団の多くを割いたのだ。こうすれば『武田は信州連合軍を優先して叩き、その間は信繁と信龍が時間を稼ぐ』と敵が予想する確率は高い。

 

「もし戦況が思わしくなければ、甘利殿が当初考えていた通り、民衆を動員するもやむなしか……」

「さすがに人形ではいずれ気づかれるのは誰の目から見ても明らかじゃからのう」

「信玄だけでなく、甘利殿に板垣殿もいる。臨機応変に立ち回れようが……此度の我らの敗因が向こうにも当てはまらぬとも限らぬ」

「その心配はいりますまいて、御館様。甘利の老も信方めも、わしとは違って頭がようござる。わしや浅利・跡部のような失態は犯しませぬ」

 

 信繁が今回気づいた武田軍の別の弱点。これまでの戦いとは違う戦い方に順応できていないという点が、果たして信玄の方にも顕在化していないかどうかが信繁の懸念だった。

 それを虎昌は笑って否定した。ただその裏で、自分は信繁の考えを読み切れずに前に出過ぎて浅利や跡部の方に気を回すことができなかったことを、不甲斐ないと嘆いていることに気づかない信繁ではない。仮にも小笠原や諏訪などとは違って北条の五色備えの一角を相手にしていたのだからと口にしようとして……やめた。信繁にしても虎昌にしてもそのようなものは言い訳でしかなく、そんなものを口にして慰め合うことに意味を感じない。

 

「左様か。なら私も虎昌殿も揃って説教は免れまいな」

「御館様はまだようござろう。信玄様の取るに足らぬ可愛らしい嫌味があるか、信廉様のお優しいお気遣いの言葉があるか、信龍様の頼み事の1つ2つをこなせばよいだけじゃ。それに比べ、わしなど甘利の老はともかくも信方めがこれをいつまでもグチグチネチネチと言ってきそうで気分が滅入ることこの上ない」

「それも板垣殿の愛ゆえ。甘んじて受けるがよろしかろう」

「薄気味悪いことを申されますな。趣味が悪うござるぞ、御館様」

「ふふ……とにもかくにも互いに厄介な相手がいることは確か。なればこそ、ここいらで挽回せねばな」

「うむうむ。まったくじゃ」

 

 慰め合うより愚痴でも吐き合った方がよほど自分たちらしい。信繁と虎昌は言わずとも考えずとも、もはや自然とやり取りを交わす。

 ひとしきり笑い、信繁は頃合いを見計らって膝を掌で叩いた。先ほど虎昌がそうしたように。

 

「信玄が破れることはないと思うが、万に一つはある。その際は民衆を動員する。これはもう致し方ない」

 

 色々と策は重ねたが、結局のところ、信玄たちには最低条件でも勝ってもらわねばならない。

 

「なに、信廉様もおられる。とは言え、笹尾砦もそれほど頑強というわけでもござらん。あまり長く持つとは考えない方がよろしかろう」

「うむ。最初に笹尾砦を無傷で渡しておいたのも、可能な限り砦が損傷するのを防ぐためでもある。信廉の奇襲による奪還の際に損害は出たろうが、しばらくは何とか持つだろう」

 

 諏訪勢は三千。信廉勢は一千ほど。攻城戦を行うにも少々頼重としては攻め難いだろう。長時の救援に行こうと背を向ければ背後から追撃されるのは目に見えているし、偽の地図を渡されて正確に七里岩の隠れ場所を把握していない諏訪勢からすれば、どこから奇襲を受けるかもわからない以上、迂闊には動けまい。

 

「西方が崩れるようなら私の策はどうにもならん。そのために西方には主力と家臣団の多くを割いた。我ながら大胆な賭けに出たものだとは思う」

「しかし信玄様ならやってのけると、そう信じておられるのでござろう?」

「無論だ」

 

 信玄自身が充分だと言っていたこともあり、口で言うほど信繁は心配していない。信繁の敗走に関しても信玄とて顛末を佐五から聞いて敗因がどこにあるかを分析していることだろうから、同じ轍は踏まないように指揮を執ってもくれると信じている。問題があるとすれば、信繁に対して随分手厳しい面がある信玄だが、素直でない性格なので内面で心配し過ぎて下手を打たないかというところか。いちおう、心配せず西方の状況を確たるものとするようにと伝えておくよう佐五に言付けてあるのだが。

 

「さて。虎昌殿、我らの策、敵もさりとも本命が何かに気付いておらぬとは思えまい?」

「いや、長時めはまだ気づいておらぬと見る。頼重は気づいていてもおかしくはござらんが」

「ふむ。では北条は? 父上というこの上ない暴君の手本がいたゆえ、演技には自信があったのだが」

「御館様の暴君ぶりはなかなかでござったが、はてさてあの若いのと化物が今も騙されたままでいてくれるかというと……ちょいと思い難いのう。相手は上杉の大軍を前に半年もの間を耐え抜き、最後には兵力差ではるかに勝る相手に挑んで蹴散らした将じゃ。口先ばかりの長時やら慎重すぎて臆病者の頼重やらと同列に並べて語るは愚というもの」

 

 腕を組んで難しい顔をする虎昌。罠にはめる前の攻防の指揮、そして罠にはめた一連の信繁の言動を顧みれば、自分でも信繁を警戒すると続けた。信繁もそれを聞くまでもなく、綱成と元忠相手に気づかれていないなどと考えて動く気はないし、仮にそうだとしても実際には警戒されていることを前提に動くべきとわかっている。

 

「上杉が来なければもう少し気付かせずにいられたかもしれぬな」

「そうじゃのう。上杉はおそらく何の妨害もなく進軍しておりましょうからな。本来、甲武国境を守る大村衆と御岳衆がいないことにはもう気づかれたと考えた方がよさそうじゃ」

 

 敵が武田の動きをどう見ているかはわからない。特に北条方には『信玄が早々に信州連合軍を打ち破って兵を回すことが目的』と思っていてほしいのだが……さすがにそろそろ怪訝に思っているのではないかと信繁も考えている。

 

 

 

 実のところ、信玄率いる武田軍主力を東部に回すことなど、最初から無理と判断しての作戦なのだから。

 

 

 

 信繁と信龍がしていることは確かに時間稼ぎだ。そこに相違はない。

 ただ何のための時間稼ぎかと言えば、主力をこちらに回すためではない。

 待っているのは、別のものだ。

 

――そしてその待ち人は、未だ来ず。

 

 ある意味、これが最大の賭け。他のすべては、これを隠すためのものであるとすら言ってもいい。

 

「この戦、最大の敵はやはり北条」

「諏訪は厄介なれど、北条に比べるまでもなく、小笠原に至っては言うに及ばず」

 

 当初から北条こそを最大の脅威として認識していたからこその作戦だ。上杉の介入は想定外とは言え、それでも信繁は北条こそが厄介だと考えている。綱成と戦い、その捉え方はより強まったと言っても過言ではない。

 

「信龍の方はどうなのであろうな……岩殿城は持ち堪えているのかどうか」

「情報がなかなか来ないとなれば、おそらくは北条が風魔を使って監視を破っているか、早馬を途中で潰しておるか……ぬかりがないのう」

 

 信龍や岩殿城だけではない。小山田、氏康、綱成、上杉……知りたいことは多すぎる。

 とにもかくにも情報が足りない。

 そこからしばらく、2人から会話が消えた。信繁も虎昌も腕を組んで目を閉じ、ただひたすらに待った。虎昌の場合はこういう時考え込むより寝てしまった方がいいのか、うつらうつらと舟を漕いでいる。信方がここにいたらこんな状況でよく寝れるものだと呆れるなり怒鳴るなりするところだろうけれど、特に信繁は咎めることはなかった。

 

(今この間も信玄も信廉も信龍もそれぞれの役割を全うしていると思うと、この身は誠に不甲斐ないものよな……)

 

 信繁は自身が気づけなかった鈍りを少しでも取り戻そうと、過去のことを思い返した。それだけで鈍りが取れるなどとは思ってはいないが、それでも次の戦いではもうこのような失態は許されないのだからと。やはり思い起こそうとするのならば、今回の綱成とのやり取りだろう。あれはこの世に再び生を受けて以来、最高に昂ぶった。残念ながら前世の最後となった、あの川中島・八幡原での上杉政虎との戦いには及ばずとも、綱成との戦いはかつての『武田信繁』を刺激するには充分な相手であった。

 

(これで『彼』が見つからなんだ場合、源四郎殿と大村衆・御岳衆のみでやらねばならぬことになる……兵力は多く見積もっても一千にも届くまい。果たしてそれで奇襲をかけたところで綱成殿を退けられるかどうか)

 

 日和見をしている小山田の翻意は元より期待していない。

 

(綱成殿はさて追撃をかけてくるかな? 追撃をかけてくれていた方がこちらとしてもありがたいのだが)

 

 御坂山の合戦は時間稼ぎのためとは言え、綱成と元忠が相手と知った時点でどこまで稼げるかは家臣団たちもかなり懐疑的だった。

 

 

 

 そこで虎泰が提案したのが、綱成と元忠の捕縛による、北条軍との停戦交渉。

 

 

 

 北条綱成は今の北条にとってなくてはならない存在。彼の生死は北条にとって北条家の今後を左右すると言っても過言ではないだろう。だからこそ、第一目標を時間稼ぎとしつつ、綱成と元忠、特に綱成を捕縛する機会を作ることが、信繁本隊に任された第二目標だった。

 あの炎の罠は勘助の発案だ。虎泰や虎昌を始め、家臣団は信繁の風評を悪くしかねない案については否定的で、それは信玄も例外ではなかったが、信繁は構わずこの策を実行に移した。前世の『逃げ弾正』に当たる虎綱春日がいたのは偶然だったものの、彼女の矢の狙撃による挑発も的確だったおかげで見事に綱成と元忠を誘い出せた。本来ならばまず炎の罠、これが駄目なら撤退戦を行いつつその機会を常に探り、源四郎・『彼』・大村衆・御岳衆と連携して綱成を追い込む算段だった。

 源四郎には大村衆・御岳衆を率いて『彼』を探させているが、元々穏行に優れたわけでもない者ばかりなので、源四郎に付いていく数名を除いて大半の大村衆・御岳衆は最初から御坂山塊に息を潜めさせている。当初は彼らも御坂山の合戦に動員することも考えていたが、信繁は敢えて彼らを動かさなかった。今となってはそれは正しい判断だったと思っている。風魔の忍びの優秀さを考えると、下手に彼らを動かしていれば、例え撤退の際の混乱を利用したところで彼らの目を誤魔化して再度御坂山塊に隠れさせることはまず不可能だったろう。彼らは精鋭であり、そして此度の戦においては大事な『伏兵』。

 源四郎が『彼』を見つけ出せても出せなくても、彼らと合流させる手筈となっている。それまで風魔衆に見つかるわけにはいかないのだ。

 

 

 

 この伏兵の目的こそ、綱成勢の挟撃。

 

 

 

 ……が、それも信繁の敗走で失敗に終わった。

 

(だがまだご破算というわけではない。綱成殿が国中へ侵攻したのなら、まだまだ手はある)

 

 国中こそ武田の庭。やりようはある。

 だが先の戦で信繁のことを警戒したのであれば、綱成が躑躅ヶ崎館へ向けて追撃をかけてくるかは微妙なところだった。氏康と綱成が二手に分かれて侵攻してきたのは、そもそも小山田を警戒してのこと。小山田のことがなければ、岩殿城を包囲する部隊だけを残し、氏康も早々に国中へと侵攻しただろう。その小山田が郡中で動かないままの場合、綱成も容易に進軍することはできないだろう。

 ただ綱成が進軍するかしないかという点については、上杉軍のことがなければ特に問題ではなかった。単に信繁本隊と源四郎勢が綱成勢を挟撃する場が国中ではなく郡中になるだけだからだ。だが上杉軍の存在によって郡中にいてくれてはむしろ都合が悪くなってしまった。挟撃するにも躑躅ヶ崎館を僅かな守備兵だけにして出払い、郡中にまで進撃するのはあまりに軽率と言うしかない。国中にまで来てくれていた方が館との距離も短くて済む。

 

(信有殿も日和見を続けるのは時間の問題……何かしら『誠意』を見せねば、小山田は我ら武田にも北条にも睨まれる存在になる…………いや、待て。それが狙いか?)

 

 小山田が動けば武田にとっては苦しい戦いを強いられ、北条に恩を売ることもできるだろう。逆に、小山田が動かないと北条軍は容易に兵を進められず、武田が北条を退けることができた場合も言い訳が立つ。『正面から戦っても我が小山田の兵力では不利。ゆえ、敢えて兵を動かさないことで北条軍の侵攻を鈍らせたのです』と。

 だとしたら大した狡猾さである。暴君であった信虎を相手に立ち回った信有なので一筋縄にはいかないことは信繁もわかっていたけれど。

 

(……しかし信有殿がそんな謀を用いるものだろうか? あの御仁は良くも悪くも甲州武士。どちらかと言えば力技であると思うが)

 

 決して愚かというわけではないが、かと言って武田と北条に挟まれながら計略で郡内を守ってきたと言えるほどでもない。信虎が吼えても動ぜずに冷静に返すのが早雲なら、吼え返すのが信有という男だ。

 考えてみれば、そんな彼がここまで静かにしていることが不気味に思えてくる。

 

(この上、上杉まで攻め込んでくるとは……勝沼の守備隊はせいぜい数百……数日防げればいい方――む。しもうた……!)

 

 そこではたと気づいた。綱成が勝沼に侵攻する可能性に。

 上杉が出てきたことでますますその可能性は高まったと言えよう。

 

(いかんな……綱成殿に勝沼に籠られたら上杉も安易には攻められまい。何とかできぬものか?……穴山殿に兵を動かしてもらうか? しかし今川に対する警戒はどうしても必要。穴山殿という楔を外せば今川がどう動くか……)

 

 武田と今川は友好関係にある。だが今川義元が友好を結んでいたのは武田信虎だ。その信虎を追放した信繁に対し、『盟友たる武田信虎殿の救出』などを名目にされる可能性がある。そんなもの、あからさまに形だけの大義名分だが、父を追放した信繁に大義があるのかと言えば、そうとも言い難い。どちらが正しいかは人の見方によることだろう。穴山信友は信虎の頃より武田と今川の外交を取り成しており、今も今川との交渉を続けている。その信友に出陣を要請することは難しい。

 

『あ、あの……!』

 

 そのとき、軍議の間の外から声がかかった。聞き覚えのある、自信なさげと言うか引っ込み思案と言うか、声を上げることさえ躊躇っているかのようなか細さ。虎昌はその声がする前にすでに目を開けていた。さすがは武田最強の猛将と言うべきか。仮眠していても気配には鋭い。

 

「虎綱殿か」

『はいぃ……!』

「やれやれ、随分と気弱な娘なことじゃ。入って参れ」

『はい。あの、失礼、します』

 

 そう言って襖が開くと、そこには深く頭を下げる少女。

 

「面を上げよ」

「は、はい」

 

 決して怒っているわけではないのだが、虎昌は大柄で声も低い。気の弱い彼女にとってはそれだけで畏れてしまう。背に弓を背負う彼女は静かに頭を上げ、虎昌の視線に気づいてすぐに俯いた。

 

「虎綱殿。何用かな?」

「あ、あの、御館様……その、私如きに『殿』は……おやめ頂けると……」

「む? ああ、そうか。いや、すまない。つい癖でな」

 

 前世では虎綱と『虎綱殿』『典厩様』と呼び合っていたこともあり、懐かしさもあってそう口をついて出てきたのだが、確かに今の春日はまだ一介の兵なのであり、仮にも武田家当主から『殿』呼ばわりされては何事というものだろう。信玄に知られたらまた説教の1つもありそうだなと思いつつ、春日の畏れようにため息をつく虎昌と苦笑し合う。

 

「して、何用か?」

「は、はい。今しがた、御館様の小姓の、えっと、佐五という子が戻って参りました」

「それを先に言わぬか」

「も、申し訳ありません!」

「よい、虎昌殿。すぐに通してくれ。と言うより佐五ならそのまま来るだろうに、如何致した?」

「それについても申し訳ありません! 激しく咳き込まれていましたので、代わりに私が伝え聞いて今は別室に……!」

「……そうか」

 

 佐五らしいと言えばらしい。大方、休みなしでこの雨の中を舞い戻って来たのだろう。早馬ならば鍛えているが、佐五はあくまで小姓でしかない。雨の中、休みなしで馬を走らせ続けるのは難儀なこと。肺を病むかもしれないというのに律儀なところは前世と変わらないらしい。

 

「大した小僧でござるな。この雨の中を休みなしで舞い戻ってこようとは」

「佐五は幼きより私の遠駆けや鷹狩にもついて参ったからな。身体こそまだまだではあるが、馬の扱いに関しては信玄や信廉、信龍にも劣らぬ」

 

 信繁が前世で最後まで傍に居させた従者。今世でもまだ10を過ぎたばかりながら変わらぬ忠義を見せる佐五だからこそ信繁は傍に置いていた。信玄たちが皆女性ということもあってか、弟のようにも思いながら。だがそのような温情だけをかけていては不平不満が生まれるもの。佐五自身が信繁配下として相応しい力量を望んだということもあり、信繁は佐五に自らの戦技や知識を惜しむことなく教えていた。

 信繁は無理をさせてしまったかと思いつつも、今は佐五がそこまでして持ち帰った情報を聞き出すことにする。

 

「信玄様率いる主力は武川へ向かって進軍を続け、先鋒の甘利様や原様方は有利に事を進めておられるとのことです」

「さすがじゃ。西方の心配はどうやら必要なさそうじゃのう」

「このままその状態を維持してくれればよいのだが」

 

 結果はまだ不明だが優勢なのは間違いないようだ。小笠原勢は釜無川とこれに合流する川に阻まれて撤退も遅々としており、中山砦から救援に出てきた部隊も甘利隊によって妨害されているらしい。撤退するならさせればいい。深追いは禁物であることは言い含めてあるし、元々兵力に差がある以上、短時間で決着をつけなくては逆にこちらの損耗が増えてしまうこともある。

 

「この後は中山砦を奪還して甘利の老が籠り、川を挟んで対岸に信玄様が布陣。さらに七里岩の上には高松。三方を押さえて長時めに圧力を加える陣容でござるな」

「うむ。七里岩を通ろうとしても入口に位置する笹尾砦を信廉が抑えている以上、高松が攻撃されることもなかろう」

「長時めが信玄様や甘利の老らを引きつけている間に、頼重めが七里岩の北側から回り込む……その可能性も低いでござろう」

「笹尾砦を我らに奪還されては、信濃からの補給に難が出る。それゆえに頼重は笹尾砦を離れるわけには参らぬ。早々と笹尾砦に後退した様子からしても、元々今回の甲斐攻めには乗り気でもなかったであろうし、山本殿が高遠に接触したことも明かしてある。甲斐深く進攻している間に高遠に諏訪の地を取られては敵わぬであろう」

「御館様の策により偽の地図を渡され、七里岩の各所に伏兵が潜んでいるやもしれぬ、という懸念も持たせておるしのう。わざわざ頼重が積極的攻勢に出ることはないと見てよしじゃ」

「小笠原勢の士気も少なからず落ちたはず。ましてや総大将が真っ先に逃げ出したとあれば尚更であろう」

 

 逃げ出したという点では今回の信繁も同じなのであまり得意げに言うことはできず、信繁は自嘲する。

 釜無川を利用して兵を運ぶという手もあるが、すぐそばの七里岩の上に高松勢がいるのではそれもできないだろうし、この雨では釜無川も水位が上がって流れも激しくなろう。山手から迂回するという手も中山砦を落とさねば背後を気にしなくてはならないことになる。ましてや武川の合戦で山手から武川衆が押し寄せたという一件があるから、山に武田勢が隠れていると流言でもまくか、もしくは罠を設置しているところでも故意に見せてやれば、下手に部隊を割くこともできまい。三方を囲まれた状態で正面から攻め立てるか、罠や背後から襲われる危険を背負ってでも迂回する手を取るか。小笠原と諏訪の分断こそが狙いだったのだというのはさすがに気付いただろうし、ならばもはや小笠原勢単独で挑もうという愚を犯しはしまい。諏訪勢が現在包囲する笹尾砦には信廉勢一千がおり、これを放置して侵攻するわけにもいかないわけで。笹尾砦を放置して強硬に進軍しても、ならば背後から信廉勢一千が襲いかかり、四方から武田軍が襲いかかることになる。どんなに長時が愚かでも、それくらいはわかるだろう。

 

「頼重めも今回のことでより慎重になるであろうからな。この布陣が伝われば、早々笹尾砦から動こうとはせんだろうて」

「逆に言えば、笹尾砦を奪取されると面倒なのだがな。笹尾砦への攻撃は熾烈になる可能性が高い……」

「信廉様がご心配で?」

「……案じないはずがあるまい」

「もっともでござろうな。しかし御館様、信廉様を育てたは守りに秀でたあの上原殿じゃ。その教えを受けておるのならば、信廉様を攻略するはそう簡単ではなかろうて」

 

 笹尾砦はさほど規模も大きくなく、岩殿城とは違って頑強というほどでもない。小笠原と諏訪の兵力を相手にどこまで粘れるかは問題だ。

 ただ信廉と共に笹尾砦に籠っているのは、亡き4将のうち山県・馬場・内藤の一族たち。彼らは長らく武田に従い、信州勢と戦ってきた経験がある。頼重と長時のことをわかっているのだし、経験の浅い信廉をしっかり補佐してくれるだろう。それに信玄も信廉のことは決して身捨てることはないだろうから、何かしらの手は打ってくれている可能性も高い。

 

「私などが口を出すべきではないかもしれませんが……御館様、信玄様と信廉様なら必ずご無事でお帰りになられると思います」

「……そうか。虎綱殿がそう言うなら安心してもよいか」

「お、恐れ入ります! ですから、あの、『殿』は……」

 

 春日は顔を赤くしてますます小さくなっていき、声も最後の方がよく聞き取れないくらい。虎昌は大仰に肩を落として呆れていたが、その呆れの対象は春日ではなく信繁であり、信繁もそれを自覚はしていた。が、どうにもやめられない。

 存外、面白い。

 なるほど信玄が自分をからかうのはこういう感覚なのかと、妙に納得してしまう。

 春日としてはただの1人の兵に過ぎない自分が、偶々目を付けられて小隊級とは言え隊長を任されただけでも恐悦至極だというのに、そこまではまだいいとしても、いきなり主君の前に御目通りを許され、かと思えば主君と重臣中の重臣を前に敬称で呼ばれ、さらに伝言のために来ただけなのに退出せよと言われることもないどころかそのまま話をしているときた。さすがに勝手に退出するのは無礼極まりないためそれもできず、居心地が悪すぎる。

 

「ははは、こちらの虎綱殿は以前にも増して謙虚よな。ふむ、これはこれでよいか」

「~~~~!」

「……若」

「すまんすまん。虎綱春日、下がってよい」

「は、はい。失礼いたします」

 

 ゆったりした動きが多い春日だが、このときばかりは今までで最高の赤い顔を見せて素早くそそくさと下がっていく。その様子を見ていると、虎昌が半目で見てきて無視し続けるのもなかなか難しかった。

 

「……昔は女子の虎胤や昌盛、虎繁らを見るだけで困惑されていた若じゃったというに。この余裕っぷりは何でござるか?」

「昔は昔だ。さすがに慣れた」

 

 前世では男であった彼らを知っているからこそ、女性になっていることに困惑したのは信繁もよく覚えている。正直なところ、自身の傅役に信方や昌辰が指名されなくて良かったと、あのときばかりは暴君の父にも感謝したものだ。

 

「若はああいう娘が好みかな?」

「まあ板垣殿とどちらがよいかと言われれば、私は虎綱殿を選ぶかな」

「ゴホン!……何故ここで信方めの名を上げなさる?」

「はて。何故であろうな?」

 

 互いに一物を抱えた顔で視線を交わす。状況が状況なのにこのやり取り。信繁もいい感じに虎昌の性格が感染っていると言えよう。とにもかくにも不毛な睨み合いはすぐに終わった。

 

「御館様!」

 

 無礼は承知の上だとばかりに襖を開けて飛び込んできた満頼によって。

 それまでのことなど知らんとばかりに2人は視線を外したり咳払いをしたり。満頼も何かしら変には思ったようにしばし信繁と虎昌を交互に見やっていたが、ややあって進み出て膝をついた。雨のせいで髪が濡れているが、手拭いは館の者から受け取っていたようで、滴るほどではない。生憎と鎧を着ているので艶めかしいかと言えばあまりそういう色気もなかった。あまり満頼自身が色気やら自身の身なりやらを気にしない方なので尚更に。だからと言ってそれを口に出すのは信繁も虎昌も無粋とわかっているので言いはしないが。

 

「多田、戻ったか」

「は。お待たせいたしまして申し訳ございません」

 

 信繁の許可を得て、満頼は地図を挟んで虎昌の対面に移動する。信繁は床几に座した身を乗り出し、虎昌と共に満頼が地図上に記していく印を見逃さぬとばかりに注視した。

 

「まず北条ですが、北条綱成が追撃を開始したことを確認。ただ偵察と思われる兵が御坂山を下った後に東へ移動したのを見たと配下から報告がありました。この兵の動きからして、侵攻目標はこの躑躅ヶ崎館ではなく、おそらくは勝沼かと」

「……さすがは綱成殿。然ればこそそこに目を付けるか」

「賢明でござるな。わしらとしてはもう少し愚であることを期待したいところであったが」

 

 上杉が侵攻を開始したことは北条の方が先んじて知っていたと見るべきなので、上杉と北条が結びつく可能性も低い今、勝沼館という戦略拠点を抑える綱成の行動は適当だ。

 

「後背は突けそうか?」

「残念ながら難しかと。後尾を多目元忠が務めておりますゆえ」

 

 抜かりはないということかと僅かに顔を落とす。背後からの奇襲も難しそうだ。ここから出陣しても一千にも満たない兵力ではさすがに先の戦のように上手く事は運ばないだろう。

 

「岩殿城にては三ノ丸まで落とされたようです」

「なに、もう三ノ丸が落ちたと!?」

「は。信龍様と上原様は二ノ丸まで後退。続けて籠城の意思を示しておられるご様子」

 

 虎昌は守将の昌辰と岩殿城という難攻の城の組み合わせがこんなに早く攻略されているというのはさすがに驚きだったようだ。しかし信繁は想定外というわけでもなかった。前世の『北条氏康』を知っているからこそ、北条の支配を確立させた『北条氏康』と同じ魂、その片鱗がすでに見えているということなのだろうと納得させられるだけだ。

 頑強な岩殿城だが、揚城戸の門が落とされてしまえば、あとは他の城とそう大差はない。下手をすれば笹尾砦よりも先に落とされかねない。

 

「また上杉軍の侵攻は御承知かと思われますが、さらに良くない情報が」

「何じゃ?」

「小山田信有殿、岩殿城に向けて出陣の由。その数、二千」

 

 虎昌が再び膝に掌を叩きつけ、信繁は無言のまま目を閉じた。

 上杉が二手に分かれて侵攻しているのはすでに知っている。岩殿城に向かったのは六千。対する氏康勢は五千で、岩殿城攻めで兵力は損耗していると考られるが、小山田勢を加えると上杉に充分対抗できることだろう。郡中の地の利は小山田勢にあることだし、その意味でも北条方の優位性は増す。

 

「上杉と北条の結託はないと見て、両者がぶつかり合うのなら別に構わんが……御館様、これをどう見られる?」

「……上杉は北条を恐れている。川越夜戦のことがあるゆえ、兵力が互角でも不安は拭えまい。とすれば、まともにぶつかり合う気はないのやもしれぬ」

「私も御館様のお考えに同意いたします。おそらく、岩殿城に向かった上杉軍の目的は北条軍の足止め。本命は国中へ侵攻した部隊による、我ら武田家の制圧・甲府攻略にあると思われます」

 

 氏康と綱成の目的も甲斐と武田の制圧。目的がぶつかる中で上杉としては北条軍とできれば戦いたくないと考えれば、武田軍を如何に利用するかにある。

 岩殿城には信龍や昌辰以下一千が籠城。仮にだが、岩殿城がまだまだ持っていれば、上杉軍は国中へ全軍を向けたかもしれない。だが現実には岩殿城は三ノ丸まで落とされており、落城の公算も高くなってきた。岩殿城が落城すれば氏康も国中へ侵攻することは間違いないのだから、そうなれば上杉軍は北条全軍と全面衝突を覚悟せねばならない。上杉軍が北条軍とできるだけ戦いたくないとするのなら、どうにかして氏康を岩殿城に縛り付けておく必要があり、岩殿城へ向かった上杉軍六千は北条氏康本隊の足止めと考えることができる。

 

「さすれば上杉軍は北条軍とまともにやり合う必要はありません。北条軍が攻めてくるなら引き、岩殿城攻めを優先するならこれを妨害するだけです。岩殿城の信龍様や上原様と連携すれば、さらにやりようもあるかと思いますが……」

「国中へ侵攻している以上、上杉に我らと連携する意思はないと見てよかろう」

「関東管領の軍が汚い真似をしおるわ」

 

 それでも国中へ侵攻した上杉軍四千の方は綱成勢とぶつかる可能性が高い。上杉軍がこれに対してどう動くかはわからないが、綱成のことだからそのあたりは理解した上で勝沼へと進軍したのだろう。

 

「先に到達しそうか、綱成殿は?」

「間違いなく。後尾を多目元忠に任せ、北条綱成は先行しているようですので。兵が少ない分、行軍は早うございます」

「そうか」

 

 信繁は組んでいた腕を解き、今一度地図に目を落とした。二手に分かれる上杉を示す矢印を見つつ、上杉にしてはなかなか考えている動きがどことなく気になった。

 

「……満頼。上杉軍の将は誰ぞ?」

 

 兵力の割き方も絶妙とまではいかずとも良く考えられた堅実な比率と言ってもいいだろう。漁夫の利を得るやり方は気に食わないが、これも戦略だ。相手の好むやり方で戦ってやる必要などない。極力兵の損耗を押さえて利を得ようとするのなら、この手法は決して悪くない。

 だが北条軍の足止めをするにしても、相手は『相模の子虎』北条氏康だ。信繁が考える上杉軍の動きなど、氏康のことだから当然読めていると見てもいいだろう。ならば相手の思い通りに動いてやる必要などない。何かしらの対策はするだろう。それでも北条軍の足止めをするというのなら、それも考慮に入れた上で兵を進めたり引いたりできる将の存在は必要不可欠。北条軍とあまりに離れた所に布陣しても北条方にすれば怯えて足を止めているだけにしか見えず威圧に欠けるし、かと言って近づきすぎれば氏康の張った罠でもあれば即座にかかってしまいかねない。その辺を考えて的確に兵を動かせる将がどうしても必要になる。

 しかし……

 

「岩殿城に向かう隊を率いるは、成田親泰・長泰親子でございます」

「…………」

 

 『肩すかしを食らった』とはまさにこんなときに使うのだろう。

 

「どうかなさったか、御館様?」

「……成田顕泰・親泰と言うならともかくも長泰か」

 

 信繁が手で目元を覆うと、虎昌も満頼も訝しげな顔を浮かべる。

 この2人は知らなくても仕方ないが、前世において信繁は彼らがどういう人物だったかを知っている。当初、上杉憲政に仕えていたが、北条氏の力が強まると長泰は家督を継いだ途端に北条氏に寝返っている。そこまで素早く鞍替えしたとなると、もはや父の存命中から北条氏への帰順を考えていたと推測していいだろう。

 ちなみに。信繁亡き後のことなので信繁も知らないことであるが、長泰はその後も上杉謙信に寝返り、さらに北条氏に寝返り直すという、何とも尻の軽い判断をしているのである。

 

「長野業正はどうした?」

「それが、彼の将の姿は見えません」

「何と。ではもう一方の隊にいるのか? そちらは誰が率いている? まさか憲政自身と言うわけではあるまい」

「それが少し妙なことでして……」

「妙とはどういうことじゃ?」

 

 

 

 

 

「国中に侵攻してきた上杉軍を率いるは、『葛城 壮馬』と名乗る者でございます」

 

 

 

 

 

 

「降ってきたか」

 

 馬に乗りつつ、少年と青年のちょうど変わり目に差し掛かったようにも見える将が、どんよりと曇った空を見上げる。山中を進軍しているので見上げた空は周囲の木々から伸びた枝や葉で隠れており、降ってきた雨も凌げている。休息は適度に取っているし、この程度なら進軍に何らの支障もないだろう。

 そこで前方から馬の蹄が地を蹴る音。隊列の横を走り、近づいてくる。鎧の上に羽織を纏い、頭もすっぽりと覆う布で隠している。

 

「状況は?」

「北条氏康が陣を払った。岩殿城の包囲を残しつつ、我が方の別働隊を迎え撃つように陣形を取っとる」

 

 岩殿城に向かわせた上杉軍六千は間もなく岩殿城付近の山中にさしかかる。山を下りれば岩殿城はすぐだ。だが山を下りると左右は小高くなっており、氏康はそこに陣を張っているらしい。上を取って真下を通る上杉軍を狙い撃ち、というところか。

 

「小山田は?」

「ようやっと動きよった。二千の兵で岩殿城に向かっとるわ」

「そうか」

 

 わかっていたこと、と言わんばかりの、あっさりとした返しだった。むしろ彼よりも周囲で聞き耳を立てている兵たちの静かなざわつきの方が目立つ。

 

(……これでは話にならへん。将がびくついとると兵も臆病になるっちゅうことか。上杉憲政……利用するんはホンマにこいつでええんやろか?)

 

 内心で青年も不安をかき立てられる。その不安が敵によるものではなく、味方の臆病ぶりから起こるものなのだから、困ったものである。

 するとそんな青年の不安を察したらしく、偵察の兵が小さく『壮馬』と呼んだ。

 

「すまんすまん。で?」

「北条綱成は御坂山にて武田信繁を破った後、勝沼へと進軍」

「武田信繁に動きは?」

「躑躅ヶ崎館に逃げ帰ったみたいやわ」

「ふうむ……御坂山での戦いは見事なものだったが、さすがに500じゃ無理があったということか」

「武田将兵がついていけなんだだけやろ。北条綱成の敗北は充分にありえたで」

 

 壮馬と呼ばれた青年の呟きに、相変わらず布で覆ったまま顔を見せないままの偵察兵が返した。壮馬の目は少しだけ細くされ、何か思考していることが偵察兵にも見て取れている。

 他にも偵察兵は甲斐西部の戦いについても言及した。武田軍が押しているようだが、壮馬の予想通り彼らはこちらへと向かう余裕はないらしく、武川に留まっているらしい。一揆が実は見せかけであったり、綱成相手に渡り合ったりと、随分と武田軍が従来の力押しに頼らず、硬軟を使い分けていることには少し意外だった。が、それでも壮馬が率いる上杉軍四千の敵となるは、やはり武田信繁と北条綱成だろう。

 

「武田の迎撃がまったくないというのが気がかりだな……」

「俺たちの動きを武田軍は掴んでいなかったんやろ? せやったら甲武国境の守りもすべて別の場所に注ぎ込んだんとちゃうか?」

「あほんだら。ならばどこに行ったのか、というのが知りたいことだろう。それに武田信繁の時間稼ぎにも疑問が残っている」

 

 各地に飛ばした偵察や忍びからの返答は、相変わらず『わからない』。だからこそ上杉軍は常に警戒を厳にしての進軍だった。川越夜戦のことがあるからか兵たちの士気はやはり高くなく、行軍の歩みもどこか遅い。壮馬が困っているのはまさに情けなさ。偵察兵もそんな兵たちに正直言ってイライラしているのだが、壮馬は別にそれでええと言うだけだった。

 

「大村衆と御岳衆が甲武国境の守りであったはず。なのに姿が見えない。各地の戦場に現れたという報告もなし。ではどこに行った?」

 

 逃げた可能性がないわけではない。

 ただ、大村衆も御岳衆も、地域の地侍が集まった精鋭集団。国人衆の力が強い甲斐において、彼らは武川衆などと同様、その地に根付き、その地に強い縁を持つ。郡内に固執する小山田氏とその点では同じだ。だから彼らが自分たちの領域である地を早々容易く捨てるとは思えない。

 

「大村衆と御岳衆に縁のある飯富虎昌は武田信繁の傅役。実質、武田信繁の片腕だ。その飯富虎昌が武田についている以上、大村衆と御岳衆が裏切るというのも考えにくい」

 

 武田当主の傅役と懇意の仲であるのなら、今後かなりの利益が望めるわけで。逃げてしまえばむしろ取り潰しであり、地域の民からの信頼も失い、もう戻れなくなってしまう。

 青年は引き続き大村衆と御岳衆の追跡調査を命じるとともに、また別の質問を偵察兵にぶつける。

 

「笛吹川の様子はどうだ?」

 

 偵察兵にしても周囲の兵にしても、またそれかと思う。壮馬は毎回、笛吹川の様子を事細かに聞いているのだ。

 雨が降り始めてきており、その勢いはだんだんと増している。おそらく夜の間は強く降り続けるだろう。

 

「元々急流やから流れも速く、まだ降り始めてそう経っとらんさかい、水位はさほど変わっとらんかったで?」

「視界は? 対岸は見えそうか?」

「まあ、まだ見えとったけど。それがどないしてん?」

「まだ、だな?」

「ほうやて。しつこいな、お前も。何を考えとんねん、壮馬?」

「いやなに。ちょっと度胸試しでも仕掛けてみようかと」

 

 口元に浮かんだ笑みは、果たして意識しているのかいないのか……偵察兵にはわからなかった。

 

「壮馬」

「なんだ?」

「あの性悪女の性格、感染ってへんか?」

「今の言葉は妄執に囚われた女のことということにしておいてやる」

 

 偵察兵が誰のことを言っているのかは明白だった。

 が、『彼女』は壮馬たちの『真の主』。抜かりのない『彼女』だから、こういう発言の1つもどこで聞かれているかわかったものではない。

 それ以上は言うな、と暗に告げる壮馬に、偵察兵も肩を竦めて黙った。

 

「『彼女』は自分らにとって大恩ある主君であることに変わりはない」

「わかっとるけどな。自分も別に嫌いっちゅうわけやあらへんし。ま、我ながらそこが困ったトコでもあるんやけど」

「そいつは同感や。お互い趣味が悪いことは確かだな。はっはっは!」

「笑い話とちゃうぞ壮馬、まったく……ほな、自分はこれで」

「休んでいってもええぞ?」

「いらん気遣いや。自分ら〝菊水衆〟はそこまでヤワやあらへん。ほなな。ここから先はより警戒せえよ」

 

 偵察兵は「それからお前の言葉遣い、気持ち悪いし微妙に上方の訛りが抜けてへんで?」とだけ告げて、踵を返して馬を再び走らせ始めた。

 

「余計な世話や……自分自身、東国の喋り方に時々背中がむず痒くなっとるっちゅうねん」

 

 折しも雨風が強くなってきた。そんな時に限って、雨風を少しなりとも防いでくれていた木々が途切れ、前方が開けてくる。どうやら麓まで下りてきたようだ。

 

(不安は尽きひんけど……まあ、何とかするしかあらへんか。これくらい何とかできひんようでは、久秀にも呆れられてまうやろし)

 

 山内上杉家に仕える軍師『葛城 壮馬』を将に、上杉軍本隊はそのまま止まることなく、国中へと侵入した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 満頼が口にした名に、信繁は首を傾げた。その名前には聞き覚えがあったからだ。

 

「葛城壮馬……? それは確か、毛利の軍師の名ではなかったか?」

「御館様。それはおそらく『赤城 綜真』ではないかと」

「勘助が言うておった男じゃな。軍師というよりは宰相に近いのじゃろう?」

 

 毛利の現当主である隆元直属の軍師。流れの軍師との噂で隆元より数年ほど年上と、各地を流浪していた勘助から聞いていた。曰く『毛利元就に志道広良あれば、毛利隆元に赤城綜真あり』。元就が当主を隆元に譲ってからというもの、京を挟んで距離が離れている甲斐にも彼の軍師の噂は届き始めている。

 

「御館様、それは『以前』にも存ぜぬ輩でござるか?」

「うむ。そのような名に覚えはない」

 

 そのやり取りに満頼は意味を図りあぐねているようだが、特に言及することはなかった。前世などと明らかな言い方をしては問題だが、だいたいこういうとき虎昌は今のように聞く。虎昌曰く、下手に内緒話のようにすると余計に疑わしいとのこと。実際こういう言い方をすると、大概の者は『子供の頃』のように勝手に解釈してくれる。まあ、普通に考えて『前世』などという話を聞いてすぐに納得する方がおかしいわけだが。

 

(まあ早雲殿が存命していたり、兄弟姉妹が逆転していたりすることもある世だ。私が生まれる前か、もしくは後の世の人物か、それとも前世とは大きく異なる能力や経緯を持った者か)

 

 前世の全てが当てはまるわけではないのだから、何にでも前世に当てはめて考えるのは目を曇らせるだけだ。前世は前世。1つの判断材料にするのはいいが、決めつけると痛い目に遭いかねない。信繁はその名を覚えておくに留め、満頼に続けて毛利の軍師と似通った名の上杉の軍師について可能な限り調べるように言付けた。

 

(にしても赤城綜真に葛城壮馬……あかぎそうま、かつらぎそうま……う~む、妙にしっくりくるな)

 

 まるで自分の名を呼ぶかのように。歩いていて後ろから呼びかけられたら返事をして振り向いてしまいそうな、違和感がまるでないという違和感。我ながら妙な表現だとは思いつつも、しかしそれがしっくりくる。

 とにもかくにも、まさか毛利の軍師、それも現当主が最も信頼してそばに置いているほどの者が遠く離れた東国の地で他家の軍師をしているはずがない。仮にそうだとしても、もう少し名前を捻るものだろう。そんなことがあればもっと早く伝わってきていてもいいはずだ。

 名前が似通っているだけの別人というのが一番可能性としては大きく、信繁はその人物の将器の程はともかくも自身の中の妙な感覚はあまり気にしないことにした。

 

「とりあえず岩殿城に向かった方を『別働隊』、国中へ侵攻してきた方を『本隊』と仮定して、別働隊の方が北条を釘づけにできるかどうかは疑問だな」

 

 長泰の尻軽さがこの世でも事実と考えると、氏康にこの場で寝返ってもおかしくないし、親泰にしても氏康に比べるとどうしても見劣りする。仮に前世とは逆にかなりの有能だとしても、これまでにそのような話を聞いたわけでもない。有能だとしても氏康相手に戦の駆け引きができるかどうか……ただ岩殿城を攻めるにしても氏康の意識が少しなりとも上杉軍別働隊の方に向かうのなら、今以上の熾烈な攻撃を岩殿城に加えるのも難しいだろう。

 ただ、だからと言って岩殿城の守備が長く持つというわけではない。三ノ丸まで落とされた今、氏康の采配次第ではすぐにでも落とされたところでありえないとはとても言えない。今のうちに何らかの手を打たねばならないのはいけないのは変わらずだ。

 とは言え、有効な手立てがあるかと言えば……正直なところ、ない。

 

「……ここで1つ動かせる兵力があればな」

「源四郎め……まだ戻らぬか」

「見つからなくとも状況次第では帰還せよと言い含めてあるゆえ、さすがにこの状況となれば源四郎殿も帰還の途に着いていると思うが……なにぶん穏行となれば移動も時間がかかるのはやむなしか」

「御館様。ここはやはり穴山殿に出兵を要請されては?」

「ならぬ。ここで今川に介入されたらそれこそ厄介に過ぎる。上杉と結びついた例がある以上、ここで今川が再び上杉と結託する可能性は捨て切れるものではない。信友殿という楔を外すわけにはいかん」

「しかし北条が甲斐に攻め込んだことで、今川は河東一帯を北条から取り戻せる機会でもあるわけです。今川にとって河東は奪われた地。甲斐に攻め込むよりまず河東一帯を取り戻す方にこそ注力すると考えられますが」

「早雲めがそれを考慮しておらぬはずがないわい。現に早雲めは小田原から動いておらん。河東の地に何かあればそれこそ早雲が動くわい。如何に義元殿と言えど、取り戻すは困難じゃ」

「では佐竹や里見を動かすのは如何ですか?」

「ふぅむ……」

「否定してばかりですまないが、それも効果的とは言えないだろう。佐竹や里見は上辺だけとは言え上杉方だ。上杉の後背を突く真似は望めないだろう。それに北条は佐竹や里見を当然警戒していようし、その上でこちらに兵を出したのだ。早雲殿がすでに手を打っていると見るべきだろう」

 

 それに信州連合軍・北条軍・上杉軍から攻められる武田は、他から見れば明らかな劣勢。それを前に佐竹や里見が動くとは到底思えない。里見ならばともかくも、冷徹で知られる佐竹の『鬼義重』が情より理と利で動くであろうことは明白で、この劣勢下の武田の誘いに乗るとは到底思えない。むしろ一笑に付されるのが関の山だろう。それに佐竹に関しては最近になって活発になってきた最上・伊達の存在があり、争っていた蘆名・結城らとも連携を図るなどしており、北条だけに集中できる状況でもない。蘆名や結城は北条方と通じて佐竹を攻撃したこともあるので、あまり期待できない。小田は……もはやこの場の誰もがその名を上げないのだから、頼る頼らない以前の話である。

 そもそもにして信繁自身がどんな人間か、当主足り得る能力か、北条を敵に回してでも味方とするべき存在か、周辺諸国はよくよく知らない。ましてや父を追放したともなれば、手を貸すことに対して躊躇を覚えることだろう。

 

「外圧は期待できませんか……」

「うむ。我が武田だけでどうにかするしかなかろう。信友殿だが、彼の出兵は無理でも九一色・西之海両衆が源四郎殿の大村・御岳両衆と合流すれば何とか可能ではないかな」

「率いる将が必要じゃな。源四郎1人で4つの衆をまとめられるかと言えば、少々難しゅうござる」

「多田しかいないか」

「お任せを」

 

 ほとんどの将は信玄率いる主力に組み込んでいることが、ここにきて響いた。信繁は総大将の立場としてその動きも把握されやすく、隠密で信友がいる甲斐南方に向かうのはまず無理だろう。だとすれば動けるのは虎昌か満頼だが、虎昌と彼が率いる精鋭『赤備え』は信繁の護衛を兼ねている。信繁のそばを離れるわけにもいかない。だとすれば忍び程とは言えないまでも穏行ができる満頼しか向かえる将はいない。

 問題はそれだけではない。これから満頼が甲斐南方の甲駿国境近くにある信友の屋敷まで向かって九一色衆と西之海衆と合流し、そこから樹海そばの道を抜けて郡中へ向かうにしても、かなりの時間がかかる。その間に綱成がこの動きに気付いた場合、引き返してこないとも限らないし、可能な限りこの動きはギリギリまで気づかれたくない。つまり、陽動が必要だ。

 

「となれば、やはり総大将たる私が最適だな」

「御館様」

 

 信繁と虎昌が『赤備え』を以って動けば少数と言えども注意を引き付けることはできるだろう。最悪ぶつかることにはなるだろうけれど、本格的にぶつかる必要はないのだ。顎に手をやって思考していると、その呟きに満頼が反応した。何かと思って顔を上げれば、そこには眉を歪めて顰めっ面の満頼が。

 

「御館様の勇猛さは先の戦で私も疑ってはおりません。ですが……どうか、もう少しご自重なさいませ! 信玄様に家督を譲られるのは決定事項でも、今の武田家当主は信繁様です! その御方が僅かな手勢で正面切って敵中に飛び込んでいくなど、本来ならばありえぬことでございます! それをもう一度なさるおつもりですか!?」

 

 体を信繁に向け、満頼は片手を床について身を低くしながら、目線を上げるような形にして吠え上げる。満頼は基本的にあまり感情を表に出さない、淡々とこなしていく性格だ。だからこそ彼女の案じる言動は信繁によく伝わった。そして虎昌が何を言わずにいることからも、虎昌もまた信繁が前に出て戦うことに思うところはあるのだろう。だが信繁の覚悟を知っているからこそ、虎昌は信繁にもまた何も言わない。引き結ばれた口が言いたくても言わない、言う気はないと物語っていた。

 

「……多田。私もわかってはいる。もはやこれは勇猛ではなく、総大将としての自覚がないとすら取れよう。だがそれでいいのだ。下手に私が総大将としての姿を見せてしまえば、それだけ信玄との比較評価が狭まる。後に信玄が当主になった際、私との間に不要な軋轢を生むことはならん。武田信玄は武田信繁を追放する……そこに『武田信繁の追放は武田信玄の謀略ではないのか』という疑問を挟ませてはならんのだ」

 

 それは信繁のこだわりだった。理詰めのように話すけれど、これは実のところ信繁個人の情からくるもの。

 信玄・信廉・信龍。如何に優れた才・将器を持っているとは言え、まだ二十歳にもならぬ女子の身。そんな彼らを置いて信繁は去らねばならない。いつか必ず戻ってくると言ったところで、信玄が周囲に認められ、信繁のことなど気にされないようになるまで、どんなに短く見積もっても数年は絶対だ。その期間を、信玄たちは姉妹3人でやっていかなくてはならない。武田という家を、家臣を、民を、国を、背負っていかなくてはならない。

 

――『私は、お前たちのために、生まれてきたのだ』

 

 その言葉に嘘など欠片ほどもない。

 だがそんな言葉を吐いた人間が、例え数年でも妹たちを放っていくのだ。それに見合うものは、残していかなくてはならない。不要なものは、排してしまわねばならない。

 武田信繁が家臣たちに慕われている――その事実は心より嬉しく思う。武田家臣団に信頼を寄せられていることは、信繁にとって今も昔も誇りである。だが今回の一件に置いては、言い方は悪いが『邪魔』なものだ。武田信繁が好人物であればあるほど、そんな人物が追放されれば追放させた者に対して不満や疑念を抱かせかねない。むしろ逆に、これまで信繁がやってきた功績だと思われている内政に関しても、信繁が信玄の策をあたかも自らの策のように振る舞っていたと思わせるくらいがちょうどいいのだ。

 

「御館様、ですが……!」

「……見苦しいぞ、多田」

 

 それでも言葉を重ねようとする満頼を止めたのは、虎昌であった。

 

「御館様の御意思は固い。今更泣き言を言うでない」

「飯富殿……!」

 

 虎昌を非難する視線を向けた満頼であったが、虎昌はそれに真っ向から返して満頼の口を封じる。『鬼美濃』原虎胤を上回る、まさしく武田最強の男の眼光を前に満頼では抗すること叶わなかった。

 

「そのような泣き言を口にする資格があると思うてか? そんなものは最初からないわい。わしも、信方も、甘利の老も、上原殿も。そしてお前たちも。わしら武田家臣団は、皆揃って血判状に名を連ねた。その時点で……信玄様を盛り立てると誓いを立てた時点で、同時に御館様……若を排すると宣言したも同義じゃ」

「っ、それは……!」

「若を責めることができるとすれば、それは信玄様・信廉様・信龍様のみ。その姫様方ですら、すべてを承知の上で覚悟を決めてこの戦に臨まれているのじゃ。今更わしらがどの口でそのような泣き言を漏らせようか。そんなことで、どうして姫様方の御覚悟に……若の御心に報いることができようか」

「…………」

「若が望まれているのは情などではない。それこそ若への不忠と心得い」

 

 言い切って、虎昌は顔を背けた。僅かに見える横顔、その口端は強く力を篭められているのがわかった。むっつりと引き結ばれているのであろうその口が、自らが傅役となって育てた『若』を誇る反面、そんな『若』を切り捨てて自らの手で追放する立場にあることを誰よりも口惜しく思っていることを物語っていた。虎昌が信繁にかける情熱は武田家臣団の誰もが知るところであり、遅ればせながら満頼にも痛いほど伝わった。出陣の折にも騒がしく大笑いしていた虎昌だったが、それはそうだろう。『若』が『御館様』となったことが、どれほど傅役である虎昌にとって嬉しいことか。ならば自らの立場に暗くなるよりも、今この時を喜び、『武田信繁』を盛り立てたいと思うのは当然のことではないか。

 

「……申し訳、ございません。見苦しい真似をいたしました」

 

 納得できない部分があるのだろうその声には、実に苦々しさが混じっている。それでも満頼は頭を下げ、信繁に傅いた。淡々とこなしていく満頼だが、ゆくゆくは甲陽五名臣の1人として武田家を支えていく存在。願わくばその苦々しさを、悔しさを反動にして、この世でもそんな存在になってもらいたいものだと信繁は心穏やかなままに思った。

 

「構わん。その方の心遣いは嬉しく思う。主を諌めることができる家臣は御家にとって貴重な存在。山県・馬場・内藤・工藤の4将はまさにそうであったが……彼らを失ってなお我が家には四名臣以外にも頼れる者がいる。我が武田家は安泰だな、虎昌殿」

「言うに及ばずでござる」

 

 突き放すような口調の虎昌に、信繁は何も言わず口元に笑みを浮かべるだけだった。満頼はそれを見て唇を強く噛みしめ、拳を握りしめる。

 

「……穴山殿の元へ向かいます」

「うむ。頼んだぞ、多田」

「御館様も、御武運を」

 

 1つ頷き、信繁は満頼に「行け」と命令する。満頼はすぐに立ち上がった後、しばし信繁を見ていたが、ややあって頭を下げてから走り出し、部屋を飛び出していった。穏行に長けている満頼らしくなく、その足音は騒がしい。

 

「……死に急いでいるようにでも見えるか、虎昌殿?」

「死中に活を見出すとは申せども、自ら何度もそのような場に身を置こうとすれば、誰とて疑いを持ちましょうぞ」

 

 武士が死の覚悟をするのは当たり前のことだ。しかし武士とて人間なのであり、徒に死を求めることが武士の道というわけでもない。

 

「前世の記憶があるせいでござろうな。御館様は昔から歳に見合わぬ言動と、何より纏う気が違うた」

 

 信繁は隠していたつもりであるが、やはり何気ない日常の中で家臣たちは首をかしげることがあったのだろう。どこか普通とは違うと。ゆくゆくは武田信玄を支えていくはずの家臣団だ。気づいて当然であるとも言えるだろう。徹底的に気付かれぬようにするにも、信繁は何かと関わりすぎた。仮に信繁が周囲から孤立したままだったら、気付かれることはなかったかもしれない。だが信繁は今の道を選び、そして今の道を選んだことに後悔はない。

 

――『兄上のことで、私にわからぬことがあるとお思いですか?』

 

 信玄がそう言うのは至極当たり前のことだったのだ。家臣でさえ何とはなしに思うところがあって、彼女が信繁のことに気づかないわけがない。その正体にまで行き着かなくても、信繁が普通でないことくらい。

 まだまだだと。まったく以ってまだまだだと気づかされる。前世とこの世を合わせれば、還暦まで10年をとうに切っている年齢であるというのに、人としても武士としてもまだまだらしい。

 

「死に急ぐにしても生き急ぐにしても、若にはまだまだ早うござる。せっかく得た二度目でござろう。もう少しゆるりと参られい」

「虎昌殿にしては優しすぎる言葉だな」

「心外じゃ。わしとて愛情を以って語ることもあり申す」

「それを少しは板垣殿に向けてやればよいものを」

「……信方めを引き合いに出すはやめていただきとうござる」

 

 虎昌の負け惜しみのような返しに信繁はくっくっと底意地の悪い笑いを以ってトドメを刺す。

 

(ゆるりと……か)

 

 詰まるところはもう少し余裕を持てとも言い換えられよう。しかし余裕が持てるほど、今回の信繁の策はできたものではない。少なくとも信繁にとっては。

 一見よくできた策のようにも映るが、結局のところ最後は賭けなのだ。勝てなければどんなに良くできた策も意味を為さないのだから。敗走した信繁が言えることではないのだが。もちろんそんなことは武田の家臣団もわかっていないわけがなく、万全の策などおよそ立てようがないのだ。

 

(万全に見えるのは飾りだけ。私の策も所詮は『万全』という張りぼてで穴を隠しているだけに過ぎぬ)

 

 信繁と信龍の時間稼ぎ1つ取っても同じことだ。可能な限りの時間稼ぎをし、できればすべての敵に『目的は武田軍主力が信州連合軍を追い払うまでの時間稼ぎが目的』と思わせることこそが目的。しかしそのためには信龍が岩殿城を何としても死守せねばならないし、本来なら信繁も撤退時も含めて敵の足止めをしなくてはならなかった。そこはもはや賭けなのだ。

 

――『策とは、賭け事を我らに有利な状態とするためのものよ』

――『つまり、始めから勝算の高い賭け事をするために策を練るということですな』

――『うむ。戦など、それこそ賭け事以外の何物でもない。勝っても負けても失うものの多い賭けだ。金も兵もな。ならば被害を最小限に抑え、勝利を得んがために為すことは重要。戦うまでもなく勝つこと叶えば、それすなわち最上の策と言えよう』

――『なるほど』

 

 前世で『兄上』が言っていたことは、今でも信繁の中に生きている。『武田信玄』が策を用いたのは、他国が言うような卑怯な手を好んだからではない。いや、『武田信玄』は誰に卑怯と誹りを受けたところで気にもしないだろう。むしろ『卑怯者』の誹りを喜んで受け入れるだろう。

 

 

 

 『武田信玄』が師とした『孫子』に曰く、『戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり』。

 

 

 

 『武田信玄』にとって、戦でしか勝てない者はそれ以外に勝ち方を知らない野蛮な獣でしかなかった。かと言って策ばかり用いればいいというわけでもない。

 

 

 

 『孫子』と表裏を為す日ノ本の兵法書『闘戦経』曰く、『兵の道にある者は能く戦うのみ』にして『鴟顧して狐疑する者は智者依らず』。

 

 

 

 策士、策に溺れるという。策ばかりに頼る者は臆病者でしかなく、疑ってかかってなかなか決断できない者は知恵者に非ず。

 策を用いるも、いったん戦場に出れば的確にして即断の指揮で敵を圧倒する――『武田信玄』は策謀と武力を見事に両立させた。

 

「ゆるりとするもよいが、今はその時に非ず。参ろう、虎昌殿」

「承知。動ける兵をすぐに集めて――む?」

 

 信繁に続いて虎昌も立ち上がったとき、廊下の先から慌ただしい足音が近づいてきた。しばらくすると「御館様! 飯富殿!」と、今しがた出ていったばかりの満頼が、走った勢いをほとんど殺さずに床に膝をついた。息を整えようとして肩を上下させつつ彼女が顔を上げ、まだろくに整っていないままに口を開いた。

 

「信玄様より、再び早馬が……!」

「信玄から? して、何と?」

 

 佐五が戻ってきたのは先ほど。そう時間は置かずに来た辺りからして佐五が去った後にまたすぐに発したということだから、定時連絡などではないことは明らか。僅かな間に何かが起きたということかと、信繁はさすがに眉を顰めずにはいられなかった。まさか笹尾砦が落ちたのか、それとも合戦で何らかの損害を被ったのかと、信繁の頭には即座に懸念していたことが想像されてしまう。

 満頼はそれ以上は息が続かないのか、手に持っていた文を信繁に差し出した。それを受け取り、すぐに信繁は勢いを付けて広げた。

 内容は……紙そのものの長さに反して実のところ短いもので、信玄もよほど急いでいたのだろうと受け取れた。だが書いていることはそれゆえに要領を得た、信繁だからこそ十全に通じるものであって。

 

「……これの真贋は?」

「早馬の使者は板垣殿の側近のようですので、まず間違いないかと」

「見て参る」

 

 虎昌が素早く身を翻して信繁と満頼の横を通り過ぎていく。信方の側近ならば見覚えがあるかもしれないからだろう。確認は虎昌に任せ、信繁は文に向き直る。

 

「…………」

「御館様。信玄様は何と……御館様?」

 

 満頼の問いかけに信繁は一瞬、どうかしたのかと本気で問いそうになった。だが満頼が不可思議そうにしているのを見て、そしてそれがいつの間にか浮かべてしまっている自らの笑みに対してのものであろうと思い至る。

 

「多田、先の命は撤回だ」

「は、はい」

 

 本来ならば御坂山攻防戦の後、信繁たち本隊はそのまま撤退戦を続けながら時間稼ぎを続けつつ、後方から源四郎たちが襲いかかり、前後から挟撃を仕掛けるという寸法だった。だが信繁勢が撤退戦を続ける余裕なく敗走したこと、そして上杉軍が侵攻してきたことにより綱成勢の侵攻が躑躅ヶ崎館から勝沼館へと目標を変えたこと、この2つの状況により挟撃はもはや叶わない。勝沼へ向かう彼らを背後から信繁勢と源四郎勢で急襲するという手はあるが、源四郎勢の兵力は『彼』が見つかったという情報もまだない現状では期待できず、信繁勢と合わせてもきっちりと後方を警戒している綱成勢を討つのは難しい。

 ゆえに――捨てる。

 

「大村・御岳両衆の指揮を多田に任せる」

「御館様、あの者が見つかっていない以上、本隊に源四郎殿と私、大村・御岳の両衆を加えても一千にもなりません。これで北条綱成を討つのは……」

「その心配はいらぬ。目標は綱成殿ではなくなる可能性が出て参った」

「は?」

 

 そこで信繁は懐から文を取り出して満頼に渡す。読んでもいいということだろうと満頼は訝しがりながらも受け取り、広げた。内容は短い文章だ。すぐに満頼の表情が変わった。

 信玄の推測が正しいとは限らない。確証となる情報はなく、現段階ではあくまで推測の域を出ない。だが無視できない要素が揃っているのも事実で、信繁の考えていた策が前提となった今回の武田の作戦に、信玄の推測はまったくの寝耳に水。

 

「そこにある通り、信玄の推測通りであるのならば4番方式、そうでない場合は7番方式の狼煙が上がる。どちらが上がってもすぐに行動できるよう、態勢を整えておくように」

「はっ!」

「それと御坂山には今だ敵兵や忍びが潜んでいる可能性が高い。無理に見つけようとすれば逆にこちらの動きを知られかねんゆえその要はないが、発見されたのであらば逃すことなきように。可能な限り北条にも小山田にも上杉にも知られるのを遅らせよ」

「委細承知!」

 

 満頼が頭を下げて出ていこうとするまさにそのとき、またも廊下の先から騒がしい足音が。虎昌かと思ったが、彼の大柄な体にしては随分と軽やかで、現れたのはやはり虎昌の配下――『赤備え』の兵だった。

 

 

 

「御館様! 御坂山の方向、高台に狼煙が!」

「!」

 

 

 

 狼煙が上がっているだけならばいくつかの意味がある。多くは敵襲を示すが、今回の場合だけは特別な意味がある。どんな狼煙であったか、それを問おうとしてそれよりも見た方が早いと信繁はすぐに駆け出した。満頼もその後に続き、2人して館を疾走し、縁側にまで出た。話を聞きつけたのか虎昌の姿もすでに在り、信繁の姿を見るや虎昌が不敵に笑った。それだけで意味を察し、信繁はその目でも確認するべく御坂山の方へと顔を向けた。ドタバタと姿を現した信繁と満頼、そして虎昌に兵たちも何事かと狼煙と信繁たちの方を交互に見回している。

 夜間である上、雨も降りしきる中での狼煙は火薬などを用いて着色していても目には捉えにくい。だからこそ火薬を用いて打ち上げ、音によって知らせるという手法も併用されていた。雨のせいで音もやはり聞こえにくい。しかしよくよく耳を澄ませば、小刻みに連続する音が聞こえてくる。一定の拍をつけて、『パン……パン……パン……………………パン……パン……パン……』と。

 

「音の回数からして3番方式……御館様!」

「さすがだ、源四郎殿!」

「待たせおってからに源四郎め。しかしようやったわい!」

 

 待ち人、来たり!

 その意味を知るのは軍議に参加していた将だけだ。3人の様子に何か事態が好転したのかと兵たちが顔を見合わせる。

 

「直ちに向かいます!」

「信玄のこと、しかと任せたぞ」

「必ずや!」

 

 満頼はすぐに玄関へと向かい、しばらくして玄関から飛び出して馬に跨り、騎兵を2人ほど連れて館を飛び出していく。その様子を眺めていた信繁は、その姿が見えなくなると、同じく彼女たちを見送っていた兵たちに出陣の触れを出し、さらに小姓に命じて早馬の兵を呼び、指示を与えてすぐに信玄と源四郎の元に向かわせる。虎昌はその間に信玄の文を読み、信繁の指示を横で聞いたこともあり、理解したようだった。

 

「まこと信玄様の頭の回転には驚かされる……」

 

 信繁はただ笑って返し、雨の中を2人は外に出た。兜を被ってもすぐに濡れてしまうことだろうが、濡れた髪で兜を被るのも嫌なので被っておき、馬屋の方から引かれてきた愛馬に跨る。当然だが引いてきた者は佐五ではない。連れていかないとなると後で佐五はどうしてだと食ってかかってきそうであるが、聞いた容体からして無理をさせるべきではないだろうと判断した。

 連れていける兵はやはり600ほど。残る兵は先の戦で出た怪我人も多く、攻めてこられればもう防げないだろう。どのみちこれが最後の策。これが上手くいかなければ終わりだ。

 

「この雨、まだしばらくは降り続きそうじゃのう」

 

 虎昌が鬱陶しそうに見上げるが、信繁は次いで見上げつつこれはこれでいいと思った。この雨と夜の闇に隠れての進軍は、多少なりとも穏行に益を齎すだろう。さすがに600の兵を率いる以上、信繁と虎昌はすぐに気付かれるだろうがそれでいい。こちらはあくまで『陽動』。息を潜める源四郎と『彼』、僅かの護衛と共に向かった満頼、そして……

 

 

 

 樹海そばを進軍する信玄はそう容易く見つかることもないだろうから。

 

 

 

「なに、最後に晴れるのならばそれでよい」

「けだし! なればわしらのこの気迫で晴らしてやってこそじゃ!」

「そうだな。では……今一度参ろうぞ!」

 

 兵たちが雨の中を各々の武器をかざして吠える。さすがは虎昌配下の『赤備え』がいるからか、懸念していた割に士気はまだまだ高い。あの狼煙を見て信繁たちが喜色を浮かべたのも、兵たちに影響を与えたのだろう。

 躑躅ヶ崎館を出ていく信繁勢600。目指すは勝沼。

 

 

 

 

 

――続く――

 

 
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