No.79961

水密桃

ダーカー黒銀

2009-06-19 21:59:18 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:929   閲覧ユーザー数:875

今日も、夜空は偽りの夜空だ。

時折忘れたように星が流れるが、それは本当の流星ではない。

東京に来てからもう何年も本当の星空を見たことがない。

東京に来てから?

それは何時だった・・・・何時・・・・・。

黒は古ぼけたアパートの外の風景を眺める。

こんなアパートを今では点々として暮らしている。

昔は違った?

確かにそうだ。

昔・・・・妹が「生きて」いた頃。

空にに夜空があった頃。

俺が・・・・こんな風に・・・・。とそこまで考えた黒は考えるのをやめた。

窓の外の下に、腐ったどぶ川の水面が見える。黒くよどんでいて、虹色の油がところどころ浮いている。その先は、暗くしめった東京湾の湾岸沿いの曲がりくねった水路につながっているのだと黒は思う。自分の行くところ、結局そんな場所にしか行き当たらない。それが今の自分にはお似合いなのかも知れないと思う。

窓の外には風がやんでいる。

蒸し暑い東京湾の重くしめった空気が、幕を張ったように顔の上に張り付いてくる。

黄が言う。

自分と同じく本当の中国人じゃないのに、「湖南省にはいい桃がとれるんだ」とある日黄は黒に言った。

「こんな・・・・蒸し暑い梅雨時にはよ、それの薄皮をむいて思いっきりかじるんだ。桃には仙人の力があって、水路で行商をする商人らはそれをありがたがっているのさ。その桃には甘い汁気がいっぱいあって・・・。」

偽名の李舜生ではない、一般市民の死んだ日常の仮面をかぶってない時の黒は、そんな黄の世迷言にいちいち善良な市民の顔であいづちなんか打ってはやらない。

ただ黙って首を垂れてその繰言の長い話が終るのを待っている。

黄の話は、日本の田舎の話と中国の田舎の話が混じることが多かった。

おそらく黄はどちらにもその源を持っているのだろう。

根無し草の自分とは違う。

それがうらやましくもあり、うとましくもある黒だった。

 

キィ・・・・・・・。

 

微かなる音がして、黒は振り向いた。

わずかに残る月光を背に、玄関の扉が開いていて、そこに銀が黙って立っていた。

「呼んだ・・・・。」

ぎこちない唇の動きで、銀はちいさくつぶやいた。

観測霊の動きを感じたのだろうか・・・いつも座っているタバコ屋の店先から?

大きな人形のように、だまって立っているのを、黒は部屋のほうに入るように手でうながした。

ドールの常にあるように、銀の感情は容易には読み取れないが、黒にはいつも、銀には叱られるのをおびえているような張り詰めた糸のようなものが、周囲の四方に張り巡らされているのが感じられる。

銀は元は北欧の霧深い邸宅に住んでいて、名前は「キルシー」といいピアノを毎日練習し、ピアノの音色を愛する娘だったという。

そのピアノを今もピアノ教師に叱られながら弾いている夢を、銀は漂っているのかも知れないと黒は思う。

ドールの記憶がどうなっているのかはわからない。

彼等は醒めない夢を見ているから、感情が表象できないのだという人もいるし、黄のように感情が元から根こそぎなくなっているのだという風に扱う者もいる。

自分はどうだ?

やはり銀に普通の人のように笑っていてほしいと願う自分がいるのを黒は感じる。

しかし凡庸な日常的な浮薄な笑いを、銀に取り戻してほしくないと願っている自分もいた。

残酷な自分を裏切る女たちのように、銀には自分を笑ってほしくはなかった。

そっ、と黒は試すように、殺陣のときに使う白い仮面を手に取ってみた。

「こわい?」

と自分の顔に少し重ねて、はずしてから銀に尋ねる。

銀は少し考えてから、平板な口調で答える。

「こわい、わからない。」

銀の大きな赤紫の瞳が、水晶のような輝きを持って間近にゆれていた。

重ねてそっと尋ねてみた。

「俺のことは好きか?」

「たぶん・・・・、好き・・・・・。わからない。」

好き、という言葉を聞いた瞬間、世界が白く輝いたような気がしたが、続く次の瞬間の「わからない」という言葉に黒はうちのめされる。

自信がないのだ、俺のように―――言い切る自信がないから、「わからない」という蛇足の言葉がつくのだ。

銀の気配が怒られたように、悲しみに押しひしがれたものになったのを、黒は感じた。

そうではない、と百万語を尽くして言ったところで銀の悲しみには変わりがない。

ドールはこの人の気配に敏感だから、世界に対して心を閉ざすのだと、黒は思う。

この心を乱暴にこじ開けてはいけないと黒は思うが、何故自分のこんな簡単な心を銀は察することができないのかという、もどかしい苛立ちがあった。

黒は銀の衣装にゆっくりと手を伸ばした。

ぴったりした上の黒のボレロは脱がせやすそうだが、下の紫のワンピースはうまく脱がせられるだろうか。ボレロの下に包まれた、折れそうなほど細い白い首筋を見ると、そこに腰に仕込んだワイヤーをぐるぐると巻きつけて、思い切り締め付けたくなる衝動が走るのを黒は覚えた。

――ック・・・・・ッ。

銀が獲物を狩る腕の下で、小さくおびえた叫びにならない叫び声をあげる。少し弛緩してから、目を人形のように見開いたまま、ガラスの瞳で気を失う・・・・・・殺してはいけない、それはとんでもないことだが、それに近いほどの締め付け方で・・・・・・・・。黒は何かを注意深く刻むように、順を追ってその手順を頭の中で反芻する。

殺人者の常で、彼はそんな風に「獲物」をどう料理するかを、日常普段着の料理をしながらの合間に、空想の中で考えているのだった。あそこでワイヤーをもっと垂直方向に・・・・・いや、最初はゆるめてから、ワイヤーをもっと何重にもかけてから・・・・・。料理を作っているのとは違う部分の頭をつかって、黒はぼんやりと手を動かしながらそれを考える。それは無心のような心の動きだった。今度はきっとできる。今度はきっとうまくやる。そう思ったとき、目の前の料理がフライパンの中で完成している。そんな繰り返しが黒の日常であった。料理、うまいですね。場末のキャバレーでまかないの飯を作ったとき、自分よりも若い客室係りに褒められたことがあった。その時も黒は李舜生の顔で「それほどでもないですよ」と作った道化の顔で笑いながら、目は笑っていずにフライパンの黒い握り柄の部分だけを、切り取ったように眺めていた。

 

銀を料理?する?

 

自分の中で今度はその感情がもたげるのを感じて、黒は狼狽する。

こんな考えばかりが、銀と2人きりになると頭の中を占めてしまう。

 

悪い、考え?

 

黒はそう思うと、自分が悲しくなり、叫び声を世界に対してあげたくなる。

断じて違う。俺は銀を、この平板な沈うつな悲しみに満ちた世界から、その世界を粉々に破壊して助け出すためにそうしているのだ。誰もわかってくれなくていい。銀はそうしないと、いつか本当に窒息してしまう。その平板などこまでいっても密度の変わらない立方体が敷き詰められた世界の中で。どうして誰もそれがわからないんだ。黒はそう思うのだった。世界は黒に対して、ピシ、と平面体の恒久な垂直の面の壁を作って存在していた。その壁は黒の鼻先三寸に存在する。俺も窒息するんだ。このままでは。だから・・・・・。

黒は言った。

「俺は銀が好きだ。だから・・・・・。」

「だから?」

「俺がすることを許してほしい。」

「許す・・・・なに・・・・・。」

黒は日に焼けた畳の上に銀を押し倒した。黄と銀が連絡に使っている、ラブホテルの客室が頭をかすめた。あのベッドのほうが銀が傷つかなかった。でも嫌だ。あそこは俺の場所じゃない。でもあの赤いベッドのほうがよかったのではないか?もしかしたらもう黄が銀に手を出していたとしたら・・・・・。売り物に手を出す俺じゃない、というのが黄の口癖だった。ドールは売り物だからな?その瞬間、黒の頭の中で、ガラスのショーウィンドゥに飾られた人形になった銀の姿が浮かんだ。銀は片手をすました風にあげて、なんと少し笑みを浮かべているではないか。当人形館の人形のお値段は5万ドルです。しゃれた風に万年筆で横書きに書かれた小さな値札が銀の足元にあった。

「私が払いますよ。」

なんで貴様が、と思った瞬間、ノーベンバー11と名乗る男が白のスーツの内ポケットから財布を取り出していた。やめろ。貴様なんかが・・・・・!黒は飛び掛ると、しっかりとノーベンバーの首をワイヤーで何重にも巻いて締め付けた。君も懲りない人だね。ノーベンバー11がははは、と腕の下で乾いた声をたてて笑った。黒は逆上する渦巻く黒い感情を感じて、ますます腕に力を激しくこめた。

「黒、少し、こわい。」

銀のかすかな願う声を聞いて、黒はその手を少しゆるめた。

銀は今、月光がよぎる畳の上で、白い裸身をさらしていた。

「だいじょうぶだから・・・・・。」

黒はそう言うと、自分の衣服も脱ぎ捨てた。そっ、と白い銀の胸元の膨らみかけた双胸に手を這わせてみる。銀ののど元から胸にかけて、息を吐くごとに、静かに上下して動いているのを感じた。生きているんだ。ああ、銀は今生きているんだな。黒はそう思うと、胸が熱くなった。

ゆっくりと添うように体を沈めると、目覚めのように黒は銀に口づけた。唇を離したとき、透明なしずくが、銀の唇から漏れた。少し息が荒いようだ。少しは感じたのか・・・?

そのまま首筋から唇を移動させて、肩口のあたりをなぞっていく。銀の白銀の髪をしばっている紫のリボンをほどいた。髪がふわり、と畳の上に音もなく広がる。銀の髪は細くて分量が多い。白いが透明質で絹の糸のような鈍い光沢があり、老人性の髪のそれとは異なる。手の中で丸めると、たわんで柔らかくしなる。細い電気信号を伝えるファイバーのようだと思う。銀の脳が収まった頭からそれは四方に放出していて、いろんな感情を微々たる信号で周囲の空気に発しているのかも知れない。

手にとって、少しキスしてみる。銀のか細い糸のような感情が、今俺に伝わったのかと思う。

銀の裸身の下にも同じような茂みはあるが、それは白くなくて黒だ。

銀が幼いとき、何かのショックで白髪化したから下は白くないんだ、と昔黄が冗談で言ったことがあった。

俺は人形が俺のところに売られてきたときから、見たくなくても見たからさ。てめぇは見たのか?ま、女なんてもんは、頭の先は敏感でもアソコは鈍感なもんだから・・・・・。知ってるか?女ってのは男よりも血液が冷たい生き物なんだぞ。これは俺が醜男だから言うんじゃねぇ。おめえみたいにツラの皮のできがいいヤツには見えないこの世の実相ってヤツが、俺なんかにはよく見えるのさ。人間なんてのはまったく、どいつもこいつも一皮むけばだ・・・・・・。

黄はタバコを吸っていた。ガード下の暖簾のその店先で、黒はだまって黄の話を聞いていた。ガードの上を走る電車の音がうるさかった。テーブルの上で、高架を電車が通過するたびにコップ酒のガラスの底がちいさくカタカタと震えた。それはそういうひどい話を黄から今聞かされている、自分の幼い心のようだとその時黒は思った。

黒は黄に答えなかったが否定もしなかった。この種の冗談を黒が好まなかったこともあるが、ドールが実験体として科学者たちに値踏みされている光景、そこに銀がいたのだと考えることが黒には耐えられなかったのだ。人間は醜い。人間の心は醜い。それを醜い中年の男から聞かされる自分。その悲しみ。

「黒・・・・かなしいの?」

銀が少し顔をそむけたような姿勢で、誰に言うともなくつぶやいた。かなしいの?それは黒に対する疑問符ではなく、自分に言い聞かせるような言い方だった。ドールはこういう、まるで怪我の傷口に絆創膏をあてがうようなしゃべり方しかできない。そうすると、ばらばらになった君の心が修復できるんだね、と黒は思う。黒は言った。

「かなしく、なんかない。」

「そう・・・・・。かなしく、ない・・・・。よかった・・・・・。」

ぽた、と銀の一言を聞いたとたんに涙が頬を伝い落ちた。こんななんでもない言葉で泣くのは子供みたいだと思えるのだが、どうしようもなかった。

「銀・・・・・・!!」

「黒・・・・・・・。」

「銀・・・・・銀・・・・・!!!」

黒は自分でもおかしいと思うほどの勢いで、銀の体を抱きしめた。銀の顔は一瞬驚きに目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に変わった。いつか誰かが喫茶店の席で、無言で座っている銀に笑えばいいと残酷に言った。それを今銀は思い出す。その時銀は傷ついた。うまく笑えないのだ。顔の表情が、自分で思ったようにならないのだ。銀はあきらめて目を閉じる。そうすると黒に対して驚くほど銀は優しい気持ちになった。それは今日の夕べに観測霊を見かけたときに、ふと思ったことだった。黒・・・・泣いてる?どうして?何がそんなに悲しいの?違う・・・・黒はいつもは泣いてない。黒は・・・・。黒を今日訪ねてみよう・・・・・。つらいの?つらいの黒。つらいの銀。つらいのはワタシ。ワタシ・・・・・。

「ごめん、銀。君を抱いて・・・・。」

黒が自分にあやまっていた。あやまることないのに。だって、黒はいつでもワタシを守ってくれているのに。しかし、そう思ったとたん、銀の体に痛みが走った。

「黒・・・・・イタイ・・・・。」

黒が痛くしているのだ、ともちろん銀にはわかったが、不思議と怒りは起こらなかった。黒が好きなのだ。ワタシは黒が好きなのだ。でも、うまく伝えられない・・・・・。いつか自分から好きだと言ってみようと思うが、それが銀にはできない。その予定はいつまでたっても銀の中で繰越し中だ。そうしていれば安全だと銀は思う。その安全な柵の中から銀は出られないのだ。こんなにつらいのを我慢しているのだから、自分は安全な中にいたいと銀は願うのだった。世界は銀に向かっていつでも牙をむいていた。何かそれに対して口答えをすると、銀の頭の中で「許さない」というパルスが明滅して心を脅かされるのだった。黒もやっぱりそう?黒も牙をむいている?いいえ、黒は違う・・・・。黒はきっと違う・・・。黒は、たとえそうでも・・・・。銀はそれが希望的観測と思う自分が悲しかった。今黒は私を裸にして、自由にしている。黒がしたいから、そうしているのね。

違う。黒は、ワタシに対してやさしいの。今もやさしい目をしている・・・・。今、黒に向かってワタシは言ってみる・・・・・・。

「黒・・・・・・ありが・・・・とう・・・・・。」

「・・・・・・・・・・・銀・・・・・・・・。」

律動を繰り返していた黒の背中がびくり、と引きつった。彼はその瞬間、自分の思いを銀の中に放出していた。

 

すべての行為が終ったあとで、黒は思った。

きっと銀の中でその感情の胞子が芽生える日が来る・・・。

しかし何故こんな俺に対してあのとき感謝を口にしたのだろう、銀は・・・・。

月明かりの下で、幼い年相応の寝顔で眠る銀の横で、黒はじっと考えた。

銀の中にも、俺に対する大人めいた感情があるのか・・・・・?こんな子供のようなあどけない寝顔の下に・・・・・まるで俺への、子に対する母のような感情が?

しかし普段の銀は俺の心がわからない。

月は無慈悲な夜の女王、という言葉を黒は思い出す。たしかSF小説のタイトルだった。ただ気まぐれに、銀の広大無辺な感情の海の中のパルス信号が、その慈悲深い感情を不意に引き出しただけなのかも知れない。俺の性行為で。俺のこの行為はそれだけのものなのか・・・・・・。

笑うことのできない女王、いや姫君の銀。

あの姫は、たくさんのクッションの下に置かれた一粒の豆粒に笑ったのだったっけ。いや、痛いと怒ったのだったか。

君のそんな感情を俺は、君にいつものように教えられることなく、いつかつかまえることができるのだろうか―――その生き生きとした、不意に冷たい水に濡れたような感情を。

だがそれをつかまえられたとしても、それも明日の夜の闇の中の川の下に消える。

そう、明日の夜の闇の中に・・・・・。

 

 

 

 

二人の運命は夜の闇に続いているのだった。闇の仕事人。彼等はそうして、明日も夜の街で、互いに求め合いながらも人の世の人倫に背いて、ただ生きていくのだから―――。

 

 

 

 

 

 

 

 


 
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