No.796587

蕎麦

磯風が蕎麦を食べるだけのお話。
磯浜。陽炎不知火黒潮、ちょこっとだけその他の艦。

2015-08-16 16:56:29 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:1220   閲覧ユーザー数:1205

「蕎麦が食べたい」

 磯風がぽつりとつぶやいた。前を歩いていた浜風は、露骨にそれを無視した。目を細めたのは、磯風の言葉に呆れた証だ。少し足を速めて前に出る。

 まだ陽は南中を迎えていない。それどころか、ほんの二時間前に朝食を済ませたばかりなのだ。そして、食後から今までに活動したことといえば、明日の哨戒任務の打ち合わせを済ませたことと、工廠での艤装調整のスケジュール確認を済ませたことだけだ。更に言えば、打ち合わせでは能代がお茶を淹れてくれたし、工廠では二人とも煎餅をいただいた。腹の空く道理は無い。

「浜風、蕎麦が食べたい」

 浜風に聞こえなかったと思ったのか、磯風は、浜風に再び追いつき、彼女の方を向いてはっきりと声を発した。浜風が目を細めたまま顔を向けると、さらに声を大きくした。

「蕎麦だ。蕎麦。更科でなく、二八がいい。打ち立てならこれ以上は無いな」

「朝食にご飯を山盛り三杯もお代わりしたのは、誰だっけ?」

「私だ。いや、陽炎も不知火もだが」

「まだ十時」

「だから、昼の話だ」

 磯風が皆まで言い切らないうちに、彼女の腹が大きく鳴った。浜風は磯風の腹をさすって、呆れた口調で言う。

「どういう構造をしているの? この子は……」

「さてなぁ。しかし、浜風が疑問に思うなら、私だっておおいに疑問に思うところだ。何故朝食にご飯二膳で足りるのか? いや、もっと言えば、おかずも少なめだろう。みそ汁に至ってはお代わりをしていない」

「普通は足りるはず。運動量もそんなに変わらないのに」

「ふむ。何故それで、こうも胸の大きさに開きが出るのか」

 磯風の言葉が言い終わらないうちに、浜風の左手が凄まじい速度で磯風の右頬を打って、威勢のいい音が響き渡った。

「何をする? 痛いじゃないか」

「もっとデリカシーを持って。……とにかく昼にお蕎麦を食べたいのはわかったから、この話はおしまい」

 一方的に話題を打ち切る浜風に、磯風は頬をおさえつつ、昼が楽しみだな、とつぶやいた。

 

 

 今日の食堂のメニューに蕎麦はない。つまり、間宮に行かなければ蕎麦は食せない。

 この事実に磯風が気がついたのは、もう間もなく昼を迎える頃だった。午前中の空き時間に、自主トレと称して運動場で走り回っていた磯風は、早めに昼を済ませて午後の準備に向かう子日から、今日の日替わり定食の情報を教授願っていた。

「そうか……。今日は麺類はないのか……そうか……」

 すわこの世の終わりか、といった表情をする磯風に、子日は苦笑した。

「うん。残念ながら無かったねー」

「それは、困ったな。本当に困った」

「……なんでそんなに深刻なのかな……」

「今日の昼は蕎麦だ、と私の胃袋が既に断を下していてな」

 磯風は軽く腹をさすった。子日は不思議そうに首を傾げる。

「え〜と、覆せないの? それは……」

「こればかりは覆せぬのだ」

「……そ、そう……」

 子日は、それは御愁傷様、と言い残して運動場を去って行った。彼女にしてみれば、たまたま運動場のすぐ脇の道を移動していただけだったのに、急に磯風に声をかけられて、トラックまで下りてきたのだ。演習前に、空腹の磯風からくどくどと、蕎麦が食べたい、何か妙案は無いか、などとつきまとわれるわけにはいかなかったようだ。

 しかし、まいったな。

 磯風は改めて、腹をさすった。もう食べ物を受け入れる準備は万全、とでも訴えるかの様に一際大きく腹が鳴った。

「お困りのようですね、磯風」

 不意に後ろから声をかけられた。見れば、先ほどから一緒にトラックを走っていた朝潮が、タオルで汗を拭きながらゆっくりと歩み寄ってきた。一緒に走っていた、とは言っても、普段からそれほど親しくしているわけではないので、各々のペースで走っていて、途中磯風が何度か追い抜いただけのことだが。ともかく、彼女は磯風と子日の会話を聞いていたのか、単刀直入に話を振ってきた。

「今日の間宮さんのところの数量限定御膳に、柏蕎麦がつくはずです」

「何だと!? それは、本当か!?」

 食いつかんばかりに顔を寄せる磯風に、朝潮は思わず一歩足を下げる。

「こんなことで、嘘をつく必要は無いと思いますけど。それに調べればすぐわかりますし。ただ、数量限定という蠱惑的なメニュー。そして、間宮さんのランチは一一〇〇からです。つまりもう始まっています。のんびりしていていいのですか?」

 朝潮の言葉に、磯風は弾かれた様に駆け出し、あっという間に運動場の土手を駆け上った。駆け上ってから、朝潮に振り返る。

「礼を言う」

 手を大きく頭上で振ってから、再び猛然と走り始めた。朝潮は大きく息をつき、それを見送った。

 運動場には、朝潮の他にも、ポツポツと自主トレに励んでいた他の艦娘もいたが、朝潮が走り始めてから走り終わるまでの間に、ずっと走っていたのは、磯風だけであった。余裕の表情と、均一なペースで走る磯風は、彼女にとって、良い目標になり得たのである。いつもよりも速く、そして自分で設定していたノルマよりも三周多く走れたのは、体の調子が良かっただけではない。しかし、わざわざ磯風に声をかけた彼女の内心に、蕎麦で頭が一杯の磯風が気づくはずもない。朝潮はもう一度、深く嘆息すると、クールダウンのためにゆっくりと駆け出した。

 

 

「失礼する。数量限定御膳というのは?」

「あら、磯風さん、いらっしゃいませ。まだ全部は出ていません。注文できますよ」

 磯風を出迎えたのは、前が見えない程にお膳を積み重ねた伊良湖だった。彼女は、汗も乾かぬ運動着姿の磯風に目を二度三度瞬いてから、笑顔を作った。

「ただ、食事券限定になりますけれど、よろしいですか?」

 店の暖簾をくぐったところで硬直した磯風に、伊良湖が訝しげに首を傾げた。

 間宮券が必要だというのは、磯風にとって全くの想定外であった。運動場から直行したため、無論持ち合わせていない。いや、寮に取りに行っても、確か今月分は、既に全て使ってしまっていたように思う。即座にひらめいた、敗北、の文字を追い払うべく頭を巡らせたが、どうにも敗色は濃くなるばかり。

 伊良湖は、磯風が無言で佇んでいることから、どうやら事情を察したようで、笑顔のまま狼狽えてしまっている。

「ど、どうしましょうか……?」

「あ、いや、申し訳ない。私がそそっかしいばかりにご迷惑を……。後日、また改めて参ります」

 磯風は腰から上が、地面と平行になるまで頭を下げてから、くるりと踵を返した。

 なんということだ。

 その背に哀愁を漂わせながら暖簾をくぐろうとした時に、店の外で品書きを吟味している人影に気がついた。陽炎と不知火、そして黒潮のお決まり三人組だ。にぎやかな様子から、三人がしっかり間宮券を保持しているであろうことは、磯風にもよくわかった。

「ああ、磯風。って、あんたその格好で間宮さんに来たの?」

「少し急いでいてな……。だが、願い叶わなかった。すぐに戻るさ……」

「ん? 限定御膳無くなっちゃってるの?」

「いや、違う。そういうことではないのだ」

 わざわざ説明するのも口惜しいが、磯風は間宮券が底をついていることを、どんよりとした口調で陽炎に伝えようとした。が、それより先に、ああ、と陽炎が得心する。彼女の瞳に憐れみの光が浮かんだ。

「余剰分をストックしておくという知恵が回らないのですか?」

 陽炎の様子からこちらも察したのだろう。不知火が呆れたように言う。

「そもそも毎月使い切るというのは、不知火からすれば、考えられない凄まじい使用頻度です」

「確かになぁ」

「面目次第も無い」

「ま、これに懲りて、来月からは少し貯めるようにせな、あかんで」

 不知火と黒潮が、磯風を慰めているのか、はたまた面白がってからかってるのかはわからないが、にぎやかに声をかけている間中、陽炎は渋い表情をしていた。彼女は、秘書艦を多く務めている。畢竟、使い切れない程の間宮券を支給される。今のところ、あまりにも使わないため、余剰分は自発的に司令に返上してるが、それでも輪ゴムでくくった束が、二三個彼女の机の引き出しには眠っているのである。それを磯風や他の娘に配っても、彼女の懐は微塵も痛まないのだが、それが恒常的になってしまうと、それはそれでよろしくない。変に能代や神通の耳に入れば、誤解を生じかねない。そこまで考えて、陽炎の背に寒気が走った。

「来月返してくれるなら、貸してあげてもいいけど?」

 妥当と思われる提案をしてみたが、磯風の反応はあまりよろしくない。どうやら、多少なりとも自己嫌悪に陥ってしまったようだ。陽炎の言葉も耳に届いたのか否か定かでなかった。ふらふらと歩き出して、寮の方に足を向ける。

「ああ、もう!」

 陽炎は、大股で磯風の後を追うと、彼女の腕をぐいっと引っ張り、取って返して間宮の暖簾をくぐる。

「伊良湖さん、磯風に限定御膳を。支払いは私持ちで」

「はい。承りました」

「あんたたちはどうする?」

「そうですね……。伊良湖さん、限定御膳は残りいくつですか?」

「お待ちください」

 伊良湖はカウンタ越しに、レジの横に置いてあった帳面を確認する。

「今日は、あと二つですね」

 不知火と黒潮が顔を見合わせた。数が合わないので、陽炎の裁断を仰ぐことでいかがでしょう? せやな。目と目で頷き合う。

「陽炎はどうしますか?」

「私は日替わり」

 陽炎の即答で、二人はまた頷き合った。

「では、うちらは限定御膳で」

「都合三つですね。承知しました。お好きな席へ、ずずいっとお願いします」

 伊良湖は、店の奥の方を手で示してから、カウンタから完売の札をひったくって、店の入り口を出て行った。

「かたじけない。この磯風、陽炎の優しさが骨の髄まで染み渡った」

 入り口にほど近い席についた陽炎のすぐ脇で、磯風は唐突に膝を床につけ、叩頭した。

「ちょっ! やめなさいって、こらっ!」

 奥の席にいた加賀のジト目が陽炎に向けられた。

「ち、違うんです加賀さん。別に私はこんなことをさせようとしたわけじゃないんです」

 赤城がすぐに加賀の袖を引っ張る。そんなにじろじろ見るもんじゃありません、とでも言ったのか、加賀は視線を赤城の方に戻した。陽炎は、後でお礼を言わないと、と心に刻み込んだ。

 そして、珍しく三姉妹揃って食後の談笑をしていた神通が、陽炎と磯風に気づき、振り返った。ほんの少しだけ眉をひそめたのが、陽炎にははっきり見えた。途端、弾かれたように陽炎は立ち上がり、磯風の腰に手を伸ばし、一気に磯風の体を持ち上げるや、不知火が引いた椅子に勢いよく座らせた。

「あんたね、恩を仇で返す気なの!?」

「何故だ? そんなつもりは毛頭ない。心から礼を述べようと」

「口だけでいいから! 五体投地いらないから! 私お釈迦様じゃないから!」

 潜めているが、大きく張り上げるという絶妙な大きさの声で陽炎は磯風を注意した。その慌てふためく長女の姿に、不知火はくすっと笑みをこぼした。

「変な仏心を出した陽炎の負けですね」

「せやな」

 黒潮も水を飲みながら、不知火の言葉を肯定する。

「あんたたちね……」

 呆れつつ陽炎は、思い出したように磯風に向き直った。

「あと磯風さ。先に言っておくけど、あんた、あまりがっつかないでよ」

「心配要らん。さすがにそのくらいの心得はある」

 磯風は胸を張って答えた。

 

 

 間宮の数量限定御膳は、松花堂風の重箱で供された。彩りよく誂えられた料理の数々は、流石に限定を冠するだけのことはあり、その輝き出さんばかりの内容に不知火も黒潮も目を輝かせた。そして、磯風の目は、同時に配された小丼に釘付けになっている。無論、柏蕎麦である。

 不思議なことに、この日のメニューでは、椀物は別にあった。メニューの組み立てを考えてみても、蕎麦はどちらかといえば蛇足である。そのため、何故柏蕎麦が更に付いたのか、不知火も黒潮も、注文していない陽炎さえも疑問を持ちながらの食事となった。だが、そんな三人の思慮などどこ吹く風で、一心不乱に蕎麦を堪能する磯風。

「うまい蕎麦だった……」

 余程感極まったのか、小丼で供された蕎麦を食べ終えた磯風は、箸を置き、目頭をおさえている。

「ちょっと、磯風? どうしたの?」

「この磯風、今までこれほどの蕎麦を食したことは無い。いや、蕎麦を食す、などという言い回しはよろしくないな。蕎麦の命を頂いたのだから」

 磯風は、潤ませた目を伏せ、胸の前で右手をぎゅっと握りしめた。

「もし、この世界に運命というものがあるとすれば、今日この日に、私と、この蕎麦を巡り合わせた幸運に感謝しよう」

「磯風……」

「大丈夫か? 主に頭が……。まあ、確かに、美味ってのには同意やけどなぁ」

「二人とも心配しすぎです。明日になれば、今日はラーメンが食べたい、カレーが食べたい、と子供のように騒ぎだしますよ」

「ああ、せやな」

「容易に想像できて悲しくなるわ……」

 陽炎が椀を置いた。こちらはあさりの潮汁であった。どちらかといえばすっきりとした味わいを好む陽炎には、味噌仕立てよりもありがたい逸品だった。

 最後に水菓子と浅蒸しの宇治茶を腹に収めて、満足げな磯風は、黒潮に連れられて寮に戻ったはずだが、本人はあまりにも夢心地だったためか、その辺りのことはあまり覚えていなかった。

 

 

 浜風が所用を終えて自室に戻ると、磯風が大層ご機嫌な様子で枕を抱きしめながら、ベッドでうとうととしていた。この様子だと、どうやら午前中の心配は上々だったようね、と浜風は少し安心した。昼に戻っても、磯風の姿は見えなく、仕方なく食堂に行けば、メニューには蕎麦の字は見当たらなかった。午後は相当荒れるだろうか、と心配していたのだが、杞憂だったようだ。

「ん、浜風か?」

 目を数度瞬かせながら、磯風は頭を上げた。

「まだ陽も高いのに、随分なご身分ね、磯風」

「ああ、至極ご機嫌のご様子だ」

 そう言って、磯風は腹を二度三度はたく。しかし、あいかわらず別人格がそこにあるかの様な言い回しだ。

「それで、お蕎麦は食べられたの?」

「うむ。間宮の御膳でな。陽炎が助け舟を出してくれたおかげでありつけた」

「それは良かったね」

「うむ。ありがたいことだ。だが、……陽炎に借りを作ってしまってな」

 磯風が神妙な顔で殊勝なことを言ったので、浜風は思わず微笑んだ。いつもなら相当シリアスな空気を醸し出すはずが、枕を抱えているおかげでちっとも真剣味が見えない。これは磯風の雰囲気を和らげるのにいいかも、と浜風は素直に感心して相棒を見ていた。

「それは別の機会に返せばいいでしょう。まぁ、陽炎のことだから、そんなには気にしてないんじゃないの?」

「うむ。そうかもしれんな」

 浜風の言葉を、磯風は首肯した。

「それなんだが、いや、事後報告ですまんが、お前の胸を自由に揉んで貰うことで手を打った」

 間髪入れず、浜風の右手が、これ以上無い程の見事な音を立てて、磯風の左頬を殴りつけた。磯風は仰向けにベッドに倒れ込み、そのまま二度寝することになった。


 
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