No.777176

凪の海 - 完結

天才ギタリスト汀怜奈は、ロドリーゴ氏から与えられた命題『ヴォイス』を奏でるギターを求めて、その美しい髪を切った。昭和の時代を生きた人々、そして現在を生きる人々との様々な出会い。悠久に引き継がれる愛のシズルを弦としたギターで、汀怜奈は心の声を奏でることができたのだろうか。

2015-05-14 00:48:15 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:577   閲覧ユーザー数:576

 朝7時17分(日本時間では、午前1時47分)それは、突然襲ってきた。スペイン南部を震源地とするマグニチュード5.2の大地震である。その時、汀怜奈はホテルのベッドで枕を抱いて寝ており、佑樹は工房で橋本ギターのブリッジを貼りあげて、徹夜明けの目をこすりながら朝食に「チュロス (churro) とホットチョコレート(chocolate)」でも食べに、近くのカフェへ行こうかとしていた時である。

 スペインで地震なんて、なんて珍しいことだろう。後日の発表では、衛星データを使い、地震が引き起こした地殻のゆがみを調べたところ、過去50年の地下水くみ上げにより帯水層の地下水位が約250メートル低下し、地殻がゆがんだことに相関性があることが判明した。つまり、断層に人為的な圧力が加えられた結果の地震の発生である。

 東北地方太平洋沖地震はマグニチュード9.0で、今回のスペイン地震とは比べ物にならない。しかし、5.2だからといって被害が小さいわけではない。スペインをはじめヨーロッパの建築物は石造りのものが多く耐震力がない。地震に関しては「ほぼ無防備」といっても過言ではなく、マグニチュード5.2の地震でも都市がマヒするほど驚異的な天災となる。実際ラグナダでは、世界遺産の崩壊はまぬがれたものの、街ではビルや民家が倒壊して少なくとも十人以上の死亡が確認されたという。

 ホテルのベッドで揺れに目が覚めた汀怜奈は、幸い近代的建築の中にいたので、机の上のモノが倒れたり、壁に掛けた絵画が落ちる程度で、それ以上の被害はなかった。揺れが収まって、テレビをつけると程なくしてメディアが一斉に大地震の被害を告げている。

  現地からのテレビ映像によると、町の広場に複数の家族らが集まり、れんがやがれきが道路を覆う中、建物の倒壊から身を守っている姿が映し出される。自治体の当局者がテレビの取材に対し、「南部地域全体が深刻な被害を受けた。市民は自宅に戻ることを非常に恐れている」と語っていた。

 国営ラジオに答えたある女性は、「ここに座っていたら、すべてのものが動き始めた。絵は壁から落ち、テレビは倒れ、揺れは長い間続いた。窓から外を見ると、たくさんの人が逃げ出し、救急車や警察もいた。」と報告している。しかし、救急車や警察が動員されも路地が多いスペインの街並みである。がれきの下となった人やケガをした人の救助は困難を極めたはずだ。結果的には、今回の地震による被災者は約1万人とみられ、スペイン政府は軍兵士200人を被災地に派遣する大災害となったのである。

 汀怜奈は災害の大きさを知ると、慌ててスマホから母親に電話をかけ、安否を報告した。日本時間では午前2時頃だ。電話でたたき起こされた母親は、汀怜奈の話しを聞いて飛び起きた。

「でも汀怜奈さん、無事でなによりですけど…なんでそんなところにいるの?」

 母親の質問にも答えず電話を切ると、次はフロントに電話だ。帰国予定の交通事情を確認するためだ。何度鳴らしても電話に出ない。きっと各部屋からの電話が殺到しているのだろう。業をにやした汀怜奈は、外着に着替えてフロントへ向かった。案の定、フロントでは、ホテルマンが電話の対応で大忙し、汀怜奈が直接尋ねても返事が返ってくるのに時間がかかる。

 仕方なくフロントロビーのソファーに腰掛けて、ホテルマンの回答を待つことにした。ソファーに座っていると、不思議な感覚を感じた。こんな非常事態であるにもかかわらず、暖かな優しい視線を感じる。それが、さっきからずっと汀怜奈に注がれている。彼女は思わずその感覚がやってくる方向へ目を移した。汀怜奈はホテルの玄関に不精ヒゲこそ伸びているが、精悍な顔つきをした青年を見た。

「佑樹さん…。」

 汀怜奈は思わず立ち上がった。そんな彼女に気づいて、青年は外へと出て行った。本能的に汀怜奈は青年を追った。青年を追ってホテルの玄関から、外へ出ようとした瞬間。スペインでは聞きなれない日本語があたりに響き、彼女の動きを止めた。

「外へ出るな。」

 見ると、一回り逞しくなった佑樹が、自転車にまたがって汀怜奈を見ていた。その凛々しく美しい体躯に、汀怜奈は思わず息を飲んだ。

「いま外へ出るのは危険です。無事ならそれでいいんです。」

 佑樹はそう言うと、自電車のペダルを蹴って、丘の上の工房に戻っていった。

 口調はあの告別式の時と同様、冷淡なものだった。しかし根本的なところが違う。言っているコトが、あまりにも優しいのだ。

「なんですの、久しぶりにお会いしたのに…。」

 汀怜奈はそうひとりごちながら、その視界から消えるまで佑樹の背中を見つめていた。

 

 佑樹は、丘の上の工房に向かって、急な坂を相手にひたすらペダルを踏み込む。心臓がバクバクいって、息もだいぶ上がってきた。しかし、それが必ずしも上り坂を急いで立ちこぎしているせいとは言えないようだ。

 佑樹は、工房で地震に遭遇した。安普請な工房だから、その揺れはひどかった。壁や机に置かれた道具がガチャガチャと暴れだす。そして、生きているかのように、飛び跳ねて床に散らばった。木材はきしみ、作りかけのギターは、それぞれがぶつかり合い、倒れていく。マルティン師匠が、2階の寝室からパジャマのまま工房へ飛び降りてくると、佑樹にしがみついた。地震に慣れないスペイン人の師匠は相当怖かったに違いない。佑樹は頭を守りながら、仁王立ちした。外へ避難すればいいと思うのだが、足がすくんで動けなかった。幸い工房は、安普請なりの柔軟性を発揮し、大揺れの中で窓は歪み、ガラスが割れはしたものの、なんとか持ちこたえてくれた。

 地震の揺れが収まり落ち着いてくると、まず佑樹の心に飛来してきたのは『先輩は大丈夫だろうか』の思いである。いまだしがみつくマルティン師匠を無理やり引き離した。床にちらばる工房の道具や作りかけのギターを飛び越えて、佑樹は外に飛び出すと自転車にまたがった。止めるマルティン師匠の叫びも構わず、一目散で坂を下った。

 マルティン師匠から聞いていた汀怜奈のホテルに着いて、まずひと安心。くる道すがら、民家の倒壊を目撃していたのだが、この建物はしっかりと建っている。自転車を路上に投げ捨てて、ホテルに入ると、フロントで何か言い合っている汀怜奈が、いきなり目に飛び込んできた。佑樹は絶句した。服はラフなものだったから、自分の家に出入りしていた時の先輩そのものだ。しかし5年前とは違い、艶々と光る真っ黒な髪を長くして…。先輩はあんなに綺麗だったのか。疑問とも、感嘆ともつかぬ想いが、佑樹の体をフリーズさせた。

 先輩は、やがて首を振りながら、フロントカウンターから離れると、イラついた表情で長い髪をかきむしり、腕組みをして、どかっとソファーに腰掛ける。その細く白い二の腕と艶やかな黒い髪の対比が、このスペインの地には似つかわしくないエキゾチックな色香を漂わせた。こんな非常事態に不謹慎と諫められるとは思うが、佑樹が始めて先輩をセクシーだと感じた瞬間である。

 佑樹は吸い寄せられるように、汀怜奈を見続けた。これだけ見つめれば、見つめられる当人に気づかれないわけがない。果たして、汀怜奈はホテルの玄関に佇む佑樹を発見したのである。

 

『確かに、佑樹さんでしたわよね…だって、私の名前を呼んでらしたし…』

 汀怜奈は、佑樹が去っていく後ろ姿を見送ると、小走りにホテルの部屋に戻って、ベットの上で枕を抱えた。なぜか顔が赤くなっている自分が不思議だった。

 地震との遭遇と思いがけない佑樹との再会。驚くことばかりで、汀怜奈はどうも頭の整理ができないようだ。

 部屋の電話が鳴った。フロントから汀怜奈の問い合わせの返事がやっと来たが、この地震で、グラナダの交通網は完全にストップしてしまったとのこと。どうも、2~3日はこのホテルから動けないようだった。

 しかし、現実を示したホテルからの電話は、汀怜奈の頭を冷やしてくれた。多少、物事が冷静に考えられるようになってきたのだ。

 汀怜奈は、曲がりなりにも世界的なギタリスタである。この足止めで心配をかけたり、迷惑をかけてしまう人々が大勢いる。彼女は自分が取るべきタスクリストを作り上げると、ひとつひとつやっていくことにした。幸い、通信網は遮断されていないので、マネージャーや事務所や母親に連絡をとって、非常事態へ対処した。

 ひと通りのタスクを終了させると、なんだかお腹が減ってきた。そういえば、今朝の地震があってから、何も口にしていない。ホテルに問い合わせると、ルームサービスは無理だが、ダイニングサロンに来てくれれば、食事は準備できるとのこと。

 部屋を出てサロンの席に落ち着き、遅い朝食をとっていると、再び自転車にまたがる佑樹の姿が目に浮かんできた。

『明日に帰ってくるって、おっしゃっていたのに…いつ帰って来られたのかしら…でも、子犬のような少年だった佑樹さんが…あんなに男っぽくなるなんて…無精ひげのせいかしら…でも今度あったら言ってさしあげよう、不精ヒゲ剃りなさいって…だってあれでは…グラナダ中の娘さんたちが言い寄ってくる…佑樹さんは人を信じやすいから…きっと悪い女性に振り回されてしまうに決まってるわ。』

 汀怜奈は、チュロスをちぎって口に入れながら、いつまでも佑樹のことを考えていた。

「失礼ですが…」

 汀怜奈の妄想は、警察の制服を着た男に遮断された。男は英語で話しかけてきたのだ。

「はい?」

「あなたは、日本の方ですよね。」

「ええ。」

「スペイン語は話せますか?」

「多少なら…」

「誠に申し訳ないのですが、コミュニケーションボランティアとして、市の病院へ来ていただけないでしょうか。」

「コミュニケーションボランティア?」

「日本の旅行者の方が大勢ケガをされて病院にいらしているのですが、通訳の方が足りなくて…」

 もちろん汀怜奈が断るわけがなかった。

 

 汀怜奈のホテルから、パトカーに何人か乗り合わせて、向かった病院は、グラナダ駅に近い『ホスピタル ルイス デ アルダ』であった。汀怜奈は早速、5階にある外国人対応の診療室にエレベーターで誘導され、怪我の処置を受ける日本人旅行者と現地のドクターの通訳を受け持った。日本人には多少顔が売れている汀怜奈ではあったが、まさかこの事態でこの場所に、あの天才ギタリスタ村瀬汀怜奈が居合わせるとは誰も思っていなかったし、とにかく自分の怪我の方が重要なので、汀怜奈はあくまでもボランティア通訳として扱われ、そして彼女もその任務に励んだ。無我夢中で通訳として体を動かしているうちに、気づくと夜になっていた。来た時と同様、パトカーでホテルに戻り、ベットに倒れこむと、疲れのあまり着替えもせずにそのまま眠ってしまった。

 

 翌朝、汀怜奈が起きだしてフロントに確認したが、やはり交通網はストップしたままだ。今日もここで足止めとなった。一通り各所へ連絡すると、汀怜奈は手持ち無沙汰にベットに転がる。そして考えた。昨日病院へ誘導してくれた警官は、もう来なくても大丈夫たとは言っていた。でもホテルにじっとしていても仕方がない。彼女はフロントへ電話しタクシーを呼んでもらい、自力で病院へ行った。

 病院のスタッフとは昨日の働きで、すでに顔馴染みになっていたので、挨拶をすませると早速通訳の仕事についた。昨日と比べて、患者数もだいぶ落ち着いてきたようで、大方の日本人患者の治療処置も済んでおり、汀怜奈の通訳の仕事も午前中には終わった。

 さてホテルに帰るかと、病院のエレベーターを待ったがなかなか来ない。汀怜奈は、仕方がないので、階段で降りることにした。しかし、そこで汀怜奈は信じられない光景を目にしたのである。

 ちょうど3階のフロアに降りてきた時だ。そこは、各部屋が開け放たれ、ベットとはいわず病室の床、通路の床、その一面に薄い毛布が敷かれ、大地震でケガをした現地の住民たちが、所狭しと横たわっているではないか。付き添いの家族もふくめ、そこはごった返していた。汀怜奈は、今回の地震の被害の大きさをあらためて認識して、呆然と立ち尽くす。

「セニョリータ…」

 汀怜奈はスペイン語で呼ばれて我に返る。見ると、老婆が腕を汀怜奈に差し上げていた。その老婆の腕に巻かれた包帯は崩れており、地震で起きた火災で受けたやけどの肌が露出しかかっていた。大勢の患者さんがいて、医療スタッフの手が足りない。老婆が、汀怜奈に求めていることはすぐわかった。

 汀怜奈は、包帯を巻きなおそうと老婆の腕をとったが、包帯はすでに汚れきっており替えたほうが良さそうだ。枕元に真新しい包帯があったので、新しいものに巻き替えることにした。しかし、汀怜奈が包帯を扱う手がなぜか震えていた。こんなにも多くの名も無き市民が、地震の被災者となっていることに、彼女はショックを受けていたのだ。うめき声、出血した血の匂い、付き添いする家族の嘆き。それが、汀怜奈の胸にのしかかってきた。

 手が震えて包帯がうまく巻けない。汀怜奈の目に、涙が滲んできた。世界的な天才ギタリスタと呼ばれ、美しい音楽を奏でるこの手。それが被災して苦しむ人々、いやたったひとりのこの老婆の前で、何の役にも立たないではないか。それが、悔しくそして情けないのだ。

「先輩、なんか包帯とモメゴトですか?」

 久しぶりの日本語で名前を呼ばれた汀怜奈が振り返るとそこに、笑顔の佑樹が立っていた。

 なぜそんな行動に出たのか、あとになっても汀怜奈は説明ができないのだが、我慢していた涙がどっと溢れ出し、佑樹に抱きついて声をあげて泣き始めたのだ。佑樹の顔を見て安心のあまり、張り詰めていた気持ちが緩んだのだろうか。

「先輩、先輩…どうしたんですか。」

「えっ、えっ…。私…手がうまく動かないんです。えっ、えっ…。」

「見知らぬ土地で、大震災でしょ。手が動かないのも当たり前ですよ。ほら、こんなところで泣くのはやめて…。」

 佑樹は、優しく肩を抱いて汀怜奈の頭をなぜながら慰めた。

「先輩、お婆さんが待っていますよ。包帯を貸してください。」

 佑樹は汀怜奈が落ち着いてきた頃を見計らうと包帯を受け取り、素早くそして綺麗に、老婆の腕に巻き始めた。汀怜奈は、その様子をじっと見つめていた。

「佑樹さんの手…やっぱり器用ですね。」

「なに言ってんですか、ギター弾く手は下手だと見限ったくせして…。」

 佑樹の言葉を聞いて、泣汀怜奈の顔が笑顔に変わった。グラナダの老婆は、汀怜奈に包帯を直してもらおう声をかけたのはいいが、わけのわからぬ言葉で話しながら、コロコロ変わる汀怜奈の表情と展開についていけず、唖然としたおももちでふたりをみつめている。

「佑樹さんは、なぜここにいらっしゃるの。」

「自分は一応住民ですから…医療ボランティアに駆り出されました。」

「そうなのですか…。」

「先輩は?」

「ええ、上の階で通訳ボランティアしていたのですが…終わって下の階に来て驚きました。こんなだったなんて…。」

 老婆の包帯の処置を終えた佑樹が、次の患者さんの様子を見に移動した。汀怜奈は、自然に佑樹のあとについて、患者さんを巡る。佑樹も自分について回る彼女を制したりはしなかった。

「私ね…。」

「はい?」

 患者さんへ処置する横で勝手に話し出す汀怜奈ではあったが、佑樹は迷惑がらずにしっかりと返事を返す。

「自分が悲しくなってしまったのです。」

「どうして…」

「いくら偉そうに芸術だ音楽だなんて言っても、今ここでは、何の役にも立てない。」

「そうでしょうか?」

 佑樹が汀怜奈に向き直って、両肩に手を添えた。

「音楽家は、今ここで役に立たなかったとしても、先輩なら十分に役に立てますよ。」

「どうやって?ギターしか持ったことのないような私が、何の役に立てるの?」

「ほら、あそこの女性が見えるでしょ。」

 汀怜奈は佑樹が指し示す方を見つめた。薄汚れた服をそのままに、包帯を巻いた子どもを抱いた女性が、大粒の涙を流していた。

「彼女はこの地震で家を失い、子供がケガをして…。頼りの旦那さんは震災前に亡くしていて、この後ひとりでどうしたらいいかわからず、一日中泣いているんです。」

「えっ、ちょっとまってください、佑樹さん。そんな方に私に何が出来るって言うのです。」

「ただ話しを聞いてあげればいいんですよ。彼女の心配や不安そして嘆き。なんでもいいから、今の彼女の心に溢れていることを聞いてあげてください。彼女も話し尽くせば、多少は心に隙間が出来て、明日のことが考えられるようになるかもしれない。」

 佑樹はそう言うと、汀怜奈の肩を回して向きを変えると、その背中を押した。

「さあ、行ってあげてください。」

 佑樹に背中を押されて半信半疑で女性に近づく汀怜奈。本当に話しを聞いてあげるだけで役に立てるのだろうか。だいたい、身も知らぬ私にそんな思いを話してくれるものなのだろうか。

 案の定、近づいてきた汀怜奈に気づいた女性は、彼女に背を向けた。汀怜奈が足を止めて、振り返り佑樹に『無理ですよ』のサイン。しかし、佑樹は笑いながら首を左右に振って、彼女が戻るのを許さなかった。

「セニョーラ」

 汀怜奈が、女性に呼びかけながらそばに跪いた。女性は相変わらず顔を背けていたが、その肩はまるで狼の潜む森に迷い込んだ子羊のように心細く小刻みに震えていた。それを見た汀怜奈は言いようのない感情に見舞われ、全く無意識にその肩に手を添えた。女性は、汀怜奈の暖かく柔らかな手に触れられて、その態度が一変した。汀怜奈の胸にしなだれかかると、嗚咽しながら流れる滝のごとく話し始めたのだ。どのように夫を亡くしなのか、地震で家がどんな崩壊の仕方をしたのか、こどもがなぜ怪我をしたのか。それは、説明ではない。心の奥底から湧き上がる嘆きであり、叫びであった。女性は疲れて眠るまで、その話しは続いた。あたりが暗くなってきた頃、汀怜奈はようやく、女性とその子どもに毛布をかけてその場から離れた。

 汀怜奈は気づかなかったが、嘆く女性を胸に抱き、優しくいたわる姿がスマホに撮られていた。確かに3階にいる多くの被災者と家族の中には、汀怜奈を世界的な天才ギタリスタ『村瀬汀怜奈』だと気づくものも居たに違いない。その献身的な姿は被災者のツイッターに書き込まれ、その画像は瞬く間に世界中に拡散していった。

 

 そろそろ病院からホテルへもどろう。そう考えた汀怜奈は、病院に佑樹の姿を探した。しばらく探し回ってその姿をようやく見つけると、佑樹も仕事が終わったのだろう、デイパックをしょって病院から出るところだった。

「佑樹さん」

 ここで逃したくない汀怜奈は、ひと目もはばからず大きな声で呼び止めた。佑樹はその声に足を止めたものの、振り返って汀怜奈を見ようとはしない。汀怜奈が佑樹に追いついた。

「佑樹さん。お帰りなの?それなら、途中まで一緒に…。」

「この時間に外を出歩くのは危険ですよ。村瀬汀怜奈さん。」

 どうしたことか。泣きじゃくる汀怜奈をいい子いい子してくれた佑樹はそこにはいなかった。代わりに告別式で別れた時の佑樹がそこにいる。佑樹は、汀怜奈を一瞥もせず、通りでタクシーを呼び止めると、汀怜奈の手首を持って黙って車内に放り込む。

「ちょっと、佑樹さん…。」

 佑樹は運転手に行き先を告げると、荒々しくドアを閉めて車を発車させた。汀怜奈は、その変わりように驚きながらも、振り返って後部シートの後方窓ガラスから佑樹の姿をただ見つめ続けるだけだった。

 

 佑樹は汀怜奈を乗せて走り去るタクシーを見ることさえ辛かった。汀怜奈の澄んだ瞳など正視できるはずもない。自分がボランティアで駆り出された病院に汀怜奈がいたことには、心底驚いたが、最も驚いたのはそこにいたのは、村瀬汀怜奈ではなく、地元商店街の八百屋で、もやしの取り扱いに自信なさそうにしていた『先輩』だったのだ。

 彼の口から、思わず先輩と声をかけてしまった。先輩はあの時と同様、素足のまま佑樹のところに駆けてきた。自分の胸で泣き始めたのには戸惑いもしたが、先輩らしいといえばそうかもしれない。

 その後は昔と同様に素直に先輩と接することができた。悲嘆する女性の話を優しく聞いてあげている姿も、暖かく見守ることができた。しかし、居合わせた医療スタッフが、『あの人は、天才ギタリスタのセニョリータ・ムラセだ。』と同僚にとささやきあい、スマホに汀怜奈の姿を撮影しはじめたのを目撃して頬を打たれた気分になる。

『そうだ。何が先輩だ。あそこにいるのは村瀬汀怜奈じゃないか。』

 それからというもの、佑樹は汀怜奈と会って溢れ出てきていた得体の知れない気持ちを、抑え込む努力を始めた。やっとのことで心の奥に押し込めたと思ったが、帰り際出口で自分を呼び止める汀怜奈の声を聞いて鍵がはずれかかる。それだもの、汀怜奈の瞳でも見ようものなら、びっくり箱のピエロよろしく飛び出してしまう。

 

 翌朝、汀怜奈はまた病院行きのタクシーに載っていた。昨日の朝と違うのは、腹を立てていること、そしてフロントに今日の交通事情を問い合わせもしなかったことである。

『昨日のあの失礼な態度はいったい何ですの。私なにか悪いことでもしましたか?ちゃんと会って謝ってもらわなければ気がすみませんわ。』

 そう言って口をへの字にして腕を組む汀怜奈。彼女独特の言い回しではあるが、平たく言えば佑樹に会いたいのである。

 病院に着いて、佑樹を探したが、彼の姿はなかった。まだ早くて、病院へは着いてないのだろうと諦めて、汀怜奈はいま自分ができることを始めた。患者さんやその家族のあいだを巡りながら、優しく声をかけ、話しを聞いて回ったのだ。汀怜奈と触れ合った患者さんや家族は、最初は警戒するものの、いつしか自らの全霊込めて汀怜奈に話しはじめる。怒鳴る人もいれば、泣きじゃくって言葉にならない人もいる。それぞれの人のそれぞれの人生があるからこそ、震災から生まれた悲劇は形も違えば深さも違う。人々が共有できる悲劇などないのだ。聞いて回っているうちに、佑樹を探すことを忘れていった。

 フロアを回っていると、汀怜奈は昨日話しを聞いた女性と目があった。彼女は昨日と違って泣いてはいなかった。涙が枯れてしまったのだろうか。彼女はじっと汀怜奈を見つめていたが、かすかにその瞳に生きる決意が宿っていた。ああ、佑樹が言ったように、胸に溢れるものを声にして吐き出し、ようやく明日を考える隙間が出来たのだろうか。汀怜奈がやっていることが決して無駄ではないことが実感できた。

「セニョリータ・ムラセですよね…。」

 汀怜奈は、カイゼルヒゲをはやした白衣の老人に声をかけられた。

「はい、そうですが。」

「私はここで病院長を務めていますモナルデスといいます。」

「ドクターモナルデス なんの御用でしょうか。」

「震災の被害者に献身的な介護をしていただいて、病院長として心からお礼を申し上げます。」

「そんな…あたりまえのことですわ。」

「献身的な奉仕をいただいているのに、重ねてのお願いは誠に申し訳ないのですが…。」

 汀怜奈はなんとなく病院長の依頼が察せられた。

「実はインターネットで、セニョリータが世界的に著名なギタリスタであることを知りました。ご存知のように、スペイン人はギターとその楽曲を祖国と同様に愛しております。今、震災で打ちのめされた人々がこの病院に集まっております。そんな人たちを励まし癒すために、少しの時間でも結構ですから、この病院のフロアでギターの独演会をしていただくわけにはいかないでしょうか。」

 汀怜奈は少し考え込んだ。人道的には断るべきではない。しかし、汀怜奈には躊躇する理由があった。だから、必死に断れる言い訳を探した。

「音楽家としてお役に立てるのであれば、ぜひともお力になりたいのですが…。実は、こんな時にこんな話は甚だ不適当かもしれませんが、エージェントとの契約事項がありまして、エージェントの許可無く私の一存で勝手に演奏会を開けないのです。」

 モナルデス病院長の落胆は尋常ではなかった。

「…そうですか…契約なら仕方ないですね。」

「どうしたんです、先輩。肩が震えてますよ。」

 日本語で背後から声がした。振り返ると佑樹が立っていた。

「弾く自信がないんですか。」

「佑樹さん。人の話しを盗み聞きして、勝手なことをおっしゃるのはやめてくださる。」

「世界の村瀬が、弾く自信がないんですか。」

 その生意気なものの言い様と態度にプライドの高い汀怜奈は切れた。

「私はプロの音楽家です。いつでも、どこでも、乞われれば演奏はできます。」

「なら、なぜ断るんです。」

「だから契約が…。」

「嘘でしょ。世界の村瀬汀怜奈がエージェントとの契約を怖がるわけがない。」

「プロの世界はいろいろあるのです。」

「いや、先輩が嘘をつくときはすぐわかる。」

「何言ってらっしゃるの。私が告白するまで女だってわからなかったくせに。」

 汀怜奈の剣幕に、佑樹も少しムキになってきた。

「いやっ、そういうこともあったけど…今回の嘘はわかりますよ。」

「なぜわかるのですか。」

「先輩は、不安だったり、悲しかったり、迷ったり、そして悲しい嘘をつく時には、かならずその細い肩を震わせるのを、知ってました。」

 佑樹はそう言い放つと勝ち誇ったように汀怜奈の瞳を覗き込んだ。そして、瞬く間に後悔の念に襲われる。汀怜奈の瞳には涙がいっぱい溢れていたのだ。

「そうです…佑樹さんの言うとおりです…自信がないんです。ここにいる患者や家族の皆さんのお話を聞いて…その悲しみや悲嘆の深さを知って…知れば知るほど…ただ音色が綺麗というだけで、なんの『ヴォイス』も聞こえてこない私のギターが…そんなみなさんへの励ましや癒しになるとは思えないの…。」

 ついに汀怜奈は泣き出してしまった。

『音楽家としても、そして人間としても、なんて純粋な人なんだろうか。この人は…』

 佑樹は、泣きじゃくる汀怜奈の肩を優しく抱いた。しばらくして汀怜奈も落ち着いてくると佑樹は優しく言った。

「まだ『ヴォイス』の呪文が解けないで苦しんでいたんですか?もうとっくに解けているかと思ってましたよ。」

「そんな簡単な、話しじゃないですわ。」

 佑樹は汀怜奈にハンカチを差し出した。

「大丈夫ですよ。先輩。だったら自分が先輩に、呪いを解く魔法をかけてあげます。」

「えっ?」

 佑樹はモナルデス病院長に向かって自信を持ったどや顔で言った。もちろん今度はスペイン語でだ。

「病院長。どうぞコンサートの準備を進めてください。セニョリータ・ムラセは演奏してくれますよ。」

 これまで不可解な日本語での慌ただしいやり取りと、ふたりの激しい感情の変化を、ただ呆然と見守っていた病院長も、とにかくコンサートが出来るとわかって、安心したように笑顔で頷いた。

 

 汀怜奈は一度ホテルに戻った。こんなことになるとは思っていなかったので、ドレスなどあるわけがない。もちろん演奏用のギターもあるわけがない。楽器は、佑樹が工房から1台借りてきてくれるとは言っていたので、とりあえず、質素ではあるが清純なワンピースを選んで着替えるとまた病院に戻った。外来ロビーでのコンサートだから、音響設備もなければ照明設備もない。音の弱いギターの音を増幅するため、反射音が期待できるポジションにステージを設置し、照明としてはロウソクが持ち寄られた。冷たい病院の蛍光灯ではなくてロウソクの灯でコンサートをおこなおうというのだ。さすがヨーロッパ的といえばそうなのかもしれない。病院からのお知らせを聞いて、病院中の患者や家族が集まってきた。外来ロビーは人でいっぱいになった。

 汀怜奈は、会場から離れてひとり、楽屋としてあたがわれた診療室にいた。会場の準備が着々と進む状況が報告されるたびに、彼女のストレスも高まっていく。

『佑樹さんはどこへ行ったの。魔法をかけてくれるって言ったのに…。』

 結局佑樹が楽屋に飛び込んできたのは、コンサート開始一〇分前。

「佑樹さん。あと1分でもおくれていたら、確実にバンナのハイキックがとんでますわ。」

「すみません。ギターの仕上げに手間取って…でも大丈夫間に合いました。ほら。」

 佑樹が差し出したギターは、工房に預けていた橋本ギターだった。

「これが魔法ですか?」

「いえ、これは魔法を掛けるのに必要な小道具です。いいですか…。」

 佑樹は、汀怜奈の正面に座り、その両手を取った。

「目をつぶってください。」

「目をつぶるんですか?」

「魔法って、そういうふうにかけるもんでしょ。」

「そうでしょうか…」

 佑樹に両手を握られて、少し早くなった鼓動を悟られまいと、汀怜奈は大きくため息をついて目を閉じた。目を閉じたのを確認すると佑樹は魔法をかけ始める。

「まずはじめに、自分にギターを教えていただいた頃を思い出してください。」

 汀怜奈は、狭い佑樹の部屋で、佑樹と佑樹のお父さんとギターをはさんで、楽しくおしゃべりしている光景を思い出した。

「あの時先輩は言いましたよね。音の弱いギターは音楽を聴かせるというよりは、語るって感じだと。だから、彼女をモノにしょうとするのに、ギターを選んだのは、案外正しい選択だったのかもしれないって。」

「ええ、そうでしたわ。」

「でも、本当にそうでしょうか?」

「えっ、どういうことですの。」

「あっと、目を開けちゃダメです。次に思い出してもらいたいのは…。」

 汀怜奈は開きかけたまぶたをまた閉じて佑樹の言葉に集中する。

「おじいちゃんの昔話です。」

 そう、おじいさまが病床で最期の力を振り絞ってお話いただいた昔のお話し。汀怜奈は、時折息を継ぎながら、苦しくも楽しそうにお話しをされるおじいさまの顔を思い出した。

「あのときじいちゃんは、『凪の海のようなギター』が素晴らしいギターなのだと言ってましたよね。」

「ええ、そうしたら、ならば音の出ないギターのことなのって…おかしいですわね。」

 話しながら汀怜奈の顔に笑が溢れる。

「自分もグラナダでギター作りを学びながら、ずっとそのことを考えていました。いったい、『凪の海』のようなギターってどういうことなのか…。」

「お分かりになったんですか?」

「いえ、未だに正解は得ていないんですが…ただ、『凪の海』ってどんなだろうって想像してみたんです。先輩も想像してみてください…。」

 汀怜奈は、目をつぶったまま、上を向いた。

「静かで、穏やかで…きっと音といえば、かもめの鳴く音、船の切っ先が風を切る音だけ。海自体は何の音も立てることはない。そんな雄大で優しくそして寛容な海を目の前にしたら、人間ってどうするでしょうか。」

 汀怜奈の手を握る佑樹の手に力が入った。

「きっと自分だったら、口に出せずに心の奥底にしまっていた想いや、願いや、悲しみを、海に向かって語りはじめると思うんです。」

 汀怜奈はインスピレーションを得たように目を見開いた。

「『凪の海』のようなギターとは、その雄大で優しく、そして寛容な音で、聴く人の魂の声を引き出すものだと…。」

「もちろん、ギター自体にそんな力などあるはずもありません。先輩がじいちゃんに弾いてくれたあの演奏。あれはすばらしい演奏でした。自分が弾いたときは何の声も聞こえませんでしたが、先輩が引いてくれたときは確かに、じいちゃんとばあちゃんの話す声が聞こえました。」

「わたしもです。」

「今までギターとギターを演奏するものが、語り、声を出すのだと思っていました。そうではなくて、聴く者たちが、そのギターの音色と演奏を聞いて、自分たちの本当の心を見いだし、そして語り始める。」

「その時に…その時に聞こえてくる声が、ロドリーゴ先生がおっしゃっていた『ヴォイス』?」

 今度は、汀怜奈が痛いくらいに佑樹の手を握り返してきた。

「痛てっ、せ、先輩…自分にはそんな高名な先生と天才ギタリスタのやりとりなど到底理解できませんが…どうも魔法はかかったようですね。さあ、天才ギタリスタ、自分が修理したこの橋本ギターを持って、ステージへいってらっしゃい。」

 汀怜奈は、佑樹に促されて立ち上がった。そして橋本ギターを手にゆっくりとステージへあゆみはじめる。佑樹は、そんな彼女の背に向かって最期の魔法を掛ける。

「ちなみに、修理してわかったんですが…その橋本ギター、トップ板の裏に貼ってあった札をよくよく見ると…『ストップ』と書いてありました。じいちゃんが趣味で作ったギターだけど、橋本師匠が工房のギターと認めてくれて、メーカーラベルを貼ってくれたんでしょう。」

 汀怜奈の瞳にもう迷いはなかった。

 

 佑樹の手によって魔法がかけられた汀怜奈は、ロウソクの灯に浮かび上がるステージに進み出た。大勢の聴衆がいたのにもかかわらず、誰も彼女の登場に拍手する者はいない。もう震災のせいでその力も残っていないのだろう。

 汀怜奈は、そんなオーディエンスひとりひとりの顔を見つめた。どの顔も疲れきっている。そのうつろな瞳はいったい何を見ているのだろうか。

『たとえ私がどんなに天才ギタリスタだとしても、悲しみに漂うみなさんの心を、私の演奏で揺さぶり、励まし癒そうなんてできっこありません。ただ、私に出来ることは、みなさんの声を聞くことだけです。さあわたしのギターで、みなさんの前に凪の海を出現させましょう。あなたの心の声を聞かせてください。』

 汀怜奈は弾き始めた。曲はフランシスコ・タレガ作曲「アルハンブラ宮殿の思い出」タレガが、ここグラナダにあるアルハンブラ宮殿を訪れた際の印象を元に1896年に作曲された。トレモロ奏法を活用した曲としても名高く、右手の薬指、中指、人差し指で一つの弦を繰り返しすばやく弾くことによりメロディを奏する。高度な演奏テクニックを有するギタリスタだけに演奏が許される、あまりにも有名な名曲である。

 曲が始まるとすすり泣く音が会場から聞こえてくる。弾いている汀怜奈はとっくにゾーンに入っているから、そんな音が聞こえるわけがない。しかしやがて汀怜奈の耳には、演奏を聴いている人たちの、心の叫びが聞こえてきていた。不安、悲しみ、挫折、中には耳を覆いたくなるような声もあった。心を揺さぶられているのは汀怜奈の方だ。しかし、それでも涙をこらえて弾き続けられたのは、その声の中に、小さな声であったが、汀怜奈への愛の声を聞いたからだ。

『がんばって、大好きな先輩。自分はここに居るから。』

 その声に支えられて、汀怜奈は弾ききった。

 

 汀怜奈には永遠のように思えた5分42秒の名曲を弾き終えたあと、会場は静寂に包まれた。そして突然、雷のような激しい拍手が湧き上がった。外来ロビーに力なく座り込んでいた人々が、薄い毛布に横たわっていた人々が、立ち上がって拍手をしている。始まる前とはちがって、その聴衆の瞳にはわずかながらも力の灯火が宿っていた。そして、そのくちもとには、微笑みともとれるような優しい表情が浮かんでいた。

『話し尽くせば、多少は心に隙間が出来て、明日のことが考えられるようになるかもしれない』

 汀怜奈は佑樹の言葉を思い出して、聴衆のなかにその姿を探した。しかし、彼を見つけることはできなかった。

 拍手はいつまでもなり止むことがなかった。

 

 翌朝、佑樹は工房の木材を切り出す作業のために裏庭に出ていた。しかし、作業の手をほとんど動かすことなく丸太に腰をかけてぼうっとしている。

 夕べの汀怜奈の演奏は素晴らしかった。音が奏でられた瞬間からもう佑樹は涙が出て止まらなかった。感動というのは、まさにこういうことなのだろうとあらためて実感する。人の心に染み入る演奏をする汀怜奈はやはり天才である。そして、天才は世界のいや人類の宝だ。決して個人が独占するべきものでもないし、手にいれられるものでもない。

 演奏が終わって、すべての聴衆から感動の拍手を受ける汀怜奈を見たとき、告別式でスカートを履いた汀怜奈を見た時と同じ気持ちが湧いてきたのだ。再び、汀怜奈と自分との間には何万光年もの距離があることを実感した彼は、逃げるようにして会場をあとにした。

 もう会うまい。仮に会っても何度も同じ気持ちを味わうだけだ。こんな気持ちをずっと繰り返していたら、気が変になってしまう。出会った時から汀怜奈は自分にとって、家族以上に一緒にいたいと思える人であることは変わらない。しかし今となっては、出会ってしまったことが幸福だったのか、不幸だったのかよくわからなってきた。

 汀怜奈への思いを吹っ切るように、彼は腰を上げると、その丸太にミノを打ち込んだ。

「佑樹さん」

 背後から彼を呼ぶ声は汀怜奈のものであることはすぐにわかった。アルバイシンの丘を登ってやってきたのか多少息が上がっている。佑樹はなぜか怖くて振り返ることができなかった。

「佑樹さん。呼ばれても無視するのは礼儀に反しませんか。」

 佑樹は心を読まれまいと、無表情の仮面をつけて振り返った。見ると大きなバッグを持った汀怜奈が、肩で息をしながら仁王立ちしている。

「昨夜は人にコンサートさせながら、挨拶もなく帰ってしまうなんて、冷たいとおもわれませんか。」

 佑樹は黙って返事も返さなかった。

「私は…空港も稼働を始めたので、今日中にマドリードへ戻って、帰国しなければなりません。」

 汀怜奈はそう言って佑樹の顔を覗き込んだ。佑樹もバツが悪くなって口を開くが、皮肉しか出てこない。

「そうですか。世界の村瀬汀怜奈ですから…当然ですね。」

 喋れば喋るほど自分が嫌になってくる。しかし、そんな自己嫌悪に陥る佑樹にお構いなく、汀怜奈は平然と言葉を続ける。

「だから、私には時間がなくて…でも、佑樹さんとやりたいことがあるから、協力して欲しいのです。」

「なんですか、なんで村瀬さんに協力しなければならないのです。」

「だって…私のこと好きなんでしょ。」

 汀怜奈のあまりにも突然な発言に佑樹も咳き込む。

「ち、ちょっと待ってください。なんで僕が村瀬さんのことが好きなんですか。」

 声を荒立てる佑樹にも、汀怜奈は平然としている。

「家族以上に一緒にいたいとおっしゃってたわ。」

 汀怜奈の言葉に、彼はさらに気色ばんで声を上げた。

「何度も言わせないでくださいよ。自分が好きだったのは先輩であって、村瀬汀怜奈ではないんですから。」

 それでも汀怜奈は平然として、佑樹に近づいていく。そして、しなやかな美しい指で、無精ひげの生えた佑樹の顎をとらえた。

「あなたの口から聞こえる言葉は信じません。あなたの胸から伝わってくる声を私は信じます。」

 そう言うと、佑樹の顎を引き寄せてその唇にキスをした。その甘美でやわらかな汀怜奈の唇を感じた瞬間に、佑樹はもはや廃人も同然、抵抗する気力も力も失っていた。

「いい?一度しか言いませんからよく聞いてくださいね。天才ギタリスタ村瀬汀怜奈は世界のものだけど、ただの村瀬汀怜奈は、あなただけのものになりたいと願っているのよ。」

「そんないい話し、一度しか言ってくれないんですか…」

「当たり前ですわ…さあ、納得したらこの服に着替えてくださる。」

 汀怜奈は、大きなバッグから白いタキシードを取り出すと佑樹に渡した。

「なんです?」

「いいから、早く。」

 キス一発でもう汀怜奈のいいなりになっている佑樹は、首をかしげながらも、もちろんその服に着替えた。一旦工房の部屋に入っていった汀怜奈だが、出てきた彼女の姿を見て佑樹は度肝を抜かれた。

「なんでウェディングドレス?」

「いいましたわよね。私は、今日中にマドリードに戻って帰国しなきゃならないって。」

「でも…。」

「帰ったら公演会、公演会で時間がないんです。下手したら、そのままおばあちゃんになってしまいます。」

 汀怜奈は、佑樹の手を持ってアルバイシンの丘を下っていった。目指すは、サンタ・マリア・デ・ラ・アルハンブラ教会。

「ちょっと先輩。信者でもないのにそんなとこで式を挙げられないでしょ。」

「教会コンサート1回でバータ交渉しました。」

「あれ、勝手にコンサートできない契約だって、先輩言ってたでしょう。」

「そんなの嘘に決まってるじゃありませんか。でも…式を挙げる前に警告しておきますけど…式を挙げてから私を先輩って呼んだら、本当にバンナのハイキックをお見舞いしますからね。」

 いいなり佑樹はそのまま教会に連れ込まれ、幸せそうな顔をして神父の前で、汀怜奈へ生涯の愛を誓った。ふたりの結婚を告げる鐘の音が、地震からの復興をスタートさせる合図かのごとくグラナダの街に鳴り渡った。

 

 

 汀怜奈が、震災の被災者を優しく抱いている姿、後に伝説となった病院コンサートで、ギターを抱えている姿、そしてウェディングドレスで佑樹に抱かれながら、幸せそうな笑顔で教会を出る姿。ほぼ一日半で起きたこれらの画像が、瞬時にインターネットを通じて世界に拡散した。それをデスクのPCで見たDECCAのエージェントは、頭をかかえる。全く事態が把握できず、殺到するプレスの問い合わせに対応できないのだ。初めてのポートレイトを撮った翌日に無断で髪を切った時から、このアーティストは一筋縄ではいかないことは、分かっていたのだが…。エージェントは溜息とともに、あらためて彼女との契約事項について、抜本的な見直しが必要だと実感していた。

 

 

、七年の月日が経った。

 ここは日本。湘南の海の見える高台に構えた家の庭で、1歳半の女の子が、祖父らしき人物に見守られながら花を摘んでいた。

「凪。」

 ギターの練習を終えた汀怜奈が、部屋から声をかける。もちろん凪は佑樹とのあいだに生まれた愛娘である。汀怜奈はヨーロッパツアーから帰国し、久々に自宅で過ごしているのだが、自宅での休暇であろうがギターの練習を欠かさない。天才といえども、そういう姿勢があるからこそ、彼女はいつまでも世界的トップアーティストとして君臨し続けられるのだ。

「庭にいるよ。」

 答えたのは佑樹の父である。

「あら、アブエロ(スペイン語でおじいちゃん)。いらしてたのですか。」

「ああ、寄らせてもらったよ。」

「凪に会いに、毎日のように通っていらしたのに、最近お顔を見ていないって佑樹さんから聞いて…心配していました。」

「うん、ちょっと野暮用があってね…でも、用事は済んだから、また通わせてもらうよ。」

「本当にひとりでなにやってんだか…まさか、人に言えないような事してないだろうな。」

 佑樹が家に隣接するギター工房から、組み立て中のギターを担いで出てきた。

「失礼なこと言うな。」

「凪ちゃーん。」

 今度はブランドのプレタポルテに身を包んだ汀怜奈の母が、庭の木戸門から顔を出し、凪を抱き上げた。

「あらあら、今度は意外なところからアブエラ(スペイン語でおばあちゃん)の登場ですね。」

「玄関で呼んでも誰も出てきてくれないから、直接きちゃったわよ。」

 凪を下ろしながら、不満顔で言う母親。4人は、海風が渡る庭のガーデンチェアに座って、花摘みに忙しい凪を優しい笑顔で見守った。

「そういえばヤスヒデさん。ご出版おめでとうございます。これ…お祝いです。受け取ってください。」

 汀怜奈の母親が、佑樹の父にリボンのついた小さな箱を渡した。

「出版?」

 佑樹が怪訝な顔で父親に問いかける。

「ああ、言ってなかったけ…最近本出してさ…。」

「エロ小説?」

「まさか…ほら、亡くなる前に聞いたじいちゃんの話し、あれをベースに恋愛小説書いたら、珍しく編集者が認めてくれてさ…。」

 佑樹の父親は、嬉しそうに小箱を開いた。中には、ウォーターマンの万年筆が入っていた。

「いやー、嬉しいな。信子さんありがとう。高かったでしょう…。」

「ヤスヒデさんも、もう作家の仲間入りですからね。少しはいい筆記用具をお持ちになった方が…。」

 そんなふたりのやり取りを、汀怜奈はにこやかに見守りながら言った。

「ところで、アブエラもアブエロも、いつも申し合わせたようにここでお顔をあわせて、いつの間にかふたりで姿を消されてしまいますけど…。」

「そうだよ、うちはデートの待ち合わせ場所じゃないんだからな。」

「佑樹、なんてこと言うんだ。汀怜奈さんのお母さんに失礼だろ。」

「私たちは、凪ちゃんに会いたいから来て、いつも偶然お会いするんです。」

 そう言う母親がわずかながら顔を赤くしたのを汀怜奈は見逃さなかった。

「佑樹さんは、アブエロがアブエラとあまりにも仲がいいから、ヤキモチをやいているのですよ。」

「そうだよオヤジ。たまには一緒に飲もうよ。愚痴でも悩みでも聞いてやるから」

「お前と飲んでもなぁ。」

「なんだよ。」

「それに愚痴や悩みなら、凪ちゃんの方が話しやすい。」

「1歳半の子に…マジかよ。」

「ああ、『御魂声 染み渡るかな 凪の海』とはよく言ったもんだ。」

 汀怜奈の表情が変わった。

「アブエロ。それって…。」

「えっ、今の?」

 汀怜奈が勢い込んで頷く。

「ああ、死んだじいちゃんがよく言ってたんだ。なんだか、どっかの庭の門に書いてあったんだって。」

 汀怜奈が急に怒り出した。

「知っていらっしゃるなら、早くおしえてください。」

「えっ、何が…」

「あああ、オヤジ…また汀怜奈を怒らせちゃった。」

「なぜ?どうして?」

 訳も分からず狼狽する姿が滑稽で、怒っていたはずの汀怜奈も笑い出した。

 実は木戸門の言葉を聞かずとも、汀怜奈にはもうわかっていたのだ。芸術や音楽に極めるということはない。しかし、アーティストとしてより高みに導いてくれるものを求めるとすれば、それは師匠や不休の練習ではなく、真摯に生きる人々と正面から向き合うことなのだ。

 みんなの笑い声が空に登っていくのを感じながら、汀怜奈は家族ひとりとりの顔を見つめた。佑樹のおじいさんとおばあさんのロマンスがあって、ここにアブエロがいる。アブエロのロマンスがあって、佑樹がいる。アブエラのロマンスがあって私がいる。そして、佑樹と私のロマンスがあって、ここに愛らしい凪がいるのだ。

 汀怜奈は母らしい優しい瞳で娘を見つめた。それを感じたのか凪は、ヨチヨチとやってくると、摘んだ花を手に持ったまま彼女にギュウをした。

 いのちはロマンスで永遠につながっていく。いったい凪はどんなロマンスで、新しい命をつなげていくのだろうか。    (完)


 
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