No.769778

DarkandRed ~ 朝のこない夜のなか 新章

今生康宏さん

最終章です
これ以上はもう、逆さになっても物語は出て来ません。完全完結です

2015-04-08 20:47:52 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:321   閲覧ユーザー数:320

新章 夜明けの世界

 

A

 

「ユウヤ。今夜もまた、ひとっ走りしてくれない?」

「了解、今度の依頼はどこまで?」

「どこでもいいって。安全に死体を処理できるなら」

「……はあ、また死体か。なんというか、麻薬とか武器とか運ぶのも気が重いけどさ、死体が一番嫌だな、俺は。なんかさ、憑かれそうなんだ。俺の車は霊柩車じゃないってのに」

「まあ、報酬はいいから割りきって、ね。ちなみにマフィアの結構な幹部なんだってさ。それを人知れず処分するってことは、なんなんだろう。クーデターの類かな。立ち入ったことは聞かないとはいえ、気になっちゃうよね」

 退院したマコトは、新たな生活を新たな場所で始めていた。新たな仕事仲間と共に。

 今度は雑居ビルの三階とガレージを借りて、新たな仕事のエージェントをすることになった。実際に仕事をするのは、彼女が入院している間中、通い続けたユウヤ少年だ。自動車免許を取った彼は、運び屋として夜の街を走る。皮肉にも、一度は彼をこの街から逃亡させた業者と同じ仕事だ。いや、あの時に惹かれるものを感じ、今の彼がいるのに違いない。

 無論、いつまで経ってもシゾノが姿を現さないことから、その戦いの結末は誰もが知っている。ただし、気がかりなのは彼女が預かっていた少女も消えてしまったことだった。シゾノの性格的に、彼女まで巻き込んだとは考え難い。また、一人で仇討ちなどと考えるほどに馬鹿ではない子だと、ユウヤは認識している。その行方は掴めないが、たくましく生きているのだろう、と考えることにしていた。

 その証拠、ではないかもしれないがシゾノの住んでいたマンションの部屋には、一切のカネがなかった。銀行預金ではなく、全て現金で保管していたはずだから、少女――ミナミが持ち出したのだろう。そして、それがシゾノの遺志なのだとマコトは考えた。マコトではなく、出会って間もない少女に遺産を残したと思うと嫉妬しないでもないが、入院代は十分過ぎるほど払っていたので、今の彼女は借金もなく、ユウヤの稼ぎで十分に不自由がない生活を送れている。

 シゾノの人生最後の望みが実現したのなら、と折り合いを付けることができていた。

 二人の“家族”を失ったことの悲しみ、孤独ともまた少しずつではあるが、決別ができて来ていた。ユウヤは頼りになるのかならないのか、今なおよくわからない少年ではあるが、一緒にいて悪い気持ちはしない。話していて楽しいし、新たな家族になりそうだと感じている。

 シゾノがゴトウとは違い、彼女の知らない場所で死んだことも、まだ少しはショックを軽減したのだろう。それに、彼女の実力をよく知っているマコトだから、その大変な戦闘の様子は想像することができる。シゾノは最後の戦いを存分に愉しみ、戦い抜いて、遂に相討ちとなったのだろう。ならば、彼女は満足して逝ったのだとわかる。彼女には中途半端な平穏よりも、その方がずっとよかったのかもしれない。

 自分の姉として、優しく包み込んでくれた、あの狂った殺人者のことを思い出さない日はない。声や姿、抱きしめてくれた時の感触を思い出す度に、涙が流れそうになる。時にはこらえきれず、涙が溢れる。それでも、その気持ちに囚われることはない。彼女がそんなことを望んでいないとは、誰よりも深く理解できるからだ。

 だからマコトはできる限りは泣かず、むしろ明るく笑って生きている。たとえそれが周囲――ユウヤからは痛々しく見えたとしても、泣き言を口にする暇があれば、手と頭を動かす。ただ仕事に打ち込み続けた。

「……そろそろ、ここを出てもいいのかもね」

 今回の仕事が無事に成功したと仮定して帳簿を付ける。今どきアナログで資産を管理するだなんて錯誤も甚だしいが、事務所の爆発からはできる限り物理的なものを使う方針だ。さすがに仕事の連絡は電子メールを用いているが。

 帳簿に記された数字の桁は、こんなにも若い二人が扱うにしては大き過ぎる額だが、やっていることの内容からすれば少ない方だ。車の修理やらなにやらで、思った以上に運び屋の仕事には支出が多い。本来ならばもう少し稼げている計算だったのだが、それでも、マコトはあえて以前からの計画を口にした。

「なんだって?」

「この街を出ようか、って。もう、いいんじゃないかな」

「俺はいいけどさ、マコトは本当にそれでいいのか?」

「未練なんてないよ。あたしはこの街でカネ以外は何も手に入れられてない。失ってばっかりだ。生まれついて何かを持っていなかった気もするけどね。そろそろ、まともな人間の真似をしてもいいんじゃないかな」

「マコトはまともな人間だよ。俺よりもずっと」

「適当言って。きみはまだ人の一人も殺してないでしょ。一人でも殺した時点で、まともじゃないよ。あたしは何十、何百と殺した。これが戦争なら英雄になれていたのかもしれないけど、あたしは裏の処刑人でしかなかった。だから今更なにをやっても、それは普通の人のフリ。――ここを出たら、別れよっか。ユウヤには絶対、もっといい彼女が見つかるよ。あたしはきみの彼女のフリしかできないんだから」

 ソファに体を沈め、目を瞑る。しばらく反論の言葉はなかったが、意を決したようにユウヤが口を開いた。

「たとえフリでも、嘘でもいい。俺はマコトといたいからここにいる。ここを出たとしても、俺はマコトと一緒にいるよ。いや、むしろそうしないと困る。ここでマコトに捨てられでもしたら、まともに生きていけるかも怪しいぐらいだ」

「……はぁ。なんであんたはさ、そこまであたしがいいの?なんかもう、情熱的とかしつこいとかそういうのじゃなく、ひたすらに怖いんだけど」

「傍にいたら居心地がいい、って言うのは理由にならないかな」

「ならないね。そんな理由でさ、人殺しを好きだなんて言うの?それで、人を殺したのと同じ手を握って、死体を抱いたのと同じ体を抱きしめるんだ」

「ああ。理解できない?」

「できませんとも。あたしなら嫌だね。人殺しの手も、人殺しの体も、死体も同然だよ。今生きているか死んでいるかの違いしか、人殺しと死体の違いはない。人殺しはいずれ、ロクでもない死に方をする。その順番が早く回ってくるか、忘れるほど遅く回ってくるかの違いで……だから、シゾノは死んだ。シゾノの死は早かったのか遅かったのかわからないけど、いずれにせよ因果応報だよ。死ぬべくして死んだ。死体がやっと動きを止めたと言ってもいい」

「マコトも、いつかそうなると」

「そういうこと。ここを出たら死ぬ原因なんて、事故か病気ぐらいしかないだろうけどね。自宅に車が突っ込むかもしれないし、変な病気にかかってすぐ死ぬかもしれない。人は脆いから、どんなことが起きても死ぬよ」

 死因を指折り数え、必要もないのにいちいち挙げていく。いよいよ自殺なども挙げ始めた時、ユウヤが動いた。立ち上がり、マコトの手を掴んで立ち上がらせる。

「ちょっ、痛っ……」

 指と腕を乱暴に引っ張られたものだから、思わず恨みがましく睨み付ける。だが、ユウヤはそれよりずっと真剣な怒りの表情だった。

 その表情に思わず息を呑むと、腕が肩と腰に回され、二者の距離がぐっと縮まる。広い男の胸板と、豊かな女の胸がぶつかり合い、感じる鼓動は相手のものなのか、自分自身ものなのか。マコトはユウヤに抱かれ、ユウヤはマコトを抱いていた。

「俺が抱いてるのは、死体なのか?こんなにも温かくて、柔らかくて、いい匂いがする。これが死体だって?」

「……そうだよ。あたしは初めて人殺しをした日に死んだんだ。今は執行猶予、いずれ来る死を待つだけの体」

「なら、この体は死神なんてものがいるとするなら、そいつのものだとでも言うのか?俺の好きな女の子の体が」

「やけに詩的だね、今日のユウヤは。でも、きっとそうだよ。いつお迎えが来るのかは、誰にもわからないけど」

「何があっても、俺が傍にいる。死ぬなら二人一緒だ。死が二人を分かつなんてことはない。だったらもう、きみの体は俺のものだと言っていいだろ?もちろん、俺の体はきみのものだ。君が殺したくなったら、俺を殺してくれてもいい。俺は恨まないし、満足できる」

「……やめて。そういうの言うの、これ以上やめて!」

 身を捩り、なおも掴もうとする手をはたいて、マコトはユウヤの拘束ともとれる抱擁から逃れた。大きく距離を取り、相手を睨む。その足と肩と、声とは震えていた。

「たぶん、あたしだってユウヤは好きだよ。でも、だからこそいけない。あたしは誰からも好かれちゃいけない体なんだ。シゾノとはあまりにも近かったから、あたしは好きになれた。シゾノもあたしを好きでいてくれた。けど、ユウヤは違う……。生きないといけない体なんだ。今の悪事なんて、悪事にも入らない。どんな犯罪よりも悪いのが、人殺しだ。それをやっていない以上、赦されていいんだ。でも、あたしにもう赦しはない。だから、あんたと一緒にはいれない……」

 後ずさりし、背中を壁にこすり付ける。そのことに気付いているのに、なおも背中をこすり付ける。これ以上の距離は取れないのに、必死に離れようとする。恐怖のために。

「マコト。きみはいつから、人のすることを良いとか悪いとか、どうこう言える立場になったんだよ。人殺しでも許されるかもしれないし、そうじゃない罪を犯したやつでも、裁かれるべきかもしれないだろ。そういうのを本当は神様がしてくれるのかもしれないけど、地上に神はいない。だから仕方なく人間がやってる。でも、マコトは人を裁く人間じゃないだろ」

「じゃあ、あたしが罪の全部を語ったらさ、許してくれる人がどこかにいる?どんな裁判官だって、あたしを死刑にするよ。誰にだって、許される訳がない。世界はきっと、あたしを赦してはくれないんだ」

「逃げよう」

「……は?」

「マフィアのおっさんを殴ってまずいことになった俺を、運び屋に頼んでこの街から逃してくれたのはマコトだろ?だったら今度は俺が、マコトをどこまででも運んでやる。罪とか罰とか、そういう概念のないような未開の地にまで行ってもいいし、日本に帰るのもありなんじゃないか?どうせ、この街から追っ手が来る訳じゃないんだ」

「ちょ、ちょっと待って!だからあたしは、きっと死んで……」

「死なない。そういう迷信みたいなことを言うタイプじゃないだろ、マコトは。いつも通りに現実を見て、ひねくれたことを言ってればいいんだ。後は俺が上手いことやるからさ。……いや、そんなに上手くはいかないだろうけど、なんとか頑張るから、その……。まあ、そういうことで!」

「はぁ……。バカみたい。ううん、絶対バカだよ、あんたは。バカでアホで頭がパー。なんであんたみたいなやつに、あたしも好かれちゃって、しかもよりによって、好きになっちゃったのかな」

 更に続けて溜め息をつき、マコトはユウヤに駆け寄った。その体に腕を伸ばし、抱きつく。ほとんど頭突きのような、ぶっきらぼうな抱擁だったが。

「あたしのこの体は、気持ちいいの?」

「もちろん。それに、すごく安心できる」

「本当?」

「じゃあ逆に聞くけど、マコトはシゾノさんと一緒に寝ることもあったんだろ?その時、抱き心地とかはどうだった?マコトが言うみたいに死体みたいで、気持ち悪かったのか?」

「……ううん。温かくて、銃があるとこ以外は、柔らかかった。あたしが寝付くまで、子どもにそうするように頭を撫でてくれてて、でもシゾノも仕事で疲れてるから、あたしより先に寝ちゃうことも多かった。……そうしたら、あたしも安心できて、シゾノと一緒に眠れた」

「ならきっと、俺にとってのマコトもそれと同じだ。まあ、同性じゃないし、い、一緒に寝るとか、そういうのはまだ早いと思うけど……。恋人として、たまにこういうことをするのはいいかな」

「仕方がないね。……いいよ、こういうのはいくらでもしても」

 少しして、抱擁を解いた時。マコトの顔は耳まで赤くなっていた。当然、その顔は今までユウヤはもちろん、他の誰もが見たことのない表情をしていた。

B

 

 翌日、事務所に直接依頼人がやって来た。

 運び屋の仕事はもちろん、積み荷を運ぶことだ。依頼人がやって来るのは普通のことだが、まずはメールなりでコンタクトを取り、積み荷の内容と報酬額を知らせる。それで運び屋が了承すれば、日取りを決めて決行。そのための積み荷は一日二日前に、依頼人が運び込むものを持ってくる。依頼人との直接の付き合いは、本来ならばその時だけのはずだ。

 そうだというのに、今回は勝手が違う。もっと言えば、以前の仕事の報酬さえ支払われたら、マコトとユウヤはここを出るつもりでいる。もうこれ以上、運び屋としての仕事を受けるつもりはなかったのだが、とりあえず来客とあれば事務所に通さない訳にはいかない。

 扉を開けて依頼人の姿を見ると、そこには誰もいなかった。恨みを持つ者の罠か、と警戒して飛び退いたユウヤだったが、足元からする声に気付くと、そこには小さな少女がいた。見覚えがある。シゾノと共にいた、短い黒髪の少女だった。今は少し髪が伸び、それに伴って大きく見える。

「きみは――ミナミちゃんだっけ。シゾノさんと、いた」

 声は自然と小さくなる。

 もうマコトがシゾノの話題を出す時に、その表情や口調に陰りは見えない。それでも、やはり気にしてしまう。

 幸い、少女の小さな体はユウヤが影になって隠せるし、声を潜めれば部屋の奥にいるマコトにも、何を話しているかまでは聞き取れない。玄関先で済む話であれば、そこで済ませるつもりだったのだが……。

「おそくなってしまって、ごめんなさい。いろいろとじゅんびがありました」

「そ、そっか。遅くなったというのは、俺や、マコト――お姉ちゃんに会いに来るのが、ということかな」

「あの夜のあと、へやに何人かの人がきました。おねえちゃんがいっていた、マコトおねえちゃんたちじゃないとはわかったから、わたしはおねえちゃんのたいせつなもの――お金などをもってにげて、今やっと、ここにこれました。きちんとマコトおねえちゃんたちのなまえもしらなかったので、なかなかわからなくて」

「なるほど、そっか。……マコトお姉ちゃんとも会った方がいいかな」

「おねがいします。シゾノおねえちゃんの、さいごのことばもつたえないと」

「――!そっか、そうなんだ」

 その言葉がどんなものであったとしても、彼女に伝えなければならない。

 使命感からユウヤは少女を連れて行く。やっときちんと喋れるぐらいの歳になった少女を見てマコトは小さく驚いたが、以前から話は聞いていた。すぐにミナミだとわかり、できるだけ和やかな表情を作る。

 マコトの向かいに少女は座らされ、ユウヤは立ったまま、少し遠くに控えた。

「まずは、シゾノをありがとね。あんな人だったけど、優しかった?」

「すっごく、すごくやさしかったです。わたしをたすけてくれました」

「それならよかった、安心したよ。確かにシゾノは優しいけどさ、子どもの相手をしてるのってちょっと想像付かないから」

「まずは、おそくなってごめんなさい。お金をかってにもちだしたのも、しかたなくだったんです」

 ミナミが、子どもらしい鋭さで本題に切り替えた。やはり、マコトにはどこか躊躇する気持ちがあったのに違いない。

「だけれど、マコトおねえちゃんにあえてほんとうによかったです。おねえちゃんのことばをつたえないと」

「シゾノが、何かあたしに?」

「てがみでした。わたしにはよめない字もおおいんで、おねえちゃんが」

「……うん、ありがとう」

 どこで調達したのか、和紙のようなざらりとした手触りの、かなり厚手の便箋だった。しかも使われている言語は日本語だ。では、ミナミは日本語のひらがなぐらいは読めて、漢字は読めないということだったのか。疑問だったが、ともかく読み進める。細い線で書かれた精緻な字は、シゾノがかつては良家で生まれ、日本風の箱入り娘として育ったことを、何よりも雄弁に語っている。

「ありがとう。……本当に、ありがとうね。ミナミちゃん」

 読み終えるのにさほどの時間は必要ではなかった。何度も読み返しても、すぐに終わってしまう。急ごしらえで書いた訳ではなさそうだが、下手に言葉を飾らない彼女らしい、すっきりとした名文だった。一言一句に知性が溢れ、気品があり、思いやりもまた溢れている。

 だからマコトは、確信することができた。シゾノは自分を狂人と語った。誰もがそうだと考えた。あまりにも彼女が危険過ぎたからだ。だが、最初に言い出したのは彼女自身。医者に行かせた訳ではなかったのだ。――全て、嘘だ。シゾノは理性を保ちながらも、狂ったように人を殺した。常に何かを守るために、血の雨の中でも良心を失わず、硝煙を全身に浴びていた。

「わたしにも、なにかかかれているんですよね。よくいみがわからなかったので、よんでもらえますか?ひらがなですけど、ひょうげんがむずかしくて」

「うん。ミナミちゃん、ありがとう、って。ミナミちゃんはシゾノの救いで、本当の子どもみたいだった、って。……だから、お別れするのがすっごく辛い。だけど、そうしないといけないから、さようなら。だって」

 少女は一瞬、理解できなかったかのように呆然とし、後から静かにうなだれた。マコトは思わず彼女を抱きしめ、かつて自分がシゾノにそうされたように、頭を撫でる。

「泣いてもいいよ。ううん、むしろ泣いてあげよう。あたしも、悲しいから……」

 ミナミは胸の中で泣き、マコトは少女を抱き、撫でながら何度も嗚咽を漏らした。絞り出されたような涙が顔を流れていく。ユウヤはもう、涙無くして見ることはできず、顔を背けた。それからやはり、たった数十分、共にいただけの人のために涙を落とした。

「ユウヤ、ここを出よう。ミナミちゃんも、行こう。あたしがお母さんになるよ。すっごく頼りないかもしれない。シゾノとは比べられないぐらい、バカな母親かもしれないけどさ、一緒に成長していこう」

 何も手には持たず、マコトは立ち上がる。それから、今言った言葉が冗談ではないと証明するかのように、扉を開けた。

「……マコト?」

「車回して。お金は足りないけど、そんなのもうどうでもいいよ。ないものは稼げばいいんだから。手紙は、車内で見せるから」

「あ、ああ、うん……」

 ミナミを抱いたマコトが乗り込み、それを確認したユウヤはアクセルを踏む。黒塗りの普通自動車はふわり、と鳥が空に飛び出すかのように動き出し、道路を行った。昼間の街は、驚くほどひっそりとしている。皆がビルの中で働き、裏に生きる者は人目につかない場所にいる。かといって、夜もまたこの街は静かだ。全ては闇の中で動いている。

 左右に広がる景色が加速する。通り過ぎ、通り過ぎ、終わりが近付いた。街を出れば、その先にはマコトが知らない世界がある。カネも暴力も、この街ほどの力を持たない世界だ。そこにはきちんとした法がある。力で不条理がまかり通り、カネさえあれば罪も許される、そんな歪んだ世の中とは、いくらか違う。

 マコトはそうとは知らなかったが、外も汚れて来ていた。まもなく、この街の常識が世界中全てに広がり、世界には銃と、血と、カネしか残らないようになるのかもしれない。

 車は更に行く。途中で停車することなんて考えない。運び屋の車は、赤信号だって無視するし、たとえそんな危険な運転をしたとしても、絶対に事故を起こさないようなテクニックを身に付けている。

 最後の角を曲がった。後はもう、直進するだけで街を出る。

 どこかで誰かが、マコトの名を呼んだ気がした。――彼女が殺した人間の嘆きかもしれない。彼女を守った人間の別れの声かもしれない。背中でそれを聞いた彼女は、ミナミの手をしっかりと握った。柔らかく小さなそれは、生きているのが不思議なぐらいに儚く、弱い。

 景色が変わった。街並みが消え、郊外の道路に出る。まもなく高速に乗り、その先はもう国も変わり、完全な異世界が三人を待っている。ユーロ圏内なので両替はいらないが、どこかに定住するとなれば、手続きも必要となって来る。マコトとユウヤに戸籍はあるが、ミナミはその概念すらきちんと知らないだろう。それに、その名もシゾノが付けたものだという。

 しかし――マコトには何のプランもなかったが、街を出て正解だと心から思っていた。いざとなれば子ども一人ぐらい、いくらでも隠し通せる。ある程度の年齢になったら孤児として、上手く戸籍の取得をすればいいだろう。そうなった後は、本人の意志に任せればいい。

 高速に乗ると、様々な車が左右に現れる。トラックもスポーツカーもあって、ああいう屋根のない車は防御が弱いのはもちろん、見た目ほど銃撃戦にも有利な訳ではない、などと古い考えを巡らせる。いつかはこんな考えもなくなるのだろうか。少なくとも、シゾノはそれを望んでいた。

C

 

 いくつもの景色が過ぎ去った。農村も、草原も、あの街よりも大きな大都市も。

 ガソリンが不足するとそれを補給しに行ったし、空腹になれば腹ごしらえもする。

 車の中で眠るのに最初は慣れなかったが、マコトとミナミは抱き合いながら後部座席で横になり、ユウヤは運転席に座りながら眠った。季節も冬から春になり、過ごしやすいのが助かった。道路に雪がないのもいい。

 

 

――マコトには、本当にごめんなさい。それから、ありがとうございました。

――私の最後の時間を、あなたと共に過ごせたことは、幸せであり、誇りです。なんだか照れ臭くて言えませんでしたが、私はあなたを尊敬していたし、愛していました。

――あなたともっと多くの時間を共有できないのは残念ですが、あまり贅沢を望めないのが私の人生なのでしょう。諦めるとします。

 

 

 それでも、遂にユーロ圏に住む場所は見つからなかった。

 住もう、と思えばいくらでもあったのだろうが、どうにもその気にはならない。新たな人生を始めるに相応しい場所は、ここではない。

 そんな思いが車を東へと走らせた。しかしそれでも足りず、車とは別れることを決めた。飛行機に乗る。そうして、まずはアジアへ出よう。ここにいるのは皆が皆、東洋人なのだから。まずは故郷へ帰るのが一番自然だ。そう話し合って、三枚のチケットを買った。

 

 

――私は一応、これでもあなたの前では大人でいたいと思っていました。実際はどうだったかわかりませんが、少なくとも最後ぐらいは大人としての義務を果たしたいと思います。

――大人の仕事は、子を守ることなのでしょう。たった二歳違いなのに、笑ってしまうかもしれませんが、私はあなたの姉であり、あなたを守る大人でありたいと、そう考えたんです。

――なので、全てを終わらせます。全てとは何か?あなたと私の、この街との因縁の全てです。ゴトウが死に、実質的にはそれでこの街と私達の関わりはなくなりました。それでも、最後になすべきことは残っています。それさえ終えれば、あなたは何の憂いもなく街を出れるでしょう?

 

 

 ヨーロッパで生まれたユウヤとミナミには初の飛行機。マコトにとっても、まともな意識がある中での初めての飛行だった。雲海にいると、夜の闇の中と同じぐらい不安になる。――不安。慣れていたはずなのに、今のマコトは闇が恐ろしかった。その奥に、何かがいるようで。そして、それが襲ってくるかのようで。今の彼女に、対抗する手段はないのだ。刀など、もうどこかに行ってしまった。

 アジアの大地を踏む。まずは広大な中国で車を借り、横断してみたが、やはり大陸に住処は求められなかった。陸の孤島とも呼べるあの街にいた以上、島にしかマコトは暮らせないのかもしれなかった。

 

 

――どこに住むことになるのかはわかりませんが、ここではないどこかで、あなたは幸せに生きてください。私の生きられなかった分も、だなんて言いません。あなたはあなたとして、あなたが思うだけ生きてくれればそれで十分です。私があなたに時間をあげただけの価値は、それだけで十分です。

――それから、ここからはどれも私のわがままになります。どれが叶えられなくても、どれ一つとして叶えられなくても、私はあなたを恨みません。死人に口なし、死人の願望など叶えられない方が自然なのですから。

――ミナミを、どうかあなたが育ててあげてくれませんか。それが無理でも、信用できる人の子どもにさせてあげてください。きっと彼女は、いい子に育ちます。ただ、私のことを忘れられないかもしれないのが不安なので、そんな記憶を忘れるぐらい、幸せな思い出を作れるような環境で、自由に成長できるようにしてあげて欲しい、そう願います。今、その場にミナミもいることでしょう。黒い髪の、かつての私によく似た女の子です。……マコトは私の昔の姿など、知らないことでしょうが。

 

 

 日本の主要な都市はどれも、あの街とそう変わらない見た目をしていた。それも当たり前であり、あそこはそもそも、日本人達が表では活躍する街だ。自然と区画整理も日本風に進められていた。

 それでも、似ているのは見た目だけだった。あまりにも危険が少ない。どこまでも平和で、ガラの悪い連中も、こちらが戦う意思を見せれば引き下がる。暴力がファッション化している。……これでは、あの街とは真逆の世界だ。

 ここがマコトの故郷であり、ユウヤやミナミの血のルーツもここにある。その証拠に、街行く人の顔立ちは彼らとそう大きく変わらない。そっくりな人間も、探そうと思えば探し出せるかもしれないほど、遺伝子がよく似ていた。

 

――それから、もしも日本を訪れるようなことがあれば、私の実家を一目でいいですから、見てはくれませんか。もうなくなっている可能性もありますが、ならば跡地だけでも見て、あの場所の空気を味わってもらいたい、そう思います。

――私の故郷は大阪。××という街で“見浪”という家を探せば私の実家に行き着くことでしょう。そう、ミナミの名前は厚かましくも、私の苗字から付けさせてもらいました。見浪詩苑、それが私のフルネームになります。

 

 

 日本の歩き方はよくわからなかったが、飛行機でも新幹線でも、なにかしらの交通機関を使えば大阪には簡単に行くことができる。そこからシゾノが示した街を探し出し、少し調べればその家は見つかった。

 マコトは“日本のお姫様の邸宅”を想像してその場へと向かったが、そこにあったのは洋風の家であり、そこまで大きくはなく、周囲も普通の住宅街で、どこか閑散としている。遠くで子どもの声が聞こえたのが救いだった。それだけで安心することができる。

 この家は、無人なのではないだろうか。そして、仮に誰か人がいたとして、マコトはその人間に何を言えばいいのか?娘と知り合いで、彼女はもう亡くなったと告げるのか?相手にしてみれば初対面の小娘が。

 

 

――こうしてマコトに手紙を書くのは初めてのことなので、ついつい長くなってしまいました。あなたはきっと、この手紙を中頃まで読んだ時点で退屈していることと思いますので、もう終わりにします。

――今、あなたの傍には大切な人がいるでしょう。いなかったとしたら、きっと見つかりますから、探してみてください。長い時間をかけたとしても、必ずあなたを待ち、あなたが待つ人はいます。そして、どうかその人と幸せに、平穏な暮らしをしてください。もうここに戻るなんてことを考えてはいけませんよ。ここはあなたにとっての止まり木であり、私達の最期の場所でした。ただそれだけのことです。

――さて、いよいよこの手紙を書き終えましょう。死人からの言葉はこれまでです。後はもうあなたが思う通りに、あなたが望む通りの世界を生きてください。私は私の仕事を終えたのですから。

 

 

 家へと背を向け、歩き出す。手紙にあった通りに、家を一目見るだけで終わってしまった。

 それからマコトは、この街のはずれに一軒の入居待ちの家を見つけた。築二十年。最近の家と比べると内装も古臭いが、どれだけ古く今風ではなかったとしても、マンションで暮らすことは避けたかった。完全に生活を変える。そのためにまずは賃貸だが、いずれは購入を視野に入れ、入居を決めた。

 仕事はまずユウヤが工場務めを決め、マコトは当面、ミナミの世話をしていくことになった。いずれ彼女が大きくなってから、働けるようなら働くつもりだ。幸い、それなりの預金はある。ユウヤの稼ぎと合わせてしばらくは生活に困らないはずだ。

「結婚、しよっか」

「……えっ?あ、ああ。まだ法律上できないから、二年ぐらいしたら」

「ユウヤ、結婚って法律上でしかできないと思ってるの?はぁ……まだまだお子様だなぁ、あんたって男は」

「え、ええ……。それってつまり、どういう」

「こういうこと。誰も認めなくても、あたし達。当事者同士が夫婦になりたい、なろう、と思ったらそれでいいんだよ」

 言い終わるやいなや、彼女は目を瞑る。そのまま押し倒されることも覚悟していたユウヤだったが、実のところ、そこまでマコトにも勇気はないのだった。そこがなんだか可愛らしく、同時にマコトらしく感じられて、更に彼女のことが愛おしくなってしまった。

「じゃあ、これが俺の気持ち、ということで。マコトも、それでいいんだよな」

「いつまでも待たせないでよ。そのつもりじゃなきゃ、二人……ううん、三人でこんな日本の片田舎にまで来ないって」

 二つの唇と体が密着する。二人の体温が融け合い、意識さえも一つになったかのような錯覚に包まれていく。二人は抱き合い、互いを感じ合っていた。

「……おねえちゃん、おにいちゃん、なにしてるの?」

「ぶっ!?マ、マコト、てっきりミナミはもう寝たのかと……」

「そ、そんな訳ないじゃん。まだ昼の三時なんだから!」

「えっちな、こと?」

『違います!!』

 まだ陽も高い内から、もしかすると初めて、恋人らしいことをしていた。そのことの恥ずかしさが純心に触れた瞬間に込み上げて来て、二人はもうまともに互いの顔を見ることすら叶わなかった。とりあえずマコトがミナミを伴って二階へと上がり、彼女を隔離させようとするが、なおも彼女は聞く。

「ラブラブなら、なにをしてもいいのに。わたし、へいきだよ?」

「あたし達が平気じゃないの!後、あんたはまだ五歳児なんだから、そういうませたことは言わないの」

「おねえちゃんたち、けっこんするの?」

「……最初から聞いてたんだ。いや、逆に聞こえないぐらい大きな家じゃないけど、そういうのは胸の中にしまっておいていいんだよ。この際だから教えておくけど」

 マコトは溜め息をつき、ミナミを抱き上げた。まだ戸籍上は結婚もしていないのに、こんなに大きな子どもがいる。なんだか不思議な笑いが込み上げてきていた。こんな奇妙な生活も、自分達らしい。誰もが何かを失い、それを埋め合わせるかのように惹かれ合ったのだから。

「ミナミ。今はさ、幸せかな?」

「うん。すっごく」

「そっか。そっか。なら、よかった」

 少女の黒髪を何度も撫でながら、温かなその体を強く抱く。確かな命の実感がそこにはあり、瞳を覗くと、未来に向けられた光が見えた。この光が、シゾノがマコトに見て、未来を託した光なのだろうか、などと考えてみる。

「ね、あたしはどうかな?幸せそうに見えるかな」

「うん。とくにね、おにいちゃんといるとき。すっごくどきどきしてて、しあわせそう」

「もう、またすぐにそんなこと言って、お姉ちゃんをからかうんだから。今からこんなだと、大きくなったらどんなエッチな子になるか心配だなぁ。シゾノに顔向けできないよ」

「だいじょうぶだよ。おねえちゃんたちにしか、こういうこといわないから」

「だから、それが問題だっての。家族をいじめちゃダメでしょ、ご飯を食べさせてくれる人達なんだから」

 撫でる手を止め、たしなめるように頬を引っ張ってやる。柔らかなそれはよく伸び、反射的に瞳からは涙がこぼれていた。

「ほらほら、もっと泣かしちゃうよ?」

「うにゃぁ……ごへん、ごへんなさい」

「はい、よく言えました。……なんかあたし、すっかり慣れて来ちゃったな、こういうのにも」

「ははおやとしてのじかく?」

「だから、なんであんたはそういう言葉に詳しいかな。本当に五歳児?シゾノに色々と吹き込まれた結果なら、あいつはあいつでどんな教育してたんだか」

「シゾノおねえちゃんは、ふつうだったよ。マコトおねえちゃんよりも」

「あたしがまともじゃないみたいな言い方はやめてもらえないかな。……ったく、本当にませた子どもができちゃったもんだよ、あたし達にも。もっとこう、子どもっていうのは純粋でさ、とやかく言わないで、大人に従ってるもんじゃないのかな」

 そう自分で言い終えた後、はっと気付いた。自分も決して大人ではなく、年上の大人達に囲われていたことに。それはゴトウであり、シゾノだった。彼等は自分のことを、どんな気持ちで見ていたのだろう。

「……あたしも、問題児かな。現在進行形の」

D

 

 この先の記述は続かない。それは、彼女らの人生が終わりを迎えたからなどではなく、主題があまりにも違い過ぎるためだ。

 彼女らの人生にこれから先、血も、銃も、一切現れない。何度も意識の中ではちらついたとしても、現実のものとしてはなく、フィクションの中の小道具、という多くの日本人が認識する通りの存在へと、その地位を没落させていく。

 もうこの物語に銃は現れず、血も流れない。流れたとしても、たとえば不器用なユウヤが料理を作っていて、誤って自分の指を包丁で切ってしまったとか、そういうものだ。ちなみにマコトは刃物の扱いが上手いので、そういったミスはない。

 そのため、仮にこの先を綴るとすればタイトルを変更する必要がある訳で、また、そうする必要もなく、物語はここで終わってしまっても問題がない。そう感じている。

 だからこそ、記述をここで終えよう。

 

 

 

終わり


 
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