No.720151

魔法科高校の劣等生 なかなかできないよ

雫ルート編。雫の名台詞を膨らませたもの。

2014-09-21 14:28:55 投稿 / 全7ページ    総閲覧数:14994   閲覧ユーザー数:14890

魔法科高校の劣等生 なかなかできないよ

 

 

「雫お嬢さま。少し急ぎませんとラジオ体操に遅れてしまいますよ」

「もぉ、達也さん。お嬢さまは止めてって何度も言ってるのに」

 表情の少ない黒いタキシード姿の司波達也に対して北山雫は頬を膨らませて抗議を示す。

もちろん本気で怒っているのではない。恥ずかしいのと余所余所しさを感じてしまうので少年に言い方を変えて欲しいと思っているだけ。

 けれど、少女の新しい執事はなかなかに頑固だった。

「しかし、今の雫お嬢さまは俺の雇い主ですので礼を尽くすのは当然のことかと」

「達也さんって時々すっごい意地悪だよね」

 大きなため息を漏らしてしまう。知ってはいたけれど、達也はなかなかに融通が利かない。というか空気を読むより筋を通すことを好む。

「それでは急ぎますよ」

 伸ばされる手。

「うん」

 雫はわずかに頬を赤らめながら達也の手を握る。

 達也は融通が利かない。けれど、優しい。

 そんな達也が雫は大好きだった。

 達也は雫が手をしっかり掴んだのを確認するとジョギング並みの速度で走り始めた。

 少年に手を引かれて少女もまた走り始める。

 少女は願う。

 今、この瞬間が永遠に続けばいいと。

 けれどその願いが叶わないことは十分によく知っている。

 何故なら、達也は期間限定の短期バイトで自分の執事をしているだけなのだから。

 バイト期間が終われば達也は元の生活に戻ってしまう。

 自分の元から離れていってしまう。

 それは最初からわかっていること。

 けれども、今という一瞬が永遠に続くことを願わずにはいられなかった。

「私のなかなかできないこの生活がいつまでも続きますように……」

 夏休みの午前6時の街路を2人は優しく駆け抜けていった。

 

 

 

 なかなかできないことに巡り会えない。

 入学して約2ヶ月。雫は自分が高校生活に過剰な期待を抱いていたことに気付かずにいられなかった。

 魔法師の最高学府と呼べる高校に入学した。それは雫に最高の学園生活を約束してくれたはずだった。何しろ魔法師界の頂点の仲間入りをするのだから。そこにはきっと今まで出会ったことのない特別なものがたくさん待っているはずだと思っていた。

 けれど現実は違った。待っていたのは“普通の”学園生活だった。

確かにクラスメイトたちの魔法師技能は中学時代の級友たちと比べて極めて高かった。非凡が集まっている。しかし、大実業家の父を持つ雫にとって優秀な人間というのはごく見慣れた“平凡な”存在でしかなかった。

 もっと言えば、優秀な大人に比べれば15歳の少年少女たちはまだまだ原石クラスの荒削りな存在。井の中の蛙というやつで、大海を知らないからこそエリート風を吹かせていられるようにしか見えなかった。

 だから雫にとって魔法師として優秀かどうかは人物を判断する上で特に重要な指標にはならなかった。優秀な魔法師ばかりが通うこの学校の中でプラスαを持つ人間に出会いたかった。

 けれど魔法師の技能ばかりが注目を集めるこの学校でプラスαに出会うのはとても難しいことだった。同級生のほとんどが、多かれ少なかれ魔法師という枠にばかり囚われて視野狭窄に陥っていた。

 雫には視野の狭いエリート予備軍たちとの学園生活は思った以上に興奮の少ない退屈なものに映っていた。

 

 

「どうしたの、雫? 最近あんまり元気がないね」

 幼馴染みの光井ほのかが雫の席へとやってきた。楽しそうな表情。何か良いことがあったらしい。

「う~ん。『なかなかできない』になかなか巡り会えないって思ってただけ」

「ああ、その話ね」

 多くを語らずとも理解してくれる。長い年月を一緒に過ごしてきただけあってほのかには多くを語る必要がない。

「雫は一度『なかなかできない』って何なのか自分に問い直してみた方がいいんじゃないかしら?」

「難しいことを要求するね」

 そしてほのかも多くは語らない。語らないでハードルの高い要求を課してくる。しかも、自分の考え方を改めない限り問題は解決できないという含みつきで。親しい幼馴染みゆえの遠慮のなさだった。

「ほのかの方は随分嬉しそうだけど何かいいことあったの?」

 形勢が悪いので雫は話題を変えることにした。

「うん」

 ほのかは満面の笑みを浮かべる。

「実はね、今さっき達也さんとお話することができたの♪」

「ああ、お兄さんね」

 多くを語られずとも理解した。

 ほのかはクラスメイトの司波深雪の兄である司波達也に恋をしている。達也とのちょっとした接触に大きな喜びを感じる毎日を送っている。

「今日は何を喋ったの? こんにちはだけ?」

「違うよぉ。今日は『こんにちは。いいお天気ですね』『そうだな』ってちゃんと会話したんだから」

「会話、ねぇ……」

 雫は苦笑するしかない。

 ほのかは好きな少年とのほんの小さなやり取りに心を弾ませている。いわゆる恋は盲目状態に陥ってしまっている。

 それは頭がお花畑と言われる状態なのかもしれない。けれど、雫から見れば毎日を興奮して過ごしているほのかはとても羨ましかった。

「ほのかは達也さんのお嫁さんになるの?」

 ちょっと意地悪して聞いてみる。毎日毎日ほのかの口からは達也の話ばかり出る。それを突き詰めていくと、結婚するという結論にしか至らない。

「わっ、わっ、私が達也さんのお嫁さんなんてぇ~~~~っ!?」

 謙遜しているのか照れているのかよくわからない反応。けれど肯定というかそういう願望が強くあることは真っ赤になりながらも嬉しそうな表情によく表れている。

 現実の2人は結婚どころか付き合ってさえもいない。達也がほのかを特別な目で見ているとも思えない。それでもほのかは達也に熱心に熱を上げている。よく知っているはずの幼馴染みのよく知らない一面だった。

「わっ、私なんて達也さんから見たら深雪のお友達でしかないだろうしぃ」

 そうだろうね。と、ここで同意するわけにはいかない。空気を読んで黙っている。

「深雪みたいに綺麗で凄い魔法師だったらもっと自分に自信が持てるんだろうけど……」

「ほのかの上がり症と自分への自信のなさは昔からだからあんまり関係ないと思うよ」

 急に凹んでしまったほのかについ口を出してしまった。

 ほのかは優秀な魔法師が集まるこの学校で総合成績学年2位を修めている。主席である深雪の魔法力が段違いであることは事実ではあるものの、自分を卑屈に感じる必要はどこにもない。

 そもそもほのかは小学校、中学校と魔法師としてトップの成績を上げてきた。それでもほのかは自分に自信を持てないでいた。自信のなさが本番での失敗に繋がっていた。

 だから、ほのかが仮に深雪を上回る実力を持っていたとしても現状は何も変わらなかったと雫は確信している。

 そして深雪がこの学年で1番の美少女であることは雫も認めるが、ほのかのはにかんだ笑顔の魅力は深雪に負けてないと思っている。

 綺麗過ぎる芸術作品である深雪より、人懐っこさと愛らしさを感じさせるほのかの方が男性ウケがいいはず。雫はそれも確信している。

 もっとも、ほのかが恋焦がれる人物は重度のシスコンであり、女性にあまり興味があるようには見えない。笑顔がいくら可愛くても落ちない気がするのも確かだった。

「ほのかは達也さんのどこがそんなにいいの?」

 入学以来、もう何度目になるのかわからない質問をまたしてみる。

「全部、かな♪」

 いつもの凄い答えが返ってきた。そしてほのかは瞳を輝かせながら初恋の少年の魅力を語り始めた。

「入学試験の時に見た達也さんはまるで無駄のない魔法を披露して素敵だったの♪」

「はいはい」

「入学式の日の放課後には風紀委員に処罰されそうな私を助けてくれた。しかも少しも恩に着せないで。とても嬉しかった♪」

「はいはい。私も一緒にいたからよく知ってるよ」

「テロリストを弾圧した時は凄かったわ♪」

「はいはい。私も隣で見てたでしょ」

「喋り方と内容が大人びていて格好いいの♪」

「はいはい。ちょっと無口過ぎるけどね」

「世界で一番ハンサムなの♪」

「はいはい。それはちょっと言い過ぎだと思うけどね」

「普段はクールな振る舞いをしているけれど本当はとっても優しいの♪」

「はいはい。優しいのはほのかにだけじゃないけどね」

 ほのかは達也の全てをとても好意的に捉えている。恋に落ちるとはどういうことのか。幼馴染みの少女はその言動をもって示してくれていた。

「雫も達也さんのことをもっと知れば絶対好きになるって」

 ほのかは自信を持って断言する。

 そんな彼女に少し意地悪してみたくなった。

「じゃあ、私が達也さんのことを好きになって、彼のことを盗っちゃってもいいの?」

 ほのかの顔が急に泣きそうなものに変わった。

「達也さんが誰をお嫁さんにするかは達也さんが選ぶことだから。達也さんが雫を選ぶのらお祝いしてあげなくちゃ。丑の刻参りぐらいはするかもしれないけど」

「それ、全然祝ってくれてないよ!?」

 自分を追い込んでしまう癖を持つほのかなら本当にやりそうな気がした。

「まあ、私がほのかの大好きな達也さんを好きになるなんてあり得ないと思うけど」

「そうかなあ?」

 ほのかは優しい表情を浮かべて雫の頭に手を置いた。

「私は、雫は絶対達也さんのことを好きになると思うよ」

「そう?」

 雫は大きく首を傾げる。

「うん。私と雫は絶対恋のライバルになるって確信してる」

「そうかなあ?」

 自分の話をされているのに他人事のように思えてしまう。それはきっと、ほのかのように恋に落ちる自分が想像できないから。雫は自分がほのかみたいに情熱的でないことを知っている。

「その時は正々堂々勝負だよ」

「いや、いきなり宣戦布告されても困るんだけど」

 実感を伴わない宣戦布告。

 けれど、幼馴染みの方が自分のことをよく理解していた。

 雫がそのことに気付くにはまだ2ヶ月の時間を要するのだった。

 

 

 

 

 放課後、雫はひとり隣町にある児童養護施設を訪れていた。

 この施設は実業家である父北山潮が慈善事業の一環として資金援助を行っている関係で雫とも以前から縁のある場所だった。

 慈善事業への積極参加の証に社長令嬢である雫は定期的にこの施設を訪れている。子どもたちと遊ぶボランティアを行っており、今日がその日だった。

「こんにちは、レレレのおじさん」

 雫は施設の敷地前の道路を竹箒で掃除している着物姿に草履を履いた初老の男に向かって頭を下げた。

「雫ちゃん、いらっしゃい。レレレのレ~」

 『レレレのレ~』が口癖の男は雫と同じボランティアだった。ただし、元々父親に命じられて始めた雫とは違い、純然たる自分の意志で敷地内外の清掃を毎日行っている。

 本名は雫も知らない。けれど、施設の子どもたちや職員がレレレのおじさんと呼ぶので雫もそう呼んでいる。

 本名どころかどこに住んでいるのか、どんな家族構成なのかも知らない。男は自分のことを何も語らず毎日施設の清掃を行い続けている。そんな彼を雫は不思議に思う。そして好ましく思う。

「1円にもならない清掃を毎日続けるなんて……なかなかできないよ」

 高評価が自然と声に出た。そして気が付いた。高校に入ってから使う機会を失っていた『なかなかできないよ』を口にしていることに。

「そっか。『なかなかできない』って凄い才能を持った人が凄いことを見せた時に使うものだと思い込んでた。でも、そうじゃなかったんだ」

 昼間のほのかの話と合わせて不意に気が付いた。

 雫が求める『なかなかできない』の主体は一流の魔法師でなくても良いことに。そして魔法師という枠に拘っていた自分に。雫もまた視野狭窄に陥っている他の生徒と同じだったことに。

「どうかしたのかい? レレレのレ~」

「ううん」

 心配するレレレのおじさんに雫は首を横に振ってみせる。

「おじさんのその竹箒はどんな高性能なCADよりずっと凄いものなんだって気付いただけだよ」

「レレレのレ~?」

 男は首を傾げた。雫の話を理解していない。でも、それで構わなかった。

 

「まったく、JSは最高だぜっ!」

 話が一区切りしたところで雫たちは塀によじ登り施設の中を覗こうとしている怪しい少年を発見した。雫と同じ学校の制服を着ている。あのモブ顔には見覚えがあった。というかクラスメイトだった。

生理的に無理なので名前は覚えていない。確かSGGK(スーパー・がんばり・ゴール・キーパー)と深雪は呼んでいた気がする。SGGKが何なのか雫にはよくわからないが。

「おまわりさん。変態ですよレレレのレ~」

 レレレのおじさんはSGGKを見て困っている。既に老齢期、体力面で高校生に敵うとは思えない。加えてSGGKは人間的には屑以下だが学校の成績だけなら優秀な魔法師だった。

 レレレのおじさんでは止められないのを知っていてSGGKは中を堂々と覗こうとしている。雫の内側から怒りが急激に噴き上げてくる。

「力で人を踏み躙ってまで幼い女の子たちを覗き見ようだなんて……なかなかできないよ」

 喋りながら再び気付く。『なかなかできない』にも複数の種類があることを。SGGKが見せているのは不快な意味での『なかなかできない』だった。

 雫は高校に入学して以来、この不快な『なかなかできない』は何度も何度も目にしてきていた。けれどそれらの出来事に対して雫は『なかなかできない』と口にしたことはない。

 雫が口にしたい『なかなかできない』とは肯定的に評価できるものに限られるのだと今になって気が付いた。そんな知らなかった自分に気付かせてくれたのがSGGKだった。

「お礼に私の最大出力でぶっ飛ばしてあげるよ……共振破壊」

「なっ、何だぁっ!?」

 得意の大出力魔法を発動してSGGKを塀から引き剥がし、空中へと吹き飛ばす。

「とどめ……散れ」

 雫はもう1度限界以上の出力で魔法を発動させた。

「ひぃでぇぶゅ~~っ!?」

 SGGKは木っ端微塵に滅んだ。

「お掃除しましょ。レレレのレ~」

 SGGKの痕跡はレレレのおじさんが丹念に掃除してなくなった。

 

「さすがはお見事な魔法の腕前ですね」

「あっ。園長先生」

 雫たちの元へと施設の責任者である40代の細身の女性がやってきた。彼女は元々雫の父親の会社の社員で、ボランティア活動を熱心に行っている内にNPO団体の責任者に就任したという経歴を持つ。その関係で雫の父が熱心に支援を行っている。

「こんにちは」

 園長に向かって深く頭を下げる。

「頭を上げてください、雫お嬢さま」

「お嬢さまは止めてください。私はボランティアとしてここに来ているんですから」

 園長にお嬢さまと呼ばれるのは抵抗があった。特別扱いされているようで嫌だった。それに自分がレレレのおじさんに比べてこの施設の役に立っているとも思えなかった。

「それでは雫さん。不審者を追い払っていただき本当にありがとうございました」

 園長は雫に向かって頭を下げた。

「子どもたちの安全を守るのは当然のことです」

 雫にも小学生の弟がいる。姉という立場から物を見れば、幼い子どもを年長者が守るのは当然のことだった。そしてそんな幼い子どもを狙おうとする輩は絶対に許せない。だからSGGK退治は雫にとっては当然の、そして必然の行動だった。

「当然と思うことをきちんと実行する。それってなかなかできないことですよ」

 園長に『なかなかできない』と言われてドキッとする。自分がそのフレーズの主格になるとは思わなかった。

「そっか……『なかなかできない』は自分でなれるものだったんだ」

 雫にとっては完全に盲点だった。プラスαを他人に求めるのではなく自分に求める。『なかなかできない』ことをやれる人物に自分でなる。

 雫は自分の高校生活が如何に受け身なものであったのか強く自覚させられた。

「どうかされましたか?」

「いいえ。何でもありません」

 首を横に振りながら久しぶりに心が熱く、滾っていることに気付く。

「その、これからはもっといっぱいお手伝いさせてください」

 レレレのおじさんを横目に見ながら申し出る。

「それじゃあ雫さんにはこの施設の縁の下の力持ちになってもらいましょうかね」

「縁の下の力持ち……」

 その言葉は雫の胸の奥にとても響く何かを秘めていた。

「地味で単調な仕事を頼むことが増えると思います。でも、そういう仕事こそがこの施設を支えている。それをご理解ください」

「…………はい」

 快く首を縦に振ってみせる。

 魔法師として成り上がっていくことを目標とする世界とは別の世界がある。

 そしてその世界は自分が踏み込んでいける場所にある。

 雫はそれに気が付くことができてとても気分が良くなった。

 

 

 

 

「………………以前、ほのかが言った通りになっちゃった」

 8月。ほのかの予想通り雫は達也のことを好きになってしまっていた。

 けれどそれは、達也の超一流の魔法師としての姿を見たからではない。なかなかできない縁の下の力持ちぶりを何度も目にした結果だった。

 雫は6月はじめの児童養護施設での一件以来大きく変わった。

 縁の下の力持ちとして人知れず頑張るようになった。そんな彼女は地味な仕事でも手を抜かず嫌がらずやってのける人物がいないか自然と目で探すようになっていた。

 そして辿り着いたのが達也だった。

 最初は炎天下の中バスの外で遅刻した人間を待つという地味な仕事の目撃から始まった。

 達也はその無意味とも言える仕事に一切手を抜かなかった。バスの中で待機している生徒の中には達也の行動を馬鹿にしている者もいた。

 実際、遅刻した主である生徒会長の七草真由美とは携帯で密に連絡を取り合っていた。従っていつ頃到着するのかは事前にわかっていた。だから1時間半の間、車外で待ち続けることは体調面から見ても合理性を欠いた行動であることは間違いなかった。

 けれど、そんな達也から雫は目が離せなかった。強い共感のようなものを感じた。

兄と同じバスになれなかったことでいじける深雪に対して

 

「バスの中で待っていても誰も文句言わないのに、選手の乗車を確認するという仕事を誠実に果たしたんだよ。つまらない仕事でも手を抜かず当たり前のようにやり遂げるなんてなかなかできないよ」

 

 賞賛の言葉を述べたのはリップサービスでも何でもなかった。

 自分であればこの仕事に対してどこまで誠実にできるのか考えた結果、達也は凄いという結論に至ったので口にしただけだった。

 雫は児童養護施設でボランティアをしている関係で子どもたちを待つという地味な仕事を担当することが増えていた。

 行事がある度に引率者のひとりとして子どもたちの集合を待つ。現地に先に到着して待つ。時には居残り役として施設で待つ。様々な待ちを経験している。

 待つという仕事をこなす場合、雫はまずどうやって時間を潰すか考える。勉強に充てるか魔法の鍛錬に充てるか、それとも音楽を聴いたり本を読むのに充てるか。待ち時間を有効に使う方法に頭を悩ませる。

 けれど、達也は何もしなかった。待つという行為そのものに手を抜かなかった。正直に言えば、雫には達也の行為が最善なものなのかはわからない。けれど、手を抜かない真摯な姿勢に胸を打たれたのは事実だった。

 

 バスの1件で達也の存在が今までとは違った意味で気になるようになった。達也の動きをいつも目で追うようになった。そして気が付いた。達也は何に対しても手を抜かず、常に真剣に仕事に取り組んでいることに。

それは売名行為のためなどではなく常に他者のためだった。達也こそ雫が求めたなかなかできない縁の下の力持ちだった。

そんな達也をとても好ましいと思った。

 九校戦が終わる頃には雫も達也への恋心を自分で認めないわけにはいかなくなっていた。

 達也のことでどんどん頭と心がいっぱいになっていく。

 恋をするのは初めてだったが、わかり易すぎる事例が身近にある以上、自分の気持ちに気付かないではいられなかった。

 想いが溢れ、達也に自分の家の会社のエンジニアになるように働き掛けたこともあった。

 けれど反対に、想いを正直に打ち明けるわけには絶対にいかなかった。

 達也にわかり易すぎる恋をしている少女の事例があまりにも身近にあったのだから。

 

『うん。私と雫は絶対恋のライバルになるって確信してる』

 

 雫は入学以来ほのかの恋を応援するポジションを自負し、ほのかにもそう言ってきた。

〔私も達也さんのことを好きになっちゃったから今からは恋のライバルだね〕

 そんな彼女が今さら親友の幼馴染みに恋のライバル宣言できるはずもなかった。雫は人間関係を上手く立ち回れる方ではない。

 恋のライバルになってしまったら、その後ほのかとの絆がどうなってしまうのか自信が持てなかった。

 だから雫はこの恋に見て見ぬふりをしようと自分に方針を定めた。

 けれど、そんな雫の覚悟はすぐに根底から崩されることになった。

 

 

 

「雫も、達也さんのことが好きなんだよね」

 九校戦が終わってすぐの8月中旬の午前10時、雫はほのかの家に電話で呼び出された。家に着いてほのかの部屋に入るなり、答えられない質問を投げ掛けられてしまった。そしてそれは質問というより確認の意味合いの強い口調だった。

「なっ、何のことやら……」

 ほのかから目線を逸らしながら返答を誤魔化す。雫はここがほのかのホームであることに強い危機感を抱いていた。

 事実、ほのかは扉の前に陣取っており雫を逃さない体勢を取っている。

「私はほのかの恋を応援するって決めているんだから……」

 ほのかの質問とは違う返答を口にする。けれど、今日の幼馴染みはそれぐらいでは離してくれなかった。

「私のことならもう気にしなくていいよ」

 にこやかな表情を浮かべながらいつになく踏み込んでくるほのか。気弱な幼馴染みがらしくなかった。

「何があったの?」

 尋ねずにはいられなかった。とても嫌な予感が雫の胸の中を渦巻いていた。

「…………達也さんに告白したの」

 しばらくの沈黙の後、ほのかは小声で答えた。

「あっ、うん」

 ほのかの返答は雫の予想した通りのものだった。

 幼馴染みは自分を呼び出した。そして、先ほどの質問。

 ということは、返事は……。

 雫の顔から血の気が引く。

「うん。振られちゃった」

 ほのかは伏せ目がちに首を縦に振ってみせた。

「えっと、その……あの、その……落ち込まないで」

 雫は咄嗟に言葉が出てこなかった。口下手な自分を恨めしく思った。

「大丈夫。昨日いっぱい泣いたから」

 ほのかは気丈に振る舞ってみせている。大丈夫なはずはなかった。けれど、それでもほのかは普段通りを見せようとしている。

 幼馴染みのそんな健気な態度を見せられて雫の胸は熱くなる。

「それに、達也さんにはまだ決まった相手はいないみたいだし。私、1度振られたぐらいじゃ諦めないから」

「へっ?」

 ほのかは拳を握り締めている。

「私は、これからも達也さんのことを好きでいることに決めたの」

 いつもは朗らかな少女が熱く燃え上がっている。

「…………えっと、私はほのかに対してどういう反応を取ればいいのかな? 振られたのにテンション高いってなかなかできないよ」

 雫の頭は混乱していた。恋愛初心者の雫にはそもそも恋愛絡みの相談は難しすぎた。

「だから、私はもう、1度告白して振られちゃったんだから、雫は自分の気持ちを抑えなくていいんだよってこと」

 ほのかは雫の両手を上から強く握った。

「ええっ? 何を言ってるの?」

 再び話が自分の恋愛話に戻ってしまったことで雫の頭は更に混乱する。

「雫のことだから私に遠慮して達也さんへの恋心を見て見ぬふりをしようって考えているんでしょ?」

「………………さあ?」

 再びとぼけてみせる。幼馴染みの洞察力は大したものだった。

「雫が応援してくれた前の私の恋は破れました。今は新しい私の恋愛が進行中です。だから雫はもう私に遠慮しなくていいの。達也さんに想いをパァ~とぶつけちゃって」

 ほのかが笑いながら雫の手を上下左右にブンブン振り回す。

「………………いや、急にそんなこと言われても困るんだけど」

 事態の推移があまりにも早過ぎて正直付いていけない。

「駄目よ、雫。受け身でいたら達也さんを他の女の子に盗られちゃいかねないのよ。ライバルは多いんだから」

 ほのかは真面目な表情で怒っている。笑ったり怒ったりと忙しいほのかに雫の混乱が収まらない。

「これでもまだ達也さんのことを好きって認められないの?」

「私は…………好きってあまり口外するもんじゃないと思うし」

 俯いて反論する。けれど、ほのかは雫の顔が赤く染まっていることを見逃さなかった。

「じゃあ、勝負しましょう」

「何で突然勝負なのっ!?」

 雫は泣き出したいぐらいに意味がわからない。けれど、そんな彼女にほのかは人差し指を立ててみせながら明るい笑顔で提案してみせた。

「私が達也さんを振り向かせて恋人になるのが早いか、雫が達也さんに気持ちを打ち明けて恋人になるのが早いか勝負ね♪」

「なに、その少女漫画みたいな勝負は!?」

 ほのかは雫が達也のことを好きという前提の上で勝負を提案してきた。雫はほのかに対して自分の恋心を一度も認めていないのに。

「雫は失恋した私を慰めてくれるんでしょ?」

「う、うん」

 ほのかのジェットコースターのような話題の連続変換に戸惑い、縮こまりながら頷く。

「じゃあ、私と恋愛バトルして♪」

「いや、だから、何でそうなるの? 私、達也さんのことが好きだってまだ認めてないよ」

 『まだ』と言っている時点で認めているようなものだが本人は気付いていない。

 そしてほのかはわざとらしく落ち込んでみせるのだった。

「恋愛バトルしてくれないのなら、張り合いがなくって私はきっとまた深く落ち込むんだろうな……」

「うっ」

「それで、2学期が始まっても部屋から出られない毎日になるんだろうなあ」

 体育座りで膝に顔を埋めてみせる。

 とてもあざとい演技だったが、ほのかは達也に振られた直後。ここで対応を間違えれば夏休み明けに不登校という事態も考えられなくもなかった。また、ほのかは根が真面目なだけに一度踏み違えると不良への道を一直線に走ってしまう可能性も捨てられなかった。

「………………わかったよ」

 雫は諦めたようにして小さく首を縦に振った。

「じゃあ、達也さんのことを好きだって認めるの?」

「………………………………認める。私も達也さんが好き」

 葛藤の果てに雫はほのかに自分の想いを認めた。

 肩の荷が降りてホッとしたような、一方では興奮が足元から沸き上がってくる。

「じゃあ、私と雫はこれから恋のライバルだね」

「そう、なるのかな?」

「うん。そうなるよ。だって、私と雫は達也さんのことが大好きなんだから。お嫁さんになれるように競い合う仲なんだから」

 ほのかの声は楽しそうだった。

「お嫁さんって……私たちまだ高校生」

「後2年待たないと達也さんが結婚できないってことぐらい知ってるわよ」

「やっぱり達也さんに恋して長い分、ほのかの方が脳みそお花畑なんだね」

 根本的なところで噛み合っていない。自分も達也で頭が埋め尽くされてしまうとああなるのかと考えると少し恐ろしい。

「それじゃあ、雫は今から私に遠慮しないでガンガン達也さんにアタックを仕掛けること。いいですね?」

「…………うん、わかった」

 ほのかの勢いに押されて思わず頷いてしまう。

「よしっ、元気出た♪」

 楽しそうに笑ってみせるほのか。

「ほのかが元気になってくれて良かったよ」

 雫はしっくり来ないものの、それでも一番の親友が元気を出してくれたことにホッとした。

 

 この日の雫とほのかの話し合いが、後に雫と達也の関係に大きな変化を及ぼすことをまだ本人は知らないでいた。

 

 

 

 

「幼馴染みに恋のライバル宣言されるなんてなかなかできないよ。どうすればいいのさ?」

 ほのかの家を出た雫は自宅には帰らずに学校へと寄っていくことにした。今日はSSボード・バイアスロン部の部活もない。純粋に校内をブラっとして時間を潰したかった。

 水色のワンピースという私服姿なのでどうかと思ったが、風紀委員に見つからなければ大丈夫だろうと思いそのまま学校へと向かう。

 校門前には特に監視の目もなく敷地内には簡単に入れた。1学期にテロリストの大規模攻撃を受けたばかりで、九校戦の際にも様々な陰謀に巻き込まれそうになったのに警備は相変わらずザルだった。

 あまり目立たないように樹木の影に隠れながら校舎裏へと移動していく。校舎内は監視カメラがあり私服で学校にいる証拠を残しそうなので入らないことにする。

 人気のない地帯をしばらく移動し、誰もいないのを確かめると芝生の上に仰向けに寝転がった。両手両足を大の字に伸ばしてだらしなく寝そべる。

 空は青く風が気持ち良い。気温は高いものの薄手のワンピースということもあり耐えられなくもなかった。

「ほのかが達也さんに告白して振られて。でも、まだ諦めてなくて。私に達也さんが好きなことを認めさせて……ほんと、漫画みたいでなかなかできないよ」

「何がなかなかできないんだ?」

 男の声と共に雫の顔を影が覆った。よく知った少年が雫のすぐ横に立ち、寝ている彼女を見下ろしていた。

「たっ、達也さんっ!?」

 雫は慌てて上半身を起こした。

「いくら達也さんでも女の子の寝ている姿を凝視するのはマナー違反だよ!」

 顔を真っ赤にしながら達也に文句を述べる。恥ずかしい姿を見られたという気持ちで胸がいっぱいになってしまっている。よりにもよって、一番だらしない姿勢でいるところを見られてしまった。穴があったら頭を底に打ち付けて死んでしまいたい気分。

「凝視したつもりはないんだが……私服姿の少女が侵入しているという報告があったので真相を確かめていた」

「あっ」

 達也は腕に風紀委員の腕章を巻いていた。

「一応言っておくと、校則では私服での登下校、及び校内活動は禁止されている」

「今、夏休みの最中だし」

 子どもっぽい自己弁護を図ってみる。

「休日、長期休暇中もだ」

 当然あっさり却下される。

 その時、雫と達也のすぐ横をおっさん顔の全裸男が威風堂々と通り過ぎていった。

「…………校内を全裸で歩くのは注意しないの?」

 雫はジト目で達也を見た。

「全裸での登下校、及び校内活動については規則も罰則も存在していない」

 達也にしては困った表情を浮かべていた。

「じゃあ、私も裸になれば達也さんに注意されずに済むってことだね」

 雫は立ち上がって肩紐の部分に両手を掛けた。

「待てっ」

 いつも冷静沈着な達也にしては甲高い声が鳴り響いた。

「どうして止めるの? 裸なら罰せられないんでしょ?」

「俺の負けだ。今日に関しては私服登校を見逃す。だから、公序良俗に違反する行為は止めてくれ」

 クリムゾン・プリンスを倒した少年はあっさりと15歳の少女に負けを認めた。

「ヴィッ」

 いつも遥か高みの次元にいる達也に一矢報いられたことが嬉しかった。

「それで、どうして今日は私服で学校に来たりしたんだ?」

 達也は普段の表情に戻って疑問を投げ掛けてきた。

「口で説明するには乙女心は結構複雑なんだけどね……」

 達也の顔を覗き込む。

「達也さん、ほのかのことを振ったって本当?」

 もう答えを知っている質問を達也の口から確かめてみる。

「ああ」

 達也は躊躇なく首を縦に振った。

「どうして?」

「どうして、とは?」

「あんないい子、他にいないよ。可愛いし、頭もいいし、胸も大きい。振る要素なんてどこにもないと思うけど? それとも、深雪以外の女は駄目ってこと?」

 達也の顔が今度は一瞬だけ曇った。

「ほのかは内も外も大変素晴らしい愛らしい女性だと思う。だが、俺は今諸々の事情で誰か特定の女性とお付き合いすることはできない。後、俺は妹を大事にしているが、妹と付き合いたいとか結婚したいと考えているわけじゃない」

 達也の回答に何か煮え切らないものを感じてもっと突くことに。

「高評価なんだったらとりあえず付き合ってみればいいじゃない。知られちゃマズいってんなら、ほのかだったら内緒のお付き合いにしてくれると思うよ」

「女性と交際するのにそんな中途半端なことはできない」

「ふ~ん。達也さんって意外と古風な考え方をしているんだね」

 革新者的なイメージが強いので驚きだった。

「とにかく俺は中途半端な状態でほのかと付き合うことはできない。だから振った」

「ほのかを泣かせても、ね」

「…………っ!」

 達也の表情が歪む。ほのかを振ってしまったことは達也にとっても傷になっているで間違いなさそうだった。

「私が私服で学校に来たのはこの辺の問題と深い関連があるんだよね。苦しい胸の内を抱えなきゃ私服で学校に来るなんてなかなかできないよ」

「そうか…………」

 達也はそれ以上何も聞いてこなかった。

 

 

 

「ところで、さ……」

 ほのかの話題を振ってしまったことで達也との間の空気が重くなってしまった。

 雫は別に達也との空気を重くしたいわけではない。話題を変えることにした。

「達也さんは風紀委員の仕事で学校に来てるんだよね?」

「ああ、そうだ」

「九校戦が終わったばかりなのに、大変じゃないの?」

 九校戦参加者がいる部活はどこも大体九校戦後は1週間休みになる。参加者たちの肉体・精神疲労が非常に大きいことを考慮してのことだった。

 なのに、九校戦のMVPと言える達也が風紀委員として頑張っているのはどこか変だった。そんな雫の疑問を達也は読み取って答えた。

「本来今日は俺の当番ではない。当番になっていた先輩が急に来られなくなったから替わって欲しいと言ってきてな」

 雫はその説明に理不尽なものを感じ取った。

「その先輩って、今日以外にも達也さんに当番を替わるように言ったんじゃないの?」

「ああ」

「やっぱり」

 雫の予想は当たっていた。

「達也さんの今日の活動は……誠実っていうより利用されてるだけに思えるよ」

 達也を利用する風紀委員の先輩も、いいように利用されてしまっている達也にも腹が立った。

「利用されるのは慣れてるからな。別に構わんさ」

 感情を込めない達也の言葉に雫はイラッときた。

「達也さんには自分でやりたいことってないの? 利用されたり頼られたりじゃなくて」

 雫の好きな達也の真摯の働きぶりもロボットになってしまっては意味がない。

 達也の欲を、人間らしさを聞いてみたかった。

「俺にやりたいこと?」

 達也は目を瞑って考え込んだ。

「特にないな」

短い時間で結論を出してしまった。それが雫には納得できなかった。

「直接自分のためじゃなくても何かあるんじゃないの? 人のために何かしたいとか」

「人のため?」

 達也は再び目を瞑る。

「そう言われると、あるな」

 今度もまた短い考え時間で答えてみせた。

「四葉が全く関連しないルートで少し金を稼ぎたい……あっ」

 達也は喋り終えてからしまったという表情を一瞬してみせた。

「四葉が関連しないルート……」

 雫は気に掛かった場所を自分で声に出してみる。そしてどういう意味なのか考えてみる。

「四葉、四葉、四葉……四葉財閥のことかな」

 大実業家の娘として最初に浮かんだ四葉とは、北山家と並ぶ隆盛を誇っている四葉財閥だった。

 

 四葉財閥はまだ若干14歳の中学生少女四葉アリスが経営権を握っていると言われている古くからある大財閥。その中心人物アリスは朗らかで温和な少女だが、プリキュアと呼ばれる現在の魔法科学では説明が付かない特殊な力を身に纏って前線で戦う武闘派でもある。アリスはプリキュアの力を得た数名の少女と共に異世界からの侵略者を退けたという大きな功績を挙げ、更にはその異世界の国を経済的保護下に置いてしまった。

 現在の魔法師が用いる術式とは全く異なる魔法原理を使用した商品を次々に市場に送り出し、北山家にとっては最も注意を払わないといけないライバル企業の1つとなっている。

 

「何で達也さんは四葉財閥に狙われてるの? 一介の高校生が四葉財閥に目を付けられるなんてなかなかできないよ」

「四葉財閥ではないのだ……いや、そうだ。ちょっと新型の魔法術式のことであの大財閥とは色々あってな」

 達也は雫の言葉を認めてみせた。言質を取った上で達也の希望を考えてみる。

「だったら、アルバイトしたいんなら達也さんは私のところに来なよ」

 結論は一つしか出なかった。

「何故そうなる?」

 達也は少し面倒くさそうに答えた。

「四葉財閥に狙われているのなら、達也さんを雇ってくれるところは対抗できる北山家しかないよ」

「仮にそうだとしてエンジニアとして北山に雇われる気はないと言ったはずだが」

「エンジニアじゃないよ」

 雫は首を横を振った。

「私個人に雇われるの」

「どういう意味だ?」

 雫は自分の言葉の意味を発してから考えてみた。

「お手伝いさんっていうか……執事?」

 自信はないけれど、そんな答えが出てきた。

「北山家は俺のような素人執事を必要とする状況なのか?」

「北山家には必要ないかもしれない」

「じゃあっ」

 断りを入れようとする達也に雫が先んじた。

「達也さんが自分のやりたいことを成すためには必要なことなんじゃないかな? お金、稼ぎたいんでしょ」

「それは、そうなんだが……」

 わずかに眉をしかめてみせる達也。

「北山家には執事は要らないかもしれない。けど、私には達也さん執事が必要ってことで」

 言葉がスラスラ出た。

 何故こんなにも達也を誘う言葉が出てくるのか?

 ほのかとの一件で頭の片隅の方に追いやっていたある感情が蘇ってきている。

 胸を熱くさせ頭をボォーっとさせるこの想いが。

「夏休みの間だけでいいから。ねっ」

 その想いに従うと、絶対に達也に執事になって欲しかった。一緒にいられる時間を作りたかった。

「しかし俺は家事技能が万能というわけではないぞ。妹に任せっ放しで駄目な方だ」

「達也さんにお手伝いしてもらいたいのは、私がやってるボランティアのお手伝いが中心。お料理を作ってもらおうとか考えてないよ。それとも、私のパンツを手洗いしたい?」

 悪戯っぽく微笑んでみせる。

 達也は降参したように小さく首を竦めた。

「わかったよ。四葉関連でないルートで金銭を稼ぎたいと思っていたのは事実だ。雫の申し出をありがたく受け入れよう」

 達也が了承したことで雫は視界がパッと華やぐのを感じた。

「雫お嬢さま。短い間ですがどうぞよろしくお願いいたします」

 達也が雫に向かって手を差し伸べる。

 雫はその手を取って力強く握り返した。

「うん。こちらこそよろしくお願いします。同級生を執事として雇うなんてなかなかできないよ」

 雫の忘れられない半月が始まった瞬間だった。

 

 

 

 

 

 


 
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