No.71702

ココロノアリカ

以前ブログ内限定で掲載していた小説。当サイト創作作品「Angel×Devil」のキャラの過去のお話です。

2009-05-03 20:07:37 投稿 / 全5ページ    総閲覧数:492   閲覧ユーザー数:464

 ―1―

 

 ドアノブを掴む音と同時に、ぼくは、いつものようにベッドの上のシーツを頭から被った。

 体全体を覆うシーツの長さや、ずしりとのしかかる重さは気になったが、それ以上に、頭の上のものを見られるよりはずっとましだ。

 部屋の隅に座り込んで、そのまま扉が開くのをじっと待つ。

 被ったシーツの隙間から、相手の様子を伺いながら、じっと。

 しばらくしてから、ガチャリと、この部屋に似つかわしくない軽快な音とともに扉が開かれた。

 そこには大人の男が2人――初めて見る顔だ。

 何かを探すように部屋を見回し、隅にいたぼくのところで視線を止めた。

「――この子が、例の子…?」

 扉を開けた男が、こちらを指差しながら後ろの男に尋ねている。

 問われた男は、その質問に無言で頷いく。

 後ろの男は、そのまま入り口で待機するかたちをとり、前にいた男だけが部屋の中に入ってきた。

 長身の、とても体格のいい大人の男だ。

 あの腕に捕まってしまったら、ぼくの力で抜け出すのは絶対に無理だ。

 ぼくは相手にわからないように、そっと身構えた。

「やあやあ、こんにちはー♪」

「……っ……!?」

 掴みかかられるのを覚悟していたせいで、思わず拍子抜けしてしまった。

 男は笑顔で両手を広げ、軽薄に挨拶をしながら、ゆっくりとこちらに近づいてきたのだ。

 今までにない相手の態度に驚いたが、ぼくは、いつものように距離を取りながら、近づく男を避けて移動する。

 男は「あれあれあれ~?」と言いながら、少しだけ困ったような顔をしたが、それ以上ぼくに近づこうとはせず、ぼくと目線を合わせるようにその場に座り込んだ。

「そんなもの被ってたら暑いでしょ~?」

「…………」

「それに動きにくそうだし、取っちゃいなよ?」

「…………」

「キミとは、ちゃんと目を見てお話がしたいな~」

「…………」

 ニコニコしながら話し掛けてくる男に、ぼくは無言で返した。

 男は、きょとんとした顔でぼくを見ながら「恥ずかしがりやさんだなぁ~」などと、のん気に笑って言った。

 この男は知らないのだろうか――ぼくの、頭の上にあるものの事を――。

 いや、そんなはずはない。

 ここに入ってくる前に確認していたのだ、「例の子」かと――。

 知っててそんな事を言っているのだと思ったら、急に嫌な気分になった。

 興味本位でこれを見て、どうせ気味悪がるに違いないのだから――。

 

 男は、それから毎日のようにぼくの様子を見に、部屋を訪れた。

 その間、ぼくはずっとだんまりを決め込んでいたが、相変わらずお構いなしに話し掛けてきた。

 

 そんな男のしつこさに、ぼくは内心嫌気がさしたが、男が去った後の部屋は、いつもより静かに感じて、少し落ち着かなかった。

 ―2―

 

「……そんなに……顔を見せるのは嫌?」

 訪れ始めて何日目かのその日、男は終始無言のぼくに問いかけた。

 いつもの軽薄な物言いとは違う、真剣さを含んだ男の問いに、少し戸惑った。

 男はこちらを見ながら、ぼくの返事をじっと待っている。

 きっと何か反応しないと、ずっとそのまま待つんじゃないかと言わんばかりに。

「…………」

 だからぼくは、こくりと、無言でひとつ頷いた。

「そっかぁ……」

 ふう、と一息つくのが聞こえた。

「でも、キミはそのままじゃあいけない」

「……?」

「キミには、ちゃんと『自分』を受け入れて生きて欲しいから」

「…………」

 そう言った男の笑顔に、ぼくはどきりとした。

 どうしてだろう……?

 この人は、顔では笑っているのに、どうしてこんなに哀しそうなんだろう――

 ぼくの胸が、ずきりと音をたてた。

 それからすぐさま立ち上がって伸びをすると、男は、扉の向こうで待っている男に「行こうか」と声を掛けた。

「明日もまた来るからヨロシクね」

 男の様子は、部屋に入ってきた時の調子に戻っていた。

「にしても……いつも手ぶらじゃあ、私も芸のないオトナだよねぇ~」

「…………」

「キミは何か欲しいものある? お菓子? それともおもちゃ??」

「…………」

 無言のぼくにかまわず、男は首をかしげながら、あれでもない、これでもないとうんうん唸った。

「うーん……今どきの子は一体どんなものがー……あ、そうだ!」

「……っ!?」

「やっぱアレかな! うん、アレがいい♪」

 男は、名案と言わんばかりに1人で納得するように頷いた。

 そして「それじゃあ、また明日ね~」と、終始笑顔で手を振りながら部屋を出ていった。

 

 扉の前から、人の気配が消えたのを確認してから、ぼくは被っていたシーツから顔だけ出した。

 それと同時に、ぼくの頭の上にあるもの――獣のようなふたつの耳も一緒に露わになる。

(なんなんだろ……あのひと……)

 今まで、大人から向けられたのは、嫌悪や憐れみを含んだ視線ばかりだった。

 それは自分が『異端』だから、仕方のない事なのだと思った。

 でもあの男の視線は、他のそれとは違っていた。

 いつも笑顔で、楽しそうにしているけど、あの人の哀しみは、きっと、もっと深くて、重くて――

(じぶんをうけいれるって……どーゆーことなんだろ……)

 ぼくは、片手を伸ばして、頭の上にある耳をぎゅっと握る。

 ……やっぱり、痛い――

 これは、自分と繋がってるのだと、嫌でも実感する。

 受け入れるという事が、自分を好きになるという事なら、それは、絶対に無理だ。

 だってぼくは、この世の中で『ぼく』という存在が、何よりも1番『嫌い』なのだから――

 

 部屋の中は、またいつものようにしんと静まり返っている。

 こんな感覚にはもう慣れていたはずなのに――今は、その沈黙がすごく怖いと思った。

(あのひと……あしたも……また、くるのかな……)

 ぼくは、その恐怖から逃れるように、シーツを被り直して両耳を塞いだ。

 ―3―

 

 外から聞こえる、朝を告げる鐘の音で目を覚ましたのに、何故か目の前は真っ暗だった。

 ああ、そうだ。

 そういえば昨日、シーツを頭から被っていたんだった。

 ぼくは、あのまま眠ってしまっていたのか。

 シーツの中から這い出て、いつものように、天井に近いところに目をやった。

 視線の先にある、この部屋唯一の窓からは、かすかに光が差していた。

 その窓は、ぼくが手を伸ばしても届かない程高いところにあり、光を取り入れる程度のものだった。

 次に、唯一の出口である扉の前まで歩く。

 そこには、いつものように簡素な食事が置かれていた。

 食事だけは定期的に毎日2回、監視窓の隙間から差し込まれている。

 皿の上に置かれたパンを手に取り、少しだけちぎって口に入れた。

 相変わらず、ぼそぼそした味のないパンだった。

 いっそのこと、食事に毒でも入れて始末してくれればいいのに、と何度思っただろうか。

 だから毎日、腹を満たすためでなく、そんな思いを抱いて手をつけていた。

 しかし今日は、今日だけは、そうだったら嫌かもしれないと――少しだけ、ほんの少しだけ思った。

(きょうも……くるっていってたよね……)

 ぼくは、昨日男が言っていた言葉を思い出す。

 残ったパンを皿の上に戻し、シーツを羽織ってベッドの上に座る。

 別に、来るのを待ってるわけじゃないけど……。

 来たってどうせ、いつものように話をする気なんてないのだけれど……。

 でも何故か、今日はやけに、今か今かとそわそわした。

 

 静まり返った空間の中、時間がゆっくりと過ぎる。

 しかし、いくら耳を澄ませても、廊下からは足音ひとつしてこなかった。

 

 

 窓から差し込む外からの光は既になく、明かりをつけていない部屋は、見渡すのも困難なほどに薄暗くなった。

 男は、まだ現れていない。

 いつもなら昼の鐘が鳴って少ししたくらいに、遠慮のない軽いノリの挨拶をしながら部屋を訪れていたのに。

 それから1人で勝手に喋り始めて、1人で勝手に盛り上がっていたのに。

 笑顔なのに、心からの笑顔じゃない笑顔を、終始ぼくに向けていたのに。

 昨日、『明日もまた来る』と、そう言っていたのに――

(おとなは……やっぱりうそつきだ……)

 あの人は、他の大人とは少し違うかもしれない、と。

 そう感じたのに、やっぱり同じだった。

 大人は、皆同じ。

 口では何とでも良いように言って、裏では全然逆の事を思っている――嘘つきばかりだ。

 ぼくは、その『大人』であるあの人に、何かを期待していたんだろうか――

 そう思うと、急に自分がすごく嫌になった。

 そうだ。

 馬鹿なのは、ぼくだ。

 見ず知らずの他人を信じようとした、ぼく自身だ――

 膝を抱える手に、自然と力がこもる。

(もう……いやだ……)

 裏切られて不安になるのも、無駄に生かされるのも、もうたくさんだ。

 胸の辺りが痛くて、苦しくて――ぼくは、抱えた膝に、顔をうずめた。

 

 今日一日、ずっと気を張り詰めていたせいだろうか。

 身体がだるくて、瞼も重い。

 眠い……のかな……?

 どうして、こんな状況で眠れてしまうのだろう……

 そんな自分も、やっぱり嫌だった。

(でも、いいや……もう、つかれちゃったし……)

 そのまま、意識が遠のく感覚に身を任せてしまおうとした時、突然、ばたんと扉が勢いよく開いた。

「おっまたせピョ~ン★ 遅ればせながら、私、さ~んじょ~うっ!」

「……っ!?」

 場違いなまでの明るい声に、眠気は一気に吹き飛んだ。

 顔を上げると、扉の前にいたのは、あの男だった。

 男は、いつもみたいに、陽気な態度でそこに立っていた。

 自分の登場に無反応なぼくを見て、苦笑いする。

「……なーんて……あれ!?」

 男は、手に持った明かりをぼくの方に向けると目を丸くした。

 そして「おやおやおや~?」と嬉しそうにこちらに近づいてきた。

「今日はシーツオバケちゃんじゃないのかな~?」

「……っ……!?」

 しまった……!

 突然の事に、シーツで顔を隠すのをすっかり忘れていた。

 だから顔も、頭の上にある耳も、その男に丸見えなのだ。

 男はぼくの目の前に座ると、ゆっくりと頭に手を伸ばしてきた。

「……や…っ……!!」

 ぼくは、男から逃げるように背を向けると、慌てて耳を両手で押さえて隠した。

「…………」

「…………」

 後ろから向けられる、男の視線を感じて、全身が強張る。

 やっぱり、ぼくは他の天使に比べて『異物』なのだろう。

 獣じみた耳もそうだが、目端に見えた髪は黒っぽい色をしているし、瞳は闇夜で不気味なくらいに光る。

 背中の羽だって、生えているのかどうか分からないくらい小さいのだ。

 そんなぼくの姿を、彼は見たのだから、きっと――

「…………」

 男はまだ、お喋りだと言わんばかりだった口を閉ざしてこちらを見ている。

 背中ごしに感じる視線は、嫌悪の目だろうか。

 それとも、憐れみの目だろうか――

 自分の姿を見られるのは、いつまでたっても慣れないし、嫌だけどー…でも、仕方ないから――

 ぼくがこんな外見だから、そう思われても仕方ないのだと、いつも自分に言い聞かせるしかなかった。

「……怖がらなくてもいいよ」

 突然、男の一言が、沈黙を破る。

「私が怖がっていないのだから、キミが怖がる必要はないんだ」

「…………」

「それに、とても可愛いじゃないか」

「……うそ……」

 気持ちが抑えきれなくて、言葉が思わず声に出た。

 ゆっくりと後ろを振り返ると、男は少しだけ驚いた顔をしていた。

 でもすぐに、いつもの笑顔に戻る。

「嘘? どうしてそう思うの?」

「おとな……だから……」

「オトナ? 私が?」

 男の問いに、ぼくはこくりと頷く。

「キミは、オトナは嫌い?」

 もう一度頷く。

「じゃあ私も、嫌いって事かな?」

「…………」

 そうだ。ぼくは『大人』が『嫌い』だ。

 そしてこの人はその『大人』。

 だからこの人だって『嫌い』なはずじゃないか。

 じゃあさっきみたいに頷けばいい。

 だけど――

 だけど、何だかそうしてしまうのが怖かった。

 肯定してしまったら、もう二度と会えなくなるんじゃないかと思って、怖かった。

 また、静まり返った部屋で1人きりになるのが、怖かった。

「嫌い?」

「……わかん…ない……」

「…………」

 でも、どう答えていいのかわからなかった。

「そっか……」

 すると男は、うつむくぼくの手を取って「それじゃあ…」と続けた。

「私の事が、はっきりと『嫌い』じゃないなら、他のオトナよりちょっと……ほんのちょっとだけでいいから、今から言う私の言葉を信じてくれる……?」

 あの時見せた、真剣な眼差しで訊く。

 ぼくは、男の問いに無言で頷いた。

 ぼくの答えに、男は「ありがとう」と微笑んだ。

 手を握ったまま、ゆっくりと顔を近づけた男の額が、ぼくの額にこつんと当たる。

「キミは、本当に可愛いよ」

 それは、怖れも迷いも感じない、真剣で、まっすぐな言葉だった。

 ―4―

 

「本当に、来るのが遅くなってごめんね。コレを用意してたら、夜通しかかっちゃって……」

「……? ……っ!?」

 男は懐から何かを取り出すと、えいっという声と同時に、突然、ぼくの頭の上にそれを被せた。

 ぼくはびっくりして、被らされた何かを両手で掴んだ。

 するとそれは、ずるりと目の前まで下がってくる。

「あー…ちょっと大きかったかぁ」

 やっぱり勘はあてにならないなぁと、男は苦笑した。

 目の前までずり下がったものを、形を整えながらきちんと被せ直すと、ぼくに手鏡を手渡した。

「でも似合ってる! すっごく可愛いよ~ほら!」

「…………」

 自分の姿を目にするのが嫌で、今まで殆ど見た事がない、ぼくの顔がそこにあった。

 そして頭には、動物の耳を模ったような黒い帽子がちょこんと乗っていた。

「ね? これでもう、あのシーツ被らなくてもいいよ」

 そう言った後、「まあ私としては、帽子を被らないままでもじゅーぶん可愛いと思うんだけどね」と付け足した。

 額から上を覆うように被らされた帽子は、頭の上にあった耳をしっかりと隠してくれていた。

「聞こえてくる音も少し和らいだと思うんだけど、どう?」

「…………」

 嫌でも耳に入ってきていた周りの雑音や騒音が、男の言うとおり、今は前ほど聞こえてこない。

 こくりと頷くと、男は満足げに微笑んだ。

 そして男の大きな手が、鏡を持ったままのぼくの手を包む。

 さっき手を握られた時にも気になっていたが、男の指にはテーピングが何ヶ所にも巻かれていた。

 確か、昨日まではなかったはずなのに……。

 ぼくがそれをじっと見ていると、男はぼくの視線の先に気づいたのか「ああ、これね」と苦笑いした。

「裁縫なんて初めてやったから、いっぱい失敗しちゃったけど大丈夫! どーしても自分で作りたかったし、キミにプレゼントできたから私は満足!! ……なんて、これじゃあ自己満足かもしれないけどね」

 おどけながら微笑む男の姿に、ぼくは胸の奥の方がじんとした。

 痛くて大変だったのに、どうしてそんなに笑ってるの?

 どうしてぼくに、そんなにしてくれるの?

 今まで感じた事のない、よく分からない、胸の奥からこみ上げてくるような感じ。

 これは……何という気持ちなんだろう……?

「……ぼく…も……」

 こみ上げてくる何かに遮られて、途中で言葉に詰まってしまった。

 言葉でちゃんと伝えたいのに、この気持ちをどう言ったらいいのか、どう言えば伝わるのかが分からなかった。

 誰かから何かを貰ったのは初めてで、ぼくに微笑んでくれて、それで胸がいっぱいで――

「えっ…ちょっ……ど、どーしたの!?」

 驚いたような男の声にふとわれに返ると、ぼくの頬を冷たい何かが伝っていた。

 手で触れると、指先が少し濡れた。

 水だ。しかも目から流れてきている。

 目から流れ出る水――確か『涙』というのだったな、と思い出す。

 視界を霞ませるそれを、ぼくは服の袖で拭いた。

 だけど何度ぬぐっても、涙はどんどん溢れて止まらない。

 突然の事態に、男はおろおろする。

「ま、まさか、こーゆーのは迷惑だった? それとも、どこか痛い??」

 違う――

 男の問いに、ぼくは首を横に振った。

 迷惑だったわけじゃないし、どこかが痛いわけでもない。

 それにこれは、『嫌な気持ち』じゃないのは分かる。

 胸の奥からこみ上げてきた『これ』は、とても温かかったから。

 でもぼくは、この気持ちを表す言葉を知らない。

 男は心配そうに眺めていたが、ふいにあっ、とひらめいたような顔をした。

 思い当たるものがもう1つある事に気づいたのか、男は「間違ってたらごめんね」と一言置いてぼくに訊いた。

「もしかして…嬉しかった……とか?」

 …………

 ……嬉しい……?

 …嬉しい…………ぼくは…『嬉しい』なの……?

 胸の奥がじんとして、とても温かくて……

 そうか、『これ』は――この気持ちが『嬉しい』なんだ。

 ぼくは嬉しいんだ。

 ゆっくりと頷いて顔を上げると、そこにはいつものように微笑む男の顔があった。

 やっぱりどこか哀しげだけど、でも、その微笑みはとても優しくて、温かくて……

「じゃあ……もらってくれるかな?」

 男の言葉に、ぼくは止まらない涙をぬぐうのも忘れて、何度も、何度も頷いた。

 ―EP―

 

 目覚めと共に、意識や感覚が戻ってくる。

 手や頬に伝わる心地よい温もりがまだしばしの眠りを誘ったが、ぼくはゆっくりと目を開けた。

 持ち上げる瞼が重い。きっと腫れてしまっているのだろう。

 昨夜あれだけ泣いたのだから、無理もない。

「あ、起きた?」

 近くから聞こえる男の声に顔を起こすと、そこは男の膝の上だった。

 あのまま男にすがりついて眠ってしまっていたのかと思うと、少し恥ずかしかった。

「おはよう」

 男はいつもと変わらない笑顔で挨拶をする。

「……はよ……」

 挨拶を返そうとしたけれど、声が擦れてうまく言えなかった。

 しかし男は気にしない様子で笑いながらぼくの頭を撫でた。

 ぼくの頭には、昨夜男に被せてもらった帽子がそのまま乗っていた。

 他人に触れられるのはあまり好きじゃないけど、今は何だか安心する。

「それじゃあ、私はもう行くね」

 立ち上がりながら、男がぼくに告げた。

 それは、いつもとは違う。

 いつものように、明日もくる、とは言っていない目だった。

 行ってしまう……

 行ってしまう…………

 もしかしたら、このままもう――

 そう思ったと同時に、ぼくは男の服の裾を捕まえていた。

 ぼくの行動に少し驚いた顔をしたが、男はぼくに目線を合わせるように座った。

「ごめんね」

 そして、すまなさそうにぼくに謝る。

 困らせたいわけじゃないのに。

 でも、離したら行ってしまう――ぼくは、きっとそうなるのが嫌なんだ。

 掴んだ手に、自然と力がこもる。

「キミには嘘つかないって約束したもんね……」

 男は一息置いて、ぼくの目を見て言った。

「今日が、ここに滞在する最終日なんだ。だから、私はもうここに来られないかもしれない。キミにはきっとそれが分かるんだね。それでも、私は行かなきゃいけない」

「…………」

 ぼくは無言でただ首を横に振る。

「私の帰る場所には、同じくらいの子がいてね、その子も、今1人で私の帰りを待っててくれてるんだ」

「…………」

 ……待ってる……1人で…………

 その子も……ぼくと同じ気持ちなのかな……?

 ぼくも、1人は嫌だ。

 だって、1人は『寂しい』って、知ってしまったから……

 そんな思いを、ぼくのわがままのせいで他の誰かに押し付けてしまうのは、嫌だ。

 ゆっくりと手を離すと、男は「ありがとう」と言いながら立ち上がり、ぼくの手を取った。

「外まで見送りに、来てくれるかな?」

 

 男に連れられて、ぼくは初めて建物の「外」を見た。

 ぼくのいた部屋に施錠はされていなかったから、いつでも外には出られたけど、ぼくはあえてそれをしようとしなかった。

 今まで外に出たいとも、見たいとも思わなかった。

 ぼくはそこから出るべきではないと、自分の中ではそれが当たり前だった。

 初めて外で見る「空」と「雲」、

 初めて触れる「草木」や「花」、

 初めて感じる「陽の光」と「風」――

 全てが、大きかった。

 ぼくの知っている「外」は、建物ごしに四角く切り取られた一部だけだったから。

「外はね、こんなに広くて大きいんだ。でも、世界はこれよりもっと大きい。私達が今見えないところも、世界だからね」

 男がくるりと振り返る。

「こんな広い世界で、キミみたいな境遇の子を作っちゃいけないんだ。キミは何も悪くないもの。悪いのは、昔の掟に縛られて『悪い』と言っている頭の固い連中の方だ」

 そう言いながら、空を見上げた。ぼくもつられて男の視線の先を見る。

「今はまだ難しくても、変えるよ……絶対に」

「…………」

 自分に言い聞かせるように呟くのを、ぼくはただ黙って聞いていた。

「それじゃあ、行くね」

 つないでいた手がそっと離れる。

 もう困らせたくないから、ぼくはそのままぐっと堪えた。

「大丈夫。キミは1人じゃないよ。私はいつでも、ここにいるからね」

 そう言いながら、ぼくの頭の上の帽子をぽんぽんと叩いた。

「……り…と」

「ん?」

「あ……がと……」

 帽子を貰った時からずっと言いたかったのに、言えなかった言葉を精一杯声にした。

 やっぱりうまく声に出せなかったけど、もう一度言ったら、また泣いてしまいそうだった。

 男もそれを察してくれたのか、頷きながらそれ以上は聞き返さなかった。

「じゃあ、私も帽子のお返しが欲しいな」

「……?」

「次会った時、キミの笑顔を見せてくれるかな?」

 

 次が一体いつになるか、それは分からない。

 しかし私では、キミに本当の笑顔は教えてあげられないんだ――

 だから私は世界そのものを変える。

 そうすればこれから先、キミが出会う人の中に、本当の笑顔を教えてくれる人が現れてくれるはずだから。

 それは数年後かもしれないし、何十年も後かもしれない。

 でもキミが、キミの本当の笑顔を知った時、私達はきっとまた会えるからね。

 お返しはそれまで楽しみにとっておくよ。

 

 笑いながらそう言い残して、男は去っていった。

 別れた後も、ぼくは不思議と寂しさは感じなかった。

 だって、離れてしまったけれど、今もとても近くに感じるから。

 両手を伸ばして、頭に被った帽子にそっと触れる。

 そうだ、ここに彼はいる。

 作る過程で、その帽子には男の魔力が籠められていた。

 とても強くて、温かくて、優しい、彼の力が―― 

 それが全身に伝わるのを感じる。

 世界を変える――そう言っていた。

 だからぼくはもっと外を知ろう。そしていろんな人に出会おう。

 まだ自分を受け入れられる自信はないけど、彼の言う『本当の笑顔』が知りたいから。

 早く彼に、帽子のお返しがしたいから――

 ぼくはゆっくりと瞳を閉じた。

 

 『大丈夫。ぼくはもう、1人じゃないよ――』

 

 

                               ――完――


 
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