No.709286

ガラスの音色

夕月 碧さん

「世界中の人に認められなくたっていいじゃない。君はその足で歩けるんだから」
人と話すのが苦手な浦谷凌(うらたに しのぐ)はある日、やさしいピアノの音色を耳にする。
ガラスのように繊細なその音色は、二度と歩くことのできない少女のものだった……。

2014-08-16 22:45:11 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:569   閲覧ユーザー数:569

    - Prologue -

 

 

 漆黒の静寂で満たされた世界の底。気持ちも沈みきったまま、一台の自動車が闇を切り裂いていく。時折ぽつぽつと街灯の明かりや、対向車の眩しいライトに照らされるほかは、カーラジオも平凡な番組で特に面白いこともなかった。弛緩した意識と空っぽな感情でわたしは後部座席に座り、流れ去る夜の底に沈む世界をぼんやりと眺めていた。

 中学最後の夏休みが半分ほど過ぎ去り、今日は久しぶりに夕食を外で食べ、家へと帰る途中だった。わたしは窓の外を流れる風景も見飽き、ラジオの音に任せて終始無言でいた。特に考え事などはしていなかったが、この時間帯に放映されていて、しかも毎週欠かさず見ていたテレビ番組が見れなくなったのが残念だった。ただそれだけで、感情もなく、茫漠としていた。家に帰っても、そろそろ意識し始めた高校受験に向けて参考書を開き、寝る前に読みかけの本を読むぐらいだった。学校と塾の宿題は明日やればいいや、と考えていた。でも明日になってもきっと、明日やればいいやと思うことだろう。そうやって先延ばしにするのは毎年のことだった。

 夏休みだからといって、ちっとも面白いことはなかった。高校受験を意識し始めたといっても、まだまだ先のことだ。今からガリガリ勉強しているのは、余程偏差値の高い進学校や附属校に行く人ぐらいだろう。だから大抵のみんなは友達とカラオケに行ったり、電車に乗って買い物に行ったりしている。家の中で遊ぶにしても、一人と二人では段違いだ。

 友達……。

 いつでもその言葉は、考えるたびに感傷を伴って首をもたげてくる。

 わたしは、いつでも独り。いや、独りを望んでいた。誰かを傷つけ、また誰かに傷つけられるのがひどく嫌だったのだ。

 子供の甘えに聞こえるかもしれない。くだらない、そんな考え自体が誰かに鬱陶しいと思われるかもしれない。でも、変わらないなら仕方がない。友情も恋も、ほしいとは思うが、今のわたしにはいらなかった。どうせあと数ヶ月で高校受験だ。高校に入ったら、少しは世界が変わるかもしれない……。

 そんな風に、憂鬱の底なし沼にはまっていたときのことだった。

 ふいに、何かとてつもなく巨大な不安の波が、わたしの身、いや、わたしたちの乗るこの車に押し寄せてきたみたいだった。台風のような、津波のような、稲妻のような……。

 耳をつんざくような、何かを引っかく音が聞こえた。壊れそうな何かを必死に抑えつけるような音。スポットライトのようにぽっかりとライトに照らされて、眩しいと思うのもつかの間、巨大な質量をもったものが目の前に迫ってきた。突然の出来事に、わたしは事態を飲み込めなかった。ハンドルを切っても間に合わない。ブレーキをかけても無駄。大きなトラックが、わたしたちの車の直前にあった。

 このまま死ぬんなら、それでいいや……。

 衝突する直前、その一瞬にそう思った。何かの世界が滅亡した音がして、何かが弾け飛んで、何かがなくなった。トラックと衝突して、車が大破して、それからどうなったのかはわからない。体が潰れたか、切り裂かれたか。いずれにせよ、何かが終わったのは確かだった。

 このまま死ぬなら、いや、死ねるのなら、まさに願ったり叶ったりだった。

 そう、前々から生きることに嫌気がさしていた。いつ死んでもいいと思っていた。わたしは、何もかも嫌だった。もう学校へ行くのも、親や先生のご機嫌をとるのも、こじれた人間関係に悩まされる日々も、今の自分自身も。わたしは、世界そのものを忌み嫌っていたのだ。

 ガラスのように繊細な心は、壊れてもすぐには戻らない。擦れて、傷ついて、また壊れる。人はそう簡単には変われない。守ってくれる人、あるいは慰めてくれる人がいない人は、いったいどこに心のよりどころを見つければいいのだろうか。

 形式ばった存在ではなく、目に見える形として――。

 

 

     1

 

 

 壊れそうなくらいに繊細なピアノの旋律が聞こえてきたのは、いつもと同じように憂鬱な毎日のある日のことだった。

 浦谷凌(うらたに しのぐ)はその音色を耳にしたとき、不思議な、それでいてどこか心地よい気持ちになった。メロディー自体はいたって普遍的なメロディーだと思うのだが、どこかとてもやさしい音色だった。

 最近は嫌なことつづきだった。それもとても些細なことだったが、積もり積もって、いまや巨大なストレスのモンスターと化していた。とても小さなことなのに、なぜか腹が立った。そして、その小さなことに腹を立てる自分も嫌だった。

 家へと帰る途中、ずっとそんなことを考えていた。

 高校へ入って早一年。自分のこの性格も、中学よりかはマシになると思っていた。それでも、何も変わらなかった。

 凌は、他人の視線が怖かった。いわゆる対人恐怖症ってやつかもしれない。まあ、あくまで自分で言ってるだけだから、本当は違うのかもしれないが。しかしここ最近、誰かと真っ向に視線を合わせられたためしがない。自意識過剰なのか何なのか知らないが、なんだか無性に他人が怖かったのだ。

「この音はどこから……」

 決して大きくはない、けれど道路を走る車の音に容易には吸い込まれない。結構遠くからなのか、建物の中からなのか、それともただの空耳なのか……。

 県道の広い道。最近舗装されたばかりで、歩道も広くなっていた。その脇 には民家が立ち並んでいる。ところどころに小さな雑居ビルも建ちはじめていた。いわゆる都市化ってやつだ。

 そのうちのひとつに、廃墟のような、随分と荒廃したビルがあった。四階建てにしようとしたつもりだが、工事さえまともに終わっていないようだった。一階部分は完成していて天井はあるものの、上階への階段は途中で切れ、二階以上はまったくと言っていいほど手をつけられていなかった。

 ピアノの音は、その廃墟ビルから聞こえてくるようだった。

 何でこんな時間に、それも廃墟からピアノの音が聞こえてくるんだろうか。凌は不審に思った。幽霊ならば、もっと遅い時間に現れそうなもんじゃないか。

 そう疑っているうちに廃墟の前に着いた。やはり、音はこの中から聞こえてくるみたいだった。ドアすら設けられていないので、凌はこっそりとのぞくようにして中をうかがった。

 女の子が一人、ピアノを弾いていた。

 凌から見れば左を前に、目を閉じて弾いている。その横顔はピアノの音と同じく、華奢で、繊細だった。しかし残念ながら、凌は弾いているその曲を知らなかった。

 気づくと、女の子がこちらを見ていた。いつのまにか曲は終わっていたらしい。いや、凌の視線に気づいて演奏をやめたのかもしれなかった。そしてバカみたいに入り口でぼーっと突っ立っている自分を想像して、いつの間にか顔が赤くなっていた。

「あ、いや、ピアノの音が聞こえたもんで、その……」

 凌がしどろもどろに弁解していると、その女の子はクスクスと笑い出した。

「よかった?」

「……え?」

 とっさの質問に、凌は何を聞かれたのかよくわからなかった。

「だから、わたしの演奏、よかったかな」

「あ、うん、よかったよ」

「そう! よかった!」

 そう言うとその女の子は凌に近づいてきた。そこではじめて、凌は彼女の様子に気がついた。歩いてきたのでも、走ってきたのでもない。小さな振動と腕の動きだけで、彼女はこちらにやってきた。

 その女の子は、車いすに乗っていた。

 華奢な腕で器用に車輪の脇のハンドリムを回し、何だか照れくさそうに凌の顔を見た。

「わたし、佐倉佳奈美(さくら かなみ)っていうの。びっくりしたでしょ、こんな体で……」

 確かに驚きはした。凌は今まで自分と同年代の人で、車いすに乗っている人を見たことがなかったからだ。

「いや、まあびっくりはしたけど。……なんていうか、大変そうだね」

「それほど大変でもないよ。ただ普通の人とは生活が制限されちゃうけどね。えっと、君の名前はなんていうの?」

「浦谷凌。そこの公立高校の一年だよ」

 凌の自己紹介は、妙につっけんどんな言い方になってしまった。この女の子、佐倉佳奈美と初めて会ったからというわけではない。初対面の人だろうがなんだろうが、他人と目を合わせるのが怖かったからだ。そして他人と話すのが苦手だった。

 でも、この少女と話すのはなぜだか嫌ではなかった。最近は人と話すどころか、誰かの自分に対する視線が嫌で、いつも図書室なりどこへなりと逃げ込んでいたからだ。

 不思議なコだな……。凌はそう感じた。話していても、逃げ出したくなるような衝動に駆られない。視線を向けられても、恐怖を感じない。なぜだか知らないが、安心できる……。そんな雰囲気を佳奈美は持っていた。

 気がつくと凌はじろじろと佳奈美を眺め回していた。佳奈美はまたクスクスと笑うと、

「車いすが珍しい?」

 と訊いてきた。確かに珍しいといえば珍しいが……。

「わたしもね、君と同じ高校に行こうと思ってたの。でも、突然の事故でね。こうして命は助かったけど、もう一生歩けなくなっちゃった。下半身不随ってやつだね」

 そう言うと佳奈美は少し笑った。それも、それほど悲しくもないといった風な笑顔だった。不憫、という単語が頭の中に浮かんだが、その顔を見てすぐ口にするのをやめた。

「何だか蒸し返すようで悪いけど、その事故って……」

 佳奈美には悪いと思ったが、凌は訊いてみた。ただ単純に、下半身不随の原因となった事故について知りたかった。

「……一年半前の交通事故でね。夜のことで、トラックがわたしたちの車に衝突したの。居眠り運転だったんだって。それで、お父さんもお母さんも死んじゃって、わたしだけ生き残ったの」

「そうだったんだ。……なんか、ごめん」

 凌は謝った。でも、佳奈美は何だか他人事のようで、あははと笑った。

「いいよ、そんなに気にしないで。こうして生きてるだけでも感謝しないと」

「そうか、そうだね……」

 凌は足元が揺らぐような思いがした。生きているということは、感謝すべきことなのだろうか。

「えっと、じゃあ、そろそろ行かなくちゃいけないから。またね」

 そう言ってまた小さく笑うと、佳奈美は廃墟ビルの外に出た。確かにもう大分夜が迫ってきていた。三月とはいえ、まだあまり日は長くない。

「あ、送ってくよ」

 凌はもっと佳奈美といたいと思った。なぜか、居心地が良かったのだ。この無口で陰気な性格が直るとまではいかないものの、すこしはマシになれると思ったのだ。

「ありがと。でも病院はすぐそこだからさ。明日も、またここにいると思うから」

 確かに近くに総合病院があった。佳奈美はそこに入院しているのだろう。

 バイバイ、と軽く手を振って、何度も見せたやさしい笑顔と共に佳奈美は去っていった。背中は車いすの背もたれでほとんど見えなかったが、その笑顔が頭から離れなかった。なぜだろう。佳奈美の楽しそうな笑顔の裏側には、どこか脆い部分があるように思えたのだ。ほんの小さな衝撃を与えただけで、一瞬で崩れ去るような脆さが。そう、今の凌と同じように……。

 耳に残るピアノの音は、夕暮れに染まる車の音に消えていった。

 

 

     2

 

 

 翌日、凌は学校が終わるといつもと同じように、しかしいつもより心持早歩きで学校を後にした。昨日と同じく、あの廃墟ビルで佳奈美に会おうと思ったのだ。

 事故については、佳奈美から聞いた瞬間にピンと来た。すさまじい事故で、大型トラックと乗用車の衝突事故だった。その乗用車に乗っていたのが佐倉一家、ということになる。居眠り運転だったかどうかは覚えていない。何しろ、一年半前のことだ。ただ事故の悲惨さとは裏腹に、ニュースでの取り扱いはひどく淡白で、数十秒で終わってしまったことが皮肉的に感じられたのは覚えていた。

 もう少しで高校一年目が終わるから、中学三年の夏のことだろう。志望校について少しずつ気にしはじめた頃の事故。下半身不随を宣告された佳奈美はどんな心境だったのだろうか。高校へ進学できないと知った彼女は、どう感じたことだろう……。

 そんなもの、ただの想像で補うしかない。他人の感情や気持ちを百パーセント理解することなど不可能だ。ましてや昨日出会ったばかりの女の子の気持ちなんて、少ししゃべっただけでわかるはずもなかった。

 だから、凌はまた佳奈美に会って話をしたかった。そう思うと同時に、変な気分になった。今までは他人との関わりをできるかぎり避けてきたのに、今ではこんなに佳奈美と話したがっている。

 自分の中の何かが、変わりはじめているのかもしれなかった。

 廃墟ビルに近づくと、やっぱりピアノの旋律が聞こえてきた。昨日弾いていた曲とは違う曲だったが、またしてもタイトルはわからなかった。

 なるべく気づかれないようにビルの中に入ったつもりだったが、佳奈美はちらとこちらに視線を投げかけてきた。しかし今日は演奏をやめなかったので、凌は何となく安心した。

 ガラスのように繊細で、ガラスのように脆い。昨日と同じ、そんな音色だった。

 曲調が高まり、そして静かに消え入り、廃墟ビルに反響して曲が終わった。なんというか、才能なのだろうか。凌は無意識のうちに拍手をしていた。

「今日も来たんだね」

 佳奈美は昨日と同じように微笑むとそう言った。嫌がっている感じはなかった。

「うん。学校じゃ、話せる奴があまりいなくてさ……」

 凌は佳奈美にならば、何でも話せるような気がした。友情や恋とかじゃなく、もっと根源的な共通意識みたいなものを昨日見出していたからだ。

「そっか。昔のわたしと同じだね」

「昔……っていうと、中学の頃?」

「うん、わたしも友達いなかったの。今はたくさんいるけどね。お見舞いにも来てくれる。で、浦谷くんが新しい友達」

 そう言うと佳奈美はへへっと照れ笑いをした。やっぱり凌は不思議でならなかった。なぜ、一生歩けない身体で、おまけに両親まで失っているというのに、こんなに楽しそうに笑えるんだろう。

「どうして、そんなに楽しそうに笑えるんだよ? 両親も失って、もう二度と歩けないっていうのに……」

 凌は思い切ってそう訊いてみた。自分も佳奈美のように、楽しそうに笑ってみたかった。

「んー。だってさ、笑ってなきゃ、ずっと暗い気持ちのままじゃない? それってすごく辛いことだよ。わたしも昔は生きてるのが嫌だったけど、今は生きててよかったって思える。両親がいなくなって、初めてそう思ったの」

「でも……」

「もちろん、すごく悲しかったよ。自分も死のうと思った。でも、たくさんの人が心配してお見舞いにきてくれた。ああ、わたしのこと嫌ってなかったんだって、すごく安心したよ」

 本当にそうだろうか。誰も自分のことを嫌っていないんだろうか。凌はとてもじゃないが信じられなかった。

「……俺はこんな人間だから、どうせ誰にも認められないんだよ」

 自分自身に対して吐き捨てた言葉だった。そうだ。才能とか性格がいいとか、人間的にプラスのものがないなら、誰かに認められるはずもないのだ。

「いいんだよ、君は君のままで。世界中の人に認められなくたっていいじゃない。君はその足で歩けるんだから」

 凌は絶句した。五体満足で、地面に足をつけて立っている。歩いている。それは佳奈美にとって、とても羨ましいことに違いないのだ。

「でも、身体の病よりも心の病のほうがつらいに決まってるよ。だって、佐倉さんはそんなに楽しそうに笑ってるじゃないか」

「身体の病よりも……ね。確かにそうかもしれない。でも、いつかはきっといいことあるよ。じゃあ、わたしが君の友達第一号ということね」

 佳奈美は再び照れ笑いをした。友達第一号、か。

 結局のところ、佳奈美の笑顔は悲しみの裏返しのようだった。ずっと暗い気持ちのままじゃやっていけない。楽しそうに笑って、少しでも気分を明るくしなきゃ、辛い気持ちのままだ。まさにその通りだった。だから、凌は佳奈美に会いに来たのだ。暗い気持ちを、すこしでも明るくするために。しかし、凌は暗い話をしてしまった。俺は何を言っているんだろう、と凌は思った。子供じゃあるまいし、どうして割り切れないのか。どうして、もっと前向きに考えられないのか。この壁を越えなきゃ、いつまでたってもこのままだ……。

 その後、佳奈美は凌の学校のことをあれこれ尋ねてきた。だが他人との関わりが浅い凌にとって、面白い話は何もできなかった。今度お見舞いに行くよ、と言って、その日は帰ることにした。

 その後も何度か佳奈美に会いに行った。休日にはお見舞いにも行ってみた。至って順調で、車いすの生活を余儀なくされてしまうが、近いうちに退院できるという話だった。退院すると佳奈美は北海道の親戚の家に引き取られることになっていた。そうなればもう佳奈美とは会えないということになるが、車いすとはいえ自由に生活できるようになれるのは喜ばしいことだった。

 退院するまでの数日間、凌は毎日佳奈美の演奏を聞こうと思っていた。もしかすると、もう二度と会えないかもしれない。二度と、ということはないだろうが、それでもしばらくは会えないのだ。凌の心の扉を開けてくれて、とても大事なことに気づかせてくれた唯一の人間、それが佳奈美だった。

 そして今日も、凌はいつものように廃墟ビルに向かっていた。音が聞こえてきた。だんだんとその音は大きくなってくる。しかし、その音はピアノの音ではなかった。いつもの繊細な音色とはまったく正反対の、何かをガラガラと壊す音だった。

 廃墟ビルは跡形もなく、ただのコンクリートの瓦礫になっていた。

 

 

     3

 

 

 佐倉佳奈美が静かに前を見つめていた。前、とはいっても取り壊しの作業中であるため、少し離れたところからしか見られないけれども。

 凌が隣に立っても、お互いに何も言わなかった。ガラガラ、ガシャガシャという音とともに、繊細な音色で満ち溢れていた世界が壊され、崩れ落ちてゆく。そもそも、どうしてこのビルにピアノが置かれていたのかがわからなかった。誰かがいらなくなって置いていったのか、それとも別の理由なのだろうか。それは以前佳奈美に聞いてみたが、佳奈美もわからなかったようだ。凌にはなんだか、そのビルの持ち主が関係しているような気がした。

「もう、ここではピアノ弾けないね」

 佳奈美が寂しそうに微笑んだ。

「わたし、明日退院することになったの。そのまま北海道のおじさんの家に引っ越すんだ。引っ越す、って変な言い方だけどね」

 せわしなく動き回る作業員。唸る機械の軋み。壊れゆく惜別の音。

「だから今日でお別れだね。わたしの中学からの友達とも、浦谷くんとも」

 ゆっくりと日が暮れていく。ピアノは既に運び出されたようで、瓦礫だけがオレンジ色に染まっている。

「ま、向こうでもきっと友達できるよ。もちろん、浦谷くんにもね」

 音が消えていく。繊細なピアノの旋律も、ビルを取り壊す破壊的な音も、道路を走りすぎる車の音も、そして、佳奈美の声も……。

「うん。たぶん、何とかやっていけるよ。今までありがとう。楽しかったよ」

 気がつくとそんなことを言っていた。たぶんだなんて、確証はない。でも凌は、以前よりも会話が苦手でなくなっていた。対人恐怖症と思っていたが、それも消えたようだ。要するに、ただの自意識過剰に過ぎなかったということだ。

 すべて佳奈美のおかげだった。今は春休みで、あと数日で新学期だ。クラスが変わっても、きっとやっていける。友達もできる。そんな予感みたいなものが湧き出してきていた。

「わたし、プロのピアニストになるのが夢なの。血の滲むような努力が必要かもしれないけど、いつかステージで演奏したいな」

「なれるよ。絶対なれるよ。だってあんなにピアノ上手いじゃないか。うん、次に会うときはそのときかもな。俺は観客でさ」

 ふふっ、と佳奈美はおかしそうに笑った。今までのどんな笑顔よりも、楽しそうだった。

 最後だけ、凌は佳奈美の車いすを押した。何だか、そうしないといけないような気がしたのだ。思ったよりも随分と軽い手ごたえだったのには驚いたが、その軽さは決して身体的なもののみから来るものではないと思った。

「じゃあ、またね」

 病室の扉の前で佳奈美と別れた。何だかひどく虚しくて、複雑な気分だった。

 

 新学期になり、クラス替えがおこなわれたものの、たいしてクラスメートは変わらなかった。

 親しい友達も数人できた。凌は佳奈美のおかげだと信じ、感謝していた。

 始業式の後、なにげなく音楽室に立ちよってみた。さすがに新学期早々部活はないだろうとの予測は当たり、吹奏楽部は活動をしていなかった。なぜ音楽室なんかに来たかというと、無性にピアノが弾きたくなったからだった。もちろんピアノなんて習ったこともないが、どの鍵盤がどの音を出すのか、それぐらいはわかっていた。片手だけだが、何回か弾いてみた。しかし、自然と知っているメロディーを弾いてみても、うろ覚えのメロディーを弾いてみても、あの繊細で、壊れそうなほど透き通った音は出てこなかった。

 いくつもの涙のしずくがその鍵盤を叩いても、ついぞ佳奈美が奏でたような、ガラスの音色は聞えてこなかった……。

 

 

     - Epilogue -

 

 

 その招待状が届いたのは、あれから五年たったあとだった。最初見たときは誰からの招待状だろうと思ったが、すぐに思い出した。それは、ピアノのコンサートの招待状だった。そうだとわかった瞬間、妙に鼓動が高まっていた。

 佐倉佳奈美は、プロのピアニストになるという夢をついに叶えたのだった。会場は都内の某所で行われるということだったから、それほど有名になっていたのだ。

 凌は単純に感嘆した。こっちは夢なんてものを、はっきりとした形で持ちあわせてなんかいないというのに。佳奈美との出会いがあったのにもかかわらず、夢を持つことができなかったというのに。

 会場へ行く電車の中で凌はそう思った。夢や希望を現実的に叶えられるやつなんて、ごくわずかだろうと思っていた。しかし、佳奈美には才能があった。それは自分も認めたことだった。

 コンサートが終わったら、佳奈美に会いに行こう。凌はそう決めた。またあの笑顔を見に行こう。

 そしたら……。

 そしたらきっと、夢や希望を持つことができるかもしれない。


 
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