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Revolter's Blood Vol'05 第一章 ~策動~

C86発表のオリジナルファンタジー小説「Revolter's Blood Vol'05」のうち、 第一章を全文公開いたします。

2014-07-21 19:46:33 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:868   閲覧ユーザー数:868

 

 <1>

 

 ──どうして、ここにいるのだろう?

 力なく横たわる少女は薄膜が張られたかのような意識の中、そのような事を考え続けていた。

 辺りは漆黒の闇。昼も夜もわからぬ空間の中、時間の感覚はとうに奪われていた。

 一日か? 二日か? はたまた数時間か?

 このような思考をどれだけの間続けていたのか?

 そんな当たり前の感覚を抱くことすら至難。

 闇の住人と化した今の彼女が認識できるのは、左半身に感じる粗末な毛布と、その向こうより伝わる固い石畳の感触。

 そして、頭上、背中、足元に伝わるは、同種の石畳が演出する冷たい圧迫感。

 そう、少女は正面を除く五方を石造りの壁と天井、床に囲まれた狭い空間の中で横たわっていたのだった。

 少女は力なく正面へと手を伸ばす。幾許かの空気の流れと開放感を感じられる唯一の方向に。

 だが、その自由を求めて伸ばした手は、程なくして阻まれた。

 冷たい、鉄の格子に。

「……」

 力なく開いた口より声なき声が漏れる。

 それが表しているのは絶望か、はたまた別の感情かは判然とせぬ。

 だが、この一連の所作によって、深酒による酩酊にも似た彼女の意識の中に一つだけ確かな記憶が蘇った。

 ──そうだ。私は囚われの身なのだ、と。

 それは、周囲を軽く視認するだけで誰でも判然となるであろう、極めて当然な結論。

 だが、長きにわたる虜囚の日々の中、意識や思考を鈍化させ、自発的な思考とは無縁であり続けた者にとって、この結論に至ったという事こそが強烈な刺激と成りえた。

 それは言い換えれば、光。右も左もわからぬ程に深い靄の中に彷徨う者に向かい、指し示された一条の光。

 頭の中を覆い続けた霞が、僅かだけ晴れたような気がしていた。

 僅かな記憶の断片、その蘇生とともに。

 そうだ、私は──

 慣れぬ自発的な思考に挑む。

 私の名は──

 蘇りかけた記憶の火種を絶やさんと、渾身の力を振り絞る。

 だが、長きにわたる監禁生活の中で意味を失って久しき『自我』というものは、あまりにも脆弱なものであった。

 ──おのれの名すら思い出せぬ。

 名とは人間がおのれの存在を定義づけ、認識するための礎たるべきもの。言わば自我の根幹に存在する概念であると言えよう。

 では、自分の名を忘れた少女は今、全うな人間であると言えようか?

 私は──

 ゆっくりと身を起こす。

 そして、その両の手で鉄製の格子を掴むと渾身の力を込め、それにおのが頭を打ち付けた。

 大きな音と共に、激痛が少女を襲う。

 だが、この痛みが、額より流れ落ちる温かい血の感触が、少女におのれの『生』を実感させた。

 幽閉の日々の中で曖昧と成り果てていた自意識の中に閃光がもたらされた。

 閃光は彼女の意識の中で迸り、長きにわたり立ち込め続けていた靄を晴らしていった。

 そして、遂に思い出した。自らの名前を。

 おのれの経歴、来歴を。

 ──名はシンシア。錬金術師シンシア。

 王都にて生まれ、父の影響で錬金術という学問を志したが故に市民からの執拗な差別と迫害を受け、貧民街──『区画』と呼ばれる、先の戦争における被害者、及び政治犯の末裔ら被差別者階級の者達が隠れ住む一角へと追いやられ、その事を恨み、常々、復讐心に駆られていたという事。

 そんな最中、自分の前にある貴族が現れた。

 その貴族の名はバルクレイ。聞けば、先々代王妃と情夫との間に生まれたのだという。

 このような出自ゆえに、長きにわたり貴族としての地位は認められず、幼少期を王都より遠く離れたグリフォン・アイの街にて周囲からの蔑視に苛まれ続けた果てに、庶民に対する復讐心を抱いたに至ると。

 同じだった。血統や境遇こそ異なれど、胸中に黒き炎を抱いているという点においては。

 それ故、自分は彼を信じた。そして門外不出の禁忌とされてきた錬金術の知識を彼に伝授してしまったのだ。

 その時は、自分が利用されているだけであるとも知らずに。

 当然──いや、必然と言うべきか。その知識は悪用された。

 人を魔物へと変容させるという秘術を携え、彼は復讐を果たした。

 おのれの支持者を贄として、故郷を暴動の炎によって嘗め尽くさせた。

 彼が如何様にして、自分が伝授した知識を利用し、それを産みだしたかは知らぬ。

 恐らくは、バルクレイの背後に高名な錬金術師が存在しており、その者が開発したと考えるのが自然。

 自分はその存在をぼかすために利用されたのだろう──

 だが、そのような言い訳が酌量に値する道理などなく、グリフォン・アイの街が暴動の炎に包まれたのは、半分は自分の所為であるという事実は変わらぬ。

 だから、償おうと思ったのだ。

 被害を受けた人達に許しを請うために、自分の手で破壊してしまったグリフォン・アイの街を復興させる。

 その決意の日より、二年ほど経ったであろうか?

 色々な人達の協力と支えのもと、着々と復興を進めていたグリフォン・アイの街が──黒い甲冑の一団による襲撃を受けたのは。

 街は焼かれ、復興の協力者は次々と奴らに拉致された。

 街を守衛する騎士隊の人達も、優しき僧たちも、破壊された建屋を修繕する力自慢の市民たちも、そんな彼らを労う町娘たちも、そして──自分自身も。

 四方を鉄の格子で補強された分厚い幌付きの馬車に押し込められて数日間。何処かもわからぬこの場所へと連れてこられたのだった。

 そして今、自分が居るこの牢も──元々は数名の町娘らとともに幽閉されていた場所であったのだ。

 だが、ある時を境に一人、また一人と看守に連れていかれ、姿を消していった。

 彼女らがその後、如何なる運命を辿ったかは知らぬ。

 ──こうして自分は取り残された。だが、それは長き孤独なる時間の始まりでもあった。

 昼も夜も解らぬこの場所で、会話する相手はなく、唯一の他者との関わり──外部との接触と言えば定期的に運ばれる食事の際、番の者との僅かな、無言でのやり取りのみといった有様。

 書を読む事も許されず、単純な作業義務すらも与えられず、外部の物音すら聞く事も、時刻を知る事すらも叶わぬ。

 ただ漫然と時が過ぎるのを待つ。

 虜囚の日々は日に日に心を蝕み、麻痺させていった。

 かつて、日を追うごとに同房の仲間たちが連れされるのを目の当たりにしていく中で抱いた恐怖──自分がいつ、連れ去られるのではないかという事すらも、考え至らぬ程に。

 こうして記憶や自我は意味を失い──そして鈍化していった。

 それは、正気に戻りかけた今の彼女にとって極めて耐えがたい苦痛の記憶であった。

 だが、額の傷と、その痛みがシンシアの心を正気へと繋ぎ止める。

 錬金術師の少女は懸命に頭を振った。忍び寄る狂気を振り払うかのように。

 そして、思案する。

 どうして私達が拉致される事となったのか?

 そして、自分達を拉致した実行役たる、黒い甲冑の集団──彼らは一体、何者なのか?

 苦悶に満ちた記憶の荒波を掻い潜り、彼らに関する情報の断片を思い起こさんとする。

「確か、奴らの姿が見られるようになったのは──そう、二年ほど前だったか」

 二年前と言えば、王都で大きな政権簒奪劇が起こった年である。

 それは当時、王家に匹敵する、或いはそれを凌駕するほどの権力を握っていた王都議会が差し向けた暗殺者によって前国王が殺害されたというもの。これにより、王位は前国王の娘ラムイエが継承し、その側近として議会の重鎮どもが次々と名を連ねるといった事態に陥った。

 このような騒乱へと至った経緯には俗説・俗論を含めて多々存在しており判然とはせぬが、この結果から鑑みるに、議会が王家の権力を掌握するために起こした工作であろうと、誰もが考えていた。

 王都の騎士団は、このような議会のやり方に異を唱え、宮廷と距離を取るために王宮の警護から撤退を表明、これにより新国王ラムイエの身辺警護に支障が出ると判断して、何処からか急遽召集されたのが、あの黒き甲冑の集団であると言われている。

 その素性が何であるかなど、政治の素人たるシンシアには理解できぬ。

 王家秘蔵の精鋭部隊であるとも、急遽同盟を締結した他国の騎士団の一部隊を借りたものだとも噂されているが、事実は誰もわからぬといった有様。

 そんな素性のわからぬ者達に、自分は拉致され、こんな心寂しい監獄へと幽閉されたのだ。

 ──これほどに理不尽な話など、何処にあろうか?

 手が震えだす。

 だが、それも数瞬の事。怒りによって握られた拳が程なくして力なく緩む。

 衰弱の為だった。だが、その弛緩がシンシアに冷静なる思考をもたらした。

「そう言えば──」

 ふと、思い出す。

 二年前のあの日──復讐心に駆られ、グリフォン・アイを訪れた際に出会った二人の騎士の事を。

 自分に反省のきっかけを与え、贖罪の道を示してくれた恩人。

 彼らはあの後、王都グリフォン・ハートへと向かい、そして、政権簒奪を試みる議会と対立したが失敗したという。

 そして、国家に対する反逆者として首に賞金を懸けられ、今は追われる身であると聞く。

「彼らは──生きているのだろうか?」

 逃亡先で死んだとも、支持者の支援の下、細々とした生活を送っているとも、復活の基盤を構築し始めているとも──幾つかの噂話を聞いた程度。

 その辺りを境に、シンシアは全てから遮断されたこの地の住人と化したが故、噂の真偽はわからぬまま。

 錬金術師は天を仰いだ。視線は闇色に染まる石造りの天井の先、そこに存在しているはずの──青々とした空を幻視する。

「私のような者が祈りを捧げる資格など、ないと思うけど──」

 願いを聞き入れてくれるのならば──暢気な傍観者気取りの神などよりも、たとえそれが法外な代償でも、払えさえすれば役目を果たしてくれる悪魔のほうがどれほど信用できようか?

「無事でいて欲しい──」

 そんな思いに駆られながら、錬金術師は只管に願う。

 これを聞き入れぬのならば、私は神を、或いは悪魔を呪い殺すであろう。

 そんな脅迫めいた思いを込めた、渾身の祈祷だった。

 そして、祈りの言葉の最後に付け加える。

 息災を願う者達の名前を。

「ウェルト、アリシア……」

 

 <2>

 

 外海と見紛うほどの広大な湖の上を、一隻の帆船が風に乗り、疾く駆けるかのように進んでいた。

 大陸中央部に存在するエッセルと呼ばれる大湖。

 五十余年前の先の内戦の折、騎士団が物資の運搬の高速化と軍資金を調達するため、この湖にて水運事業が始められたと言われている。

 この辺りの水域は気候と風が安定しており、帆船の運行に最適であるという事情が幸いしてか、戦後も事業は継続、そして定着し、現在においては国を代表する産業の一つとなり、湖岸の周辺集落の活性化に繋がっているという。

 今、その湖の上を駆ける船の甲板の上。黒く焼けた肌をした屈強な船乗り達の中に混じり、湖風に身を晒す一人の男がいた。

 双眸には強靭な意志と、野性的な雄々しさを兼ね備えた強烈な光を宿してはいるものの、不思議と好戦的な印象は与えぬのは、この男が少年の面影を色濃く残していたが故であろうか。

 だが、その身より放たれる覇気は烈火の如き炎。若者特有の豊穣な生命の芳烈に酷似した気配。

 背には大剣を背負い、一見すると護衛の傭兵であるかのよう。

 だが、彼が身に纏う皮鎧、その肩当ての部分には、特徴的な文様をした焼印が施されていた。

 それは騎士団の紋章を略式化したもの。

 船はとある商人が所有している物資運搬用の小型帆船。青年は商人より船内の警備の依頼を騎士団経由で受け、これに同乗しているのであった。

「そろそろ到着だ、者ども準備にかかれ──」

 船長と思しき男より号令がかかるや、船内は慌ただしく動きはじめる。

 無論、同乗している護衛の騎士も例外ではない。

「──騎士の坊主。下船の準備を始めるから、警備のほう抜かりなく頼むぜ?」

「いい加減、名前を憶えてくれませんかね?」

 青年が憎まれ口を叩きながらも苦笑すると、周囲の船員から遠慮ない笑い声があがった。

「そう、怒るなよ。ええっと……」

 古株の船員らしき男が、わざとらしく思い出そうとする素振りを見せ、再び周囲の笑いを誘う。

「……ウェルト・クラウザーだ!」

「おお、そうだった。悪かったな、ウェルトの坊主」

 男は馴れ馴れしい笑みを浮かべ、おどけてみせた。

「まぁ、そう怒るって。この任務が終わったら、お前だって楽しみが待っているじゃないか?」

「楽しみ?」

「とぼけるな」海の男が、ウェルトの背中を叩く。

「任務の手当金が入るんじゃないのか?」

「──まさか。そんな制度、騎士団には存在しないぜ?」

「あれだけ俺達から高い用心棒代ふんだくっておいて──か?」

「そんなもの、全額、騎士団の懐の中さ」

 ウェルトと名乗った青年は呆れたように溜息を吐く。

 その言葉に流石に面食らったのか、屈強な男達が信じられぬと言わんがばかりに目を白黒させる。

「なんとも世知辛い話だなぁ」

「全くもって仰る通り」

 そう言うと、ウェルトは乾いた笑みを浮かべた。

 このエッセルに水運事業をもたらしたのが、当時の騎士団の有力者であるという事情ゆえか、今も尚、事業には騎士団の関係者が数多く関与しており、その影響力は極めて強い。

 騎士団が王都や王家と距離を取っている現状においても組織力を損なわずに存在していられるのは、この大きな金脈が存在しているが故。

 更には、古来より国の税の大部分を食らい続けて来た騎士団関連の費用を削減──大幅な減税へと繋がっているためか、この商売を非難するような庶民など皆無。また、強欲な商人に至っても、このように腕の確かな護衛を安定して雇えるとあっては、表だって文句をいう訳にもいかず、共生の道を歩まざるを得なかった。

 このような事情ゆえ、大陸中央部は騎士団の影響力が極めて強い地方であると知られている。

「──聞けば、王都をはじめとした東の騎士隊が、このエッセル湖畔周辺に集結して、騎士団の一大基盤を構築するって話じゃねぇか。そこまで大規模な組織になるのなら、末端の人間の待遇くらい改善してくれても良いと思うんだがなぁ」

「そうなってくれるよう願うよ」

 ウェルトは素っ気なく答えた。

 その冷めた反応に船乗りたちも興味が失せたのか、或いは下船準備の時間が差し迫っていたのだろうか、一人、また一人とウェルトの前より去って行く。

 そんな彼らの背中を眺め、ウェルトは誰にも聞こえぬよう、小さな声で愚痴をこぼした。

「そう、単純な話ではないんだけどね」──と。

 

 うら寂しき残照の紅に染まりし港に、賑やかな声が響き渡る。

 積荷を下ろす船員。それに立ち会い、荷の検査を行う港の管理員と思しき男達。そして、主の帰りを今か今かと待ち構える船乗りの家族と思しき親子の姿。

 ウェルトは停泊した船上から、そんな人々の姿を眺めていた。

 エッセル湖南東に位置する、湖港の街カルサンドラ。

 ここがこの度、ウェルトが警備を任された船の帰還地であり、そして、彼が活動の拠点としている街でもあった。

 大陸の片隅に位置する──まるで、王都の動乱など存在せぬかのような平和な街。

 だが、騎士は知っていた。

 こんな僻地ですらも動乱の影響を、腐食、浸食を受け始めているという事を。

 王都の宮廷より離反した騎士団が、このエッセル湖畔を一大拠点とし、現政権の政治に嫌気が差した東方の住民らを受け入れる体制を整えるとの事。

 それが実現すれば、否が応でも東岸側の幾つかの集落が、騎士団の前線基地としての役割を果たす事となるだろう。

 即ち、これらの地を巡っての争いを示唆する事に他ならぬ。最悪の場合、戦禍に見舞われる事もあろう。

 今のところ表立った影響こそない。しかしいずれ、この平和は必ずや蝕まれる事だろう。

 ──ウェルトは踵を返し、船内へと戻っていった。

 眼下にて主の無事を喜び合う船乗りの家族たちの姿を眺めているうちに、まるで自分が疫病神であるかのように思えたからであった。

 

 彼の任務は、船員や乗客が下船した後の船内を確認し、不審な人や物の類が存在せぬ事を確認し、終わりを迎える。

 全てを終えて下船し、埠頭へと降り立った頃には既に船乗り、及び関係者たちの姿は何処にもなく、ウェルトを照らしているのは満点の星々と、円弧状に欠けた月が彩る天空の円屋根の輝き、そして、この港の彼方此方に備えられた松明の灯りのみ。

 ウェルトは、誰もいない港を一人、歩いていた。

 ほんの少し、遠回りをして。

 ──その行為に明確な理由があった訳ではない。

 ただ、そうしたかった。

 夜の静寂の中に響き渡る、黒と銀、そして朱の色彩の水面が奏でる水音に耳を傾けながら、ゆっくりとした足取りで歩を進めていた。

 足音すらも、遠くまで響き渡っていく。

 その音が不意に、止んだ。

 立ち尽くす騎士の目に、何かが止まっていた。

 それは──人。月明かりに照らされ、銀色に輝く女の姿。

 体は湖面の方向を向き、顔は空を見上げ、視線は天空の円屋根に輝く星々へと向けられていた。

 長い髪が湖風に吹かれ、緩やかに揺れ靡く。

 その神秘的な様たるや、まるで地上に舞い降りた天使の如し。

 見惚れ、陶然と立ち尽くしていたウェルトであったが、それも一瞬の事。彼は再び歩を進め、女のもとへと近づいていく。

 無論、女は天使などではない。僧衣を纏った、れっきとした人間の女であった。

「君も──帰って来ていたんだね?」

 騎士の口許に、僅かな笑みが浮かぶ。

 声が月明りに輝く尼僧に耳にも届いた。それに応じ、彼女もまたウェルトの方を向くと一瞬だけ驚いたかのように目を瞠り、そして、穏やかな笑みを浮かべた。

 尼僧とは、セリアだった。

 先の内戦の折、敵の首領として討たれた女ソレイアの孫娘。

 そして現在に至っても、権力の中枢に巣食い、蝕み続けている呪われし血族の、唯一なる善。

「──ええ。只今、戻りました」

 笑顔が途絶えぬ。

 かつては、その呪われた出自に対する苦悩ゆえ、その顔に笑みが浮かぶことすら稀であり、珍しく笑みを浮かべたとしても──たとえ愛想笑いの類であっても──それが長く保たれる事など皆無。程なくして愁いを帯びたそれに戻るのが常。

 だが、今は違っていた。

「貴方よりも少し先についた船で──」

「それじゃ、船から降りてから今まで、ずっとここにいたのかい?」

「ええ」セリアは頷いた。

「こうして無事に任務を終え、ようやと解放されたのです。水の音でも聞いて、心を休めたかったのかも知れません」

「それは奇遇だ」

 そう言うと、ウェルトはセリアの隣の位置へと歩み寄った。

 体の向きを変え、共に夜色の湖を眺めはじめた。

「僕も、そうしていたところさ」

「ウェルトさんも?」

「すぐにでも騎士隊の詰所に戻って報告をしなければいけないのだけど──長旅の疲れの所為か、面倒臭くなってしまってね」

 つまり手抜き、怠けである──ほんの、ささやかな。

「いやぁ、セリアを見つけられて助かったよ」

 ウェルトはお道化るかのような笑みを浮かべた。

「共犯者が見つかってね」

「──まぁ!」

 この言葉にセリア驚き、心外だ、と言わんがばかりに頬を膨らませる。だが、それも一瞬の事。彼の言葉から何かを思いついたのか、その顔に笑みが戻る。

 少しだけ、悪戯めいた笑みに。

「こんな所がアリシア殿下に見つかったら、いつもの折檻が始まりますからね。そこで私を出汁にしようと思ったのですね?」

「──ご明瞭」

 ウェルトも同じ笑みを浮かべた。

 ふざけ合い、そして笑い合う様は、まるで悪戯好きの兄妹が、新しい悪さを企てているかのよう。

「商船の護衛という簡単なものだが、任務は概ね成功さ。急を要する報告も必要ないほどにね。だから、詰所には日を改めてから顔を出すつもりさ」

 セリアもそうだろう? ウェルトはそう言いたげに、彼女の反応を窺う。

 そんな友の視線を受け、セリアは優しく微笑んだ。

「私の任務も滞りなく終わりました。西方の有力者らとの意思疎通は十分にとれたと考えても良いでしょう」

 彼女が任された任務とは、以下の二つ。

 一つは、アリシアの王位継承権を認めるという、聖都大聖堂の決定を伝えるというものであった。

 根拠は、二年前に暗殺された前国王の言葉と、聖都に残されていた──アリシアの出生を知る、ウェルトの祖父母の手記の存在。

 司教セティの死が発端となった後継者争いに紛糾するあまり、西方諸地域から信頼を失いつつあった大聖堂であったが、手記の信用性もさることながら、ナーディン師の聖堂長就任や、それによって始められた大聖堂内部の浄化活動が功を奏した結果が大きかったとセリアは言う。

 二つ目は──難民の受け入れ要請であった。

 ──それは二年前における政権移譲の方法に騎士団が異を唱え、宮廷と距離を取り始めた事に起因する。

 そんな中、宮廷と騎士団との間に立つ調整役を担ったのが、クラウザー家の当主とその妻──即ち、ウェルトの両親であったのだ。

 だが、調整は難航を極めた。

 王家は、騎士団をおのれの勢力下より放逐する為の画策をはじめており、その初手として、騎士団放逐後の魔物に対する防衛力確保のため、隣国のハイディス教国に協力の要請を行ったのだという。

 その決定には誰もが耳を疑った。

 現政権を支持する王都議会の豪族らが抱える私兵をそれに充足させるというのならば理解できよう。

 だが、王都や宮廷といった国の中枢──枢要な拠点の防衛をあろう事か他国の騎士団に委譲するなど国の威信失墜は必至。そのような選択など正気の沙汰ではなかった。

 無論、騎士団からの反発は必定。それのみならず、王都の大聖堂や、王都の民からも不安の声が吹き上がった。

 だが、その声が王家に届く事はなく、議会はハイディス教国騎士団の重用を決定。この国の騎士団は王都グリフォン・ハート、その近隣の都市グリフォン・フェザーをはじめ、大陸東側三分の一の地域に存在する都市や集落からの撤退を命じられた。

 クラウザー家と騎士団は必死に抗った。

 ウェルトの父・クラウザー家当主アインスは、連日にわたって宮廷へと出向き、敵地の中で粘り強く交渉を行った。

 ウェルトの母・聖都大聖堂の司祭シェイリも街中を奔走した。大聖堂と騎士団の橋渡し役を兼ねる傍ら、民衆の混乱を最小限に留めようと、日々、噴出する不安と不満の声の捌け口役も務めた。

 しかし、その努力は遂に結実する事はなく、遂に二人は──王都議会より粛清の対象となった。

 それが二ヶ月前の事である。

 ──委細は遂に判明する事はなかった。だが、幾度も幾度も交渉と要請を行う彼の姿勢が、宮廷側の心証を悪化させたのは想像に難くない。それ故に、政権との関係が拗れたが故に起こったのだろう。

 この現政権が行った暴挙に対し、騎士団は怒り、この度の撤退劇となった。

 こうして、王都グリフォン・ハートをはじめとし、東方の主だった都市より騎士団が撤退を決定、このエッセル湖を目指して集結を始めているという。

 騎士とは防人。街の外壁の外に跋扈する魔物どもの動向に目を光らせると同時に、街の治安を守るための部隊である。

 そんな重要な役目を、右も左もわからぬ外様の騎士団が行えるのか大いに疑問が残る。

 その不安ゆえか、この大陸中央部・エッセル地方へ流れる民が現れたのは言うまでもない。

 そしてこのエッセル湖こそが現在、東の王家・王都議会側、西の騎士団・宗教勢力側へと二分しかけた勢力構図の最前線に位置する場所でもあった。

 王家や議会の狙いは無論、騎士団の金脈である湖周辺地域の制圧に他ならず、無論、騎士団も易々とこれを手放す訳にはいかぬ。

 睨み合いは幾月にもわたり、現在は膠着状態の様相を呈していた。

 だが、いつ此処が戦禍を被るかわからぬ。

 そうなる前に、彼らを比較的安全な西の地方へと送らねばならぬ。

 セリアが行ったのは、その土台作りのため、西方の有力者に面会を行い、協力を要請する事であった。

「養母様と、ナーディン師のお陰です」

 セリアは満点の星空に向かい、感謝の祈りを捧げた。

 セリアの養母、司教セティは過去の内戦を終結させた英雄の一人であり、そして、そのセティが生前、深く親交があったのが現聖都大聖堂長にして高司祭の地位にある翁──ナーディンである。

 この度のセリアの行脚には、そのナーディンが支援しているとの事であった。

 高名な善僧の名を出されれば、各地の聖職者も、セリアの懇願を看過するわけにはいかぬ。殆どの者が彼女の願いを聞き届け、その準備に取り掛かる事を約束してくれたという。

「──それは良かった」

 ウェルトは、友の旅の成功を喜んだ。

「これで東西の二大聖堂は、アリシアこそ正当な王位継承者として認めた事になる。今、王都に巣食うラムイエ政権の連中は、その正当な王から都と権力を簒奪した反逆者。更には他国と密約を結び、抵抗し、挙句の果てには、仲介役の父さんや母さんを──」

 一瞬だけ、騎士の顔に悔しさの色が滲む。

 それを見て、セリアは言った。

「では、遂に決戦ですか?」

 だが、尼僧の言葉と期待に反し、ウェルトは頭を横に振った。

「どうして?」

 それは──と、セリアの問いに答えようと、ウェルトが口を開く。

 だが、その所作は遮られた。

「──まだ、時期尚早だという事だ」

 二人に向かい、不意にかけられた声によって。

 あまりにも聞きなれた声。

 だが、その声の主は、この場にいるはずのない──いや、『いるべきではない』人物のものであった。

 二人は声のした方を向くと、そこには一人の女がいた。

 銀色に輝く髪の女。腰に剣を佩き、身に装う装束は騎士の装い。

「アリシア!」

「アリシアさん!」

 ウェルトとセリアの声が同調し、その名を呼んだ。

 今や正当なる王位の継承者であり、現政権に反旗を翻した勢力の頂点たる女の名を。

「こんな夜更けに護衛もつけずに外出なんて……」

「お前達がいるだろう?」

 アリシアと呼ばれた女は、平然と答えた。

 何故、そのような愚問を?──と言いたげな表情で。

「それに四六時中、周りに気心の知らぬ側近どもを彷徨かせておくのは私の趣味ではない。まったく老人というものは、どうして他人の私事に対しても、ああもうるさく口を出してくるのか……」

 王の血と権威を継ぐというものが、これ程までに面倒な事だったとはな──そう、彼女は冗談交じりにぼやく。

「出来る事ならば、譲ってしまいたいところだ──どうだ、ウェルト。私の替わりを務めるつもりはないか?」

「遠慮しておくよ」

 ウェルトは諦観と呆れが織り交ざったような表情で答えた。

 ──これが、最近のアリシアの口癖である。無論、このような無責任な発言など、公の場で出来る筈もない。ウェルトやセリアといった気心の知れた相手だけに許された、他愛もない愚痴であった。

「私は常々、先頭には立って戦う事は厭わぬが、守られ、担がれるのは嫌と考えている。それ故に、あれこれと世話を焼く連中を煩わしく思ったりもするのだろうな」

「これも生半可に騎士の家で育った弊害かな?」

「──そうかもな」

 アリシアは微笑んだ。

「騎士の家に生を受けたならば戦場で果てるのが定め。死など元より覚悟の上だったのだが、残された者としては辛いものだな」

「父さんと、母さんの事?」

「ああ」

 アリシアは静かに頷いた。苦々しき感情を僅かに滲ませて。

「──ラムイエ政権が興り、隆盛となる王都に残り、これに反意を唱え、騎士団側に与している者として調整役を担う事が、どれだけ辛い仕事だったかと思うと、今も胸が張り裂けそうになる」

 すぐさま、仇討ちの為に兵を挙げたくなる。

 だが、それは出来ぬ。

 ウェルトやセリアには、アリシアの胸中に渦巻く、苦悶に満ちた感情がひしひしと伝わって来るようだった。

 そんなアリシアに、ウェルトは語り掛ける。

「騎士の家に生まれた者として、その宿命に従ったまでの事さ」

 それはまさしく、騎士らしい決然とした口調であった。

「……無論、僕も人間である以上、無二の肉親を襲った境遇に対する強烈な怒りや悲しみは渦巻いているけどね。でも、こんな見え透いた挑発に乗る程、僕は間抜けではない」

 ウェルトは耐えていた。

 じっと──冷たい風雨に晒され、耐える岩の如く。

「肝要なのは粛清の情報を公開し、僕たちを狙い撃ちにした挑発を行った理由を考察する事さ」

「──理由?」

 セリアは思わず問うた。

「それが先程、アリシアさんが仰った『時期尚早』という事なのですか?」

「その通り」

 ウェルトは首肯する。

「ラムイエ政権は父さんと母さんを粛清し、騎士団との離別を実現させ、ハイディス教国騎士団の重用に成功した──だが、その程度の理由で戦いを始める事は出来ない。奴らは今のところ自分達の勢力下にある東方地域の民に危害を加えてはいないからね。奴らが挑発を重ねるのは、我々の判断を狂わせて拙速に事を運ばせようと考えているのだろう」

 挑発に乗って王都に攻め入ろうものならば、それは東の民にとって侵略と同義。正義はラムイエ政権側にあると証明してしまうようなもの。

 まさに自滅行為である。無論、これだけは絶対に避けねばならぬ。

「──解決の糸口はあるのですか?」

 そう、更にセリアは問いかけた。

「今のところ、ラムイエ政権は東の民に直接危害を加えているわけではありません。ですが、数ヶ月前に施行された税制の改定によって、一般の人々に対する教育に関して大きな増税が課され、それを不服に思った知識者層、及び勤勉な中流層がこちら側に流れ着いてはおりますが、それも限定的と聞きます。このような人の流れも一時的なもので終わるでしょう。そればかりではありません。問題は私達──騎士団や聖都大聖堂が自治を行う西側です」

 尼僧は更に続けた。

「『区画』の住民──先の内戦における政治犯の子孫や、その際にソレイアの財源として利用された生ける人形・ホムンクルスの末裔たち──に対する迫害や差別。これに騎士団や大聖堂が積極的な対策に出始めた事が、一部の住民の反発を買っているようです。そんな人達の一部、それもかなりの数の人間が規制の緩い東を目指して流れていったと聞いております」

「そんな下衆な連中の事など無視をすればいいさ。とは言え、セリアの言う通り、人の流出入という側面だけで言えば、西側は分が悪いみたいだね」

 ウェルトは投げやりな態度を取った。

「これはまさに、弱者に対する嗜虐が一部の民衆にとって『娯楽』と化してしまっている証左。そんな連中が敵側に頼り始めたという事は、むしろ歓迎するべきなのかもね。言い換えれば、膿が西方勝手に出て行ってくれたという事なのだから」

「膿が勝手に出て行ってくれた──か」

 アリシアは訝しげな反応を示した。

「弱者が更なる弱者を攻撃するという問題は、この国の民のみに限った話ではない。民衆の知識や教育の水準、経済の状況など、様々な要因が悪化すると顕在化しはじめる現象だ。それはいつの時代、如何なる国や地域でも然程の差はない。希望があるのならば、東でそのような迫害に嫌気が差した者達が、こちら側に流れてくれればと思うのだが──」

「確かにそうですね。ですが、そのような人は概ね、危険な街の外に出て新天地を目指すような力など残されてはいないものです」

 セリアはそう言い、目を伏せた。

「本当に救済をせねばならぬ弱者というものは、彼らのように自力ではどうにも出来ぬ程に弱り果てた人達であるというのに……」

「酷なものだ」アリシアは奥歯を噛んだ。

「現実の風とは、こういった者にこそ厳しく吹き荒ぶのだからな」

 そう言うと、彼女は懐から何かを取り出した。

 それは掌に収まるほどの小さな、帯状の物体であった。

「それは──?」

「布きれ……ですね。随分と汚れているようですが」

 セリアがそれを受け取ると、矯めつ眇めつ観察した。

 だが宵闇の中、月と星、そして遠くで揺らめく松明の炎だけが頼りなこの場では、その委細までは判然としなかった。

「ですが、少し強い臭気を感じますね。人の汗と、鉄が錆びたかのような……」

 そこまで言いかけ、尼僧ははっとした表情へと変じる。

「まさか──血ですか?」

「ああ」

 アリシアは頷いた。

「三日前、街の東門前に手にこれを握りしめた少女が倒れているのを、番の者が見つけたのだそうだ」

「その子は無事なのか?」

「いや」

 アリシアは頭を振った。

「発見した時は既に虫の息。急いで神殿の施療院に運び込み治療を試みたそうだが、努力も空しく──」

 残念な結果を聞き、セリアが目を伏せる。

「それほどに酷い状態だったのですか……」

「検分にあたった僧の話によると、肌は青白く、髪の艶は消え失せ、体はかなり痩せ細っていた──長い間、陽の光を浴びる事もできず、食事も満足に摂れなかったものと思われる。彼女がどれほどの目に遭ったのか、察するに余りある有様よ」

「でも、発見した時にはまだ息はあったんだろう? その時に、何か聞けなかったのかい? 名前とか、何処から来たのか──とか」

「東の──グリフォン・アイから来たのだと」

 少しだけ、言葉が詰まる。

 その反応に、ウェルトは訝しさを感じた。

 グリフォン・アイと言えば二年前、暴動の炎に飲まれ、壊滅的な被害を受けた街。

 その際における鎮圧、及び復興の足掛かりの構築には、自分達三人も深く関与していたのだ。

 ならば、その行き倒れとなった人は、顔見知りの可能性もあろう。

 彼は問う。

「誰なんだい?」──と。

 だが彼自身、返答には期待などしていなかった。

 今やこの国は東西分裂の危機に瀕している極度の緊張状態にある。

 この時勢に、どこから来たかも知れぬ異邦者など疑心暗鬼の素でしかない。

 その行き倒れの者が何を言おうと、事情を聴取する者がそのような心理状態では、信用のおける情報など、そう簡単に判然となるはずはないだろう。

 そう、考えていたからである。

「報告を受け、遺体と対面した時は衝撃の余り──私も我が目を疑った」

 だが、そんな諦観めいた彼の思惑とは裏腹、回答はすぐにもたらされた。

「彼女は──シンシアだった」

「──!」

 アリシアの瞳から流れ落ちる──一筋の涙と伴って。

「おのれの贖罪と、亡き恩人の遺志を叶える為、暴動の炎に飲まれた街の復興と『区画』の住民に名誉回復を誓ったグリフォン・アイの錬金術師の──それは、あまりにも惨たらしいほどに変わり果てた姿だった……」

 

 <3>

 

 時は数日前に遡る。

 闇の中、人の声が木霊する。

 血肉の通った人の発する音の連続であった。

 寂しき監獄の中で日々を送っていたシンシアにとって、それは久しく耳にする事の出来なかったもの。それ故に遠くより木霊するこれらを、彼女は異変の予兆として捉えていた。

 か細き体を緊張によって強張らせながらも、シンシアは耳を澄ませた。この場にて何が起こっているかを察するために。

 彼女はしかと聞いた。発せられる声や言葉、物音、そしてこれらの微細の変化に至るまでを、そして、これらをおのれの記憶に焼き付ける。

 ──戦っている?

 シンシアが聞いたのは、金属同士を打ち鳴らす音。怒声、そして、倒された者が発したと思しき叫びだった。

 辺りを巡視していた獄卒どもも一斉に色めき立ち、腰に佩いていた得物を抜き放っては、音のした方向へと目掛け走っていく。

 これらの状況より、シンシアは遠くで戦闘行為が行われていると察するに至った。

 そして、監獄にて戦闘行為が行われる理由といえば、ただ一つ。

 外部からの闖入者が武力を用いて、囚われの身となっている者を救出しようとしている時である。

 そう悟り至った後の、シンシアの行動は早かった。

「……!」

 次の瞬間、彼女は声をあげていた。

 自分の自由を拘束し続けていた鉄の格子に縋りついて。

 しかし、長きにわたり声を発する機会を喪失していた彼女の喉は顕著なほどに衰えを見せていた。

 渾身の力を込めて発したつもりであれども、発せられるその声量は、まるで蚊が鳴く程度の代物。

 そのような声にならぬ声など、外の戦いの喧騒に掻き消されていった。

「──誰かいるのか?」

 だが、これは神の慈悲か、或いは悪魔の悪戯か──運命の手は錬金術師を見捨ててはいなかった。

 彼女の声を耳に届いたのか、はたまた彼女の気配を察したのかはわからぬ。だが確かに、何者かが発したと思しき声が響き渡った。

 シンシアの居る、独房のある方向に向かって。

 ──足音が近づいてくる。

 夢にまで見た、救いの手が差し伸べられる。

 そう思い、シンシアは舞い上がっていた。

 歓喜に体が震える。不意に訪れた神がかりめいた幸運を前に震慄していた。

 そして程なく、その救いの手──神の使者は現れた。

 疵一つない、白銀に輝く甲冑に身を包んだ騎士の姿が。

「あ……あああああ!」

 救出に対する歓喜が、力失いし喉を蘇らせた。

 自由への狂喜が、骨と皮のみとなった手や腕に力が戻っていく。

 見開かれた両目から、涙が滂沱と流れる。

 痩せ細り、半ば廃人と化した少女が、号泣する。

 その異様な様に、救助に訪れた騎士も、そんな武人の後に続いて現れた者達も、戸惑いを見せた。

 だが、それも数瞬の事。その困惑も急速に収束していった。

 後続の騎士のうちの一人から上がった、この声によって。

「お前は……シンシアか?」

 発言者が、彼女の独房の前へと歩み出る。

 そして、頭部を覆い隠し、防護していた兜を脱ぐ。

「──!」

 シンシアの声と涙が、止まった。

 彼女の眼前に晒されたのは──疵一つない白銀の甲冑とは、好対照ともいえる程に、多くの傷跡を残したものであった。

 だが、彼女は覚えていた。そのあまりにも特徴的なそれを。

 忘れられようか? 暴動の炎に包まれ、半ば廃墟と化したグリフォン・アイの街を復興させる為に、共に手を取り合った男の顔を。

『全身傷』の異名を持つ男。かつてグリフォン・アイの街を守衛する騎士隊の長の座に就いていた──歴戦の騎士の姿であった。

 

 グリフォン・アイ騎士隊の手によって、監獄の闇から助け出されたシンシアが見たのは、またもや闇であった。

 だが、今まで彼女を苛んでいた閉塞感などどこにもない。

 頭上にあるのは、天空の円屋根と白銀色に輝く月と数多な星々。

 側面にあるのは遠方まで続く無限の景色であり、両足が踏みしめているのは乾いた赤き土。

 そして今、鼻腔や心肺へと染み渡っているのは、先ほどまでの生温く、カビ臭さを伴った空気ではない。

 新鮮で澄み切ったそれ──外気であった。

 そう。シンシアは今、外の世界に立っている。幽閉された日から、長きにわたり求め、渇望していた自由な世界に。

 そこは、見渡す限りの乾いた地であった。

「私は、長い間こんなところに──」

 錬金術師は振り返る。

 今まで、自分の自由を束縛していた忌まわしき建造物を。

 高き壁に囲まれた、まるで城塞かと見紛うかのような堅牢な建物。

「グリフォン・アイから徒歩で西に一日ほどの位置にあたる。先の内戦の時代、敵方に通じていた貴族が隠れ家として使っていた廃屋を再利用したものだそうだ」

 今にも倒れそうなシンシアの体を、全身傷の騎士が支えた。

「王都より送り込まれた、グリフォン・アイの新太守がな」

「──新太守?」

「……話は後だ。まずはここから離れるぞ」

 錬金術師が聞き返すが、答えが与えられる事はなかった。

 傷だらけの武人は錬金術師の体をゆっくりと担ぎ上げる。

 シンシアは、その咄嗟な行動の意図を察した。

「追手?」

「──そのようだ」

 言葉少なにこう言うと、男は駆け出した。

 流石は歴戦の武人と言うべきか、その足取りは痩せた少女の重さなど物ともせぬと言わんがばかりの軽やかなもの。

 そんなシンシアを抱える長に歩調を合わせて駆けるのが、後に続く騎士達であった。訓練の行き届いた屈強な男達は、息一つ切らせる事無く、少女と上官の背を守っていた。

 満点の星が瞬き照らす夜の荒野を、十数人から為る一団が駆ける。その様はまるで、猛進する獣の集団の如し。

 そして──監獄より脱出して数刻。

 先刻まで、後方より聞こえていた追手と思しき者達の声は、いつの間にか消え失せていた。

 だが、騎士達は歩みを止めぬ。一刻でも早く、安全なところへ逃げ込むために。

 その様相をシンシアは事態の平静と判断し、再び問うた。

 疲弊した自分を抱きかかえ、守ってくれた傷だらけの武人に向かって。

「そろそろ話して頂けませんか? どうして新太守とやらが、私達を──あんな場所に閉じ込めたのかを」

 それは数日前まで、自発的な意志を持つことが出来なかった者とは思えぬほどの力強い口調であった。

 確固たる意志をもって放たれた言葉が荒野に鳴り響く。

「……」

 それに対し、騎士からは一切の返答はなかった。

 誰もが口を噤み、沈黙する。

「騎士様!」

 そんな煮え切らぬ反応にシンシアは激昂した。傷だらけの痩せ細りし腕を伸ばし、武人の胸倉を──外套の端を掴み上げる。

 だが、衰弱の果てにある彼女に、握力は残されてはいなかった。程なくして武人の外套は、その手より解放される。

 しかし、腕力こそ失われても、その双眸に宿る意思の光は健在。

 槍の穂先の如き視線に心を貫かれた傷の男は、程なく観念し、長く続けていた沈黙を自ら破った。

「……すまぬ」

 最初に出た言葉は、まるで呟くような声で謝罪の言葉であった。

「お前には知る権利がある。どうしてこうなってしまったのかを」

 そして、静かに語りだした。

 復興の只中にあったグリフォン・アイの街を襲った悲劇、その全容を。

「全ては私の失敗が発端だ」──と。

「──失敗?」

「ああ」騎士隊の長は頷いた。

「三ヶ月ほど前の事だ。前太守が自殺して以来、長く空位であったグリフォン・アイ太守の地位に就くため、ある女が王都より派遣された」

「女?」

「プリシラ=サバス伯爵。かつては『宮廷の金庫番』とも言われた、財務の頂点に君臨する女だ」

「財務専門の貴族が、どうして今更、グリフォン・アイの太守に?」

「街の復興のための支援の手が欲しい──との、かねてからの我々の要望を聞き入れた結果だと言っていた。だが、派遣されてから三月、その女が一度たりとも王都に人や金を要求する事はおろか、街を視察する事もなかったがな。故に本当のところはわからぬ」

「抗議はしたの?」

「──無論だ。議論の場に引き擦り出してまでな」

 全身傷の男は即答した。そして、こうも付け加えた。

「だが、それが──事の発端となってしまったのだ」

「どういう事?」

 街の復興を支援する為に、太守に就いたのではないのか?

 その題目に従わぬのならば、それを指摘し、陳情し、苦言を呈するのが当然ではないのか?

 理解出来ぬと言わんがばかりに、シンシアは怪訝めいた表情を見せた。

「だが、抗議の場で彼女は言った──『支援を欲しければ、今のラムイエ政権を支持しろ。それが、支援をする交換条件だ』とね」

「──え?」

「グリフォン・アイは今、復興の只中であり、街としての機能を回復してはおらぬ為、人の流入は少なく外の情報に乏しい。それ故、知らぬ者が多かったのだが」

 そう前置きをし、騎士は語り出した。

「今の女王ラムイエは大聖堂が禁じた縁組──近親婚によって生まれた子であるが故、王位継承者として認められぬとの主張する者が多く存在し、樹立してから二年余り経った今も政権の安定には至っていないらしく、基盤造りに躍起となっているそうだ」

「二年以上経っても?」

 シンシアは再び怪訝めいた表情を見せた。

「先王が暗殺されたことにより王の血を継いでいるのはラムイエ、ただ一人のはず。いくら大聖堂が禁じた縁組だからと言って、この事実がある以上、流石の大聖堂も認めざるを得ないのでは? でも、二年以上も抗う事が出来ているのならば、相応の根拠があるのでしょうけど」

 だが、それが何なのか、未熟な錬金術師には皆目見当がつかなかった。

「他に王の血を継ぐ人間が存在しているのならば或いは……」

 言いかけて、シンシアは息をのんだ。

 ──まさか、そんな人間が存在していたと言うのか?

 そう思い至った彼女は顔を上げ、自分を支える武人の傷だらけの醜い顔を見据えた。

 双眸より放たれる真摯な光が、彼女の疑問を肯定する。

「──あの聖騎士アリシアだ」

「聖騎士アリシア? あの忌まわしき暴動の鎮圧に携わってくれた彼女が?」

「ああ」騎士隊の長は続けた。

「聖騎士アリシアこそが先々代国王の娘──王家の血を継いでいるもう一人の人間なのだとか」

「それでは──!」

「──察しの通りだ」

 表情に驚きの色彩を隠せぬ少女の閃きを、武人の男は頷き、肯定する。

「我々は騎士として恩義ある者は裏切れぬ。我々はプリシラ伯爵の命令を突っ撥ね、アリシア殿下の支持を明示したのだ」

 だが、それが事の発端となってしまったのだ。

 ──そう言い、彼は程なくして項垂れた。

「その後はお前も想像が出来よう。グリフォン・アイにおける目下の目標は街の復興である以上、これの妨害を行う事が脅迫に繋がるであろうと思ったのだろう。伯爵は王家より兵を借り、武力をもって街より我々騎士隊を追放し、そして、復興の中心人物であったお前を拉致し、あそこへ幽閉したのだ」

「王家より借りた兵って……まさか、あの黒い鎧の騎士達が?」

「奴らは隣国ハイディス教国の騎士だ。奴らは王家と密約を結び、宮廷と距離を取り始めた我が騎士団に替わり、その身辺の警備を任せているという。だが、それは表向きの名目であり、その実は敵対勢力の情報収集や工作といった、表沙汰にはできぬ任務を遂行する──言わば、闇の諜報活動が主だとか。奴らが伯爵の要請を受けたのは、その一環であろう」

 そして、全身傷の男は、最後にこう付け加えた。

「街の復興活動にかまけるばかりに、国の情勢に目を配れず、伯爵の後ろ盾が何であるかを見定めようとも事もせず、ただ徒に我だけを通してしまったが故──まさに我々は弁解の余地もない失態を演じたとも言えよう。結果、お前達に多大なる迷惑をかけてしまった」

 謝罪の言葉を口にする。

 すまなかった、と。

 その言葉を聞いたシンシアは奥歯を強く噛んだ。

 悔しさと怒りが胸中にこみ上げて来る。

 この感情は、おのれの見栄張りの為に失策を演じ、自分にこのような目に遭わせた、眼前の騎士に対するものであり、そして同時に、おのれの政治的な理由によって国民である自分達に危害を加える事も躊躇せぬ現政権の連中に対するものでもあった。

「こんな時に吐く謝罪の言葉なんてね──大抵、自分たちが罪悪感からの逃避するためが大半。相手に対する謝意なんて、これっぽっちもありはしないのが相場というものよ」

 シンシアは辛辣な言葉を口にする。

「今、貴方達がすべきことは、この失策の落とし前をつける事ではなくて? ……で、これからどうするの? まさか、私一人救助して、終わりな訳はないのでしょう?」

「──我々はこれより、カルサンドラの街に向かう」

「カルサンドラ? あの、エッセル湖畔にある湖港の街?」

 エッセル湖と言えば、現王家・現政権によって王都を追われた騎士団が集結していると噂され、近い将来起こるであろう、この国の東西分裂──その際の境界線になると目される地帯。

「なるほど。その噂は本当だったようね」

「そうです」背後を歩く、騎士の一人が言った。

「我々の保護を要請するのです。カルサンドラにいらっしゃるはずの──アリシア殿下に」

「そんな所にいると言うの?」

 錬金術師は、おのれの怪我や衰弱を忘れ、驚きの声を上げた。

 近い将来、前哨地となるであろう場所に大将を──あろう事か、王位継承者に相当する人間を置くなど正気の沙汰ではない。

 それがどれだけ無謀な事か──戦の素人である彼女にだって理解できよう。

 敵との距離が近ければ近いほど、襲撃や暗殺など、様々な工作の標的となりやすいのだから。

「だが事実、殿下は御健在だ」

 その騎士は胸を張って言った。

「──いや、正しくは『敵が工作を行いたくとも行えぬ理由がある』とでも言うべきか」

「……理由?」

「錬金術師殿が知らぬのも無理はないが」

 そう前置きをし、その騎士はシンシアの疑問に答えた。

「自身に万一の事態が起きた場合、殿下が有する全権を──クラウザー家に無条件委譲すると公言なされたのだ」

 シンシアは言葉を失った。

 王家の血を継がぬ者が、王位に等しい権限を継承する──

 剣の時代、王と騎士と貴族の国に生を受けた人間として、それはあまりにも常軌を逸した発想であった。

 だが、この国に限って言えば、このような時代が一切存在していなかった訳ではない。

 それは──『十年政権』の時代。

 今は亡き先王が幼き頃、兄であった第一王子との間で繰り広げた後継者争い。それによって政権の基盤が、庶民の生活に波及してしまう程に崩壊し、それを見かねた騎士団が武力をもって王家や貴族より権限を取り上げた事によって発足した、十年間限定の政権。

 比較的しがらみの薄い者達による国の舵取りは、庶民にとって多くの幸福をもたらしたが、一時的とはいえ、権力を取り上げられた王都の貴族階級の者達にとって、その時代はまさに暗黒時代──悪夢そのものと言っても過言ではない。

 そしてクラウザー家の祖先は、先の内戦を終結させた最大の功労者であり、そして『十年政権』時代の中心に存在していた英雄『双翼の聖騎士』である。

 ましてや現在のクラウザー家といえば、市民の暴動が頻発していた西の主要都市を平定させた長兄ゼクスを中心とし、その兄を聖都大聖堂の長ナーディン師と繋がりが強い末妹イデアが支えている。

 そして、そのクラウザー家の次男こそ──『腰巾着』との悪評も絶えぬが──故郷である聖都から出奔を余儀なくされた頃から、アリシアを身一つで守り抜いてきた騎士ウェルトである。

 今のアリシアが健在であるのは、ひとえに彼らの存在が支えとなっているが故であるのは明白。その功績・実績、そして血筋の面から鑑みても、彼女の後継に最も相応しい一族であるとも言えよう。

 もし、そんなクラウザー家がアリシアの全権を継ぐ事となれば、それは王都の貴族どもにとって悪夢の再来に他ならぬ。

 万一、後の戦でラムイエ政権が敗れるなどという事となれば、その後に起こると考えられるクラウザー家中心の政権に取り入る事など不可能。家は取り潰しも同然であり、再興も望めぬ。

 そう。一平民に身を落とす他に生きる道以外は存在せぬのだ。元『逆賊の将』という汚名を背負わされたままで。

 計算高く、強欲な貴族どもが、そんな危険が潜む『アリシアの殺害』に及び腰になるのは至極当然であると言えよう。

 牽制として、これ以上のものなど他にあろうか?

 それが、計算の上での行為であれば──

「あんな直情的な人に、そんな計算が働くとは思えないけどね」

 シンシアは呆れたかのような表情を見せた。

 恐らく、東の貴族どもが牽制されているのは、単なる偶然──過去の歴史における悪夢の幻影が、自らを縛りつけているに過ぎないのだと。

「だが、それが偶然でも筋が通れば理由としては十分よね」

 錬金術師は得心して頷く。

 それにより希望が見えたのだろうか。彼女の口調は少しだけ軽かった。

 

 シンシアが監獄からの逃亡を成功させてから半日。夜明けを告げた太陽が真南に差し掛からんとしていた。

 この荒野を抜け、街道へと差し掛かるまであと僅か、徒歩にて数時間かそこらの距離。長く警戒していた追手の類が迫っていない事を悟ると、全身傷の男は、これを安全と判断し、一時の休憩を命じた。

「だが、二時間後には出発するぞ。黄昏までには街道へと出てしまいたいからな」

 その声が発せられるや、一行は安堵の表情を見せた。その場に座り込む者、食事の準備に取り掛かる者──各々の行動は様々であったが、この昼夜を徹した強行軍が終わると知り、皆の顔は晴れ晴れとしたものであった。

 一行のうち若い騎士が、近くの枯れ木に、おのれのマントを引っ掛け、即席の日除けを作っていく。

 やがて、雲間より現れた太陽が強烈な光を大地に投げかけ始めた。怪我の手当てを受けていたシンシアは、周囲の誘導により、設営の終わった日除けの中へと入り、くつろいだ。

「──何か聞こえなかったか?」

 その時、一人の騎士が言った。

「あれは馬の嘶きだ。誰も騎乗している者もおらぬのに、聞こえて来るとは奇妙」

 その言葉を聞いた刹那、全身傷の騎士が立ち上がり、日除けのマントを軽く除けて外を窺い、そして呟いた。

「……追手ではない。あの監獄の敷地の中には、あのような馬の類など存在していなかったはず」

「では、あれは──」

「賊かも知れぬ」

 シンシアは自分の不運を呪った。

 監獄の中で、シンシアの懇願を聞き届けたのは──神ではなく、実は悪魔だったのかも知れない。そう。悪魔とは必ずや願いを聞き入れた代償を求めるものであり、その代償とは理不尽であるのが常。

 そして同時に、シンシアは自らの愚かさをも呪った。

 どうして、疑問に思わなかったのだろうか?──と。

 荒涼たる野が何故に、長きにわたり人の手が入らず、いつまでも荒野となり続けているのだろうか、と。

 生活に適さぬ気候、魔物や猛獣の存在。理由は様々であろう。

 だが、現実的な可能性の一つとして──そう、野盗の存在も考えられたのではないか?

 この荒野は街より遠く離れているがために周辺地域の騎士隊の目が届きにくく、その為か旅人や隊商を狙った数多くの野盗団が活動の拠点を置くはずであろうと。

 悔やみ、項垂れる少女の耳に、騎士達が剣を抜き放つ音が聞こえる。

「恐らく、遠くから我々をつけていたのだろう。日除けで自ら視界を遮り、気を抜く時期を見計らって──」

 騎士のうち、中年と思しき男が口惜しげに言うと、先刻、この日除けの設営を行った若き騎士に支持を下す。

「我々はこれより、奴らの牽制に打って出た後、適当なところで切り上げ、隠れ家──グリフォン・アイの街へと戻る。お前はカルサンドラへと向かい、アリシア殿下にグリフォン・アイの窮状を伝え、街を救うための派兵を嘆願するのだ。その生き証人たるシンシア嬢を連れてな」

 そう言うと、先陣を切った全身傷の男の後に続き、飛び出した。

 吹き荒れ始める砂塵越しに見たのは、まさしく賊の集団。赤茶けた大地と同じ色をした馬に跨り、身に纏う皮鎧と思しき装束もまた、同じ色に染め上げられていた。

 全員が薄布にて目鼻と口を覆い、風の僅かな動きを読んで、風上に背を向けながら立ち回り、まるで吹き荒れる砂塵など存在せぬかの如く、器用に動き回っていた。

 先陣を駆ける全身傷の男は大声を発して、手近な敵に躍りかかる。

 たとえ、本分たる守衛者としての役割より放逐され、落ちぶれたとしても流石は職業戦士たる騎士。昼夜を徹した強行軍の最中であろうとも、そして口布もなく砂風を真正面に受け、限定される視界の中でありながらも、彼らは互角以上に立ち回っていた。

 殲滅戦ではない──時間稼ぎを目的としているのならば十分であると言えよう。

 それを見極めた若き騎士は、呆然とするシンシアの手を取って、革袋ふたつ分の飲み水と干し肉の束を持たせ、自分はその倍の水と食料を腰帯に括り付け、ただちに戦場を後にした。

 手負いの少女の手を引き、青年は荒野を駆けた。だが、騎士はまだ若く、戦士としても未熟であった。故にその体力は武人として完成の域には達しておらず、シンシアを手に取りながらの駆け足はすぐに体力の限界を迎え、程なくしてその脚の動きは緩やかなものとなった。

 風が強くなり、砂漠さながらの砂塵が辺りを覆い尽くす。

 その中でも関わらず、二人は歩いた。

 賊の布で保護された目とて、この砂塵には耐えきれぬであろうと考えて。

 砂嵐は黄昏とともに去り、太陽は地平に没した。再び夜の帳が荒野を覆う。

 休憩地から遠く離れ、そこで二人はようやく歩みを止め、初めて背後を振り返る。だが、見えるのは天の星ばかり。無論、戦いの音も聞こえはしなかった。

「──無事に、逃げられたのかな?」

 シンシアの目から、一筋の涙が零れ落ちる。

 心細さゆえか、或いは、自分を助けてくれた武人に対する感涙ゆえか。

 そんな少女を支え、若き騎士は言った。

「そう、信じましょう」

 この時、二人は思っていた。

 何の根拠もなく──全ての不運がこれで終わったのだと。

 これより先、一切の障害など起こらず、順風満帆にカルサンドラの街へたどり着けるはずだ、と。

 だが、現実とは限りなく非情であった。

 ここは集落の外。街の外の世界──即ち、魔物や獣の類が多く跳梁跋扈する魔境。

 そんな魔境の主にとって、彼らのような力衰えし人間など、格好の獲物であるはずなのだから。

 ──数時間の後、この若き騎士も斃れる事となる。

 程なくして襲われた魔物の群れによって。

 そんな騎士の最期の努力の末、逃走に成功したシンシアもまた、その際に多くの傷を受けた。

 体力は既に限界であった。創傷は刻々と悪化するばかり、しかし、生存へ意思は萎える事なく、最後の逃走より数えて二度目の夜、錬金術師はカルサンドラの地を踏み──そして、そこで力尽きた。

 

 <4>

 

 カルサンドラの街には、質素な外装が施された五階建ての建造物がある。

 騎士の宿営所。そこの最上階。

 そこにウェルトの部屋があった。

 部屋の主は、室内に備えられた椅子に座し、机に向かっていた。

 窓から差し込む陽光に、左手に持たれていた布と思しきものを照らし、それをじっと眺める。

 シンシアが遺した──血と汗と泥で汚れた布。

 いや、正確には、汗と泥で汚れた上に、血を用いて文字が書かれていた布を。

 シンシアは何らかの理由により衰弱した体に鞭を打ち、このカルサンドラに向かおうとしていたのだろう。そして、その最中に自らの死を悟り、この布に自分の言葉を記したものであろうと思われた。

 布に記された血の文は四つの文によって構成されていた。

『グリフォン・アイの街を助けてくれ』

『黒幕は新太守プリシラ=サバス。彼女が黒い甲冑の騎士団を使って我々を──』

『街のどこかに騎士隊が隠れ住んでいる。そこで合流を』

 そして、最後の文は、何らかの記号で構成され、彼には判別が不可能であったが、最初の三文で概ねの状況は理解が出来た。

「プリシラ=サバス──王都の財務官が新太守に就任か」

 ウェルトは軽く溜息を吐いた。

 プリシラ=サバス女伯爵。三十にも至らぬ年齢でありながらも、王都の財務を一任されるほどにまで出世した人物である。

 別名『王家の金庫番』とも称され、宮廷内でも相応の影響力を有しており、数ヶ月前に行方を眩ませた宰相ダリウスに替わり、ラムイエ政権を支えている人物の一人とも言われている。

 そう考えれば、プリシラは王家が抱えるハイディス教国騎士団の力を借りる事を可能としていたのも十分納得ができよう。

 これが一般に知れ渡っている、プリシラという女に関する情報であった。

 だが、実態は──

「裏切り者風情が随分と偉くなったものだな。反吐が出る」

 かつての彼女は、前王に仕え、王都より遠く離れた田舎集落の領主を任されていた人物である。

 貴族のうち若輩なる者を遠方の集落の統治を任せるのが、この国の慣例であり、それ自体は珍しい話ではない。

 混乱やしがらみの多い王都をはじめとした都会よりも、比較的穏やかな風土のある地方の統治を行わせる事は、若者にとっては為政者としての経験を積ませ、自分の理念を発揮させるに適していると考えられているが故である。

 この国に存在する名だたる貴族たちも、このような経験を積んでいるのが常であり、彼らの誰もが口を揃えて『若年の頃に培った経験が、宮廷内で活きている』と語る。

 そして、プリシラという女もその例に漏れず、経済に明るく、貧窮する集落を立ち直らせた功績があり、王都でもその働きは十分に評価されている。

 それ故、前王との関係は良好であったと考えられてきた。

 だが、二年前──前王が暗殺され、権力が不義の娘ラムイエへと委譲されるや否や、これに従うか戸惑う他の貴族たちを横目に、一番に支持の声をあげたのが彼女であるという。

 こうして、サバス家はラムイエ政権の中枢へ食い込む事に成功し、この異例の出世へと繋がったものと考えられた。

 即ち、今のサバス家は現政権の忠実な犬。

 そんな犬にとって、現政権の勢力下にある、グリフォン・アイの存在が気に食わなかったのだろう。

 そう。グリフォン・アイの街は二年前──暴動の炎に包まれたという悲劇がある。

 そして、その鎮圧にはアリシアのウェルト自身が大きく関与しており、市民らの多くは王家よりも『直接、救いの手を差し述べた』アリシアに対する感謝の念の方が強いのは言うまでもない。

 そんなアリシアが、この度『王家の血を引く人間として』現政権の打倒を目指す動きを見せているとなれば、グリフォン・アイの市民はこれを支持せぬ謂れはない。

 こうして政権と市民との間に齟齬が生じ、グリフォン・アイの街に大きな歪みが生じた。

 その歪みとは一体何なのか? それは、ウェルトはわからぬ。

 だが、たとえ差別階級の人間であるとは言え、年端もいかぬ少女が単身、こんな場所にまで逃れ、救いの手を求めて来たのである。

 その事情は、酌むに十分な状況であると言えよう。

 故に、ウェルトはアリシアよりこの布を──シンシアの最期の言葉を受け取ったのである。

 ──だが、グリフォン・アイの太守となったプリシラが如何様な方法をもって、領民を苦しめているのか、その手段が判然とせぬ限り、対策の施しようもないのも事実。

 やはり、直接出向いて探りを入れるか──

 彼がそんな事を思いついた時だった。

 不意に部屋の扉が開く音が響いた。そうかと思うと、そんなウェルトに向かって近づいてくる二つの足音が聞こえて来る。

 その者達は部屋の主たるウェルトの許可を待たず、扉を開けて入室し、彼のもとへと近づいてきたのだ。

 だが、当のウェルトは意にも介さぬ。

 彼に対し、そんな無遠慮な行動をする人間など、二人しかいない。

 それを知っているが故の、無反応ぶりであった。

「お疲れ様です。ウェルトさん」

「何かわかったか?」

 その無遠慮な訪問者とは、セリアとアリシアだった。

 彼女らは、香草の上品で暖かな香りを漂わせた人数分の器と、小皿に盛られた菓子を持参していた。

 時刻は昼下がり。日中、労働に勤しんでいる人々が、その手を休めて茶を嗜む頃。

 ウェルトは長く眺め続けていたシンシアの遺品より目を離した。

「グリフォン・アイの新太守プリシラ・サバス伯爵が黒幕。そして、彼女がハイディス教国の騎士団を動かし、グリフォン・アイの街を武力によって制圧した──今のところ、これしか読み取れないね」

 そう言うと、彼はセリアの差し出した茶の器を手に取り、それを口に運んだ。

 口一杯に、清涼感のある香りが広がっていく。ウェルトはその感触を楽しんだ後、ゆっくりとそれを胃の中へと流し込んだ。

「ハイディス教国騎士団は名目上、距離を置かれた我が国の騎士団に替わり、王家の身辺警護を任せるために派遣された連中だ。そんな連中を動かすことが出来るという事は、プリシラという女の力は現政権の中枢へと及んでいると考えるのが自然だね。出世欲旺盛な人物像から照らし合わせても、然程不自然さは感じないけど、二人はどうだい?」

「確かに良い噂は聞かぬ女ではあるな。兄上──いや、先王の時代では、地方自治で功績を上げた有能な人物として相応の評価は受けてこそいたが……」

「私も先の任務で、王都より逃れて来た有力者と会談する機会はありましたが、やはり彼女に対する恨みつらみを並べる方は少なくありませんでしたね」

「ふむ」ウェルトは小さく頷いた。

 やはり、自分の勢力下にある東方地域から一歩外に出れば、その評価は最悪。

 出世という目的の為ならば手段を選ばぬばかりか、おのれの理念すら捻じ曲げる、愚かな野心家といったところか。

 概ね、ここまでの印象は自分のそれと一致していた。

 ただ、後に続くアリシアの言葉を除いては。

「だが、三十にも満たぬ女貴族が、新政権の支持を早期に表明しただけで、政権の中核へと食い込めたとは到底考えられん。いくら二年前の政権簒奪劇の際、その黒幕たる王都議会の下級貴族ですら新政権入りを戸惑い、その基盤構築に遅れが生じていたと言えど」

「プリシラの出世には別の理由がある?」

「私の直観に過ぎぬがな」そう言いながら、アリシアは首肯した。

「それと関係あるかどうかはわかりませんが──」

 今度はセリアが口を開いた。

「シンシアさんの死に水を取った施療院の方から話を聞く事が出来ました」

「聞かせてくれ」

「──はい」

 そう頷くと、尼僧は静かに語り出した。

「グリフォン・アイの街をハイディス教国が襲撃したのは、数ヶ月前、新たに太守として就任したプリシラの命令──現政権への服従──を騎士隊が突っ撥ねた事が原因なのだそうです。これにより、シンシアさんや神殿の司祭といった、街の復興作業の中心人物であった人々はみな、街の西──遠く離れた荒野の真ん中に存在する地下監獄へと幽閉されたのだとか」

「そんな所に監獄だって?」ウェルトが訝しがる。

「はい。人知れぬ場所に設けられた施設ゆえに、救助の手は暫く及ばなかったのだろうとの事でした。同じ房にいた仲間たちは次々と何処かへ連れ去られ、残されたのはシンシアさん一人だけ。死への恐怖と孤独に心が蝕まれていく中、ようやと救助の手が及んだのが五日ほど前。助けに現れたのは、自分と同じくハイディス教国の者達に街を追われながらも、人知れず街に舞い戻り、隠れ住みながらも機を狙っていたグリフォン・アイ騎士隊の方々だったのだそうです。ですが、逃亡する最中、野盗の集団に襲撃を受け、散り散りになったという事です」

「他に騎士隊は無事なのか?」

 セリアは静かに首を横に振った。

「わかりません。唯一シンシアさんと同行し、このカルサンドラへと向かっていた護衛の騎士も、道中に魔物の襲撃に遭い、命を落とされたとの事ですから」

 ウェルトは落胆して視線を落とした。シンシアが遺した布に視線を向け、そこに書かれている、三行目の血の文字を読む。

『街のどこかに騎士隊が隠れ住んでいる──』

 恐らく、騎士隊は野盗からシンシアを逃がす時間を稼ぐ為に戦ったのだろう。

 だが、それは相手の殲滅を意識したものではない。目的を達すれば撤退することも許される──比較的生存率の高い戦いの部類であるとも言えよう。

 グリフォン・アイの街に隠れ家があり、そこに舞い戻ったものと考えられた。

「グリフォン・アイに向かうべきかな」

 ウェルトは呟いた。

「それで、彼らと合流して情報を得る。それが第一か──」

「待て、ウェルト」

 その時、アリシアが制止の声をあげる。

 彼女はウェルトの背後に立ち、彼の肩越しに手元にあるシンシアの遺した布きれに視線を向けていた。

 正確には四行より構成されている行のうち、唯一ウェルトが解読できなかった最後の行へと。

 聖騎士にして王位の継承者たる女は、その箇所を指さし、続けた。

「その……最後の行にある変な文字は何だ?」

「いや、僕にはさっぱり。──でも、上の三行で十分に意味は通じたから、然程気にはしていなかったんだけど……」

 セリアの耳に聞き慣れた音が届く。

「隅々まで調べろ。馬鹿者」

「……わかったよ」

 頭を小突かれ、無精無精といった様相でウェルトはぶつぶつと小声で文句を並べた。アリシアはそれを悉く無視し、更に身を乗り出しては彼の手元を覗き込む。

 その際、アリシアの胸の双丘が、ウェルトの背に押し当てられる。それを見たセリアは少し頬を紅潮させるが、当の二人は、それを意識した様子を一切見せる事はなかった。

「やはりそうか」

 程なくして、アリシアが得心して頷いた。

「これは、錬金術師や学者の間でよく使われている記号のようだな」

「記号?」

「かなり崩した書き方のようだが間違いない。物質や、その状態などを現しているようだが……」

「……で、この記号の意味は?」

「──『純粋』? 『保護』? 『鉄』?」

「何ですか? それは」

 セリアが怪訝そうな表情を見せた。

「支離滅裂と言いますか、あまり纏まりが見られない語句の羅列のようにも見えますが」

「しかし、そのように書いているのは事実」

 アリシアは眉根を寄せた。

「この記号も上の三行と同じ色の血によって書かれたもの。血を使ってでも言葉を残さねばならぬ、そんな切羽詰まった時に、落書きを書くなど奇妙な話。何か意味があると思うのだが……」

「その記号が示す意味も気になるけど、情報が少な過ぎる──グリフォン・アイに直接出向いて情報を収集する必要がありそうだ」

 ウェルトは静かに言った。

「黒幕と考えられるプリシラ伯爵や、これに抗わんとする元グリフォン・アイ騎士隊の動向、シンシア以外の監禁者の有無など知っておきたい事は山ほどある」

「──とは言え、東から続々と騎士隊が難民を連れてやってきている今、彼らの受け入れや、新たな指示系統の構築など、やらねばならぬ事は山積しているんだぞ?」

 アリシアはウェルトの背から離れ、軽く溜息を吐いた。

「その中で、お前には私の側近として働いてもらおうと思っていたが、騎士団におけるお前の評判も極めて悪く、この人事に難色を示す者も多い。山積しているものの殆どは、人事に関する調整行脚よ」

「これはこれは」ウェルトは悪戯めいた笑みを浮かべる。

「ご苦労をおかけしますな。アリシア殿下」

「なに、これは私の責任でもある」

 アリシアはそう答えると、軽い笑みを浮かべた。

「本来ならば騎士団という組織の一員として、王都である程度の期間働かせ、仲間からの信頼関係を構築していくべき立場の筈であったお前が、聖都騎士隊の勝手な都合ゆえに、たった一年で無理矢理に元の組織より引きはがした挙句、以降の二年間においてもそのような経験を積ませる事が出来なかったのだからな」

 ──そんな人間を、事もあろうか側近として重用しようとしているのだからな、この程度の非難など覚悟の上よ。

 そう、最後に言葉を添える。

「ならば、やはり偵察には僕が行くべきなのだろうね」

「ウェルト!」アリシアが少しだけ声を荒げた。

「お前は私と一緒に、人事案に反対する者達との話し合いに参加しなければならないのだぞ?」

「そんな事したら、その度に阿鼻叫喚の大喧嘩が始まって、余計話が拗れてしまわないかい?」

 聖騎士の怒気に晒されても、当のウェルトには恐れる素振りなど全く見せぬ。むしろ飄々とした様子で言った。

「それよりも、僕がグリフォン・アイに出向いて、有益な情報を仕入れて来る方が有益だよ。アリシアもその功績を武器に話し合いに臨めば、意見が通りやすくなるしね」

「では、私も……」

「セリアは、まだ前の任務による長旅の疲れが残っているだろう? 無理は禁物だよ」

 同行します──そう言いかけたセリアを、今度はウェルトが優しく制止する。

「それよりも、セリアには頼みたい事がある」

「……なんでしょう?」

「シンシアの他の遺品を見せてもらうよう神殿に掛け合ってくれないか? それも僕が出発する前に──少しだけ、気になる事がある」

 そう言うと、彼は手にしていた布地に視線を向ける。

 血の赤色と、黒と褐色の二種の泥に汚れた布地へと。

「シンシアさんは、まさに着の身着のままだったと聞きます。勿論、今から神殿に掛け合って見る程度ならば可能だとは思いますが、その血文字以上の情報は残されていないと思いますが……」

「構わないよ」

「はぁ……」

 尼僧は小首を傾げた。話の意図が理解できぬと言わんがばかりに。

 ウェルトは時折、こうやって常人の感性から離れた発言や行動を見せ、周囲を戸惑わせる事がある。

 彼特有のそれは、騎士という特殊な生業ゆえか、或いは英雄の血特有のものなのかはわからない。はたまた、彼を襲ったこの数奇な人生が、彼の心を静かに歪め、狂わせているのかも知れない。

 だが、その常軌を逸した感性ゆえに、常人では思いつく事の出来ぬ妙案や、巧妙に隠蔽された真実に気付く事が可能なのかも知れない。

 彼の独特な感性や嗅覚が、あの血文字以上より、真実に辿り着く何らかを察していたとしたら?

 シンシアの死──その真相を鋭敏に嗅ぎ分けていたとしたら?

 彼女が遺した限られた文面では表現しきれぬ、いや、当の彼女ですら意識していなかったもの──事の真相に辿り着く糸口の存在に気付いたとしたら?

 ならば、その嗅覚を信じるべきだ──彼女は、そう考えるに至っていた。

「──わかりました」

 故にセリアは反論をする事はなかった。

「では、明日の午前中に閲覧できるよう、手配しておきます」

「ありがとう、セリア」

「詮無い事です」そう言い、彼女は苦笑を浮かべ、頬を掻いた。

「どうやら私は感性が鈍く、こういった偵察や潜入調査には不向きのようです。今回は大人しくウェルトさんの支援に回るといたします」

 その頬を掻く指が、不意に止まった。

 彼女の脳裏に浮かんだのは、一つの疑問。

 ──どうして、彼はここまでして彼女の死を、無念の思いを酌もうとしているのか?

 彼女の犯した過ちとは、グリフォン・アイの街に復讐を企てんとする者に錬金術の知識を与え、協力した事。

 そして、それを悪用させ、結果的には街を暴動の炎に没させる契機を作ってしまったのである。

 その罪は断じて許される事ではない。

 正義感の強い者ならば、彼女の死は当然の報いと評するだろう。

 多少の思慮ある者ならば、彼女の死に幾許の同情はするものの、その思いまでは酌もうとは思わぬだろう。

 セリアはウェルトに、この疑問をぶつけてみた。

 そして、答えは即座に与え示された。

「確かに、シンシアの犯した罪は決して許される事じゃない。僕もまだ、彼女に対する怒りは感じている」

 だが、その前置きの後に続く言葉は、あまりにも意外なものであった。

「だけど彼女は自分の過ちに気付き、猛省し、自らの罪に真摯に向き合った末、おのれの全てを──残りの人生すべてを賭してでも償いをし、自分の仕出かしてしまった事に対する落とし前をつけようと決意していたんだろう?」

 そこまで語ると、ウェルトは視線を少しだけ上に運んだ。

 そして、続けた。

「──上等な人間じゃないか」と。

「だってそうじゃないか? 上を見てみれば、自分の過ちや責任を認めずに見苦しい言い訳ばかりを並べる貴族様ばかり。周囲を見回してみれば、好き勝手に物は言う分際で、何の矜持もなく旗色が悪くなれば過去の手前の言動なんて忘却の彼方、恥も外聞もなくクルクルと掌を返す──そんな無責任で付和雷同な言動ばかりを繰り返す庶民様ばかりときたものだ」

 その語り口は、まるで苛立ちを吐き捨てるかのようであった。

「彼女は、そんな連中の百倍も万倍も人として筋が通った生き方をしていると思う。人間として信に値し、心情を酌むに値するのは誰なのか──僕は自分の意思でそれを考え、その結論に素直に準じようと思っているだけだよ。無論、こんな考えなんて万人に受け入れられるようなものじゃないという事くらいは理解しているさ」

「──理解なんか、求めるつもりもない癖に」

 アリシアが喉の奥で笑い、横から茶々を入れる。

 だが、そんな軽い嘲りなど意にも介さず、ウェルトは堂々と言い放った。

「当たり前じゃないか。人間集まれば賛否あって当然。万人が万人、口を揃えての賛成や賛同なんて気持ち悪すぎて反吐がでるよ」

「どうしてそこまで、彼女を信じる事が出来るのですか?」

 セリアは更に疑問を投げかける。

 彼女もウェルトやアリシアと同じ、二年前の暴動の最中、あの街にいた人間の一人である。

 その心はシンシアの死に対する憐れみと、罪に対する怒りの間で大きく揺れ動いていた。気持ちに整理がつけきれずにいた。

 どうして眼前の男は、ここまで清々しいほどに、おのれの心情に決着をつける事ができたのか?

 この疑問は、そういった純粋な興味故のものであった。

「根拠はこれさ」

 そう言い、回答者たるウェルトが示したのは、シンシアが遺した血文字の遺書、四行で構成されたそれの最初の文。

『グリフォン・アイの街を助けてくれ』

「自分が犯した過ちによって深い傷を負わせてしまった街に自ら望んで残るなんて──いくら騎士隊長や司祭、有志の人々が支えてくれているとは言え──生半可な覚悟では出来なかったはずさ」

 いくら猛省しているとはいえ、シンシアは暴動を扇動したも同然の人間。言うなれば、街を破壊したのも張本人であると言っても過言ではない。

 あの暴動で家族や住む場所を失った者にとって、シンシアは殺しても殺し足りぬほどの憎悪の対象であるはずなのだ。

 非難、批判、誹謗中傷、嫌がらせ、或いは直接的な暴行──そういった暴威に晒されるのが当然であろう。

「当然の報いなのかも知れないけど、そんな過酷な環境下に二年も身を晒し続けていた彼女が、どうしてこの言葉『だけ』を遺して死んでいけたのだろうね? 一切の言い訳や弁解を並べる事もなく、かと言って、自分を苛め続けた人々に対する恨み言を並べる事もなく、ただ街の行く末を、自分を批判し続け、誹謗中傷し続けてきた人達の将来を案ずる言葉だけを遺して──」

 彼はこう結論付けた。

 真剣だったから──と。

 誰に認められなくとも、許されなくとも、シンシアは、おのれの罪に向き合う事に真摯であり続けていたかったからなのだろう、と。

 そうでなければ、このような言葉など出てきたりはしない。

 ウェルトは繰り返した。

「真摯でなければ、このような言葉など決して出てきたりはしない」

 

 <5>

 

 窓の外には赤褐色の土が剥き出しとなった乾いた景色が広がっていた。

 そんな無味乾燥な情景を、部屋の中より見つめる一人の女がいた。

 肩のあたりで切りそろえた黒髪の女であった。

 年の頃は二十代半ば過ぎといったところか。化粧によって見た目を若く、そして美しく繕ってはいるものの、手や脚などに現れる地肌の経年は隠し切る事はできぬ。

 剣を腰に佩き、身に纏う装束は上質な代物。

 一見すると、貴婦人の装いであるかのように見える。

 だが、身より放たれる覇気たるや、それは冬の山に吹き荒ぶ吹雪の如き、冷たく、鋭く、そして峻烈なもの。それを察する事の出来る者ならば、誰もが最初に抱いた印象を修正するであろう。

 ──彼女は貴婦人ではなく、熟達の戦士であろう、と。

 そして、それは彼女の居る部屋を訪れた──見るからに三下の兵士と思しき男も同じであった。

 頭を垂れ、恐怖の余りか時折身震いを起こしていた。脂汗が鼻の頭や、顎の先より滴り落ちる。

「プリシラ伯爵──申し訳ありません」

 ここは数日前、シンシアが脱走した監獄。それの同じ敷地内に聳える、周囲の乾いた景色とは似つかわぬ豪奢な建物。その最上階にある一室であった。

 そして、その片隅で震える兵士は、この監獄の看守たちを束ねる幹部の男であった。

「まさか、グリフォン・アイ騎士隊の生き残りがいるとは……」

「監獄というものが、どうして堅牢でなければならぬのか、貴方は御理解なさって?」

 プリシラと呼ばれた女が、不意に言葉を発した。

 覇気の性質と同じ、それはあまり冷ややかな──まさに氷の如き冷たい声であった。

「囚人の自由を縛り逃がさぬ為。それ故に監獄とは牢は頑丈であり、外壁は高く、獄卒は強くあらねばならぬのです」

「……」

 男は首を垂れたまま、微動だに出来ずにいた。

 プリシラの発した言葉は、看守勤めの長い者にとって至極当然の事であり、今更、指摘を受けるまでもない。

 だが、それを言う事は出来ぬ。事実、彼ら獄卒どもは囚人を外に逃がしてしまったのだから。

 故に、男は口を噤み続けていた。噤み続け、程なく言い渡されるであろう言葉──懲罰の通達を待つ。

 だが、次にプリシラが発したのは、彼が待っていたものではなかった。

「──不問と致しましょう」

「……へ?」

 この意外な言葉に獄卒の長は思わず顔を上げた。汗まみれの顔が露わとなる。

「この度の、貴方達の不手際を不問とすると言っているのです。報告ご苦労様でした。下がって頂いて結構」

「し……失礼いたします!」

 歓喜に満ちた声を発した後、男は部屋を後にした。聞くからに軽やかとなったであろう足音が遠ざかっていくのを、プリシラは静かに聞き届けていた。

「どうして不問の理由を考えぬのだろうな──無能な人間とは気楽なものよ」

 そして、小さく溜息を吐く。呆れの感情を込めて。

「尋ねてくれれば種明かしをしたのだがな。この度の脱獄が私の計画の一環であるのだと」

 この私が──プリシラ・サバス伯爵たる者が、脱獄を許した少女、シンシアについて調べなかったのでも思っているのだろうか?

 錬金術師シンシア。二年前、グリフォン・アイの街に派遣されたバルクレイ・ジェラド公爵の元側近。

 だが、バルクレイの計画──自身を迫害したグリフォン・アイの街に対する復讐──を知るや、袂を分かち、自らの存在意義を見失い流浪する中で、偶々街を訪れていたアリシアと出会い、バルクレイの計画による被害を食い止めんと共闘する中で、懇意の関係を構築するに至った──

「彼女ほど、あの聖騎士風情を揺さぶるに最適な餌などいるものか」

 だが、プリシラは既知している。

 この程度の餌で、アリシアを釣れぬだろうと。

 かつての──各地を流浪していた時とは違い、今の聖騎士アリシアは王家の血を継いだ人間であるという事を公証した身であり、同時に、彼女を支持する騎士団や宗教勢力の拠り所ともなっている。そんな人間が、軽々に動けるはずもない、と。

 そう。アリシアがその身を最前線に置く理由。それは、東から流れて来た騎士団や、難民を自分のもとへと招きやすくする為の指標──例えれば、灯台の役目と言ったところであろう。

「しかし、あの聖騎士も大胆なものよ。自分が死ねば、おのれの全権力を側近の──爵位を一切持たぬ騎士家の者どもに委譲するなどとな。だが、その所為で最前線に身を置かれながらも、我々は軽々に手は出せぬのだが」

 そう呟きながらも、プリシラは笑みを浮かべた。氷の如き冷たい光を、その両目に湛えながら。

「だが、頑丈な灯台とて、それを支える石の土台が無ければ、荒き波風に晒され、やがて倒れるというもの」

 ならば──その土台を破壊させて頂くとしよう。

 事実、土台の役目を担う人物は存在していた。

 プリシラの撒いた餌に食いつくに絶好の人間が。

 騎士団には所属しているものの、本来配属される隊のいずれにも籍を置いておらぬ『浮いた』存在であり、それ故に単独での行動が可能である人間が。

 その者は、常にアリシアの傍にて彼女の心身を長く支え続けて来た人物であるという。

「そして、アリシアに万一の事態が起こった際の予防線、権力の移譲先として用意された、爵位を持たぬ騎士家──クラウザー家の次男坊」

 ウェルト・クラウザー──彼ほど、アリシアという名の灯台を支える土台に相応しき人物など、何処に居ようか?

「奴を──破壊する」

 クラウザー家には、三人の兄弟がおり、長兄ゼクスと末妹イデアは遠く離れた西の地にその身を置き、後方よりウェルトやアリシアを支援しているという。

 だが、彼らは所詮、武力の持たぬ弁士や神の信徒に過ぎぬ。倒すのは後回しでも問題はない。

 何故ならば、ウェルトとアリシアを倒し、新政権の勢力が西への侵攻を進める中で、じっくりと腰を据えて行えば良いだけの事なのだから。

「本来、我々が恐れるべきなのは──ウェルトという男だ。その義強たるや騎士団の連中が手を焼くほどであるとか」

 騎士という格式に嵌める事が出来ぬのが、ウェルトという男なのだ。まだ二十にも満たぬ若輩ゆえに軽視されがちであるが、齢を重ね、心身ともに成熟の域に達すれば、その破天荒さは脅威と化すであろう。

 あらゆる国の歴史の中において登場する『英雄』と呼ばれる人間には、程度の多寡はあれども、このような素養を持つとも言われている。

 脅威の芽は狩らねばならぬ。

 萌え立ち、芽吹いたばかりの──若芽のうちに。

 窓の外、地平の彼方へと続く乾いた大地を眺め、プリシラ女伯爵は呟いた。

「さぁ、食い付くが良い。知恵の熟さぬ若き騎士よ。私の手で、貴様を魔女の釜底へと叩き落とし、その心身を悉く壊して見せよう」

 窓に映ったその顔には、あまりにも冷たい笑み──人のものとは思えぬ、悪魔の如き表情が刻まれていた。


 
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