No.607856

500年目の赤ずきん 二章

今生康宏さん

ようやっと本編が開始になった、という感じです
往々にして私の書く男主人公は受身な恋愛をしているのですが、これは自身がリードされたい人間だからかなぁ、とか……ゴニョゴニョ

2013-08-11 23:56:13 投稿 / 全8ページ    総閲覧数:257   閲覧ユーザー数:257

二章「誕生の物語」

 

 

 

 生きていることの感動は薄かった。

 きちんと再び目を覚ますことが出来たのは、喜ぶべきことなのは間違いないが、俺はマリーのことを気絶する時まで、ずっと信じていた。だから、彼女に感謝はしても、自分が幸運だとか、人外の何かに助けられたとは思わない。

「……マリー」

 目は覚めたが、さすがにあの傷は堪えたのだろう。ほとんど目が見えない。尤も、それもじきに治るだろうが――マリーがいるのかどうかすら確認出来ないのは難点だ。

「ダイキ。ダイキ――!」

 いてくれた。それが、嬉しい。

「マリー。マリーが、俺を助けてくれたんだよな」

「………………」

 意識がなくなる直前のことは、今でも覚えている。一時的な激痛を覚えた俺の体だが、時間が経つと共にその痛みは和らぎ、体が抜けていく血の量も減っていくのを実感していた。あんな力はただの人間である俺になく、逆に言えば吸血鬼の魔術にはあのような治癒能力があったのを記憶している。

 つまり、マリーは俺を刺したと同時に、俺を癒していた。一時は激情に任せて爪を向けたが、本当は彼女に殺意などなかったがために。

「ダイキ。ダイキは、あたしのことを、嫌いになりましたよね。あんなに苦しい目に遭わせて、そのくせ、今こうしてあなたを心配して見せている、あたしのことを」

「馬鹿を言うな。嫌いになる訳がないだろう?」

「どうして、ですか?どうしてダイキは、こんなあたしにそんなにも優しいのですか?」

「俺は、何も誰にだって優しい訳じゃない。ただ、優しい相手には、それ相応の敬意を払って、親切にする。それだけだ。だから、俺はマリーのことを恨まないし、責めない。ただ、それだけのことなんだ」

 深呼吸をしてから、目を瞑り、再び開く。視力は再び戻って来ていて、今にも泣き出しそうなマリーの顔が目の前にあった。気配でなんとなくわかっていたが、彼女は身を乗り出して俺の顔を見つめている。そういえば、俺が寝ているベッドはこの屋敷の来客室のものなのだろうか。まさか、マリーのものではないはずだ。

「そんなことより、マリーの気持ちを聞かせて欲しい。マリーは、これからどうするんだ?言っておくけど、ここまで看病しておいて、まだ俺を殺すなんてのたまったら、頭をはたいてやるからな」

「……あたしに、ダイキは殺せません。ですから、ダイキ。あたしを、あなたの伴侶にしてください。いついかなる時もあたしを傍においてください。あたしに、このままあなたを愛し続ける権利を与えてください」

「ずいぶんと、古風な言葉を使うんだな。つまり、仲間になりたいんだろう?」

「仲間……。あたしがそんな言葉を使って、良いんですか?」

「もちろん。言葉とは、使われるものだ。言葉の方から使い手を選ぶなんてことはしない。堂々と、どんなことだって言ってやれば良いんだよ」

 大昔、父親に言われた言葉だった。勝手ながら、俺はこれを自分の家の家訓だと思っている。事実として、俺も、親父も、多分爺さんも、揃って口が悪い。

「そう、ですか……。ダイキ、その、お返事を」

「ああ。俺は初めから、君を迎えに来たんだ。俺には何の方策もないけど、マリーはもう考えていることがあるんだろ?それを、二人で達成していこう。どれだけ時間がかかっても、どれだけ苦労をしても良い。だからマリー、自分に嘘をつかずに……」

「はい。ダイキ」

 泣きそうな顔のままの彼女は上半身を折り、俺の腹に頭をこすりつけて来た。傷のことを忘れているんだろう。どうやら完治しているようなので痛みはないが、思慮深そうに見えて、やっぱり単純な娘だ。

 なんとなく、そうしなければならないような気がして、手が届く場所にあるマリーの頭を優しく撫でてやる。彼女の金髪は、精緻な人の髪と、ふわふわとした獣の毛の中間のような手触りで、好奇心から軽く耳に触れると、人のそれよりも手応えがあり、やはり生えている金毛が気持ち良かった。

「こうして見ると、狼じゃなくて犬みたいだな。マリーは」

「えっ。う、あっ、そんな……」

 恥ずかしくなったのか、がばっと身を起こした彼女はそのまま部屋を出て行ってしまう。ソールを呼びに行ったのだろう、と直感的にわかった。

 可愛がる相手がいなくなったので、もう少しだけ目を瞑っていることにした。そのまま寝てしまうかもしれないが、それはそれで良い。今眠ることが出来たのなら、珍しくいい夢が見れるのだろうから。

「それでは、ダイキ。ソールさん。あたしの考えていることを、お二人に話します」

「えっ、オレにも話してくれて良いのか?」

「はい。ですが、さすがにあなたまで巻き込んでしまう訳にはいかないので、このまま帰ってもらいますが。あたしとダイキは、刺し違えたものとして処理していただけますか?そうすれば、ダイキも動きやすくなると思いますので」

「まあ、そうするのが一番だろうなぁ。嘘は得意じゃないけど、どうせ吸血鬼狩りが死ぬのなんて、そう珍しいことじゃないんだ。深く追求されることもないだろう」

「そうだな……」

 一晩が明け、新しい日が来ていた。時刻は九時を少し回った頃、朝日が差し込む応接室に俺達は集まっている。

 俺がマリーに刺されてから眠っていたのはほんの一時間ほどだったそうだが、さすがにあのまま話し込むのは心身ともにきつかったので、マリーやソールの配慮が胸に染み入る。

「まず、お二人には不思議に思っていることがあるように思います。なぜ、あたしが吸血鬼に人間と敵対するのを控えさせている今、自分達が戦うことになっているのか、と」

「近年のアンデッドの増加のことだな。マリーちゃんは事情を知ってるのか……って、女王様に言うことじゃなかったか」

「はい。しかし、これはあたしが指示したことではありません。そもそも、ダイキもソールさんも、吸血鬼がアンデッドを作り出す理由をご存知でしょうか」

「俺は、単純に吸血鬼が兵力を強化するために用意しているのだと思ってる。それが、吸血鬼狩り達の間での共通認識だからな」

「そうですか……。やはり、当人達でなければ、思い付きもしないことなのですね。アンデッドを作ることは、吸血鬼の不利益にすらなっているのだとは」

「……なんだって?」

 思わず椅子から立ち上がってしまいそうになるほど、その言葉は衝撃的に感じられた。

「アンデッドとは、吸血鬼が死体に魔力を注ぎ込むことで作り出されます。しかし、定期的な魔力の供給は行われず、作り出されたアンデッドは自分でエネルギーを補給することになります。つまり、生きた人間の血肉を食らうことです」

「それはわかってる。それがなぜ――いや、そうか!」

「おいおい、なんでオレ達はこんなことすら考えなかったんだ?完全に、アンデッドも吸血鬼もまとめて悪、って先入観に囚われてた。ちょっと考えれば、非効率的ってわかる話なのに」

 俺もソールも、同時にこの矛盾に気付いたようだ。今までは、アンデッドもそれを作り出す吸血鬼も、倒すべき仇敵だった。それが吸血鬼狩り、そして人間の共通認識だったのだが、俺とソールはそこに新たな価値観を持ち始めている。

 そう、吸血鬼をより自分達に近い存在だと捉え始めた時、このおかしな構図には恐ろしく簡単に気付くことが出来る。つまり、吸血鬼とアンデッドは求めるものが“被って”しまっている。吸血鬼も血が欲しい、しかしアンデッドも血が欲しい。そして、アンデッドの方が数は圧倒的に多い。ともなれば、アンデッドが吸血鬼の食料を食い尽くしてしまうという危険性が出て来る。

「そうです、ダイキ。ソールさん。アンデッドは確かに吸血鬼の尖兵にはなり得ます。ですが、軍隊規模の徒党を組んだ人間が攻めて来た場合を除き、それを作り出すことは非効率的を通り越して、リスクを生み出す行為にしかならないのです。なのに、今現在、アンデッドは大量に発生している。この理由を、お話しなければなりません」

 マリーは軽く息をつき、自分で淹れた紅茶で口を湿らせる。これだけ大きな屋敷なのだから、メイドか執事の一人や二人はいると思っていたが、意外なことに彼女が自分で茶葉をポットに入れることから始め、慣れた手つきで人数分の紅茶を用意していた。

「端的に言いまして、あれ等のアンデッドは吸血鬼の制御下にないものばかりです。あたし達はそういったアンデッドのことを、“主なし”と呼んだりもしますが、その言葉の通りあのアンデッド達は、吸血鬼にすら襲いかかります。暴走状態にある、と言えますでしょうか」

「主なし……。それは、作り出した吸血鬼が既に死んだことで、仕えるべき主人がいなくなった、ということなのか?」

 俺が単純に考えても、それぐらいの理由しか思い付かない。当然ながらそれは、間違っている考えだ。

「いいえ。その場合でも、吸血鬼と敵対することはありません。最初に供給された魔力が切れても、アンデッドはそういう風に出来ていますから。主なしは今、吸血鬼とは異なった。しかしよく似ている魔力から生み出され続けています。その魔力の源は各地に点在し、皮肉にも吸血鬼は、それを狩る人間と同じように世界中を旅して回ることとなっています。本来なら自分が使役するはずのアンデッドを殲滅するために」

「その、魔力の源とは?」

「ダイキには、以前お話しましたよね。大昔に失われた、吸血鬼狩りの武器です。具体的には吸血鬼の魔力を封じ込めた剣、鎖鎌、聖衣、それから人間に魔術の行使を可能にする杖と、魔術書。いずれも、大昔に殺された偉大な吸血鬼の血や、骨を使った道具ばかりとなっています。だからこそ強大な魔力を秘め、だからこそアンデッドを生み出す力を持っています」

 失われたという、先祖伝来の武器達か。俺の家のような末端は所持していなかったが、イギリスやドイツのようなヨーロッパの主要な国の吸血鬼狩りの大家は、それぞれ一つずつ伝説的な武器を所持していた。それは吸血鬼狩りの最終兵器となり得たそうだが、マリーの言葉を使うのなら「人間らしい理由」で消失しているらしいが……。

「結局あれ等は全て壊され、破棄されました。とはいえ、力と共に相応の呪いを持った道具でしたから、その処分にも困ったのでしょう。そこで伝説を捨てることを決意した勇気ある人間達は、最大の愚策を取ってしまいました。バラバラに分解することで呪いを弱め、自分達の目の届く土地に埋めるという」

「埋める……か」

「はい。ここまでお話すれば、お二人ならもうおわかりになっていることでしょう。埋められた道具に込められた古の吸血鬼の王達の魔力は、雨水が土の中に染み込むように地中を駆け巡り、墓地の埋葬者や古の人柱の体を動かすようになったのです。道具の質や破片の大きさにより範囲やアンデッドの発生する時期に違いはあれど、全て同様に」

 ぞっとしない話だった。そして、因果応報なんて言葉も頭に浮かんでしまう。吸血鬼の力を自分達の戦いに利用していたはずが、現代になってこうして敵を増やすことになっているだなんて。

「ですが、この件の対処は全て吸血鬼がしています。あたしがお二人に伝えておきたかったのは、アンデッドが必ずしも吸血鬼の眷属という訳ではない、ということです。もちろん、吸血鬼狩りの人々がそれを退治してくれるのはありがたいのですが、同時に吸血鬼も殺されてしまっていますからね……」

「そうか……。俺達は、アンデッドが吸血鬼の部下だとばかり思っている。だから、本当はアンデッドの発生を止めに来たはずのアンデッドも、敵として殺してしまっているのか」

 そしてそれは、根本的な問題の解決とは真逆の成果を生んでいる。吸血鬼と人間のしていることがまるで噛み合っていない。こんなことなら、人間が恨まれる訳だ。

「マリーちゃん。でも、そのことを話してもらっても悪いが、オレなんかに他の吸血鬼狩りの動きを止めるような力は……」

「安心してください、ソールさん。あたしは、たった二人の人間の方に真実を知っていて欲しいと思っただけです。それに、同族が死んでしまうのはやはり悲しいですが、人が吸血鬼に殺されるのは、スズメバチがミツバチの大群に殺されるのと同じようなことですよ。被捕食者の報復は、自然界には必ずあります」

 マリーの感情に乏しい瞳は、ある意味で王らしく、またある意味で全てを達観した者のでもあった。しかし、そんな瞳もまたすぐに、恐らく一番彼女らしい快活な光を宿したものになる。

「それで、ダイキ。あたしは立場上、おおよそ全ての吸血鬼の居所を把握しています。あたしがしたいと思っていることは単純で、彼等と会って、話をすることだけです。いきなり人間と手を取り合っていきましょう、なんて言うのではなく、きちんと話すことは考えてありますけどね。それで、可能であれば彼等の手伝いをしたいと思います。多くの吸血鬼は、先ほどお話した道具の回収を目的としていますから」

「その道具は、そんなに簡単に見つかるものなのか?地中に埋めたのなら、掘り起こすだけで結構な作業だと思うが」

「はい。魔術を使おうにも、吸血鬼の力同士が磁石の同極同士のように反発してしまうらしく、上手くいかないのですが、逆に人の血には共鳴してくれるようなのです。ですから、あたしがその場に行けば、簡単に道具の回収は出来ます。問題は、アンデッドの処理にあるのですよ。なにせ、どこまでの範囲に影響を及ぼしていたのかわかりませんし、場合によっては吸血鬼ともそう変わらないほどの力を持ったアンデッドが誕生しているケースもあります」

「……説得だけでも大変そうなのに、結局、今とほとんど変わらないような役目も果たさないといけないのか」

「はい……。嫌、ですか?」

「まさか。どれだけ苦労しても良いって、そう言っただろう?それに、苦労も二人で背負えば二分の一だ」

「ありがとう、ございます。……ダイキ、やっぱり、あたし」

「どうした?」

「ダイキのこと、大好きです」

「お、おお、そうか」

 赤い目が真っ直ぐに俺を捉え、真剣な表情で言われてしまう。視界の端には冷やかすようなソールの顔もあって、なんともまあ、こんなに広い部屋なのに、居心地が悪い空間が出来てしまったものだ。

「それから、ついでですから、お二人にあたしの大事な友人に会っていただきましょう。どの道、あたしは多くの吸血鬼の反発に遭うことになると思います。ですから、それに巻き込まないように彼女とも別れるつもりなのですが、ソールさん。あなたぐらいはどうか、彼女の顔と名前を覚え、傷付けないようにしてあげてください」

 姿勢を正したマリーが、上品に手を叩く。その仕草は本当に王族的で、洗練された美しさがあった。そんなどうでもいい動作に俺が見とれていると、すぐに一つの気配がやって来る。マリーはよく黒い霧に姿を変えていたが、彼女の友人はそれではなく、一匹の小さな動物に姿を変えるようだ。

 こげ茶色の毛並みを持つそれは、マリーのすぐ傍にまで飛んで来て、深い青色のオーラのようなものがその体を包む。そして次の瞬間、そこには小柄な少女が姿を現した。

「……………………」

 マリーもたとえようがないほどに美しいが、彼女の場合、その美しさは人形じみた無機質さを感じさせるもので、微動だにしないものだから、呼吸をしていることすらわからない。黒を基調にしたゴスロリ調のドレスも相まって、等身大の人形と言われても簡単にそれを信じてしまえるだろう。

「リディといいます。すっごく無口なので、言葉が伝わってないようにすら思えることもありますが、あたしよりずっと多くの言語を知っているので、変なことを言ってからかわないであげてくださいね。一応、あたしの身の回りのお世話をしてもらっていますが、従者ではなく、対等な友達だとあたしは思っていますし、リディもそう思ってくれています。今夜一晩だけですが、優しくしてあげてくださいね」

 見事なロングの黒髪をした彼女は、そのまま無言で深くお辞儀をする。ブラウンの瞳は何の感情も映し出さず、いよいよ人形じみて見えるが、マリーの友人であるのなら、彼女の考えていることも全て知っていると考えて良い。信じられる相手だろう。

「リディ、よろしく」

「よろしくな、リディちゃん」

「………………」

 また深くお辞儀をする。説明通りの無口っぷりだが、悪い印象を受けないのは容姿が良いためだろうか。もしかすると、俺自身が口下手で、人見知りもするタイプだから仲間意識のようなものがあるのかもしれない。

「では、リディ。もう良いですよ。お夕飯を作ってもらえますか?」

「……うん。けど、マリー。その前に一つ」

「はい?」

 隙間風のような声、とでも言えるのだろうか。リディはほとんど口を動かさずに、自然と空気が抜けていくように言葉を発していた。幼い子どものように高く、耳には付くが下手をすれば聞き逃してしまいそうな声だ。

「私は、マリーの傍を離れない。私と別れるなんて、言わないで」

「リディ……。けど、あたしはあなたのことが大事なんです。あたしは仮に吸血鬼達と戦いになっても生き残る自信はありますが、あなたは戦いには向いていませんし、今まであたしのことを十二分に支えてくれました。これ以上、あたしが振り回す訳にはいきません」

「誰がいつ、誰に振り回されたの?私は、自ら望んでマリーの傍にいる。もしそれが原因で死んだとしても、私は後悔しない。だから、私は絶対にマリーの傍を離れない。離れられないの」

 リディは身動ぎ一つしないが、感情がこもっているのかどうかすらわかりにくい瞳で、じっとマリーを見つめていて、何よりもその言葉は決して動かない意志の強さを感じさせるものだった。

「マリー。俺からも頼む。むしろ、君と繋がりのあった彼女がこのまま残される方が、彼女にとっては危険じゃないのか?」

「…………リディ。どうあっても、一緒に来たいのですか?」

「……………………」

 無言で首を縦に振る。彼女にとって何よりも大きな意思表示は、言葉を出さないということなのかもしれない。

「わかりました。あなたのことは、あたしが責任を持って守ります。ですから、リディは引き続き、あたし達の身の回りのお世話をお願いしますね。ギブアンドテイクの関係、ってやつです」

「……わかった。…………ありがとう」

 人形じみた少女の感謝の言葉は、明らかに俺の方を向いて発声されていた。俺の言葉がマリーに決断をさせたとは思えないが、彼女がこうして初めて出会う相手に言葉を向けるのが珍しいことなのは、今までの様子を見ていればわかる。ありがたく受け取っておこう。

「ごめんなさい、ソールさん。せめて途中までリディに見送りをしてもらおうと思っていたのですが、結局一人で行かせてしまうことになってしまいましたね」

「いやいや、オレのことはお構いなく。それに、マリーちゃん達の方が、オレなんかよりずっと大変なことをして来るんだ。今晩ご馳走になるのすら恐れ多いことだよ。――しかも、だ。昨日の夕飯はマリーちゃんが作ってくれたけど、今度はリディちゃんが作ってくれるんだろう?いやー、まさか美少女吸血鬼二人の手料理を食べれるなんて、吸血鬼狩りしてて良かったよ。全く」

「なんか、思いっきり矛盾してる台詞だな、それ」

 ブラックユーモア溢れる言い回しは、西洋人らしいセンスと言えるか。

 袖をまくったリディは、音もなくそそくさと部屋を出て行き、部屋は再び三人きりになる。マリーはまだリディのことについて未練があるようだが、半ば以上は諦めているのだろう。苦笑のような笑みを浮かべている。

「彼女とは、どうやって知り合ったんだ?」

「そうですね……。リディは、あたしが作った最初の吸血鬼の友人です。どういう訳か彼女の方からあたしに懐いて来てくれていて、気が付けば友達みたいな関係だった、って感じですね。

 生まれつき、あまり吸血が得意ではない吸血鬼で、生まれてからほとんど血を吸っていない、という変わり種なんですよ。ですから普通の料理をするのが得意で、だからこそ、あたしと同じように人との争いを避けたいと考えているんです。……あたしが考えていることは、吸血鬼であればたとえ友人でも反対するようなことですからね」

「そうか。……いい友達を、持ったんだな」

 素直にそんな感想を漏らすと、マリーは虚をつかれたように目を真ん丸にした。それから、少し頬を染める。

「いい友達……。そう、ですね。今まであまりに近くにいたので気付きませんでしたが、確かにそうです。リディがいてくれたからこそ、あたしはここまで来れたのでは、とすら思えます」

「それは、女王になれたこと?それとも、人間との争いをやめようと思えたことか?」

「どっちもだと思います。それに、女王とかそういうのはどうでも良かったんですよ。あたしはたまたまライカンスロープとして誕生し、他を支配するだけの力と、自分で言うのも変ですが知恵を持ってただけです。ただ、他の吸血鬼とは違うことをするためには地位が必要で、今度は地位が手に入ると、少しだけ世の仕組みを変えることが出来ました。

 なのに、慣れというのは恐ろしいですね。数百年前に比べればずいぶんと世界は変わったのに、あたしはそれで満足が出来ませんでした。もちろんそれは、あたしが人間だったからで、もう人間は誰一人として吸血鬼に殺されて欲しくない、そう思ってしまったんですよね。ただ、賛同者が誰一人としていなかったら、早い段階で挫けてしまっていたかもしれない、というのも事実です。ダイキも気付いてると思いますが、あたしって本当、口ばっかりなんです。すぐに悩んで、ぶれて、どうでもよくなってしまう……」

「そんなの、誰だって同じだろ。本当に強い人間なんていうのは、おとぎ話の中にしかいないんだ。俺も、マリーのことでものすごく悩んだ。今、こうして決断出来たのも、奇跡みたいなことなのだと思う」

 吸血鬼と人間が争いもせずに一緒にいる。

 言葉にすればたった一行のことなのに、その裏には立場、歴史、義理に友情に、それから、愛情……色々な事柄が隠れている。今、こうして俺やソールとマリー、リディが一堂

に会していることだって、奇跡的なバランスの上に成り立っていることなのは間違いない。

 その不安定さと言ったら、まるで針の上に乗っている一枚の画用紙のようだ。少しでも風が吹けば均衡は崩れ、全てが成り立たなくなってしまう。もしも、俺がマリーと敵対することを選んでいたのなら。もしも、ソールが吸血鬼を根絶やしにしようと考えていたのなら。もしも、マリーが俺をあのまま刺し殺してしまっていたのなら。そして、これからもしも俺とマリーが仲違いするようなことがあるならば。

 均衡が崩れる可能性はいくつでもあり、だからこそ、今の俺達はこうして奇跡の産物を、穏やかな気持ちで愛することが出来ているのかもしれなかった。

「そう言えば、マリー。君の生い立ちについても、詳しく教えてくれないか?」

「本当に、そう言えば、ですね。あたし自身、話そうと思っていたのに忘れてしまっていました。――ソールさんも、是非聞いてください。あたし自身、あたしみたいな境遇の吸血鬼が他にいるのかはわかっていませんから、もしかしたらこの先、お仕事をする上で似たような人に出会うかもしれませんし」

「おお、そりゃあ良いけど、マリーちゃんは女王なのに、全ての吸血鬼の情報を持っている訳じゃないのか?」

「ええ。王とは、名のある支配的な吸血鬼の中で最も強いものの称号でしかありません。吸血鬼は完全なる実力主義ですからね。なので、リディのような力の弱い吸血鬼は、たとえなんらかの特別性があったとしてもそうそう話題にはなりませんし、あたしも全然把握してないんです」

 なるほど。理性があり、姿も人とそう変わらない吸血鬼には少し失礼な言い方かもしれないが、動物の「群れの長」のような考え方をすれば良いのかもしれない。そういった野生の社会なら、力のない者は気にも留められず、やがて淘汰されるのは自然な流れだ。

 もしかすると、マリーがリディに救われたように、リディもまたマリーと出会わなければ、今のような生き方は出来ていなかったのかもしれない。

「本題に入りますね。既に話の端々には出していましたが、かつてはあたしも人間でした。その頃のことは、初めて出会った頃に話した通りです。ダイキ。あれは他でもないあたし自身の思い出話であり、まだあたしがただの村娘として生きた時代。今から五百年ほど前の出来事ばかりでした」

「……それが、いつ変わったんだ?」

「日常が崩壊したのは、本当になんでもない、よく晴れた日の昼下がりのことでした。あたしは森の中のおばあちゃんの小屋に行き、いつものようにお菓子を届けようとしたのですが、そこで人狼に食い殺されたのです。あたしはあの時、間違いなく一度死にました。ですが、こうして生存しています。どういう理屈なのでしょうね」

 自嘲するように言った彼女は、本当に不思議そうな顔をしている。おどけて見せているのではなく、事実として一度殺された自分が生きていることを不思議に思っているのだろう。長い長い時が経過した今でも。

「ともかく、奇跡的に蘇生したあたしは、あたしを食べた人狼との融合体となっていました。その癖、背の高さや声の高さ、そして嬉しいことにスタイルまで丸っきり元のあたしそのままで、唯一違うのが耳と尾。それから、鋭利な爪と牙、そして人の血液を求める本能でした。もちろん、身体能力もすごく上がりましたけどね」

「人と吸血鬼の融合ねぇ……。オレも、そういう話は聞いたことがないな。ただ、それならなんとなく日光を浴びて平気なのもわかりそうな気がするぜ」

「吸血鬼が人を完全に食べてしまうのなんて、そう珍しい話ではありません。ですから、あたしが全く前例のない吸血鬼ではないはずなんです。でも、現在生きている吸血鬼は誰もが知らないの一点張りで、あたし自身のことは全て憶測で考えるしかありません。おかしな話ですよね、自分が吸血鬼になった理由も、日光が大丈夫であることの理屈もわからないなんて」

「マリー」

「今までずっと抱えて来たことですから、大丈夫です。でも、改めて自分の生い立ちを話してみると、いけませんね。どんどん、自分がわからなくなっていきそうです」

 口だけで小さく笑うマリーを見て、思わず腕が伸びていきそうになった。もしもソールがこの場にいなければ、そのまま抱きしめてしまっていたかもしれない。だが、理性がそれを許さず、彼女の肩を掴もうとしていた手は空気を握り締め、拳が血の気が引くほど強く固められた。

「……どうして、こんな空気を重くしちゃうのが得意なんでしょうかね、あたしは。

 後はもう、端的に事実だけを羅列させますね。あたしはそんな訳で、吸血鬼なのに日光を浴びても行動出来ますし、かつ吸血鬼らしく魔術を使うことも出来ます。闇という概念的なものに姿を変えたり、相手が強く心の中で考えていることを読み取ったり、と言ったそこそこの強さの魔術は意のままですね。一般的に言って、翼魔より魔術の腕に劣る人狼がこれだけのことを出来るのは、あたしが高く評価される一因になっていたりします」

「確かに、人狼が魔術を駆使するのはあまり見たことがないな」

 精々、マリーが吸血鬼であると判明した時に使った魔術のように、自分の爪や牙を強化するためのものぐらいだ。何もない所から炎を出したり、超能力のように心を読んだりするのは翼魔の専門分野であると俺も認識している。ということは、いかに彼女が高い能力を持った人狼であるかがわかる。ライカンスロープの名は伊達ではないということだろう。

「後、ライカンスロープという、少し普通の人狼とは異なったものになったのも、後天的なものであると考えています。あたしを襲ったあの人狼は、後に得た知識と照らし合わせると、どうやらあまり高位のものではなかったようですから」

「……ちょっと疑問だったんだが良いか?少なくとも俺の知識にライカンスロープ、っていう存在のことはないんだが、具体的には、一般的な人狼とはどの辺りが違うんだ?」

「完全な上位種であると言えますでしょうか。人狼の能力をそのままに、固有の特別な魔術を操ることが出来ます。現在までにライカンスロープは五体現れたそうですが、そのいずれもがその時代の吸血鬼の王となり、たくさんの人間を殺したと言います。あたしは六体目のそれという訳で、やはり王になっている訳ですから、ライカンスロープの宿命と呼ぶべきなのでしょう。……ですが、あたしは二つ目の宿命には抗いたいと思います。それが恐らく、人から吸血鬼になったあたしの、なすべきことだと思いますから」

 マリーは静かに。しかし、それだけに強い意志を感じさせる口調で話を終えた。

 それから間もなくして、再びリディが部屋に入ってくると、無言でマリーや俺達に目配せをする。

「リディのご飯はあたしよりずっと美味しいんですよ。冷めない内にいただきましょう」

 自分のことのようにリディのことを自慢する彼女の笑顔は、これ以上がないほどに輝いて見えた。これこそが、彼女が五百年前に見せていた顔なのだろう、と思わせるほどに。

 夕食の後、一日目と同じように俺とソールはそれぞれ一部屋ずつ、来客用の部屋をあてがわれた。

 俺は別に寝相が悪いという訳ではないと思うが、再び入った部屋のベッドはシーツもかけ布団もシワひとつなく、恐らくこの完璧なメイキングはリディがしてくれたのだろう。彼女は既に食事を終えている、ということで食事を共にはしなかったが、俺達が食事をしている間にしてくれたのかもしれない。

 ソールとは、もう明日の朝には別れることとなる。仕事仲間と一週間も一緒にいないのは日常的なことだが、彼の場合は事情が事情だ。俺だって名残惜しさを感じている。そこで、せめて最後の夜ぐらいはもう少し話して別れたかったのだが……。

「ダイキ、お邪魔しますねっ」

 嬉々とした表情で、あの娘が部屋に入って来た。自宅ということでわざわざ黒い霧には姿を変えず、堂々とノックもなしに扉を開けてやってくる。

「マリー。ノックもしないで、俺が着替えでもしていたらどうしてたんだ?」

「まだお風呂も入っていないはずですからね、着替えをしないなんてことは推理済みです。ダイキ、昨日はあのまま寝てしまいましたし、そろそろ体を奇麗にしたい頃合でしょう?」

「ああ、それはまあ。でも、吸血鬼は水が苦手なんだし、この屋敷に風呂はないだろう?」

「いえいえ、あたしは水が全然平気……という訳でもないですが、シャワーを浴びるぐらいは平気ですので、普通にありますよ。ソールさんは昨日も入ってましたし」

「……ことごとく、俺の予想していた吸血鬼の常識が通用しないんだな、君は」

「えへへー」

 この部屋には二人きりだからだろうか。マリーの口調は子どもっぽいもので、喋り方もやや舌っ足らずに聞こえる。これが彼女にとっての素であるならば、いつもの態度はかなり気取った、背伸びをしたものなのだろう。それを余儀なくさせる女王という立場は、やはり彼女に相応しくないものなのかもしれない。少女のような純粋さも、間違いなくそれによって奪われているのだから。

「ところで、ダイキ。その“君”っていうの、もう良いですよ。なんか、すっごく無理してる感じありますし」

「えっ?いや……仮にも俺よりずっと年上の女性なんだし、他の呼び方をするっていうのは」

「でも、お前と呼んでくれたこともありましたよね。あの方がずっとダイキらしく感じましたし、今のままでは距離がある感じで嫌なんです。言っちゃえば、あたし達はもう運命共同体なんですからねー」

「そ、その言い方はなんか、色々と語弊があるんじゃないか?」

「ありませんよー。あたしはダイキと一緒に生きてるんです。そして、その決断をさせたのは他でもない、あなた自身なんですからね?」

「は、はぁ……」

 小首をかしげ、上目遣いで見て来る。……駄目だ。少なくとも今の俺では、こんな仕草を見せて来た彼女を拒絶することが出来ない。彼女に間違いなく心惹かれている、今の俺では。

 今までは、そもそも異性のことを意識したことなんてなかった。単純に接する機会がなかったというのもあるが、俺に対して彼女ほど優しく接してくれる人間は、男女を問わずいなかったような気がするし、まるで彼女と出会い、恋に落ちるのが自然の流れであるかのように、俺にとってのマリーは“特別”に思えた。

 ……そんな彼女が、元は人間であっても、今は吸血鬼として存在していることには、世の不条理を感じずにはいられない。それでも、俺とマリーは一緒にいようとしている。ここまでを含めて、俺は大きな幸せを掴むことが出来たと言えるのだろう。きっと。

「じゃあ、お前、って呼んでも良いか?それなら、マリーも俺のこと、特別な呼び方をしてくれても良い気がするんだが」

「ほほー、あたしの方からですかー……。んー、特に思い付きませんね。ダイキはダイキですし、あなたはあなただとあたしは思います。ここであたしの方が“キミ”なんて呼んだら、違和感しかないでしょう?」

「確かにな。今更お姉さん面されるのにも、違和感がある」

「でしょうでしょう。あたしは基本、自然体でぽわわーんとしているのが好きなんです。ダイキはあたしにとって魅力的な異性ではありますが、同時にお兄さんみたいな感じ、って訳ですね。ほら、身長もあたしの方が低いですし!」

「ま、まあな」

 とはいえ、リディと並ぶとかなり大きく見えるし、諸々の質量もある。俺の方からマリーのことを妹のように感じることは少ないだろう。しいて言えばやはり、その幼さの残る話し方だが、子どもっぽいと言うよりは単純に快活さを感じる。

 少なくとも俺は、暗い女性よりは彼女のような明るさのある人の方が好きなようだ。傍にいてやはり、居心地の良さを感じる。喋り過ぎて、うるさいこともままあるのだろうが。

「ねね、ダイキ。立ち話もアレですし、腰下ろしましょうよ」

「おいおい、そんなに話し込むつもりなのか?」

 マリーが部屋に入って来たことに気付き、思わず部屋に備え付けられていた小さなソファから立ち上がったままだった。柔らか過ぎず、硬過ぎずの材質で長く座っているのが苦にならない高級品だが、さすがにこれに二人で座るのは難しい。咄嗟の判断でベッドに腰を落ち着けたが、それを見たマリーは小さく笑うと、何の遠慮もなく横に座って来た。

「この屋敷の家具は、全てあたしが用意したものなんですよ。原産国はバラバラですが、持ち運びは魔術でちょちょいのちょいです」

「かっぱらって来たものじゃないだろうな?」

「む、あたしが盗みなんかする吸血鬼だとお思いですか」

「いや、言ってみただけだ。信頼はしてるよ」

「耳や尾を隠して人間社会に溶け込むのは、結構骨が折れる話ですけどね。なので、フード付きのコートが必須な寒冷地にばかり行っていました。ダイキは割に温暖な地域に行くことが多かったと思いますが、その真逆ですね」

「吸血鬼やアンデッドが現れるのが、そういう所ばかりだったからな。今思うと、どこも吸血鬼狩りの大家が近い場所なのか。ロシアやカナダに吸血鬼狩りは少ないみたいだし、そこが戦場となることはないんだろうな」

「そうですね。吸血鬼も、基本的に寒さにはそう強くありませんから。何より、寒冷地に降る雪も下手をすれば命を削るものになります。あたしはカナヅチってだけで、流水は大丈夫なんですけどね」

「なるほど。でも、なんだかお前が泳げないというのは意外だな」

「えへへ。昔は泳げたんですけどねー。この姿になってからは無理になっちゃいました。必死に犬かきしても溺れちゃいますし」

 人狼が犬かき、か。しかもマリーが必死になって手足をばたばたさせている姿を想像すると、あまりにコミカルで思わず吹き出してしまう。水も滴るいい女などとは言うが、それではまるで雨の日の捨て犬と言うか……。

「ふ、はは」

「な、なんで笑うんですか!?あたし、まだ面白いこと言ってないでしょう!」

「い、いや。すまない。けど、なんかな……」

 長らく緊張しっぱなしだった頬の筋肉が緩み、軽く涙が流れて来るほど自分が笑っていることがわかる。彼女は、全く自覚のないところで俺の心をこんなにも解きほぐし、人並みの感情の動きをさせてしまえる。生まれついてのエンターティナーに違いない。

「もー、失礼しちゃいますねぇ。……ダイキはよくわかってないみたいですから言いますけど、折角好き合う異性同士が同じ部屋に二人きりなんですよ?本来ならこれ、相当なドキドキポイントなんですからねっ。ここはダイキから、甘い言葉の一つや二つ飛んで来てもおかしくない、そんな一大イベントなんですよ」

「あ、ああ、そうだな。けど、相手がマリーなんだぞ?俺に、何を言えと」

「まだ笑いますか。そ、そっちがそう来るのでしたら、あたしにも覚悟がありますよ」

「なんだって?」

「こ、こういうこととかしちゃいます!」

 どういうことを……と言おうとした時には、既にマリーの腕が俺の右腕を捕まえていた。

 驚くほど柔らかな感触の腕が、つる草のように俺の無骨な腕に巻き付き、そのままマリーのふわふわとした肢体も押し付けられる。ちょうど腕が胸の谷間に挟まれるような形となり、肉の薄い部分から感じられるのは、明らかに通常よりも明らかに速い、心の鼓動だった。

「あたしが、もしもダイキのことをなんとも思ってない吸血鬼なら、今頃この腕を美味しくいただいちゃってますね」

「マリー……色々と、当たってるぞ」

「ええ。胸も心臓も、あなたに預けています。ダイキなら、この意味がわかりますよね」

 吸血鬼の急所は、人と同じく心臓と脳。ただしどちらも銀製の武器で貫かなければならない。しかし、そうでなくても心臓に衝撃を受ければしばらく動くことは出来ない。今のマリーの行動は、男女のいちゃ付き以上の意味を持つ、動物が相手に腹を見せるようなものだ。

 本当になにもかもが動物的で、こんなにも可愛らしい女性がするのには違和感のある行動ばかりだが、だからこそ彼女はこんなにも魅力的に思えるのかもしれない。恐らく、彼女の動物らしい行動は、人間の根っこにある動物時代の本能を刺激してしまうのだろう。そうとでも考えなければ、俺の心が動かされる理由がわからない。

「ダイキ。ダイキも、あたしの体、触ってくれて良いですよ」

「今更、どこを触るんだよ。むしろ、今度は俺がマリーに触れてもらう番だ」

 軽く右腕を振るうと、あっさりとマリーはそれを解放してくれる。再び俺の所有物になったそれで、俺はマリーの肉の薄い肩を引き寄せた。昨日の朝には人狼の力を見せ付けたのに、その肩幅はあまりにも小さく、精緻に作られた人形のような華奢さが危うげに思える。

「もっと強く抱き寄せても、大丈夫ですよ。あたしは壊れませんから」

「ああ…………」

 その言葉を受け、もう少しだけ強い力を加える。すると、俺とマリーの体の距離はゼロになり、そっと彼女が俺の体にもたれかかって来た。絹糸のよう……と形容するには少しごわごわとした毛皮じみた感触の金髪が、頬をくすぐる。耳は安心しているのかふにゃふにゃになって垂れていて、尾はさっきからぶんぶん振り回されており、シーツをわやくちゃにする音がうるさいぐらいだ。

 もうマリーも何も言わず、それなのに俺も彼女も満足しているのがわかった。あまりにも心地良くて、このまま眠ることだって出来てしまうだろう。

 それほどに穏やかで、満たされていて、あまりにも幸せなひと時だった。このまま永遠に同じ時を過ごすことが出来れば、それ以上の幸せはない。まだ出会って一週間ほどの相手と一緒にいるだけなのに、そう俺は確信出来るほどだった。だが、幸せにも幕引きは必要なのだろう。そうでなければ、俺達はするべきことも果たせないままで終わってしまう。

 そんな幸せを終わらせる憎まれ役は、マリーが買って出てくれた。

「ダイキ。そろそろお風呂に入られてはどうですか?本当ならあたしもご一緒したいんですが、ちょっと片付けるべき雑務もありますし、今日のところは勘弁してあげます」

「そうか。……そうだな。じゃあ、せめて風呂まで案内してくれないか?こんなに立派な建物だと、風呂を探すだけで数十分とかかりそうだ」

「ふふ、わかりました。――もう、ダイキはあたしがいないとなんにも出来ないんですね。世話のかかる彼氏さんです」

 彼氏、か。確かに俺は、もう彼女にとってのそれなのかもしれない。と言うことは、マリーは俺の彼女……。そう意識すると、途端に恥ずかしさがやって来たが、嫌な気分はしなかった。

 

 俺とマリーは名残を惜しむように、わざとゆっくりと、ゆっくりと廊下を歩いて行った。これからも、いくらでも二人でいられるのにも関わらず。

「じゃあ、あえてさよならは言わないでおくぜ。いつかまた、必ず会おう。その時は、オレも吸血鬼狩りなんて辞めてるだろうさ」

「そうだな。また会おう、ソール」

 翌朝、ソールは俺達より先に屋敷を出て行くことになった。マリーの準備にはもう少し時間がかかるし、マリーとは違ってほぼ完全な夜型の生活リズムを持つリディが起きるのには時間がかかるためだ。

 だから見送りは、あえて俺一人ですることになった。マリーも見送ろうと思ったみたいだが、俺の前で泣き顔を見たくない、という理由で、わざわざソールに宛てた手紙を俺に預け、今も屋敷の中で用事をしている。

「マリーちゃんと、よろしくやれよ、なんてな。じゃ、死ぬなよ。ダイキ」

「そっちこそ、変に気を回して吸血鬼にやられるなんてないようにな」

「はは、どうせ、そうそうそんなデカい仕事は回って来ないだろ。それに、これからはどんどん吸血鬼との戦いは減るんだしさ」

 最後は背を向けて手を振り、俺と共に歴史的と呼べる瞬間を過ごした吸血鬼狩りは自分の仕事に戻っていった。これで俺もマリーも、吸血鬼狩りの内では死んだという扱いになる。間違いなく父や親戚は悲しむだろうが、全てを終えてから日本に帰り、驚かしてやるとしよう。そして、その時にも横にマリーがいれば、驚きは二倍以上に膨れ上がるはずだ。

 尤も、俺が生きて帰れる保証なんて一つもないが――。

 傾斜の都合ですぐにソールの後ろ姿は見えなくなったが、しばらく彼が消えた方を見ていて、いい加減に寒くなって屋敷に帰ると、マリーが出迎えてくれた。

「お別れは、出来ましたか」

「ああ。最後に出会う人間になるかもしれないから、俺なりにきちんとしておいたよ」

「いえいえ、これからの旅の途中でも、いくらでも人間には出会いますよ。毎晩野宿なんて、あたしが耐えられませんし、人が作ったご飯も食べたいですから」

「それもそうか。じゃあ、願わくは最後に出会う同業者、ってことに訂正しておくか。さすがに、同業者にマリーが見つかって追いかけ回されるのは敵わないからな」

 吸血鬼と戦うことになるのも恐ろしい話ではあるが、それと敵対している吸血鬼狩りもまた、旅の大きな障害となり得るだろう。彼等は当然ながら俺と同じように武装していて、経験の深い者であるなら、その技能は俺なんかの比ではない。

 更に、相手は人間なのだからマリーも本気で対峙することが出来ず、吸血鬼以上の難敵となるのは必定とも言える。俺達に出来るのは、ただひたすらに祈るだけだ。吸血鬼が人間の信じる神に祈って良いのかは知らないが、マリーは元人間なのだしギリギリ大丈夫だろう。

「ところで、なんて手紙を書いたんだ?」

「……む、いくらダイキでも、看過しがたいプライベートな質問ですね」

「そんなに大層なことを書いたのか」

「まあ、あたしには珍しく、すごく真面目な内容です。具体的には、色々なお願いをさせていただきました。少し使っている文法が古い可能性があるので不安ですが、まあなんとか読解していただけるでしょう。それから、一度読むと燃えちゃう魔術をかけたので、隠蔽工作についても抜かりはありません」

 ずいぶんとピンポイントな魔術だ。吸血鬼の操る魔術というものは、よく人間の創作物に出て来る同名の技術より、よほど奇想天外にして強大なものであると聞き及んでいるが、それにしても汎用性があるようでない魔術だろう、それは。ある種の時限爆弾のようなものなのかもしれない。

「それで、あたしの準備は完了しましたよ。リディにはもう、コウモリの姿になってもらいました。日中はあたしのコートの中にいてもらうことにしますね」

「ああ、さすがにそのままの格好で旅に出る訳じゃないんだな」

 今のマリーはマントを羽織り、実に貴族的な純白のブラウスに身を包んでいる。その姿は誰が見ても王族だとわかるほど様になっている美しいもので、外に出れば確実に注目を集めるものだ。最大の特徴である狼の耳は外気に触れているし、丈がそこまで長くないマントの裾から尾も飛び出している。このまま旅に出れるとは思っていないが、彼女ならば「どうせ車での移動が主ですし、良いんじゃないですか?」などと言い出しかねないので、その言葉を聞けて少し安心出来た。

「なら、着替えたらすぐに発つか。今なら、まだソールの後ろ姿ぐらいは見れるかもな」

「ふふっ、そうですね。では、斜面ぎりぎりの場所に車を付けておいてくれませんか?その頃には着替え終わると思いますので」

「わかった。……鍵はきちんとかけたが、盗まれてないかちょっと心配だな」

「その場合は、徒歩での旅になりますね。それはそれでロマンチックで良いじゃないですか」

「おいおい。レンタカーなんだし、色々と大変なことになるんだぞ」

 そう口では言いつつも、いっそのこと車を使わない旅でも良いかもしれない、と思っている俺もいる。とはいえ、現実的な話をすればそれはただのロマン止まりで、安全性や効率を考えても移動は車にするべきだろう。とりあえずヨーロッパを旅する分には今のレンタカーで良いが、その他の地域となると借り直す必要が出て来るか。

 幸いなことに、資金面についてはあまり心配しなくて良いのは純粋に嬉しいところだ。マリーはある程度の資金をユーロだけではなく、ドルでも所持しているため、ユーロ圏外に行っても、両替に手間取ることが少なそうであるのが二重に良い。

 後、当面の心配事と言えば、やはりマリーと他の吸血鬼の繋がりだろう。マリーは昼間にしか自由がないと少し前に言っていたが、俺が見ている限りでは誰かの監視を受けているという訳ではなさそうだった。リディも彼女の側に立っているため、密告者であるとは思えない。とすると、俺達が屋敷にやって来たあの日から、マリーは連絡係のような吸血鬼を屋敷から遠ざけているのだろう。

 数日の間は適当な理由を付けて追い払えたとしても、そう何週間も女王という存在の見張りが見逃してくれるとは思えない。屋敷がもぬけの殻であることが判明した瞬間、女王マリエットは吸血鬼達から捜索され存在となるだろう。かつて人間であったという生い立ちも周知のことであるのなら、彼女が人間に味方しようとしているという疑いもかけられるかもしれない。

 その状態で、果たして話し合いが上手くいくだろうか。恐らく、吸血鬼狩りの道具の破片の回収をしている吸血鬼は、自分の役目を全うしようとするだろうが、その他の吸血鬼とは出会えば即戦闘になる覚悟でいた方が良いだろう。尤も、その数も少ないはずだ。車で高速移動をすればそう容易く見つかるとは思えないのだが。

 ――と、考えながら車の移動を終える。ブルーの日本車は誰かに盗まれることも、破壊されることもなく、無事に俺達の足となってくれそうだ。世知辛い話だが、一応爆弾か何かがしかけられていないか、車体の下まで点検してある。まさかこんな田舎でテロはないだろうが、危険性がゼロとは言えないのが今の世の中というものだ。……マリーが聞けば、悲しそうな顔をするだろうな。

「マリー。車の準備は出来たぞ」

「はーい。あたしも万全ですよー」

 再び屋敷の玄関扉を開けると、示し合わせたようにフード付きのコートを着込んだマリーが飛び出してくる。

 最初に出会った時のものと似た、赤い。とにかく赤いコートだ。ただし、今度はところどころに白いファーがあり、より寒さに耐えうる仕様になっているのがわかる。様々な地域を渡り歩き、車の中や屋外で夜を明かす可能性もあることを考慮したものだろう。意外にも……と言うのは失礼かもしれないが、旅慣れているようだ。

「ふふっ、思わず見とれてしまいましたか?」

「いや、そういう訳じゃないが、確かに可愛い服装だとは思うぞ。それに、機能的だし。ただ、赤いな、とは思った」

「そこはほら、あたしは“赤ずきんちゃん”なので。アンデンティティはきちんと守っていかないと」

「ん?ああ、そうか」

 『赤ずきん』はドイツの物語だったと記憶しているが、意外にもドイツ語でその言葉を聞く機会は少なかった。少し理解に戸惑ったが、彼女の服装を考えればよくわかる。彼女の生まれもドイツであることから、赤いものを身にまとうのが好きな自分とかけているのだろう。マントにしてもそうだし、確かにマリーのテーマカラーは赤という印象がある。

「それから、一応屋敷には魔術をいくつかかけておきました。幻影の魔術もかけておいたので、少しは時間稼ぎも出来ると思いますよ。……後、それほど長く住んでいた訳ではありませんが、そこそこ愛着があるので写真にも収めておきました。――こうして、思い出を物品として残すなんて、いかにも人間的ですよね。いつもはもっとこう、吸血鬼らしくしているものなんですが」

 手の平の上に黒い霧が生じたかと思うと、そこには趣味で使うには大仰過ぎるように見える一眼レフが現れる。

「外観も収めないのか?」

「ええ、外から見たことはそんなにないのですが、きちんと収めておきましょう」

「なら、俺が撮ろう。マリーは、屋敷と一緒に写れば良い」

「ふふっ、ありがとうございます。ダイキにも、意外と気の付くところがありますね」

 出会いたての頃は、乙女心がわかっていないと言われたものだが、彼女との出会いが少しは俺を変えたということだろうか。不思議とぱっと彼女を屋敷と共に写すことが思い付き、いまいち手に馴染まないごついカメラを受け取っていた。

 携帯のカメラすらほとんど触っていない俺が撮影するとなると、かなり酷い写真が出来上がることが予想されるが、そこは質より量の作戦。適当に数枚撮れば、一枚ぐらいは見れるものが出来上がるだろう。

 ファインダーの中に金髪の“赤ずきん”と無尽蔵に大きな屋敷を捉え、そのまま何回かシャッターを押し込んだ。昔テレビで見た新聞記者の写真撮影のような音が鳴り、これで間違いなくマリーとこの屋敷の思い出の写真が撮れたことだろう。軽く緊張して、ぶれてしまった可能性が大いにあるのは申し訳ないが。

「じゃあ、そろそろ行くか」

「はい。……さようなら、短い間でしたが、お世話になりました」

 俺からカメラを受け取ったマリーは、一瞬だけ暗い顔をして屋敷を見つめた後、カメラを霧にして収納し、俺について車に乗り込んだ。

 最初の目的地はギリシャとなり、ほぼ真南に向かって平坦な道を進む。

 ドイツからルーマニアに行くのにも四つの国を経由したが、今度もまた通過する国はそれぐらいになる。ただし、時間にしてみればいくらか早く着くことだろう。

 しかし、ギリシャというのも少し微妙な所だ。近年の経済悪化により、都市部はもちろん、辺境についてもあまり良い話は聞かない。俺自身が仕事にやって来たことはないが、中々仕事を進めるのが難しい地域であると、人伝に聞いている。

「さすがに、ちょっと緊張しますね。……一応、まだあたしと親しい間柄にある人と最初に接触することにしたのですが、もしかすると、だからこそ毅然とした態度ではいられないかもしれません。彼に反論されてしまった時、きちんと説得する自信が……」

 ルーマニアに向かう車中と同じように、マリーは助手席に座っている。だから横目で彼女の表情を伺うことが出来る訳だが、いつもの笑顔はなく、暗い憂鬱が見て取れた。

「その時は、俺が話せば良いだろう?吸血鬼狩りの俺が武器を捨てて話せば、真剣さも伝わると思うんだ」

「……それでも、無理だったら」

「別の方法を考えれば良い。そいつがたまたま頭の硬いだけかもしれないし、今から先のことばっかり考えていても、暗くなるだけだ。俺はともかく、マリーにそんな表情は似合わないぞ」

 しばらくは直線が続くようだ。片手をハンドルから離し、腹の前で弱々しく組まれている彼女の手の上に重ねる。車内は一応空調が利いているのだが、マリーの手の平は冷たく、血液が通っていないのか心配するほどだった。

「ダイキ……」

「これは、俺達のような明日の見えない仕事をやってる人間が持ってる考え方なんだけどな。やって来るのかも定かではない明日のことを考えるより、今日を生き抜く術を考え、実行し続けるんだ。そうすれば、“今日”はいつの間にかに“昨日”になっていて、あれほど不安だった“明日”は“今日”になってる。後は、同じように今日を必死で生きれば、いくらでも長生きできる、っていう馬鹿みたいな理屈なんだ。

 それを唱えていた人間が何人も死んでるし、全く説得力はないんだけどな。でも、そんなのでも信じないよりはマシだろう?」

「あはは、そうですね。けど、ダイキ。そこは『黙って信じろ!』ぐらい強く言ってくれても良かったのでは?」

「俺自身が大して信じてないんだから、下手に人に勧められないだろ」

 当初は可愛らしく笑っていたマリーも、追い打ちの言葉は効いたようで、たまらなくなって吹き出す。なんとか彼女に笑ってもらいたくて、少し言い方も工夫したのだが、上手くいったようで良かった。

 だが、本当に吸血鬼狩りの人間の多くは、こうして自分を震え立たせることでアンデッドや、自分よりずっと強大な力を持つ吸血鬼との戦いを乗り越え続けてきている。俺が最初にこの話を聞いたのは、もちろん師匠でもある父親からで、それ以降も合言葉のように聞いて来た。

 根性論じみた時代遅れな感じがあるものだが、実際に伝統的な吸血鬼狩り達の人生哲学なのかもしれない。

「ありがとうございます、ダイキ。かなり気分がほぐれました。もう、手を戻してもらっても大丈夫ですよ」

「無理はするなよ?気分が優れないなら、寝ていてくれても良いからな」

「いえいえ。折角、ダイキとこんなに近くでお話出来るのですから、起きていないと損というものです」

「話って……そんなに話のネタがあるのか」

「ありますよー、超ありますよー。あたしはご存知の通り、人間が大好きな吸血鬼ですからねー、共通の話題はありまくりです」

 たちまち彼女には笑顔が戻り、声のトーンも高く、甘くなる。やはり、彼女に深刻な表情や、暗い声は似合わない。こう表現すると彼女がひたすらに陽気で単純だと言っているみたいだが、俺が救われたのは彼女の明るさだ。それを求めるのは、当然とも言えることだろう。

「ですが、たまにはダイキのお話も聞いてみたいのですが、良いですか?」

「俺の話か?……前にも言ったけど、そんな楽しい話は」

「ダイキがまだ子どもの頃のことなんて、どうですか?ほら、あたしも一応、人間時代のことと、吸血鬼になった経緯をお話したのですから、ギブアンドテイクってやつですよ。ダイキが吸血鬼狩りになる前の、ただの男の子だった頃のことを教えてください」

 昔のことか……。こうして世界各地を転々とする生活が四年にもなるせいで、小さい頃の方が短く感じるほどだが、たった四年の「大人」としての生活より、子どもの頃の十五年間。更に、修行を始まる前の十年間の方が、時間的にはずっと長い。感覚的には、この四年に勝る濃密な時間もないだろうが。

「そうか、わかった。でも、そう面白い話ではないと思うぞ」

「面白くなくても、全然良いですよ。あたしは、ダイキのことを少しでもたくさん知りたいんです。その方が、ずっとあなたのことが好きになると思いますから」

 彼女の嫌みなくさらりと言ってみせる純粋な言葉は、なんともむずがゆく、だけどそれが不快ではない。

 そんな彼女の“雰囲気”に癒されながら、俺は幼い頃の記憶の探索を始めた。一体、どこから話し始めれば、彼女は喜ぶのだろうか。

 俺は、日本の平均的な家庭に生まれたつもりだった。もちろん、そこは中流思考の強い日本のこと、中流家庭だと自称しておきながらも金持ちであったり、見栄を張っているだけのその逆であったり、ということはあり得る。ただ、俺の家は決して贅沢ばかりは出来ないが、そこそこの暮らしが出来ている、完全な中流家庭だった。

 父も母も健在で、母は専業主婦をしており、父はたまに仕事を行くこともあるが、基本的には自宅にいる。物心が付き始めてからは、他の家庭の親とは違うということに気付き、それが不思議に思うことも多々あったが、やがて我が家はそういうものなのだ、と受け入れることが出来た。

 兄弟は他になく、一人っ子である俺は過剰なまでの愛を注ぎ込まれて……という訳ではなかったが、少なくとも蔑ろにされて育った記憶はない。小学生の頃は、授業が度々退屈だったことから、それなりに学力はあった方だったのだろう。それから運動神経は良いと誇ることが出来た。ただし、吸血鬼狩りの仲間と比べるのは馬鹿だ。この業界には、人外レベルの人間がごろごろいる。

 小学校の高学年の頃からは、どうやって学校側に説明したのか、俺が登校する頻度はどんどん下がっていき、それが咎められることもなかった。代わりに俺は、英語やその他の言語を、どう考えてもまだ習得するのには早過ぎる年齢なのに、次々と詰め込まれていった。地獄のような勉強漬けに加え、好きだったスポーツも、どんどん実践的な格闘術や剣の扱い方に変わって行き、もうその頃には、ただの少年ではいられない我が身のことを実感出来ていた。

 ただ、それでも全く日々が楽しくなかったかと言えば、それは嘘になる。俺は同い年の他の子どもが喋れない言語を覚え、それをマスターしていくことがたまらなく楽しく、充実感があったし、殺しの術とはいえ、次々と新たな技を覚えていくことには快感があった。

 それに、父親は一貫して厳しかったものの、母親は優しく、時には、やはり厳しく、俺を支え続けていてくれた。……今現在、母親は他界しているが、俺の記憶の中で一番新しい母親は、中学二年の時のものだ。

 ……母について話すとなると、吸血鬼狩りと結婚するだけはあり、ずいぶんと豪胆な女性だったように思う。ただし、思い出は美化されるものだし、どこまで記憶が正しいのかはわからないが、父親が俺を半ば虐待なのでは、というほど鍛錬を強制した時には、強面の父に手を出してまで止めたことを記憶している。

 さすがに、あの父親も我が子はしごけても、我が妻に暴力を振るうことは出来ず、その日は代わりにまだ習得途中だったドイツ語を勉強することになったが、あの時の母は、正しく聖母に見えたものだった。

 後に聞いた話になるが、どうも母親はかつて、シスターとして教会に勤めていることがあったらしい。――ああ、それから話し忘れていたが、イギリス人だ。だから俺は一応、ハーフということになる。日本人の特徴ばかり出ているので、自己申告しなければ誰にも気付かれないが。

 父親はそれなりに業界では名の知れた人間だった。自称ではなく、今でもたまにその名前を伝説的に聞くことから、客観的に見ても正しいことなのだろう。俺よりもずっと背が高く、筋骨隆々とした人で、顔も子どもが泣き出すほどに恐ろしげだ。どうやら俺は幸運なことにも、母親に似たらしい。

 親子の関係は……昔から、そう良好とは言えないかもしれない。だが、父親はあの図体で涙もろい面もあり、俺が死んだという情報が伝わり次第、泣いてしまっているだろう。そこだけは、悪いことをしたと思っている。

 故郷の話、か。それは本当にもう、ただの地方都市としか言えない。都心とは違って街の規模は小さいくせに、高層マンションや雑居ビルが立ち並び、俺もまたそのマンションの一室で暮らしていた。

 車の交通量は中途半端に多くて、空気が悪く、娯楽施設も大したものがない。本当に、わざわざ話すまでもない、取るに足らない街だった。特にヨーロッパの街並みを色々と知っている今では、願わくはもう二度とあの場所には帰りたくないほどだ。言語の面での苦労は少ないのだから、真剣にヨーロッパに移り住みたい。

 他には――好きな食べ物?特に好みも苦手もなく、なんでも食べられるが。

「もう、子どもの頃の話でもなんでもないな。けど、本当に俺が話せるのはこれぐらいのものなんだ。学生時代の友達と言える人間はほとんどいないし、いても別れて久しい。中学なんかは、行っていることの方が珍しかったからな」

「そうですか……。やっぱり、ダイキはどこかあたしと似てますね」

「似ているって、どこがだ?」

「色々と、です。あたしも、重大な転機を迎えて以降、生活が一変しました。友達も、リディ以外にはほぼ皆無ですしね」

「ああ……」

 苦笑しながらのマリーの言葉に、一気に話が現実の、現代の次元にまで引き戻される感覚があった。だが、マリーは話を暗い方向へと引っ張ろうとする気持ちはないらしく、苦笑をすぐに明るい笑みへと変える。

「しかし、今の時代を生きている人って、そんな感じの子ども時代を過ごすんですね。あたしの頃とは、色々と変わっていて、面白いです。もちろん、立場とかが全然違う訳ですけど」

「マリーとは、そこまで違うものなのか?」

「だってほら、田舎はまず、子沢山な訳ですよ。あたしにもいっぱいきょうだいがいて、お隣さんも大家族で、小さな村なのに、人口だけならずいぶんといたんです」

「なるほど。日本もまあ、一昔前まではそういう家庭が多かったみたいだが」

 戦中、戦後すぐぐらい。俺からすれば、曾祖父母の時代だ。尤も、父方は吸血鬼狩りという異質な一族。母方はイギリスが実家なので、俺の家計に当てはまる話ではない。

「まあ、大体は大きくなる前に死んじゃったり、養子に出されちゃったりなんですけどね。いくら頑張っても、田舎は田舎なりの稼ぎしかありませんから、本当に大家族をまかない切れる訳じゃないんです」

「マリーの家は、いわゆる農家だったのか?」

「そうなりますねぇ。お父さんは猟師もしていたそうですが、早々に死んじゃいましたしね。……ここも、なんとなく親近感を覚えたりします」

 マリーの父はもういないと、初めて出会った時にも聞いた。そして、俺は母親を亡くしている。確かに、縁のようなものを感じるのは確かだ。もちろん、今の時代にマリーの母親が生きているはずがないので、彼女は既に両方の親を亡くしていることになるだろうが。

「前にもお話しましたけど、あたしもいっぱい家族のお手伝いをして、大変だったですけども、とても楽しい毎日でした。あたし一人いなくなっちゃって、きっとお母さん達、すごく心配したでしょうね」

「吸血鬼になってからは、一度も?」

「人間のあたしはあそこで死んじゃったので、仕方ありませんよ。けど、だからこそあたしは長く生きて、色々なことを経験出来ました。悲しいことは多かったですけど、今はこうしてダイキと一緒にいますし、寂しくはありません」

 マリーは小さく笑い、コートの中に手を入れる。今はコウモリに姿を変え、日光から逃れているリディもいる、ということだろう。

 俺にしても、こうして複数人で車に乗ることがあるとは思いもしなかったことだ。そのことに孤独を感じていないつもりでいたが、こうして彼女がすぐ傍にいるのを視界の隅で確認していると、言葉にしようのない安心感のようなものがある。この安心が孤独ではないことにより感じるものであるのなら、今までの俺は意識していないだけで、孤独に不安を覚えていたのだろう。

 片親を失い、今は生きている親の元を離れ、向こうは俺のことを死んでいると思っているとなれば、確かに俺とマリーの境遇はそっくりだ。俺はその言葉を信じているという訳ではないが、“運命”なるものの存在を多少は認めるべきなのでは、という気持ちにもなる。

「んー、平坦な道が続きますねぇ。軽く眠くなって来たような……」

「なんだかんだでマリーも吸血鬼なんだし、寝ておいたらどうだ?俺は一人で運転していても、苦にはならないし」

「ふぁ……そうさせていただいちゃいましょうか。でも、ちょっとしたら起こしてくださいね。あんまり寝ちゃうと、完全に夜型のサイクルになっちゃいますから、ダイキと一緒に旅をする上でそれはちょっとまずいですので」

「わかった。けど、あんまりに気持ち良さそうだったら、そのまま寝かしておくぞ」

 考えてもみれば、今まで一度もマリーの寝顔というものは見たことがない。どんな間抜け面……もとい、可愛らしいものなのか、少し気になる。あまり期待し過ぎると、案外ものすごく無難なもので肩透かしを喰らいそうだが。

「優しいですねぇ、ダイキは。けど、あたしはもしもダイキが朝寝坊しちゃったら、遠慮なく起こしちゃいますよ?」

「残念だったな。俺は、夜の寝つきは悪いけど寝起きは良いんだ。移動ばかりの日々だと、寝起き数分で車を運転出来るぐらいのフットワークの軽さがないと、たまに滅茶苦茶な計画を立てられることがあるからな」

「へー、吸血鬼狩りの人って、計画も指示されているものなのですか」

「ああ。協会っていうものがあって、今は引退した吸血鬼狩りや、本物の聖職者がアンデッドの討伐方針を考えている。その実行班となるのが、俺達吸血鬼狩りということだな。だから、吸血鬼狩りと接触したくないと思ったら、一度協会の人間と接触しておきたいんだが、俺達みたいな末端は会うことすら難しんだ。だから、ソールも無理だろうな」

「色々と大変ですね……。やはり、人間の社会というものは」

 反論の言葉はない。それどころか、全面的に同意だ。力でなんでも解決、という社会にも多々問題はあるが、実際に死にそうな目に遭いながら頑張ってる人間がただの下っ端というのには、やはり不満を覚えずにはいられない。これでせめて、給料の払いが良ければまだ我慢は出来るのだが、決して潤沢とは言えない稼ぎしかなく、マリーの方が金を持っていなければ、今回の旅はまず資金稼ぎから始まっていたことだろう。

「では、少し休ませてもらいますね。おやすみなさい」

「おやすみ」

 小さな寝息が聞こえるようになったのは、そのわずか二分後ぐらいだった。彼女は座席に背中を預けながらも、狼としての本能なのか、腕で自分の体を抱きしめるように眠っていて、腹や胸を守っているようだった。

 少しずれたフードから見える耳はぺたんと垂れていて、たったそれだけのことなのに、とてつもなく可愛らしく感じた。

 マリーはまず、多数のアンデッドを発生させている原因の回収に向かっている吸血鬼を説得することに決めた。つまり、俺にしてみれば旅の目的地自体は大きく変わらず、いずれもアンデッドがはびこっている地域だ。当然、そいつ等とも戦闘になる。本来なら主である吸血鬼にも襲いかかるような連中なのだから、人間が狙われないはずもない。

 しかし、目的地であるギリシャの田舎町の外れの森に辿り着いた俺は、やることもなく人の姿に戻ったリディと共に車の傍に突っ立っている。

 どうしてそうなかったのか、と言えば……。

「ふ、はははは!さあさあ、逃げないと皆、ぐっちゃぐっちゃですよ!」

 吸血鬼の女王がコートを広げると、その中からは無数の影が飛び出す。いずれも魔術によって作り出された狼の形をした波動であり、その獰猛な命なき動物達は死体をそれはそれは美味そうに貪り尽くしては消える。

 俺がわざわざ銃口を敵に向け、引き金を引くよりもずっと速く、効率の良い殲滅“作業”であり、脚色ではなく瞬く間にアンデッドが片付いていった。

「ふぅ、なんの抵抗もなく力を振るえるのは良いですね。一週間とちょっとぶりぐらい、でしょうか」

「お疲れ……。って、一週間?確か、俺が初めてマリーと出会ったのもそれぐらいじゃなかったか」

「はい。あの夜も、実はアンデッド達と遊んでいました。転んじゃったのは、景気よく魔力を使い過ぎちゃったからでしょうねー。あたしの使う攻撃魔術は見ての通りの殲滅力ですが、燃費はそんなに良くないんで、ちょっと戦うとすぐヘトヘトになっちゃうんですよ。吸血さえすれば、その限りでもないんですけどねぇ」

 もの欲しげに小さく口を開いてみせる。

 とすると、あの日感じた不穏な気配は、アンデッドのものばかりではなく、彼女が行使していた魔術の名残もあったのか?道理で、翌日出会ったアンデッドの数が少なかった訳だ。普通、あれだけの気配があるのならアンデッドも数十はいるはずなのに。

「吸血、か。そう言えば、マリーもリディも多少は吸血をしないと辛いよな。……死なない程度なら、俺の血を飲んでもらっても良いんだが、どれぐらい飲むものなんだ?」

「えっ、ダイキの血をいただいちゃっても良いので?麻酔とかいちいち用意出来ないんで、それなりに痛いですよ?牙を突き立てられるのは」

「痛みなんて今更だ。問題は、血を抜かれ過ぎて、命に危険が及ぶかだよ。普通に生きていられるなら、いくらでも吸ってもらって良い」

 マリーが起こしていた事件の被害者は、いずれも生存している。とはいえ、他の吸血鬼は人間の血を吸い尽くして殺しているので、吸血鬼にとって必要な吸血量は俺達人間にはわかっていない。なんとなくイメージ的に、人狼は翼魔よりも吸血の量は少なそうだが。

「うーん、ペットボトル一本。つまり、五百ミリリットルですね。それだけいただければ十分です。リディはほんの少しだけで良いですので、五十ミリと仮定して、命に別状はない量ですね。それを一週間に一度ぐらいいただければ十分です。ただ、多少は気分が悪くなってしまうかもしれないので、昼間は避けるのが無難でしょう。寝る前なら、寝つきも良くなって一石二鳥なのでは?」

「確かに俺は寝つき悪いけど、吸血されて眠ると言うのもな……。まあ、それぐらいなら良い。とすると、もうかなり最後の吸血から経っているだろうし、ここでのするべきことが終わったら、出発の前に飲むか?」

「そうですね。……はー、ダイキの血を飲めるなんて、夢みたいです。感謝感激と言いますか、一つになれる感じがするって言いますか」

「喜ぶようなことなのか……?」

 軽く猟奇的なように思えてしまうのだが、その辺りが吸血鬼独特の価値観なのだろう、と自分を納得させる。仮に彼女独特のものであったとしても、それを受け入れていこうとは考えているが。

「それでは、もう近くにアンデッドもいないようなので、先に進みましょう」

「仲間の気配は探れないのか?」

「近くにはいないみたいですね。ただ、リディならある程度の位置は掴めているのでは?……ああ、翼魔はコウモリが超音波で地形を把握するように、離れていても吸血鬼や人の数やその方向がざっくりとわかるのですよ。アンデッドが減った今なら、わかりそうなものですが」

「…………町の方に、一つ吸血鬼の気配がある。町の南の方だと思う」

「おー、さすがですね。しかし、社交的な彼のことだから人の町に潜んでいるのかなーと思ったら、その通りとは。あたしとは違って翼魔なのに、よくやりますねぇ」

 人狼と翼魔の外見上の違いは大きく、究極的に言えば人狼はその名の通り、多くの体のパーツが人間と同一であり、耳、尾、爪以外はほぼ完全な人の姿をしている。しかし、翼魔は大きなコウモリの翼があるし、耳は人間と同じ場所にある代わりに、尖った形をしている。その両方を隠さなければならないとなると、マリーのようなフードの着用はもちろん、翼を隠すために特殊な細工をした服か、穴を開けたリュックサックなどが必要になるだろう。人の中に溶け込むのは、あまり賢い選択とは思えない。

「すごい変わり者なんだろうな……」

「わかっちゃいます?あたしも大概ですけど、彼もまあ、すっごく個性的ですよ。そんな

あぶれ者だからこそ、親しいってところがあるんですけどね」

「そうか。でも、マリーと親しいのなら、きっと話も通じると思うぞ。だって……」

「ダイキ。もしかして、すっごく失礼な言葉を続けようとしていません?」

「い、いや。マリーと仲良くなれるなら、良い奴だろうと思っただけだぞ」

 危うく、ハイテンションかつノンストップで話し続けることが出来るマリーについて行けるなら、そいつは同等以上のお喋りか、聞き上手だろうと言いそうになった。だが、冗談を抜きにしてどこか俺は楽観している節がある。

 吸血鬼達が何を考えているのか、今まではただの敵としてしか認識して来なかった俺にはわからない。そして、それは吸血鬼から見た人間も同じだ。それでも、俺はマリーに歩み寄ろうとすることが出来た。初めは彼女に声をかけられた形だったが、彼女が俺の視野を広げてくれて、なおかつ俺を魅了してしまったからこそ、今があるのだと思う。

 そして、そんな前例がある以上、かつて人間であったマリーと、今を生きる人間である俺が話せば、それはきっと相手にも通じるだろうと考えることが出来る。本当に話が通じないような相手なら、そもそも彼女とは親しくなれないだろうから。

「本当ですかねぇ。ま、良いです。さっさと行ってしまいましょう。今の時刻は?」

「七時過ぎだな。時計が遅れてなかったら、だが」

「まだ店は開いてますね。町の中に入っていけば詳細な位置がわかるかもしれませんし、特定が無理でも、酒場か食堂を探せば見つかることでしょう」

 車に乗り込む前に、マリーはコートを広げる。すると、リディは再び小さなコウモリに姿を変えてその中に飛び込んだ。四人乗りの車なので人の姿のまま乗っても良いのだが、なぜわざわざコートの中を定位置にするのか。気になったが、まあ後々聞けば良いだろう。どうせひと月やそこらで終わる旅とは思えない。数年、数十年と続けるぐらいの覚悟はしておこう。

 マリーが開けた左とは逆の右のドアから運転席に座り、エンジンを唸らせる。給油は昼間に済ませたので、当面はガソリン切れの心配もないことだろう。こまめに給油しておかないと、都会ならまだしも、田舎で動けなくなった時のことはあまり想像したくはない。

 ほんの少しの距離を大してマリーと話す間もなく移動し終え、適当な駐車場に車を預ける。駐車施設がないほどの田舎ではなくて良かった。その辺りに停車しておくのは、日本なら警察を心配するところだが、他国では真逆の泥棒を警戒せざるを得ない。

「さて、リディ、どうです?」

 町に出て、コートの中のコウモリに話しかけるマリー。傍から見ればおかしな人だが、小さな声だし、夜ということもあって人通りは少ない。誰かに聞かれることもないだろう。町の規模からすると、人口は一万もいないといったところか。

「わかりました。西の方の……あ、あの建物みたいですね」

「その姿でも喋れるのか?」

「ええ。あたしが人の心を読めることの逆バージョンですね。人の心に自分の心を伝える魔術です。あたしみたいに自分の口で伝えるのが好きな吸血鬼は使いたがりませんけど、シャイな吸血鬼には必須技能なんですよ。それに戦闘中でも、即座に仲間に指示が出せますしね」

「なるほどな。リディが無口なのも、普段は魔術で会話してるからなのか?」

「その面は大きいですねー。ただ、吸血鬼にしてみれば、この魔術の行使が会話することとニアリィイコールで結ばれるので、リディはあたし以外には滅多に使いませんけどね。まあ、何にせよすごく繊細な子なので、ダイキもその辺りを頭に入れて、優しく接してあげてください」

 決して乱暴に触れてはいけない子だとは、佇まいの時点でよくわかっている。マリーですら細く、壊れ物のような印象を受けるのに、リディに至ってはガラス細工よりも更に壊れやすい、雪の結晶のような精緻さと儚さがある。

 コウモリに姿を変えている理由は、もしかすると硬い車のシートに座り、揺さぶられるのが体に響くからなのかもしれない、と思った。

「さてと、カーミルを探すとしますか。見た感じでわかると思いますけど、銀髪の男の人です。背はダイキと同じぐらいで、体格も似たような感じです。後は、眼鏡も識別信号になりますね。今もかけてるかはわかりませんが」

 すぐ近くにあった大衆酒場らしき店に入る。こじゃれたバーならともかく、吸血鬼がこんな田舎の、お世辞にもあまり奇麗な店構えとは言えない所にいるとは思いにくいが、中に入ってみると真っ先に銀髪頭が目に付いた。

 女性かと思うほど丹精な顔立ち、そして長い銀髪に赤い瞳。いずれも吸血鬼によく見る特徴と重なり合っている。吸血鬼は例外なく美形であり、男性であっても女性に似た美貌があるため、揃って中性的に見えるものだ。

「カーミル。お久し振りです」

 マリーはギリシャ語が公用語であるこの国でも、当たり前のようにドイツ語を使って話しかけた。壁際で店内を眺めるように飲んでいたその青年は立ち上がり、恭しく礼をした後、こちらの方まで歩いて来る。これが女王に出会った吸血鬼の一般的な態度なのだろうか。

「マリエット様。わざわざ私に会いに来てくださるとは。すぐに店を出ますので、しばしお待ちを」

「はい。よろしくお願いしますね」

 簡潔に会話を終えると、大して仲が良さそうにすることもなく、あっさりとマリーは店を一足先に出る。しかし、後を追ってその横顔を見ると、どことなく楽しそうな笑みがあった。公共の場だから、あえて感情を抑えたのだろうか。

「吸血鬼の容姿はちょっとぐらいの年数じゃ変わりませんね」

「前に会った通りだったのか?」

「ええ。服装もほとんど同じでした。この時代にマントなんて、時代錯誤も良いところですよね。一応、威厳を保つためにあたしは羽織ってますけど、本当はあれも結構恥ずかしいぐらいなんですから」

 一瞬だったのではっきりとカーミルの服装は見れなかったが、そう言えば彼は黒いマントで翼を隠していたか。確かに、現代的なファッションセンスにマントという選択肢はないので、俺もそんな斬新な隠し方は思い付かなかった。物語に描かれる吸血鬼はよくマントを羽織っているものだが、実はあれも翼を隠すためなのだろうか。

「お待たせしました。マリエット様」

「ええ、かなり待ちましたよ。カーミル」

「申し訳ありません。まさかいらっしゃるとは思いませんでしたから、ついついハメを外してしまい……」

「もういいです。それより、あたしが来た理由はわかりますよね」

 マリーはゆっくりと駐車場の方へと歩いているようなので、俺もそれに追従する。吸血鬼同士の会話にはとても入り込めそうにないし、入ってはいけない雰囲気もあった。

「いいえ、全く見当も付きません」

「では、知らせは受けていないと」

「知らせとは?」

「あたしのことです。そろそろ、第一報が伝わっていてもおかしくはないでしょう。そこまで、吸血鬼の情報網が落ちぶれたとは思いたくないのですが」

「ああ、マリエット様のことですか。それでしたら、もちろん。お連れの人間の方を怪しまないことから、私が事態を把握しているのは自明の理かと考えておりましたが」

「……あ。そ、そうでしたね。ごほん、あたしとしたことが、おバカっぷりをダイキの前で露呈させてしまいました」

 そ、それは今更じゃないか?と死ぬほど突っ込みたい。突っ込みたいが、ここは抑えておく。二人の会話に水を差すのも無粋だ。きっと。

「一応、私も最初は驚きました。ですが、それよりも心配の方が勝っていましたよ。私はマリエット様のことを信頼していますが、嘆かわしいことに嫉妬する者も多いのが事実。これを好機とばかりに、あなた様を傷付けようとする輩が現れやしないかと」

「そうですか。ありがとうございます。しかし、今のところはアンデッド以外には襲われていません。……そう、アンデッドです。カーミル、一応聞いておきますが、未だに道具の回収は出来ていないのですか?」

「え、ええ、まあ」

「そのくせして、楽しくお酒なんか飲んでいた、と」

「え、ええ」

「怒りますよ?具体的には、ヘッドロックとかしますよ?」

「ええ!ご褒美で……じゃなくて、謹んでお受けしますっ」

「……ダイキ、これがカーミルという人です」

「大体わかった」

 変わり者と言うより、変態であると。

 優男風の学士風な外見。そして奇抜なファッションセンス。癖は強そうだが、物腰柔らかな男……という第一印象があり、おおよそその通りではあるが、マリーに対してはやや歪んだ嗜好を持っているようだ。

 ……いや、他人のことだ。それを俺は否定することも肯定することもしない。迷惑をかけない程度に、勝手に楽しめば良いだろう。

「雑談は良いのですが、カーミル。あたしは、あなたに話さなければならないことがあります。あたしが人間であるダイキと共に旅を始め、このまま世界中の仲間の場所を訪れようとする、その理由に関係するお話です。聞いてもらえますか?」

「もちろん。そして、私はあなた様に心労をかけることは潔しとしない性分。先に宣言させていただきますが、私はあなた様の野望に決して反対することはありません」

「や、野望と言いますか。人聞きが悪いですね。まあ、車までどうぞ」

 だが、その言葉もあながち間違ってはいないのかもしれない。もう、カーミルはマリーが何を話すのかも、予想が付いているのだろうか。

 吸血鬼達にとって、人間を食し、殺すのは当たり前のことだ。そして、“野望”という言葉は大多数にとって好ましくはない望みのことを示す。つまり、吸血鬼に人を殺すなと言うのは、吸血鬼側からすれば正しく“野望”に該当する邪な願いだろう。

 車の場所にまで辿り着くと、マリーはカーミルを乗せるために後ろのドアを開く。いつもなら助手席に座りたがるのだが、車内で話しやすくするためだろう。少し不満そうな表情をしながら、自身も俺の真後ろの席に座った。

「では……。まず、彼。ダイキは、あたしの彼氏さんです。その……まだあんまり踏み込んだ関係ではありませんし、色々と問題もありますけども、あたしの大事な人であることに変わりはありません」

 ……改めてそう紹介されると、なんとも気恥ずかしいものがあり、どのような表情をすれば良いのかわからない。どうせカーミルに顔は見えていないだろうが、今の俺はなんともばつの悪そうな、照れたような微妙な顔をしているに違いない。

「そして、あたしがしようとしていることをカーミル、あなたに話したことはないと記憶していますが、予想は既に付いていることでしょう。あたしは、人と吸血鬼が共生出来るような世界を目指したいと思っています。簡単にいかないことはわかりきっていますが、数千年続いた関係を変える時が来ているのだと、あたしは考えています」

「そうですね……。繁殖能力に限界のある我々は、人間の人口増加にはついて行くことは出来ない。数の差が広がれば広がるほど、力関係や支配出来る土地の数は逆転して来る。王の座をあなた様が獲得することがなく、より好戦的な王が立っていたとしても、やはり吸血鬼は影の種族となっていたことでしょう。種としての衰退や、それに伴う“現状維持”の限界、それは我々も常に感じていることです」

 少し驚いたが、これが当然なのだろうか。

マリーの味方を自称するだけはあり、このカーミルという男は自力でマリーと同じ結論を掘り当てているようだ。そうなると、なんとも居心地が悪いのは俺ばかりで、考えてもみればマリーがどうして争いをなくす道を模索しているのか、その理由を俺は聞いていなかった。それに、自分で考えることも出来なかった。それほどまでに吸血鬼が敵だという刷り込みをされていたとも言い訳出来るが、単純に俺の発想力が足りなかっただけだとも思えてしまう。

 しかし、今更ながらにわかった。吸血鬼は既に現在、緩やかにだが滅びようとしているらしい。その理由は恐らく、大昔――伝説の武器達が現存していた頃の、吸血鬼狩りの活躍だろう。吸血鬼は滅多に子どもを作ることが出来ない。当然ながら子どもを作るには男女が一人ずつ必要だが、子どもが出来る前にどちらかが殺されることもあっただろうし、上手く作ることが出来ても、二子以上もうけることはないだろう。

 人間が吸血鬼に対抗出来るだけの知恵と力を手にした時、既に吸血鬼の滅亡は運命付けられていたのかもしれない。

「あたしは女王としても、一人の吸血鬼としても、これ以上吸血鬼を死なせてはいけないと考えます。そのためにはやはり、人間との争いに終止符を打ち、その上で友好な関係を作らなければならないでしょう。吸血鬼は人がいなくては生きていられないがゆえに」

「その理屈はわかります。わかりますが、実現はやはり難しいでしょう。マリエット様、あなた様は大変な力をお持ちですが、それを同族に振るわれたことも、人間に振るわれたこともないはずです。……この言葉を申し上げるのは心苦しいのですが、あなた様は半数の吸血鬼には舐められてしまっています。そして、あなた様の理想を受け入れることが出来るのは、その半分の内の、更に半分か、その更に半分程度でしょう。お連れ様が生きていらっしゃる間には、事が成就しないことも十二分に考えられることですよ」

「……それは、わかっています。けど、あたしはもう一つの因習。この呆れるほどの実力主義をも変えたいと考えています。武力により想像力を押さえ付ける仕組みなど、およそ論理的ではありません。はっきりと言って、野獣の理屈です」

 聞いているだけで、こっちが青くなりそうな話だ。

 マリーは決して小さな願いを叶えようとしているのではなく、少数の吸血鬼と、社会的に見ればやはり少数の吸血鬼狩りの間だけのこととはいえ、その二者の関係を完全に変革するという、大きな野望を持っているということはわかっていた。しかし、彼女の話しぶりは、とてもじゃないが親しいとはいえ同族に話すのはまずいのでは、とはらはらさせるほどの内容で、吸血鬼の歴史やその存在すらを否定しようとする勢いに聞こえる。

 現に、それを聞かされたカーミルも少しの間、言葉に詰まっているようだ。

「マリエット様。あなた様が、そう思うに至った経緯を教えてはいただけませんか?」

「大人になったから……と、説明させてください。あたしはあなたも知っての通り、吸血鬼であり人でもあります。その立場で数百年世界を見て来て、これが最善の選択であると、そう決断することが出来たのです。

 その一因は、彼。ダイキにもあります。彼は、あたしのことを愛してくれました。嫌われるように、何度も何度も言葉を重ねたのに、彼はあたしを信じ、支えることを選んでくれたのです。……あまりにも弱い根拠かもしれませんが、あたしはそれで事が成ることを確信しました。いえ、絶対にしてみせる、と決意出来たのです」

 強い口調で彼女は言い切り、話を終えた。返事はしばらく返って来なかったが、小さな笑い声――おそらく苦笑が聞こえた後、青年吸血鬼の口が開かれる。

「マリエット様、試すようなことをしてしまい、申し訳ありません。私などでは全くお力になれませんが、旅の成功をお祈りさせていただきます。それから、せめてこちらにいらっしゃる間は、あなた様のお世話をさせていただきましょう。――ここより少し南下した場所に、古びた教会があります。私の仮の住居としておりますので、そこでお休みください。私は、せめて道具の探索をして参りましょう」

「カーミル。あなたがあたしのことを心配してくれているのは、よくわかっていますよ。……それから、ありがとうございます。あたしを止めはしないのですね」

「私がここで旅を終えてください、と申したところで、あなた様は聞いてくださるでしょうか」

「いいえ、絶対聞きませんね。もしも立ち塞がるのであれば、蹴り倒してでも行くと思います」

 ……この言葉を彼女らしい、そう思って受け止めて良いものなのだろうか。

 想像以上に暴君気質かもしれない旅の伴侶の言葉に困惑しながら、車を発進させる。吸血鬼が仮の宿にするにしては、少しい違和感のある廃教会へと向かって。


 
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